リストボタンまず「学び」だろうか

聖書関係の集まりでは、まず学ぶことの重要性がよくいわれる。学びが大切なことはいうまでものない。
私たちはどこまでいってもごくわずかしか知らない。身近な太陽や星など宇宙や気象の現象、植物、大地、大空…そうした毎日目にするものの一体何ほどを知っているだろうか。だれでもきわめてわずかだ。専門家が詳しいといっても、その専門のごく狭い範囲のことだけに詳しいのにすぎない。
そういうことは聖書についても言える。聖書の最初の言葉、闇と混沌、そうして神の霊(風)が吹きすさんでいたこと、そこにただ神の言葉によって光が存在したこと、その短い言葉にどれほど深くまた広い意味が込められているか、だれでも一部しか分からない。聖書全体についていえば何度人生を生きても、わずかしか分からないということになる。
世界の歴史、政治や社会、音楽や美術などの芸術、さまざまの哲学、戦争や平和、科学や技術のこと、またそれらと人間の関わり、…いかなる領域でも私たちはだれもきわめてわずかしか知らない。道端の石ころ一つとっても、その石の成分、由来等々を学び知るためには、たいへんな作業を要することになる。
目に見えない領域でも同様である。神の愛や、信仰、希望等々、どれほどを本当に知っているといえるだろうか。
それゆえに、学ぶことは無尽蔵にあり、それを学ぶことによって精神は新たな刺激を受け、啓発され、新たな世界を開かれるということがある。精神的なことも含めていえば、学ぶことは不可欠であり、日々の命である。そうした広い意味での学ぶことをしない魂は進まない、枯れていくといえるだろう。
しかし、それでもなお、キリスト者としてまず第一になすべきことは、学ぶことではなく、祈ることである。そうして神ご自身である聖なる霊をいただくことであり、その聖霊に導かれることである。
学ぶことは、聖なる霊の助けがなければ、誇りにつながりやすい。聖書の知識や歴史、あるいは語学…そうしたものを知れば知るほど謙虚になっていく人もいるであろうが、しばしばそれらを持っていることでひそかな、あるいはあからさまな高ぶりや誇りとなっていく。
パウロも、
「知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる。」
(Tコリント 8の1)と言っている。
主イエスの次の言葉は、なにが本当に私たちを導いて真理をさとらせるかについて実にはっきりと指し示すものである。

「聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」(ヨハネ14の26)
「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」(同16の13)

主イエスはまた、まず神の国と神の義を求めよ、と言われた。このことは、聖霊を求めることと同じである。神の国を求めることはすなわち聖霊を求めることである。聖なる霊を受けることによって、私たちが罪あるにもかかわらず正しいとしていただける十字架の意味が本当にわかる。聖霊によらなかったら、イエスが私たちの主であることがわからないから、イエスが十字架で死んで私たちをあがない出されたということも理解できない。また、神を父と呼ぶこともできない。

…聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない。(Tコリント 12の3)

キリスト教の福音が世界に伝わるようになったのは、まず学びをしたからか、そうではない。大多数の一般の人たちにとっては、学ぶための本も知識もなかった。キリストの12弟子たちも同様である。彼らはイエスに3年間学んだが、復活を信じることも十字架によるあがないを信じることもできなかったし、したがってそれらのキリスト教信仰の中心にあることを宣教するということもできなかった。
彼らは、聖霊を受けてはじめて、あらたな力を受けて、キリスト教の中心を宣教することができるようになったのである。
復活した主が、彼らに命じられたのは、約束のもの(聖霊)を祈って待て、ということであった。祈りは書物とか他人の話しによって学ぶということとは異なる。書物が一つもなくとも可能である。それによってあらゆる真理を知るに至ると主イエスも約束されている。
学ぶこと、それは書物がなかったらできないし、先生がいなかったらできない、ということが多い。英語などの外国語、自然科学、医学、法学、スポーツ等々みな先生に教えてもらって上達していくのである。
しかし、最も重要な「愛」は、教わっても身につくものではない。いくら愛に関する講義を受けても、だからといって愛がその人のうちに育つというものでもない。
しかし、聖霊が注がれるときには、おのずから本をまったく読んでいなくとも、愛は生じる。そして神からの愛を受けるときには、私たちは最も人間にとっての根源的なものを学ぶことができる。
「愛はすべてに勝つ」という言葉は、無知から来るさまざまの弱点にも勝つということをも含んでいるのである。
主イエスは、わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ 11の29)と言われた。
どんな無学な人、書物も読めない人、苦しい状況にあって人の話しを聞いたり本を読んだりすることもできない状況であっても、なお復活して、生きて働いておられるキリスト、聖霊からは学ぶことができる。
今の生きておられる主から直接に学ぼうとすることそのことは、祈りとなる。
聖霊は風のように吹く。それゆえ、私たちが真実に求めるなら、人がどんな状況にあっても風のように吹き込む。 その聖なる霊こそ、私たちを真の学びへと導き、誇りの心などを打ち砕き、愛をもって仕えるようにと導いてくださる。


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