リストボタン「鎮魂」ということ

大震災でなくなった方々に関する新聞記事やニュース報道などで、しばしば見かける言葉が、「鎮魂」 ということである。「亡くなった人たちへの鎮魂の思いを詩に綴った」とか、「鎮魂の旅」、あるいは「鎮魂のための音楽会」などと繰り返しつかわれている。
しかし、たいていは、この言葉の本当の意味を知らずして用いられていると思われる。
以前、いのちのことば社から出された、ある高齢の有名なキリスト者の書いた文章に、この「鎮魂のために…」という言葉があったので、それはキリスト者として使うべきでないことを指摘したことがあった。出版社は、検討してみると言って1週間ほどのちに、やはりその通りであったと言って、今後の版では鎮魂という言葉を削除すると、電話があったことがある。
それほど、この言葉は、その意味を考えないで使われていることが多い。
「鎮」という漢字は、金属の重しというのが原意で、重みをかけて抑えるという意味を持つ。そこから、荒ぶるものをしずめる ということを意味する。それゆえ、鎮圧とは反乱や暴動を武力を使ってしずめることであるし、鎮火というのは、燃える激しい火の力をしずめることであり、鎮痛とは、人間を苦しめる痛みをしずめることである。また、鎮守という言葉のもとの意味は、軍がとどまって乱をしずめることである。(「仏教辞典」岩波書店などによる)
このように見てくれば、鎮魂とは、魂が乱れ、荒ぶるものになるのを重しをかけて鎮める、ということになる。魂がおとなしいよいものなら、鎮魂などということは必要がない。死後の魂が、荒ぶるもの、しずまらずに生きた人間に反抗的あるいはたたりをもたらすものとなるということがこの言葉の背後にある。だからこそ、そのような生きた人間に害を及ぼすことがないように、鎮めることが必要となり、それが鎮魂ということである。
すでに引用した岩波書店の仏教辞典には、鎮魂とは、「死者の霊をなだめ、鎮めること」とあり、「古くから死後の魂は、生き残った魂に危害を加えると信じられ、それを慰め供養する儀礼が行われた。」と説明されている。
このように、供養されてはじめて、死後の魂は生きている人たちに危害を加えることがないようになって、祖霊と一体となっていくと信じられた。
このように、死者の霊あるいは魂がどのようになっているのか全く分からないのに、勝手に、その魂を押さえつけたり、なだめたりしないと、生きている人間に危害を加える(たたってくる)などと信じるのは、死者全体をそのようなものとみなすことであり、死者に対してもよい思いどころか、とても有害なものとみなしていることになる。
聖書においては、死者のための祈りということは記されていない。
キリストの言葉にも、使徒パウロやほかの新約聖書のどの書物にも、死者がたたってくる、危害を加えてくるからなだめ、鎮めるなどということは全く記されていない。
ドイツの著名なキリスト教指導者であったブルームハルト(*)は、「死者のための祈り」という小文において、次のように書いている。

「…先祖のための祈りは止めなさい。というのは、それが正しいと言っている聖書の箇所はどこにもないからである。 死者がどんな状態であるかは、あなたは全く知らないのです。…まず自分の罪のことを考えなさい。罪は息絶えることを望んでいないのです。
ですから、生きている人のために祈らねばなりません。 死者は主の御手のうちにあります。
主の御名は、憐れみ深く、恵み深く、忍耐深く、大いなる恵みと真実に満ちている(出エジプト記34の6)ということで満足できるのです。」

(*)「悩める魂への慰め」64頁。ブルームハルト(1805年〜1880年)著。新教出版社刊。ブルームハルトは、牧師として魂の救いのために働いたが、他方では特別ないやしの賜物を与えられていて、リューマチ、カリエス、肺結核、そして精神の病なども祈りによっていやした。スイスのカール・ヒルティもブルームハルトについてしばしば言及し、最もよく理解した人々として、キリスト、ヨハネ、ダンテ、トマス・ア・ケンピスなどと共に、彼の同時代の人々としては、カーライル、ブルームハルト、ブース夫人、トルストイなどをあげている。なお、このブルームハルトの息子、クリストフ・F・ブルームハルトも牧師であったが、彼の信仰は、神学者として有名な、バルトやブルンナーなどにも深い影響を与えたと言われている。

死者は、次の聖句にあるように、神の御前に置かれ、生前の心のあり方、言動、特に悔い改めがあったかどうかによって適切な裁きを受けるということである。

…言っておくが、人は、裁きの日には、責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。(マタイ12の36)
… イエスは数多くの奇蹟の行われた町々が悔い改めなかったので、叱りはじめた。…お前は天にまで上げられるとでも思っているのか、陰府にまで落とされるのだ。…(同11の20〜24)

それは神の無限の英知と正義、そして愛に基づいてなされることであり、人間には分からない。私たちはただ神が死者を最善にしてくださると信じればよいことなのである。
表面的に神を信じないといっていても、死の近づく苦しみのとき、十字架でイエスと共に処刑された重罪人のように、その人は悔い改めて神を求めたかも知れず、また口では信仰的なことを話していても、心では真実に反する思いを抱き、神に立ち返ることもない場合(*)には、それらもすべて見通しておられる神が、いっさいを見た上で、裁きをされ、最善のことをなされるということなのである。

(*)私に向って主よ、主よ、という者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入る。(マタイ7の21)私たちは、御心に添えなかったと感じたとき、すぐに主に立ち返り、赦しを受けることによって御心を行う者とみなしていただける。

聖書で繰り返し言われているのは、祈りは死者に対するものでなく、生きている人に対することなのである。
隣人を愛せよ、ということは、身近に接する人は誰でも真実な思いと祈りをもって接するようにということであり、たとえ敵対してくるものであっても、彼らがよくなるように祈りをもってせよ、ということであり、いつも祈れ、という言葉もみな、生きている人のために、彼らの魂が本当の幸いを得ることができるようにとの願いなのである。
このように、キリスト教は、万能かつ愛なる神を信じるゆえに、死者の魂の状態という、私たち人間には知ることのできないことに対しては神の愛にゆだねて信じるのであるから、死者については、祈ることを求められていないのである。
しかし、カトリックでは、死者の安らぎを祈る歌があり、それが、レクイエム(*)である。

(*)これはラテン語で、requiem と書くが、この語は 「安息、安らぎ」という意味の語 requies(レクイエース) の対格(英語の目的格に相当)である。re と quies(クィエース)から成る語であり、クイエースとは、安息、休憩という意味を持っている。
これが、英語にも入ってきて quiet(静かな)という語になっている。re は 再びというニュアンスをもった接頭語であるが、requies という言葉は quies(安息、静養)という語の強調形として使われている。
この語はもともと、ミサ曲の次の文に出てくる言葉である。
Requiem Aeternam Dona Eis Domine.
(レクイエム アエテルナム ドーナ エイース ドミネ)直訳すると、「安らぎを、永遠の、与えて下さい、彼らに、主よ」 、となる。「主よ、彼ら(死者)に永遠の安らぎを与えて下さい」という意味。この最初の語をとって、レクイエムというようになった。

レクイエムは、日本語では、「鎮魂歌」とか「鎮魂曲」のように訳されているが、この訳語では、すでに述べたことからわかるように、実はまちがった意味になってしまう。
本来のレクイエムには、死せる人々が生きている人に危害を加えるから、それをなだめるとかいう考えはまったくない。この言葉にあるのは、生きている人々と同様に、死者にも、最も大切なものである「主の平和(平安)」を与えて下さいという願いなのである。
主の平安は、主イエスがこの世を去るときに、信じる人に与えると約束されたものであり、神の持っている平安であり、最もよきものであるゆえに、生者、死者にたいしてもそのことを願うという気持ちから、カトリックではレクイエムという歌がある。
以上のように、キリスト教では鎮魂ということはあり得ないゆえに、レクイエムを鎮魂曲などと訳すのは本来は間違ったことなのである。
鎮魂とは、言い換えると、怨霊(おんりょう)を鎮めることにほかならない。
怨霊とは、自分が受けた苦しみや事故、災害などの運命を恨み、たたりをする死霊または生霊のことであり、生きている人に災いを与えるとして恐れられた。それを鎮めることを重要な任務とするために、さまざまの仏教、神道の複合した行事が行われることになった。
京都の祇園祭は、現在では観光で有名だが、そのもともとの起源は、京都に多くの病気―天然痘、マラリア、赤痢、インフルエンザなどが大流行した。その原因として、無実の罪を受けて苦しみつつ死んだ人の怨霊のたたりだとされ、その怨霊を鎮めるために始まったものである。このようなことが鎮魂ということの実態なのであるから、キリスト教とは全く関係のないことなのである。
それにもかかわらず、キリスト教音楽のミサ曲のなかのレクイエムを 鎮魂ミサなどと訳するのは、こうした歴史と実態を知らないゆえのことである。
このようなこととは別に、死んだ人の魂が恨んだり、うめいたり、悲しんでいるなどと勝ってに想像して、それを鎮めるために何かの音楽を聞かせるとか行事をする、ということは、死者に対してもその親族や友人に対しても適切な態度であろうか。
突然の死ではあっても、そのことを神が愛の御手によっていまは、最善になされている、と信じることこそ、望ましいことである。そのように、信じないなら、何十年経ってもやはり死者が悲しんで、恨んでいるなどと思うことになる。それでは、死者も生き残ったものにも、何一つよいことはないからである。
鎮魂という言葉とともによく使われてる「慰霊」という言葉も、やはり死後の魂は、悲しんだり、苦しんだり、憎んだりしているから、そのような霊を慰める、という考え方があるが、これも死後の魂を勝手に一律にそのような状態にいるとみなすことである。病気や高齢化で死ぬにしても、事故やその他の出来事で死ぬにしても、その魂は、生きていたときのあり方で神が適切になされる。真実なもの、神を見つめて生きたものは、事故や病気などどのような死に方であっても、その魂は地上のさまざまの苦しみや悲しみを終えて、神のもとで永遠の安らぎを与えられているであろうし、逆に悪しきことを意図的にしつづけたような魂は裁かれるであろう。一律にみな死後の魂が悲しんだり、苦しみや、憎しみを持っているから慰めるなどということは意味のないことである。
私たちにとって大切なことは、死者をそのように恨んでいるとか、憎しみを持っているなどと考えてその魂(怨霊)を鎮めようなどと考えることでなく、生きている間に神を信じ、神に立ち返り、死後はすべて神が最善にしてくださると、信じて生きることである。そのような魂には、生きているうちから慰めと力を与えて下さる。
そのことは、ヨハネ福音書で繰り返し強調されていることである。死後も、キリストと同じような栄光の姿になるのであるから、かえって地上の私たちを励ます存在としてあり続けることを信じることができるのである。


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