リストボタンネットカンニング、盗みを克服するために

京大の入試で、インターネットを用いて試験中に問い合わせサイトに投稿してカンニングをしたということが、全国紙の第一面トップ記事として載っていた。こんなことが日本全体で読まれる新聞の第一の重要なニュースと位置づけられたことがまず意外であった。
これは、携帯電話やインターネット、パソコンなどが、メールや ツイッター、Youtube その他によって、国家の体制を打倒することにつながったり、国際政治にさえ大きな影響を及ぼすようになってきたから、こうした問題にマスコミも一般の人々も敏感になり、そしてちょうど入試のさなかであったためにいっそう大きく取り上げられたのであろう。
携帯電話で試験問題を入力して、試験中に投稿したというが、そのように携帯電話やインターネットを使いこなせる能力があっても、そのような行為が恥ずべきことだという直感すらなかったことに驚かされる。彼は、スポーツでもバスケット部長をしていたとか、勉強をしてもスポーツをしても、カンニングをしないという英知や力は身につかなかった。
私はテスト中に、同級生がカンニングをしているところを一度だけ見たことがある。
大学の二年の物理学の後期テストのときであった。
私が解答を終えて制限時間よりはやく室外に出ようとしたとき、最後部の学生が二人紙切れに書いたものを見て書いていたのをちらと見た。彼らは、当時激しかった学生運動に関わっていた学生であり、ときの政治問題についてよく議論したことがある。
そうした人がそのようなことをしていたのを見たので、そんなことをする者がいるとは考えたこともなかったから、とても驚いて今だにその場面が浮かんでくる。
そんな卑怯なことをして、どうして平和がどうのとかベトナム戦争、日米安保など議論できるのか、とたちまち彼らに不信感を抱いた。
カンニングとは、試験のとき、必要な勉学をするという正しい道を取らず、楽をして自分が目的とする成績をあげようとすることで、一種の盗みである。不正な方法で知識やよい成績を盗みとることである。
最近問題になっている大相撲の八百長、これも不正な方法で勝負を盗もうとすることである。
盗みという視点から見るとき、これはテストのときだけの問題でない。正しい道をとらず、安易な道、不正な道をとろうとするということは、人間の生活に常につきまとう。不正な道は楽である。多くの人がそちらの方を取ろうとする。
政治の世界では、不正な方法で選挙民の支持を盗み取ろうとしたり、権力によって不当な利益を奪い取ろうとすること、また経済活動においても、談合や独占など公正とは言えない方法で利益をあげようとし、発展途上国にて、たくみに働きかけて彼らから利益を奪い取ろうとすることはよくある。
このようなことは、宗教の世界でも古い時代から現代に至るまで、よくあることで、すでに主イエスは、当時のユダヤ人の宗教の中心であった神殿が、金儲けの場として用いられているのを厳しく指摘した。

…それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」 (ルカ19の45〜46)

主イエスは、神殿での商売をも強盗だと言われたのには驚かされる。これはとくに神殿は祈りの場であり、神との霊的交流という重要なところであるのに、それを利用して商売の場としている発想を盗みだとされたのである。本来そこは商売などを考えるべきところでなく、不当な方法で利益をえようとしているからであった。
今回のようなカンニングそれ自体は、小さなことであって、大学側がきちんと監督していれば生じなかったことである。しかし、それとともに学生の側においても、安易に不正な道に入り込もうとする弱さを露呈したことになった。
他者から不当な方法で得ようとすること、それはこうしたカンニングなどの小さなことでなく、はるかに大規模で行われることがある。
アフリカの黒人が拉致され、奴隷としてアメリカに送られていったこと、これは人間を盗み取り、彼らの平和な家庭や生活を奪い取ったことであるし、ヨーロッパの国々がアフリカ侵略をして植民地としたり、日本が朝鮮を併合したり、中国へ侵略したことなど、みな現地人の国土や人間、産業、利益を、現地人を苦しめ、不正な方法で奪っていったことである。
ことに、そうした盗みが大量の人命を奪いつつなされることが、戦争である。国土や人間の命をも大量に盗み取ることだからである。
このようなことを考えるなら、今から三千年以上も昔に言われた、神の言葉「盗んではならない」という十戒の言葉の重要性が浮かびあがってくる。
このようなさまざまの盗みをせずともよい道とは、自分が欠けていることを他者のものをもって埋め合わせようとするのでなく、正しい道で得ようとすることが多いほど盗みはなくなる。それこそ、人間を超えた存在からよきものを受けることである。
そのことが、キリスト信仰であり、そこから与えられる恵みである。ヨハネがその福音書の最初の部分で次のように言っているのは、私たちが心から満たされ、盗みなどをしないような根本的な道を示すものである。

…わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。(ヨハネ 1の16)

満ち満ちているもの、もし私たちがそれを与えられるなら、正しいことを知る英知や、そこに踏みとどまる力をも与えられることになる。
これこそ、カンニングといったテストの期間だけ問題となることでなく、この世界に蔓延している不正な道を歩かず、 道は狭くとも、永遠の命に至る道を歩くことを可能としてくれる道である。
主イエスが、「私は道である」と言われたことは、こうしたすべてを見抜いた神の英知から言われた言葉であり、現代の私たちにそのままあてはまることなのである。


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