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リストボタン聖書における復興と再生

東日本大震災の残した深い傷跡は、3カ月を経た現在もなお癒えることなく、かつて経験したことのない大規模災害であるゆえに、至る所でその復興と再生の困難さが現れている。
とりわけ、福島原発の大事故にあっては、膨大な放射性物質が外部に流失し続けているという、世界の歴史始まって以来の状況が続いており、それを止めることができない。
放射能をもった水やさまざまの器具、物質それらから放射能を取り除くことができない。フィルターとか化学物質で沈殿させて除去するといっても、そのフィルターとか化学物質そのものが濃縮された強い放射能をもった物質となって新たな管理が必要となる。そしてそれを捨てるところも、その放射能を消すこともできないのである。
原発事故に関しては、このように、農地も山野も元通りに何の放射能もなく清い大気や水、大地となる、という状況まで何十年かかるかわからない。チェルノブイリでも100年はかかると言われているほどである。 こうして目的地の見えない長い困難な道が続いている。
こうした現実を見据えるとき、原発というものが持っている破壊的な力は、聖書に記されている力とは全く逆であるのに気付かされる。
聖書に記されている神の力は、目には見えないという点で共通している。そして何万年となくその放射能の力は持続するのに対し、神の力、聖書の力も永続する。というより、何万年という時間をはるかに超えて文字通り永遠である。
また、原子力が現在私たちの前に生じているように、次々と人間の生活を破壊し、断ち切っていくのに対して、聖書にある神の力は、壊れた人間の心や、つながりをも修復し、新たに造り替えるという本質をもっている。
真の復興、それはまったく道筋の見えない、闇と混沌の中にあっても、そこに力を与え、光を与えるものである。それは、実は聖書においては一貫して述べられていることなのである。
聖書は、人間社会の復興とは、究極的には物の復興、再建でなく、人間一人一人の魂の再建こそが、核心にあると教えている。自然の大災害も、一見何の計画も目的もない、単なる偶然にみえる。しかし、それは、万物を愛をもって創造し、かつ支配すると信じるならば、いかに無目的にみえることであっても、そのようにみえるのは、人間の浅はかな考え方その狭い考えのゆえであるとみなすのである。 人間の判断力や理性は非常に優れていると考える人も多い。コンピュータや、宇宙を飛行する物体を造り出したり、原発の複雑な仕組みを見て、人間の頭脳は途方もないことだと思う人もいる。
しかし、その優秀なはずの人間の頭脳や思考力をもってしても、明日、自分に何が起こるかさえ全く予見できない。毎日、交通事故は、全国でおよそ二千件も発生している。しかし、だれも自分が明日交通事故に遭うということは分からない。
また、自分のなかにどんな罪がひそかに宿っているか、あるいは、目の前にいる人間の心の奥に何がひそんでいるかなどといったことについては、全く分かっていない。明日何が起きるか、いっさい分からないのだから、いつ死ぬのかも分からない。
このように、人間の頭脳、思考力といったものもきわめて大きな限界を持っている。そのような限界ある頭脳が、ある出来事がどうして生じたのか分からないということはごく当たり前のことである。それゆえ、災害にせよ、事故にせよ、それが人間を超えた立場から見るとどんな意味や、目的があるのかは全く分からないというのも当然と言えよう。
そのように論理的に考えてもまったく分からないから意味がないのではない。そこから信じるということが始まる。
神は善であり、愛であるのに、どうして悪事がたくさんはびこり、悪人がたくさんいるのか。こうした問題は論理的にいかに説明を受けても納得できるものではない。
しかし、だからこそ、そこから信じるのである。まず神は愛であり、万能だと信じる。そうすれば、どんな出来事も深い愛が背後に込められている。ただ人間がその浅はかな、狭い頭脳だからこそ、それが分からないということなのである。
信じるという立場に立つとき、とたんに新たな風景がみえてくる。どんなことも、神の愛があると信じるとき、私たちに不思議な力が与えられ、また希望も力を伴って近づいてくる。
まず信じることから、道は開けていく。
神は私たちがそのように、神の真実と愛を信じることができるように、そのときを待っておられる。アダムとエバが神のご意志に背くという罪を犯したのちも、ただちに罰することをせず、楽園から追放したものの、滅ぼすことをせず、土地を耕す者としたとある。そしてその子どもであるカインが弟アベルへの妬みから、殺すという重い罪を犯す
。それにもかかわらず、神はそのカインをやはり滅ぼすことをせず、住んでいた土地から追放したが、カインを不思議にも守って、だれもカインを撃つことのないようにしるしを付けたという。(創世記4の12〜16より)
このように、聖書に記されている書き方は、私たちが神の忍耐と愛を知るようにという意図をもって書かれているのがうかがわれる。
その後の創世記の記述、ヤコブは、彼の祖父であるアブラハム以来、神の導きによって生活するようになったカナンの地(現在のパレスチナ)で飢饉があって、エジプトへと移住する。そこで自分の子供で、すでに野獣に殺されたと思っていたヨセフに出会い、エジプトで長く住むようになる。彼らの死後、その子孫たちはエジプトに住むことになり、増え広がっていった。そこでエジプトによって奴隷状態とされ、さらに生まれた男子はナイル川に投げ込まれ、民族としての絶滅がはかられた。そこからモーセが神によって呼び出され、数々の奇蹟が神の力によってなされ、ついにイスラエルの人たちを導き出す。しかし、砂漠とか荒れ野、荒れ地と訳されているシナイ半島をたどり、シナイ山に登って神の言葉を直接に受けたにもかかわらず、彼らは死と隣り合わせていると言えるような砂漠地帯を40年もさまよった。
しかし、カナンの地から、エジプトまではせいぜい数百キロであり、2週間ほどで到達する距離である。だからこそ、マリアはイエスを産んだのち、へロデ王に殺されそうになったので、すぐに夫婦でエジプトへと逃げていったのであり、またしばらくして王が死んだので、簡単に帰ってくることができたのである。
それなのに、40年という歳月を砂漠地帯の苦しい生活で費やした。
これはいったい何のためであっただろう。こうした苦難の旅路の経験によって、神は、イスラエル民族の真の復興と再生をのぞまれたのであった。
復興と再生、それは現代の私たちにとっても、多大の苦しみや悲しみを通ってなされていく。
旧約聖書のハートと言われる詩篇はどうか。
詩篇とはすなわち、外からの敵、うちからの罪の力、あるいは病気などによって破壊され、あるいは崩れ落ちようとする人間から発せられる叫びと祈りであり、そしてそこからの真の復興と再生を記した書物である。
いかに困難が生じようとも、その困難に打ち倒されずに、神に向かって叫び、祈り続ける魂の姿がここにある。
そのために詩篇の巻頭に置かれた第一篇は、どのような内容となっているか。それは、「み言葉を聞いて愛し続ける者、そのような者は、水によってうるおされて周囲にいのちの水を流し続けていくのだ。」となっている。
み言葉を愛するもの、それを喜ぶ者は、水の流れのほとりに植えられた木のようになる。それゆえにいつも花を咲かせ、実ができていく。そうした状況こそ、本当に魂が復興、再生した姿なのである。
そしてまた、第二篇のような一見して何も復興と再生などないように見えるような詩が続いている。これは、この世には至るところで、神などいないという言動があふれている。そしてアメリカ、ロシア、あるいは中国といった国々においても巨大な軍事力、経済力で世界を支配していくように見える。
しかし、第二篇は、そうしたこの世の支配の力、権力をすべて神の力の前には、まったく何の力もない、神の一声でそうしたものはすべて一掃される。とくにそのために、神は一人の人間を神の子として地上に送り出し、その神の子にこうした地上の世界での権力者、王のいっさいの力、悪の力にうち勝たせる、と預言している。
これは、キリストの預言である。すなわち、この世において真の復興と再生は、このキリストによるということがこの第二篇においてすでに預言されているのである。
また、第三編においては、個人の苦しみ―それは敵対する者の力によって追いつめられ、苦しめられているが、そこから、神の力に全力をあげてすがり、救いの力を与えられる。それこそ、魂の復興、再生なのである。
このように見てくればわかるように、詩篇とは人間そのものの―それが一人であれ、民族であれ―魂の復興と再生を目指し、その再生がいかにして可能であるか、そして再生できた喜びを証しする書にほかならない。
病や、敵対する人、あるいは、民族全体の危機的状況―そうしたものからの再生と復興が、随所に記されている。
その再生されたあかつきには、いかなる状況が訪れるか、それは詩篇全体に満ちているが、詩篇の最後にまとめられている、ハレルヤ! の壮大な賛美のうたが究極的な再生の状態を表している。
聖書は、この詩にあるような、全世界が自然も人間の世界もみなが唯一の創造主である、愛と真実の神に向かって再生の喜びに導かれていくのだという真理を記したものなのである。

日よ、月よ、主を賛美せよ。
輝く星よ、主を賛美せよ。
主の御名を賛美せよ。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ
山々よ、すべての丘よ、実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ、地を這うものよ、翼ある鳥よ
地上の王よ、諸国の民よ、君主よ、地上の支配者よ
若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美せよ。
主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。(詩編148より)

こうした罪に崩れ落ちた人間そのものの復興と再生への切実な願いとその再生への道筋が最もリアルに記され、最終的な復興がいかに喜びと力に満ちたものであるかを記したのが詩編であるが、次に続く預言書というのもまた、そのような復興と再生がテーマとなっている。
アモス、ホセア、ミカといった短い預言書から、エゼキエル書、イザヤ書、エレミヤ書といった長大な預言書に至るまで、それらすべては、現状がいかに荒廃して絶望的な状況であるかを述べ、そしてそのままいけば更なる徹底的な滅びへと至ることを厳しく指摘し、そこからの復興と再生を熱情をもって語り続けている。
真実な人間のあり方から遠く離れ、まちがったものをあがめ、人間の欲望にまかせて生きていったゆえに国は滅び、人々の心も荒廃し、多数の人間が遠い異国へと捕囚として連れ去られていった。
それは、まさに枯れた骨で満ちたような絶望的状態であった。しかし、そこに力強い復興へと向かう神の言葉が与えられた。そしてその枯れ果てたものが新たな命を与えられてよみがえった。(エゼキエル書37章) それは滅びに瀕していた民族の再生を預言するものであったし、さらにそれ以後の人間の本当の復興と再生をも預言する内容となっている。
エレミヤ書においても、まさに当時の大国、新バビロニアによって攻撃され滅びていく状況にエレミヤは遣わされた。そこにおいて、本当の復興と再生は、近くの大国エジプトの助けを借りて武力で反撃することでなく、遠いバビロンへと捕囚となっていくことから開けていくというのである。このような普通では屈辱的と思えるような苦難の回り道を経ることこそが、神の大いなる御計画なのであった。
そして事実、その捕囚から50年後に人々は、あらたな大国となったペルシャ王の驚くべき配慮によって、バビロンの捕囚という苦難から解放され、祖国に帰ることができて、神殿や城壁の復興、再建が可能となったし、そこから500年ほどのちに、全世界の真の復興と再生をなしとげるキリストが現れたのである。
また、イザヤ書においては、その復興と再生の状態はうるわしい詩的表現で記されている。

… 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。
神は来て、あなたたちを救われる。
そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。

そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ…
主御自身がその民に先立って歩まれ…
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え、
嘆きと悲しみは逃げ去る。(イザヤ書35章より)

預言書イザヤの生きた時代は、大国アッシリアが西南アジアの広大な領域を制覇し、イスラエルにもその矛先を向けて襲いかかろうとしていた危機的状況であった。 そうした状況はこの箇所の直後のイザヤ書36〜37章にも記されている。
そのような不安と先の見えない状況のただなかで、このようなうるわしい復興と再生が啓示されたのである。
このことを見ても、人間的な励ましや洞察などは到底与えられない深い力や未来に備えられている再生の状況は、すでにいまから二千七百年も昔にこのように生き生きと記されていることに驚かされる。
回復の見込みがない状況、それは砂漠、荒れ野、荒れ地、水のない地、熱した砂地などいろいろに表現されている。いかにそれが水のない、死に瀕した状況であろうとも、神は万能である。神はその御計画をいかなる状況にあってもなしとげられる。聖書の巻頭に書かれている、闇と混沌のただなかに、神の風は吹き渡り、そこに神のひと言で光が存在するようになるという真理、それはこのイザヤ書三十五章の喜びに満ちた内容にかたちを変えて表されている。
この世は闇と混沌である。しかし、聖書の世界にはこのように、すでに数千年も前から、真の復興と再生をあらわす光と喜びが啓示されているのである。
そして、そのような再生をもたらすのは神であるが、神はこの世界に神の大いなる力を与えられた一人の人間が現れることを預言していた。

エッサイ(*)の株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。…
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。…
その日が来れば、エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11章より)
(*)エッサイとは、ダビデ王の父

このように、この世の荒廃から復興させ、再生の力を与えるお方(メシア、救い主)が、エッサイ、ダビデの子孫から生まれるという預言がここになされている。その救い主の特質は神の霊を受けているということ、そこから弱きものに力を与え、正義を行うということが記されている。
このことは、現代においてもそのままあてはまる。真の復興と再生は人間の努力や武力や権力でもなく、神の力、神の霊によるのであって、それとともに弱い者への愛がはたらく。神の愛こそは死んだようになった者をも再生する原動力なのである。
こうした万人の復興と再生をなしとげる救い主が現れるということは、イザヤ書の後半の箇所においてさらに深い意味をたたえて記されている。

… この人は主の前に育った。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを知っていた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた苦しみによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書53章より)

人間の魂が真の復興と再生をとげるには、いかに個人的に努力しても、また制度や組織を変えようとも、あるいは教育や科学技術がいかに発達しようとも、どうしてもできない無限に高い壁のようなものがある。
そこからの解放、そして再生は、神の力によるほかはない。そしてそのために、神はこのイザヤ書53章に預言されているような、かつてだれも聞いたことも見たこともないこと―万人の罪を担って、見下され、捨てられて死ぬという驚くべき使命をもった一人の人間によってなされることを予告したのであった。
そしてその預言のとおり、それから五百年ほども経って歴史のなかにそのような救い主がイエス・キリストとして現れた。
旧約聖書の最後の書にも、次のように記されている。

見よ、その日が来る。…
我が名を畏れ敬うあなた方には、
義の太陽が昇る。 (ミカ書3の19〜20より)

太陽が昇るとき、いっさいの植物も動物もその光と熱によって芽を出し、成長しはじめ、動き始める。春になっていっせいに山野の植物たちが芽吹き、動物たちも活動を始める。太陽は地上の目に見えるさまざまの生き物たちに、あらたな力を与える根源となっている。
それと同じように、人間の魂に光と熱を与え、再生させるのが、義の太陽であり、それはキリストを指し示す言葉なのである。
このようにして旧約聖書は閉じられているが、新約聖書になってその巻頭には一見無意味な、無味乾燥な系図と訳された名前の羅列がある。(*)
だれでも初めて新約聖書を手にとったとき、読みとばしてしまうことが多い。

(*)系図とは日本では先祖を誇るときなどに使うし、権力を握った歴史的に有名人の系図などが教科書に出ていることから、よくない連想がある。しかし、この系図と訳された原語(ギリシャ語)は、genesis であり、これは 旧約聖書のギリシャ語訳で、「創世記」というタイトルの訳語として用いられ、それが英訳でもそのまま踏襲されている。
系図と訳された原語は、生み出す gennnao という言葉から派生したものであって、起源の書と訳するのがより原語にふさわしい。(じっさいに、ドイツの有名な神学者、聖書注解者であるシュラッターはそのように訳している。Buch vom Ursprung Jesu,…)

この系図と訳されたのは実は、イエスの起源の書と訳すべきもので、イエスがいかなる起源から生まれたか、いかなる神のご意志によって地上に現れたか、を示す内容なのであって、決して先祖を誇るためでないことは、そこに現れる女性が 遊女ラハブのような罪の女や、当時は神を知らないゆえに汚れたとされていた異邦人ルツ、あるいは大罪を犯したダビデの相手であるバテセバなどが記されていることからもうかがえる。
この系図は三つに分かれていて、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、そして捕囚からキリストへという三つに分かれている。それは一つの家族にすぎなかったところから、大いなる民族となり、ダビデ王の時代に周囲の国々を平定して支配するにいたり、繁栄の頂点に達した。しかしそこからダビデの罪、人々の罪のゆえに、王国は分裂し、どこまでも下り坂となって国は滅び、遠くバビロン捕囚となって滅びの寸前に追い込まれていく。
しかし、そこから真の復興、霊的な再生への道がはじまり、それがイエスが現れるということに結びついていった。
このように、歴史は、腐敗と崩壊を経て、キリストに向かって流れていく、という大いなる流れがこの系図と称する名前の羅列のような記事の背後にはある。
すなわち、新約聖書の最初にそのようないかに困難な闇と混沌があっても、そこにキリストが現れるのが神の御計画であり、世界のあらゆる闇と混沌の最終的解決なのだということが示されているのである。
そして、主イエスがなされた行動、教えなどは、すべて、弱くて立ち上がれないような人たちの心身を回復させ、神の力を注ぐことによって再生がなされることが目的である。それゆえに、最も恐れられていたハンセン病、あるいは生まれつき目の見えない人、聞こえない人、そして立つこともできない人たち、そのような人たちに注がれる神の力と愛がとくに記されている。
そしてそのような目に見える弱さを持っている人たちだけでなく、実はすべての人間が、その罪のゆえに死んだようなものであり、そこからの再生がなされるために、キリストは来られたのだということがはっきりと記されている。
キリストの十字架を信じることによる罪の赦し、そこからの清め、そしてキリストの復活によって聖霊が信じる人にはだれにでも与えられるということ、それらもすべて霊的にみれば、使徒パウロがいうように、「死んでいた者」であった人間を起き上がらせること、再生することである。

…あなた方は以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 (エペソ書2の1)
…自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げ、五体を義のための道具として神に捧げなさい。(ローマ6の13)

キリストは十字架で死なれただけでなく、死からの復活によって死から再生する力を与えるお方となられた。そして、さらに求める者には、聖なる霊が与えられ、その聖霊によって日々新しくされていく道を開いてくださった。
キリストより500年ほども昔の預言書イザヤが述べたように、信じるだけでこの世の道とはまったく異なる新たな道、神の国へと続いている聖なる大路があるのを知らせて下さった。
そして最終的にこの世界、宇宙そのものが再生される新しい天と地とされるということが、新約聖書でははっきりと約束されている。
ここに究極的な復興と再生がある。

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