福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、
力と、聖霊と強い確信によった。

(Tテサロニケ 一の5)


リストボタン 結果を出せなくとも

前の鳩山内閣は、とくに沖縄の米軍基地問題に関して、沖縄の負担を軽減しようという考えそのものはよかったが、まったく結果を出せなかった。ほかの政策のことで、例えば、官僚から政治家へと権限を移すとか、無駄な事業の仕分けをして天下り官僚の私腹をこやすことになっていた独立行政法人など整理して、費用を削減すること、あるいは本来高速道路は無料であるべきだとか、教育への国家の投資が日本は少なすぎる、ということを、欧米の一般的な考え方などをもとに改革するということなども企画し、一部は実現できたが、まったく結果が出なかったり、混乱ばかりが表面に出てきたというのもあった。
結果が重んじられるということは、政治だけでなく、会社の経営、学業、研究、スポーツ等々、至る所に見られる。
しかし、結果によって判断されるということは、まちがった方向へと人を引っ張っていくことが多い。
それは、不正な手段であっても、結果が出せると認められるということがあるからだ。選挙においても得票がほかの人より多いという単純な結果第一主義であるから、当然そこには金やさまざまの権力、人間関係などでその得票を得ようとする。
それが正しいかどうかでなく、とにかく得票をあげるという結果至上主義となる。
しかし、そのような結果第一主義は、しばしば人間の心を荒廃させる。多くの人にとってまずその結果主義に直面させられるのは、学校である。小学校から、成績という結果がよいなら評価される。そのために親がどれだけ金を使おうとも、問われることはない。
そして、成績がよい者の心にどんな傲慢な心、できない生徒を見下す心が生じようとも、成績という結果によって大学も合格していく。
就職しても、その会社など勤務先での結果が問われる。そして、業績をあげない限り、認められない。
スポーツなどは結果主義の典型的なものである。いかに多額の金が動こうとも、また巨額の金で外国での長期練習をしようとも、金メダルとか優勝とかの結果がでればそれらは問題にされない。
このように社会全体が、あらゆる方面において、目に見える結果を求めていく。
そして、老年となり、病気がちとなっていくと、過去のそうした結果は、次々と壊れていく。新しい結果を出す人がいくらでも生まれていくからである。そしてその人間が生きた結果、生きた証しというものも、死とともに失われていく。大多数の人たちは、日本においては、死んだら生前のさまざまのこともみな消えてしまうという漠然とした思いを持っている。
こうしたあらゆるところで結果が問題とされ、評価されるこの世にあって、全くことなるものを一番重要なものとしたのが、キリストであった。
キリストは、三十歳のころから、すべてをそそいで神の国の福音を伝える働きをされた。それとともに、病をいやし、目に見えない霊的な悪の力を追いだし、この世で絶望的となっている見捨てられたハンセン病や生まれつき目の見えない人や耳が聞こえない人たちをもいやされた。ろうあ者は、耳が聞こえないために、言葉の意味もわからず、言葉そのものも出すことができないために、動物的な扱いをされていたのであったが、そのような見捨てられていたろうあ者たちをも、神の力をそそいでいやされた。
そして当時のまちがった宗教的指導者たちをもはっきりと勇気をもってそのまちがいを指摘された。
しかし、それらは受けいれられず、三年間ずっと従っていた弟子たちすら、イエスがとらえられたときにはみな逃げていった。そして、民衆たちも、恩赦があって一人は刑が延期される、というとき、イエスでなく、悪事を重ねた者を選び、イエスを処刑せよと迫ったのである。
このように、イエスが全霊をあげて取り組んだ神の国の福音を伝える仕事は、無惨にも粉砕された、と思われたであろう。イエスの三年間の伝道によってもほとんどの人たちは、イエスの福音を信じようとはせず、かえってイエスを迫害して殺すことまでしてしまった。
このような無惨な結果となったのであるから、これは、神の国を伝えるという事業において、完全な失敗とみなされるようなことであった。
しかし、そうした外見的な失敗や敗北を越えて、神が結果を出されるのである。
この世が、結果至上主義であるのに対して、聖書の世界は、神中心である。神が言われるなら、どんなに結果が出そうになくとも、ても出なくとも着手する、ということなのである。
すなわち、まず神の国と神の義を求める、という姿勢が出発点となっている。
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」(伝道の書十一の一)
結果はいつ出るか、それは分からない。結果は神にゆだねて、パンを水の上に投げるかのような無意味に見えることであっても着手する、というのである。
旧約聖書に、アブラハムが神の言葉に従って、生まれ故郷を捨て、親族や親しい人たちからも分かれて、はるか遠い道の場所へと旅立っていくという記事がある。それは、信仰に生きるとはどういうことかの基本的な姿がそこに表されている。それは、途中の旅の危険、病気になったら、気象異変で砂漠のなかで倒れたらどうなるのか、目的地にはすでに多くの人が住んでいる、そんなところに住むことができるのか、今まで住んできた郷里を捨てて、大丈夫なのだろうか等々あらゆる不安や、恐れをもすべて神にゆだねて出発した。これは、結果を全面的に神にゆだねる姿勢である。
新約聖書の時代となって、たとえ信仰のゆえに命を奪われるほどの危険に陥ってもなお、結果がなくなったのではない、天の国にて完全なよい結果が与えられるのだ、という信仰が生じた。
私たちの人生において、いかに地上の生活に世の人が認めるような結果が出なくとも、この世を去っていくときに、ただキリストを信じているだけで、キリストと同じ栄光のすがたに変えられるという驚くべき結果を神から与えられるという約束がある。
本当の「結果」、それは人間が努力やその才能で造り出すのでなく、神から与えられるものなのであり、だれにでも滅びることのない永遠的なよき結果が与えられるというのが、聖書に記された約束なのである。

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