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森 祐理(福音歌手)(*)
(これは、三月二八日の主日礼拝のときに、聖書講話と全員による感話の後になされた証しです。)

こうして共に、主を礼拝できたこのひと時を心から嬉しく思っています。日本中、世界中いろんな教会に行かせて頂きますけれど、昨日のコンサートの後での打ち合わせのときに「祐理さん、明日は、畳でみんな床に座って礼拝するんですよ。きっとびっくりされますよ。」とおっしゃっていましたけれど、これだけたくさんの方が来られて、そして一人ひとりがマイクを持って話をして、ただ受身の礼拝ではなく、自分が参加して主を礼拝するんだということを教えられた気がして、嬉しかったです。
大学を卒業して一年間はNHKの京都放送局にいたんですけれども、その後東京で十数年暮らしておりまして、東京で初めて行った教会が、こんな感じだったんです。畳の部屋で二つのふすまを取っ払った教会だったので、なんだかすごく懐かしくなって嬉しかったです。
どうしてかって言うと、東京へ行ってどこの教会に行っていいか全然分からなかったので、当時パソコンもそんなにまだ普及していなかったので、電話帳で「あ」行から順に教会を調べて、毎週いろんな所に行っていたんですが、あまりにもいろいろなところに行って疲れて、ある時お祈りしたんです。
「神様、わたしに東京で通うべき教会を与えてください。」とお祈りしたその日の夕方に、トラクトをもらったんですね。
「教会に行ったことありますか。どうぞ。」とトラクト渡されて行った教会が「いのちのいずみ キリスト教会」というところで、そこがちょうどここと同じぐらいのサイズで、同じように礼拝する場所だったんです。
昨日は石川さんが尊い働きを長い間なさっておられる「いのちのさと」の初めての地域交流イベントによんでいただきました。いろんな障害を持った方や子供たちも来てくださって、このような時に賛美をさせていただけたこと、それは特別な恵みです。本当にありがとうございます。

今、読んでくださった私のプロフィールを、もう少し詳しくお話したいと思うんですけれども、元々クリスチャンホームで生まれたとか、家族にクリスチャンがいたとかそんなことはなかったんです。きっかけは幼稚園です。
私には、おばあちゃんがいまして、そのおばあちゃんが本当にかしこいおばあちゃんだったんです。なかなか強いおばあちゃんだったので、母は大変だったと思います。「お母様いかがでしょうか。」と言うと、「ひさえさん、― 母のことなんですが―、祐理にテレビを斜めから見せてはあきません。まん前に祐理を座らせて、まっすぐに物事を見る子に育てないけません。」わたしはそんなこと全然知らなかったですから、テレビのまん前でサザエさんとかを見て育ったみたいです。
そのおばあちゃんが「祐理は聖母女学園幼稚園に入れなあきません。」当時もう一つ幼稚園があったんです。そこはお受験がいらない普通の幼稚園だったんですが、聖母女学院幼稚園はお受験がいったんですね。それで「お母さん、それは大変です。」と母が言うと、「大丈夫です。祐理はかしこい子やから、わたしが受験勉強させます。」と言ってまだ三歳だったわたしに「祐理ちゃん、チューリップ、ヒヤシンス、ひまわり、はい、じゃあ黄色いお花はどうれ。」と言ってひまわりを持ってきたり、ピンクの折り紙で三角形を折りましょうとかそういうお受験勉強をしまして、晴れて聖母女学院幼稚園に入学したんですね。

(マイクの調子が悪くなる)コンサートで、時々マイクがならなくなることがあるんですよ。その時はどうしようかと思いましたよ、電池がなくなったりとかで。千人ぐらいのホールで歌う時にこんなちっちゃなマイクが一本あるだけで、千人みんな聞こえるでしょ。でもね、そのちっちゃなちっちゃな電池がなくなるだけで、ただの棒になるんですね。不思議だなと思います。だから神様の命の電池をいつも持ちたいなと、すごく思わされるんです。

 続きのお話しますね。幼稚園に入りました。聖母女学院幼稚園はキリスト教の幼稚園だったんです。毎日毎日イエス様のお話を聞きました。おばあちゃんはイエス様や神様のことを全然知らなかったです。
でも幼稚園で習った讃美歌を家に帰ってきておばあちゃんに歌いましたら、すっごく喜んで聞いてくれたんです。その時わたしの心の中に、しっかりとイエス・キリスト様というお方が入りました。幼稚園を卒園して、引越ししましたので、普通の公立の小学校に入ったんです。それでも幼稚園にならって、六歳、七歳で毎朝毎晩ちゃんとお祈りをしてたんですよ。

 十歳になった時です。アメリカ人の背が高くて、映画に出てくるようなかっこいい人が家の前を歩いてきたんです。わたしの母は英語の先生をしていまして、もともと通訳をしていたんです。外国人と話すのが大好きだったんです。それで大阪だったんですけど、大阪に映画俳優みたいな外国人が歩いてることなんてめったにないから、母は喜んで話しかけたんです。そしてそのアメリカ人から、「わたしの家内は英語をしゃべる友達がいないので、寂しがっていますからうちに来てください」と言われ、母は怖いおばあちゃんに「お母様、行っていいでしょうか。」と聞くと「弟の渉(わたる)を連れて行くんだったら、行ってよろしい。」と言われ、初めてあった外人さんについて行ったんです。
すごい勇気のある母だったと思います。その方がミッショナリー、宣教師、つまりアメリカから来た牧師先生でした。それから母はそのご夫妻、クラウス先生という方ですけれども、そのご夫妻のおうち、歩いて十分ぐらいのところに毎日行きました。おばあちゃんの怖いこととか、全部悩みも聞いてもらったり、アメリカの大きなクッキーの作り方を教えてもらったりとよい出会いをしたんです。

 毎日のように行って、三ヶ月ぐらい経ったときです。クラウス婦人が言いました。「森さん、わたしのうちに毎日来てくれるのは嬉しいです。でもね、もっと来て欲しいところがあるんですよ。それは日曜日の教会です。」母はついにこの日が来たと思いました。
クラウス先生のおうちには気楽に行けるんですよね。とっても楽しいし、温かいし。でも教会に来てっていうのはちょっと違うんですね。なかなか敷居が高いですし、母は教会に行ったことがなかったんです。どうしようかなとずいぶん考えて思いついたことがあります。
それがわたしだったんです。そしてわたしを呼び「祐理、今度の日曜日お母さんの代わりに教会に行ってください、いい?」と言われ、わたしは「はい、お母さん」と返事したことしか覚えてないんですが、母は後から言います。「祐理、あの時どんな風にお返事したのか覚えてる? わたし幼稚園のときに会ったイエス様に、また会えるんだ。そんな風に言ったのよ。」
次の日曜日、わたしとそれから弟が二人いました。かずくんと渉くんと両手をつないで教会に行きました。そこも小さな小さな教会でした。アメリカ人のクラウス先生が日本に来られたばっかりで開拓をした、まだわずかな人数の場所だったんです。
でも十歳の子どもでも感じたんです。ここには命がある。ほんものがある。これは誰にも揺るがされることのない確信でした。それから毎週教会に行くようになったんです。
その日から今日まで、教会に行ってイエス様と出会って後悔したことは一度もないんです。辛いとき、悲しいとき、喜びのとき、いつも共にいて助けてくださり、わたしの命をあがなってくれたイエス様。そんなイエス様と出会えたこと、それは私の人生の最高の喜び、最高のプレゼントです。天国にも家があるということ。それはもう不安がなくなって、本当に平安になったことです。感謝しています。
でもわたしたちまだ小さかったので、また教会も遠い場所にありました。今振り返るときに、わたしはただただ、教会に行っていたんじゃないんです。実はその教会のひとりの、当時四十代か五十代の上杉さんという人が、毎週雨が降っても、嵐になっても忠実にわたしたち三人の子どもを迎えに来てくださったんです。
お迎えがなかったら、教会まで車で二十分以上もかかりましたからとても行けなかったです。今は、上杉さんがどこに住んでいるかさえも分からないです。でもその方の隠れたご奉仕があるから、今の自分があるんだろうなと思うと本当に感謝しています。いつかどこかでお会いできたら、お礼を言いたいと思います。

 一年半ぐらいたったときのことでしょうか。両親は日本人なんですね、上杉さんに気を遣うんです。そして「お父さん、あんた送っていってあげなさいよ。」と言うと「わしひとりじゃいやや。お前が一緒に行くんだったら行ってもええ。」と母と父がしゃべってるんですよ。そのうちに三回に一回ぐらい、父と母がわたしたち三人を教会に送って行くようになりました。でも教会にポンっとおとして、さっと帰るんですね。でもわたしたち三人があまりにも楽しそうに教会に行くので、これは悪いところじゃないかもしれないな、ちょっとのぞいてみようかな。と時々短い時間出席するようになってきたんです。

 少しずつ回数が増えてきた頃、六年生になっていました。伝道集会というのがあって、教会ではなく広い場所を借りて、有名な牧師先生を呼んで、わたしはその時何も知らなかったですけれども、家族全員で来てくださいと言われました。その時は日曜日の午前中じゃなくて、土曜日の夜だったんです。六時ぐらいから七時半ぐらいまでの伝道集会に家族みんなで出席しました。
でも、わたしその牧師先生のお話全然分からなかったです。早く終わって、夜に家族全員で外出するなんてめったになかったですから、終わったあとにみんなでレストランに行ってハンバーグを食べる。早くその時間が来ないかなとそればっかり思ってたんです。
牧師先生が「これで終わります。イエス様を信じたい人は前に来てください。お祈りしますよ。」と言われたが、わたしは終わった終わったとそれしか思わなかったんです。すると隣に座っていた同じ教会学校で、いつも横の席で聖書のお話を聞いていためぐみちゃんがガタンっと立ち上がって、ふとめぐみちゃんの顔を見たら、ポロポロと涙をこぼしてたんです。ドキッとしました。
泣きながらめぐみちゃんは前に歩いて行きました。そしてその牧師先生の前でひざまずいて、祈ってもらっていたんです。わたし、めぐみちゃんが違う国に行ったと、どこかわたしの行くことのできないところに橋を渡って行ったと、そしてそれはわたしがレストランのことや、ごはんのことしか考えていなかった間中、話されていた牧師先生のお話の中に、その秘密があったんだと分かって、しまったって思いました。なんだろう。わたしもそのこと知りたい。めぐみちゃんと同じ国に行きたい。そう思ったんです。

 その次の日の日曜日、一生懸命牧師先生の話を聞きました。終わった後牧師先生に話しました。
「先生、めぐみちゃんはどこに行ったんですか。遠いところにいった気がします。めぐみちゃんが知った、あんな涙流すそんなこと、わたしも知りたいです。神様どうやったらお話できるんですか、神様どこにいるんですか、神様って本当にいるんですか、神様ってどうやったら分かるんですか。」
牧師先生は言いました。「祐理ちゃんが神様とお話したいこと、神様のこといっぱいしりたいこと、よく分かりますよ。でもね、神様はすでに祐理ちゃんのことよく知っていて愛しておられるお方です。そしてイエス様を自分の心に受け入れたら、神の国にいけるんですよ。めぐみちゃんが行った神の国、それはイエス様、私の心にお入りくださいというお祈りをして受け入れることによって、その橋を渡って神の国の住人になれるんですよ。」

 イエス様を心に受け入れるお祈りをその次の日にしたんです。めぐみちゃんみたいにポロポロ涙が出たわけではなかったです。でも何かが変わりました。私の心の中に永遠に変わらないイエス・キリスト様がお住みになったんです。それからまだまだ子どもで何も分からなかったですけども、毎週少しずつ私の心の中に神様が大きくなってきてくださいました。その確信と決断は何にも変わらなかったです。中学校に行っても、高校になっても、給食の時間にみんなお祈りしようって言って、他のクラスにも「お祈りの森祐理」って言って変な人に思われていたみたいですけど、全然恥ずかしくなかったです。よくいじめに遭わなかったと思います。

 大人になってから、手紙をもらったことがあるんですね。高校の同級生だった人です。手紙を開いたら「わたしは高校のとき同じクラスだったものです。昼ごはんのとき、森祐理さんがいっつもお祈りしようって言っていた言葉を聞いて、変な人だと思いました。でも大人になって就職して、結婚して辛いことがあって、いろいろあってわたしは離婚しました。
本当に苦しかったときに、なぜか高校生のときに森祐理さんがお祈りしようって言っていた言葉が耳に響いてきたんです。それで教会に行きました。教会に行って、洗礼を受けてクリスチャンになりました。本当にありがとうございます。一言お礼が言いたくて、住所を調べてお手紙を書いたんです。」と本当に嬉しかったですね。やっぱりパンを水に投げよってね、どんな一言が神様の道具として用いられて、思いも寄らない人の人生を変えることができるかもしれない、そう思ったら、先ほど吉村さんもおっしゃった伝道したいという思いを抑えることができないっていうこと、その思いほんとに大切なんだって思わされました。

 大人になって大学を卒業してNHKに入って、テレビで歌を歌うようになりました。少しずつ東京に出て、プロダクションとかにも入って華やかな生活をするときに、十歳から大好きだったイエス様、それよりも、もちろんイエス様大好きでありながらも、自分の成功の方が大切な神様にすり替わってきているようになってしまったんです。
そんな時です。わたしはNHKの歌のお姉さんの二年目で声を失ったんです。ある日突然でした。声が出なくなって仕事を失って、そして転がり込んだのが、ちょうどこのような東京の教会だったんですね。畳の奥に四畳半があって、同じような作りなんですけど、その四畳半に三ヶ月一人で住みました。
教会って人がたくさんいるからいいんですけど、普段の日は寂しいですよ。声が出なくなって仕事もなくなって、ぽつんと一人で住むのは辛かったです。
でもそのときにわたしのこの声を取られたのは神様。ならば命も取ることができる。ぞっとしました。生きてるんじゃないんだって、生かされてるんだって分かったんです。私の心の中には汚い思いがあって、自分じゃなくってわたしの友達がテレビに出ていたときに、悔しいという思い、心の奥には醜い思いがいっぱいあって、イエス・キリストの十字架のその血潮しか罪を清めることができないんだ。
わたしは十歳からずっと教会に行ってましたけども、十字架というものの重みを知ったのは声を失ったときです。その時初めて自分の罪と向き合い、イエス・キリスト様の十字架の、そのあがないの尊さを知ることができました。
もしもう一度歌えるんだったら、今度は神様のために歌いたいそんな風に祈りました。神様わたしを赦してくださいと祈ったんです。まだ声はでなかったですけども、本当に罪が赦されたっていう、そんな心が温かい思いがいっぱいになったときに、初めて讃美したいって思いました。
その時、声が出なかったので手話ででも何でもいいから讃美したいと思い、手話讃美を学ぶようになったきっかけはその時だったんです。
幸い一ヵ月後ぐらいには、声は回復しましたけれども手話で讃美をすることを続けています。声が少しずつ出てきて、声が出る、生きてる。今日の礼拝の「神様は返して下さる」というメッセージのように、神様から返していただいた声、自分のものでないその声とともに、今度は主を証しする、主を伝道するそのような働きをさせていただくようになりました。
その時からもう今年で十七年です。主がわたしをこんな風に用い続けてくださった。主を讃美して歌いつつこれからも歩んで生きたい。それがわたしの願いです。
大きなホールで歌うとか、大成功するとかそんなんじゃなくて、天国に至る日まで、この命を与えてくださった主を讃美し続けていきたい、その思いを持ってこれからも一歩一歩、わたしたちの命の主をほめ讃えていきたい、そのように思っています。
最後に「歌いつつ歩まん」を皆さんと共に手話で讃美をして、証しを閉じたいと思います。

一、主にすがる我に悩みはなし
十字架の御許に 荷を下ろせば
(折り返し)
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路を
二、恐れは変わりて 祈りとなり
 嘆きは変わりて 歌となりぬ (新聖歌三二五番)


(*)森 祐理〜クリスチャンアーティスト〜

京都市立芸術大学音楽学部声楽専修に進学し、大学卒業後、NHK教育テレビ『ゆかいなコンサート』の歌のお姉さんなど、テレビ、ラジオや数多くのミュージカルにも出演。
 NHK京都放送局『くらしのチャンネル』リポーター、キリスト教系テレビ『ハーベスト・タイム』でもレギュラー出演していた。
また、阪神・淡路大震災で、当時神戸大学法学部四年生の弟が亡くなった事で失望の中にあったが、「失望を希望に変えたい」と約二年間『希望の翼コンサート』が神戸市他約三十箇所で開催され出演した。また、新潟県中越沖地震やスマトラ島沖地震では現地で被災者を励ますコンサートを行った。教会・福祉施設・刑務所等で年間一〇〇回以上のコンサートを行っている。(インターネットの百科事典、ウィキペディアによる)

京都市立芸術大学音楽学部声楽専修卒。NHK京都放送局レポーターを経て、
NHK教育TV「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんを務める。
現在は、福音歌手として国内海外を駆け回り、その美しい歌声で希望のメッセージを届けている。

長年に亘る刑務所等での慰問公演が評価され、02年大阪矯正管区長賞、
07年には福音歌手として異例の法務大臣表彰授賞。
08年ブラジル日本移民百周年記念ブラジル全土ツアーを実施、サンパウロ市より感謝状授与。
中国四川大地震の被災地にて日本人初の救援コンサートを行う。
各国での公演多数の中、特に台湾では200回以上ものコンサートを継続中。
10年1月17日阪神大震災15周年記念神戸市式典にて独唱し、
五大紙を含む新聞十数社に掲載され、大きな話題を呼んだ。

日本国際飢餓対策機構親善大使
ワールドビジョンジャパン・アソシエートアーティスト
教会音楽家養成学校「ワーシップ ジャパン」講師
日本歌手協会会員  ニューライフキリスト教会会員

ゴスペルアーティスト賞受賞(1997,1999,2003年度)
その他、アニメーションビデオの声優、CM等にも出演
CD12枚、著書3冊、共著2冊、ビデオ等好評発売中。

モリユリ公式ウエブサイト 
http://www.moriyuri.com
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