リストボタン再生への祈り

 私たちが最も願っていることは、再生である。病気になったときに、それが痛みが強く、苦しいほど私たちはその痛みや苦しみが早く治るようにと、ただそれだけを願うようになる。

 それは、弱った体、傷ついた体からの再生を願うことにほかならない。

 痛みで何も考えられないほど、あるいは夜も眠られないほどになると、それは全身での願いとなる。

 聖書の中でも最も人間の心を直接的に表現している詩篇においては、神への切実な叫び、祈りが数多く記されている。

 そして、主イエスが、地上においてなされた働きで重要な部分をしめるのが、そうした苦しみ悩む人々、とくに医者にもかかれず、痛みを軽減する薬もなく、社会的にも何の保障もなく、ただ耐えがたい病の苦しみや悲しみに打ちのめされている人たちへのいやしであり、救いであった。

 それは言い換えると、彼らの病める体と心の再生であった。

 マタイ福音書においてイエスの山上の教えのあと、まず記されているのが、病気のうち、最も精神的にも肉体的にも地獄の苦しみを味わうことになるものとしておそらく世界的に恐れられていたハンセン病の人のいやしの記事であった。

 そして、次に記されているのが、中風で寝込んでいてひどい苦しみにある人へのいやしであったし、その次もペテロのしゅうとめの熱病のいやしであり、さらには、多くの病人をいやされたという記述である。

 そして、このことは、イザヤ書53章に預言されているメシアが、「…彼は私たちの重荷を負い、私たちの病を担った」と記されていることの成就であった。(マタイ817

 そうした肉体の病気に次いで記されているのが、精神の病といえる、悪霊に取りつかれた人のいやしである。

 次には、12年間も出血の病気があって、汚れた女とされて宗教的にも肉体的にも非常な苦しみを味わってきた人のいやされることや、生まれつきの盲人のいやしが記されている。

 こうした病のいやしとともに人間にとって最も深い願いと祈りがある。それは死からの解放である。マルコ、ルカ、ヨハネなどの福音書においては、死んだ人の復活をもさせるイエスの力が記されている。

 死は万人にとって最大の問題である。すべて罪悪も命にかかわるほど重くなる。相手を死に至らせるような犯罪は最も重いものである。それは命が最も大切なものだというのが当然であり、その大切なものを奪うことは最も重い罪となる。

 その重要な命はあまりにもはかない。病気だけでなく一瞬の事故や、小さな砲弾、あるいは刃物によっても失われる。

 愛するものが死んだときには、最も深刻な悲しみや苦しみがつきまとう。それゆえに、死にうち勝つことこそが、最も深い祈りと願いとなる。

 病気の重いとき、また老年のときには死は避けられない。しかし、その死のかなたに再生があるのならば、死は最も深刻な災ではないことになる。

 死の力にうち勝つという願いと祈りに応えるため、深い苦しみと悲しみを根源からいやすために主イエスは来られた。

主イエスによって 死からの再生は、万人にとって可能となった。

 再生と復興への祈り、それは究極的には、死からの再生であり、この世界全体の再生であり、復興である。

 死からの再生をなしうる神を信じるということ―それはこの世の一切を超える力を持つお方だと信じることである。

 ここから、主の祈りとして、世界中で最も多く繰り返し祈られてきた祈りへとつながっていく。

 御名が聖とされるように(*)、この祈りは、人々によって神の本質が人間世界とはまったく別の汚されることも壊されることもないのだとみなされますように、ということである。

 どんな災害や事件、事故があろうとも、それでもなお、神はその愛と真実をもって存在しておられるのだと、あくまで信じる姿勢が人間にありますようにとの願いである。

 

*)「御名があがめられますように」と訳されている。あがめる、という言葉は、有名人や地位が高い人に対してよく使われる。しかし、原語のギリシャ語では、そうした一般的な「あがめる」ということとはことなる意味を持っている。「聖とされるように」である。聖霊という言葉に用いられる「聖なる」という原語の動詞形の受動態の命令形だからである。

 英訳などはほとんど次のように「聖とする」という語が用いられている。

hallowed be your name. (NRS)

may your name be held holy, (NJB)  hallow とは、holy と語源が同じ語)

 

 御名があがめられますように、との訳は、原文の「聖とされますように」という意味を十分に伝えているとは言い難い。

 聖とする、このことの本来の意味は、旧約聖書の時代から、「分けておく」(set apart)である。神の御名を聖とする、ということは、神の本質を私たちの通常の考えから全く別のものとして分けておくことであり、それは、地上のいかなる出来事や人間の判断などにも動かされない存在としておられる、とみなすことである。

 どんなに不可解なことがあろうとも、神を聖とするとは、そうした難しい状況―病気や事故、災害などが起ころうとも、なお神の愛や真実は動かされることなく、存在していると受け止めることである。

 神は、死から再生させることができるお方、そのように信じることができるとき、それは私たちの目に見える世界のすべてを超えた存在だと信じる―すなわち、神を聖であると受けいれることになる。

 神をこのように、信じて受け止めて初めて、次の祈りも生まれる。

 それは、「神の王としての御支配がなされますように」ということである。それは、病気のいやし、死からの解放などすべてを含む。病気の苦しみ、精神の 不安など、神がその宇宙を支配されている王としての力をもって私たちの病気を支配し、それを排除してくださるならば、病はいやされるし、病が残っても、それにうち勝つ力が与えられるからである。

 また、死ということも、死の力に勝利している神のいのちの御支配がなされるとき、死は排除され、いのちがそこに与えられるからである。

 このように、再生と復興ということは、万人の願いであるが、それは主の祈りに含まれている。

 そして、その願いは、津波、地震、原発、あるいは洪水の被害を受けた方々に対してもなされる。家や仕事、土地、家族等々ふつうの生活へと再生、復興したい、という切実な願いがある。

 そうした目に見えるものについては県や市町村、国の政治が重要となる。それが効果的に、すみやかになされることは、見える世界の再生と復興につながる。

 しかし、他方では、原発の問題にとくに顕著であるように、数十年もそこに住むことができない人々が生まれる。チェルノブイリ原発事故によって25年経っても30キロ周辺には、そこに住むことができないほどの放射能がある。

 福島にはチェルノブイリが1基の事故であったのに対して、4基もの原発が事故を起こし、大量の放射能があるのであって、どれほど長期間そこに住めなくなるかは誰も分からない。

 現在、福島原発周辺では人は住めず、あらゆる社会のはたらきは存在しなくなってしまい、死の町のようになってしまっている。それは、チェルノブイリのことを少しでも知っている人は、そこが広大な農地や町が人のすまない死の町となっているのであるから、そのようになってしまうのは類推できることである。

 そうした表現しがたい苦しみを現在日本の一角で日々受けている人たちがいるのに、そしてそれは原子力発電所の事故によるものであり、本質的に原発はそのような大災害を起こし得るものなのに、政権党の重要な人物は、できるだけ早く再稼働させ、さしあたり新規の原発はつくらないが原発の輸出は促進していくと言明している。一定期間すぎて人々の原発への警戒心が少なくなったらまた原発利用をすすめていくという考えが見え隠れしている。

 弱い立場の人間の苦しみや悲しみより、経済問題、自分たちの権力維持などのためにはどんなひどいことでもする、というのは、昔からあったことだ。戦争もそのような考えから弱い立場の国々の人たちを踏みつけ、犠牲にし、自国民もまた数知れない人たちが犠牲となっていった。

 このような死の町と化したものの再生はあるのか、復興はあるのか。

 もし何十年か先になって、原発の比較的近いところに住むようになったとしても、そのときには、もう多数の人たちはこの世にはいない。それでは、現在苦しむ人たちは―もし死後の命などないならば―まさに再生や復興の希望が見えない状況のままこの世を去っていくことになる。

 こうした状況において、キリストのメッセージがある。それは、いかに現状が絶望的であって、また行政や自分の力ではどうにもならない状態であっても、そこにもし神の力が注がれるとき、神の導きによって生きるときには、その暗い状況にあっても、なお、光が与えられ、いのちの水が与えられ、立ち上がることができるということである。

 このことを指し示す内容は、すでに旧約聖書にも記されており、最も知られた箇所の一つは、つぎの詩である。

 

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたは、私とともにいて下さるから。(詩篇231-4

 

 ここには、困難な中にあってもなお、再生がこの世において与えられるということが、はるか3000年ほども昔からはやくも体験されていて、その証しとしてこの詩がある。

 主が私たちの魂の牧者となり、主が共にいて下さるとき、どのような状況にあっても、私たちは生き返らせていただけるということを指し示している。


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