リストボタン神の言葉の力―詩篇19篇(その2)

詩篇19篇は、前半においては、自然の世界における神の栄光を示し、そのことは夜も昼もたえず全世界にメッセージとして語り続けられているという、自然が語る神の言葉を記している。
自然は単に美しい、清いというだけでなく、物理的な声としては聞こえないのに、ある種の呼びかけ、響きともいうべきものによって世界中にメッセージを送っている。
5節は、はるか後に生じることの預言ともなっている。
 キリストのメッセージというのは昼も夜も語られ、全く意外なところで話すことも、語ることも声が聞こえなくても伝わる。わたしも一冊の本を少し読んだだけでそのメッセージが伝わった。
このように旧約聖書はいろんな意味でイエス・キリストを指し示している。主イエスも次のように言われている。
…あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
(ヨハネ 5の39、なお、ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことである。)

心臓は昼も夜も血液を送り続けている。そのようにキリストは、今も絶えず真理、メッセージをこの世界に送り続けている。
イエスのことは、人の予想を超えて伝わっていくということの一例として次の記事が思いだされる。
主イエスが十二人の弟子を遣わしたときに、異邦人でなく、イスラエルの失われた羊のところへ行け、サマリアなど、ユダヤ以外の地域には行くなと言われた。
 主イエスが、福音を伝えはじめたガリラヤ湖付近からは直線距離でも100キロ以上ある異邦の地、カナンのフェニキアの方へ行ったことがある。
 そこに住む女との会話のことがマタイの福音書十五・21にある。その女が、「ダビデの子よ。」と言った。これはイエスがダビデの子孫として現れるメシアだと信じているということを示している。この地方には、イエスも弟子たちもそれまで行ったことはなかった。
それゆえ、イエスがメシアであるとは、まだ誰もそのような異邦人には本来信じられていなかった、知らなかったはずである。それなのにひれ伏してまで主イエスにすがる信仰はどこから来たのだろうか。
主イエスから「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」と言われてもひれ伏し、自分は小犬のような小さきものであっても、「小犬もパン屑はもらえるのです。」と答えた。それほど主イエスの絶対的な力を信じきっていた。主イエスからこぼれ落ちるパン屑―イエスの持つ小さな力を分けてもらえるだけでもいやされる、と言うほどであった。
それゆえに、イエスから、「あなたの信仰は立派だ(大きい)」と言われた。
ユダヤ人の指導者でもイエスをメシアと信じないどころか、殺そうとしたのに、こんなに遠くの関係のないところで、主イエスへの深い信仰が生まれたということは驚くべきことである。いったいどうしてこの女の人に伝わったかということは、聖書では何も記していない。
このようなことが、この詩篇で言われている、「話すこともなく、語ることもなく、その声もきこえなくとも」伝わっていく。 神というのはそのようなお方である。聖書は神様やキリストの非常な力を絶えずいろんな形で語っている。
 このようにこの詩篇の前半は自然というものが、単に人間と関わりなく存在しているのでなく、神の言葉を送り続けているということをのべている。
そして自然の中で最も大いなる存在といえる太陽にとくに言及して、単に太陽の壮大さ、その力強さを述べるのでなく、太陽の動きは、花婿が部屋から出てくるように、また、力ある人が喜びながらその道を走るようだ、と書いている。
太陽はあらゆる民族、いついかなる時代であっても、自然物としては最大の関心を持たれてきたであろう。しかし、夜明けのときの太陽は、花婿のように、勇士のように力ある者が喜びつつ出て行くようだと書いているのは他に例を見ないのではないか。
太陽の出るとき、その動きに人格的なものと喜びを実感していたのである。そしてその強力な熱は、すべての人に恩恵を与えている。
このような太陽への特別な言及は、主イエスが、後に「父(神)は、悪人にも善人にも太陽を昇らせる」(マタイ5の45)を思い起こさせる。
 このように太陽の動きを見るだけでも、神様の喜びをこの詩の作者は読み取っていたということである。あたかも生きているものが動いているかのように、自然の中にも動的なものを感じ取っていた。

8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。
10 主への畏れは清く、いつまでも続き
主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し
それらを守って大きな報いを受けます。
13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
14 あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。

 8節以降は大きく内容が変わる。しかし、7節までに言われていたこと―自然が神の栄光を表し、神のメッセージを送り続けているということ―と深く結びついている。
8節からはその神の言葉(律法)の本質がどのようなものであるかが言われ、さらにその神の言葉に対して自分がいかに罪深い存在であるかが言われている。
まず、神の言葉の性質が言われているが、その最初にあげられているのが、「主の律法は完全」ということである。この新共同訳の訳語は、「律法」(*)であるが、律法というと、何か私たちには関係のない昔のユダヤ人のもの、といったイメージがあるが、律法も神の言葉であり、現在の私たちには、「神の言葉、み言葉」と言い換えて読むほうがより明確に神からのメッセージとして受け取ることができる。

(*)新共同訳で「律法」と訳されているが、口語訳では「おきて」、新改訳、フランシスコ会訳では、「(み)教え」、文語訳では「法」などと訳されている。原語のトーラーは、教え、法、法を集めたものという意味からモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、さらには旧約聖書全体を意味するようにもなった。
なお、一つの原語(ヘブル語)に対する訳語は、訳者の受け止め方によって実にさまざまであるから、日本語に訳された言葉を絶対視する必要はない。例えば、新共同訳の訳が、ほかの訳ではどのように訳されているかを比較してみる。なお、新共同訳と他の訳とでは、節が一つずれている場合が多い。
・定め(8節)→証し(口語訳、新改訳)、証言(あかし、関根正雄訳)、諭し(フランシスコ会訳)、
・命令(9節)→さとし(口語訳)、いましめ(新改訳)、示し(関根正雄訳)、定め(フランシスコ会訳)
・戒め(9節)→命令(岩波書店発行の訳)このように、役者により、多くの訳語で表されている。 律法、諭し、戒め…これらすべては、「神の言葉」なのであるが、それを詩であるから同じ言葉、表現を使わないでさまざまの表現で表しているのである。

8節から11節では神の言葉の性質を簡潔に言っている。8節では神の言葉は完全であり、生き返らせる力を持っているとある。ここで生き返らせると訳された原語(*)は、もともとの意味は 方向転換する、というものであり、そこから、死へと向かっていた人の魂を生に向かって方向転換させてくれる、という意味があり、そこから、生き返らせる、という意味になる。

(*) ヘブル語では、シューブといい、預言書ではとくに重要な言葉であり、立ち返る、悔い改める といった意味で用いられている。英語では、return turn などと訳されることが多い。

私自身も、たしかに滅びの方向に向かっていたのが、神の言葉によって確かに方向転換することになり、生き返らせてもらったのであった。
私がはじめて精神の世界、目に見えない世界が確固として存在するということに目覚めたのは、山という自然の深さに触れたときであった。しかし、それは自分の本質を変えることにはならず、いろいろな悩みや問題は退かなかった。次いで、私は、一冊の本によってギリシャ哲学に触れることになり、そこで初めて、思想というもの、哲学的に考えるということが何であるのかを知らされた。
それによって永遠的なもの、目には見えない真理そのもの、善そのもの、美そのものがあるということに目が開かれた。それでも、なお自分の心の中の問題、弱さや醜さはどうにもならず、また最終的にこの世界はどうなるのか、太陽や地球も滅んでしまうのなら、正義や人間の独立などみな消滅してしまう、という未来世界については、ギリシャ哲学のプラトンも、輪廻ということをほのめかしているだけで、確固たるものを与えるなどは到底できなかった。
そうしたさまざまの探求と動揺のなかで、最終的に決定的なものが与えられたのは、神の言葉であった。
それまでに、学生運動の激しいさなかであったために、おびただしい人間の言葉―議論や相手を攻撃する言葉―がはんらんするなかであったが、そしてそれなりにいろいろな本を読んだが、そうした人間の言葉を読んだり聞いてもなおのこと混乱するばかりであった。
人間の言葉は不完全である。どんな思想家や哲学者でも不完全である。また人間の言葉は、人間そのものがいちじるしく不完全なものだから、その言葉も力がなく、本当の意味で「生き返らさせる」ことはできない。
生き返らせるどころか、混乱させ、あるいはしばしば致命的なものになって、ひどい言葉で相手の心を殺すこともある。実に対照的なことを最初に書いてある。今の首相や大統領が言った事も数年もしないうちにほとんどの人は忘れているだろう。
しかし聖書の言葉は、あらゆる時代や災害、あるいは悲劇的なことなど一切を超えて残ってきた。それは、み言葉が完全であり、生き返らせる力があるからである。
次に「神の言葉は真実だ」とある。人間の言葉には絶えず嘘があり、誇張があり、不十分である。 しかし、神の言葉は完全なのであるから、おのずと真実だということになる。完全とはあらゆるよいものを含んでいることだからである。そして、神ご自身の最も重要な本質が、真実ということであるゆえ、その神から出てくる言葉も当然真実そのものだということになる。
そして無知な人というのは、口語訳では無学な人、関根訳では愚かな人と訳されるが、神の言葉は、無学であっても、またいろいろの出来事に無知な人であっても、英知(叡智)を与える。英知とは、真理を認識する能力、洞察力を言う。 新共同訳で「知恵」と訳しているが、聖書の本来の意味は「知恵」とは相当違った意味である。「知恵」は、悪知恵とか、知恵をつけてやるとか、しばしば悪い、否定的な意味でも使われる。
しかし、ギリシャ語では「ソフィア」である。(*)
 そしてこのソフィアを愛する(フィロ・ソフィア)、言い換えると、真理を愛する(フィレオー phileo)ことこそ、ソクラテスやプラトンが生涯を通じて追求し、ソクラテスはそのために死刑を甘んじて受けたのであった。そのような真理を愛する精神であるにも関わらず、それが、一般の人にはほとんど使われず意味がわかりにくい「哲」(聡いという意)と、学を結びつけ、「哲学」と訳されてしまったので、固い学問だ、と思い込まれることにもつながった。「…学」と「…愛」では全くことなるからである。
(*)英知とは、上から来るものでありその重要性ゆえに、大学の名前に、上智大学というのがある。(これを「知恵大学」などとすると、何かテレビの娯楽番組に出てきそうな名前になってしまうことからも、知恵と英知ということでは日本語のニュアンスが大きく異なるのがわかる。なお、この大学の英語名は、SOPHIA UNIVERSITY であり、ソフィアを、神に由来する叡智としている。)

このように無学な人にも、深く神のことを直感的に理解する洞察力が与えられる。神のことを深く知るということは、学問がなくても、大事なものを見抜き、本当に価値があると認識する能力を与える。神はこうした叡智に関しては、平等に人間を創っており、文字すら読めない人たちにも、英知は与えられてきた。
 キリストの弟子の4〜5人は漁師であって、学問もなく、文字も読めなかったのではないかと思われる。しかし、キリストに出逢い、聖なる霊を受けてからは、このような英知を与えられた。ヨハネ福音書など、その深遠な内容は、まさに学問でなく、経験でもなく、神からの直接の啓示が与えられたものだと感じさせられる。
 9節では、神の言葉はまっすぐで清らかであり、喜びを与える。このように神の言葉と言うものは完全な力を持っているから、3,4,5節であったように、不思議な力が伝わっていく。一見前半は自然界のこと、後半は神の言葉のことに見えるが、実は奥ではつながっている。
私たちの目に光を与えるものは何か。目に見える世界では、それは太陽である。そして、霊の目、心の目に光を与えるものは、霊的な太陽というべき神であり、その神の言葉である。
 太陽の光そのものがなくなればたちまち闇となって歩くこともできないし、気温も零下100度以下となって、凍りつく世界となる。
霊的な世界においても、神の光がないほど人の心は固くなり、よき働きができなくなる。真実な愛もなく、魂が冷えてくる。

… あなたのみ言葉は、
わが道の光
わたしの歩みを照らす灯。 (詩篇119の105)

 12節からは内容が、大きく変わる。ここからは「わたし」という一人称の言葉が出てくる。11節までは個人的なこととははるかに離れた、永遠の真理や宇宙のことが言われていたが、ここからは個人的な語り方になっている。
大いなる神の宇宙の壮大な創造の力や、また神の言葉の非常に深い意味と比べて、その前に立たされた「わたし」は本当に小さなものである。
この作者が言おうとしているのは、罪の問題である。人間としては神の清い本質から、大きく外れてしまっているという認識である。知らずに犯した罪、隠れた罪、意図的な罪を12〜14節で言っている。
知らずに犯した罪というのは、例えば日々出会う人や、ニュースなどで苦しみを受けた人々に対して祈らない、ということは、おそらく最も多く本人の気付かない罪と言えるだろう。あなたの隣人を愛せよ、といわれている。隣人とは、たまたま出会った人、学校や会社、近所などでいつも会っている人、町や電車などで出会う無数の人たち、そうした人はみな隣人であるがそうした人たちへの祈りをしない、ということは万人に注がれる神の愛に照らしてみるとき、それも罪ということになる。
なすべきこと、それはできることがいろいろあっても、怠け心や惰性に流されたり、この世のたのしみのために忘れているとかいくらでもある。しかし、それは多くの場合気付かれていない。
ここで言われている、「知らずに犯した過ち、隠れた罪」(13節)というのは、そのようなことを意味しているのであり、とくに他者への祈りと適切な対応ということについてはだれでも限りなくその罪が日常的にあると言えるだろう。
そうした隠れた罪以外に、知っていて犯していく罪もたくさんある。傲慢であってはいけない、自分のもっている財産、能力、何らかの才能などを誇ったり人間に頼るのはいけないと知っていてもつい、頼ったり誇ったりする。これらもまた日常的に起こっていることであり、知っていておかす罪である。
こうしたすべてのあるべき姿から遠く離れている現状において、この詩の作者は、そのような自分の心の現状が変えられることに対して深い願いを持っている。

… 私の言葉が、御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように。(15節)

この二行はほぼ同じことを言い換えている。詩篇にはこうした書き方が多い。
私の思い、考えが神のご意志にかなうように、という願いである。この願い、祈りこそは、万人の願いであり、また私たちが死の迫るときまで続く祈りである。
それゆえに、主の祈りにも、この祈りが含まれている。
…御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。…
ここで、御心と訳されているのは、意志という原語であり、神のご意志がこの地上でも行われますように、すなわち、愛に満ちた清いご意志、永遠に変わらない正しいご意志が行われるようにとの祈りである。
人間は、どうしてもこのような祈りと反対の自分の意志、自分の考えを通そうとする。そこからあらゆる怒りや憎しみ、妬み、また奪い合い、戦いなどが生じてくる。
 そして死後のことにも、自分という人間の狭く小さな考えを中心にして死後などないのだ、と考えたり、この世は悪が勝つのだ、と思い込んだりしてしまう。これらはすべて、神のご意志より、自分の意志、考えを第一に置くところからくる。神のご意志は、神があらゆる悪に必ず勝利する、ということは明白なことであり、聖書全体にわたってそのことが至る所で記されていることだからである。
 そしてこの詩の最後に神に向かって、「わが岩、わが贖(あがな)い主よ」との呼びかけでこの詩は終わっている。贖う、これは日本人はたいていこのような難しい漢字を使わないし、その意味も不明だという人が圧倒的に多いであろう。
「贖う」と訳された原語は、家屋を「買い戻す」(レビ記25の33)とも訳され、また、人々をエジプトの苦役から救いだすという意味で、贖う(出エジプト記6の6)とも言われている。
自分はさまざまの罪の中に閉じ込められた状態でそこから逃れることができない。ただ、神のみがそのような状態から救いだすことができるという作者の経験と信仰がある。
このようにこの詩は前半には自然と神の言葉、そして後半は人間と神の言葉に関する真理が記されている。それぞれ深いかかわりがあるということである。
宇宙全体において、神の言葉はたえず出されている。
 そしてそのような宇宙的な力を持つ神の言葉は、また弱い一人一人の人間の罪深い本性にも語りかけられていて、その罪を赦し、そこから救いだすという力を持っている。
 この詩の後半では人間全体の問題である罪を、自分の内なる経験として深く感じ取ったことを記している。
 この詩において自然の世界、神の言葉、そして人間の問題がここに圧縮されている。
 自然のことに関心がある人は前半に、神のことに関心のある人は真ん中に、罪の問題に悩んでいる人は最後のところからというように、どこの箇所からでもいろんなものが掘り出されるという非常に奥の深い詩である。


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