万物を新しくする主

私たちの目にするものはすべて古くなっていく。身のまわりの衣食住、そして自分自身、また周囲の風景なども、時間とともに古びていく。山々ですら、長い年月のうちには、形が丸くなって古びていく。
人間のからだも心も同様である。 こうした周囲の身近なものだけでなく、永遠と思われている天体についても、何十億年という長い歳月を見ると、太陽や地球、そして夜空の星々もまた古びていく。
このように万物は古くなっていく。衰えていく、というのが私たちの周囲を見るときの実感である。
しかし、そうした常識をくつがえすことが聖書には書かれている。聖書とは神から聞き取った言葉であり、神のご意志である。神が、最終的には、万物を新しくする、といわれているのである。

…すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。(黙示録 21の5)

そして、聖書は最初の創世記の巻頭から、万物を新しくする力をもっていることが示されている。
闇の中、無限の深淵に吹いていた神の霊風(創世記一の2)、それは新しいものを生み出そうとする神の力そのものなのである。
そして実際に光が生じた。光こそは、あらゆる古びたものを新しくするものなのである。
身近な石ころを手にとる。そこに神の深い英知と、長い時間をかけて今自分の目の前に さまざまの色や形や固さをもって現れている。それは、何万年、何十万年も前にどこかの岩山にあったときからはてしない旅をしてここにある。そうした一つの石を見つめているだけで、石がふしぎな謎、太古の昔の情報をそこに詰めて存在しているのを感じる。
空の雲、山道にある一つ一つの樹木や野草たちも同様である。神からの光を感じつつ、それらを見つめるときには、なんでもないものが、新たな光をもって感じられてくる。神から受ける光こそは、新しく感じさせる原動力なのである。
聖書も同様である。何十年も読んでもなお飽きることがない、それはそこに神からの光をもって読む時には、あらたな意味が浮かびあがってくるからである。
…主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩篇27の1)

この詩の冒頭の言葉「主はわが光」という言葉は、オックスフォード大学の校章ともなっていてよく知られた言葉である。大学のマークとして使われているというのは、その光が、学問的な探求の光を与えるという観点からであろう。
しかし、この詩の本来の意味は、敵対する者に苦しめられるという状況のなかで、それに耐えて勝利する新たな力が与えられるという意味で述べられているのである。それは、こうした詩が作られたのは、信仰に生きた古代の人間の苦しみからの解放を経験したことによるからであり、研究などとは関わりのないところから生まれたからである。
主の光が与えられるならば、敵対するものがいても、なお、その背後に神がいますことが見えてくる。敵対するものの力はただそれだけがあるのでなく、それをある限界のなかだけにおいておく神の力が見えるのである。
闇のなかに、懐中電灯で光をあてるとき、そこには次々と新たなものが見えてくる。
神の光を受けて、周囲のいろいろなものを見るときにも同様なことが言える。
こうして 周囲に反対者ばかりという状況にも新しいものを感じてそこに耐えていくことができる。
さらには、神のひかりという探照灯を持つときには、敵対する者、自分を苦しめている者にもそこに神の愛を求める無意識的な渇きを照らしだすことができる。そしてそこに神の愛が注がれるようにと祈るように導かれる。
しかし、人間的な判断、考え方というこの世のものは、それをもってしても何ら霊的に新たなものは見えてこない。

…かし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマ 7の6)

生き方も新しくされる。それは聖なる霊による。聖霊こそは、古びたものに新風を吹き込むのであり、風がよどんだ大気を一掃して新たな雰囲気にするようなものである。そして、雨を含んだ強い風は大気の汚れを一掃するように、いのちの水を含んだ霊風は、あらゆるものをうるおし、また古きものを一掃して新たにする。

このような聖なる水のはたらきは、すでに旧約聖書でも言われている。

…川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。
この水が流れる所では、水がきれいになるからである。
この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書 47の9)

この川、それは、エルサレムの神殿から流れだす川である。すなわちこれは神から流れ出る霊的な水の流れを意味している。そのようないのちの水が流れていくならば生き返る。言い換えると、古びたもの、滅びゆくものが新たにされる、ということなのである。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Uコリント 5の17)

if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come!

モーセは神から声をかけられたときに、新しくされた。荒れ野にて、のどかではあってもだんだん古びていく人生をたどりつつあった。しかし、神からの呼びかけによってまったく新しくされたのである。
キリストの12弟子たちも、やはりそのまま老齢化していく、ふつうの古びていく人生を歩んでいた。しかし、イエスから私に従え、との呼びかけを聞いたときから、彼らは朽ちていく道から脱却して、新たにされ、新しい道を歩むようになった。
それはさらに、イエスの十字架の死ののち、聖なる霊が注がれて さらに完全な意味で新しくされてこの世に福音を伝えるためにと送りだされて行った。
旧約聖書にある有名な「十戒」、それは数千年も昔の特別な民族の宗教的な遺物ではない。それは、万物を新しくする道を世界の歴史において初めて明確に指し示したものである。
神でないもの―財産、金や身体、地位、食物、交際などなど―を一番大切にする、そのときに 人間は古びていく。神だけをたよりにするとき、人は根本的な意味で新しくされる。神こそは永遠に新しいものを生み出す根源であるからだ。
そのことを、十戒の最初に告げているのである。

…あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20の3)

この世界を創造し、しかも慈しみと真実で満ちた神を第一としない、ということは、愛や真実に反するものを第一とするということである。そのようなときには、真実なものや純粋な愛が与えられないのであるから、決して本当の喜びを経験することができない。真の愛からくる喜び、それは人間の魂を新しくうるおいに満ちたものにする。
新しさの根源は実に神の愛を受けることにある。
十戒とは冷たい、あるいは古びた化石のようなものでなく、現代も生きた人間のあり方の根源を示したものであり、ここにこそ真の新しさを感じて生きる道があると、指し示しているのであって、そうした道を知らなかった世界に輝かしいともしびとして掲げられたものなのである。
このように、一見 古びた古代のいましめのように見えるものが、実は新しさの根源を指し示すものであって、じつに聖書は、私たちが深く読みとるならば、創世記の最初からずっと新しいものを提示する内容で満ちているのである。
こうした聖書の内容は、キリストによってさらにその新しさが決定的となった。

…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
(ルカ 5の38)
私たちの魂そのものが、聖なる霊によって新しく生まれ変わる。それが新しい皮袋であり、そしてそこに新しい神の国のメッセージがとどき、聖なる風たる聖霊が吹き込み、いのちの水が湧き出る。それが「あたらしいぶどう酒」というたとえで言われていることである。
私たちの存在そのものも、死を越えてその新しさは続いていく―神のみもとにて復活し、新しい霊的な身体とされていく。
そして聖書の最後も、究極的な新しさ、すなわち新しい天と地とされる、という壮大な預言(黙示録21章、22章)―これ以上に大規模な新しさは有り得ない―で終わっている。
このように、聖書は最初から最後まで、この世のものがすべて古びていくただなかにあって、永遠の新しさを示した書となっているのである。

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