リストボタン主こそわれに与えられたものー 詩篇第十六篇

神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。

わたしは主に言う、
「あなたこそわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。

主はわたしの分け前、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。

わたしは主をたたえる。
主は私の思いを励まし
私の心を夜ごと諭してくださる。 (7節) (*)
(*)最後の行、7節の原文は、「私の内臓(腎臓)が私を教える。」となっているから、原文に忠実な訳は、my reins also instruct me in the night …(KJV)と訳している。しかし、「内臓」は聖書においてはしばしば人間の奥深い心を指すことがある。それゆえに、たいていの英訳は、次のように、心(heart)と訳している。 …even at night my heart instructs me.(NIV) 日本語訳もこの訳を採用している。
さらに、自分の奥深い心とは、神に結びついたこの詩の作者においては、神ご自身がそのように働きかけるのであるから、この新共同訳のように、「主が私の思いを励ます」とも訳されている。

わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいて下さるゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。

あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。…

「守ってください」という強い祈りからこの詩は始まっている。多くの詩は、自分の身に危険が迫っている、敵が攻撃してくる、だから守ってくださいというようなものが多いが、この詩には特別な苦しみ、あるいは敵対する人、そうしたことは書かれていない。
しかし私たちはこの世にある限り、私たちを正しい道から引き離そうとする悪の力の攻撃にさらされている。そういう意味でどのような状況にある人でも、この守ってくださいという一言は必ず必要である。
元気で何不自由ないときも、傲慢になったり神様のことを忘れたりすることのないように、主の守りが必要となる。
キリストより千年も昔の王であったダビデのことも思いだされる。
彼は、王となる前に仕えていたサウル王にねたまれ、命をねらわれて非常に危険な状況が続いた。しかし、そのようないつ殺されるか分からないといった状況にあっても大きな罪を犯さず、あくまで神により頼んで、殺されそうになりながらも生きた神への信頼を持ち続けていた。
しかし、サウル王が死に、ダビデが王となって周囲の国々を平定し、安楽な生活がはじまって非常に重い罪を犯した。安楽な状態だから神様守ってくださいと言う必要がないわけではないのである。安楽な状態にはまた別の大きな誘惑はある。危険なとき、病気のときにも誘惑はある。豊かなとき、あるいは貧しいときそれぞれに、正しい道から外そうとする力が働くので、「私を守ってください! あなたを避けどころとしていますから…」という祈りはすべての人にとって、人生のあらゆるときに必要なことである。
神の守りなど不要だということは、この世の霊的な危険を知らされるときには、到底言うことのできないことである。
主イエスも誘惑に陥らないように絶えず目を覚まして祈れと言われた。(マルコ14の38)

…私は主に言う、
あなたこそわたしの主(*)、あなたのほかにわたしの幸はない。(2節)

(*)引用聖句の2行目の「主」の原語(ヘブル語)は、アードーンで、「私の主」となると、アドーナーイ、一行目の「私は主に言う」の 「主」は、ヤハウエ。

これがこの作者の魂の原点である。何を自分の「主」とするか、何に自分の全存在を委ね、仕えるのか、である。
現代の私たちにとっても、何を自分という存在の最も根源的なものとみなすかによって、その生涯が変わってくる。
旧約聖書の詩篇の中でも最もひろく愛されている詩篇23篇の冒頭にもやはり「主はわが牧者なり」とある。宇宙を創造し、すべてを愛をもって支え動かされている神を、自分を導くお方とすることに、いっさいがかかっていて、そこからあらゆるよきものが生じるという内容である。
その基本的姿勢はここでも共通している。
わたしの幸い(良きもの)はあなたにある、このように確言できるのは、すでに大きな恵みを受けているしるしである。この世の中がどのような状況になろうとも、神はいかなる影響も受けないゆえに、自分のあらゆるよきものは神にあると心から言えるということは、どのような状況がおとずれても、その人の幸いは壊されないということである。
このような確信に対して、健康、あるいは平和な家庭、安定した収入こそ私の幸福だと感じている人は至るところにいる。というよりそれこそ、一般的な人間の幸福感を支えるものだ。けれども、こうしたよきものは、実にもろい。ふとしたことでなくなってしまう。
しかし神に私の最もよきもの、幸いがあると言うことのできる心は、たとえ家族が失われることがあろうとも、あるいはこの世が戦争に巻き込まれることがあろうとも、そうしたこの世の出来事によって損傷を受けないゆえにその幸いは続いていく。そのような事態がじっさいに生じたときには動揺もあろうし、失望、落胆、悲しみに立ち上がれないほどの痛手を受けることもあるだろう。しかし、そこから真剣に主を見上げていくときには、必ず救いが与えられる。心の平和がよみがえってくる。
地震が起こって家が壊れる。これは大変なことだが、神の存在はそれによっていささかも揺るぐことはないゆえに、そのような時にも神に寄り頼むことを知っている魂は支えを得るであろう。

…地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。(3節)

この詩の作者の心に大きな喜びを感じる人たちとは、単に容貌が美しいとか、能力がある、地位が高いといったことでなく、聖徒、神に従う人たちであった。神にこそ、あらゆる良きものを感じる作者であるからこれは自然にそうなる。また、人間だけでなく、神の直接の被造物である自然のさまざまのものもまた喜びとなっていくだろう。
これに対して他の人たちは、他の神々の後を追うと言っている。そこには苦しみが加わるばかりで祝福がない。

…主はわたしの分け前、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。(5〜6節)

この詩の作者の心の中には、神だけが私の幸いというものがあるから、次々と波のように確信がさまざまな表現で押し寄せてくる。
人間にはさまざまなものが分け前として与えられる。ある人には特別な能力、ある人には生まれつき大きな財産、ある人には健康、ある人には貧しさ、ある人には体の障害というように、それぞれに本人が選んだのではないものが与えられる。
しかし一番良いのは、神という無限の大きなものが自分たちに与えられる分け前である。能力や健康や美貌が与えられていなくても、神が私たちに与えられた分け前なのだということを心から思えたら、それは一番の幸いである。
それは神とはあらゆる良きこと、愛、平安、真実、あるいは力や美の源だからである。
子供が親の財産を相続するのはごく自然なことである。聖書には、それと同様に、旧約聖書の古い時代から、神から与えられた財産という考え方がある。それはとくにカナンの地(現在のパレスチナ地方)であった。現代のパレスチナ問題、それは三千年を経てもこのことに固執するユダヤ人たちの考え方と、それに何の意味をも認めないアラブの人たちとの対立なのである。
しかし、この詩に見られるように、旧約聖書の時代から、すでに神から賜った財産(「嗣業」(しぎょう)とも訳されている)というのは、目で見える土地が究極的なものでなく、神ご自身が自分たちに与えられた分け前、嗣業なのだという考え方がはっきりと示されている。
ユダヤ人たちが、もしこの詩篇に見られるような、目には見えない神ご自身を自分たちに与えられた財産なのだ、という啓示にしっかりと結びつけられていたならば、今日のパレスチナ問題という重い問題を抱えることはなかったであろう。
目には見えない神こそ、自分たちに与えられた最大の遺産だと受け取るときには、パレスチナの土地の争いということは生じないからである。
これは、パレスチナ問題といった世界的な問題にかぎらない。私たちが目に見えるものー金や地位や持ち物、人間といったものに執着して、それらを自分の持ち物だと固執し、あるいは自分のものにするために力を注ごうとすればするほど、周囲の人間と対立が生じ、争いとなる。
神こそ、信仰を持った者たちへの分け前なのだ、というこの考え方、信仰は、この詩の作られた時代よりはるか後になって、キリストによって完全なものとされた。そのことは、そのキリストに啓示を受けた使徒たちによって新約聖書のいろいろな箇所に記されている。

…この(神の)霊こそは、私たちが神の子供であることを証しして下さる。もし子供であるなら、相続人でもある。(ローマの信徒への手紙8の16〜17より)

ただ神を信じ、キリストを私たちの救い主として受けいれるだけで、私たちは神の長男であるかのように、相続人となるのだという。神あるいは神の国を受け継ぐというのである。途方もない大きなものを与えられるという約束なのである。

…主はわたしの分け前、またわたしの杯に受くべきもの。(5節)

 神は私の杯、わが杯の受くべきもの、という表現は日本人にはなじみにくい。この詩が作られた地方は雨量がごく少ない地方であり、4月から10月にかけては全く雨が降らないという日本では考えられないような乾燥地帯である。
そこでは水すら十分にない。そもそも常時流れている川などヨルダン川以外になきに等しいからである。そして現在の私たちなら、各種ジュースやコーヒー類など実に多様な飲み物がはんらんしているが、この詩の作者の生きた時代にはまったくそのような飲料はなかった。わずかにぶどう酒があるだけであったから、器にぶどう酒を入れて飲むというのはとても喜ばしいことであった。
それゆえに、この詩で、それよりも比較にならないよき飲み物、それは、神の持っておられるあらゆるよきものであり、さらには神ご自身をいただくことだと言おうとしているのである。それは霊的な飲み物、人の魂を生かし力付ける比類のない飲み物だと知っていたのである。
このように、現代の私たちの感覚で読むなら全く意味不明となるが、数千年前のしかも日本とは正反対のような乾燥地を思い浮かべるときに、こうした表現が生き生きと当時の人たちの心情を映す鏡となってくる。
このことは、詩篇で最もよく知られている第23篇にも見られる。

…(神は)私を苦しめる者を前にしても
私の杯をあふれさせて下さる。(詩篇23の5)

杣友豊市さん(前の徳島集会の代表者)が、「わが杯は溢れる」と色紙に書かれたのを、知人が額に入れて玄関先に飾っておいたら、来客から、「とても酒が好きなのですか」と言われたと聞いたことがある。
そのように、前後関係や書かれた当時の状況を知らないときには、意味不明な言葉となる。
私を苦しめる者、敵対する人を前にしていても、彼らの攻撃や中傷のなかにあっても、神は信じる者の心を神のよき賜物で満たして下さるという揺るぎない神の祝福を指して言われていることである。

…測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。(6節)

6節もこのままでは分かりにくい。アメリカの現代語訳の中には、測り縄や嗣業という言葉は使わないで、分かりやすく How wonderful your gift to me, how good they are.(あなたの賜物は私にとってなんと驚くべきものであろうか。それらは、なんと良きものだろう)と訳しているのもある。
測り縄、それは、測量するときの道具である。土地を測量して適切な分量を分かち与えるイメージがここにある。神がこの世のさまざまのものを測って、自分に最も適切なものを分け前として下さった。それが神ご自身なのであった。それゆえにこの詩の作者は、私には 何とすばらしいものを神が測りとって下さったのか、と深い感謝を捧げているのである。
神を知るまでは、たいていの人は、自分に測りとられたものに満足していなかったであろう。例えば、病気であったり、あるいは能力不足、またいやな人間関係や家族、不適切な仕事等々、そんなものが運命によって測りとられて自分にあてがわれたと不満な気持ちを多く抱えていたであろう。
しかし、ひとたび深く神を知ったときには、そうした不満が薄れていき、眼前に神ご自身を自分への分け前として下さるという想像もできないような分け前を測りとって下さったのに気付くのである。この詩の作者はそうした深い感動を記している。

… わたしは主をたたえる。
主は私の思いを励まし
私の心を夜ごと諭してくださる。(7節)

神がとくに私のために、測り縄で測って良いものをくださったということを実感したら、確かにこのように賛美の心があふれてくる。
詩篇を少し時間をかけて、当時の作者の心の奥の深いところまで、私たちも努力して入っていこうとすると、作者たちは、本当に豊かな世界を与えられた人たちなのだと分かってくる。
昔は今のように電灯がない。電灯がないということは夜が非常に長いということである。昔はガラス窓などなかったから、ふだんでも室内は暗く、冬であれば、夕方の四時半にもなったら室内はもう暗くなるはずである。長い夜の時間に、本やテレビ、ラジオなども一切ない世界では、明かりがないので仕事もできないので、神との交わりを持とうとする人は、夜ごとに神様からの語りかけや励ましを聞いていたのがうかがえる。
最近朝六時ごろラジオを聴いていたら、アフガニスタンではさまざまな状況から、勉強するのが困難なため、支援を受けて日本で勉強している人の話があった。来日してまだ一年しかたたないのに、すでに日本語を大方話せる。アフガニスタンでは夜でも一、二時間しか電気がつかないので、夜でも電気がついて勉強ができるのがびっくりしたと言っていた。
私たちにしたら信じられないようなことである。アフガニスタンへ帰ったらどうするのかと聞くと、月の光ででも勉強がしたいと言っていた。私たちとは発想が違う。
アフガニスタンに住んでいたある日のこと、夜中に大きな爆音がしたので外に出てみたら、隣の家が粉砕されて家族みんなが死んでいたと言っていた。そのような状況から日本に来た人であった。貧しさというものは一方で真剣さというものを生み出す。豊かになったら電気がつくのは当たり前になって、私たちの中で夜に電気がついてありがたいと思う人は一体いるだろうか。みんな慣れっこになって、恵みと感じられなくなっている。
このように夜の長い貧しい時代においては、神が夜毎に話してくださるというのは、本当に大きな恵みであった。

わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいて下さるゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。(8〜9節)

私たちは何を自分の前に置くのか。病気に苦しめられているときには、おのずから日ごとにそのことが思いの中にある。
また、家庭や職場、人間関係や、仕事のこと、将来のことなどの心配ごと、また遊びや飲食などに関することであることが多いであろう。
この詩の作者の時代にも、病気になっても医者にかかることもできないし、仕事の面でも体を使っての力仕事が多く、自然災害に大きな影響を受けるし、戦争などの混乱もしばしば生じていた。いつの時代にも、そうした目先の問題が私たちを悩ませている。
しかし、そのような中にあってもこの詩の作者は、まったく異なるものを見つめつつ、生きていたのがこの詩の言葉からうかがえる。
いつも神が自分のそばにいてくださるので、揺らぐことがない、動かされないという確信。キリスト者であっても、人間はちょっとした一言で動揺する。地震対策は繰り返しマスコミで言われているが、心の動揺の対策はまるっきり言われない。
しかし心の動揺をなくすような強固な拠り所を持つことこそが、地震のあるなしにかかわらず重要なことである。
私たちの心が揺らがないようにするにはどうしたらいいのか。それは主が私たちの右にいてくださることによって可能となる。右というのは、力の象徴であり、私たちの力の根源として主がともにいてくださるということである。
そのときには、魂の動揺のために不安、心配といった気持ちでなく、喜びが湧いてくる。生き生きしたものが生じる。そのような心の世界がこの詩からうかがえる。
この作者は、神様がすぐそばに生きておられるのを実感しつつ、神からの教えや戒めなどを受け取ることができた。神との霊的な交流、会話ができていたゆえに、旧約聖書の時代にいながら、はるか後に実現するような復活の信仰への萌芽というものが早くも啓示されていた。

あなたはわたしを陰府(よみ)に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。(10〜11節の一部)

神は、「わたしの魂を陰府に渡すことがない」というのは旧約聖書の世界では画期的なことで、人間は死んだら暗い陰府の世界にみんな行ってしまうのだ、復活などないというのが一般的で、キリストの時代になってもサドカイ派たちは復活などはないと言い張っていたぐらいである。
しかし、この詩の作者は、このように神との近い霊的な交わりを与えられていたために、何百年という時代を飛び越えて、自分は死によっても暗い何の希望もない闇の世界である陰府には行かないのだと知らされていた。 永遠の命、命の道があると啓示されていたのである。
そして永遠の喜びを右の手からいただくとある。この詩の作者は今から2500年も越えるような遠い昔に、神の力を与えられ、神との交わりや喜びやさまざまなものを得ていたのだとわかるが、それは驚くばかりである。
聖書の世界は、日本人の大多数においては閉じられている。しかし、その世界への扉を開いて入っていくと、全く違う世界があるのを知らされる。そこでは、このような神との深い交わりなどを経験された人の精神、魂の世界が待っている。

…あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(11節)

この作者は、神をいつも自分の前に置いていた。そこから満ちあふれる喜びが与えられた。また神の力を受けるときには、永遠の喜びへと導かれる。
この詩は短いながら、内的世界の豊かさというものが記されている。こんなに豊かな世界に私たちもまた招待されているのである。この豊かさを与えられるために、この詩の冒頭に置かれていた言葉、「神よ、守ってください」という祈りを私たちも絶えず持っていることが必要となる。神の絶えざる守りがなかったらこういう世界を受け続けることができない。うっかりするとわたしたちも別のものへ誘惑される。
この詩の最初にある、「神よ、守って下さい!」という切実な願いは、この詩の最後に記されている喜びに満ちた世界への門なのであり、絶えず目を覚ましてこの祝福された世界を求めていきたいものである。

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