リストボタン人間の魂には何が住むべきか

私たちの心あるいは魂の中には、何が住んでいると言えるだろうか。
それは自己である。古い自分である。あるいはその古き自分と結びついた他の人間である。
どんなに、社会的によく働いていても、聖書の基準からすれば死んだようなもの、というのは一般的な考えからは到底受けいれられないだろう。言い換えると、それほど聖書の世界が指し示すのは、通常の人間の感覚とは全く異なる、清くて愛のある魂の高い状態を基準としているのである。
神、キリストが持っておられるような基準に照らしていうとき、初めて人間はいかに汚れているか、不純であるか、愛なき存在であるかが浮かびあがってくる。
キリストのような究極的な標準を見ないで、ふつうの人間社会を見るから、誰でも人間は死んでいるなどと言われたら、何という極端なことを! と思ってしまうのである。
衣服の色が黒かったら、少々の汚れがついてもわからない。結構きれいだと思う。しかし、純白のシャツなら、わずかの汚れもはっきりとわかるのと同様である。神やキリストの完全な愛や純粋さをバックにすれば、どんな人間も汚れ果てていることになる。 正しそうに見える人間も、無数の不正でいっぱいとなる。
人間の実態がそのようなものであるゆえに、その心にはつねにサタンが働く場となっていると言える。サタンが働くといえば、何か人の命を奪うといった犯罪というようなことを連想するが、聖書では、そうしたこと以前の心の動きをすら、サタンのわざとみなしている。
イエスがもうじき自分がとらわれて十字架につけられと言われたとき、ペテロはイエスを引き寄せてそんなことがあってはいけないと叱った。 そのペテロに対して、イエスは、「サタンよ退け、神のことを思わず、人のことを思っている。」と激しい態度で叱責された。このようなことを見ても、神の御意志を思わず、人間的な願望や考えで行動したりすることがすでにサタンのはたらきだと言われているのである。
このことを見ても分るように、サタンは、たえず人間のなかで働こうとする。ペテロにも入り込んだ。ペテロがすべて捨てて従ったときには、サタンは追いだされたはずだが、油断するとすぐに戻ってくるのである。
たんに掃除してあって整えられているだけでは、サタンがさらにひどく入ってくる、というのは驚くべきこと、私たちの思いを越えることである。これは通常の人間の道徳教育などの致命的限界を意味している。
人間の魂の中に何があるのか、何が住むべきか、そのことについてのイエスのたとえがある。

…「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。
そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになる。」(マタイ福音書12の43〜45)

汚れた霊、それは悪の霊と同じである。それは住んでいた人間の魂から出て行くことがある。そして、休み場所を求めて砂漠をうろつく。それは水のない荒れ地、砂漠こそ悪の霊がいるところであるからだ。主イエスも、荒れ野にてサタンの試みを受けられた。しかし、本当の悪の霊の住み着こうとするところは、人間の中なのである。
とくに、一時的に人間的な決心とか、他人からの勧めで何かよい行いをはじめたというような心は、掃除をして、整えられていた状態だと言えよう。(飾りつけをしてあった、 とも訳される)
しかし、そこは空き家であった。精神の荒れ野の状態は、人間的努力によっては解消されないのである。
このことを主イエスは特に言おうとされている。どんなに人間がその一時的な考えや努力、他人の勧めなどを受けて何らかのよい決心や行いをしようとも、あるいは、何らかの学問や経験を積んでも、あるいは芸術やスポーツで名をなしてもなお、それはやはり霊的に見れば、空き家である。それは、命の水で潤っていない、精神の荒れ野の状態だというのである。
このような表現は到底一般的には受けいれられないであろう。それは、最初にあげた言葉、「あなた方はだれでもみなその罪のために、死んでいたのだ」(エフェソの信徒への手紙2の1)というような記述とともに、私たちが通常目に触れるような印刷物やテレビその他でも全く相いれないような表現だといえるだろう。
それほどに、主イエスが言おうとされているのは、人間の魂の内に住むべきなのは、神の霊、キリストの霊であり、キリストご自身だということなのである。
ヨハネ福音書において、キリストが逮捕されるその夜の最後の食事のときに語ったのは、「私の内に留まれ。そうすれば私もあなた方の内に留まる」(ヨハネ15の4)ということであった。
もうじき、翌日には殺される、という主イエスが、私があなた方の内に留まるということをこのように重要な約束として語られた。それは復活すること、人間の魂の内に留まることのできる霊的存在になることを意味している。
キリストが、私たちの内に留まることこそ、永遠の命そのものである。
使徒パウロは、コリントの教会の人たちに、あなた方の内にキリストが住んでいるのが分からないのか、とただしている。信仰を与えられたとき、すでに復活したキリスト、聖霊なるキリストが信じた人の内に、静かに住んで下さっているにもかかわらず、そのことに気付かずに外のことに気を取られているからこのように言われている。
現代の私たちも同様である。キリストを信じているといっても、内に住んでくださっているキリストのことを忘れ、この世のことでいっぱいになっていることが多いのではないか。それは、空き家のようになっていることであり、そのようなことこそ、気をつけなければならない。
どんなに信仰の年月が長くとも、やはりうっかりすると空き家となり、サタンがさらに悪い霊を連れて入ってくるのを思う。
こうした状況があるが、他方、主イエスが言われたように、求めよ、そうすれば、聖霊が与えられる。(ルカ11の13)という約束こそ私たちへの福音である。
キリストは地上におられるとき、その最大のはたらきは、こうした悪霊を追いだすことであった。「今日も、明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(ルカ13の32)
このように、とくに悪霊を追い出すことを年頭においておられた。
12弟子を選んだときも、彼らに与えた使命とは、汚れた霊に対する権威を授け、そのような霊を追い出す力を与えたことであった。(マタイ10の1)
主の祈りにある、「御国が来ますように」という祈りは、原語のギリシャ語の意味を汲んで訳するなら、「神の、王としての御支配が来ますように」という意味になる。(*)

(*)御国とは、ギリシャ語では、バシレイアであるが、それはバシリュース(王)という言葉がもとになっている。それゆえ、バシレイアとは、王の権威、王の支配というのが原義である。その後、王の支配が及んでいる領域も意味するようになり、王国という意味をも持つ。英語訳では、 kingdom と訳され、王 kingという語が含まれている。

それゆえ、御国がきますようにと祈ることは、悪霊が追い出されるように、そしてそこに神の王としての御支配が来ますようにという祈りである。それはまた、神の完全な力そのものである聖霊が来ますようにとの祈りである。
私たち一人一人から、そして家族や何人かの集り、学校や会社、さらには国家そのものから悪の霊、悪の力が追い出され、そこに、神の霊が来るようにとの祈りこそは、最も大切な祈りなのである。


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