リストボタン社会問題と福音

私たちは日夜社会問題に取り囲まれている。インターネット、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など、それらのなかには、社会問題は常に洪水のように報道されている。
しかし、それらをどんなに詳しく知ってもまた研究しても、だからといって魂の救いにはつながらない。人間の根本問題である罪をぬぐい去ることはできない。敵対する人や無差別的な愛を持てない、清い心を持てない、といった罪はどうすることもできない。
私自身、大学時代に、日夜、自然科学の学びを続けていたかたわらで、当時の学生運動の渦中にあって、政治社会的な問題を友人たちとつねに議論をしていた。文字通り徹夜で議論したこともあった。
しかし、そのような議論をどんなに重ねても私の内なる闇の問題はまったく解消することはなかった。それを解決させたのは、そうした社会問題の知識や人間の議論でなく、短い聖書の言葉、神の言葉であった。
旧約聖書に現れる預言者たちは、社会の動きに鋭い目を持っていた。そしてたえず警告した。しかしそれは今日の評論家のように、神抜きでいろいろと解説するのとは根本的に異なる。
預言者たちは、絶えず、神に立ち返れ、と強調し、叫んだのであり、神から受けた神の言葉を語り続けたのである。
一般の評論家でなくとも、キリスト者であっても、長時間の社会問題の議論はしても、そこにキリストを仰ぎ見ることの重要性を何ら語ろうとしないことがしばしばある。
そうした社会のひずみや問題点をいくら聞かされても、魂そのものの愛のなさ、正しさのない弱さ、汚れた心といったことは何ら解決にはならない。力は与えられないのである。
しかも、社会問題を正確に判断するには、相当の知識と判断力、理解力を必要とされる。しかし、悩み苦しみにあって毎日を生きるのがやっとといった状況であれば、そのようないろいろな知識をいったいだれが持とうとするであろうか。
キリストによる救いを受けた人たちは、それぞれが置かれた場で、神からゆだねられたと信じる仕事についていく。それは教育や研究であったり、さまざまの会社の一員であったり、医療や福祉、あるいは農業や商業、さらには病気の人たちは新たな祈りの生活等々、そこでそれぞれが社会や政治の問題に直面してそれらについてより深く知り、学んでいくべきことは当然である。
しかし、重荷を負い、苦しみにつぶされそうになっている魂には、ただその重荷を下ろすところが要るのである。
主イエスは、だからこそ、「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来れ、そこでは安らぎが与えられる。」(マタイ福音書十一の二八)と呼びかけられたのであった。
神に、そしてキリストに立ち返ることなくして、社会問題の根本的解決はない。
それは数千年前の預言者たちが神の言葉を語り、神に立ち返ることを命がけで語り続けた時代と何ら変ることはない。
昔とは比較にならない情報の洪水のなかにあって、そうしたさまざまの知識や情報の解説でなく、福音そのもの、キリストそのものの無限の価値―その復活、十字架の死による罪のゆるし、日々の活ける導き、聖霊のはたらき等々―を語ることの重要性はますます必要となっている。
神よ、そのような福音の語り手を起こしてください。

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