祝 クリスマス
私はふたたびあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶ。
その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。

(ヨハネ福音書16の22)


リストボタン キリストは何のために来られたのか

クリスマス(*)、それはキリストへの特別な礼拝のときである。
それは、キリストがこの世に来られたことの意味をあらためて思い起こし、記念し、感謝を新たにし、さらになおいっそうの力を与えられることである。
世界にひろがったキリストとその言動の記された新約聖書、その誕生を記念するクリスマス、その復活を喜び記念するイースターなど、キリストにかかわることは全世界に見られる。

(*)Christmassは、Christと mass からなる語で、キリストのミサという意味であり、キリストへの礼拝を表す。

そのキリストは何のために来られたのか、ここでは、旧約聖書に預言され、主イエスご自身もそのことを取り上げて、まさにその言葉の成就がなされたと言われた言葉を次に記す。

…「主の霊がわたしの上におられる。(*)
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」…
イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカ福音書4の18〜21より)

 ここに、キリストは何のために来られたかが示されている。
この箇所で、主イエスは、旧約聖書の重要な預言書であるイザヤ書61章に記されていることが、まさに自分によって成就したと言われる。
それはまず、神の霊がイエスの上におられることである。神の霊が上に、という表現は私たちにはなじみにくいが、神の霊、すなわち聖霊は人格的存在であり、神と同一の本性をもつゆえにこのような表現がなされている。神が私の上におられる、というのと同じである。
特別なはたらきをするためには、つねに神の霊、聖霊が私たちのうえに、とどまっていてくださることが必要である。あるいはその聖霊は、とどまるだけでなく、私たちの内に入ってくださるということでもある。

(*)口語訳は、「主の御霊がわたしに宿っている」と訳している。言語は、epi であるから、〜の上 というニュアンスがあり、英語の uponと語源的に共通である。)

主の霊、聖霊の重要性はこのように、キリストの本性と深く結びついている。キリストの伝道のその出発点においても、聖霊がはとのように降ってきたと記されているし、キリストが十字架で処刑されたのち、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れていた12人の弟子たちが新たに驚くべき力を与えられて、福音伝道にいのちがけで邁進するようになったのも、それは彼らの意志や決断、あるいは勇気でも組織の命令でもなく、聖霊が注がれたからであった。
そして、キリストが来られた目的、それは貧しい人に福音を伝えることが最初に置かれている。このことは、山上の教えにおいて、最初に、「ああ、心の貧しい人たちは! 天の国はその人たちのものである。」と言われたことを思いださせる。
ルカ福音書では、「貧しい人たちは、幸いだ」とあるように、キリストは物質的に貧しい人、そして心に誇りや自慢、自己中心の心などを持たない人という意味での心の貧しい人の双方のために来てくださった。そのことが、すでにキリスト以前、数百年も昔から預言されていた。
キリストは何のために来られるのか、そのことは、イザヤ書ですでにあげた箇所以外にもいろいろと記されている。

…一つの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
英知と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、おそれ敬う霊。
弱き人のために正当な裁きを行い
貧しい人を公平に弁護する。(イザヤ書11章より)

ここでも、のちに現れるメシア(キリスト)の特質は、神の霊がとどまっている人であり、その神の霊のゆえに、英知あり、真実であり、弱き人を助けるというのである。

さらにもう一カ所をあげる。

…見よ、私の僕、私のささえる者を。
彼の上に私の霊は置かれ
彼は国々に正義を示す。(*)
傷ついた葦を折ることなく
暗くなっていく灯心を消すことなく
正義を示し、たしかなものとする。(イザヤ書42章より)

(*)新共同訳では、「裁きを導き出す」と訳されているが、言語は、ミシュパットであり、この語は、正義、公正、公平、公義、裁きなどいろいろに訳される。英語訳では、justice と訳されることが多い。口語訳では、「道を示す」、新改訳では「公義をもたらす」と訳されているが、公義 という言葉は辞書にも掲載されていないほどで、一般には使われていない言葉である。

ここでも、メシアとは、まず神の霊が置かれているということが示され、メシアの持っている正義や弱き人をささえ、助けるという特質もその神の霊からくるということが記されている。
以上のように、来るべきメシア(キリスト、救い主)は何のために来られるのか、それは弱き者、傷ついた者、消えていこうとするような者を顧みて、新たな命を与え、不正に満ちたこの世に正義を、正しい道を(口語訳)を示すためなのである。
そしてそのためにこそ、神はメシアに神の霊を豊かに注がれた。
人間の生まれつきの性質では、このような弱き者への愛や、消えていこうとする者に命を与えるなとどいうことができない。わずかにできたとしても、それは必ず一時的であり、また相手が自分に対してのお返しがなければ続かない。よきことをした相手が恩知らずのような態度をみせるととたんに嫌悪感や落胆あるいは軽蔑などに変わったりしてしまう。
メシアとは、そうしたいかなる人間的感情を越えて、人間を助け、救いだそうとして下さるお方である。それは神の霊の力なくしてはできない。
メシアに対する、このイザヤ書に繰り返し記されている神の霊、聖なる霊の重要性は、そのまま、新約聖書にも受け継がれている。
キリストは何のために来られたのか、それは罪の赦しを与え、さらに、聖霊を与えるためである。
このことは、最後の夕食のときに語られた言葉として、ヨハネ福音書で繰り返し記されている。

…父は、助け主を遣わして、永遠にあなた方と共にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…
父が私の名によって遣わされる聖霊があなた方にすべてのことを教え、ことごとく思い起こさせる。(ヨハネ福音書14章、16章など)

そして、実際にこのイエスの予告は、のちに実現される。イエスが十字架で死んだあと、復活し、さらに、約束された聖霊を祈って待ち続けるようにと命じられた弟子たちが仲間の人たちとともに熱心に日々祈りをもって待ち続けていたとき、突然与えられるときが来た。そして、そのときから弟子たちも別人のようになって新たな力にあふれて命をかけて福音を伝えるようになっていき、そこから火の燃えるようにキリストの福音が世界に伝わっていった。
キリストは何のために来られたのか、それは自らが十字架で死ぬことにより、人間の根本問題である罪の赦しを人類に与え、さらに聖なる霊(神の霊、キリストの霊)を与えて、新たに生まれ変わらせ、力を与えてその聖霊に導かれて生きるようになるためなのである。


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