リストボタン絶望から光へ―詩篇22篇

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。(詩篇22の2〜3)

この詩は、単なる詩ではない。主イエスが、十字架で釘付けにされ、息も絶えようとするときに叫んだのが、この詩の最初の言葉であった。そのことは何を意味するのだろうか。
イエスの一番苦しいときの叫び声が、詩篇の叫び声と同じだった。それは、イエスは人間の代表的な人であったが、完全な神の力を受けた人でも最も苦しい思いをしなければならないということの預言となっているのである。
詩篇は単に個人の感情や思いを言うものではない。聖書は信仰を持てば、悩みや苦しみはなくなるというようなことは言っておらず、信仰を持っていてもこの地上においては、非常な苦しみが降りかかってくることがあることを、はるか昔から言っている。
このように旧約聖書の時代から神を強く信じていながら、最も苦しい状況に追い込まれた人がその自分の経験を言葉で表した。それは本人には預言となるということはわからなかったであろう。しかし、この詩は、神によって、未来に起きることの預言とされた。
この苦しみの中にあっても、作者は神など存在しないとは言っていない。私たちの神に対する考えや見方、信仰というのは、苦しいことがあったら、神様などいないと思うのと、もう一つはこの世に神様はおられる。けれども見捨てられたんだという思いのどちらかになる。
神様など存在しないと思うようになった人の中には、信仰を捨てる人もいる。また神様はおられると信じていても、見捨てられたと思ってしまったら絶望してしまう。
これは旧約聖書に出てくるヨブもそうであった。神が意図的に自分を捨てたんだったら、もうどうすることもできないという気持ちになる。このようなことは私たちにも生じうる。
信仰を持っていて、信仰にしたがって生きてきた、神のみ言葉に聞いて生きてきた。それなのに、普通の人にすら起こらないような大変な苦難がふりかかってくる。そのようなときの苦しみが、この詩によく表されている。長い信仰生活にあって、たしかに神は助けてくださった。ともに歩んでくださったという確信があった。しかし、そうした愛の神がなぜ、現在ふりかかっている耐えがたい困難をそのままにして助けてくださらないのか、愛と真実の神ならば、どうしてこの叫びを聞いてくださらないのか…と神への叫びが湧きでてくる。

…昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。

この詩の作者は、夜も昼も絶え間なく、その苦しみのゆえに神に叫び祈り続けているのがわかる。黙ろうとしてもそうしておられないほどに苦しみが押し寄せてくるからであった。
しかし、そのような状況にあってもなお、この作者は神はどんなお方であるのか、ということは心にしっかりととどまっていた。そのことを次の言葉は示している。

…だがあなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方。(*)
わたしたちの先祖はあなたに依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出されあなたに依り頼んで、裏切られたことはない。(4〜6節)

(*)原文は、「アッター(あなたは)、カードーシュ(聖である)。」という二語であって、新改訳の「あなたは聖であられ…」という訳がそれを表す。英訳でも、you are holy となる。
また、「インマヌエルの賛美を受けるお方」と新共同訳では訳されているが、原文には、「(賛美を)受ける」という語はなく、直訳すれば、「彼は住んでいる、賛美、イスラエルの」となっているから、「イスラエルの賛美を住まいとしている」と訳せる。(新改訳)
英訳でも、You are holy, who make your home in the praises of Israel,(NJB)というように訳されている。

自分の現状がいかに闇であり、絶望的であってもなお、神は決して裏切ることはない、長い歴史のなかで、神により頼む民はずっと救われてきたという事実に立ち返っているのである。
神とは、イスラエル―すなわち神を信じる人たちの賛美のなかに住んでおられる。それは言いかえると、民の賛美をつねに受けてこられた。無数の人たちが、神のなされた救いのわざやその導きに喜び、感謝し、そこから神への賛美をささげてきたのである。
あなたこそは、聖である、というこの作者の信仰的実感こそは、この人の原点にあった。「聖」とは、「分けられている」(separate, apart)というのが原意であって(*)、人間のあらゆる混乱や汚れ、また時間や空間的な束縛からも、分けられた別個の存在であるという意味を含んでいる。

(*)BDB Hebrew Dictionary による。

自分がいかに神に祈り、叫んでも聞いてもらえない、という現実がある。しかし、だからといってこの作者は、神などいないというようには思わなかった。なぜ、自分にこのような苦難がふりかかり、それがいかにしても除かれない苦しみが続くのか、ということはまったくわからなかった。自分にはわからなくとも、神は、あくまでそうした自分の苦しみやこの世の汚れなどとは無関係に、完全な存在としておられるという確信は揺るがなかったのである。
聖書は、こうした深い信仰の世界を私たちに提示している。自分に利益が与えられなかったら信じない、というのでなく利益どころかいわれなき苦難が続いてもなお、神の愛や真実は存在しつづけているのだと信じる姿勢なのである。
自分を打ち倒そうとする力に対して、あくまで神を信じつつ、叫ぶことを止めないという作者の心の世界がここにある。
だが、現状は、人間ではないと思われるほどに苦しみで生きていくのが困難な状況となってしまった。

…わたしは虫けら、とても人とはいえない。…(7)
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」
(7〜9節)

7節からは周りの人間から見捨てられたことが書かれている。そしてそれも神様が見捨てた証拠だということである。人間の屑のようにされ、嘲笑われたり見下された。人々から「お前は神様を信じているのなら、その神に救ってもらえ」という嘲りを投げつけられた。このことは新約聖書でもイエスによって実現した。

…そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ福音書27の39〜44)

主イエスが十字架につけられたときに起こったこの出来事は、それに不思議なほど似たことが、それより何百年も昔の人が、体験したことであった。まさに、この詩の作者が書き綴ったその体験は、キリストの苦しみという重く重要な出来事の預言ともなったのである。
旧約聖書の詩とは、単なる一時的な人間の感情を記したものではない。それは深い地下を流れる水のように、500年をも越えるような歳月をも越えて、実現していくことをも含んでいる。
預言書だけが、未来のことを予言したり、現状をするどく神の目をもって見抜くのではない。旧約聖書の詩の作者も、しばしばそうした預言者なのである。
…わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、
あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。(10〜12節)

そして10節から、自分が生まれ出たのも、その背後には神がそのようになされたのであり、母親の乳房を吸って生きようとした本能的な行動も神がそのように導かれたのだと述べている。
ここには、自分の存在が、母親とか周囲のいろいろな人間の世話によることはもちろんであるが、そうした人間のはたらきの背後の神によってなされていると実感している人の姿がある。
この詩の作者は、「母親が私をみごもったときから、ずっと神にすがってきた」と、私たちが考えもしない表現で言っている。母の胎内にいるときから、その胎児が神にすがってきたとは何を言おうとしているのだろうか。
それは、自分の魂の根源には、神に結びつく本能のようなものがある。この世界に生を受けたときから、その本能的なものが働いて無意識的に神への結びつきを求めるようになったと言える。
これこそ切っても切れない関係である。あるときから神との関係が生まれたのではなくて、本当はずっと前から神のほうから見つめていてくださったんだということに気がつく。
神は時間を越えたお方なので、自分の存在というのも誕生日からでなく、そのずっと前から何か神との結びつきがあったんだと感じられてくる。 それくらい神と自分との魂の結びつきは根源的なものであるということである。
このように改めて神との結びつきを思い起こして、現在の厳しい状況の中で神にあくまですがり続けようとすることが書かれている。

…雄牛が群がってわたしを囲み、猛牛がわたしに迫る。(13節)
ライオンのようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
わたしは水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ、
心は胸の中で蝋のように溶ける。(15)
あなたは、わたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。(19)
主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ、
今すぐにわたしを助けて下さい。(22)

 13節からは再び現実の状態が書かれている。ここに記された雄牛、ライオンとかは私たちの生活とはかけ離れたようなことなので、この詩は私たちとは関係のないことのように思いがちである。
牛というのは力のシンボルで、またいつの時代でも力ある動物としてやはりライオンを挙げている。
昔の迫害の時には、ここにあるように国家権力がキリスト者たちを捕らえ、しばしばひどい拷問をしたうえで処刑していったのであるから、この詩の作者が記していることは誇張ではなく、歴史的にこのようなことは、世界の各地で―日本でも―数多く見られた。
「私は水となって…骨がはずれ、心は蝋のように…」このような表現は特別なたとえである。水や蝋になるということは、立つことができず、氷が溶けて形がなくなるように、自分というものが全く分からなくなって消えてしまうというぐらいに霊的に攻撃されたという気持ちを表現している。
骨がはずれるというのは象徴的な表現で、生理学的な骨とは違い、心身をささえるものを指して言っている。だから自分の考えや思いは全部壊れてしまったということを表す。そして最後は死の世界に捨てられたとある。これはこの詩の冒頭にあった、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という箇所とつながっている。
神様は自分を見捨ててしまった、土と死の中に捨ててしまったのだということである。
「私の着物を分け、衣を取ろうとして くじを引く」(19節)もまた、実際にイエスにおいて実現した。

…彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。(マタイ27の35)

このようなことまで、何百年も昔の詩で書かれていたこと、じっさいに詩の作者が体験したことが、キリストにおいて実現していくのは驚くべきことである。
詩篇は、人間の書いたものであり、詩であるから作者の苦しみや悲しみ、祈り、賛美、喜びなどであるにもかかわらず、なぜ神の言葉として聖書におさめられているのか、その理由の一つはこのようなところにある。詩篇に記されたその内容は、たんにその作者個人の苦しみや悲しみ、喜びにとどまらず、それは万人にあてはまる内容を持っていて、その背後に神の御手があり、作者のさまざまの体験や心に生じたさまざまの感情をとおしてはたらく神のみわざが全体として記されているからである。
さらには、この詩のように、未来に生じることの予言となっているものもある。それは、神の御計画を表したものであるゆえに、神の言葉ということができる。

…私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。
わたしの魂を剣から救いだし、
ライオンの口、雄牛の角から私を救い、
私に答えてください。(20〜22節)

これらの言葉に見られるように、ライオンや雄牛の力にたとえられるような、強い敵の力によって苦しめられている作者は、その状況から神に全力をあげて祈るすがたがここにある。神はもう見捨てたのかと思うくらい苦しいけれども、すでに、4〜6節に挿入されてあったように、またここでも、苦難のただなかで神を見つめるまなざしがある。
どうか助けてください、救ってください、答えてくださいと祈り続け、決してあきらめなかった。神を知らなかったらあきらめてしまう。
ローマ書にあるように、人間というものは不真実で正しいことも言えず、できず、愛のあることができない。だから全面的に信頼できる人は一人もいない。だからこそこの詩の作者は、神様に信頼し続けた。いかに極限状態に置かれて、神からの応えがなくても、それでもなお神を見つめて祈り願い続けたのである。 

このように、この詩の前半は、死に直面している絶望的状況が記されている。
しかし、それに続く内容は、驚くべき変化が見られる。

…わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らない。
御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださる。

それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげる。
貧しい人は食べて満ち足り
主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。(23〜27節)

それまでの限りない苦しみがいやされ、その最大の経験を他者に知らせたいという切実な願いが生まれてくる。神の力によって救いだされたというほかのいかなることにも代えがたい経験から、おのずから生まれるのが、この大きな真理を伝えたいという願いである。

…地の果てまですべての人が主を認め、
御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。…
来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。(28〜32節より)

このような、神の恵みを伝えたいという願いは、限りなく広がっていく。単に自分の周囲の人たちだけでなく、世界のあらゆる人々がこの神の大いなる救いの力を知るようにとの願いと祈りへと導かれていく。
そして、さらに、自分の世代だけでなく、後の世代にまでこの真理は伝わっていくという確信をこの作者は啓示によって知らされたのである。
このような深く広い洞察、国や民族を越え、時間をも越えて、神の愛と真実は伝わっていくという確信、それは人間の思想や意見、伝統といったものではない。あらゆる人間の最も奥深い世界を示された者だけが、こうした限りのない洞察を与えられる。
そうした意味で、まさにこの詩は神の言葉なのである。


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