いのちの水「新しい年の祝福を祈ります。」

主よ、あなたは私のともしびを輝かし
神よ、あなたは私の闇を照らしてくださる。
(詩篇18の29)


リストボタン賛美と祝福のこだま

私たちが生きていくためには、何らかの応答が不可欠である。 人間は、生まれ落ちたときから、死に至るまで、絶えず何らかの応答を求めている。
そして神などいないと思っている人には、人間の応答こそ日常的にきわめて重要なものとなっている。親子、夫婦、職場の同僚、仕事で出会う人々との応答がなかったら生活は成り立たない。
しかし、神を信じる人たちは、そうした人間同士の応答のほかに神との応答の世界を与えられている。
私たちが心から神への賛美をささげるとき、神もまた私たちを祝福して下さる。よきものを神にささげるとき、神もまたよきものを下さる。
これは霊的世界の法則である。
主イエスも、求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる。探せよ、そうすれば見いだすと約束された。
こうした生きた応答こそ、キリスト者の最も必要としているものであり、それによって私たちは生かされる。
そのことの一端が、旧約聖書の詩のなかに記されている。

…主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。
夜ごと、主の家にとどまる人々よ
聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
天地を造られた主が
シオンからあなたを祝福してくださるように。(詩篇134篇)

ここでは、「たたえる」という語と、「祝福してくださる」という語は、原語では、同じヘブル語(*)が使われている。

(*)バーラクという語である。それゆえ、多くの英訳では bless (「祝福する」が原意 )がこの詩では使われている。しかし、英語の bless も、このヘブル語と同様に、賛美する、という意味にも用いられる語である。

それゆえ、原文あるいは英訳で見るなら、この短い詩のなかに同一の語が繰り返し3度も現れているのに気づくのである。
人間の側で、神へのよきこと―ここでは賛美(バーラク)―をささげるときには、神もまたよきもの―祝福(バーラク)をもって応えてくださるというのである。
それはいわば、賛美と祝福が、こだまのように行き交う世界である。
ひるがえってこの世を見るときには、よきものを投げかけても、帰って来ないということは数しれずある。好意をもって、相手への愛をもってしても、誤解や無関心あるいは無視されることはいくらでもあるし、逆に欺いたり、侮辱や敵意をもって対してくるということすらある。
主イエスも、「ぶどう園の主人が、農夫に、よいぶどう園をまかせた。収穫の時がきて、僕を繰り返し送ったが、その管理人たちは、その僕らを、みな袋だたきにしてしまったり、殺すことまでした」というたとえを話されたことがある。(ルカ20の10)
このようなことは、まさにキリストに起こったことであり、それをこうしたたとえで言われたのであった。
しかし、一度、目を神に向けるときには、まったく異なる世界が開かれる。
神への真実な感謝、賛美というものは―時にはとても遅いと感じられることがあっても―必ず神からの祝福が帰ってくるというのが、この詩のメッセージなのである。わずか数行というこの詩は、詩篇150篇のなかで、最も短い詩であり、一見しただけでは、何のためにこのような短い詩があるのか、それは私たちに何の意味があるのかと思ってしまい、おそらくほとんどの人に読み過ごされていくであろう。
しかし、実はこの短い詩には、はじめに述べたような、霊的な深い祝福の世界が内蔵されているのである。
このような霊的な、こだまの世界を私たちは知らされている。
これは、賛美にとどまらない。主への感謝、喜び、また真実や平和への思いを主にささげるときには、主からの愛や真実、そして平安がまた私たちにこだまのように帰ってくる。
このような状況を、ヨハネ福音書では、その第一章の最後にしるしている。

…もっと偉大なことをあなた方は見ることになる。
まことにまことに(*)、あなた方に言う。天が開け、神の使いが、人の子の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。(ヨハネ福音書1の51)

(*)新共同訳では、「はっきり」と訳されているが、原文は、アーメン、アーメンであり、ヘブル語のアーメーンは、この語のもとにある語が、「堅固なこと、真実」という意味をもっているから、本来の意味は「まことに、真実に」となる。「はっきり」というのは、例えば、口をきちんと開けずに言えば、もっとはっきり言いなさいというように、単に明瞭性をさすだけの言葉として多く使われる。しかし、アーメンとは、真実性を言う言葉であるから、文語訳、新改訳もこのように訳している。英訳のほとんども同様である。例えば、I tell you the truth (NIV) 、
Truly, truly, I say to you (RSV) など。

人の子とは、キリストを指す。そしてキリストを信じて、一つになる者―キリスト者もまたそれゆえに、このような偉大なことが起こるという約束である。天使が私たちの賛美や祈りを天に持ち運び、そこから神の祝福を携えて私たちのところに降ってくるという賛美や祝福のこだまを象徴的に指し示している言葉なのである。
悪しきこだまが反響するこの世界において、このような、天からのこだまが響く世界へと私たちは招かれているのである。


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