リストボタン集まりの重要性について

新約聖書においては、キリスト者の集まりは、キリストのからだである、という特別な表現がある。
…あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Tコリント十二の27) このことは、信じる人たちの共同体(集会、教会)がいかに重要であるかを示すものである。 日曜日の礼拝集会をもとにしつつ、ときどき行われる特別集会―クリスマス集会、イースター集会、四国や四国以外の方々の参加する四国集会や、東京ほか各地で開催されるキリスト教の全国集会(無教会)、「祈の友」の集会、集会員以外の人が来られて行われる賛美や聖書講話などの特別集会等々、そうしたものに参加することで新たな恵み、予想していなかった祝福につながることも多い。
例えば、キリスト教四国集会(無教会)は今年の徳島での開催で三十七回の開催となった。これまでの三十六年間にこの四国集会によって多くの多くのキリスト者たちと出会い、その後も交流が与えられ、霊的な恵みがさまざまの形で与えられてきた。
 私たちのキリスト集会に、視覚障がい者が八名ほどもいるのは、 ずっと以前のこの四国集会に参加していた愛媛出身で大阪在住のSさんが、当時大阪にいたある中途失明者Tさんを私に紹介する手紙があり、そのなかで、その人を訪問して欲しいとの依頼があったことが元になっている。
そのSさんも、大阪のあるキリスト教の集会に加わっていてそのことを聞いたのであった。
そこから、Tさんに聖書の学びをすることになり、すぐに点字を覚えて、使うために、何度か県立盲人福祉センターに出向いていたら、そこの担当者から、一人の盲人でかつ肢体に障がいのある人の点字による教育にかかわってほしいとの要望があり、その人とも毎週点字での教育をその施設に私が出向いて行うことになった。
 こうしたわずか数週間の間に、続けて二人の全盲の人を紹介されてかかわることになったので、これは視覚障がい者の関わりを神が求めておられるのだとわかり、盲学校に転勤希望を出した。そのことから、多くの視覚障がい者が集会員のなかに含まれることになったのであった。
 そしてその視覚障がい者との関わりがあったから、私が北海道南西部の日本海側にある瀬棚地方の瀬棚聖書集会に毎年行くようになって八年目となっているが、その二年目に、私たちの集会の視覚障がい者の数人と、札幌の聖書集会の中途失明の方との関わりが生まれ、そこから、札幌での新たな集まりがなされるようになり、今年で七年目になっている。そこで旭川や、釧路、苫小牧のキリスト集会の方々とも出会いが与えられてきた。
 こうしたすべては、もし大阪でなされていた小さな集会がなく、また私が四国集会に参加していなかったら、あるいは四国集会というのがなかったら、生じなかったことである。
 私たちのキリスト集会は、視覚、聴覚、あるいは肢体、知的などいろいろな障がいをもった方々によって大きな恵みを受けてきたことは、集会員はすぐにわかることである。
 弱きところに神の力は現れる、ということはまことに真実であることは、こうしたいろいろな障がいを持った方が多く集会に含まれていることによって私たちが実際に学んできたところである。
 主が、四国集会という特別な集会を用いて下さったと感じている。
これは最も身近な私たちの現在のキリスト集会についてあげた例である。
 けれども、東京や静岡での無教会のキリスト教全国集会で出会った方々とも現在に至るまでいろいろと主にある交流が与えられている例も思い出す。
 現在、私たちの集会と深いつながりのある、大阪府高槻市の那須さん宅での集会は、那須佳子さんがもとになって始められたものである。
 那須姉とは、まだ彼女が独身のときであるから、数十年前に、京都の北白川集会主催の夏の聖書講習会(京都北東部の山間にある古知谷での集会)にて出会ったが、そのときはほとんど話すこともなく終わった。それ以後、「はこ舟」を送っていたが、まもなく住所が変更になり返送されてくるようになったのでそれきり関わりがなくなっていた。
 それが、一九九三年の静岡での無教会のキリスト教全国集会のときに、盲人の参加者がいるために参加者名簿も読めないから、全員によって県名、名前を言う時間がとられた。その自己紹介の時間が終わったとき、後ろから、私に呼びかける声があったが、それが那須さんだった。
 それから、大阪の方々に紹介し、いろいろと関わりが与えられ、最近は那須さんの息子さんである那須容平さんや、その奥さんである有加さんも信仰を与えられ、四国集会や近畿無教会集会、青年の全国集会などへの関わりも深められて重要な若手の働き人の一人となっている。
 これも、北白川の夏期の聖書講習会や、静岡の全国集会がなかったらこのようなことは起こらなかった。
 これは、私たちのキリスト集会との関わりが深い出来事の一端であるが、これだけを見ても、日曜日の礼拝集会しか参加しない、ということでは与えられない恵みが与えられるということがわかる。
 このような特別集会の恵みに関連して、世界的に知られているマザー・テレサがはっきりと最も貧しい人たちへの奉仕に踏み出すきっかけとなったのは何だったかというのを思いだす。
 それは、毎日している早朝の祈祷のときではなく、意外なことであるが、黙想会というある種の集会に参加するために乗っていた列車の中で神からの呼びかけを受けたことなのであった。
 このことは、マザー・テレサも忘れることのできない重要なこととして述べている。彼女は、まだ十二歳のころ、自分の一生は、自分の楽しみのためでなく、神にささげた一生にしようと決めるようにうながされた。それが第一の神からの呼び出し(召命)であった。
 そして、両親や家族から離れ、祖国であるアルバニアからも離れて、遠いインドに出向いた。そこで、年月が経って、彼女はカトリックの高校で教え、校長としても勤めていた。
 そうしたとき、一九四六年九月一〇日に、ダージリンというネパールに近い山岳地域(平均標高二〇〇〇メートルを越す)での黙想会に参加することになった。彼女の住んでいたカルカッタからダージリンまでは、直線距離でも五〇〇キロもあるところで、昔であるから相当時間もかかったと考えられる。
 彼女に決定的な召命―神からの直接の呼びかけ―があったのは、そのダージリンへ行く列車のなかで、ヒマラヤ山地の駅にて神からの呼びかけを聞いたのであった。(*)

(*)彼女自身の言葉を引用する。
「…It was on the tenth of Saptember 1946, in the train that took me to Darjeeling,the hill station in the Himalayas, that I heard the call of God. The message was quite clear. I was to leave the convent and help poor while living among them. It was an order …」

(EDWARD LE JOLY. MOTHER TERESA of Calcutta - A BIOGRAPHY.p.9 Harper& Row,Publishers. )

彼女が遠くの黙想会―これも一種のキリスト教の集会である―に行く、ということが、神によって用いられ、その途中の駅で神はマザー・テレサに呼びかけたのであった。
 神に関わる何らかの集まり、― マザーの場合は黙想会に参加することであったが― そうした目的のために祈り、労力を注ぎ、費用、時間などもかけていくこと、そこに普段とは異なる祝福が与えられることがしばしばある。
また、宣教師のはたらきは、表面的には、集会とは関係のないように見えるが、実はその宣教師を送り出したのは、所属するキリスト者たちの集まり(教会)の人たちなのであり、彼らの背後には祈りや資金によって支えるキリスト者の集まりがあった。
 そして、宣教師たちの目的は、異国のキリストの福音をまったく知らない人たちにキリストの福音を宣べ伝え、闇にいる人たちが本当の幸いを知ることができるようにということである。そして、宣教師が帰国したあとも、信じた人たちの信仰が持続し、さらに別の人たちにも伝わるようにするために、信じる人たちの共同体(教会、集会)ができるように、という目的がある。
 このように、ここでもキリストを信じる人たちの集まりということが、根底にあるのがわかる。
キリストの弟子たち、信徒たちが、祈りの集会を持って、復活の主の約束を信じて、真剣に祈りをともにしていると、そこに聖なる霊がそそがれた。それが二千年に及ぶキリスト教伝道の出発点であった。
 それと似たことがパウロの異邦伝道の開始にも生じた。
パウロが西アジア(現代のトルコ地方)からヨーロッパへの伝道に志したのは、彼の意図や希望ではなかった。
それは、主によって呼び出された人たちの集まりが熱心に祈っていたときに、それが祝福されて、聖なる霊がそそがれ、その聖霊が、パウロを遣わすようにと告げたと記されている。(使徒言行録十三章)
パウロという大使徒が生まれたのも、集会員の互いに熱心な祈りの交流があったゆえなのであった。
 福音のために、み言葉の集まりのために、さらに、神の国のためにと遠くの集会に出かけ、また私たちが祈りをもってそうした集まりを開くこと、そうした福音のための労苦は、主が祝福して下さる。
 もちろん病気や仕事、あるいは家庭の事情などでそうした特別集会に参加できない人たちも多くいる。
 しかし、その人たちは祈りという形で加わることができるようになっている。
 それゆえに参加できる人たち、健康やその他のことが恵まれている人たちはその恵みを用いて、特別集会に参加することによって、聖霊やみ言葉を受け、参加できない人たちにも祝福を及ぼすことができる。そうして集会が全体として御国への道を進んでいくことができる。


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