リストボタン詩篇24篇
創造の神、生きて働く神、 来るべき神


 一般的に言って、詩は独特な言葉遣いをするため、分かりづらいことが多々あるが、聖書におさめら詩である「詩篇」の場合もそうである。だから何らかの形での学びと共に読まないと、よく分からないことが多いし、そうした学びがないと、本来の詩篇のメッセージとはまったく異なるものとして受け取ってしまう場合もある。
これらは、2500年から三千年以上も前に作られたものなので、当時の人たちには分かったかもしれないが、今のわたしたちにはその表現や言葉づかいなどにおいて非常に分かりにくいことが当然ある。
ここに記すことによって少しでも、聖書に収録された詩の深さと広さをしる一助になればと思う。
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地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。

どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
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この第24篇の詩は、はっきり三つに分かれている。まず、最初の段落から見てみよう。そこでは、人間がものごとを考えるときの正しい出発点が置かれている。

地とそこに満ちるもの、
世界とそこに住む者は、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き、
潮(*)の流れの上に世界を築かれた。(1〜2節)

(*)潮と訳された原語は、ナーハールで、普通の川、あるいはユーフラテスのような大河にも使われる。英語訳は、river 、 water、ocean depths などと訳されている。海で川のように流れているものということで、新共同訳は 潮と訳した。

この世界に存在するあらゆるもの、それは主のものである。このことは、それを創造され、いまもそれを支配し、支えているという意味を含んでいる。
ここで、この詩の作者はものを考えるとき、その出発点に、神が万物を創造されたということを置いている。この姿勢は、聖書全体の最初に、神が万物を創造されたと記されているのと共通している。
私たちの考えや思い、あるいは祈りなどの出発点はどのようなところにあるべきか、それは本来は最も重要なことであるはずだ。しかし、人間は、そのように考えずに、自分の欲望や自分の秘かな願いをその出発点とすることがきわめて多い。ことに日本人は唯一の神を知らないゆえに、この出発点を正しく置くことができない状態にある。
だから世界の美しさも、力強さ、あるいは広大無辺であることなども、さらに、この世の災害や苦難なども、それらは主のものだからこそ、主が意味を与えていると受け取ることができる。
そこに満ちるものとは、もちろん人間も含んでいて、私たちは、主の持ち物、神様の御手の中にある存在であるから、一人ひとりの人間も当然深い意味を持っているということが導かれる。
一人ひとり自分勝手に生きているのではなく、本来は主のものである。
しかし、人間はそのことに気付かず、また忘れてしまって、権力や金の力をもって自分のものとしようとすることが後を絶たない。
昔は結婚すれば、妻は自分のものだと持ち物のようにみなされていたから、気に入らなくなると離婚してしまうということが当たり前に行われていた。
また領主はその支配下にいる民衆は自分の持ち物だから、やはり自分に従わないとか、批判的だとか気に入らないことがあれば、追い出すなり処刑するなり、本当に物のように扱っていた。
このように古い時代には、人間が人間を持っていたのがはっきりとわかる。そして現在に至るまで、人間は絶えず別の人間を自分の持ち物であるとして、支配しようとしてきた。今でも、会社はそこに属する人間を自分の持ち物のように、ひどい扱いをすることもあるし、軍隊などは昔から支配者の重要な持ち物であるとして、命令どおりに動くように支配してきた。
しかしキリスト教を信じる人たちの世界では古い時代から、人間は、神様の持ち物だという意識がある。
例えば、イギリスの国歌において、God save the Queen!(神が女王を救われますように)という言葉が繰り返し歌われるが、これは、王や女王であっても、神の救いがなかったら前進できない、勝利できないという信仰的な意味が込められている。(*)

(*)女王でなく、王であるときには、God save the King! となる。

後になって、そうした聖書に基づく意味が薄れて、単に、「女王様、万歳」というように大した意味のないようなものとしても使われるようになったが、本来は、詩篇にあるように王も女王も神のものであり、神の御手によって滅びもするし、守られて勝利もする。まず神が王、女王を救ってください、という願いがある。
人間はすべて神の持ち物で、神から良きもの―罪の赦しや弱さに耐えて前進する力などを与えられないと、救いはない。
絵画など、世界的に有名な人が描いたものは、特別な価値があるとみなされ、購入には、高額を要する。
このように考えると、神は比較にもならないくらい偉大なお方だから、神が創ったものはみんな深い意味があるということになる。神の御手の広大さ、無限さを知るためにもさまざまなものを、自分の好き嫌いではなく見るということが大事である。

神は、大海の上に、また潮の流れの上に世界を造ったと言われているが、潮も海も同じ事を表す。詩篇では、同じような意味を持つ言葉を表現を変えて、並べて書くことがある。
これは古代人の世界観が表れていて、これはどこまでも広がる海の上に、大地を築かれたんだと、このような雄大な業を神様なされたということを、創造に立ち返って物事を考える出発点にしている。
それとともに、計り知れない海、大きな潮の流れ、大河のような流れという側面をも持っている巨大な力をもったものに対して、それに呑み込まれないように大地を据えたのだということも含まれている。
私たちもまた、そのような偉大な神の力と結びつきとき、この世の海や大きな流れに打ち負かされないように、据えられるのだということを知らされる。
この詩の作者は、このように、まず天地創造という大きな根源的なところから出発し、イスラエルの民は、確かに数々の困難を、海や大きな川の流れのただなかに置かれつつも、それにのみこまれることなく、存続してきた。そのように歴史をも導く神をも、この箇所は暗示しているのである。

次にこの詩は、いかなる人が、神に近づけるのか、ということを指し示す。私たちの根本問題は神から遠ざかってしまうこと、神に逆らって滅びていくことであり、そのようにならずに、神に近づけられることこそ、万人の願うところであるはずだからである。
神とは、まったき正義であり、愛であり、また真実なお方であり、そのような存在に近づくことは、だれでもよきことと思っているはずである。
例えば、嘘つきの人間と親しくしたい人などだれもいない。それは、真実を求めているということに他ならない。また、誰かから見下され、いじめられることを望むものもいない。これは愛を求めているということである。
このように考えればわかるように、神などいない、信じないといっている人でも、聖書にいう神の本質(愛、真実…)を無意識的にも求め、それと逆のものを退けようとしているのである。
神の前に近づける人はどんな人なのか。日本の神社であれば、たくさん寄付した人ほどその神社の神々に近づけるというように受け取られていることが多いから、神社の玉垣や石版に寄付金の多い順に大きさを変化させた石柱が置かれていたりする。
しかし、聖書ではものをたくさん持っている人や、権力のある人が近づけるとは昔から一切言われていない。聖書では「清められる」ということが第一に書かれている。むなしいものに心を奪われないような清い心を持つ人だ。また神様を求める人。このように心の状態を第一にしている。
汚れた心のままなら神様のところへ近づけない。そして神様を求めようともしない。悪いことばかり考えているようであったら、そもそも神様のことが心に浮かばない。
しかし、清い心と言っても、人間の心の奥深くまで見るなら、誰が本当に神の前で清いかということになるだろう。
 そこで6節に「主を求める人」とある。清い心を持つ人という条件をつけられたら、とても私たち主の前に出ることができない。冷静に考えたら、自分は到底そんな清い心など持っていないということになるだろう。
けれどもそこから主を求めるということは誰にもできることである。清い心でないからこそ、主よ、わたしの心を清めてくださいと求める。
このことがいっそう強められ、たとえ清い心でなくても、心から主を求める、汚れた心を赦してくださいと御顔を尋ね求める人が、主の山に登り神様のところへ近づかせていただけるようになった。
このことが、後のキリストの時代になって、贖い、罪の赦しという非常に重要なことにつながっている。自分は清くないけれでも、赦してくださいと求め、キリストがその汚れた部分を担ってくださったと感謝して信じるだけで、主の山に立つ(神の御前に出る)ことができるようになった。
以上のように、はじめの1〜2節が、天地創造と歴史を含んだ内容であったが、それに続く第二の段落では(3〜6節)現在のことが言われている。
現在の私たちにとって、その究極的な目標であり、日々の土台となること、それは神の御前に立たせていただき、神から力と希望をそして愛をいただいて生きることである。

…城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。(7〜10節)

この第三段落は、一読しても現代の私たちには、意味が分かりにくい。なぜ城門という言葉が出てくるのか。現代の私たちにとってこのような表現は意味を持っているのだろうか。
ここで言う王とは神を指し示す。この最後の段落では、神が私たちのところに来られるのだということを言おうとしている。だからそのために備えをしなさい。わたしたちの社会、またわたしたちの心に神様が来られるということである。
栄光に輝く王が来られるというのは、新約聖書にもつながっている。新約聖書でキリストが再び来られることを、預言しているという詩にもなっている。城門よ、頭を上げよ、身を起こして備えをせよというのが、新約聖書では備えをするために洗礼のヨハネという人が遣わされたということでもある。
だから神は天地創造をされて、そのあとは何もしていないのではなくて、神は実際に我々のところに来られるのだということを言おうとしている。
じっとしている神ではない。実際にキリストという形で来られたし、現代のわたしたちにおいてもキリストが再び来られるという信仰がずっと続いている。現代のような世界には、どこに神がいるのかというようなことがたくさんあるが、これはどの時代においても同じである。
そのような不可解な出来事や、悲劇的なこと、苦しみに満ちたことがたくさんあるにもかかわらず、そのような中に不思議なことにずっと長い間人々が心の中に、確かに神は再び来られると信じ続けてきた人たちが少数ながら起こされてきた。
言わば神が来られる未来の足音を聞き取った人たちなのである。霊的に深い人ほど、悪のただ中にあってもその足音を聞いてきた。そして最終的には悪に決着をつけられるという願いと確信を持っていた。 神様は聖霊という形でも来てくださるので、だからわたしたちも扉を閉めておかないで、扉を開いて栄光に輝く王の別の形である、聖なる霊を受け入れましょうという呼びかけにもなっている。
主が再び来られるというのは、主イエスもそのことを預言的に語られた。そして、聖書全体の最後の言葉(黙示録22の20)ともなっている。
それゆえ、この詩が古いもの、現代に関係のないものでなく、深く現代の私たちにも関わりを持っていると言えるし、新約聖書の非常に大事な信仰内容の一つ(再臨)をも指し示す内容となっている。

…以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」
「そのことは真実です。(アーメン)、主イエスよ、来てください。」ここに人間の最終的な希望がある。
この世界全体はだんだんと混乱がひどくなり、悪が勝ってしまうとか、最終的にこの世界は滅びて終わってしまうのではなくて、最終的にはこのように主が来てくださる。そしてすべては新しい天と地となる。
そこでは、「もはや海はない」ということから、この最終的な世界、宇宙は、現代の私たちのあらゆる想像を超えた霊的な世界だというほかはない。
 最初の段落では、天地創造、全てを御手の中におさめ、御支配されている神について書かれていた。
第二段落では、神の御前に出ることができるのはどのような心の人なのかが言われている。清い心を持って、そのためには、罪の清め、赦しを受けることが不可欠になる。そのうえで神の御前に出させていただけるという道を指し示している。そして主を求めるという心のみ、清い心を与えられる。
そして最後の段落では、栄光に輝く主が再び来られること、その主とは悪と戦うお方であり、最終的に悪を一掃されることが指し示されている。
このように、この詩は、過去、現在、未来を包み込んだ広がりのある霊的な内容を持っている。現代は、表面的には、交通機関やインターネットなど情報はいくらでも広く取り入れられるが、霊的には、自分中心、自国中心という変ることなき狭さにとどまっている。それゆえにこそ、この詩篇のような世界がいっそう身近にあるようにと願うものである。


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