あなた方は、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
(Tペテロ一の二三)


リストボタン 導かれることの重要性

今年も北海道の何カ所を移動して聖書の集会が与えられ、東北や関東、中部などの各地での集会が与えられたが、そこで全面的に役だったのがカーナビであった。
もしカーナビがなかったら、到底今回のような長距離でさまざまの地域の目的地に達することはできない。 かつてカーナビがなかったころは、初めてのところに行く場合には、クリップで運転席の前に地図をつるし、絶えず交差点での地名を見て、しばしば路肩に停車して地図で次はどこの何という交差点で右折あるいは左折するのか、など一つ一つ確認していかねばならなかったし、目的地に近づいても団地など一向に目指す家がわからず、あちこちと車で移動しては尋ね歩くことが必要であった。
それは時間もとてもかかるうえに、交通の激しい都会の何車線もある広い道路では、地図や交差点の地名を確認しながら走るというのは実に危険なことであった。また、地名も街路の様子もわからない夜はもちろん未知の場所などは行くことはできない。
しかし、カーナビを備えるようになってから、それに導かれていくことは以前とは到底比較にならない安全さと時間の短縮、エネルギーの節約となった。
自分の判断や地図によるのでなく、走っているさなかにも適切に導かれるということは実に安全で効果的に目的地に到達するということである。
このことは、この世に生きる場合にも言える。この世のさまざまの間違いや悪意や誘惑のある危険な道を、自分の考えや意志で正しく歩いていくというのは至難のわざである。
目的地がどこなのか分からなくなるし、途中でさまざまの迷路や落とし穴、あるいは沼地のようなものに落ち込んでしまうことが多い。
そのようなこの世の生活において、適切な導きがあるということは何よりもありがたいことになる。
困難なとき、喜ばしいとき、また悲しみや苦しみのとき、孤独のとき、死を前にしたとき…あらゆるときにおいて、人は適切に導かれなかったらすぐに高慢になったり、逆に絶望したり、あるいはまた平安を失って心の病気になることもある。また悪の道に引き込まれるとか、傲慢になって人を見下すとか、あるいは神などいないと言うようになってしまう。
私たちの生活においても、適切な導きをしてくれる人物はとても重要である。
 ダンテのような偉大な詩人、哲学者、政治家であり、当時の科学や歴史的なことにも通じていた博学多才な人物であっても、自分の意志や決断では目指す目的地へとは登っていけないこと、適切な導きをする人がいなくては前進できない、ということを痛切に知らされたのであった。
それゆえに、彼の大作である神曲では、まずその導き手となる、ローマの詩人ウェルギリウスが現れる。彼が、地獄と煉獄を導くという構造になっている。
私たちも多くの書物や生きた指導者によって導かれて日々を過ごしている。すぐれた導き手のあることは大きな恵みであるが、人間は弱さがあり、ときにはそうした導き手の意外な欠点とか罪によってつまずかされることもある。
そして誰でもがそのような生きたよき導き手を恵まれるわけではない。またその導き手も病気になったり、老年になって老年に特有の老化や、いろいろな病気に悩まされ、他人を導くどころか、自分が御国への道を歩むのが精一杯ということにもなる。
そのように、人間による導きには、当然大きな限界があるために、それをもすべてご存じの神は、生きて働くキリストを、真の導き手として、私たちに送って下さったのである。
ダンテの神曲においても、最後の天国篇においては、ウェルギリウスに代わって、神の愛の象徴でもあるベアトリーチェが導くのである。
真の導き手、それは、神であり、キリストであり、聖霊である。私たちの内にまで来てくださり、住んで下さる。そして風のように見えないけれども必要なところに来てくださる。
主イエスが、私に従ってきなさい、と言われた。これは単に二〇〇〇年前のキリストの弟子たちへの呼びかけでない。それは永遠の呼びかけである。それはイエスこそ真の導き手であり、万人の導き手であるからだ。
また、「私はよい羊飼いである。狼から守る。真の門から羊たちを囲いに入れる。命すら羊のために捨てる」とも記されている。(ヨハネ福音書)それほどの良き羊飼い、導き手なのである。
主こそ導き手であること、それは旧約聖書の詩篇やイザヤ、エレミヤといった預言書にもゆたかに示されている。
特に「主はわが牧者である。私には乏しいことがない」から始まる、詩篇第二三篇は、すでに旧約聖書の時代から神は最善の導き手であることが、今から数千年も昔からすでに心を惹く言葉で表現されている。
科学技術の発達によって、カーナビのような随時道案内をする道具は、ますます発達していく。
しかし、人生の道案内をするような機器は作ることができない。その点では数千年前と少しも変わっていない。むしろ、そうした科学技術の産物が、さまざまのまちがった情報をもはんらんさせ、かえって道をまちがう人を増大させているといえるだろう。
生きて働いておられるキリストこそは、そしてそのキリストを指し示し、キリストの言葉を記す聖書こそは、昨日も今日も、そして永遠に変ることのない人生のカーナビなのである。


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