リストボタン神曲 煉獄篇第29歌
地上楽園において


煉獄の山を神から遣わされたローマの詩人ウェルギリウスによって導かれ、地上楽園に至ったダンテは、そこに不思議な川が流れているのを知る。すべての悪しきことを忘れさせてくれるーあたかも存在しなかったかのようにしてくれるレーテの川であった。そしてその川のほとりを一人の女性マチルダが歩いてくる。
その時、その女性は愛に動かされている者のように、賛美を歌い始めた。
それは、「ああ幸いだ、その罪を覆われた者は!」という聖書の詩篇第32篇(*)からの賛美であった。

(*)詩篇32篇より。
いかに幸いなことか。罪を赦された者は。
わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに身体が朽ち果てるほどになった。
御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあった者のように衰えた。
わたしは罪をあなたに告白した。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。
あなたは、わが隠れ場。
救いの喜びをもって私を囲んで下さる。
主に信頼する者は慈しみで囲まれる。

この詩篇は、とくにキリスト教信仰の根本にかかわる重要な内容を持っているために、歴史的にも多くの影響力のあった人たちにも深い印象を残してきた。詩篇全体の中でも悔い改めを深く表している七つの詩篇にも含まれ、アウグスチヌスはこの詩を最後の病床の壁に貼ってあったとのことである。
人間は精神的動物であり、その人間の根本は心にある。その心の問題の最終的な解決とはその心の汚れや不正からぬぐわれることである。それが罪の赦しであり、清めである。
この心の改革があってはじめて、人間がなすことも祝福されてすすんでいく。それゆえに、キリストも罪の赦しのために、この世界に来られたのであった。
そのような内容を持つ詩が、この清められた者が到達する地上楽園で歌われた。それは、この32篇の後半に見られる罪からの解放の喜びの世界がこの地上楽園にふさわしいものであったからである。
その賛美を歌っていたとき、マチルダは、突然言った。

…わが兄弟よ、見なさい、耳を傾けなさい!

たちまち、そこには光が大いなる森の四方八方を駆けめぐった。
それは稲妻のようであった。そしてさらにその光は輝きを増した。マチルダの賛美に続いてこの強い光が現れたのである。このことは、暗示的である。私たちにおいても、罪赦され、清められたときには、やはり天よりの光が感じられるようになるからである。主イエスが私はいのちの光、と言われたが、主イエスによって魂の根源が清められたときには、そのイエスの光がそこに与えられるからである。
そして、その光に満ちた大気に、新たなうるわしい(dolce)音楽が響きわたった。(*)

(*)ここに、この箇所の直訳と原文、英訳を掲げる。

一つのうるわしいメロディーが走った
光の大気を通って…。

E una melodia dolce correva
per l'aere luminoso;

And a sweet melody ran
through the shining air;

この響きわたった音楽の性質を表す「うるわしい」と訳された原語は、dolce(ドルチェ)である。ダンテはこの言葉を神曲で多く用いている。煉獄篇だけでもその派生語を合わせて50回余りも用いられている。また天国篇でも40回余り現れる。(「A CONCORDANCE TO THE DIVINE COMEDY」による。)
煉獄や天国での清められた世界、愛に満ちた状況を表す言葉として、この語の持つ多様性がふさわしかったと考えられる。
ドルチェとは、英語のsweet に相当する言葉で、甘い、心地よい、香りよい、蜜のある; 優しい、柔らかい、温和な、穏やかな、物静かな、新鮮な…など多様な意味を含んだ言葉である。
翻訳というのは、こうした多様な意味から一つの訳語を採用することになるから、原語のニュアンスが場合によっては大きく狭められることがある。
日本語の訳を以下に書いておく。
・さらに一のめでたき旋律は、明るき大気をわけて流れぬ。(生田長江訳 一九二九年新潮社刊)
・また一のうるわしき声 明るき空を分けて流れぬ。
(山川丙三郎訳 一九一四年訳 岩波書店が戦後復刊)
・光に満ちた大気をつんざいて喨々の楽の音が走った。
(平川祐弘訳 河出書房)
・やがてうるわしい楽の音が、光り輝く空くまなくとよもす。 (寿岳文章訳 集英社 一九七六年)

・すると甘美なる旋律(メロディア)が 輝く空を貫いて馳せた。 (中山昌樹訳)
・すると一つの美しい声が明るい空を縫って流れてきた。
(野上素一訳 筑摩書房 一九六一年)

このように、さまざまの訳語、表現がなされているのがわかる。ここの情景は、後に続くエバに対する義憤から見て、ダンテのとくに喜ばしい霊的な体験をあらわしていると考えられるので、さまさまの訳語、訳文をあわせて掲載した。
重要な言葉、表現であるほど、一つの訳語や訳文だけで原著者の感じ方、考え方を決めることができないということを示すためである。
これは単なる言葉の問題に終わるのでなく、こうした光や音楽を内に持っているということは、私たちが悪の力に誘惑されないための不可欠な力となるのであって、毎日の生活での実践的な問題につながっていく。
地上楽園においては、このように音楽と光がその世界を象徴的に表している。私たちの魂においても、魂が清められ、神と結びつくほどに、光と清いメロディーが流れるようになるのであろう。詩篇の最後の方では、絶えることなき賛美、ハレルヤ! がこだましているが、それはこうした魂の到達点を暗示するものとなっている。
ダンテはこの霊的な音楽と光に満ちた体験をしたとき、人間をこのような清い喜びから妨げた罪の力への強い憤りが生じてきた。それは聖書ではエバがまずサタンの誘惑に負けたゆえに、こうした霊的楽園の世界から放逐されたと記されてている。
そのエバの罪で象徴されている深い罪が人間のなかに入り込んでいる。それゆえに、私たちは清い喜び、魂の平安を味わうことができなくなっている。しかし、キリストを信じてその力によって私たちはそのもとの幸いな世界へと導かれるのである。ダンテの罪への憤りがここに強く表されている。

このとき、私は義憤にかられ、エバの浅はかなわざを責めた。
彼女が、甘んじて御旨のままに従っていたならば、
私はすでに、またもっと長くこのような言葉で言い尽くせない
喜びを味わったことであろう。(22〜28行より)

エバの罪を指摘することによって、罪の力、人間を真の幸いから引き離そうとする悪の力そのものへの強い憤りをここに記したのである。
その麗しい音楽が次第に歌となっていった。そしてダンテはこれから先の記述にあたって、詩の女神に助けを求めている。これは、女神というものを信じていたということでなく、本来言葉で表せないような状況を表そうとしていることであり、ダンテが霊的に示されたことを少しでも適切に表現したい、そのためには自分の力を超えた神の力を与えられねばできないゆえに、天来の力を待ち望むという切実な願いを、このような詩的表現を用いて表しているのである。
このような詩作でなくとも、他者に真理を伝えたいと願って書く文章、音楽や絵画、あるいは具体的なよき決断、正しいことに向けた行動、霊的な向上など何にしても、私たちが現状からより高く、より前進していくためには、すでに与えられている力ではとても不足であり、新たな力を願い求め、与えられねばならない。

ダンテが聖なるメロディーと光に接したのちに、見えてきたのは、聖なる行進であった。先頭には、七本に分かれた燭台があり、そこにともしびが燃えていた。そこでも新たな賛美が響いてきた。
それは、ホサナの歌声であった。その賛美は、主イエスが小さなロバに乗って十字架にかけられることを覚悟して、エルサレムに入ったときに、人々が上着を脱ぎ、ナツメヤシの葉をもって、イエスを迎えたことが引用されている。

… なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12の13)(*)

(*)ホサナ の本来の意味で用いられているのは、詩篇118の25「救ってください!」。ホサナとは、ヘブル語の本来の発音では、ホーシーアー・ナー となる。ホーシーアーとは、ヤーシャー(救う)という動詞の命令形、ナーとは、「今、さあ」といった意味であるから、本来は「今、救ってください!」という意味である。ホサナの原意から次第に、歓迎や喜びを表す間投詞のような意味で用いられるようになった。

ダンテが見たこの燭台の輝きは、ふつうのろうそくのような弱々しい光とは全く異なっていた。それは、澄み渡った夜半の満月よりもはるかに明るく輝いていた。
その強く輝く7本の燃え輝く炎に続いて、一続きの真っ白い衣を着た人たちの列が続いているのが見えてきた。そして燃える炎はこれまたふつうのろうそくのようなものでなく、その炎が後ろの大気をおどろくべき美しさで彩りつつ長く後ろに尾をひいていた。それは大気のなかを七色の光のすじが流れているようであり、動く絵筆のようであった。
神のいのちの光はこうした性質を持っている。燃えるともしびはそれだけで終わらず、さまざまの色調を後に残し、はるか遠方の見えないあたりまで続いていたのである。

…これらの光の旗のごときもの、
わが眼の及ぶかなたはるかへと流れたなびいていた。(79〜80行)

このことは、キリストの命の光を受けたのは、はるか千二百年も昔のキリストのともしびが、歴史の中をこのようにさまざまの色合いをもって流れていくのを思わせる。
私たちもまた、キリストのともしびから生じたさまざまの色合いの光を受け、それぞれが個性を発揮しつつ新たな光として受け止め、力を受けて歩み始めたのだと言えよう。そして私たちが主から受けた光もまた、そのように自分だけで終わらず、後にさまざまの色調を持ちつつ周囲の空気の色を染めつつ後方へ、後の時代へと流れていく。
さらに、美しく彩られた大空の下を、次には24人の真白き服をまとった長老たちが続いてきた。彼らは、完全に清められたシンボルである百合の花を冠にしていた。
さらにそのあとには、緑の冠をいただいた四つの生き物が続いた。そして彼らは それぞれ六つの翼を持っていたが、その羽の一つ一つには眼がたくさんついていた。
緑の冠、その緑という色は希望の象徴である。そして、翼は、自由を表し、この四つの生き物は神とともにある自由を持っていたのだということである。
そして、この四つの生き物とは、四福音書を表していると受け取られている。福音書とはキリストが何を行い、何を教えられたか、が記されている。キリストを写し取ったものとも言える。それゆえ、キリストが完全な自由を持っていたゆえに、それを翼で表しているのである。さらに、キリストご自身は神と等しい存在であったから、神の万能をそのまま持っておられる。それはすなわち、あらゆるものをすべて見抜くことであり、距離や時間を越えて見ることのできる力を持っておられることを意味する。
それが、翼の羽に一面に目がついていたということの象徴的意味であると考えられる。
こうした一見不可解な記述は、黙示録やエゼキエル書の強い影響を受けてなされている。その黙示録には、エゼキエル書からのはっきりした影響が認められる記述がある。(*)
これは、預言者エゼキエルが受けた啓示が重要であるからこそ、神は黙示録の著者にもかさねて似た啓示を与えて、それらを読む人たちに強いメッセージを送っておられるのだと受け取ることができる。

(*)エゼキエル書には次のように記されている。
…北の方から激しい風が火を発し、周囲に光を放ちながら、吹いてくる。…その中には四つの生き物の姿があった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。…また、その生き物の傍らに一つの車輪が見えた。その車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目が付けられていた。(エゼキエル書1の4〜18より)
また、黙示録には、次のようである。
…私が見ていると、開かれた門が天にあった。天に玉座が設けられていてその玉座に座っているお方がおられた。…その玉座の中央とそのまわりに四つの生き物がいた。前にも後ろにも一面に目があった。…この四つの生き物にはそれぞれ六つの翼があり、そのまわりにも内側にも、一面に目があった。…(黙示録4の1〜6より)

ダンテにもエゼキエルや黙示録の著者と同様な啓示が示された。これは強く印象に残っていることが重要であればそれを神が用いて、さらにその印象を強めるために、似た内容の啓示を見させたのだと受け取ることができる。
こうした四つの生き物に囲まれ、一頭の特別な動物の姿(胴はライオン、頭部と羽はワシ)をしたグリフィンといわれる生き物にひかれて二輪の車が進んできた。
この生き物とは、キリストを表している。ワシは王のシンボルであり、胴もライオンでやはり王を表している。そしてその胴体は赤と白であったが、それはキリストの流した血と、完全に清い存在であるのを示すものであった。
さらにその翼は、まっすぐ上空に向け、目に見えない空のかなたへと伸ばしていた。これは天の神のもとへと復活したことを表している。
このように見えてくるものがすべて、キリストとそれにかかわることを意味しているのであった。十分な清めを受けたものに見えてくるのは、キリストにかかわる奥深い象徴的なものが次々と開かれていくということなのである。
そして、そのような驚くべきもので満ちた列が進んでいるとき、また新たな光景が開けてきた。
それは、三人の天女たちが腕を組んで舞いながら進んできたのである。
一人は、火の中にいれば見分けがつかないほどに赤く、もう一人は、緑の宝石のような深い緑色、残る一人は、降ってきた新しい雪かと思われるほどの純白であった。
これらは信仰、希望、愛という三つのいつまでも続くもの、最も大切なものを象徴的にあらわすものであった。愛は赤い色、それは燃えるような情熱であり、また火のような力であるゆえである。
緑はすでに出てきた四つの生き物の冠の色と同じであり、命に満ちた色、希望をあらわす色である。そして、雪のごとき白は、いかなる汚れもない完全な清めを表している。
そして、あるときには、白があるときには、赤の天女が音頭をとって他の二人がその歌に合わせて歩みをはやめ、あるいは遅くするのであった。それは、私たちの人生の歩みにおいては、ときには信仰が土台となって、希望をうみ、またその信仰に従って愛が与えられ。そしてまたあるときには、神の愛がもとになって信仰を強め、また希望も新たにするといったことを暗示している。
この一連の行列に続いて、二人の老人が従っていた。そのうちの一人は医者であり、使徒言行録の著者であるルカを意味し、またもう一人は、鋭い刃先をもった剣を持っていた。それは、使徒パウロであった。
パウロがなぜ、そのような剣を持っていたのか。これは、パウロ書簡のなかに記されている言葉に由来する。

…霊の剣、すなわち神の言葉を取れ。(エペソ書6の17)

神の言葉を最も深くかつ多く聞き取ったのは、パウロであった。それゆえに、彼が受けたみ言葉が書簡という形で最も多く新約聖書に含まれているのである。
そのために彼は、神の言葉たる霊の剣を持った者として描かれている。それはまた、二輪の車で表されている教会が霊の剣をもった戦う教会、すなわち、この世の悪の力と霊的に戦う集まりであることをも暗示している。
さらに、その後には、つつましい身なりをした四人が続きーこれは、新約聖書で分量の少ない書であるヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダの書の著者たちを示すー、さらに最後には、表情の鋭い一人の老人が従っていた。それこそは、黙示録の著者であった。
このように、地上楽園において次々と現れたのは、キリストであり、また福音書の著者であり、さらには最も重要な信仰、希望、愛であり、残りの新約聖書の書簡の著者などであった。
これによって神の言葉がいかに重要であるかが示されている。

なぜこのようなわかりにくい記述かあるのか。それはエゼキエル書や黙示録にあったように、現実の世の中は混乱と悪がはびこり、どこに神などいるのか、神の清さや力、その愛などあるのか、という疑いを持たせるようなことが至るところにある。
そして良きものが悪によって滅ぼされたり、苦しめられたりすることがいつの時代にもたくさんある。
そのような闇と混沌のただなかにあって、私たちの霊的な目が開かれることによって、荘厳な神の世界、清くうるわしい世界が厳然として存在するのだということを示すことにあった。
そうした確信を提示することによって、その世界に触れる者は確かに新たな力と確信を与えられていく。悪の支配でなく、この世を超えたところで、キリストがあらゆる力をもって御支配され、その啓示である聖書、すなわち神の言葉はいまもなお力強く世界を支配しているのだということを世界に向かって発信しているのである。

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