リストボタン眠ることと目覚め

睡眠が十分にとれないとき、体調はすぐに悪くなる。食物や水、新鮮な空気がいくらあっても、眠ることができなかったら、食事もできなくなり、心身ともにもうろうとしてくる。そして生きていけなくなる。
当たり前のように思われている睡眠はきわめて重要なことはすぐにわかる。
ネズミの実験では、睡眠を取らせないと、食物を与えないよりもはやく、1〜2週間で死に至るという。食物を取らなくても、自分の体は一種の蓄電池のようなものであり、体を構成しているタンパク質や脂肪などを分解して生きるエネルギーに変換させることができるが、睡眠はそうした貯えがきかない。
人間には身体のように目に見える部分とともに、目に見えないもの、すなわち心、精神、あるいは魂といった目に見えないものがその根源にある。
体に睡眠が不可欠であるが、目に見えない精神、魂には睡眠に相当するものは何だろうか。
人の平均的な睡眠時間7〜8時間といえば、一日の3分の1程度にもなる長い時間が必要であるのは意外なことである。
それに対して、精神的(霊的)な方面においては、「たえず目を覚ましていなさい」という言葉が聖書には繰り返し現れる。

…しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(キリスト)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。(ルカ 21の36)


…身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。Tペテロ 5の8

…従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(Tテサロニケ 5の6)

このように、眠ることの重要性とはまったく逆に、常に目覚めておれ、ということが重要なこととして言われている。
体は、眠ることが必要である。しかし、霊的な世界では、いつも眠ってはいけないのであって、常に目覚めていることが重要となる。
夜中に花婿たるイエスが来られて、すぐに迎えることのできる人たちは幸いだ、と言われていて、その締めくくりとして、だからいつも目覚めていなさい、と言われている。
この「目覚めている」ことの重要性のゆえに、そのギリシャ語のグレーゴレオー(*)が人名にも多く用いられてローマ教皇にも、多くのグレゴリオという名前の人がいるほどである。

(*)「目覚めている」 gregoreo グレーゴレオー。この名をもったローマ教皇は多いが、とくに知られているのが、グレゴリウス1世(540頃〜604年)である。貴族の生まれで政治家であったが、示されるところあって修道院に入った。のちに、ローマ教皇となり、聖歌を編さんし、グレゴリオ聖歌となったと伝えられている。また、現在の暦のもとになったグレゴリオ暦は、教皇グレゴリウス13世の改革によるのでその名がついている。1582年からつかわれるようになった。

それなら、いつ霊的に休むことができるのだろうか。それこそ、主の安息、主の平和ということなのである。私はあなた方に私の平安を残していく、と主イエスは自分の死が近いときに、約束して言われた。
私たちの魂は、この主の平安を与えられているとき、肉体における睡眠によって休みが与えられ、脳や心身がリフレッシュされるように、私たちの魂がリフレッシュされるのである。
詩篇23篇に、主が私の牧者であり、主は私を緑の牧場に伴い、憩いのみぎわに伴う。魂を生き返らせてくださる」とある。この生き返らせるということは、英語では、 refresh という訳語を用いている聖書もある。魂をリフレッシュするのである。
眠ることなく、たえず目覚めてはたらいている、そのようなことは、人間にはできないことである。人間は、肉体は夜の眠りによって、また霊においては、主の平和をいただき、昼間は霊的に目覚めて働く―それがあるべき姿である。
そして、そのような人間をすべての時間において眠ることなく見守って下さっているのが神である。経済的に余裕のある人は、自分の家に何重もの警備設備などをして、外部の人間が侵入できないようにしている。
しかし、魂というものには、いかなるそうした警備も空しい。私たちの心の世界、精神の世界に対する最大の警備は、私たち自身が目覚めていることであるが、いかに目覚めにつとめてもなお人間の弱さがあり、かつて、主イエスが死を目前にしたとき、弟子たちに眠らないで祈っておれ、と命じたにもかかわらず、弟子たちはみな眠り込んでしまったことがある。
そのような弟子たちを、繰り返し起こしに来たのが、イエスであった。
現在の私たちも同様である。弱い意志と肉体を持っているゆえに、心ならずも眠ってしまう。しかし、いかなるときにも眠ることなく私たちを見守っていて下さるお方がおられる。

…見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
今からとこしえに至るまで…(詩篇121より)

このような見守り、守ってくださる神を信じ、主のうちにとどまり続けること、そこに私たちの魂の安息があり、また絶えざる目覚めもある。


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