リストボタン神が蒔いて下さるもの

種を蒔く、それは人間の生活にとって根本的に大切なことである。私たちの日毎の食事、それは米や小麦の種まきによって、あるいは野菜や果物もまずその出発点に種を蒔くということがある。接ぎ木の場合でも、もとになる木はやはり人間あるいは、自然に種蒔かれたものをもとにしている。
このように日常の生活を支えている重要なことであるが、これは目に見えない精神的、霊的な世界においても、種まきということは根本的に重要であるから、主イエスも種まきのたとえを話されたことがある。
この世界全体が、大地であり、そこに神は福音の種、真理の種を蒔かれる。さまざまの場所に―荒れ地、茂み、あるいは乾燥した地、よき地―蒔かれる。そして、それらの多くは、あるものは芽生えることなく、あるものは芽生えてもまもなく水分の不足によって枯れ、あるものは茂みゆえに埋もれてしまって成長できない。だが、あるものは、めざましく成長し、多くの実を結ぶ。
この種まきのたとえは、現代までのあらゆる世界の状況を映し出している。福音が蒔かれたその状況は、たしかに蒔いてもまったく芽の出ないこともあり、国家的迫害によって枯れてしまったこともある。また何とか芽を出しても大きな災害や戦乱によってかき消されてしまったものもある。
しかし、どこかで、その種は成長し、大いなる実を結び続けてきた。それゆえに、福音は今日まで全世界に伝わってきたのである。
このような歴史的な視点から見ても、神の種まきは確実になされてきたのがわかる。
それとともに、神は、私たち一人一人の心の世界にも、さまざまの種を蒔いて下さっている。

…神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。(詩篇 97の11)

神を信じ、従っていこうとするだけで、本来どこにも喜びのなかった心の荒れ地にも、神は喜びを種蒔いてくださる。そして、前途が真っ暗で道がないようなところにも、希望を種蒔いてくださり、そこから新たな喜びや希望が育っていくようにされる。
困難なとき、自分の力で喜びや希望を心に種蒔こう、生み出そうとしてもすぐに枯れてしまう。しかし、蒔いてくださるのは無から有を生み出す神であるから、私たちはただそのことを信じて神が蒔いて下さるのを待っているだけでよい。
祈って待つ魂には、かつて神は、聖霊という最も大いなる種を蒔いてくださったように、現代の私たちにも神の時が来ればいろいろなよき種を蒔いて下さる。


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