リストボタン力は弱さの中で完全にされる

だれでも、何らかの力を求めている。乳児が母親に頼るのも、乳児は全く力がなく、放置されたらたちまち死んでしまう弱いものだからである。それゆえに、本能的に力ある存在―母親を絶えず求めている。
少し大きくなっても、同様である。遊んでくれる友だちの力、小遣いを自由に使えるお金の力、自分が他人より上になるための力…を求めていく。
学校でも同様で、そこでは学力やスポーツなどの力を持っているものが重要視されるから、それらを親や教師、子どももともになって必死に求めていく。
大人の世界では、経済力、お金の力を持っている人間や会社が重要視されるし、政治の世界でも同様である。国際的にも経済力や軍事力を持とうとして絶えず競争がなされている。
死が近づく老年や病気が重くなると、そこからのいやしをもとめて、医療の力に頼る。
この世は、このように、すべて何らかの力を切実に求めている。
こうしたすべての力に共通していること、それはお金の力がかかわっていることと、自分中心ということである。
自分のために力が必要だということで頭がいっぱいになり、その力を分かとうとするどころか、他者の力を奪い取ろうとすることさえ多い。金や権力という力を考えると分るが、分かとうとすればなくなっていくからである。
また、自分の健康を他者―病人に分かつということはできない相談である。
この力の奪い合いということが、大規模になるとき、戦争となり、第二次世界大戦のように数千万人の命が失われ、それをはるかに上回る家族たちが苦しみの淵に追いやられ、国土は荒廃してしまう。
エネルギーも一種の力であり、多くのエネルギーを生み出す国は、それをもって多大な生産をなしとげ、収益をあげていく。
そうした豊かさを守るために軍事力が必要となり、核兵器が生み出され、それを支えるために原子炉が次々と作られ、今日の原発時代となっていった。
そしてその原子の核分裂によって生じる途方もない力が軍事兵器として用いられ、一瞬にして数十万人の命が広島、長崎において奪われ、生き残った人も以後何年、あるいは何十年も苦しまねばならなくなった。
そしてその原子力は平和利用と称して発電のために使われ、その原発の大事故によっておびただしい放射能が放出され、何十年と人々を苦しめていくことになったばかりでなく、今後永久的にその廃棄物の管理をせねばならなくなってしまった。
力をもとめていったそのあかつきに、究極的な力、エネルギーを得たが、それは希望の喜ばしい世界でなく、恐るべき核戦争の危険をはらみ、原発の大事故という取り返しのつかない事態を同時に生み出してしまったのである。
人間をよくする力でなく、破壊し、食い尽くしていく力となってしまったのである。
こうした現在にあって、私たちは本質的に異なる力があるのを知らされている。
そしてその力は驚くべき仕方で私たちに与えられるという。
「神の力は、弱さのなかでこそ、完全に現れる。」(Uコリント12の9より)
このようなことは、一般の人にとっては絵空事である。弱さと力とは正反対だからだ。弱いとは力がないことで、そこに力があるなどは、意味不明の文になる。
しかし、聖書はこのように、一般の常識を打ち破る真理を秘めたエネルギーを持っている。
このキリスト者にはよく知られた言葉は、一般の人には知られていない。
聖書の言葉やその内容であっても、一般の日本人にも広く知られているものはある。
例えば、「求めよ、さらば与えられん」、「隣人を愛せよ」、「狭き門より入れ」、「目からうろこ」、「タレント」、クリスマス、家畜小屋で生まれたキリスト、ペテロ(英語ではピーター)やヨハネ(ジョン)、パウロ(ポール)などの使徒たちの人名…等々である。
しかし、弱いところに力が現れるなどは、聞いたことがないという人が圧倒的に多いはずだ。
パウロはこの言葉をどのような文脈で言ったのだろうか。それは、彼が、14年前に与えられた特別な啓示と結びつけている。彼は、第三の天にまで引き上げられて、それは体を離れてか、体のままか分からないという。それほど、霊的に高いところに引き上げられ、体から彼の霊が離れていったかと思われるほどであったのがうかがえる。
そこで、彼は言葉では言い表すことができない言葉を聞いたという。
単に言葉で表現できない感動、ということなら、何もそのような啓示がなくとも多くの人に見られる。
例えば、高山を登っていて、思いがけず美しい風景に遭遇して言葉を失う、というようなことは、登山を多くしていたら大抵の人は一度や二度は経験しているはずである。私自身もそれはいろいろと思いだされる。今から40年近く前に、北アルプス(後立山連峰)を一週間ほどをかけて単独縦走していたとき、標高二千五百メートルほどの稜線であったが、そこで午後に強い風雨に遭遇した。数時間後、雨が上がったときに、西の空に夕日と夕焼けの雲の壮麗な美しさに息をのんだ。今もあの美しさは忘れられない。それは到底言葉では語れない壮大な美しさであった。
こうした言葉で言えない感動は、苦しいときに受けた純粋な愛、長い病のいやしを経験したとき、等々、いろいろな人が経験したと思われる。
しかし、パウロが経験した言葉にすることを許されない、言い表せない言葉とは、右に述べたような経験とは大きく異なる、著しく霊的なものであったと考えられる。
神の直接の語りかけ―パウロの全存在を圧倒するようなものであったであろう。そしてそれは、かつてパウロよりも700年ほども昔の大いなる預言者イザヤがやはり霊的に引き上げられて神を見、天使たちの厳粛な歌声を聞いたことにも通じるものであったと考えられる。
こうした特別な経験は、ほかにはほとんど誰にも与えられないことが分ったゆえに、パウロの内に、ひそかにある種の高ぶりが頭をもたげてくる危険性を彼は知っていた。
神は、そのことを見抜いておられ、彼の体に一つのとげを与えた。それはパウロがサタンから送られたといい、その苦しみのあまり、三度もそれを取り去ってくださいと懇願した。三度というのは象徴的な数であるから、文字通りでなく、もう完全だというほどに力を注いで祈りに祈ったということであろう。
しかし、そのような彼の切実な祈りと願いにもかかわらず、そのとげは取り去られることはなかった。そして神は言われた。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ、完全に現れる。」(*)

(*)原文は、teleo 完全にする、の受動態であるから、多くの英語訳では、 my power is made perfect in weakness. (私の力は、弱さの中において、完全にされる)と訳されている。

私たちが強いと思っている間は、神の力が与えられても、それは完全にはならない。神の力が完全とされるには弱さというものが必要だというのである。
だれもが避けたい弱さ、だれもがあこがれる強さ―それはとくに最もマスコミなどで大々的に毎日のように写真で取り上げられるスポーツでは鮮明である。野球、サッカー、あるいは相撲にしても弱いものはたちまち放り出される。強さだけが取り上げられ、しかも最も強い優勝者が圧倒的に大きく取り上げられる。
これは、政治、軍事、経済、芸術、芸能など、どれを取っても同様である。子どものときでも、学校の成績がよいとか、スポーツができるなど何らかの才能で力あるものはもてはやされる。
そのような弱いものが排除されるのが当たり前の世界にあって、神は、弱いところにあってこそ、神の力は完全にされるという。
これは福音である。強いこと、とくに一番強いなどはきわめて少数だけがなれることである。
しかし、弱いことは誰でも、いつでも身近なこと、毎日の生活で常時経験されていることである。
睡眠がとれない、食事をしなかったらたちまち弱ってしまうほど、人間は弱い。そんなことだけでない。体の病気での弱さ、老齢化の弱さ、人間関係の悩みが解決できない弱さ、家族問題や、職業上での弱さ等々、誰でも至るところにころがっているのが弱さである。
そうした石ころのように身近にあって、何の役にも立たないと思われている弱さの中から芽を出してくるものがあるという。
しかも立派な花を咲かせるというのである。神の力、それは神の美も清さや永遠性をも併せ持っている。そのような力が完全に現れるという。
弱さの中において、神の力は完全とされる。人間の力は弱いときに完全とされるなどあり得ない。
しかし、ここで言われているのは、神の力、キリストの力のことなのである。
物質的に貧しいとき、また心貧しいとき―言い換えると心に何も誇るものもない状態のとき、あるいは、大切なものを失ったり、自分の罪によって他者を大きく苦しめたとき、また、愛するものからの裏切りとか死に遭遇して深い悲しみに沈むとき…そうしたときは、私たちが弱さの中にあるときである。
そうした弱さにおいて、キリストは次のように言われた。
…ああ、幸いだ、心貧しき者たちは。なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。
ああ、幸いだ、悲しむ人たちは。なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。
(マタイ福音書5の3〜4)
ここにも、弱さの中において、神の力が十分に発揮されるということの別の表現がある。
そして、キリスト教信仰において最も重要なことである、十字架と復活ということもまた弱さの中から完全な力を発揮したのである。
人間の根本問題は経済問題でも病気でも、また教育や軍事問題でもない。それは心の奥深いところの問題であり、どうしても正しいこと、愛あることができないということである。そのこと―罪こそ最大の問題である。
自分という最も身近なものなのにそこからそのような罪を取り出して一掃することもできない。
万人の罪を取り出して清めるなどという、まさに神のみがなし得ることを、キリストは確かになされた。
それゆえ、私たちはただ信じるだけでその清めを受けることができるようになった。そのような人間の精神的な世界で最も重大なことを成し遂げたのは、どのようにしてであったか。
イエスは、鞭打たれ、血を流し、ののしられ、つばをはきかけられたうえ、重い処刑のための木(十字架)を担わされ、よろめきつつ歩いた上、木に釘付けられ、途方もない苦しみにさいなまれつつ、わが神、わが神どうして私を捨てたのか!と 叫んで息絶えていったという。
これは最も弱々しい人間の生々しい姿である。しかし、万人の罪からのあがないという全人類にわたる大いなる事業はこの弱さのただなかで成就された。まさに、神の力は、弱さの中で成就されたのである。
そして、復活も同様である。死という最も弱さを私たちが感じるところに、神は、復活という死に勝利する力を完全に現されたのである。
まことに、弱きところに神の力は完全とされる。


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