リストボタン神の愛ー闇と混沌の中にて

旧約聖書のなかで最も愛されている箇所の一つは、次の詩である。

…主はわたしの羊飼い
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。…
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださるから。…
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。(詩篇23篇より)

死の陰の谷をあゆむとも、私は災いを恐れないという。私たちがこの世に生きるとき、誰しも死ぬかと思うほどのことに、1度や2度は出会うだろう。今日、大きな自然の災害によって苦しむ多くの方々のうちには、まさに「死の陰の谷」を歩んでおられる方々が多いと思われる。
なぜ、神はそのような苦しいところを歩かせるのか、なぜこの苦しみは自分なのか、なぜ、ほかの人でないのか…といった疑問は、苦しい状況が深刻であるほど、次々と持ち上がってくると思われる。
苦しみは現実に襲いかかってくる。それがなぜ、ほかの人でなく、自分なのかといった疑問は答えることができない。
しかし、はっきりしていることは、そのような苦しみのただなかにあって、神は求めるものに魂の糧と力を与えられるということである。神の愛は、そのように苦しみを通して与えられるということが実に多い。
健康で恵まれた家庭であっても、やはり神の愛を感じることはできるだろう。しかし、どんなにしてもぬぐいさられない悲しみや苦しみのなかに注がれた神の愛は、生涯忘れることができないものとなる。
ダンテにおいても、キリスト教世界で生み出された長編の詩のうちで最も高い内容を持っていると言われるが、その著者ダンテもまた、祖国を追われ、流浪のなかで、神曲という大作を書き上げていった。
この有名な、一見牧歌的ともみられる詩篇23篇の直前に置かれている詩篇22篇は、前半の部分に恐ろしい試練に遭遇したひとつの魂の叫びが記されている。
…わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか! という絶望的と見える叫びである。この詩篇22篇の冒頭にあるこの叫びは最も深い人間の苦しみを表しているゆえに、キリストも十字架の上で、この叫びをそのまま出されたほどであった。
これは底知れない闇であり、神などいない、神の愛などあり得ない…と思われるような状況である。
しかし、その十字架の処刑こそは、主イエスご自身が、たとえようのない苦しみにあってもなお、その十字架のもとに、天にあった神の愛を地上へと招き寄せたできごとであったのだ。

聖書は、人間世界、宇宙全体について書いてある書である。そしてその領域は、過去、現在、未来にわたっている。
そしてそれらすべてを通して神の愛が働いていることを記した書物である。
それは、聖書巻頭の書である創世記の最初からそのことが明確に述べられている。

… 初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1の1〜2)

この創世記の最初の言葉によって、この世界の現状と、その現状に対して注がれる神の愛が簡潔な言葉で書かれている。
現状を表す「混沌」と訳されたその原語は、トーフー という語と ボーフー という語が並べ置かれている。トーフーとは、混沌、混乱を意味する語で、ボーフーとは、荒れ果てた、とか空虚、形がない、といった意味を持っている。
(英語でいえば、formlessness, confusion, unreality, emptiness といった意味をこれらの語は持っている。)
新共同訳では、このトーフー とボーフーの二語を合わせて「(地は)混沌であって…」と訳しているが、ほかの二つの邦訳は、原文が二語からなっているので、次のように別々に訳している。

地は茫漠として何もなかった…(新改訳)
地は形なく、むなしく…(口語訳)

この訳語に表れているように、この最初の状況をあらわすヘブル語は、何の形もなく、混乱、空虚であったという意味を持っている。
そのような状況は、人間の現実を象徴的に示すものである。聖書はなぜそのようなものがあるのか、というより先に、現実の状況をまず言っている。過去の天地創造のことを記述しながら、じつは過去から現在にいたる人間の状況を述べているのである。
しかし、それは単なる暗黒や混沌ではなかった。そこに、よきものを生み出そうとする神の風、霊の風が吹きつのっていたのである。
それこそは闇に光をもたらそうとする神の愛の現れだと言えよう。
私たちも誰か困難にあり、闇にある人のことを思うとき、何とかしてそこに神の力や祝福が及ぶようにと、祈りを送る。それは、人間の魂の闇と混沌の中に御国の風を少しでも送ろうとすることである。
また創世記の第二章にあるように、渇ききった大地に水を湧きださせること、そこにも神の愛がある。愛とは、渇ききっていのちが失われているところに、うるおいを提供しようとすることである。
最初の人間、アダムとエバについても、エデンの園において、見てよく、食べてもよい果樹がゆたかに備えられており、いたれり尽くせりといった状況であった。それにもかかわらず、そのゆたかな恵みに満足することなく、アダムとエバは誘惑に負けて罪を犯した。そのような人間であったにもかかわらず、なお、神は彼らを見つめ、「どこにいるのか」と自分たちが神との関わりのもと、どのようなところにいるのかを自ら気付いて立ち返ることを待っているのを示すことをうかがわせる。このような姿勢こそは、神の愛をはやくも示すものである。
愛は、直接に忍耐とかかわっている。
カインの重い罪についても同様である。
あえて神はただちに厳罰にして滅ぼすことなく、見守った。これははるか後に主イエスが放蕩息子のたとえで語ったことと通じるものがある。
神の愛は、苦しめることをも含んでいる。人間の愛は、苦しみから遠ざけようとする。
病気にならないよう、事故に遭わないように等々である。人間の愛は、決して愛する者を病気にしたり、寝たきりにしたり、目が見えないようにすることはない。目が見えなくなるかも知れないと思うと全力でそうならないようにするのが人間の愛である。
しかし、神の愛は、そうではない。最も恐ろしいハンセン病のような病気、目が見えなくなってそれまでのあらゆる仕事、交遊、娯楽、いっさいが失われてしまうというような恐ろしい事態に、また家庭の分裂や恐ろしい拷問を伴う長期にわたる迫害等々、そんな目に遭わせることすらある。
そのようなことを通って神は愛であることを示そうとされる。
創世記における、ヨセフが受けた苦しみ、エジプトにおいてイスラエルの人々が受けた苦しみ、それらはみな神の愛であった。
主イエスは、十字架にかかって万人の罪を身代わりに受けて死なれた。そこに神の愛がある。そしてその愛は、たんに家族がみんな理解あり、世の人からも認められ、いろいろなものに恵まれているという、いわゆる幸福な状況によって示されたのではない。
まったく逆であり、「神が自分を捨ててしまった!」という絶望的な叫びをあげる状況のなかで実現していった。
当時の宗教的、政治的指導者たちから、そして民衆たちからも、十字架につけよ、との叫びが渦巻き、そして三年間もともに生活してさまざまの教えや、そのわざ、奇蹟をとおしてイエスが神の子であることを示されたにもかかわらず、弟子たちすらイエスを見捨て、逃げていく。またイエスの世話をしたり付き従っていた女性たちも深い悲しみに沈むばかりで、そこには誰も神の愛や光を見ることはできなかった。
そして鞭打たれ、さげすまれ、つばをはきかけられ、釘で受け付けられて恐るべき苦痛のなかから死んでいった。
「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」というふりしぼるような叫び、それはまさに闇と混沌であり、得たいの知れない深淵がそこにあった。
しかし、そのような状況のただなかに、神は最も大いなる神の愛のわざを実現していった。
独り子を人間の罪のあがないのため、十字架に付けるために遣わしたこと、そこに神の愛があるのであるから、こうした外見的には最も愛とはかけ離れた恐ろしい状況のなかで神はその最も深い愛を押し進められたのであった。
このことから、私たちは、いかに外見的に恐ろしい状況があってもなお、神のその愛を押し進めておられるのだと信じるように導かれる。ステパノの殉教のことも同様である。
パウロももう死ぬというほど追いつめられたとき、死から復活させる神の愛を思い起こしたと書いている。(Uコリント一章)
使徒パウロも、十字架で処刑された重罪人も同様であった。 私自身、かつて外には、学生運動の渦巻く闇と混沌、内には、深い精神的な闇の中からただ一冊の本によって、光が射して信仰の世界へと導かれたのだった。

イエスよりも900年ほども昔、預言者エリヤは真理に敵対する王妃のきびしい迫害によって、もう死ぬほかはないとまで思い詰め、砂漠のような荒れ地で命絶えようとした。
しかし、神はそのようなエリヤに力を与えて立ち上がらせ、かつてモーセに神の言葉が告げられた聖なる山へと行くようにと命じた。そこで彼は死んだようになっていた状態が新たにされ、遠いシナイの山に向かった。そこに到達した彼は、神に命じられて大風や地震、火の前に立った。
しかし、そのようなもののなかには、神はいなかった。それらのあとに、静かな細い声があった。その声は彼に新たな力と命令を与えるものであった。こうした混乱と闇が私たちには襲ってくる。しかし、そのただなかに、そしてその後に静かな細き語りかけがなされた。
神の愛は、そうした語りかけのなかにもある。
ここでも、エリヤは死を覚悟し、生きていけないと思ったほどのなかから、神は語りかけている。

旧約聖書において、今から2500年以上も昔に、次のようなうるわしい記事が書かれた。

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。…
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」…

荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。

そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
主御自身がその民に先立って歩まれる。
解き放たれた人々がそこを進み
主にあがなわれた人々は帰って来る。(イザヤ書35章より)

これは、あらゆる空しさ、混乱、闇を貫いて響きわたるメッセージである。このイザヤ書の箇所は、戦いに破れ、遠い異国に捕らわれて行ったたくさんの人たちが、時至って砂漠地帯を通って魂のふるさとであるシオン(エルサレム)に帰ってくるという預言である。
長い闇と混沌のなかに神の御手が臨み、そこから導き出されることを示す内容となっている。そしてこの預言の言葉は、単に古代のイスラエルの人たちだけにあてはまるのでなく、以後数千年の人類への預言ともなった。
乾ききった大地、それはいつの時代でも人々を取り巻いていた。この世の力、闇の力に捕らわれ、そこから出て行くことのできないところにあった人間は、そこから解放する道が分からなかった。そのただなかで霊的な渇きに苦しみつつ生きていた。
そのような状況の人間に、いのちの水をもたらし、枯れた魂の世界に花を咲かせるのが神の愛である。
そしてそれは、新たな世界に目が開かれることであり、歩けなかったのに新たな力が与えられて前進できるようになることである。さらに、神からの語りかけなどまったく分からなかったのが、私たちを超えたところからの静かな細い声を聞けるようになることである。

…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ35の6)
これらのことは、すでに述べたように、創世記2章ではやくも暗示されていたことであった。
魂がうるおされること、そのたとえようのない祝福を、このイザヤ書の言葉のように深く啓示されたのは驚くべきこと である。
そしてこうした深い霊的な世界が示されたのは、ふるさとが敵国によって荒らされ、多くの人たちが殺され、残ったものたちもその相当数が捕囚として遠くの国々に連れて行かれたという状況にあったときである。これからどうなるのか、なぜ神はこのようなことをなさるのか…そうした数々の疑念が次々と人々の心に現れただろう。
人間の予想や希望とまったく異なる、時と場所において、神はその啓示を与えられるのである。
このような新たな世界に招かれていること、それはこの霊感ゆたかな預言書においてしばしば語られている。

…「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ 55の1)

このような神の招き、それは後に主イエスが言われた次のような言葉を指し示すものとなっている。

「渇いているものは私のもとに来たれ!」(ヨハネ7の37)

乾いたところにうるおいを与えるもの、それは詩篇全体においても流れている。そして、聖書の最後においても、究極的な神の愛の実現した世界は、ゆたかな水の流れとして記されている。(黙示録22章)
神の愛を受けるとは、魂のうるおいを受けること、心に静かな流れが生まれることである。そして、憎しみとは渇きである。
私たちの現在の世の中、それは大地震や津波、あるいは原発のようなものによって、あるいは、病気や戦争、食料不足、飢饉など、さまざまの問題にみちている。
こうした状況は、古代からつねにかたちを変えつつ続いてきた。そのなかで、キリストが現れ、いかなる状況にあってもただ神へのまなざしをしっかりと向けること、いかに助けがないように見えても神を仰ぎ、神への叫び(祈り)を止めないこと、それによって時至れば、魂に水が流れるようにして下さることを信じることができる。
だが、ときには、そうした平安が与えられないほどに世の状況が悪化することもある。
しかし、そのようなこともすでにキリストは、見抜いておられた。
この闇の世界を究極的に救うのは、科学技術や学問、政治でも、福祉でもない。
最高の物理学、化学などの学問を用い、それらの学者を結集し、莫大な経費を用いて生み出されたもの、それは、原爆や原発という致命的な害悪を与える物体なのである。
しかも、そこで生み出される放射能物質は現在生きている人たちだけでなく、永久的に人類に害悪を及ぼし続けるものを地上に生み出していくのであり、子孫への犯罪行為と言わねばならないだろう。
今から2500年以上も昔、神からの言葉として次のようなものがある。

…主はこう言われる、「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。」(エレミヤ書17の5)

原発にかぎらず、人間の判断や人間の力、政治や権力など、あるいは人間の造り出した科学技術の産物などに全面的に頼るとき、そこには本当の幸いは決して生まれない。
すでに、旧約聖書の創世記に、数千年前に記されているバベルの塔という記事がある。人間がその技術を誇り、高い塔を建て、天まで届く塔のある町を造ろうとした。しかし、神がそこに裁きを与え、言葉が通じないようにされ、その町の建設も中断したという。(創世記11の4〜5)
神のさばきとして、「言葉が通じないようにされる」ことが記されている。究極的な真理そのもの(神)に背き、自分を高いもの、強い者とするとき、人間は言葉が通じなくなる。
しかし、真理の前に自分の卑小さを知らされ砕かれてひざまずく心を与えられるとき、いろいろな人たちと心の言葉が通じるようになる。
そして、このような低き心を与えられるとき、神の万能に絶対の信頼を持つことができるようになる。
そしてこの世界の究極的な解決もその神から与えられるものとして受け取ることができる。
その究極的解決とは、神の子なるキリストの再臨である。キリストが神の力によって来られるときにあらゆる闇の力は敗退する。
そしてそれはすでに、キリストの復活や聖霊が与えられることによって、部分的にせよ体験できるようになっている。
その聖霊の力、それはいかなる大波をも越えて伝わってきた。この世には、地震や津波のような目を奪うような力がある。それらは人間の力では、到底考えられない破壊力を持っている。
しかし、それらのどのような力にも増して強力な力をもってこの世のあらゆる荒波、迫害、権力の支配を越えて全世界に伝わっていたのが聖霊の力である。
すでにキリストが生まれたときから、その国の王はイエスを抹殺しようとした。イエスが成人したときにもさまざまの敵対する力が現れて、ついにイエスを最も苦しい釘付けにして処刑することまでした。死という最強の力によってイエスは消し去られ、 それによってキリストが地上にもたらした目に見えない波、霊的な波は止められたと思われた。
しかし、そこからいかなる悪意や死の力にもうち勝つ、目には見えない大いなる波ー聖霊の波動ともいうべきものがこの世界に現れた。
そして、ローマ帝国の300年近くにわたる迫害という名の巨大な壁をも乗り越えて、世界へとキリストの波動は伝わって行った。
それはヨーロッパ全土にひろがり、さらに南北アメリカへと伝わり、アフリカ大陸の南端を経てインド洋を越えて、さらには、太平洋をも越えて日本に到達した。
過去三千年という長い歳月、聖書の真理は、その間のどのような壁にも妨げられることなく、あらゆる障壁を越えていく力を持っているのを証ししてきたのである。
また、地震、津波と並んで、原発という目に見えない放射能によって多くの人がおびやかさている。そのために生活ができなくなり、いちじるしい困難が今後も続くと考えられる。
このような目に見えない力である放射能による苦しみ、それを耐えていくためにも、それを越える力が必要とされる。そして数千年を越えてきた聖霊の力、真理の力は、やはり目には見えない力であるが、そのような苦しみにある人たちをも支える力を持っている。
それは、キリストの真理にしっかりと支えられたときには、使徒パウロも述べているように、あらゆる困難にもうち勝つ力を与えてくださると約束されている。

…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めている。
わたしは確信している。死も、命も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。(ローマの信徒への手紙8の37〜39より)

このような確信もまた、目に見えない神によって与えられなければ、自分で持つことはできない。自分の意志や決断などいかにもろく弱いことだろう。
神より与えられ、聖霊によって与えられた確信を持ちつつ、ときには希望のないように見える死の陰の谷というべきところを歩んでいかねばならないこともある。
主イエスは、そのあらゆるものを見通す神の目によって、今後を見て言われた。この世には、究極的な解決のときまでは、闇と混沌が続いていくと予告されている。毒麦は世の終わりまであちこちに生え続けていく。
それは、戦争の動乱、地震、飢饉、愛が冷える、等々のこととなって現れるという。

…戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。(マタイ福音書24の6〜7)

しかし、こうした闇と混乱、そして渇きのただなかを、全世界を導く神の御計画は進んでいく。
それはしばしば私たち弱い人間の理解をはるかに超えたことであり、深い苦しみや悲しみも伴うであろう。
それでもなお、今から三千年も昔に啓示を受けた人が記していることは現代の私たちへの道標である。

… たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。
あなたがわたしと共におられるから。(詩篇23の4)

そうした人間の一切の考えや希望を超えたところで働いている神の愛と真実、正義がなす御計画なのである。
そして最後の到達点は、すでに述べたように、聖書の最後の黙示録に記されている。
すなわち、新しい天と地であり、いのちの水の河が流れ、神とキリストが照らす世界であり、いっさいの涙はぬぐわれる世界である。


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