休憩室(1999年)

休憩室   1999年12月 第467

○紅葉を生み出すもの


 晩秋から十二月にかけて、平地では木々にさまざまの紅葉が見られます。紅葉という言葉は紅の葉と書きますが、黄色や褐色になるのも含めていうこともあります。
 カエデやハゼノキのなかま、そして高い山に見られるナナカマドなどがとくに鮮やかな赤い色になります。カエデのなかまは、数多くあり、私自身が各地の山で見たことのあるものでも、イロハカエデ、オオモミジ、コハウチワカエデ、コミネカエデ、オオイタヤメイゲツ、ウリハダカエデなどが思い出されます。これらのうち、一般によく知られているのは、イロハカエデであり、これは単にカエデとかモミジ、あるいは、京都の高雄地方にこの名所があるので、タカオカエデとも言われます。カエデひとつとっても、実に多くの種類があり、それらは秋になるとたいてい美しく色づきます。
 カエデなどが美しい赤色になるのに対して、クヌギ、ケヤキ、コナラ、ブナなどは褐色になります。これらのうちでも、ケヤキは一部赤くなります。
 それから、黄色になる木々としては、イチョウ、ポプラはよく知られていますが、カツラ(桂)も美しい黄色となり、丸い独特の葉の形とあいまって、晩秋にその落ち葉を谷間の山道で見かけると忘れられないものです。カツラは、京都の桂離宮とか、人名の桂小五郎などといった名前でだれでも知っているのですが、カツラの木そのものを見たことのある人はごく少ないようです。
 私自身も、八百メートルほどの山の渓谷沿いと、剣山(徳島県の最高峰で標高一九五五メートル)の七合目付近のやはり渓谷沿いで見たもの、それから徳島と香川の県境の山の谷間の三つの場所だけです。
 このうち紅葉は、秋になると葉の付け根に特殊な細胞ができて、葉で作られた糖分が移動するのが困難となり、葉の細胞にたまる傾向が生じ、それが赤い色素であるアントシアンを作りだすのを促進するからだと考えられています。
 また黄色になるのは、秋になって葉が老化すると、葉の緑色の原因になっている葉緑素がこわれ、もともと葉にあった黄色い色素(カロチノイド)の色が現れてくるからです。また、褐色になるのは、さらにべつの褐色色素がつくられるからだと言われています。
 このように、葉としての役割を終えて、散って落ちようとする葉の中にも複雑な化学反応が生じ、私たち人間にとってさまざまの感動を呼ぶ美しい色になるのは、驚くべきことです。
 寒さという本来化学反応を鈍らせることが、美しい色を作り出すのに役だっていること、そして厳しい寒さがより美しい紅葉を生み出すということも、あらゆることを用いる神の御業を感じさせてくれます。
 これは、神に結びついた人間は、病気になっても、老齢で命を終えようとするときでも、不思議な輝きを周囲に感じさせ、元気で働いていたときとは違った何かを生み出すことがあるのと似ているように思われます。


○休憩室   199911月 第466

木星、土星、すばる

 前回に紹介した木星が今ごろは、夕方からずっと夜通し見ることができるので、何人かの人からも空に木星を見るようになって、身近になったとか、夜に空を見上げるようになったとか、聞かされています。

 現在(十一月下旬頃)、夜の九時頃に空を仰ぐと、南のやや高い空に、明るく木星が輝いています。そしてその少し東寄りには、木星よりは弱いがかなりの明るさで土星が見えます。木星は、ほかのどの星よりもはっきりとした強い明るさで輝いているので、だれでもすぐに見つかります。

 木星から、土星までの間隔をやや長めに土星の方向に延長していくと、ぼんやりと白いものが見えます。目のよいに人は、六個ほどの星が白い雲のようななかに見えます。これが、昔から有名な「すばる」です。プレヤデス星団のことです。

 これは、日本でも、今から千年ほども昔の清少納言がその随筆である枕草子につぎのように書いていることは広く知られています。

 星はすばる。牽牛(ひこぼし)、夕づつ(宵の明星のことで、金星)。 

 清少納言はどうして冬のオリオン座とかその中に含まれる青く輝くリゲルとか、あるいはシリウスのような強く輝いて目立つ星をあげずに、すばるを第一にあげているのか、不思議に思われますが、これは独特の白くくもったようななかに六つほどの星が見えるその姿がことに心を引いたものと思われます。(なお、ひこぼしとは、わし座の一等星アルタイルのこと)

 日本だけでなく、中国やインド、ヨーロッパなど世界的にこのすばるは古くから知られている星団なので、見たことのない人は、木星と土星をたどって見つけるとよいと思います。

 聖書のなかにも、つぎのように現れます。

あなたは、プレヤデスの鎖を結び、オリオンの綱を解くことができるか。・・大熊座とその星々を導くことができるか。あなたは天の法則を知っているか、その支配を地に及ぼすことができるか。(ヨブ記三十八・3133

 これは、ヨブという非常な苦難に突然にして陥った人が神はよい人も悪い人もみんな同じに扱うのだ、神は正しくないなどと苦しみのあまり神への不信を叫んでいたとき、神が最後に答えられたその言葉のなかにあります。ヨブ記を書いた信仰の大詩人もまた、夜空のすばるやオリオンなどに特別な関心を持ち、そこに神の大いなるわざを感じとっていたのがうかがえるのです。

 また、明け方には、素晴らしく輝く明けの明星(金星)が東の空に見えています。この時間の前後には、東から西の空に至るまで、たくさんの明るい星が輝いており、これほど多くの明るい星が一度に見られるのは珍しいことです。金星以外に、南の空にはオリオン座のリゲル、ベテルギウスなどの明るい星、大犬座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、双子座のポルックスとカストル、ぎょしゃ座のカペラ、雄牛座のアルデバラン、そして西の方に低くなっていますが、土星、木星といった明るい星が見えるのです。

 空の星に親しむと、私たちの心をいつもより高い方へ、また清い世界へと引き寄せられる思いがします。


休憩室   199910月 第465

○秋になると、野山ではいろいろの野草の花が見られます。花というと春を思い出す人が多いようですが、野山には春にもまけないほどにいろいろな野草が花を咲かせて、神の創造のわざを見させてくれます。  秋を告げる強力なメッセージとなっているのがヒガンバナです。この花は日本では、あまり好まれてこなかったのですが、最近では、海外では鑑賞用の花として用いられ、日本でも、次第に秋の代表的な花の一つとして取り上げられることが多くなっています。

 キツネノカミソリとかナツズイセンという美しい野草もヒガンバナ科ですが、それらの花は愛好されているのに、ヒガンバナだけが、いろいろな不当な誤解によって仲間外れにされている感があります。スイセンもヒガンバナ科なのですが、こちらのほうはだれでもに好かれる花となっています。 
 私は以前に、学校でヒガンバナの球根が含むデンプンやリコリン(アルカロイド)のことを教える理科実験のために、毎年近くの小川の側から採取していたことがあり、それを自宅にも植えてあります。毎年きちんとその美しい花を咲かせて周囲の緑と鮮やかなコントラストを見せてくれます。あぜ道や小川のふちにその印象的な赤い花を咲かせるのですが、近年は小川の改修やあぜ道の拡大などでつぎつぎと住む場所が狭くされていきつつあるのは残念なことです。

 また、秋の野山には、野菊といわれる野生のキクがいろいろと見られるようになります。多いのは、ヤマシロギクです。これは、野に一番多い野菊であるヨメナの花びらを白くしたようなものなので、シロヨメナとも言われますが、この花が山道のあちこちに咲くようになると、いかにも秋の山だという感を与えてくれます。 

 それから同じ白い野菊でも、シラヤマギクというのは、野菊の葉とは思えないような葉を茎の下のほうにつけ、白い舌状花もややまばらにつき、山深い所でひっそりと咲いている感じがして山の秋を知らせてくれる野草の一つです。

○アサギマダラ

 先日、わが家のそばで美しいアサギマダラがその独特の飛びかたでゆったりと飛んでいるのが見られました。二年ぶりくらいに見たものです。それがまたその翌日、こんどは家の庭の青い花に蜜を吸っていたのが見られました。

 小学生のとき、アサギマダラを初めて見つけたときの感動を今も覚えています。徳島ではめったに見られないチョウだったからです。

 その後、愛媛県にて関西の最高峰の石槌山(標高一九八一米)を数日かけて縦走していたとき、その稜線にて何度か見つけ、このチョウが高い山を好むのを知りました。その後、剣山にても四国では珍しいすらりと高く、美しいクガイソウ(ナンゴククガイソウ)の花に群がっているのを見る機会がありました。わずか一匹のチョウとの出会いであっても、その姿形の美しさに触れて神の創造の神秘の一端に触れさせていただく思いがします。


休憩室   19999月 第464

○木星のこと

 最近、夜十一時頃に東のやや北寄りの空に、澄んだ強い光で輝く星が見えます。これは、太陽系に含まれる惑星のうち最も大きい、木星です。どんなに星や星座にうとい人でも、まちがうことなく見えますので、まだ見たことがない人はぜひ見て欲しいと思います。 田舎の澄んだ夜空で、月のないときにはいっそう清い輝きとして見ることができます。

 夜空の星座はまったくわからないという人も多いのですが、それは、夜空の星を直接に理科の授業時間で見ることができないこともその理由の一つです。また、夜空の星の位置に関して高校入試に出題されるのは、北斗七星とか、オリオン座などのように毎年きまった位置に現れる恒星や、星座に関してです。

 惑星は地球のなかまであるのに、そしてめざましく輝いているのもあるのに、位置が変わっていくので、出題しにくいということもあります。そのために、その名前は子供のときからだれもが熟知しているのに、火星、木星、土星などを一度も見たことがないという人がほとんどであり、夕方にどんな星よりもつよく輝く金星ですらまったく見たことがないという人が大部分のようです。

 昼間は、青い大空、さまざまのかたちに変化して時として雄大な姿を見せてくれる雲や山野に咲くさまざまの野草の花などが神の国へと心を向けてくれます。そして、夜には、星の輝くすがたやそのたたずまいが最も私たちを、神に引き寄せてくれるものとなります。こうした自然は神の直接のわざであるために、時には書物とか人間の話以上に心を神の国のたまもので満たしてくれることがあります。

○寝たきりを防ぐための十ヶ条

 表題のものを最近見たことがあります。その中のいくつかを書いてみます。

1、あきらめない

2、あせらない

3、目標を持つ

4、役割の変更を受け入れる

5、仲間をつくる

6、外に出る、閉じ込もらない

 なぜ、これらが寝たきりを防ぐための心得なのかという説明はなかったのですが、私が思うところでは次のような理由によるのではないかと思います。

 病気になって、老齢にもなっているから、もうどうにもなるものでないとあきらめてしまったら、寝たきりにはやくなってしまう。また、病気をなんとか早く治さないと寝たきりになってしまうとあせってもいけない、また、体が病気になると、生活が単調になっていく、そこでは日々の生活の目標がなくなる。しかし、生きる目標がなかったら立ち上がろうとする気力が失せてしまう。

 かつて元気な頃にしていたこと、自分が重要な役割をはたしていたことが一つずつなくなっていき、他人のお荷物のような存在になっていく、それを受け入れないで、過去の元気な頃のことにしがみついているのではいけない。

 仲間からの刺激が必要で、それがなかったら日々が単調となる。

 外に出ないと、自分だけの狭い世界がさらに狭くなっていく。

 こうした心得は、身体の面だけでなく、そのまま心の方面でも言えると思われます。しかし、老齢になり、しかも病気になって自分き身体のことだけで精いっぱいになってくると、いったいどんな目標を持つことができるだろうかと思います。

 また、あきらめないと言われても、老化による衰弱は必然的であり、いろいろのかつてできていた仕事や趣味などがだんだんできなくなっていくことはどうすることもできません。

 このような心得を本当に少しでも可能にするのが、神とキリストを受け入れることだと思われます。

 私たちが万能の神、創造の神を信じるかぎり、どんなことがあっても、あきらめることはなくなるはずです。また、神の国が実現すること、復活するという目標をどこまでも保ち続けることができます。

 また、キリストを信じるかぎり全くの孤独にはならず、たいてい不思議な導きで神を信じる友が与えられます。そして、閉じ込もらないということにしても、そうした友が与えられるかぎり、その友との交わりのゆえに閉じ込もらずにすむ状況へと導かれることがあります。また、たとえ体があまり動かせない状況となっても、私たちに神の聖霊が臨むなら、はるかな過去の真理の証人や、離れたところにいるキリスト者たちとも祈りの世界で交わることができるし、まわりの単純な自然のすがたによって、それらを創造した神を思い、心は広やかな世界へと出ていくこともできます。

 そして、自分の役割もしだいに祈りこそが弱っていく自分の仕事なのだと示されるとき、いかに普通の仕事ができない状況となっても、なお、最も重要な仕事に関わることができるのだという実感を与えられると思われます。

 体が丈夫であっても、精神的に「寝たきり」同様になって、何に対しても力が入らず、心の弱ってしまうことも多いのです。

 主イエスが長い間中風をわずらって、寝たきりになっていた人に対して、次のように言われたことがあった。

「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(ルカ五・24

 長いあいだ動けなかった人が、主イエスの言葉によって、起き上がり、歩けるようになったとは驚くべきことです。これは、このような奇跡が二千年前に、起こったきりでもう二度とないのでなく、それと本質的に同様のことが、ずっと生じ続けるという象徴的な意味があったのです。

 人間は精神的に寝たきりになって、立ち上がれない、しかし、そこに生きて働くキリストの言葉が臨むとき、私たちは立ち上がり、歩き始めることができるということなのです。


休憩室   1999年8月 第463


○アジアンタムと言えば、鑑賞用のシダとしては最もよく知られているものの一つです。しかし、それはほとんどが園芸用のもので、自然に生えているものは見たことがない人が大部分と思います。最近、珍しいシダを、手話と聖書の集まりのときに持って来られた方がいました。

 それはかつて私が県内の標高千五百メートルほどの山に登っていたときに、途中の山深い谷間で見つけたことのあるハコネシダという美しいシダに似ていました。調べてみるとそれはその仲間のホウライシダであり、日本のアジアンタムと言えるものだとわかったのです。(なお、ホウライシダの学名は (アディアントゥム)という語を含んでいますがこれは、「水にぬれない」という意味を持っています。このシダの葉が水をはじいてぬれないからです)

 シダの仲間は花を咲かせることもなく、地味で判別が難しいものも多く、花瓶に飾られたりすることもほとんどないので、大多数のシダは知られていませんが、アジアンタムとか、シノブ、タニワタリ、イワヒバなどといった少数のシダ類が鑑賞用として飾られています。

 こうしたシダのうちでも、ホウライシダのように美しいシダが市内の民家の庭に自然に生えてきたのは珍しいことです。思いがけないところに、予想もしないような植物が生えてくる、それは胞子とか種が人間の予想できないようなところから運ばれてきて、いろいろの条件がかなったときに、発芽して成長していくのです。

 神は人間についても、予想できないようなところに、大きい働きをする人物を起こしたり、だれもが注目しない地味なところにとても優れた人を起こしたりします。

 主イエスも当時の人が「ナザレから何のよいものが出ようか」と言っていた、田舎のナザレ地方の出身であったのです。

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。(神の)霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネ福音書三・8

 ギリシャ語では風も霊も同じ(プネウマ)です。風が思いのままに吹くように、神の霊(聖霊)も、神のご計画のままに吹くのであって、人間のあらゆる予想を越えたところに吹くのです。あるところで、美しい花を咲かせ、力強いキリスト伝道をする人を起こし、みんなが見下しているところにも、驚くべき出来事を起こすのです。

○最近、讃美歌と童謡関わりに関して目にとまることが何度かありました。以前、手話と聖書の小さな集まりで、讃美歌「主われを愛す」(四六一番)を讃美していたとき、参加していた方が、この歌はどこかで聞いた事がある、なにかの曲に似ていると言われ、ああ、「しゃぼん玉とんだ」と似ていると言われたことがありました。

 たしかに、この讃美歌の二段目の「おそれはあらじ」という箇所のメロディーは、”しゃぼん玉とんだ”という曲の「こわれて消えた」という箇所とまったく同じメロディーだし、全体として似ているのはわかります。

「しゃぼん玉とんだ」を作詞した野口雨情は、十七歳のとき、内村鑑三の「月曜講演」を聞いたし、内村の執筆していた「東京独立雑誌」を読んでいたのです。作曲者の中山晋平とキリスト教との関係は不明ですが、作詞者とキリスト教の関係が作曲者にもなんらかの影響を与えたということ(例えば、讃美歌の紹介など)は十分考えられることです。

 また、「赤とんぼ」の作詞者は三木露風ですが、彼はキリスト者でした。かれの母は熱心なキリスト者であり、その影響を受けたと思われます。また彼女は、再婚しましたが、その相手の人もキリスト教徒であり、裁判官であったのに、教会堂を建てた人であったということです。また、「赤とんぼ」の作曲者は山田耕作ですが、山田はキリスト教の大学である関西学院大学卒業ですから、こうした広く親しまれた童謡の背後にもキリスト教の流れがしずかに脈打っているのが感じられます。

「赤とんぼ」という曲は、NHKの「日本のうた ふるさとの歌」のアンケートで六十五万通の応募のなかで、第一位に選ばれた曲であったということです。


休憩室    19997月 第439

音楽は良薬


 服部正といえば、作曲家として有名な人です。彼は、音楽家としての生涯を送ることになったそのきっかけを次のように言っています。

 十三歳の秋、青山学院の中学部に(日)がすることで私は初めて音楽の美しさを知ることができた。それは毎日、学校で行われる礼拝の時間に讃美歌を歌ったからである。讃美歌・・それはすばらしい音楽であった。長い伝統のなかで、選びに選び抜かれた名曲ばかりであった。毎日の礼拝の中で、この名曲集を歌うことが、私にとって一日のなかの最高の時間であった。・・もともと腺病質で、肋膜炎を患ったりする虚弱児であった私が、音楽に専念することになってから、次第に健康に恵まれてきた。美しい音楽を演奏している間に、私の身体の細胞が元気になって、病気をなおしてくれるような気がした。確かにそうである。熱があっても、頭が痛くても、演奏している間に、その病気は悪化したことは今日まで一度もなかった。それとは反対にさわやかなものが体内にみちあふれ健康が戻ってくることが自覚されるのだった。(一九八〇年発行の「サインズ」より)

 今、私がときどき尋ねている盲人の方で未信仰の方がいます。その人は、聖書は理解しがたく、信じがたいことが多いけれど、讃美歌の美しさに深く感じるといわれる人がいます。私は讃美歌から入って行けるのではないかとも言われたことがあります。

 讃美歌の言葉とそのメロディーには、神の言と同様に、この世の移り変わりを越えて人間の心の深いところを流れていくものがあるようです。現代のあわただしい状況にあっても、神への讃美こそは永遠に続いていくことと思われます。

フィンランドでのキリスト教


 日本では、真の神のことについて全く知らされないままに、生涯を終わることになることが大多数の人の状況だといえます。北欧の国の例をあげてみます。(これは、元神奈川県町議であったフィンランド人ツルネン・マルティさんが語ったことです。毎日新聞九五年十月23日付)

フィンランドは、国民の九五%がキリスト教徒(プロテスタント)です。日曜の朝ごとに、国営テレビ局がどこかの教会の礼拝の様子をありのままに一時間半放映します。ふだんの日でも毎朝、十五分ほど牧師の話を流します。これは、心豊かな日々であろうとするのには、信仰心は欠かせないということで、国民と教会、それに国家の間で折り合いがついているのです。

 これを見てもいかに、日本と大きい差があるかを知らされます。国営放送で日曜日ごとに一時間半も礼拝の内容を放送することによって、その国の人々にとっては、キリスト教の真理が知らず知らずのうちに深く浸透していくことになります。

 日本では仏教国といっても、ほとんどの人が自分の教派の仏教経典すら知らない状態ですし、世界中で読まれている聖書にしてもほとんど知らない状態となっています。こうした状況がまちがった宗教へ若者を追いやる土壌となっているのです