リストボタン兄弟愛を留まらせるということ

聖書に言われている愛は、兄弟愛である。同じ父なる神から新たに生まれた者ゆえに、兄弟同士である。その兄弟同士が神からいただいた愛をもって愛し合う、ということだから、兄弟愛と言われる。
この兄弟愛ということは、聖書から始まって、さまざまのところに波及した。
現在の日本の労働組合運動は、キリスト教と何の関係もないと思っている人がほとんどであろう。しかし、このことも実は、キリスト教の兄弟愛ということとつながっている。
現在の日本の労働組合運動の出発点は、今から百年近く前の「友愛会」にある。
それは、鈴木文治が、一九一二年に十五名ほどと共に、労働者の「友愛会」(*)という団体を作った。 鈴木は、十歳のときから父親とともにキリスト者となっていたから、この言葉は、聖書の「兄弟愛」から採用したのである。

(*)「友愛」という言葉の英語表現は、フラターニティ fraternity である。この語は、ラテン語の フラーテル frater (兄弟)という語から生まれた英語である。それゆえ、フラターニティとは、その元の意味は、「兄弟であること、兄弟愛」 ということである。また、聖書において、「兄弟愛」という原語(ギリシャ語)は、philadelphia(フィラデルフィア)である。これは、現在アメリカの大都市の地名となっているので広く知られている。このギリシャ語は、フィレオー(愛する)と、アデルフォス(兄弟)から成っている。なお、「兄弟愛」に対するラテン語訳聖書での表現は、「兄弟」という語から生まれた、フラーテルニタース fraternitas という語であり、これから英語のfraternityとなった。

この小さな「友愛会」は、次第に発達、拡大して、大日本労働総同盟友愛会と改称され、さらに設立から十年も経たないうちに、何万人もの会員に増えて日本労働総同盟(総同盟)となった。そして、その後もいろいろな変化を遂げて、敗戦となり、戦後いろいろな労働組合が作られたが、それらのなかで、いくつかの労働組合が合同されて現在の「日本労働 組合総連合会」(連合)となって、組合員六七〇万人という日本最大の巨大な労働運動の組織となっている。こうしたことから、鈴木は、日本の労働運動の父と言われている。
このように、日本の現在の労働組合の出発点にも、キリスト教の兄弟愛ということがある。キリスト教が持っている真理の力の影響力の広さを示す一例である。
このように、重要なものとされている兄弟愛であるが、これは、旧約聖書時代には、ほとんど記されていない。創世記において、最初の兄弟であるカインとアベルのことについて、兄弟愛とはまったく逆のこと、妬んで兄弟の命を奪うという悲劇が記されている。 また、サムエル記には、アブサロムとその兄弟たちが、熾烈な争いをすることが記されていて、ここでも、兄弟愛というものは全く見られない。
また、詩篇には、友情としての愛、兄弟愛といったものは全く歌われていない。
そのような中にあって、ダビデとヨナタンの兄弟愛は、唯一ともいえる例である。

…ヨナタンの魂はダビデに結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。…ヨナタンは自分が着ていた上着や剣、弓、帯なども与えた。(サムエル記上十八の五)
…サウルは息子のヨナタンや部下に、ダビデを殺すように命じた。しかし、ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていた。(同十九の一)

兄弟愛という言葉、その内容は、キリストから始まったということができる。旧約聖書においては、神を「父」と親しく呼びかける、ということはなかった。詩篇のように、心からその真実をそそいで神に祈り、呼びかける文書であっても、どこにも神を「父」と呼びかける箇所はない。(*)
父、お父様、というような家族でごく普通に使う言葉を、万物を創造した無限に大きく偉大な存在である神に対して使うというようなことは、考えられなかったのである。

(*)旧約聖書では、イスラエル民族の創造者という意味で、民族の父という表現は、数カ所見られる。例えば次のような箇所である。
…アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくとも、
あなたは私たちの父です。(イザヤ六三の十六)しかし、それは、一人一人の人間の魂に最も近い存在ということで親しく呼びかけることができるような存在ではまったくなかった。
また、イエスの時代に、敬意を表する人たちを、父とか、先生(ラビ)、教師と呼んでいたのがうかがえる。「…また地上の者を父と呼んではならない。あなた方の父は天の父お一人だけだ。…」(マタイ二三の八〜十より)そうした特別な呼称によって唯一の師であり、教師であるキリストのことが忘れられ、人間に過度の敬意を払ってしまうことが、警告されている。

モーセの時代には、一般の人々が神のおられるところ(シナイ山)に近づくだけで、命を断たれると記されているし、罪深い人間であるから、神を見た者はやはり命を断たれる、と記されている。(イザヤ書六の五)
そのようなおそるべき存在から、家族の呼称で呼ぶような、家族以上に身近で親しい存在として神のことを、「父」と呼びかけられるようになったのは、新約聖書からであり、キリストによる。
新約聖書では、人間は、みんな神を信じたときから、神を共通の父とする兄弟だということになる。
その兄弟愛は、隣人愛とともにキリストから明確な始まりを見ることができる。それはさらに、敵対する者への愛というところまで高められていった。
ここでヘブル書の著者は、兄弟愛を留まらせよ、という表現を使っている。(*)
留まる、という動詞(メノー)は、 聖書ではヨハネ福音書のぶどうの木であるイエスにつながっている(留まる)という重要なところに用いられているが、エマオ途上での出来事にも用いられている。
復活したイエスが弟子たちと共に聖書のことを語りつつ歩んで行ったとき、そのままとおり過ぎようとされた。弟子たちは、それがだれかは分からなかったが、不思議な魂の感動を与えられたために、強いて「私たちといっしょに泊まってください」と願うところがある。(ルカ二四の二八〜二九)
その「泊まる」と訳されている言葉が、メノーである。
なお、文語訳では、「兄弟の愛を常に保つべし」と訳されている。

(*)新共同訳では、「兄弟としていつも愛し合いなさい。」と訳されているが、原文は、「兄弟愛を、留まらせよ」
(ヘー フィラデルフィア メネトー he philadelphia menetw であって、「愛し合いなさい」という表現でなく、留まる、というギリシャ語の命令形が使われている。 留まる、ということは、続ける、ということから、「兄弟愛を続けなさい。」(口語訳)「兄弟愛をいつも持っていなさい。」(新改訳)と訳されている。英訳など外国語訳も、 Let brotherly love continue.(KJV)
また、原語が、「留まる」であるからその意味に即して、Let brotherly love abide.あるいは、 Let brotherly love remain; と訳している聖書もある。

このように、このヘブライ人への手紙の著者は、兄弟愛というキリストの賜物が、注意していなかったら、なくなってしまう、ということを周囲の実際の状況からよく分かっていたと考えられる。
意識していないと、兄弟愛をせっかく神からいただいたにもかかわらず、留まっていなくて去ってしまうことが実に多い。これは隣人愛も同様である。
兄弟愛を留まらせるということ、それは、主イエスが、私に留まっていなさい、と言われたことを思い起こさせる。それは常に意識していないと、すぐにどこかに行ってしまうのである。
ヨハネ福音書の十五章で、主イエスは、私の内に留まれ、と繰り返し言われた。(*)私たちのほうからも、いつも留まっていようとするとき、主は留まって下さる。

(*)ヨハネ福音書十五章では、「私につながっていなさい」、「ある」、「とどまる」と三種の訳語が使われている。(新共同訳)

このように、日本語の訳語では気付きにくいが、原語を見ると、このヘブル書で言われている「兄弟愛を留まらせよ」ということは、ヨハネ福音書で繰り返し強調されている、「私に留まれ、ぶどうの木である私につながっていなさい」さらに、「私の愛に留まっていなさい」ということと同じことが言われているのがわかる。
このように、つよく勧められているのは、それほど私たちは、最初に主の愛を受けて、主イエスを信じる者となっても、その愛に留まることができず、また主の愛を受けて初めて持つことができる兄弟愛に留まることができないという人間の現実を示している。
このことは、言いかえると、「いつも目を覚ましていなさい」と言われていることと同じ内容を持っている。
目を覚ましているということ、それは霊的に神に結びついているということである。目を覚ましている、それは、これも私たちの意志をはたらかせ、主イエスの内に留まっているということであり、主イエスを仰ぎ見ているということである。それはまた、神の本質である愛を見つめ、愛に留まろうとしていることにほかならない。
このことが、困難なことであり、私たちがいつも意識していなかったら、いつのまにか魂は眠ってしまう。
イエスが最も困難な霊的戦いのときであったゲツセマネの祈りのときでも、弟子たちはみんな、一人残らず眠ってしまったということ、そこに目覚めていること、主を仰ぎ続けていることの困難が暗示されている。
使徒パウロが、「常に祈れ、どんなときにも感謝せよ、絶えず喜べ」と書いたのは、やはり同様で、兄弟愛を留まらせるためには、つねに祈りの心を持ち続けること、そして不都合なことであっても神はきっと良きことをして下さるためのことだと感謝して受け取ること、神の御手を信じてよろこぶこと等々が必要になってくる。

すでに述べたように、聖書では親子愛、男女間の愛、友人同士の愛といったものは全くといってよいほど記されていない。ただ、神の愛、人から神への愛、そして兄弟愛がとくに記されている。
こうした愛だけが、神に根ざすものであるゆえに永続的なものであり、だれでも持つことができる愛であり、またそれゆえに祝福された愛だということができる。
私たちがこうした兄弟愛を持つことができるのは、真理そのものである主イエスに従うことによってのみであるので、次のように言われている。

…あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至った…(Tペテロ一の22)


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