休憩室(2004年)

st07_m2.gif休憩室   200412月 第527

スイセン
冬の花のうち、最も愛されてきた花の一つはスイセンだと思われます。その清楚な花の姿と香りは誰にでも愛されるものです。よき香りを周囲に放つ花というのは、幾千とある野草のうちでも少ししかありません。
スイセンはほとんど野生状態で増えていくので、栽培にとくに手間も要らず、花の少ない冬にいのちに満ちた葉と花を見せてくれます。
夏の間は、草が生い茂っていたところは今は冬枯れとなり、代わってそこにスイセンがたくましく緑の葉を伸ばして次々と花を咲かせています。
スイセンの花とその姿、香りも私たちに、聖書にあるメッセージを思い起こさせてくれます。
聖書のなかで、香りに関して印象的な箇所があります。

…わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りである。
(Ⅱコリント二・1416より)
使徒パウロはこのようにのべて、キリスト者は良き香りを放つ存在であって、その香りを感じた者は救いへと招かれる、そのゆえに、命から命へ至らせる香りなのだといっています。たしかに私たちはだれかの祈りによって救いへと導かれたということがいえます。書物によってまた人によってキリスト者となりますが、その本を書いた人も生きているキリスト者も絶えず他者のために祈り続けるようになっているのであり、その祈りによって本も生み出され、またほかの人への働きかけもなされるからです。
聖書からは豊かな神の香りが永遠に周囲に出されています。聖書を心して読む者にはその香りが伝わり、その人からも、本人はそれに気付かなくとも、神の国の香りが放たれるようになるわけです。
スイセンが常に良き香りを周囲に放っているように、いまも生きて働くキリストは良き香りを世界に漂わせており、心を開くものにはその香りを実感できるようになっています。
スイセンの心を清めてくれる香り、それは神の国からのものであり、私たちの魂にたくわえられるような感じがします。
天の国の花園には、すでに召された信仰の勇者たち、愛と信仰に生き抜いた無数の良き香りのする花々が咲いているといえます。
私たちも心を高くあげて天の国の香り、キリストの香りを日々に受けて、よき香りある花のようにならせていただきたいものです。


st07_m2.gif休憩室   200411月 第526

○冬の季節となり、夜空には最も親しまれているオリオン座が東から上ってきて、夜の九時ころには東に見えています。
この数か月、明け方には、金星と木星が上下に並んでとりわけ美しい輝きを見せています。六時ごろでも、夜明けが遅いので、これらの星がはっきりとみえています。この時刻には、最近では、火星が東から上ってきて、東から順に、火星、金星、スピカ(乙女座の一等星)、木星、レグルス(しし座の一等星)、土星とずっとほぼ一列にならんで輝いています。この列の最後になっている土星は、もう西よりの高い空にみえるようになっています。
そしてその列の左側(北東の空)には、北斗七星が立ち上がってきてその広く知られた姿を見せています。
今年は、金星を第一として木星、土星、そして火星といった強い輝きの惑星が次々と夜明け前の夜空を飾るように現れるので、夜明け前に起きることの多い人にとっては朝一番に心に天来の光を受けるような気がすることと思います。


st07_m2.gif休憩室   200410月号 第525

○秋の山
最近の山は春以上に野草の花が見られる季節です。先日九州の全国集会のおりに、妻の実家に寄ったがそこから別の訪問先へと車で移動していたとき、とある山道にさしかかりました。初めての道でしたが、ちょうどその山道の両側には、小さい青紫色の花をたくさんつけるヤマハッカと、秋の七草に含まれる有名なフジバカマとほとんど花自体は同じであるヒヨドリバナ、そしてその仲間であるサワヒヨドリ、黄色い花をつけるヤクシソウ、それから山の野菊として代表的なヤマシロギク、シラヤマギクなどが次々と咲いていて、花の道のようでした。関西、四国、九州などは大体このような似た野草が見られ、これらを覚えるとどこに行っても友達がいるような親しみを感じつつ、そして神の創造のゆたかさを味わいつつ道を進むことができます。
秋の山のこうした花の季節には、それらの色やかたち、その群生の姿、周囲の樹木や草のたたずまいなどが全体としてハーモニーを奏でているのを感じます。

○明け方にみえる金星(明けの明星)のことを何度か紹介したので、初めて明けの明星を見たとか、あんな強い輝きとは知らなかったといった連絡を何人かから受けました。今年は台風が多く、前線の活動も活発で曇り空が多くせっかく早起きしたのに見られなかったとの声も聞きました。もうじき見えなくなるので、まだ見たことのない人は、天気予報でよい天気だと確認して早起きしてぜひ見ておくとよいと思います。早朝四時ころには、金星は東から上がってきていますが、東から南東の空にかけては金星の上方に、しし座の一等星レグルスがあり、そのさらに上方には土星がふつうの一等星の明るさで見られます。さらに上方には双子座という名前のもとになっている二つの明るい星のポルックスと、カストルがあり、それをもっと北よりに真上の方向には、御者座の一等星カペラが強い輝きを見せています。また南東には、シリウスの強い輝き、小犬座の一等星プロキオン、オリオン座の二つの一等星などがきらめいています。このように明るい星が明けの明星を第一として、一度にたくさん集まって見られるのはあまりないので、そういう意味でも今の機会に見ておかれることをお勧めします。


st07_m2.gif休憩室    20049月 第524

○明けの明星

七月頃から明け方の東の空に強い輝きの星がみえてます。現在でも、まだ夜が明ける前、午前三時半ころから東の空には輝き始めて、それは思わず心を引きつけられるような強い輝きです。
しかし、夜明け前であるために仕事とかで早起きする人以外には気付かれることが少ないと思います。
この星が金星で、明けの明星といわれるものです。
このような強い輝きのために、昔からどの民族でも注目をしてきた星で、聖書にも何度か現れます。

こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(Ⅱペテロ一・19

同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。(黙示録二・28

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(黙示録二二・16

このように、明けの明星として現れる金星は、キリストを象徴するものであって、それを見るたびに古代のキリスト者は、心を引き上げられ、キリストが再び来られることを待ち望む心を強められ、喜びを新たにしていたのがうかがえます。
星は人間には決して届かないもの、人間によって汚されたり、破壊されたりしないもの、そして永遠に光り続けているその有り様は神の光を連想させ、神の清さや美、そして永遠を目にみえるものとしては最も神に近いと感じさせられるものです。
明けの明星は朝早いときであり、また東の空が妨げのあるところや、都会では明るすぎてよく分からないこともあり、またちょうど晴れていなければみえません。それで実際はなかなか見たことがないという人が多いのです。それゆえにまだ見たことがないという人にはぜひ天候のよいことを確認して早起きして見ておいてほしいものです。
しかし、私たちの心の内に主イエスがおられるとき、いかにこの世が闇であってもその闇のなかで輝く光をみることができます。それは夜明けを告げようとしている神の心の現れでもあります。

○ヒガンバナ
九月に咲く秋の野草というと、まず思い出されるのはヒガンバナです。現在ではその特別な美しさのゆえに、あちこちで植えられたりすることが増えていますし、品種改良で違った花色の美しいものも作られています。しかし、私が子どもの時などは、触れてもいけないなどと言われて棒でヒガンバナの花をなで切りのようにしたものでした。確かにヒガンバナには、リコリンやガランタミンという有毒物質を含んでいます。
しかし、ヒガンバナと同じ仲間(ヒガンバナ科)の花は、スイセン、アマリリス、ハマユウ、スノードロップなど昔から愛好されてきた花がいろいろとあり、それらも同じ有毒物質を含んでいるのです。しかし、スイセンやアマリリスがヒガンバナ科だから有毒だなとど思って毛嫌いするなどということは聞いたことがありません。
またツツジ科の植物にもジテルペン系の有毒物質が含まれているので、葉や花を食べると中毒症状を起こします。(私が子どものとき、飼っていた山羊がツツジの葉を多く食べて中毒症状を起こし倒れたことが何度かあり、ツツジは毒だから注意せよと言われていました。)しかし、それもほとんど話題にされずそのことを知らない人が多数を占めています。
また根拠もなく、植えたらいけない木だといったりするのもありますが、人間の植物に対する言い伝えには、迷信や気まぐれなものがたくさんあります。
ヒガンバナはその美しさのゆえに、手元にあるアメリカの図鑑では園芸植物として扱われており、「花壇の縁取りや切り花として用いる」と記されています。この花は、球根にデンプンを多く含むので、飢饉のときには水でさらして食用にしたとか、むくみを取ったりする薬用にも遣われてきました。
わが家の庭でも、ずっと以前に近くの小川の縁から採取したヒガンバナが毎年美しく咲かせています。都市部に近いところではだんだんこのヒガンバナも少なくなっています。
野生の花としては特別にはなやかな美しさを持つこの花は、緑一色の九月の野をひときわ変化あるものにしてくれるものです。
神の創造されたこの世界には、植物の花にもいろいろあり、わずか一ミリにも満たないような小さな目立たない花から、イネ科の花のようなに花びらを持たない花、そしてサクラのように大きい木全体が花で覆われるようなもの、さらにボタンのような大きいどっしりとした花などもあり、ヒガンバナも特定の時期に一斉に赤い花を開き、葉が後から出てくるなど、その花の姿だけでなく特異なところがあっていっそうこの創造された世界に変化を与えています。


st07_m2.gif休憩室   20047月 第522

○緑の葉
夏は、緑一色。野山に花はわずかです。そして暑く、雨も多い季節。その緑の葉でとくに赤い光、青紫の光を多く吸収して、ブドウ糖を造っています。それをもとにして、人間や動物に不可欠な米や小麦のような穀類やさまざまの果物などに含まれるデンプンや糖類を造り、さらにタンパク質や脂肪など、いろいろの栄養物質も造られています。それは大規模な工場でもできない複雑な化学反応です。そして、その葉の内部の工場の排気ガスが酸素なのです。
また使わない光は、反射してそれが緑色となって私たちの目と心をいやしてくれます。
また秋になって、葉が枯れ落ちるとそれは微生物によって分解され大地に養分として入っていきます。
リサイクルという点からも驚くべきしくみです。私たちがただ暑いと思っている間も、黙々と植物たちは葉という工場で複雑な化学反応を続けています。
神が創造されたものは、かくも無駄なくすべてがよく用いられています。
実は人間の社会も、大きな視点から見れば、もし、私たちが神にすべてを委ねていくなら、無駄なものはなく、万事がよきになるように動かされているのだと言われています。「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている。」(ローマ書八・28より)

○夏の夜空
このごろの夜の空でまず目立つのは、サソリ座とそこにある有名なアンタレスです。夜の八時~九時ころには南の空のやや低いところに赤い星が輝いています。まだこのアンタレスを見たことがないという人は、ぜひ見ておいてほしいものです。冬のオリオン座とともに、サソリ座は最も簡単に見つけることができるし、真冬に輝くオリオン座のリゲルや大犬座のシリウスなどの青白い輝きに対して、アンタレスの赤い輝きは印象的です。太陽の二三〇倍という巨大な星で、太陽のところにおけば、地球や火星などもすっかり収まってしまうほどです。なお、リゲルやシリウスの表面温度はそれぞれ約一万 、一万二千度と極めて高温ですが、アンタレスは三千五百度ほどなので、あのように赤く見えるのです。夜空の星を見つめていると、私たちの世界のいかに小さいか、人間がいかに空しいことに明け暮れているかを感じさせてくれるものです。


image002.gif休憩室   20046月 第521

○六月の花といえば、私には野草ではウツボグサ、樹木の花ではクチナシがまず思い浮かびます。両方とも野生のものはあまりみられないのですがいずれも自然の中で咲いている姿は心惹くものがあります。インターネットで希望者に送付している「今日のみ言葉」にも、私の撮ったこの二つの写真を入れましたが、クチナシの野生などあるのですか、とか、もう何十年も見たことがないとか、全然野生のものは知らないといった人たちが多かったのです。
私は子供時代からわが家のある山に自然に生えたクチナシはその純白の花が目立っていたし、香りの優れていることと、花をとってカザグルマのようにしたりして親しんできたのです。
また、やはり家の周辺の山でときおり見かけたのは朱色のツツジです。これはふつうのツツジがすべて咲き終わった六月ころに咲くので何というツツジなのかと名前が知りたかったのですが、ずっとのちになってヤマツツジだとわかりました。このような幼少の頃に刻まれたものはいつまでも心に残っていて、それが心の土壌となっているのを感じます。

○蛍
わが家に帰る少しの山道に六月の短い間、蛍が見られます。年間を通して水が流れているごく小さな谷はだいぶ離れたところにあるのでそこで育ったと考えられますが、そのような小さな流れでよく絶滅せずにいるものだと思います。闇夜に光る蛍、そのゆったりした点滅は心に柔らかい光をも投げかけてくれるものです。
こうした植物や虫たちの、しかも清い美しさを伴う姿と、子供たちのゲームなどに見られる騒々しく闘争的な内容といかにかけ離れていることかと思います。
自然が失われた都会において、人間がこうした自然の単純な美しさや清い姿に触れる道は失われてしまいましたが、私たちが生ける神と深く結びつくときには、そのような自然そのものを創造した神に結ばれることになるので、おのずから自然のもつ静けさや清い美にも触れることになると思います。


休憩室   20045月 第520

○春の野草たちの花が咲き終わり、緑の若葉がいっせいに大きくなっています。周囲は緑一色となり、「天路歴程」に現れる、命の木の葉を思い出します。それは、本文で紹介したように、私たちの傷をいやそうとしてどこからともなく、差し出されたものだと書いています。緑だけでなく、青空や白い雲、風の音、そして谷川の水音などいずれも、神が私たちの心の傷をいやすために神から差し出されたもののようです。


○ウツギ(卯の花)
五月に山の多い地方を車で移動していると時折目にとまるのは、ウツギの仲間です。ウツギには、ガクウツギ、マルバウツギ、バイカウツギ(梅花空木)など、いろいろあります。
そのなかで、ウツギは純白の花が、半開きのように咲き、新緑の中にあって目をひくものです。
これは有名な「夏は来ぬ」という歌によってひろく知られています。それは曲がだれの心にも自然に入ってくる親しみやすいよい曲であるとともに、その歌詞が、後に古典文学の権威となった佐佐木信綱による五七五七七の短歌であり、それに「夏は来ぬ」をつけたものであること、その歌詞の内容が初夏のおとずれを印象深く表していることにあります。
最近は静かな自然の清さや美しさを歌ったこのような歌が若い人の心になくなっているようです。このような自然のかおりがたたえられた歌が今後とも人々の心に流れていくようにと願われます。

一)卯の花の 匂う垣根に
ほととぎす 早も来鳴きて
忍び音もらす 夏は来ぬ
*

二)さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

三)橘のかおる軒端の
窓近く 蛍飛び交い
おこたり諫むる 夏は来ぬ

四)楝散る 川辺の宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ
**

五)五月闇 ほたる飛び交い
水鶏鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

*)「卯の花の 匂う」とありますが、ウツギには匂いはなく、これは古語として用いてあり、ウツギの花の「あざやかな白い色が美しく映える。美しく目立つ。」といった意味。

**)楝(おうち)とは、センダンのことで、初夏にうす紫色の美しい花を咲かせる。


image002.gif休憩室   20044月 第519

○植物のすがたと人間
春は花や樹木、野草の季節です。だれもがそれらがいっせいに芽を出し、花を咲かせる姿に接します。それらは単に自分自身のために咲いているのでなく、また私たちの心の世界、精神の世界や霊的なことをも暗示するものです。
初々しい新緑のすがたは、私たちに常にいのちの世界を知らせてくれます。枯れたようになっていた木がめざましく芽を出して
*、生き返ったような姿となるのです。それは復活のいのちを私たちに告げている姿でもあります。キリスト教で最も重要な復活ということを、春の樹木、野草たちは私たちに告げているし証ししていると言えます。
また、花を咲かせること、その後で実を結ぶことも聖書に出てきます。
…わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしは…露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り…(ホセア書十四・45

これは、私たちが罪を知り、悔い改めるとき、神の愛と恵みは露のように注がれ、それによって私たちは花咲き、根を張るようになる、ということです。人間がその内面において花のようになるためには、心の方向転換が基礎にあるということなのです。
花の後に実がなります。その実はよき影響を世界に及ぼすシンボルだと言われています。

…後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。(イザヤ書二十七・6

私たちも実をつけるとは、自分だけの幸福を求めるのでなく、神によって花開いたものは、他者にも何らかのよきものを提供できる存在と変えられるということです。
…荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。(イザヤ書三十五・12

ここでは、神の祝福を受けた魂は花を咲かせる、それは喜びの花であると言われています。しかも、砂漠に花咲くといわれているように、もともと何のうるおいもなかった荒れ果てたところであっても、ひとたび神のいのちの水を受けるときには、喜びの花を咲かせるというのです。花は、主にあっての喜びを象徴しているといえます。
以上のように、植物のすがた、花などはすべて霊の芽を開いて見るのなら、多くの霊的な暗示に満ちているのがわかるのです。

*)聖書にも、神が選んだ者の杖は枯れたものであったのに、御手が触れることによって「芽を出して、つぼみをつけ、花を咲かせて実をつけた」と記されています。 (民数記十七・2023

○いつくしみ深き

讃美歌のうちで最も多く歌われてきたのは、おそらく「いつくしみ深き」(讃美歌312番)でありましょう。それは日曜日ごとの礼拝や夜の家庭集会、あるいはキャンプとか聖書講習会、さらに結婚式や葬儀や記念会(死後1年目とかに行なわれる召された人を記念する会)などにも用いられます。厳粛な礼拝から野外の集会や葬儀、結婚と性格の異なる集会においても、すべて使うことができる讃美というのはそう多くありません。
それは、友となってくださる主イエス、罪赦してくださるイエスのことをだれの心に入るようなわかりやすい言葉とメロディーで歌っているからだとおもいます。
この曲は、「星の界(よ)」という題名で、一九一〇年四月、「中学唱歌」に発表されて以来、今日まで九〇年以上にわたって親しまれてきたものです。

月なき み空に きらめく光
ああその星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠(おち)に
いざその星影 きわめも行かん

百年近く前の言葉なので、わかりにくいところもありますが、讃美歌で最も日本で親しまれている曲が、同時に星を歌った唱歌として広く歌われてきたのも、神の導きのひとつのような気がします。

○春の代表的な野草としては、ほかにいろいろ美しいものもありますが、高山や海岸などとか特殊なところでなく、まれにしかないものでもなく、生活している場の近くで見られるものとしては、やはりスミレがあげられると思います。
それゆえに、芭蕉も「山路来て なにやらゆかし すみれ草」と詠んだのであり、この句がとくに有名なのも、スミレそれ自体が多くの心を惹くものであり、その心をこの句が適切に表現していると受け止められてきたのだと思います。
最近では、スミレの見つかるような山路もだんだん少なくなり、スミレそのものもなかなか見つからなくなっています。
しかし、私たちの心がスミレを創造された神と結びつくとき、この世の生活が「山路」を歩むことであり、いかに問題が多いこの世であっても、そこに「なにやらゆかし」と感じるような出来事に出会うものです。
聖書のなかで、使徒パウロが、「つねに喜べ、感謝をせよ」と勧めているのも、こうした経験があるからだと思われます。


image002.gif休憩室   20043月 第518

○セントウソウとセリ科の花
野草はたいてい二月の終わりになってもまだほとんど花は咲かせないのですが、まだ寒いうちからまず咲き始める木や草花もあります。梅や水仙、ジンチョウゲなどは香りもよく、話題にされて有名ですが、まったく話題にもならないけれども、心惹かれるようなセリ科の花もあります。
それはセントウソウ(仙洞草)で、白い小さな花を咲かせます。春のセントウ(先頭)に咲くと覚えると記憶に残るという人もいます。これはセリ科のうちで最も小さいものに入ると思われますが、純白のごく小さい花はルーペでみると、その可憐な美に驚かされます。山のやや日陰のところにひっそりと咲いているので、ほとんど気付かない人も多いと思われます。しかし、この花は「山路来て何やらゆかし」という感じをもたらしてくれるものです。
セリは春の七草として有名だし、多くの人が食べた経験もあると思いますが、セリ科には、私の手元にある図鑑でも四十種類を超えています。このような多様なセリ科のなかで、最大のものは高さが一~三メートルほどにもなる、エゾニュウという植物です。これは、昨年北海道の礼文島を訪れたときに見たもので、人の背丈を超えた堂々とした姿となり、海に向かって広がる山の斜面のあちこちに咲いていました。それはたくさんの白い花をセリ科独特の線香花火のような放射状に咲かせます。
徳島の高山で剣山やその周辺の山でも、シシウドというやはり二メートルほどになる大型のセリ科の植物があり、夏の高山の目を楽しませてくれています。
大きいものも小さいものもそれぞれに独特の味わいをもって生きて、花を独自に咲かせる、そうした植物のすがたに接して神のなさり方の一端を学ぶ思いがします。

○春の星座
春になると、オリオン座も西に傾いていきますが、その代わり東からは、しし座や乙女座、牛かい座があらわれます。金星はまだ夕方の空に輝いて見えます。そして北斗七星は北空によく目立つ姿となってだれでも直ちに見つけられます。夜10時ころには、しし座の一等星であるレグルスがほぼ真南の高い空に見え、そのすぐ左側に特別に明るい星、木星が見えます。そして目を東に転じると、明るい二つの星が見つかります。青く強い光の星は、乙女座の一等星スピカで、表面温度は二万度、太陽が六千度ほどなので、はるかに高温で、そのために強い白色に輝いて見えます。その北寄りには、オレンジ色でやはり強い輝きの一等星、アルクトゥルスが見えます。これは牛かい座の一等星です。これがオレンジ色に見えるのは、表面温度が四千度あまりで低いからです。北斗七星の弓なりになっている星を伸ばすと、アルクトゥルス、スピカへと達します。こうした星座のごく基礎的な知識をもって夜空を見るとそれだけでも、星の世界により身近となり、それを創造された神の偉大さに心動かされます。


image002.gif休憩室   20042月 第517

○小鳥たち
わが家の前に、直径八〇センチ、高さ五〇センチほどの円柱状の水槽があります。そこに金魚を飼っているのですが、そこに水がいつも上まで入れてあります。
わが家の裏山は標高二〇〇メートルほどの低い山なので、谷にも水がほとんどない今の時期には、小鳥たちが朝から入れ代わり立ち代わり水を飲みにやってきます。
風もなく、暖かい日のときにはことにいろいろの小鳥がつぎつぎに来ます。キジバト、メジロ、ヒヨドリ、ヤマガラ、そしてふつうはなかなか人前に姿をみせないウグイス、それからこの辺では珍しいエナガなどです。
家に居るときは多くはないのですが、集中的に原稿を書いたりする日は終日在宅することもあり、そのときにはこうした小鳥たちが間近につぎつぎに見えるのはありがたいことです。
ウグイスは今は、ジッジッという地鳴きをして、低い茂みのなかを飛び回っているので、なかなかその姿は見えません。しかしこの水槽にはそばの茂みから突然現れてはひとしきり水を飲み、気持ちよさそうに水浴びをしてそれからさっと茂みに入っていきます。
また、ホオジロは水飲みにはまだ来ていないようですが、すぐ近くの木の梢にとまって、美しい歌を朝から歌ってくれることがときどきあります。
こうした小鳥たちの姿やたたずまいは、おそらく誰にとっても心あたたまるもの、安らぐ風情があります。翼を与えられ、軽やかに飛び、そして美しい歌を歌うものもあり、私たちが神への信仰に生きるすがたを表しているように感じることがあります。


image002.gif休憩室   20041月 第516

冬の星、カノープスなど
冬は寒くてゆっくり夜の星を観察するのにはふさわしい時ではないかもしれませんが、一年のうちで、最も美しい星々が数多く見られる季節です。オリオン座、大犬座、小犬座、双子座、雄牛座、御者座などにある一等星たちが、せまい範囲に集まっていて、私たちの心をはるかな大空へと引き上げてくれるばかりか、それらの神秘な輝きを与えた創造主へと呼び寄せられる気持ちになります。
今年の冬の空には、双子座のなかに、土星が見えるし、深夜ころには、東から恒星で最も明るいシリウスよりもさらに強い光で輝く木星が昇ってきます。というわけで、目で見えるものとしては、ほかの何ものよりも私たちの心を清め、引き上げるものである星が心にも刻まれるような季節です。
オリオン座のなかの一等星である、ベテルギウスという赤い星は、赤色巨星で、太陽の八百倍ほどもあるという大きさです。夜空に輝く星たちのうちでも、最も大きい星ではないかと言われているほどです。
また、私の住む徳島県小松島市では、天気がよく、北風の吹く夜には大気が澄み切っていて、南の空低いところに、シリウスに次いで明るい恒星として知られている、りゅうこつ座(*)のカノープスという一等星が見えます。このカノープスという星は、関東あたりでは、地平線近くになり、建物のかげになったり、大気の汚れのために、めったに見られない星で、それを見ることができたら長生きするとかいう言い伝えがあるほどで、老人星とか、寿星などという名前もあります。淡黄色で光度マイナス○・七等。
この星は、わが家からは割合よく見えて、中学生のころ、このカノープスという星を何とかしてみたいと思って、冬の星空の南の低い空を晴れているときはいつも探していたら、あるとき、南の低いところ、遠方の低い山なみのすぐ上に、明るい星を見つけ、これがもしかしたら、あの探していたカノープスかと胸をおどらせて星座で正確な位置を調べたところ、やはりそうであったので、とてもうれしく思ったのを覚えています。それ以来、冬の木枯らし吹く月のない夜にはおのずと、南の正面の空に輝くオリオンや、シリウスなどと共に、低い空のカノープスを探しています。今年ももう何度か目にとまったものです。

*)龍骨とは、船底の中心線を船首から船尾まで貫通する、船の背骨にあたる材。