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―啓示について


自然界には、さわやかな風もあれば、台風のような暴風もある。谷川の心地よいせせらぎもあれば、豪雨のときの破壊的な濁流もある。
また、山の美しさは、誰にとっても心を静め清めるものであろうが、火山などは噴火するとすさまじい火柱や、おびただしい溶岩や、さまざまのガス、微粒子など噴出物によってその地域では住めなくなることもある。
海にしても、静かな大海原は心を広くし、地球の広大さを知らされ、砂浜の海岸、打ち寄せる波などの美しさは、たとえようがない。
しかし、ここでも台風のときの大波や津波などのときには恐ろしい破壊力を現す。
このように、自然の世界は、じつにうるわしい側面と荒々しい側面を持っている。
また、火は人間の生活に不可欠のものであって、火を使うかどうかは、人間と動物とを分ける重要な違いの一つとなっている。火はそのような人間を支えるものであり、恵みの力を与えてくれるが、一度、家が燃えたり、森林火災となると、命や財産をも奪い取る強力な力となる。
このような多種多様な、しばしば全く相容れない様相を呈する自然の姿は、それゆえにこそ、そこに別々の神々がいるのだと大多数の民族で考えるように仕向けることになった。山の神、火の神、海の神、風の神、あるいは稲妻を生じさせる天にいる神、さらにはその氏神というように地域それぞれにいる神々等々、限りなく「神」といわれるものの数は広がっていく。
そうした世界のなかで、いかに荒々しい暴風や、静かなそよ風であっても、また、破壊的な豪雨も恵みの雨も、みな、唯一の神、しかも愛と真実な神が背後で御支配なさっているのだと、いうようなことは、いかに考えても出てこない結論である。
だからこそ、ギリシャのソクラテスやプラトン、アリストテレスといった天才たちの深遠な思索にもかかわらず、唯一の生きた神、人間に愛をもって語りかける神という存在は分からなかった。
この点では、仏教においても多数の教派があるが、いずれも多神教が根底にある。唯一の神がすべてを愛をもって支配されているという考えは生まれなかった。
聖書においては、いかに自然界の無数の変化があっても、なおそこには唯一の神が支配している、ということが最初から記されている。
それは、思索や経験、知識からは生まれなかった。直接に人間を超えた存在からの啓示であった。
どんなに外見上で不可解なことが生じてもそれでも、背後に愛の神、真実な神がおられるというのは、思索や議論、研究からは得ることができない確信である。だからこそ、いかに学問をしても、だからといってそのような愛の神を信じるようにはならず、かえってそのような神への信頼などを失っていく傾向が強い。
この世のさまざまの苦難や悲劇、謎のような事件も同様で、数千万というおびただしい人たちが殺傷される世界戦争など、深い闇のような、悪魔が支配しているかのような状況も生じてきた。
個々の人の周辺でも事故や犯罪、あるいはよき働きをしている人が、ガンで若く死ぬとか、悪い人がかえってはびこるといったようなことはいくらでもある。
そうしたことを表面的に見ているなら、そこから真実で正義の神、愛の神などという存在が結論できるということはない。
ここにも、神からの直接の教え、啓示(*)が必要である。

(*)啓示という言葉の原語は、聖書には名詞、動詞を含めると50数回出てくる。 その原語(ギリシャ語)は、アポカリュプシス apokalupsis である。アポ とは接頭語で「分離、引き離す」という意味がある。カリュプトー とは「隠す」という意味であり、それゆえ、アポカリュプシス とは、「隠しているもの(ベール)を 取り除く」 という意味となる。 英語の「啓示」は、revelation であり、これは、やはり re+ veler で、取り外すという意味の接頭語 re と ラテン語の velum (ベール) に由来する言葉から成っていてやはり、ベール(覆っているもの)を取り外す、という意味なのである。
聖書の最後の書物は、黙示録というが、これは原語では、すでに述べた アポカリュプシス、英語では、revelation である。だから、黙示録という訳語より、啓示録 というのが本来の原語の意味にふさわしい訳語である。
この点では、日本語訳聖書の重要な参考とした中国の聖書では、手許にある五種類ほどの、台湾や中国で訳された中国語の聖書でも、すべて、啓示録 という書名を採用している。 現在の書名となっている、「黙示録」という訳語では、「黙して示された」という意味になるが、原語には 黙するという意味はない。
中国語をそのまま日本語として用いている「啓示」 という語にふくまれる 「啓」とは、開いて示すという意味を持っている。

人間には、みなベールがかかっている。それを神が取り除き、真のものが見えるようにする、それを啓示というのである。このことは、例えば、聖書の最初の記事を見ても、天地創造など誰も見たことはない、しかし、この創世記を書いた人物は、神から直接にほかの人間がみなベールで閉ざされて見えなかった世界を開かれて、天地創造の状況を示されたのであり、それを神に導かれて書き記したと言えるのである。
聖書のほかの書も、ふつうの人間には考えたこともなかったこと、見たことも聞いたこともなかったような内容を直接に示された人たちがいてそれが書き記され、あとに続く人たちも、それに接してこれは人間がその考えを書いたのではない、神からの示しによって書いたのだということを示されて書き写し後世に受け継がれていった。
詩篇のような人間の感情―苦しみや悲しみ、讃美、喜びといったものが重要な内容となっているのがどうして神からの啓示として聖書に収められているのか、それは誰しも疑問に思うところであろう。
しかし、これもやはり苦難の深い意味を神より直接に啓示され、その苦難を通って救いの喜び、感謝、そして神からの恵みによる満足がいかに深く大きいものであるかが啓示された記録なのである。
旧約聖書の後半部に収められている預言書はとくにはっきりと神からの啓示だと記されている。

…主の言葉がわたしに臨んだ。 (エレミヤ書一の四)
…イザヤがユダとイスラエルについて見た啓示。
(イザヤ一の一、関根正雄訳)(*)
…ヨエルに臨んだ主の言葉。 (ヨエル書一の一)

(*)新共同訳では、「イザヤが…見た幻」と訳されている。原語は、ハーゾーン で、見るという動詞「ハーザー」の名詞形であるから、見たもの といった意味である。英語訳聖書では、三十種ほどの英訳もすべて vision と訳している。

聖書は全体として啓示の書だと言われてきた。それは人間の考えたこと、思想や哲学、あるいは経験的な事実を言っているのでなく、それらをいかに重ねても明らかにならなかった真理が神から直接に一部の人に示されて(啓示されて)記された書だからである。
このことは、また考えてもわかることではない。聖書が神からの啓示を書いた書であるということもまた、それを本当に実感するには啓示が必要なのである。
聖書の中心にある、神、あるいはキリストのこと、生きてはたらいて私たちを見守り、導かれること、そうしたこともすべて学問や経験、知識では分からない。みな啓示による。
主イエスは目を覚ましていなさい、と強調されたが、神は常に天の国の真理を人間に啓示しようとされている。それを受け取るには心の目を開いていなければならない。
主イエスは、とくに世の終わりが近づいているゆえに、その大きな変化に巻き込まれて正しい道からはずれないように、目を覚ましていなさいと強くうながされた。(マタイ二四の四四、同二五の十三など)
そしてこの主イエスの強い警告は、弟子たちも受け取り、その警告は私たちの毎日の生活のなかでいつも覚えているべきこととして、記されている。

…目を覚ましていなさい。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。
何事も愛をもって行いなさい。(Tコリント十六の十三〜十四)

啓示ということは、特別な預言者のような人、指導者だけが受けるのでなく、ふつうのキリスト者すべてが受けることであるからこのように信徒に対して言われているのである。
悪の力やさまざまの誘惑に負けないで生きる、それは日々神の導きや愛を啓示され、生きて働いている神を示されるからこそ可能となる。
まったくそうしたものが見えないなら、まわりの人間や自分自身の弱さや、みにくさばかりが見えてしまう。人間の欠点などを見るには何の啓示も要らない。子供でも、教師がみせかけのやさしそうな言葉をかけたりしてもそれを見破ることができるであろう。
使徒ペテロも次のように書いている。

…目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食いつくそうと探し回っている。(Tペテロ四の八)
ペテロも啓示によって、悪魔の働きが見えたのである。そしてこのような警告を聞いたキリスト者たちは、心の目が開かれ、悪魔のはたらきが見え、さらにそのような悪の力に打ち勝つ神の守りと御手があるのだということもまた神から示されて見えていたと考えられる。
それゆえにこそ、苦しく長い迫害の時代にあってそれに打ち勝って生きることができた人たちが多数いたのであった。
苦難や悲しみ、この世の混乱、周囲からのいわれなき中傷等々を受けても、そこに神の啓示があれば、それらを超えた神の御手が見え、愛の神のまなざしが実感できるであろう。
旧約聖書の詩篇においては、そうした苦難や悲しみに打ち倒されそうになりつつも、そこに神の愛の御手が示され、それにすがって深い淵から救い出されたという人たちの魂の記録が数多くみられる。
ヨブ記もまた、そのような記録である。信仰あつく、正しい生き方をしていたにもかかわらず、突然にして財産も奪われ、息子たちの命も失われ、自分も恐ろしい病気となる。そして日夜苦しみうめく中にあって、懸命に耐えていた。
神のことについてさまざまの知識を持っていた友人たちがきて慰めようとした。しかしヨブの苦しみを 見て声もなかったほどであった。
そうして、さらに妻すらも 神をのろって死んだらいいのだ、というような暴言を吐くようになった。 ヨブは、なぜ自分は生まれたのか、と激しい言葉で呻き続けた。長い友人たちとの信仰や神にかかわる議論が繰り返されたが、進展はなかった。
人間の知識や議論で言い含めても啓示にはつながらないどころか、かえって真理から遠ざけることになることも多い。
神がそうした人間たちの長い議論(*)のあとに、また神ご自身の長い沈黙ののちに言われる言葉、それはどんなことが予想されるであろうか。
病気の意味、苦難の意味であっただろうか。あるいは、ヨブや友人たちの考え方のどこがまちがっているのか、ヨブの罪がどのようなものであったかなどであろうか。
意外なことにそれらについては、神はひと言も触れなかった。

(*)旧約聖書に、四十五頁ほどにもわたって友人たちとヨブの宗教的な議論が、私たちには不思議に思われるほどに延々と記されている。 (四〜三七章)
神は自然界の無限の深い意味をヨブに直接に啓示された。そして、彼が受けてきた苦難の意味もそこから啓示されていくようにと導いた。 このヨブ記の記述によって、自然のさまざまの姿に深く接することがいかに重要であるかがわかる。
神がヨブにまず語り始めたのは、この世界の広がりを誰が定めたのか、広大な海、その何ものも呑み込む巨大な力をだれが創造し、また制御しているのか、毎日の夜明けをいったいだれが起こしているのか、海の深淵な世界を知っているのか、死後の世界はわかるのか、光はいかにして生まれ、雪や風、雷などの現象がいかにしておきるのか、…といった自然の世界の無限の神秘について、ヨブに問いかけたのである。
ヨブ記ではこれは七頁にもわたってていねいに記されている。 (ヨブ記三八〜四一章)
これは、まったく意外な答え方である。いったいだれが、病気や家庭の不幸に打ちひしがれている人にむかってこのような語りかけをするだろうか。
ここに、聖書は、自然のあらゆる現象というのは、私たちの精神世界を開くために存在しているのだということを指し示しているのである。
私たちが神に引き寄せられるほど、自然というものが私たちに対して持っている意味も深く分かってくる。
ヨブのような生きるか死ぬかというほどの苦難にあってもそうであった。それほどの深刻な状況でなくとも、日常のさまざまの生活のなかで、私たちは周囲の自然の姿によって啓示を受ける道が開かれているのである。

啓示と聖霊
覆いがかかっていて見えない、分からない、その状態が一般の人間である。そこから特別に覆いをはずしてもらって神の国の世界をはっきりと見た人たち、それが聖書に現れるアブラハムやモーセ、ヤコブ、ヨシュア等々、さらにイザヤ、エレミヤなどの預言者たち、さらにはダビデなど詩篇の作者たちである。
旧約聖書の時代には、こうしたごく一部の人たちが啓示を受けた。他の人たちには啓示されなかった。モーセがシナイ半島の高山であるシナイ山(標高二二八五メートル)に登って、神の啓示を受けるとき、ほかの人々は登ってはならなかった。(*)

(*)ただモーセとアロンだけが登ってくるように、と命令された。(出エジプト記十九の) しかし、そのあとで、アロンは、長老たちとともに留まっているようにと命じられたことが記されていて(同二四の十四)、実際にモーセが神の言葉を受けるときには、一人だけで受けたのがうかがえる。

このように、啓示はきわめて少数者が受けるものであった。
こうした状況を根本的に変革したのが、主イエスであった。「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたが、その与えられるものの最もよきものが聖霊なのである。(ルカ十一の九〜十三)そしてその聖霊こそは、啓示を与える霊なのである。

…真理の霊がくると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ十六の十三)

真理を悟るとは、すなわち啓示されるということである。真理とは、イエスが神と同質であること、神の国とはなにか、永遠の命、生ける水とはどういうものなのか、光とは、闇とは、そして裁きとは…といったことを啓示するのが聖霊なのである。
啓示を受けるとか聖霊を受けるなどというと、きわめて特別な人だけが受けるように思っているキリスト者も多いようである。しかし、そのような受け止め方は旧約的である。
使徒パウロも、キリスト者が目には見えない神を、最も親しい者であるかのように、「お父様」と呼ぶことができるのは、聖霊による、と書いている。(ローマ八の十五)
言いかえると、神様を、心のうちで、自分をあらたに生まれ変わるようにして下さった最も親しい存在、しかも畏るべきお方として、神様に対して、「お父様」と実感することができる、それは聖霊を受けて、神の本質を啓示されたからである。無限に遠く、峻厳な存在だとしか思われなかった神が、じつに深い愛のお方で、また魂の最も近いところにいて下さる。私たちの魂の父なのだという実感を与えてくださるということ、これもまた、議論や研究でなく、神の直接の示しによる。
旧約聖書では、民族の父という表現はごく一部にはあっても、個人的に一般の人が、神に、お父様、といって呼びかけるということは、全くみられない。それは、最も個人的な情感を込めて書かれているはずの詩篇ですら、一度もそのような表現はみられない。
天地万物の創造者であり、現在も宇宙とそのすべてを支え、かつすべての人間の魂や動向を見守っている、そして必要な導きや警告、あるいは裁きを与える、そしてその御計画に従ってこの世界全体を導いておられる…そのような人間の想像をはるかに越えるお方を、家族関係の呼称である、お父さん、といった身近な呼び方で言う、それはまさに主イエスが啓示を受けたからであった。
そしてイエスを主として信じる者たちは、やはり同じように示されて、神を父として感じるようになったのである。
イエスは、人間の姿をした存在として、歴史上で最高の啓示を受けた方であった。そのイエスが、旧約聖書のなかにはたくさんの律法が書いてあるなかで、わずかに二つを取り出して、最も重要な内容を持っているとされた。
旧約聖書には、出エジプト記の二十章から、レビ記の全体、そして民数記、申命記にわたってその大多数の内容が律法であり、罪の赦しのための捧げ物や、汚れと清めに関する律法、安息日やさまざまの儀式に関する律法、財産や結婚関係などなど、およそ二〇〇頁もの多くの分量となっている。
その中から何が最も重要なのか、それは常識的には、十戒をあげるであろう。十戒とは、最も基本的な十の律法(戒め)だからである。その第一は、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」、第二には、「あなたはいかなる偶像も造ってはならない」、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」、「父母を敬え」等々である。
しかし、主イエスは意外なことにこれら十戒を最も重要な戒めとはあげなかった。そして、それら数知れないような律法の記述のなかに埋もれていたような次のことを第一として取り上げられた。

…あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 (申命記六の五)
…。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。 (レビ記 十九の十八)
これが最も重要な戒めであり、ほかのいっさいの律法はすべてこの二つに含まれる、と言われた。
確かに、イエスの言葉のように魂のすべてをもって神を愛する人は、決して偶像を造ってそれを拝むなどはしない。
このような驚くべき単純化は、イスラエルの人たち、いかなる宗教指導者や学者たちも考えてもみないことであった。
このような千年以上も当然の真理として続いてきたようなことについても、さらに深く、より完全なものを簡潔に表す、これもイエスが完全な啓示を受けたからであった。
啓示はこのように時代や同時代の無数の人々の考えや経験すらも、越えて真理を示す。
イエスこそは、万人に真理が啓示される道をこの世界に開いたお方であった。
私たちも、職場、学校、近所、あるいは時には家族のような最も身近に接する人でありながら、敵対してくる人たちの背後に、神の御手を見ることができるならば、そうした状況に直面しても揺るがされずに、主とともに留まることができるであろう。
主イエスは三年間もともにいた家族以上の親密な関係にあった一人の弟子に裏切られ、金で売り渡されるという状況に陥ったが、そこでもそうした事態の背後に神の御計画をしっかりと見つめ続けたゆえに十字架刑をあまんじて受けたのであった。
しかし、そのようなきわめて苦しい状況においては、悪意の人間の背後に神の御計画を見つめ、すでに啓示されていた十字架への道に従おうとすることは、きわめて困難であり、イエスも徹夜の必死の祈りを捧げることによってその大きな戦いに勝利されたのであった。(ゲツセマネの祈り―マタイ二六の三十六〜)
啓示は、学問や通常の学び、あるいは教養の多さや能力といったことに関係していない。ステファノは、彼がうけた最も深い啓示は、彼の死のときであった。しかも多数の憎しみをもった人たちに取り囲まれ、石で打たれて息を引き取ろうとするときに、彼の人生の最高の啓示を受けた。まさに、啓示という言葉、ベールが除かれる、という言葉どおり、それまでかかっていた天の国のベールが除かれ、神とイエスがともにおられる姿をはっきりと見たと記されている。
すでに述べたように、神のことをお父様、と呼んで祈ることができるということがすなわち、啓示を受けているしるしなのであるから、日々、神をお父様と呼びつつ歩んでいくこと、それは日々啓示を受けつつ歩むことに他ならない。
そして、聖書や周囲の自然の姿、そして人間との関わり、仕事、周囲の出来事等々、あらゆることからも啓示を受けて、日々新しくされていきたいと願うものである。


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