リストボタン瞳のように守り、翼の陰に隠し 詩篇 第17編

(祈り。ダビデの詩)主よ、正しい訴えを聞き
わたしの叫びに耳を傾け
祈りに耳を向けてください。…

旧約聖書の詩、それは祈りである。だが、一般の詩、それは人間の悩みや憂鬱、悲しみ、自然への関心、異性への感情などが歌われる。それらは、大多数のものは祈りではない。祈りとは神に向けて心を注ぎだすことであり、神からの目には見えない賜物を受け取ろうとすることである。この世界を愛をもって見つめ、御支配されている神など存在しない、と思っている人には、祈りは生まれない。存在するかどうかわからないものへの願いにとどまってしまう。
万能にして愛と真実の神がおられることを本当に実感している者にとって、心を最も動かすのは、その神が私たちに働きかけるときである。そうした感動を書き綴ったのが、聖書の詩篇であるし、詩篇以外にも、イザヤ書などの預言書などにも多くみられる。
この詩にはタイトルが付けられ、「祈り、ダビデの詩」とある。また、詩篇72篇は、詩篇の第2巻の最後の詩であるが、ここにも、「エッサイの子ダビデの祈りの終わり」という言葉がある。ほかにもこのような表現がある。
こうしたタイトルも、この時代の人たちが祈りと詩を一つのものとみていたのがうかがえる。

…私の唇に欺きはありません。
御前からわたしのために裁きを送り出し(2節)
あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね (3〜4節)
わたしを試されますが(*)
汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく
あなたの唇の言葉を守ります。

(*)新共同訳には、「火をもってわたしを試されますが」とあるが、原文に「火」という言葉はない。それゆえ、ほかの日本語訳にはこの語はなく、また大多数の英語訳にもない。40種類ほどの英訳のうち、2〜3の訳が fire という訳語を用いているにとどまる。

 1節に「わたしの唇に欺きはありません。」とあり、3節では「心を調べても汚れた思いは何一つ見られない」。そして9,11節では「あなたに逆らうものがわたしを虐げて、敵がわたしを包囲しています」とある。
これらからこの詩の作者は、何らかの激しい攻撃、打ち倒そうとする悪意、人間的な敵意の只中にさらされており、してもいないことをしたというふうに中傷、攻撃されいろいろな意味で打ち倒されそうになっているという状況に置かれているのがわかる。
自分には全く思い当たるところがないのに、激しく攻撃してくる。言葉や行いが悪かったら、批判されるのは当たり前だが、自分がやってもないことをしたというふうに言われ、攻撃されることは必ずある。その典型が主イエスであった。
このような中傷や攻撃は、愛とは正反対である。愛は覆い、よきものを注ごうという心の動きを伴うからである。

…何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。(Tペテロ4の8)
このような敵意ある攻撃がなされる状態におかれ、この詩の作者は耐えがたい苦しみを覚えるようになる。
それゆえこの詩の作者は、神が私のために正しく正義をもって裁きをして下さいと懇願している。
神が私の心を調べ、夜の無意識なときにも調べようとも、私には、敵対者が攻撃してくるようなまちがった思いは何一つないという確信があった。

…あなたの唇の言葉、神の御言葉だけに従っています。
暴力の道を避けて
あなたの道をたどり
一歩一歩、揺らぐことなく進みます。(5節)

この詩の作者をとりまく、悪しき人たちの攻撃的なことに対して、作者はひたすら神のみ言葉だけに生きようとする。人の言葉がどこまで悪意があり、邪悪なものであるか、この詩の作者は徹底して思い知らされたのであった。そこから,作者は人間の言葉とまったく対照的な神の言葉に生きようとする。
そして「暴力の道を避けて」と訳されているところは、人間は悪いことを言われたりされたら、どうしても感情的になる。しかし何らかの敵対的行動とか、激しい言葉でやり返すなどの激しい対抗的な道を避け、打たれたから打ち返すのではなく、ひどい中傷を受けても神の道を一歩一歩進んでいこうとする。
このように歩いていくためには、どうしても神に叫び、祈って力を与えられる必要があるので、次のように「叫び求めますから、どうか聞いてください」という祈りがある。だれでも非常に追い詰められた状況においては、旧約聖書のヨブ記にみられるように、人間には相手の困難な状況を理解できなくて、かえって難しくなることがある。そのため、この作者は一貫して神に求めている。
… あなたを呼び求めます
神よ、わたしに答えてください。
わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
慈しみの御業を示してください。
あなたを避けどころとする人を
立ち向かう者から、右の御手をもって救ってください。
瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。 (6〜8節より)

この詩の作者は、神がどのようなお方かを深く示されていた。それは、真剣な叫び、祈りには必ず応えて下さるお方であること、さらに、あたかも自分の最も愛するもののように、少しの傷も受けないように、自分を守ってくださるという確信であった。
神は、自分を「瞳(ひとみ)のように」守って下さるお方だ、という神の愛への信頼があるからこそ、このように祈るのである。
瞳というのは、外から見えるからだの各部分のなかでとくに敏感に反応するところである。わずかの危害が及ぼうとするとただちにまぶたを閉じて守る。
神は、エジプトにおける奴隷状態と滅びの道をたどっていた民族をモーセを遣わして導き出し、人々は広大な砂漠地帯を通って奇跡的に守られて約束の地へと導かれた。
そうしたときの神の愛をこのように、「瞳のように守った」と表現している。
瞳というのはからだの中では、とくに敏感な部分だからである。
本当の愛というのは非常に敏感なところがある。愛がない人ほど鈍感で、どれだけ相手が傷つこうとも、その人を中傷しようとも何にも感じない。愛がある人ほど、あの人のためにこんなことをしたら相手のためになるだろうと、遠くても近くても敏感に感じる。
神の愛は旧約聖書の時代にも、深く知られていたことであり、申命記にも同じような表現が出てくる。

…主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分の瞳のように守られた。(申命記 32の10)

神の愛というのは、不毛の地で、死んでしまうようなところでも見つけてくださるような愛なのである。
こうした神の愛の敏感さを、詩篇は、ほかの書物と異なる独特の表現で書いている。

…あなたはわたしの歎きを数えられた。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。(詩篇五六・9)

神は、私の悲しみを一つ一つ覚えて書き記してくださり、その涙を蓄え、覚えてくださっている、そのことを神は覚えていてくださっている、ひとつひとつ数えて覚えているということを経験的に感じたからこそ、このような表現が生まれた。
そしてその神の愛を、翼の下にひなどりを招き入れる親鳥の愛にたとえている。
最近では農家であってもニワトリを家で飼育しているところは、わずかになっている。
わが家では農家ではなかったが、私がこどもの頃はニワトリをたくさん飼育していて、私も自分専用のつがいのにわとりを父からもらって、卵から孵化させ育てていたことがあるし、私のこどもたちが幼いころやはり同様に小さなちゃぼのような鶏を飼育していた。
そうしたとき、とくに印象的であったのは、親鳥がヒヨコを育てる仕方であった。放し飼いにしていると、親鳥は、餌を見つけると、自分は食べずに独特の鳴き声で周辺で餌を探していたヒヨコたちに知らせる。そうすると、ひよこたちは一斉にそこに駆け寄って餌を食べる。また走り回って疲れたりしたとき、夕暮れが近づいたりすると、親鳥は羽を広げてヒヨコたちがその羽の下にもぐり込んで眠るようにする。
それはとても愛情深い光景で、心に長く残るものである。
聖書にも、神の愛がそのようなすがたで詩の作者の心に刻まれていたのがうかがえる。

…神よ、慈しみはいかに貴いことか。
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、
あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの喜ばしい流れに渇きを瘉す。(詩篇36の8〜9)

神は、ご自分に頼る者たちをその翼の陰に隠してくださる。
寒かったり、ネコや犬、カラスやトビなど外敵が近寄るとき、親鳥がさっと駆け寄りひよこを翼の下に入れて守ってやる。
危険や災いや災害から、自分のうちに取り込んで守ってやるという細やかさを、この作者は神の御性質としてよく表している。
このように神を知っていたからこそ、敵のただ中においても神の道をたどって一歩一歩揺らぐことなく進むことができる。

この詩の作者は、このように神の愛と守りを深く知って、その愛に頼り、叫びつつ、現在迫っている敵対者たちの動向を次のように書いている。

… あなたに逆らう者がわたしを虐げ
貪欲な敵がわたしを包囲しています。
わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し
地に打ち倒そうとねらっています。
主よ、立ち上がってください。
あなたの剣をもって逆らう者を撃ち
わたしの魂を助け出してください。
御もとに隠れる人には
豊かに食べ物をお与えください。
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み
目覚めるときには御姿を拝して
満ち足りることができるでしょう。 (9〜15節より)

全く根拠のないことを攻撃して打ち倒そうとしている者に対して、悪の力を打ち破ってくださいと、非常にリアルな表現で述べられている。
「あなたの剣をもって逆らう者を撃ち、私を救って下さい!」このような表現を読んで、これは読む気持ちにはなれない、と思って、旧約聖書や詩篇そのものもあまり読まないというような人も多くいるようだ。
しかし、旧約聖書を読むときには、つねに新約聖書ではどう変わったのか、キリストはこうした精神をいかに変革されたのか、ということをいつも念頭においておく必要がある。
神が剣をもって逆らう者を撃つ、これをそのまま受け取るときには、戦争を肯定する主張となる。事実、歴史のなかでは聖戦としてこのような箇所が根拠のようにされてきた。
しかし、新約聖書において、復活のキリストと同じである聖霊は、使徒に次のように告げている。

…なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エペソ 6の16〜17)

このように、神の剣とは、霊の剣なのである。キリスト者においても剣を持って、悪人と戦う。しかし、その剣は目に見える剣でない。神の言葉なのである。

悪の力が私たちに限りなく迫り、理由もなく私たちを激しく攻撃し、痛めつける、悪口をいいふらす、といったことはこの世ではよく生じていることである。こどものときからこのようなことは、「いじめ」として以前から見られる。大人になっても、また老人や病気となって不自由な状態になったら、こうした言葉による攻撃、侮辱、悪口などを受ける可能性が増えていく。
そのことを考えるとき、私たちがじっさいにそのような状況におかれたときの心の状況を前もって知らせてくれているのだと受け取ることができる。
そんな目に遭うとき、だれしもそんなひどいことをする人がいなくなったらと願うであろうし、またそんな苦しみをもたらす人が病気とか事故になったら、はやく死んだらいいのに、とすら思うこともあるだろう。自然のままの人間は、何か復讐的な気持ちになっていく。
しかし、キリストが来られることによって、こうした悪には悪をもって返す、という考え方が根本的に変えられた。それは精神世界の革命的なことであった。

…「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ 5の43〜44)

悪人を憎むのでなく、悪人の魂の中に入り込んで悪行をなさしめる悪そのものを憎むこと、その悪を滅ぼしてください、と祈るようにと命じられている。そうすればその悪人は善き人になるからである。
悪人を断つのでなく、悪人の内に宿っている霊的な悪そのものを断ってくださいというふうに変わっていった。
悪そのものを滅ぼしてくださいという切実な願いは、新約聖書の時代、キリストの時代となっても、ずっと続いている。主イエスが12人の弟子たちを選んだとき、最初に与えたのは何であっただろうか。

…イエスは、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 (マルコ 3の14〜15)

悪の霊を追いだすことが、このように、宣教と並べて言われている。
「御国がきますように」という主の祈りは、まさに人間の中から、またその人間の集団である家庭や社会、国に神の王としての御支配がなされ、そこから悪の霊、悪の力が追いだされるように、という祈りにほかならない。御国(バシレイア)とは、「王(バシレウス)としての御支配」という意味を持っているからである。
ある人の言動のなかに、敵意や憎しみが満ちているとき、どうかそれらのもとになっている、悪を取り除いてくださいというのが、キリストの愛からきた心である。

…御もとに隠れる人には
豊かに食べ物をお与えください。
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み
目覚めるときには御姿を拝して
満ち足りることができるでしょう。 (14〜15節より)
 
この詩の終わりに、作者は、神の愛に信頼して、御許に隠れる人には豊かな食べ物を与えられますようにと祈っている。
このように、神からの豊かな恵みを食物あるいは飲み物であらわすことがしばしばある。
神の約束の地、そのことを、「乳と蜜の流れる地」と表した。現代ではミルクや蜂蜜などはありふれたもので、どこにでも安価に売っている。それゆえに乳と蜜が流れる地などといっても心を惹くものではない。
しかし、数千年昔の時代には、ミルクはその豊かな栄養バランスのゆえに人間を支える重要な飲み物であり、蜂蜜はパレスチナのように雨がごく少なく、植物も少ししか生えないような地方ではきわめて貴重な食物で、単に甘いものといった感覚的な点だけでなく、その成分がブドウ糖と果糖であるから、食べるとすぐにエネルギーのもとになり、力となるから、薬用としても用いられた。
神の恵みはそのように、霊的な栄養となり、力となり、しかも心をうるおし喜ばしいものということを食物あるいは飲み物で表現したと言える。
詩篇のなかで最も有名かつ愛されている23篇においても、神からのゆたかな恵みを、「私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えて下さる。わたしの杯を溢れさせて下さる」と、食事や飲み物という表現を用いている。

…わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み(*)
目覚めるときには御姿を拝して
満ち足りることができる。
(15節)
(*)「正しさを認められ…」と訳された箇所は、原文のヘブル語では、「正義にあって…」であるから、英訳で原文に忠実に訳されたものでは、 I will behold thy face in righteousness.(KJVなど) と訳している。

神によって正しいとされる、そして本来は決して見ることのできない神のみ顔を仰ぐことができるということ、これは今から二千五百年ほども昔に書かれた詩であるが、それでも、なお、いつの時代においてもー現代においてもー人間がが最も必要としていることを深く見抜いていた。
神をただ信じるだけ、義とされる(正しいとされる)、それによって主をいっそうはっきりと仰ぐことができる。
これはまさに啓示であった。神から直接に示されたがゆえに、そのような永遠のテーマがありありと見えたのである。
旧約聖書の時代は死後に目覚める(復活する)というのは、まだはっきりとした啓示は与えられていなかった。しかしこの詩の最後の節は、新約聖書の時代になって初めて明確に示される復活のことを指し示している。
私たちの復活のとき、それこそ究極的な霊的な目覚めであるが、そのときに、御姿をはっきり拝して満たされるという意味が感じられる。

…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Tコリント 13の12)

日々、朝の目覚めのたびに主の御姿を拝し、霊的に満たされて新しい一日を始める。これは、最終的な復活のときだけでなく、毎日がこのようであればと願われる。
この世のさまざまの悪に対して、神の愛にすがる。神の愛がなければ、激しい攻撃であればあるほど、心もからだも壊れてしまうであろう。
そうならないようにしてくださるのが、神の愛の認識なのである。神から正しいのだと認めて下さるのを実感しつつ、神を見るという旧約聖書の世界ではあり得なかった大いなる恵みを受けることが預言のように記されている。
このように二つの大きな力、すなわちこの世の壊してしまう力と、守り育て導いてくださる二つの力があり、私たちはただあくまで神を信じ続け、祈り続けるとき、神の力のもとで最終的には満ち足りるようにして下さるのである。


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