リストボタン真の権威に従うこと

私たちは常に何らかの権威、自分より高い地位や立場にある人に従うことで生活は成り立っている。子供のときには、親の権威、学校の先生の権威に従い、会社に入ると、その会社の上司に従う。
乗り物に乗ったときには、その列車や飛行機を管理する権威のある人に従う。
このように、何らかの権威に従うことはごく普通のことである。
聖書にもすでに、今から三千数百年も昔に、モーセが受けた神からのと最も基本的な人間のあり方にも、親を敬え、というのがある。(出エジプト記20の12)
このことに関して、新約聖書の使徒パウロの書いた手紙のなかで、歴史上でも政治的、社会的に問題とされ、また悪用されてきたこともあるのは、次の箇所である。
…すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。(ローマ書13の1)

ここだけを読むと、上にある権威は何でも神が立てたのだから、それに従え、というように受け取られる。実際、ヨーロッパでも国王が、自分の権威は神によるのであるから、議会の承認などなくとも法律を作ったり命令したりできるというように主張したこともある。(*)
(*)王権神授説という。16世紀後半にイングランドの王であったジェームス一世もこのような主張を持っていた。

こうした主張の根拠としてこの箇所が用いられたのである。聖職者が神から直接に権威を受けているというのは聖書にはさまざまに記されているが、王のようなこの世の支配者が神からその権威を受けたのだからそれに従え、というような箇所は、聖書ではこのローマ書の他にごく一部しか見られない。
(*)Tペテロ2の13〜14、テトス3の1

聖書においては、人間でなく神に従え、というのが圧倒的に多いのは当然であるが、支配者たちがその支配を正当化するために、こうした一部の箇所を拡大して用いようとしてきたのであった。
日本においては、王権(天皇の権威)が神から受けたものだ、ということを大きく越えて、天皇が神だとまで主張されて、それが太平洋戦争が終わるまで続いていた。(*)

(*)日本では、狐やヘビ、タヌキ、巨木や山、あるいは人間の体の一部まで神とまつられ、家康や秀吉、楠木正成など人間も神とされ、あるいは、戦死した数百万という人間―その中には中国などで多数の地元のひとたちを虐殺したような人もいる―もまた神としてまつられる(靖国神社)という、世界で類のない神のはんらんする状況である。
そのために、単に天皇が神であるというのでは、権威がないので、神が絶対的な権威を持つという、もともと日本にはなかった、聖書の神の観念を持ち込んで、天皇にあてはめるということをしたのであった。

さきにあげたローマの信徒への手紙の箇所は、上にある権威なら何でも無条件に従えと言っているのか、それを聖書の全体的な記述から検討してみたい。
まず、聖書はその冒頭から、人間がいかに正しいこと、神の御意志に従えない存在であるかを記している。神がエデンの園を造り、あらゆる良きものを備え、何ら不自由がないようにして恵みを十分に与えていたにもかかわらず、それでもなお、神には従わず、神に逆らう不真実なもの(サタン)に従ってしまう。
そして、最初の家族においても、カインが自分の弟をねたんでその命を奪ってしまうということが記されている。(創世記3〜4章)
このことは、正義や真実が人間にはなく、神にのみある、ということを聖書の最初から宣言していることになる。ノアの箱船もまた、人間がみな不正で悪に染まってしまったゆえに、滅ぼすというように書かれてあって、そこでも罪深い人間の実態が示されている。
こうした人間の現実の姿から見れば、そのような人間に従うということは、誤りに陥るということは当然のことになる。
エジプトにいたイスラエルの人たちが、モーセに導かれ脱出していくが、そのときでも、せっかく救いだされたにもかかわらず、砂漠地帯の長期の旅に耐えがたくなり、モーセを殺そうとまでしたり、モーセの兄弟で彼を助ける役目であったアロンという人間も、人々とともに偶像を作って唯一の神への背信行為をはじめたことも記されている。
その後の時代にも、真に従うべき王というのはないゆえに、神が直接に呼び出した霊的指導者(士師、さばきづかさ)(*)によって人々は導かれた。

(*)士師という言葉は、本来の日本語にはないが、中国語訳の聖書の訳語をそのまま日本語聖書に取り入れた言葉である。士師とは、古代イスラエルの民の指導者であり、外国との戦いを指揮したり、裁判や行政にもたずさわった。 原語(ヘブル語)では、ショーフェート。これは、「裁く、支配する」という意味を持っている動詞シャーファットの分詞形。口語訳や新改訳では、「さばきつかさ」と訳されている。「つかさ(司)」とは、役人のことであるから、裁くことを担当する役人、といった意味になる。
英語では、Judge(裁判官) と訳されている。なお、この英語は、ラテン語 judico(ユーディコー) に由来する。jus とは、法 を表し、dico 言う から成る。原意は、「法にかなったこと、正しいことを言う人」の意味。法律は正しいことを記したことから、justus(ユーストゥス)は、法にかなったこと、正義という意味となり、英語の justice となった。

その後、民衆が人間の王を求める強い気持ちがあり、すぐれた士師、預言者であったサムエルは、王を求める民の要求を認めることができず、神に祈った。その時に神の答えは、次のようであった。
…主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従え。彼らが退けたのは、あなたではない。彼らの上に、私が王として君臨することを退けたのだ。」(サムエル記上8の7)
このように、民の本来は間違った要求ではあったが、彼らの言うことを聞いてイスラエルの歴史で初めて王を認めることになった。しかし、他方では王を認めることによって、人々はその王によって苦しい仕事に使われ、王の奴隷となってしまう。その苦しさに叫んでも神は答えては下さらない。(同11〜18節)ということも警告として言われた。
こうして生まれた王は、予告されたように、人々を戦争に駆り立てさまざまの罪をも犯し、人々を苦しめることにもつながった。それは、旧約聖書の歴史書である列王記や歴代誌に詳しく記されている。
ダビデのようなすぐれた王ですら、さまざまの苦難を越えて安定した国となったとき、大罪を犯してしまった。そしてそれが以後の歴史にも大きな影を落とすことになった。
このように、人間の王がいかに誤り多いか、罪深いかを聖書それ自体が、長いスペースを用いて記しているのである。
さらに、その間違った王たち、そしてその王によって導かれてともに滅びへと向う民全体に、真のあるべき姿を神からの言葉を受けて示し続けたのが、預言者であった。
王のうちでも、優れた王であったといえるユダの王ヒゼキヤは、国がアッシリアという大国によって滅ぼされようとする危機的状況のとき、預言者イザヤの言葉を聞くために使者を遣わした。そしてイザヤの導きによって王は神に真剣に祈り、それに応えて神が大いなるわざを起こされたこともあった。(イザヤ書37章)
王という制度が始まっても、なお、神を知る人たちは、真の王は神であることを深くわきまえていた。それは、詩篇や預言書にも表されている。

…主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王。(詩篇 95の3)
…国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。(詩篇96の10)

また、預言書にも、神こそ本当の王であることが記されている。
…イスラエルの王である主…(イザヤ書44の6)

このように、イスラエルの歴史は、現実の王が偶像崇拝に陥り、人々をもまどわし、それによって神から裁きを受けていくという繰り返しであった。それゆえ、預言者とは、そのような王も民もが悔い改め、真の王である神に立ち返ることを語り続けた人なのである。
詩篇にも、事実上の本編の最初に置かれた第2篇には、次のように記されている。

…なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らうのか、
「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い、憤って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」…(詩篇第2篇より)

これは、詩篇第一篇が全体の要約、タイトルという性質を持つから、この第2篇が実際の内容の最初に置かれていることになる。そのような重要な位置づけをされた詩の内容は、大方の予想を裏切り、まったく個人的な悩みや苦しみを訴えるといったものではない。
それは、神の正義とその支配をあざけり、不正な権威をもって支配しようとするこの世の権威に対して、神がすべてを見抜き、時至るならそれらの力を滅ぼし、一掃されることを述べている。そして、その目的のために、人間の欲望や権威でなく、神の御意志そのものを受けた神の子というべき王をこの世界に送り出すということが言われている。
そして確かにこの預言に従ってキリストは霊的な王としてこの世界に現れたのであった。
ここでも、この世の権威と神の権威とは全く対立するものとして記されている。
このように、王は上にある権威だから、無条件的にそれに従え、というような記述は全く見られない。

それでは、新約聖書においてはどのように言われているであろうか。
主イエスは、このことに関する有名な言葉を出された。それは、税金を取り立てることに関して、ローマ皇帝(カイザル)に税を収めるべきかどうかを問われたことがある。
税を納めるべきだというと、ローマの支配に屈伏してユダヤ民族を裏切る者だという非難を浴びせて、民衆からイエスを離反させようとしていたし、税を納めるべきでないと言えば、ローマ帝国への反抗を企てているということで訴えようとしていた。そのときに話された言葉である。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12の17)

このひと言の中に、地上の権威と神の権威に関するあり方が凝縮されている。税金というお金、目に見える問題に関しては、カイザル(ローマ皇帝)の支配に従え、しかし、神への真実、信仰は神へと返すべきだと言われた。
それでは、どこから先が、カイザルのもので、どこからが神のものになるのか、その区切りを見定めるのはしばしば困難になる。
例えば、不正な税金の取り立てや違法な言論統制、あるいは原子力発電所の建設やその危険性に関して、権威ある学者とか政府などが偽りの安全を主張している場合にもその権威に従うべきなのか等々、いくらでも問題は生じてくる。
主イエスは、当時の領主であったへロデに関して、敬うどころか驚くべき表現を使っている。

…ファリサイ派の人々が来て、イエスに言った。「ヘロデがあなたを殺そうとしている。」
イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』(*)とわたしが言ったと伝えなさい。わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。(ルカ13の31〜33より)

(*)三日目というのは文字通りの意味でなく、3は完全数であり、象徴的な表現。神の定めた御計画に従ってその道を歩み、その御計画が全うされるとき―十字架の苦難、復活まで続くという意味。

当時の領主に対して、「狐」という呼称を持って言われるほどに、へロデの狡猾なやり方への強い否を意味した言葉であった。
また、もしイエスが、当時の大祭司や律法学者、長老、ファリサイ人などの権威ある人たちに従って、福音を宣べ伝えていなかったら、十字架も復活もなく、キリストそのものがこの世に存在しなかったのである。
それは、「権威に従え」とローマの信徒への手紙で書いている使徒パウロやペテロに関しても同様である。最初にキリストの復活の福音を宣べ伝えはじめたペテロに対して、当時のユダヤの権威ある人たち―議員、長老、律法学者、大祭司といった人たちが、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。」(使徒言行録4の18)
しかし、そうした権威ある人たちに対して、ペテロやヨハネはその権威に従うことなく、次のように答えた。

…神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてほしい。私たちは、見たことや聞いたことを語らずにはいられない。(使徒言行録4の19〜20)

このように、ペテロたちは答えて、福音の宣教を続けたのであった。
パウロにおいても、もし、ユダヤ人たちが反対し、また後にローマ皇帝も禁じたキリストの福音を宣べ伝えることを止めていたらそもそも迫害を受けることもなかった。
主イエスがこうした弟子たちにもあるべき姿をみずから示したのである。そして福音を伝えるな、という命令には従わなかったが、イエスを捕らえ、無実の裁判であったが、その判決を受けいれて死ぬ、ということは、また権威の判断に全面的に従ったということでもある。

パウロが、ギリシャ地方などの信徒から、エルサレムにいるキリスト者たちへの献金を携えて滞在しているとき、ユダヤ人たちがパウロを激しく憎んで、殺そうとするほどであった。そのような時、主はパウロに現れて「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをせよ。」と言われたのであった。
このように、地上の権威に従ってはいけないと、神みずからパウロに現れて励まし、命じたことが記されている。
地上の権威について、それが神に由来するからそれに従え、権威はよいことをするためにある、ということは、決して全面的に言えることではないのは、以上の聖書の記述から見ても明らかである。
さらに、聖書の最後の書である黙示録には、地上の最大の権威それ自体が、サタン(悪魔)からその権威を受けているのだという記述が見られる。

…この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類をまどわすもの…(黙示録12の9)
…わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。
わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜(サタン)はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。…竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。そしてこの獣をも拝んだ。…(黙示録13の1〜4より)

このような記述は黙示録特有のものであり、わかりにくいが、竜とはサタンであり、その竜が、海から上がってきた獣にサタンの力や権威を与えた。この獣とは、この後に続く記述から、ローマ皇帝のネロだとされている。
ネロ皇帝は、キリスト教徒を激しく迫害し、自ら火をつけたローマ火災の罪をキリスト者にかぶせて、たくさんの人々を捕らえ、大競技場で飢えたライオンに食わせたり、十字架で磔にした上で、焼き殺したといわれている。
そのようなローマ皇帝のなす仕業はまさにサタン(悪魔)からのものだと黙示録の著者には示されたのである。
このように、上に立つ権威には何でも従うというようなことは、聖書には言われておらず、むしろ、人間的権威に従うことなく、神の権威のみに従うようにというのが一貫した姿勢である。
聖書のなかの特定の箇所だけを、意図的に引用して主張するということは、戦争の肯定などにもよく用いられてきた。
それゆえにこそ、聖書の本当のメッセージをくみ取るためには、聖書を旧約も新約もバランスよく調べ、読まなければ間違った主張に引き込まれることがある。
真の権威である、神のみに従いつつ、個々の場合には、神の指示に従いつつ、人間の権威や制度に従っていくことが求められている。


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