リストボタン迫り来るもの

私たちは、誰でも何かが近づいているという感じを持っているだろう。多くの日本人にとって、それは経済問題ではないか。中国、インドの台頭、韓国のIT関連産業の隆盛、TPP問題、人口減少、急速な老齢化…等々、日本の将来に暗雲が垂れ込めているというかつてないような状況が近づいていると漠然と感じている人が多いと思われる。
それとともに、近年の地震の頻発で数十年以内に、東南海大地震、南海地震が発生する確率は 60%〜50%と言われているゆえに、巨大地震やそれに伴う津波、さらにそこから原発の大事故など、地震関連の災害が近づいているということも特に現在の日本では多くの人の心にある。
世界的に見ても、原発の世界的な増大やそれに伴う大事故の危険性、さらに核兵器増大とその暴発の危険、人口増大やエイズ、ウイルス病の増大、温暖化、貧富の差の増大、ヨーロッパの経済問題等々、前途には、希望に満ちた世界の接近より、黒雲の接近といった状況を感じる人たちが多い。
そうした社会的、政治的な闇の接近だけでなく、個人のレベルで考えるなら、万人に近づいていると言えるのは死ということである。青壮年の人たちは、死などまったくはるか遠くにあるようなもので、それが近づいているという実感は全くない場合が多いと考えられる。
しかし、死は万人に着実に近づいているし、老年になると徐々に体力は衰え、死の接近はいっそう実感するところとなるであろう。
このように、どのような分野をとってみても、冷静にこの世や人間そのものを見つめるときには、光の世界が近づいているとは考えられない状況がある。
だが、闇がいかに迫っていようとも、神の霊を受けた者は、光の世界がすぐそこまで来ていることも同時に啓示されている。夜はもう遠くに去った。昼―光に満ちた世界が近づいている。その足音を聞いている。その前触れの朝焼けを感じ取っているのである。
そのことは、主イエスが初めて福音を宣べ伝えはじめたときにも言われた。

…暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰に住む者に光が射し込んだ。(マタイ福音書4の16)

そして、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われ、主イエスご自身が、闇の世界のただ中に、天の国、光の世界がそこに来ているとその霊的な足音というべきものを聞き取っておられたのである。
使徒パウロが、この光の世界が近づいたことを次のように語っている。

…あなた方は今がどんな時であるかを知っている。あなた方が眠りから覚めるべき時がすでに来ている。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからである。
夜は更け、日は近づいた。
(ローマ13の11〜12より)

ここで言われている救いとは、究極的な救いであり、キリスト再臨のときになされる新しい天と地を意味している。パウロの命がけの福音伝道を支えている一つのことは、このように闇の世界がまもなく終わって、「日が近づいた」すなわち、光に満ちた新しい世界が神の御計画に従って到来する、という確信であった。
こうした光の世界の足音というべきものは、聖書全体に感じられる。
聖書は、このいつの世にも変ることなき闇の状況にあって、光の世界、天の国の接近を常に語り続けている書物だと言えよう。
すでにあげた、「暗闇に住む民、死の陰に住む者」への光については、それより七〇〇年ほども昔の預言者イザヤによってすでに言われていたのである。(イザヤ書9の1)
迫り来るものが何であるのか、それこそ、私たちにとって最も重要なテーマである。
今から3千年近く昔から、預言者が現れ、何が近づいているのかを神の言葉として告げ始めた。すでにあげたイザヤもその一人である。それは、正しい道からはずれ、弱い者を踏みつけるような不正な行為を続けている者に対しては必ず裁きの時がある、ということである。
しかし、ただ裁きだけではない。もしこの近づく神の裁きを知って悔い改めるとき、神は赦し、祝福に変えて下さる。
預言者たちは、まさにさきにあげたパウロが言っていることと同じことを繰り返し告げていたのである。
救いは近づいている。眠りから覚めよ…と。
旧約聖書に現れる預言者たちも、眠りから覚めよ、立ち返れ。 主の日は近づいている、と命がけで語り続けた。その一部を次に引用する。

・わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。(イザヤ書 44の22)
・神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。(ホセア書12の7)
・背信の子らよ、立ち帰れ。私は背いたお前たちをいやす。(エレミヤ書3の22)

このように、旧約聖書においては、「立ち帰る」という言葉は100回ほども使われている。この数を見ても、いかに預言者たちが、近づく主の日に備えて救われるために、立ち帰ることをいかに繰り返し語り続けてきたかがうかがえる。
悪そのものが裁かれ、滅ぼされるという主の日、それは同時に神の新しいわざが現れる大いなる希望の日である。この二つはもちろん相互に深くつながっている。人間にとってあらゆる問題は、悪の力がはびこっているゆえである。その悪が裁かれ、その力が一掃されるときには、おのずから真の幸いが訪れる。
それゆえに、旧約聖書の最後に次のように記されている。

…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。(マラキ3の19〜20より)

悪は、燃やされる。火の力こそは、ほかのいかなる方法にもまして徹底的にその姿を失わせる。それゆえに悪の力が滅ぼされて清い神の力のみになることが、このような表現で記されている。
そこに義の太陽が上る。義の太陽とは、将来現れる救い主としてのキリストを意味しているのであって、今は闇であるが、もう夜明けとなり、太陽が上る時となったのだという確信がここにある。
キリストが来られてからは、間近にキリストはおられるようになった。風はどこにでも吹いているように。
それゆえに、キリストは風のように、どんな少数の人のところにでも来て下さる。

…二人、三人私の名によって集まるところには、私もその中にいる。(マタイ18の20)

さらには、そこから、求める人には、その心の内にまで来て下さって住んで下さる。
かつてモーセがシナイ山で神の言葉を直接に受けようとしたとき、一般の人々はシナイの山に登ってはならない、もし勝手に登ろうとするなら、そのような者は滅ぼされると言われた。(出エジプト記19の12〜13)
このような、ごく一部の人しか神には近づけないというのと何と大きな違いであろう。
そのように、近くまで来て下さっているゆえに、次の「着る」という表現が生まれる。
現代の私たちにとっては、「キリストを着よ」などという言葉は、たいていの人にとって違和感があるだろう。そのような言葉はほとんど耳にしたこともないし、使われないからである。
しかし、キリスト教の代表的な使徒であったパウロは繰り返し用いている。

…闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけよう。(*)
(ローマ13の12)
主イエス・キリストを身にまといなさい。(同14)

(*)「身につける、身にまとう」などと訳されている原語(ギリシャ語)は、エンデューオー といい、これはごく普通の「着る」という日常的な言葉である。例えば、旧約聖書のギリシャ語訳聖書で、「皮の着物をつくって彼らに着せた。」(創世記3の21)のように使われている。

キリストを着よ、などという見慣れない表現をなぜパウロは使ったのか。
一般の人だけでなく、キリスト者においても、キリストは人間の姿をしているとイメージされていることが多いであろう。とすれば、キリストを着るなどということは考えられない表現である。
また、キリストは神と同じという信仰はキリスト教での根本ともなっている。神を着る、などということは全く考えられないような表現である。
また一方では、キリストは聖なる霊でもある。これもまた、聖なる霊という風のような存在を着るとはどういうことか、霊というギリシャ語はまた風という意味をも持っている。風を着るなどということもまず使われない表現だ。
このように考えると、いよいよこの「キリストを着よ」という表現は意外な驚くべき表現である。
なぜ、パウロはキリストを着るということを啓示として示されたのだろうか。
それは、光の国は近づいたゆえに、そこに光がすでにあるゆえに、その光を受けて、あたかも洋服掛に掛けてある衣服を着るように、キリストを着ることが可能になったからであった。
私たちに勧められていること、イエスは次のように言われた。

…神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。
まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば必要なものは与えられる。
狭き門より入れ。
神を愛し、隣人を愛せよ
敵対する者、私たちに害を加えようとする者のために祈れ。
私の内に留まれ。(我に居れ)
我が愛に居れ。

このようにさまざまのことが勧められている。ヨハネはそれを一言にしてすべてを含ませて書いている。それが、わが愛に居れ! である。キリストも、キリストの愛もすぐ近くにある。それを信じるとき、永遠の命がすでに与えられているというのが、とくにヨハネ福音書のメッセージである。
さまざまの苦難の内にあっても、その苦しみは決して私たちを苦しめるためにふりかかったのではない。そこには、必ずキリストの何らかの愛の御計画がある、と信じるとき、それはキリストを着ること、キリストの愛に居る、留まることになる。
しかし、神はいないと思うとき、別のものを着てしまうことになる。まずそのキリストの愛を着ること。そして、み言葉を剣として持ち、信仰と愛を胸当てとして着ることが示されている。(Tテサロニケ5の8)


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