ベアトリーチェとの再会、その導き 煉獄篇 第30歌

この30歌のはじめの部分では、その前の29歌に現れた、キリストや主を信じる人たちの集まり(教会)、そして旧約聖書や新約聖書を象徴する動物や車、長老たちなどが一つとなって動いていく霊的な内容をたたえた行列の記述が続いている。
その列がとまり、そこにベアトリーチェが現れる。
その記述がはじまる前、第30歌の冒頭に、次のように記されている。

…沈むこともなく、昇ることもなく、人間の犯す罪以外には、霧におおわれることもない、最も高き天(至高天、第一の天とも)にある七つの星(神の霊)はそれに含まれる北極星が船の舵を取るものを導いていくように、人にみずからの果たすべき任務を自覚させる。…(1〜6行)

七つの燭台が、行列を導いていたがそれが止まるとほかのものもみな止まる。その様子は、地上の世界での7つの星(北極星を含む小熊座の7つの星)が船乗りを導くようだ、というのである。
七つの燭台は、燃える炎が後に長く目には届かないほどかなたへとたなびいていた。その七つの炎は神の霊を表すものであり、最も高い天にあるが、それがこの地上天国にあらわれた燭台のともしびとして現れた。それは神の霊であり、神の光であるゆえに、いかなるものも曇らせることはできない。
それは神の霊であるからこそ、ダンテに見えた地上天国の行列の人たちにもなすべきことを示し、また聖なる霊こそが、人間になすべきことを深く自覚させるという一般的な意味もかさねて表している。
これは、主イエスが次のように言われたことをダンテ自身も経験してきたからであろう。

…父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ 14の26)

それと同じように、この煉獄の地上楽園における七つの燭台がその行列の動きを導いている。
七つの燭台は、そのともしびが、はるか遠くまでたなびいていた。その燭台とともに、旧約聖書を表す24人の長老や、新約聖書を表す人々、そしてキリストを象徴的に表している頭部はワシ、胴体はライオンの特異な動物(グリフィンという名)、そしてその動物がひいている車はエクレシア(教会)を表している。
その七つの燭台が停止すると、伴われていた二十四人の長老が、車のほうに向き直った。その車とは、キリストをあらわすグリフィンに牽かれているもので、信徒の集まりである教会を表している。
その長老たちは、旧約聖書を象徴しており、キリストに導かれる真の教会へと向き直った。それは、「平和の出現を待つがごとく」であった。 旧約聖書とは、キリストを証言し、同時にキリストを待ち望むものだということがこのような記述で表されている。
旧約聖書は、キリストの平和を待ち望み、目指していると言おうとしているのである。
そのとき、その24人の長老の一人、旧約聖書の「雅歌」を表す者が、次のように言った。

…そのうちの一人が、天から遣わされた者のように
「来たれ、花嫁!レバノンより」(雅歌 4の8)
と声をはりあげ、三たび繰り返し歌った。(*)(9〜12行)

(*)とくに、三回繰り返したと記されているのは、この箇所のラテン語訳では、次のように 「来れ(veni)」が三回繰り返し用いられているからである。
veni de Libano sponsa veni de Libano veni coronaberis de capite…
原文のヘブル語では「来れ」を表す語は一度だけ用いられているが、意味をわかりやすくするためにラテン語訳だけでなく、英訳なども三度訳語として用いられていることが多い。

重要な言葉を、聖なる賛美にのせて三度繰り返し歌うこと、これは聖書にも現れる。(*)

(*)…彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ 6の3)

この三回という繰り返しは、三という数字が完全数であり、天使たちの賛美、神をたたえる賛美は完全な内容を持っていたというニュアンスがある。
そのゆえに、聖書の最後に現れる黙示録においても、天上の礼拝の光景にも、これに似た賛美が現れる。

…彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録 4の8)

雅歌からの引用である「来れ、花嫁!」という言葉だけをみても何のためにこのような言葉が突然出てくるのか不明である。 雅歌というのは、旧約聖書のなかでも特異なもので、もともとは恋愛歌であったものであるが、それが神と人間との愛を象徴的に表すと受け止められて、信仰の歌として受け継がれるようになった。そのゆえに、旧約聖書のなかにも組み込まれたのであった。
それは、旧約聖書の時代だけでなく、キリスト以降の時代にあっても、やはり神(キリスト)と信じる人との愛を表す文書だとして受け取られてきた。
ここでは、この聖なる行列に現れたベアトリーチェを指して言われている。そしてそのベアトリーチェは、神の英知そのものであるキリストをも暗示している。
ベアトリーチェが、来れとの繰り返し呼び求める声に応えるかたちで現れる。それは、旧約聖書の長い時代を一貫してメシアを待ち望み、「救い主よ来れ!」との願いを持ち続けてきたその声にメシアなるキリストが現れたことをも暗示するものとなっている。

…最後の審判の日に、ラッパが奏されると祝福された人々は
すばやく次々と
ハレルヤ!を歌いつつ、起き上がるが
そのさまもかくやとばかりに、神の車の上に、
永遠の命に仕え、その使いを勤めとする
百余の天使が長老の声に和して起き上がった。
「祝福あれ、来たる者に!」と人々は歓呼しつつ
また、上へ周辺へと一面に花をまき散らして、高らかに言った。
「われに与えよ、おお、手に満つるばかりの百合の花を!」 (13〜21より)

この「来れ!」との叫びによって、雅歌以外の残りの旧約聖書の23書を表す長老たちがいっせいに歌った。
そうすると、その声に従って、百人ほどの天使が、行列の車の上に 起き上がった。
こうした一連の描写は、キリストの到来による復活という新しい出来事をも指し示すものである。
地獄から煉獄に至る長い旅路を導いてきたウェルギリウスといよいよ別れるときとなったゆえに、この言葉を用いた。
この「われに与えよ、手に満つるばかりの百合の花を!」という言葉は、ダンテの導き手となったウェルギリウスのアエネイス(*)にある一節から引用している。それは、19歳 という若さで死した若き友のために、深い悲しみをもって歌われた歌のなかにある言葉である。
(*)『アエネーイス』第6巻868〜70より。この作品は古代ローマの詩人ウェルギリウス作のトロイア滅亡後の英雄アエネアス(Aeneas)の遍歴を描いた叙事詩。ウェルギリウスの最後にして最大の作品であり、ラテン文学の最高傑作とされる。この作品の完成にウェルギリウスは10年を費やした。

ここでダンテがこの歌を引用したのは、友の死による永別の悲しみの歌を、ウェルギリウスとの別れへと向けて引用したのであるが、それはまた、ダンテのウェルギリウスへの深い敬意を別れのときに表すものともなった。
それと同時に、古きウェルギリウスの世界は死者からの復活を知らなかったのであるが、キリストによる新しい世界こそは、死にうち勝つ復活をもたらすものであり、その勝利を百合の花によって象徴的に表したのである。百合の花こそは、新しい命、復活の命のシンボルとされてきたからである。
そして、神の英知、神の愛、さらにはそれらをすべて兼ね備えたキリストをも暗示するベアトリーチェを迎える時であるゆえ、それを歓迎する意味も兼ねている。そのような意味をたたえて、百合が一面に撒かれたのである。
さらに、この花を一面に撒くという行動は、キリストがそこで最後を迎えるためにエルサレムに入っていくときに、群衆が、手に手にナツメヤシの葉を持って、イエスを歓迎したこととも関係付けられている。

…その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12の12〜13)

このナツメヤシに相当するものが、この煉獄篇の場面では百合の花なのである。
このように、この場面は、ウェルギリウスへの敬意、キリスト以前の古き世界への決別、そしてキリストによる新たな世界の到来をも暗示する深い意味をたたえたものとなっている。
キリスト教の世界とは、このように、いわば百合の花によって一面に満ちているような世界なのである。復活の力、死の力にうち勝つ唯一の力であるキリスト、その霊が満ちている中へと私たちは招かれているといえよう。

…天使たちの手から投げあげられ、ふたたび車の内外に降りてきた百合の花の雲の中から、
一人の女性が現れた。
それは、白い面紗(おもぎぬ)(*)をまとい、
オリーブの冠をつけ、緑の上着を身につけ、
その下には燃えるような炎の色の衣をまとっていた。(31〜33行)
(*)頭にかぶる ひろく目のすいた薄い織物。

ここで現れたのが、ベアトリーチェであった。ベアトリーチェはすでに述べたような神の英知や愛、そしてそれらの完全な実現であるキリストなど、さまざまの意味を含んだ存在であるが、ここではさらに次のような意味を持っている。
純白の面紗、それは信仰を表し、オリーブは英知を表す。ベアトリーチェはまた神の英知の象徴でもある。緑の上着と冠のオリーブはともに緑であり、希望を表している。また、内にまとう燃える炎の色の服とは、神の愛を表す。
ここにおいても、ベアトリーチェは、人間にとって最も重要な、信仰、希望、そして愛を兼ね備えた存在として現れたのである。
煉獄の歩みにより、罪が消されて清めを受けたダンテは、この三つを兼ね備える存在に出会いつつ導かれていくことになるが、それは私たちにおいても同様である。
この三つの色は、ベアトリーチェに先立って現れていた聖なる行列にもみられたものである。
白い衣をまとい、百合の花をもった旧約聖書を表す24人の長老(29歌の64行〜)、四福音書を表す四頭の霊的な動物たちが緑の冠をいただいていたこと(29歌92行)、さらに別の7名(パウロ、ペテロなど聖書記者を表す)は、頭の部分に赤く燃えるような色のバラの花を挿していたとある。
また、行列のそばで舞いながら進んできた3人の天使たちがいるが、その一人は、火のように赤く、もう一人は緑玉のような緑、第三の天女は、雪のように白かった。
このように、この地上楽園における聖なる行列のキーとなっている色調がこの白、緑、赤なのである。
十字架によってキリストは自分の罪をになって死んでくださったと信じたときから私たちは古き自分に死したと言えるから、罪の汚れが清められた白がそれを表す。信仰によって義とされる、とはそういう意味をも含んでいる。
そしてそこから、この世のあらゆることがあってもなお屈しない強力な希望が生まれ、それは死という最大の力を持っているとみなされていたものにも勝利するという希望を与えられることになった。
そして、信仰と希望は、神の愛によって導かれ、その愛を受けてキリストに近いものとされていく。そして最終的にこの世を去ったときには、愛そのものであるキリストに似たものとされていくと約束されている。
このように、これら三つのものが常に私たちに与えられる新たな生がはじまる。これはまたキリストによって新たに生き返った者の持つ特性なのである。
ベアトリーチェが現れたとき、まだ彼女は、雲のごとき一面の花々に包まれていたために、はっきりとはダンテには見えなかった。

…そのひとの前に出ると、畏敬のあまりふるえ、くずおれるほどであったが、
それから長い歳月を経ていた。
この地上楽園にて、その長き空白の後に再会したのであるが
わが目で直接に(それがベアトリーチェであると)確かめたわけではないけれども、
その淑女から発する神秘の力に動かされて
昔と変わらぬ愛の、大きな力の衝撃をひしと感じた。
まだ、幼かったころ
はや私の心を射抜いた尊い力が
今また私の目を射た。(33〜40行)

ダンテは、まだ幼少のころ(9歳)、ベアトリーチェに出会った。子供であったにもかかわらず、ダンテは生涯忘れがたい強い印象を受けた。そしてダンテは、その気高きベアトリーチェの人格と愛に導かれたゆえに、当時の汚れた人間の影響に巻き込まれることなく、歩んでいくことができたというほどであった。(地獄篇2の105)
そのベアトリーチェが、百合の花が雲のように撒かれたなかを近づいてきた。取り巻く花の雲のゆえにまだ顔かたちも見えないうちから、ダンテは彼女の神秘な力に動かされた。それは全身の血がふるえ動くほどであった。
このように、天来の女性であるベアトリーチェの愛は、ダンテの魂の最も深いところから動かすものであり、その彼女の愛は神に由来する。ダンテは、愛こそが万物を動かす根源的な力であり、天体も神の愛が動かすと書いているが、そのような絶大な力を生き生きと実感していたのがうかがえる。
そして彼の政治的活動や哲学、神学、文学といった多方面の活動もその愛に動かされてなされたものであったのである。そして長く暗い恐ろしい闇を経て、その神の愛によって導かれていった記録が神曲であると言える。
神曲というキリスト教文学の最高の作品を作らしめたのは、彼の不屈の信仰、希望、そして神の愛、その象徴としてのベアトリーチェの愛なのであった。
ダンテが、彼女の強い力を受けて、かたわらを振り向くと、すでにそこにはウェルギリウスの姿はなかった。地獄、煉獄と長くダンテを導いた理性の象徴であるウェルギリウスの役目は終わったからである。
それ以後は、直接神の愛、神の英知によって、その象徴たるベアトリーチェに導かれることになる。
その導きを受ける前に、彼女は、ダンテに厳しく問いかける。
長く自分を導いたウェルギリウスがいなくなったのをダンテが深く嘆き悲しむが、ベアトリーチェは言った。

…ダンテ、泣いてはなりませぬ。ウェルギリウスが
立ち去ろうとも、まだ泣いてはなりませぬ。
おまえは、ほかの剣になお泣かねばならない身の上なのです。(55〜57行)

ようやくその姿が見えてきたベアトリーチェは、厳しい王女のような風格があった。彼女はダンテに問い詰めて言う。なぜ、お前はこの清められた場所に来る資格もないのに、ここにいるのかと。
「ほかの剣」とは、ベアトリーチェの鋭い言葉を意味する。
ダンテも罪深き者であったがゆえに、このような鋭い剣でその魂を刺されねばならないのである。魂を刺されるような痛みがなければ、人は真の悔い改めができないからである。
そのように詰問されてダンテはすぐそばを流れているレーテの川に目を落とした。そこに映った自分の表情には、ありありと恥の表情が浮かんで見えたゆえに、すぐに近くの草むらに目を転じた。
それは、このレーテの川には、過去の自分の罪深いすがたが写って見えたのである。その水を飲むまではその罪深い過去の記憶はずっと留まるのであった。
現在の私達にとって、このレーテの川の水を飲むとは、十字架のキリストを真実な感謝の思いをもって信じることに相当するといえる。十字架の血が私たちを清める、あらゆる罪の汚れをぬぐい去るからである。(*)

(*)讃美歌にもこのことを歌ったのがいろいろとある。 例えば
、…十字架の血に きよめぬれば 「来よ」との御声を われは聞けり…(讃美歌515番)

ダンテはベアトリーチェによる厳しい言葉をきいたが、厳しい慈愛の心には、いつも苦い味がすると記している。
このとき、天使たちが、賛美を歌った。

…「主よ、わが望みはなんじの内にあり」を歌ったが、「わが足…」より先は歌わなかった。 (82〜84行)

これは、詩篇30篇を歌ったのであるが、なぜ、「わが足は…」までしか歌わなかったのかを知るために、この詩篇の内容を見てみよう。

… 主よ、御もとに身を寄せます。
恵みの御業によってわたしを助けてください。
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。…
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。…
わたしは主に、信頼します。…
あなたはわたしの苦しみを御覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
わたしを敵の手に渡すことなく
わたしの足を、広い所に立たせてくださいました。(詩篇31の2〜9より)

ベアトリーチェが、どうしてダンテはこの煉獄の頂上にある地上天国まで来ることができたのか、を問うたとき、ダンテに代わって天使たちが、詩篇31篇の賛美をもって答えたのであった。それは、ダンテがこの詩にあるように、主に信頼し、主に自分の霊(全存在)を委ねたゆえだという内容である。
ダンテは、この引用した最後の行にあるように、今や、地獄や煉獄の狭く、困難な場所からこの地上楽園の広やかな場所、神による自由の満ちた場所に来ることができたのである。
なぜ、「わが足を広いところに立たせてくださった。」から先を歌わなかったのか。それは、この詩篇のあとには、「主よ憐れんで下さい。私は苦しんでいます。目も魂も苦悩のゆえに衰えています…」と、苦しい状態におかれた記述が続くからである。
もはやダンテはそうした苦しみから解放されたゆえに、この後は歌わなかったのである。
ダンテは、自分の過去の罪が厳しく指摘されるのを、ベアトリーチェの言葉によって直感した。それゆえに、彼の心も恥と恐れのために固くなり、涙も出ず、ため息も出てこないほどであった。
それは、イタリア北部の山脈にある高山に降り積もる雪は東北から吹いてくる冷たい風のために、凍りついてしまう。しかしそれも、「影のなくなる地域(赤道付近)」から吹きつける熱い風によって、たちまち火がろうそくのロウを溶かすように、心に固まっていたものが、激しい息となり、涙となってあふれ出てきた。
そのようにダンテの心を溶かして、言葉が出せるようになったのは、天使たちの先にあげた歌声であり、そのなかでダンテの心を代弁するような内容の歌が聞こえてきたからであった。
このような表現のなかに、ダンテが賛美という音楽によって重要な影響をその魂に受けていたのを感じることができる。
旧約聖書の時代から、賛美はきわめて重要な役割を果たしてきた。それは、このように魂を温め、固い部分を溶かしだす力を持っているからである。
たしかに、現代の私たちにおいても、神への賛美は、自分の罪ゆえに固くなった心、感動もしなくなった心を動かして柔らかくする力を持っている。それは賛美とともに、聖なる霊が伴って注がれるからである。
そのとき、ベアトリーチェがダンテのことを天使たちに述べたが、それは若きときからのダンテの歩み、罪の本質を告げる内容であった。

…この者は、神の大いなる恵みを雨のように浴び
青春の大いなる可能性に恵まれました。
彼のすぐれた素質は、ことごとく
立派な驚嘆すべき行為に現れることが期待されていた。
しかし、土壌の力が盛んであればあるだけ、
耕さずに放置して悪い種をはびこらせると
悪しき草がはびこり、荒れすさぶものです。
一時は私が私の表情で彼を支えました。
私の若々しい目を彼に向けて
私は彼を導いて、真っ直ぐな道(神への道)を進んだのです。
しかし、私は25歳のころこの世を去りましたが、
彼はたちまち私から身を引いて、私以外の人々のもとに行ったのです。
私が目に見えるからだを離れ、霊となって天に上り、
美も徳も私のうちに増してきたとき、
彼は、私をもはや愛することなく、喜びともせず、
ついに真実ではない道に足を踏み入れ、
善の虚像を追いかけて正しい道を捨てたのです。(113〜132行)

この箇所は、ダンテが若きころからどのような経過を経て、神への道から離れていったかを記す貴重なものとなっている。ダンテは神曲のほかにも「新生」や哲学書などいろいろ著書があるが、このような内容はほかには見られないという。
ダンテ自身、非常な才能を神から与えられていたのを自覚していた。そして9歳という若き日にベアトリーチェとの出会いがあり、神の愛や真理、清い世界の象徴として魂に深く刻まれ、そこから新たな歩みがはじまった。 それは、ベアトリーチェに表された神の愛が彼を導いていたからであった。
しかし、ベアトリーチェが若くして世を去ってからは、ダンテはたちまちその優れた才能を神のために用いるのでなく、「ほかの人々のもと」という象徴的表現で言われている政治的闘争やこの世の地位、学問など、自分の才能や力に頼り、自らの意志によって歩んでいくという方向へと転じてしまったのである。
ここにも、適切な導きがなければ、いかに優れた天賦の才能があってもまちがった方向に行ってしまうということを、ベアトリーチェが述べているが、それはダンテ自身の深い経験なのであった。
このダンテの迷い込んだ状況は神曲の冒頭に記されている。それほどこの経験は彼にとって離れることのできないものであった。

人生の道の半ばで
正しき道をふみはずしたが
目を覚ましたときは暗い森のなかにいた。
その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
いかなるものであったか、思いだすだけでも
恐れをあらたにし、
死の苦しみにも劣らないほどの苦しみであった。…(地獄篇第一歌1〜9)

神曲それ自体が、人生の暗く、恐ろしい森に迷い込んだダンテが、導きによらなければ決して正しい道、神への道は歩めないということを痛切に体験したゆえに、大いなる導きを受けて歩む記録なのである。

ベアトリーチェは、さらに言う。

…私は夢やまぼろしのなかに現れて、彼を呼び戻すために
神に霊感を乞いましたが、無駄でした。
この者は振り向こうともしなかったのです。
深く堕ちていったゆえに 救いの手だては
自らの罪ゆえに破滅した人間を見せるよりほかに
もはやなかった。
それゆえに私は死者の門(地獄)へと降り
今しがた彼をこのところまで導いたかの人(ウェルギリウス)に涙ながらにお願いしたのです。
もしも彼が悔い改めの涙を流してつぐないをなさずに、
このレーテの川を渡り、その水を飲むとすれば
神の尊い摂理は破られたことになりましょう。(133〜145行)

ダンテは、生涯をふりかえって、自分が唯一の真実な道に背を向けた後も、ベアトリーチェに象徴される神の愛が自分に語りかけ、正道に引き戻そうとしているのを感じつつも、それらを振り切り、この世のことに力を注ぎ込むようになっていったのを、このような表現で記している。
これはまた誰もがこのダンテがベアトリーチェの言葉に託して記していることを経験してきたと言えるだろう。
使徒パウロにおいても、ユダヤ人として恵まれた教育を受けて、神の律法のために生きていると思い込んでいたが、じつはその神の独り子なるキリストを信じるキリスト教徒を迫害し続けるという大きな誤りの道を走っていた。
だが、その途中で、ステファノの殉教をまのあたりにしていた。目の前で真実なキリスト者がどんなひどい暴行を受けてもなお、恨むことも敵意を表すこともなくただ天に向かって周囲の人たちの罪の赦しを願いつつ息を引き取ったような状況に接していたのである。
それは、パウロを正道に引き戻そうとする神の呼びかけであったが、それにもパウロは振り向かず、迫害をさらに厳しくし、ユダヤの国外までも遠くキリスト者を追っていったほどであった。
そして彼は、突然に天来の光を受けた。闇のなかに光あれ!と神が言われたとき、光が瞬時にして生じたように、パウロのなかに復活のキリストが与えられ、そのキリスト、聖なる霊がパウロを導くものとなった。
ダンテにおいても、天のベアトリーチェがとくに依頼したウェルギリウスが地獄、煉獄を導き、煉獄の最後の場面からはベアトリーチェその人がダンテを導いていく。
この重要な第30歌の最後の行は、原文では「…悔い改め、涙を流す」という言葉で終わっている。(*)

(*)… sanza alcuno scotto
di pentimento che lagrime spanda.(pentimento 悔い改め、lagrime 涙 spanda 流す、落とす)

ダンテは煉獄の山を歩み、登ってきた。それによって罪は清められた。しかしなお、悔い改めの涙を流すほどの痛みを感じずしては、完全に罪の記憶を消し去られるということはできない、と言おうとしているのである。
悔い改めの涙の深い意味、それはすでに聖書において記されている。キリストの第一の弟子であったペテロは、命を失うようなことがあってもキリストに従っていく、と明言していたにもかかわらず、主が捕らわれていくと逃げ出し、女中からイエスと一緒にいた者だと指摘されると、イエスなど知らないと激しく否定したが、それが三度も続いた。
そのように自分で自分の深い罪を知らずに、自分の考え中心として生きていることを思い知らされ、主イエスへの重い罪を犯したことを深く知らされることになった。 そのとき、イエスからの深いまなざし、すべてを見抜いたうえで、すべての罪を赦すその愛のまなざしを受けて、ペテロは激しく泣いたと記されている。
その涙こそは、ここでダンテが書いているように、真実な悔い改めの象徴として記されているのである。
罪ふかき人間が、そのあらゆる罪を清められ、その痕跡をも消されるほどに赦しを受ける、それに至る道は、真実な悔い改めなのである。主イエスが、天で最も大いなる喜びとは何かということをわかりやすいたとえでのべている。

…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思い込んでいる)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ福音書15の7〜10より)

神が最もよろこばれるのは、人の立派な活動や努力、また勇敢な行動ではない。
心の方向転換、神への真実な悔い改めなのである。
ダンテは深い悔い改めの後に、さらにより高きへと導かれていく。


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