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 復活したキリストが現れたのは3度であったとヨハネ福音書には記されている。わざわざ3度と言っていること、この記述にはある特別な意味が込められていると言える。
 最初は、マグダラのマリアに現れた。彼女は、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…」(ルカ 8の2)と記されている。7つの悪霊とはどういうものであっただろうか。霊とは目に見えないものであるから、本来数えることもできないのであるから、この7つの悪霊というのも、絶望的なほどに重い霊的な病気であったということを暗示している。
 そのような女は、仕事も、結婚することもできず、従って当時は現代以上にとくに重要とされた子供を生むこともできなくなるため、社会的にも見捨てられた存在であっただろう。
イエスの復活という世界史での最大の出来事は、このように最も社会的に、また個人的にも暗黒の淵に置かれていた人に現れた。このことは、神の愛がどのようなところに注がれるかということを示すものである。
 当時、社会的にも重んじられていた律法学者、長老、議員といった人たちには現れなかった。
 二度目に復活のキリストが現れたのは、弟子たちがとらえられるのではないかと恐れて部屋に閉じこもり、内側から鍵をかけていたという不安で希望のない状態、やはり先の見えない暗い状況のときであった。
 そのような時に、弟子たちはイエスの助けを求めることもできなかった。復活など信じられなかったからである。しかし、そうした不安と闇のなかにいる弟子たちの集まりのただ中に、復活のキリストは現れた。そして、平安あれ! と言われた。
 これは、主イエスが最後の夕食をとるときに、「私の平安をあなた方に残していく」と約束されたことであった。
 このように、二度目は、信じる人たちの集まりのなかに現れたのであり、ここにも信徒の集まりの重要性が示されている。少し後になって、聖霊が歴史上、最も豊かに注がれた(ペンテコステ)のも、やはり信徒たちが祈り、待ち望んでいたときであった。
 主イエスが二人三人、私の名によって集まるところには私がいる、といわれたことを思いださせる。

逆戻りしようとすること
 そして、三度目、それは働いているときであった。ペテロたち7人の弟子たちは、復活のキリストに出会ったにもかかわらず、もとの職業であった漁師の仕事へと赴こうとしていた。
イエスに従った期間はわずか3年であったが、ペテロたち漁師はおそらくもう子供のときから、親についてともに漁師をしていたであろうから、何十年もなじんできた職業だったと考えられる。  
 復活のキリストに出会ったにもかかわらず、その復活を告げ知らせようという強い決意や力は与えられていなかったのがわかる。
 前進できずに、元の道に帰ろうとすること、それはペテロたちだけでなく、私たちはしばしばそのような状態になる。個人的にも、また組織や、国家も同様である。
 例えば、太平洋戦争という日本が引き起こした戦争によって、東南アジア一帯で数千万という人々が、傷つき死んでいった。日本でも大都市の空襲や原爆によってわずか一晩、あるいは一瞬にして、10万、20万人という膨大な人たちが死んでいった。
そのような目にあった人たちの家族もまた平和な家庭を破壊され、生き残った重い怪我や障がいを負った人たちも数知れない。その人たちの苦しみは計り知れないものがあっただろう。
 それほどの苦しみを受けたのちに、無条件降伏となったが、そのときには、昔の敗戦国が聖書にも記されているイスラエルのように、国そのものを滅ぼされて、消えてしまったりすることなく、日本の領土―北海道や九州などを奪われるということなく、天皇を中心とする観念を変えて民主主義とし、軍備も持たないという重大な変更をする後押しをすることになった。
 一部の地主が土地を持って多くの農民が小作人として苦しんでいた状態をもアメリカの強力な指導によって、農地解放され、かつての小作人として貧しい生活を強いられていた人たちも農地を与えられ、独立した農民として歩むこともできるようになった。
 そのような大きな変革の一貫としてとくに憲法9条も生まれた。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある。
 しかし、そのような理想に向かう方向は、まもなく、後退し始めて軍事力による防衛という考えかたが入り込み、徐々にその力を増大させていった。
このように、この世には、つねに個人的なことでも社会的なことでも、後退させようとする力が働いている。
 聖書においてもそのことは、創世記から記されている。
 例えば、創世記においてノアの箱船で知られているノアは、当時の人たちがその罪ゆえに滅ぼされていったなかで、わずかに残されたほどの神に忠実な人であった。そして神の命令にしたがって、乾燥地帯であったにもかかわらず、巨大な船を造った。その後、大雨が降り続き、1年ほども、箱船での生活を終えて外に出たとき、まず行ったのは、祈りであった。
 このようなノアであったが、生活が安定してぶどう酒を飲んで裸で寝てしまい、醜態をさらすということも聖書に記されている。
 また、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっても最重要人物の一人といえるアブラハムは、神からの語りかけに従い、生まれ故郷を捨てて、神の示す地へと旅立った。住み慣れた場所、友人親族も多くいて安定した生活ができるところをあえて離れて、まったく未知の遠い地域―1500キロも離れたところへと旅立った。それは大胆で勇気ある行動であった。行ったことのないところへと旅立つ、ただ神への信仰のゆえであった。途中の危険や困難もすべて神に委ねての決断である。
 そして、長い旅路を守られ、導かれて目的地へと到達した。そのとき、アブラハムが行ったのは、神への祭壇を造って祈りを捧げることであった。
 このような、アブラハムであったが、まもなく、その地に飢饉がおこって生きていくことが困難と判断し、エジプトにて生きようとした。エジプトに着こうとするとき、妻に言ったのが、「あなたが美しいから私の妻だというと、私が殺されるかもしれない。それで、妹と言ってほしい。そうすれば助かるだろう」ということであった。異母妹であるから全くの偽りではなかったが、ここには、未知の土地に向かってただ神だけを頼り、神の言葉にすがって歩んできた勇気はみられない。
 自分を守るために、妻をエジプト王に差し出すということであるから、信仰者とは思えないような行動である。
当時は現代と異なり、数千年も昔だから、奴隷として雇っていた女であっても、正妻に子供が生まれなかったらその奴隷をも妻のようにして、子供を生ませ、その子供を自分の子供とするようなことがごく当たり前であったのが、やはり創世記の記述でうかがえる。
 しかし、そういう状況であったにしても、妻の生活が全面的にそこなわれるかも知れないということをも、あえてした。ここには、信仰の人の面影はない。
 このようにアブラハムのような信仰の父として旧約聖書でも最も重要な人物の一人として描かれているような人であっても、その弱点、心ならずも陥った罪をも明確に記している。
 聖書の民にとって最も重要な歴史的事実は、出エジプトということであった。エジプトで奴隷状態となって滅ぼされていく状況にあったとき、神の人モーセによって驚くべき力が発揮され、民は救い出された。
 長い奴隷状態からようやく解放されたにもかかわらず、人々は荒野の旅においてしばしばモーセに敵対し、あるときには殺そうとまでした。
 
…人々は、モーセに向かって非難した。「なぜ我々をエジプトから導き出したのか。私も子供たちも、渇きで殺すためか。」
 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしている」…(出エジプト記 17の3〜4より)

 このように、人々は、エジプトで長い間奴隷状態で苦しんでいたことも忘れたかのように、せっかく解放されたのに 以前の古い奴隷状態がよかったかのように考えるようになった姿が鋭く記されている。
 また、食物が十分にないときには、次のようにモーセに向かって強い不満をぶちまけた。

…「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。
 あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。
 あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、私たちを飢え死にさせようとしている。(出エジプト記16の3)

 あるときに、神を信じて歩む道を知らされ、じっさいに人生の決定的な転機を与えられて、その道を歩み始めてもそこで終わったのではない。そこから新たな試練が始まる。 ひとたび知らされた道を、困難と直面してもなお、歩き通せるかどうかということである。
 また、キリストより3000年ほども昔のダビデ王は、その生き方、命の危険に直面しつつ信仰に生きた姿は私たちの心を強く動かすものがある。あるいはそうした困難のなかで生み出された数々の詩によって讃美歌の源流ともなった重要な人物であった。
 しかし、そのようにまっすぐに神に向かって歩んでいたその人が、そうした困難を通ったのちに周囲の国々を平定した。
自分のところから危険も去り、国家も安泰な状況となったそのときに取返しのつかない重い罪を犯すことになった。
 しかもその罪を1年ほども気付かず、預言者に指摘されて初めてその重大さに目を覚ますというゆるんだ状態となっていた。
 このように、後ろに引き戻そうとする力は、旧約聖書の最初からさまざまのところで記されている。
 そのことは、新約聖書にも見られる。ユダはその典型的な例である。キリストによって呼び出され、すべてを捨てて従ったはずであった。だが、彼はお金に目がくらみ、闇の力に引き戻されて、キリストに敵対するようにまでなってしまった。
 金はこのユダの例でわかるように、強い力によって人間を正しい道から引き戻そうとすることが多い。
 現在の日本の最大の難問となっている福島原発の大事故、これもやはりあるべき道を金の力で強引にゆがめ、学者や地元の人々、マスコミ関係の人たち、そして一般の日本人などを次々と惑わし、その本体はきわめて危険であるにもかかわらず、絶対安全だということを巨額の宣伝費―東京電力だけみても、年に250億〜300億円ともいう金を投入し、偽りを日本人全体に宣伝し続けたのであった。
 それによって、静かな自然は破壊され、田舎の素朴な人間関係は親族であっても引き裂かれ、農業や漁業なども失われて、原発からの多額の金によって不要な施設、あるいは必要以上にぜいたくな施設が次々と造られ、金によってその地域やそれにかかわる人々が不正な道へと引きずり込まれていった。
 人間の前進を阻み、逆戻りさせようとする力は、新約聖書でも随所に述べられている。
 それは、イエスの受けた誘惑、試練ということで、その生涯の最初に出てくる。
 ここでも、やはりサタンが、私に頭を下げたら、この世の栄華(金や地上の権力、名声等々)を与える、という誘惑をしかけてくるのが記されている。
 それに対して、主イエスは、「退け、サタン! ―あなたの神である主を拝し、ただ神に仕えよ―と書いてある。」として、神の言葉をもってサタンの誘惑を退けられた。
 神の国のために、職業も家族も、それまでの平和な生活などすべてを捨てたはずの弟子たちであったが、イエスが十字架にかけられるという重大なことをイエスから知らされてもなお、弟子たちのうちで誰が一番大きい存在であるかとか、イエスが王となったときには、自分を重要な地位において欲しいとか願う状態であった。
 職業とか捨てても、内なる自分を捨てることはできなかったのである。
 その内なる自分が、引き戻そうとする。
 それゆえに、真に新しい生活になるということは、この自分でも気付かないほどに深く根付いている自分というものから離れることが不可欠になる。そのためにも、キリストは来てくださった。キリストと共に古い自分は死んだ。そして聖霊によって新しく生まれ変わる、ということが新約聖書において強調されている。

主だ!
 このように、古い生活に逆戻りするということは、聖書そのものに多く記されている。ペテロたちもまたそのような力によってもとの漁師としての生活へと戻ろうとしたのがうかがえる。
ペテロたち漁師は一晩漁をした。それでも何もとれなかった。疲れ果てて岸辺に帰って来たとき、陸地に人が見えた。それは復活したイエスであった。しかし、弟子たちは誰だかはわからなかった。その人が、「魚はとれたか。(食べるための魚はあるか)」(*)と尋ねた。

(*)新共同訳は「食べる物」と訳しているが、 原語の プロスファギオン pros-phagion (phagionは、食べるという意味の語)「魚」とも訳される言葉であり、この箇所の場合は、漁をしてきた漁師に尋ねた言葉であるから、単なる食べ物でなく、魚と訳するのが前後の文脈からよりスムーズに理解できる。 英語訳の代表的なものもそのように訳している。haven't you any fish?(NIV) あるいは、「何か(魚が)とれたか」 Haven't you caught anything? (NJB)

弟子たちは、ない、と答えた。するとその人は、もう一度網を打ってみよ、とれるはずだ、と言われた。するとたちまちたくさんの魚がとれた。
一人の弟子が、「主だ!」と言った。すると、ペテロは 「主だ」という一人の弟子のひと言でただちに、それがキリストだとわかった。ペテロ自身がまず気付いたのではなかった。別の弟子がさきにイエスであることを示されたのである。その弟子の受けた啓示をペテロもただちに受け取って霊の目が開かれたのであった。
 私たちの霊的な目が開かれるためには、多くのことは必要でない。このように、ほんのひと言でも十分なのである。それに神の力、聖なる霊の力が働くときには、目が開かれる。
 そして、もう岸辺までわずか90メートルほどであったにもかかわらず、ペテロはただちに湖に飛び込んでイエスのもとに向かった。
岸はすぐ近くであるし、船は岸に間近に近づきつつあった。飛び込まなくとも、すぐに岸に着く。それでも、ペテロは飛び込んだ。
 日常の生活のなかで、ここに主が働いておられる…とはっきりと実感したとき、あるいは、二つの道があっていずれを選んだらいいか分からないようなとき、祈りのなかで、はっきりとこちらを取れと言われていると感じたとき、言い換えると、この道を選ぶように導かれるのは、主だ! とはっきりわかったときには、ほかのことをいっさい考えないで、まっすぐに主に向かっていく、というその決断の重要性がここでは示されている。
 ここに、人間を転換させるものは何か、その力はどこから来るのかがはっきりと示されている。逆戻りしようとする、あるいは古い生活に戻ってしまった人間に決定的な力を与えるものは、人間的な決意や周囲の人間の言葉でない。それは、生きたキリストの言葉なのである。
 使徒パウロも、ユダヤ教の指導者として、キリスト教徒を迫害して殺すことまで加担していたし、国外までその迫害の手を伸ばしていた。そのようなかたくなな人間を根本的に変えたのは、だれかの説得でも自分の判断でもなかった。それは、このときのペテロが、別の弟子のひと言で目が開かれたように、復活のイエスそのものである光と、主のひと言で目が開かれたのである。
 ひとたび目が開かれたとき、ただちにペテロはイエスに向かって飛び込んだ。
神の風が吹きつけたとき、人は周囲の状況にかかわらず、イエスに向かっていわば飛び込むようにまっすぐと進みはじめる。
 現代の私たちも、日常の生活や礼拝集会などにおいて、仕事や、読書、祈り、自然との交わり、また散歩や賛美 …といった中において、霊的に目を覚ましているきときには、そのただなかに、そこに主が働いておられること、「主だ!」と感じることがある。
 弟子たちが夜通し漁をしたにもかかわらず、何もとれなくて疲れ果てていた。そのようなときに主が働いてくださった。
 人間的な努力によっては何もよいことが生まれなかった。しかし、そこに主からの呼びかけがあり、主が近づいてくださる。そして私たちは、その貧しさや悲しみのなかに、主だ!と実感することができるようになる。
 そして、そのとき初めて、主に向かって飛び込む新しい生活へと変えられていく。
 そして弟子たちは、岸辺に着いて驚いた。なんとイエスが炭火をおこし、魚が上にのせられ、パンもあった。そしてイエスは、「さあ、来て食事を」とすすめた。 
 そして、イエスご自身が魚とパンを弟子たちに与えたという。
 ここにイエスの愛が表されている。仕事に疲れ果て、何の結果も出せなくて帰って来た、そのような者に語りかけ、みずから食事を用意して弟子たちに与えたという。
 こんなにまで至れり尽くせりのこと、それはイエスの弟子たちへの愛を示すものであった。
イエスに向かって飛び込むときには、イエスの愛に出会うのである。
 このヨハネ福音書が書かれたのは、ローマ帝国による迫害の時代がもう三十年以上も続いてきた時代である。そこで福音を伝えようとして働いても何のよきことも生まれないということもあっただろう。よき働き人が殺されたり捕らわれてしまうということもあったと考えられる。この21章は、そのような厳しい状況のなかで疲れ果てている弟子たちへの励ましでもある。
 主に向かって飛び込むことがなかなかできない場合もある。しかし、それぞれの置かれたところで、小さな一歩を踏み出すことはできる。
 そうすれば、私たちは弟子たちにわざわざ炭火をおこし、魚を焼き、パンまで用意してくれる主イエスの愛に出会うのである。食事をつくりそれをくださるイエス、現代の私たちもそうした愛をもってかかわってくださるお方を必要としている。現実の生活のきびしさ、自分の罪の深さ、まわりの状況の闇や混乱…そうしたことにかかわるだけでは、疲れ果てて戻ってくることになりかねない。
 しかし、そこにもおられるキリストに出逢い、キリストからの霊のパンをいただくとき、私たちの魂はフレッシュにされ、力づけられて新たな一歩を踏み出すことができる。

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