リストボタン詩篇の真珠
―詩篇23篇

聖書に含まれる詩の中には、神とはどういうお方なのか、また神は私たちに何を与え、どのように私たちの生活と関わってくださるのか、というような私たちが深い関心を持つことを、この世の厳しい現実を見据えつつ、そこに注がれる神の限りない愛と導きを、生き生きした言葉、だれにもわかりやすい表現で描いている詩がある。
それが、詩篇23篇である。旧約聖書のなかで、最も愛されている箇所の一つである。この詩は三千年も前に書かれたものだが、その内容は今でも変わらずその真理の輝きを人々に与え続けている。
新聞は現代人の聖書だと言われたこともあった。最近の世代は、それはインターネットに代わろうとしているが、新聞やインターネットで報道される圧倒的な内容は、常に移り変わることについてである。新聞は永遠の真理を知らせることが目的でなく、そのときどきに生じた出来事をしかも、人々が関心を引くこと、単に時間的に新しいことが書かれている。
19世紀のイギリスの生んだ世界的なキリスト教の指導者であったスパージョン(*)は、この詩に関して次のように言っている。
「これは、詩篇の真珠である。この穏やかで清い輝きは、あらゆる人の目を喜ばせる。この喜ばしい歌に関して、次のように確言することができよう。すなわち、そのうるわしさと霊性は比類のないものであると。」
This is the pearl of psalms whose soft and pure radiance delights every eye; Of this delightful song it may be affirmed that its sweetness and its spirituality are unsurpassed.(THE TREASURY OF DAVID Vol.3ー332P )

(*)スパージョン(Charles Haddon Spurgeon 1834〜1892)イギリスの19世紀の代表的な福音宣教者。(なお、名前の発音は、Spur-であるから、右のようになるが、発音の仕方によっては、スポル- とも聞こえるので、スポルジョンとも訳される。 岩波文庫のヒルティの著作では、スパージョンと表記。 なお、ヒルティは、スパージョンを自分が最もよく理解したひとの一人として、キリスト、ヨハネ゜トマス・ア・ケンピス、ブルームハルト、トルストイなどとともにあげている。またスパージョンの邦訳された著書としては、「朝ごとに・夕ごとに」がすでに1932年から発行され、現在多くの人によって愛読されている。

まさに、詩篇150篇のなかで、真珠のように不滅の輝き、しかも霊的な光をたたえているのがこの第23篇なのである。
この詩がわかりやすいのは、すべて一人称「わたし」で書かれているのもその理由の一つだと言えよう。

主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。
あなたがわたしと共におられるから。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰める。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしの頭に香油を注いでくださる。
わたしの杯はあふれる。

わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴う。
わたしはとこしえに主の宮に住む。

冒頭の一行、「主はわが牧者」(*)というひと言がこの詩の全内容を要約したものとなっている。

(*)1節「主はわが牧者」、英語訳や他の日本語訳は原文の通りに、「主はわたしの羊飼い」と、「わたしの」が入っているが新共同訳だけ「わたしの」という言葉が省かれているが、これは当然訳すべき言葉である。英訳では、The LORD is my shepherd. (NRS)
日本語では「主 は わたし の 羊飼い で あっ て」と、多くの品詞を用いて書かれているが、原文では四語で、「ヤハウェ ローィー ロー エフサール」である。その語順通りに訳すると「主、わが羊飼い、〜ない、乏しい」となる。

導きの神
この詩はすべて「私」という一人称で書かれている。聖書に記されている神は、どこかの建物にいるとか、空の彼方にいるだけで、個々の人間と関わりのない存在というのではなく、わたしと神という個人的で霊的な心の結びつきがあるお方だということをこの詩を作った人は深く体験していたのであり、今から三千年ほども昔から、すでに生きて働く愛の神をはっきりと知っていたことがうかがえる。
日本では羊飼いというのは、なじみがないが、聖書の書かれた地域では、今も羊飼いが実際に羊を導いている。
主が私を個人的に導いて下さる。 人間はありとあらゆる個性があり、また置かれた状況、家庭や健康状態、経済的、また社会的状況など実に千差万別である。そうした限りない多様性のなかで、どんな人にとっても一番よいこと、それがこの愛の神―しかも万能の神によって導かれて生きることである。
これこそは、本来万人が求めること、これさえあれば、他のものは要らないといえるものである。
主がわたしを個人的にいつも養って導いてくださるなら、当然欠けることがなくなる。2節以降に羊飼いがどういうふうに養ってくださるのか、どういうふうに導いてくださるのかということが具体的に書かれている。
私たちは事故や病気、あるいは家庭の難しい問題、貧困や職場の問題など、だれでもさまざまの問題を持っている。 そしてそれらに苦しみ悩まされるとき、その解決に心を痛める。人間やお金、そして医療や福祉の力によって解決をはかろうとする。それらはそれぞれに私たちに大きな助けとなってくれるだろう。耐えがたい痛みと苦しみが医療や薬の力によっていやされた喜びは忘れることができない。もしあのとき、そうした医療や薬がなかったら、生きていけないほどになっていただろうと思われることが私にもある。
それでもなお、そうした医療や薬でいやされたら万事解決というわけにいかない。次々とまた新たな問題が生じてくるからである。ある種の問題には医療や薬は全く関係がなく、人間の努力やお金、あるいは心尽くしての働きかけすら全く解決できないような困難な問題もある。
そうしたあらゆるときに、私たちを導き、最終的な解決へと導いてくれるのが、ここに言われている、神をわが牧者、導き手とすることである。
そうすれば、直接にそのような困難な問題が解決されなくとも、魂に力と平安が与えられる。
そのことを、次のように述べている。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(*)
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

(*)「伏させる」あるいは「休ませる」と訳されている原語は「からだを横たえる、憩う、宿る」といった意味で英語訳では、rest あるいは、lie down などが使われている。He makes me lie down in a green pasture.

わたしたちは誰でも心の休みが必要である。このように体を横たえるようにして心が休まるのはどこなのか。家族、家庭があれば、家族がその役割を果たすに越したことはないが、しばしばそうではなく、家族の中でいても心が落ち着かないという場合もあるだろう。
家族の問題は寝ても覚めても離れることができないから、いったん何かが起きれば、家庭は安らぎの場ではなく苦しい場となる。もちろん家庭が安らぐという人もいるが、事故や病気が起こった途端にそれは崩れる。
また神を知らず家庭もないという状況にあれば、特定の人間に安らぎを求めていくということが当然ある。しかし人間は不安定で、何かあったらすぐに動揺する。
だからそんな人間に求めていっても最終的には安定を得られない。家庭も人間も安らぎにはならない。
それではどこに安らぎの場があるのか。しばしば人間は、そのために身近な手段として昔からお酒や飲食、娯楽その他を求めてきた。
多くの人は、飲食やいろいろの娯楽によって一時的に嫌なことを忘れて、一種の安らぐ場を得ようとする。酒やたばこのように、いくらそれらが体に悪いと分かっていてもそれらに頼る人が多いのは、どこか心が安らぐ場がないからである。
このように世の中には安らぐ場がなく、何らかの疲れた心や傷ついた心を紛らわせようとする娯楽施設が至る所に見られる。
これに対して、この詩の作られた数千年の昔では、現代のような娯楽施設は何もない。そのような何もない状況であっても神自身が霊的な心の安らぎを与えてくださるということをここで言っている。
緑の牧場、それは希望と命を表す。私が羊であり、神は私の羊飼い、その羊飼いである神が、私を導いてくださる所は、まず食物としての緑の草である。たしかに神は私たちを霊的に、精神的に生かしてくださる。神に導かれるときには、私たちは旧約聖書以来、天よりの食べ物をいただくことができる。
そして、水際(みぎわ)とは、これも命を支えるものである水のほとりで、精神的に打ちのめされたようなときでも私たちに霊的な水、命の水を飲ませて下さる。
実際に、この聖書が書かれた地域のような乾燥地帯では羊を水のほとりへ連れて行くということはきわめて重要なことである。
それと同じように私たち人間も、憩いの水のところに導いて下さるという。ここでは魂を生き返らせてくださるとあるので、これは命の水であり、心の中に染み通るような目に見えない水を与えてくださるということである。
誰もが主に結びついたらここにあるような不思議な安らぎを与えられる。また生き返らせるような力も与えられる。このようなことがあるから1節にあるように、確かに主はわたしを導いてくださるから欠けることがないという実感を持つのである。
これは、主イエスが言われた約束と同じである。
「私のところに来て私が与える水を飲む者は決して渇くことがない。私が与える水はその人の内で、泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4の14)
魂の渇き、それはだれにもある。そしてどのようにしたらその渇きがいやされるのか、圧倒的多数の人たちは知らないままである。私自身も、21歳の5月の終わり頃になるまで全く知らなかった。学業に励んでも、専門的な勉強を続けて、いろいろな知識も身につけてもその渇きをいやすことはできなかった。
友達同士でいろいろと話したり議論してもやはり同じだった。みなそのような深いところでの渇きを持ったままなのであった。
人間そのものの根源的なところでの渇きであるから、音楽を聞いても、演劇やドラマを見たり旅行したりしても、一時的にはいやされたように思ってもふたたび渇きははじまる。
音楽も耳が聞こえなくなったら意味を失うし、お金がなかったらCDなども買えないし、演奏会などにも行けない。旅行も費用がかかるし、病気になったとたんできなくなる。このように何かが起こったらたちまちできなくなるようなことは、人間という存在の根源に触れていないゆえに、渇きは深いところで残り続けるのである。
本当に渇きをいやすのは、人間の本質そのものにはたらくものでなければならない。それがイエスが言われた「いのちの水」である。それを与えられるなら、たとえ目が見えなくなり、聴覚に障害を生じて音楽も聞こえなくなっても、また健康を失っても、魂の根源をいやすいのちの水はその力を失うことはない。そのことを私は、実際にそのような重いハンディを持たされた方々に出会って知ることができた。
そして、私自身の限られた経験からも、キリストからのいのちの水を与えられるとき、たとえ人から見下されようとも、また困難に直面しようとも打ち倒されることがないということを経験してきた。
緑の牧場に伏させ、いのちの水のわき出る憩いのみぎわに伴ってくださる神、それはこのような魂の深みに働きかけてくださる神を意味しているのである。

死の陰の谷を歩むとも
…たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。(4節)
あなたがわたしと共におられるから。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰める。

実際、「わたしには欠けることがない」と言える人は少ないだろう。人は何か起こったらすぐ欠けた気持ちになるからである。しかしこの詩篇で言っているのは4節にあるように、たとえ死の陰の谷を行くときも、災いを恐れないほどに何か欠けることのないような不思議な力が与えられるということである。
こうした神の導きを受けていてもなお、この世では死ぬかと思われるような苦しみに遭遇することがある。しかし、そのようなときでも、きっと神は助けて下さるという絶対の信頼を持ち続けることができるゆえに、恐れないということができた。
神がともにいてくださるときに、いかなる困難も乗り越え、勝利することができることをこの詩の作者ははっきりと知っていたのである。
この詩は羊が水のほとりで遊んでいるのどかさを単に言っているのではなく、この詩の作者は4節のようなことを知っていた上で言っている。この世に生きるということは、昔から今に至るまでもう死ぬかと思うような、精神的にも肉体的にも、あるいは発展途上国などのなかには、戦争や内争、飢饉などありとあらゆる死の陰の谷があるところもある。
死の陰の谷というのは、いつどこでどんなふうに発生するかは分からない。世の中は危険に満ちているので、わたしたちがそういうときであっても、なお主が共にいてくださるからという確信を持てるということが、わたしたちにとって一番ありがたいことである。現実に私たちはみな死の陰の谷へと向かっている。
 人間は絶えず導かれないと、わたしたちの心はさまよい、考えてはいけないことを考えたりと絶えずわき道に入る。そのままどんどんわき道に入り、挙句の果てには犯罪を犯したりいろんなことが起こる。また死が近づいてきたら、正しい道が何か分からなくなり、もうこれで終わりだと思ってしまう。
本当の正しい道というのは、目に見えない神様の国へとつながっている。でも神様の国を知らないと正しい道が分からないということになる。
すると、人生は最終的には死ぬだけだ。死んでただ暗い道へ行くだけだと思ってしまい、希望の道といえるものは全部消えてしまう。このように死んだら終わりだという人にとっては、正しい道を歩いているつもりでも、最後にはみんな消えていくのである。
しかし神様のことを本当に知らされたものだけは、生きている間、何事があってもずっと御国への道を歩ませてくださる。このように導きの人生というのは、自分勝手に行き当たりばったりの人生とは非常に大きな違いがある。 
たしかに、最終的にはだれでも文字通りの「死の陰の谷」―死を迎える。その時であっても、神が共におられるなら、恐れることはない。その神が私たちの病気の痛みや死の苦しみをも乗り越える力を与えてくださるからである。
ここには、この詩をダビデの作とすれば、これが作られてから千年ほども後の時代にはっきりとした真理となった、復活ということをも暗示し、預言しているということが言える。
神の鞭、杖とは何か。
普通、ある人間が単に怒って鞭で誰かを打ったら、打たれた人は弱ってしまうことが多い。ところが神様の鞭は愛の鞭である。間違ったら滅びるのであるから、大変なことになるのだから、鞭と杖を使って導きだされる。
羊飼いが羊が迷い出ようとしたときには、鞭をふるい、杖をもって指揮する。同じように私たちも道を踏み外そうとしたときには、神から何らかの罰、苦しみを受ける。しかし、それをも後から振り返ると大きな恵みであったことを思い、慰めとなる。
神への信頼が十分にあるとき、良きことも苦しいことも励ましや慰めとなる。
このことによって、自分は間違っていたのに神様は正してくださったと、神様の愛を感じるからいっそう力づけられるということである。わたしたちが困難にあってもこれは神様からの試練だと思えば、力が不思議と与えられる。

敵対する者の前における恵み
…あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしの頭に香油を注いでくださる。
わたしの杯はあふれる。(5節)

 5節にある「わたしを苦しめる者」(*)というのは、原文では「敵」という言葉で、他の日本語訳では「敵」と訳されている。

(*)英語訳では enemyである。You prepare a table for me in the presence of my enemies.

「苦しめるもの」というのは人間だけに限らず、病気が最大の敵になる場合もある。そんなときでも不思議とわたしたちに霊の食べ物を与えてくださるのである。
しかもこれには条件がない。良い家庭が幸いというと、家庭がない人もたくさんいる。しかしそういう人ほどいっそうここに書かれていることが身近になる。わたしは親から捨てられた。しかし主が羊飼いでわたしを助けてくれる。また能力とも関係ない。この世は、能力のある人だけ引っ張っていきますが、なければ放っておかれる。むしろ自分には能力があると思っている人には、ここにあるような恵みは与えられない。
神の大いなる恵み、それは敵対する者の前ですら、良きものを備えてくださる。言い換えると、敵対するものがいて苦しめられているような時であっても、また、ほかの困難や悩みの中でも、それにうち勝つ力と喜びを与えて下さる。
敵の前に食卓を整えてくださる。これはどういうことか。ふつうの人間の感情では、敵対する人や嫌なことを言う人に会うのも嫌だということになる。しかし神からの良きものを受けているなら、たとえ敵対する人が前にいても、そこで打ち勝つ、あるいは相手を憎んだりしなくなる力、霊的な栄養ともいうべきものを与えてくださるということである。
後に主イエスが、あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われた。そのように祈るのは神からの良きもの―神の愛や力を受けていなければできない。その意味で、この「敵の前で良きものを備えてくださる」という言葉は、はるか後に有名になる「敵を愛せよ」という言葉と通じるものが、早くも現れているということができる。
神から、霊的な食物を与えられたから、敵対する者にすらそれを注ごうというのが敵への祈りである。
神は人間同士の感情を越えて、敵対する者が前にいたり、嫌なことがあってもそこで神に求めるならば、5節にあるように食卓を整えて、頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせてくださるのである。(5節)
ここで出て来る香油とは、王や大祭司に注がれるものであり、神の本質、その力を象徴している。香油を注いでくださる、というのは、あたかも自分が王や大祭司であるかのように、神の本質である力や愛を注いでくださる。そして魂を満たしてくださり、そのように神の賜物によって満たされるとき、喜びはあふれ出るばかりとなるのをこうした表現で表している。
キリストは、最もそうした意味での香油を注がれたお方であり、キリストという言葉自体が、「香油を注がれた者」という意味を持っている。
杯を溢れさせてくださるということは、2節にある憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるという言葉が意味することと共通したものがあり、杯の中に、なみなみと神様の目に見えないぶどう酒、命の水を溢れさせて、そして飲ませてくださるということである。このようなすばらしい約束が、苦しめる者、敵を前にしてでも与えられる。
自分の心が満たされたと感じるのは、普通は家庭や健康に恵まれ、生活も保障され、よき友達もいる、というような状態のときであろう。しかし、この詩篇が指し示すのは、そのような恵まれた状況がなく、たとえ敵を前にしても良いものを豊かに与えてくださるというのである。
この言葉も、キリストが、「私が与える水を飲む者は、渇くことがなく、その人の内で泉となってあふれ出るようになる」と言われたことに通じるものがある。

追いかけてくる恵み
…わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴う。(*)
わたしはとこしえに主の宮に住む。(6節)

(*)「伴う」この原語(ヘブル語)は、ラーダフ というが、これは、追跡する、追いかけるという強い意味を持っていて、「アブラムは、略奪した敵を追跡した」(創世記14の14)のように使われる言葉である。

 4,5節にあるように極限状態であっても、なおかつ主が共にいてくださる。この詩の作者はこのような経験をしたからこそ、この詩の終わりの部分で、命のある限りー死の間際まで恵みと良き事、慈しみがわたしをいつも追いかけてくると言っているのである。
これは、わたしたちの経験とは逆で、たいていの人の経験は、神の恵みあるいはこの世で良いものを追いかけても追いかけても取れないというのが多くの人の気持ちであろう。だからこの世には幸福はないのだと考える人が多くなる。
近代の日本の詩は暗さや憂鬱感、悲しみ、絶望感を綴っているものがしばしば見られる。神を知らなければそうなる。
しかし神を信じ、神の愛を受けたときには、この世の暗い中にも光があるということを感じるから、それがおのずから言葉として出てくる。同じ詩でも聖書にある詩集(詩篇)は全世界の人に最もたくさん読まれてきた。その理由はまさにここにある。
キリスト教詩人でよく知られているのは水野源三である。彼の詩には曲が付けられて、一種の讃美歌として親しまれてきた。しかし、出版社は彼の詩集の発行を受けいれなかった。
水野源三の詩はキリスト者の詩として、とくに優れているので、当時、今治教会の牧師であった榎本保郎が、キリスト教関係の出版社にいくつも出版を持ちかけたが、詩集は売れないからとすべて断られたという。
それで、仕方なく教会から出版することにした。それがキリスト教界に広く受け入れられた。
この例でもわかるように、一般的にいえば詩集を読む人は少ない。しかし、3000年にもわたって世界中で最も多く愛され、読まれてきた詩は何か、と問われるなら、それはこの詩篇23篇である。それは、人間が与えられる究極的なことを、神の啓示を受け、その導きにより、自分の経験を通して述べているからである。
どんなことがあっても神を信じて従う限り、生涯にわたって神の恵みと慈しみが追いかけて来る、と言えるのは何とすばらしいことであろう。この詩の作者は、ただ羊飼いとしての神を信頼しているだけで、いわば法則のように確実に神の賜物が追って来るということを深く経験していたのである。
5節の「私たちを苦しめるもの」(敵)というのは人間だけに限らず、病気が最大の敵になる場合もある。そんなときでも不思議とわたしたちに霊の食べ物を与えて、神の国のよきものを注いでくださるのである。
しかもこれは後に、キリストが言われたように、求める者にはだれにでも与えられるというほかのいかなることにも見られない特質がある。
この詩の最後の言葉にあるように、神の恵みと慈しみが、追いかけて来るというほどに満たされている生活こそ、聖書でいわれている平和(平安)であり、それをシャーロームという言葉で表している。。
このような生活は、生きている間は、神とともに歩み、さらに、地上での命を終えた後も、永遠に神のもとで生きるということをも暗示するものとなっている。
このように、この詩篇23篇は、人間の魂は究極的にどのように生きることができるのか、神の恵みによって何が与えられるのか、ということが、だれにもわかりやすく、心に残る表現で記されたものとなっている。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。