2012年1月号から20129月号まで

センニンソウ
センニンソウ


2012年9月より

来信より
○…明るく見えるこの世界の奥深いところには闇がずっと横たわっているのである。そのような闇の根源は一人一人の人間の心の中に闇があるからである。その闇のことを罪といっている。それは教育や科学技術、医学、福祉がどのように発達しても、その心の深い闇を消すことはできなかった。キリストはこの人間に宿る深い闇に光をもたらすために来られた。…(「いのちの水」誌2009年1月号)
この深い闇をもっている者、それは自分のことだ、と思った。(関東地方の方、91歳と書いておられました)

○「いのちの水」誌と共に送られてくる「集会だより」は、赤い線をたくさんひいて、ちょっとでも心の弱ったとき、不安のとき、再び読んで また新しい希望をいただくことの繰り返しで、私にとっては、今のところ、聖書とともにとても大切な信仰書となっています。 (関東の方)

・「集会だより」は、5人の方々によって、主日礼拝や家庭集会での聖書講話の要約が書かれており、それぞれかなりの時間とエネルギーが注がれています。それを私(吉村孝雄)が全体を見て、入力ミスや記述の間違いあるいは不十分なところがないかチェックし、それからわが家の輪転機にかけて印刷し、それを水曜集会のあとで参加者10人ほどが折り畳んで作成しています。
各地での家庭集会にて語られるみ言葉の深い意味が少しでも


2012年8月より

○集会だより
健康上の問題もあり、前月は集会だよりを初めて休みました。集会だよりは5人の方々による要約が書かれて私のところに送られ、それを私が読んで、何らかの不十分な記述や入力ミスなど修正してレイアウトのソフトで偶数頁になるように編集し、それを、印刷するのですが、それらの編集と印刷にも相当の時間がかかり、体調が十分でなかったことと、その後に北海道、東北方面に出発する予定があり、どうしても難しかったからでした。今後も、状況によっては集会だよりを休止することもあると思います。

○脱原発に関する行動に
東京在住のSさんからの来信です。
…脱原発のこと、(「原子力発電と平和」の本や「いのちの水」誌などで)貴兄からも教えられていましたが、自分でもできることをしようと思うようになりました。
 6月2日には、「脱原発杉並宣言」の集会に参加、その後、「みどりの未来」の会に出席、7月28日「緑の党」の結成総会に参加、翌日には、国会へのデモ行進、「再稼働反対の国会大包囲」に加わりました。
 ノンポリ(*)の小生にとっては、初めての政治行動、市民運動でした。 
 子孫に、「負の遺産」を残したくないからです。 信仰が愛となって働いたと感じます。

*)ノンポリとは、nonpoliticalから作られた言葉で、「政治(politics)に関心を持たないこと」1968年前後の。ベトナム反戦、安保反対など学生運動などが激しかった頃、学生仲間でそうした問題に全く関心を持とうとしない学生を、ノンポリとよく言っていた。

・Sさんご夫妻とは、私(吉村)も無教会全国集会の初期からの交わりを与えられていますが、82歳という高齢になった現在、こうした原発の市民運動に加わるようになられたことに意外な思いです。しかし、あの今年716日に東京代々木公園行われたこれまで日本で行われた最大の脱原発デモ―さようなら原発10万人集会に参加された実に多様な方々、文字通り老若男女の人たちはそのおそらく圧倒的多数は、デモなどに参加したことのない方々だろうと推察できます。
 日本では、先に述べた今から40年以上昔の安保やベトナム反戦デモ以来、デモらしいものは激減していったからです。
 私は、その学生運動の激しいころ、大学3年のときに、理学部学生自治会の自治委員としてそうしたデモに加わり、ノンポリの学生たちに、その非を説明し、討論会にひっぱってくるということをしていたことや、時計台のある建物での卒業式当日も、ベトナム戦争反対を叫ぶ騒然とした学生デモが走り回る雰囲気のなかで行われた状態でした。
 あの時の党派的な争い、激しく相手を攻撃し、暴力によっても対立するグループを攻撃するなど、そして警官隊が手当たりしだいに警棒で殴りつけるなど―そのようなデモをマスコミも絶えず報道していたのを覚えているものとして、今回の原発反対の静かなデモ、きわめて多様な人たちのデモとの違いに驚かされます。


2012年7月より

来信から
○怪我をして自宅から離れていました。ようやく治ってきたので自宅に帰りましたが、いったい私の信仰は何だったのかと、自問自答していました。娘たちの家でも居場所がないと感じるだけでなく、どこにも居場所がないように感じます。…
こんなときこそ、神様に祈らなければと思ってもそれがなかなかできず、一日が長いです。
そんなとき、「いのちの水」誌が送られてきて、「あっ、読むものがある」と思って読みます。ひとり暮らしなので、だれとも話すことがなく、言葉を忘れます。「いのちの水」誌は楽しみに待っていますので、送付をよろしくお願いします。…

・県外の方からの来信ですが、老年になり、からだも不自由になり、さらにひとり暮らしということになると、生活が単調となり、心は暗くなりがちだと思います。
「いのちの水」誌もそうした方々にも 小さなともしびとなり、み言葉を運び、御国の風を少しでも吹かせることができればと願っています。

○…無教会の集会では、聖書研究は熱心ですが、現実社会のなかで抑圧され、差別されている人たちのうめきや叫びを聞いて、そういう人たちに寄り添い、関わるなかで福音の光を指し示す姿勢が欠如しているようにおもいます。
内村鑑三の言葉を長々と引用して話するキリスト教の講演会に出たことがありますが、今の若い人たちには、だれにもわかるような言葉を繰り返し 心に刻み込むようにみ言葉を取り次ぐ必要を痛感します。… (九州の方)

・聖書研究は、苦しむ人への愛や,福音を伝えようとする力を生み出すものではないのは、聖書を見ても、また現実の私たちの知るところからでも言えます。
主イエスは聖書研究をして福音を伝えたのではなかった。イエスは、伝道の生涯に入る前まで、父親と大工(石工)の仕事をしていたからです。
イエスの弟子たちも同様です。主イエスも伝道の出発点に、天から聖なる霊が降ってきたとあり、弟子たちも、イエスを見捨てて逃げ去ったあと復活のキリストに出会ったけれどもなお、福音を伝える力は与えられなかった。
彼等がまったく新たにされて、福音を伝えるために力を与えられたのは聖なる霊が注がれたからであり、またパウロのように活けるキリストに出会ったからだったのです。
弟子たちは、漁師が半数近くを占めていたり、徴税人や政治運動に関わる者たちもいたりで、およそ、聖書を研究して伝えるということはあり得ない人たちでした。
聖なる霊とは、神の本質そのもの、神の力であり、愛や真実そのものですから、そうしたものが与えられねば、私たちには弱者への関心や福音を証しする力が出ないのは当然といえます。


2012年5月 ○来信より

・こちらでは、なかなか、春らしいお天気に恵まれず、梅雨のような毎日ですが、桜がようやく満開になってきています。春らしい、暖かい青空の広がる日が、待ち遠しいです。山の黄緑色の新芽が こちらでも、見る時に、神様の摂理を感じて、慰められます。感謝です。
『球根のなかには』(讃美歌21-575)の詩の中に、
「沈黙はやがて 歌に変えられ 深い闇の中 夜明け近づく…♪」といつも歌いつつ、仕事をしています。
罪人の一人がたちかえったら、神様はとても喜んでくださる。そのことをいつも覚えて、この人生の歩みを正しく導いてくださるように神様に祈って生活させていただいてます。(東北の方)

・原発事故による放射能汚染で苦しんでいるのは、福島だけでなく、ここ宮城県南部でも同じなのですが、県知事が事故後、はやい段階で、「宮城県に放射能被害はない」と言ったために、(補償などにおいても)福島よりひどい状況が多々あるのが現実です。
そんな中、子どもたちを放射能被害から守ろうと活動しています。
そんな中、先日ある方に紹介され、「原子力発電と平和」を読みました。すばらしい内容で、手許に置いておきたいので、注文させていただきます。 …(宮城県の方)

☆去年8月に出版した「原子力発電と平和」という本ですが、このように、現在も折々に注文が届いています。原発関係の本は、おびただしく出版されていますが、キリスト教の真理との関わりという点からの本はごく少ないからだと思われます。
キリスト者としては、この世のさまざまの問題を、神の言葉の見地からはどのようにとらえるべきか、という視点をいつも持っていたいと願っています。
・詩篇の真珠… 第二十三篇は昔より特愛の詩であり、私どもの集会でも学んだことがあります。感謝を新たにしました。今回深い意味を教えていただき、心より神様に御礼申上げます。
「君が代と元号」…大阪では卒業式での君が代を巡っての「信じられないようなことが起っています。「愛国心は卑怯者の最後の隠れ家」というS・ジョンソンの言葉を思います。
 元号も以前から矛盾、合理性に欠ける点を痛感してきましたが、右傾化しているように思われる現代の日本の社会で、政治のトップも真剣に考えるべき、と思います。
「君が代と内村鑑三」… 知らなかったことばかりを教えていただき有難うございます。      (関西の方) 
・北田 康広さんのCD「人生の海の嵐に」を聞いて、その深い賛美の歌声に、神様の愛と慈しみが私のうちに溢れてくるようで、魂の平安に満たされるのを覚えます。このような喜びを悩みにある友にも届けたいと願います。   (関東地方の方)
・(「いのちの水」誌に紹介されていた)原発関係のCD・DVDを聞いて、その中で小出裕章氏が、「40年前には、誰も私の話しを聞いてくれませんでしたが、今日はこんなに大勢の人が聞きに来てくださいました」と話しておられます。
 私もそのひとりであり、結果的に原発を推進してきたのだと気づきました。なるべく多くの人に聞いてもらいたいと思います。(同右)


2012年4月  編集だより

○前月号で紹介していた、原子力発電に関するDVDなど購入された方からの来信の一部を載せておきます。

・高木仁三郎氏の「あきらめから希望へ」は予想していたようにとても関心があり、私の現況にもよく似ているので、夢中で3回拝見しました。DVDが、残されていてよかったです。ありがとうございました。
 彼は無責任な原子力利用の危険性と対応啓蒙、世のため人類のために行動しているのに、世の中から妨害され無視され、死んでからで無いと人々が安心して相手にしてくれないのかなと思いました。
高木さんの倫理観、正義感には本当に敬服の至りです。高木さんはクリスチャンではなかったが、聖書の知識は深かったと聞いています。彼が執筆した文章からはそのことが伺えます。(九州の方)

○去年から長期にわたって、夜空にその強い光をみせてくれていた木星が現在では、夕方に西の空低いところにあって、光も弱く見えます。
そのかわりに、火星がその赤い輝きを、夕方の南の空に、しし座のなかに見えています。もし火星を見たことがないという方がおられましたら、いまは暗くなってから、ぜひ南の空を見上げてください。ひときわ明るい赤い星、それが火星です。
金星はなお宵の明星として輝き続けて私たちに光のメッセージを送ってくれています。

この「いのちの水」誌という小さきものも、神を知らないで魂の闇に苦しむ人のところにみ言葉の光が届くように、そしてすでに信仰を与えられている方々には、み言葉の深い意味の一端をすこしでも明らかにでき、そこから神の言葉の持つ力をさらに与えられて欲しいとねがっています。

○3月号の訂正
13頁 4段目左9行 一酸化炭素→二酸化炭素(スキャナでの読取ミスが修正されていませんでした。)
25頁 2段目右11行 文字も→ロシア文字も


2012年2月  来信より

○原発についての知識は新聞及びインターネットでしかなかったので、メモを取りながら少し苦労して読みました。 
「原子力発電と平和」の本を読み、少し長い説教を間いている思いがしました。これはやはり著者の信仰の証しのように思います。
原発の問題をこうして、みことばに照らして語られたのは、初めてなので強く心をうごかされました。
 一部の大学教授は、東電に買収され、(東電京も保安院も)国民の生命より先に利益に走った事実。真実を隠していた闇の力の大きさを思い知らされました。
聖なるエネルギーが注がれていない人達、人間の数々のあやまち、教訓から学ばない人間の愚かさ、傲慢さ、鈍感さ、「人間が主人公であるから諸問題が発生する」「聖言にみちびかれていないことがすべての問題の根源である」本当にそうだと思います。
 また中3女子のコメントには勇気づけられました。若い方がその清らかな眼で、真実を見、公表して発言してくださって希望が湧いてきました。若い方々がどんどん声を上げ、これからの日本、世界の未来を築いていって欲しいと願っています。「神のことばは滅びることはない」のですから。神様の忍耐に感謝しながら、私達一人一人がねばり強く祈りたいと思います。(これは、「原子力発電と平和」を読んだ人が四国のNさんに宛てた読後感が、編集者に送られてきたもの。)

○去年の夏ごろ、「はこ舟」(「いのちの水」誌の以前の名前)1999年12月号を読んでいました。「0.111グラムが引き起こした危険と不安」という記事があり、夢中で読み、放射性廃棄物の取り扱いの難しさを知りました。今日届いた「原子力発電と平和」の本の表紙の写真を見て感じるのは、こんなにも美しいもの、神が創ってくださったものを踏みにじる人間の愚行です。
人間の能力では制御できないものに頼る愚かさを、この写真にある野の花や緑の大地が語りかけています。
この本をじっくり読んで、教会の人たちにもまわします。それであと3冊送ってください。(四国の方)

・この方は、去年の「いのちの水」誌は持っていなかったのですが、それ以前のものは持っていて読んでいたとのことです。
「原子力発電と平和」の本の表紙に用いたのは、山形県の月山(がっさん)の頂上への急な上りにさしかかるところで撮影したニッコウキスゲが、緑の草原に広がるなかで咲いているものです。普通は原発関係の本の表紙には、原発を暗示するものとか関連の画像が使われますが、あえてまったく原発と関係のない自然の写真を用いたのは、原発にかかわる様々の人間の腐敗、欲望などといかに神の直接の被造物はかけ離れているか、その清さと美しさを示し、神の国にかかわる清いものを見つめつつ、この世の原発という複雑で、あちこちから闇が除いている問題にかかわっていくべきだと思ったからでした。


2012年1月  来信より

○「原子力発電と平和」の本をありがとうございました。事実、真実がわかりました。内容が大変深いです。このような本を発行してくださり、感謝です。たくさんの方々に読んでいただきたいですね。一般の人にもとてもよくわかる内容だと思います。(近畿の方)

○「原子力発電と平和」については、多くのことを教えられました。私自身、東海村原発をはじめ福島原発、女川原発の建設当初から見学し、勉強をしておりました。とくに女川原発は10回を超す回数で訪れました。まだ原発の危険性を見抜けなかったのです。 チェルノブイリやスリーマイル島の事故後、脱原発が日本の進むべき道だと考えるようになりました。
そして今回の福島原発事故で、いかに恐ろしい人災であったかを肝に命じました。わたしの仕事場で原発の危険性を説いていく決意をしております。また、この本に書かれている「平和(シャーローム)」に共感しました。この本を友人たちに回覧をはじめております。(東北地方の方)

○…確かに、聖書の言葉と同様に、讃美歌のもつ力と恵みも大なるものがあります。集会のたびに歌われる讃美歌も、一時的な感激に終わらせず、繰り返し歌うことで同じ恵みを味わえるのではないかと思います。聖句の暗唱とともに、讃美歌の暗唱もしましょう。
聖書のある箇所に、「持てる者はますます持ち、持たない者は、もっているものまで取り上げられる」とありますが、本当にそうだと思います。宝はすぐ近くにあるのです。(九州の方)

・一般の歌は、何となく歌うのが楽しいから歌うという人も多いと思います。歌はいろいろな動機から歌われると思います。しかし、キリスト者の賛美は、祈り、感謝、神への思いが根底にあります。それゆえに、礼拝のときだけでなく、喜ばしいときも、また悲しみのとき、さらに最も苦しいことに直面するときでも…つねに賛美を歌うことができます。主イエスも、弟子たちとの最後の夕食を終えて、その夜には捕らえられるということを知っていたとき、そんな状況の時であっても、賛美を歌ったと記されています。「一同は、賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

○ 私たちは、11月、12月と2回、岩手県の仮設住宅を訪問するボランティアに参加しました。
被災された方々の苦しみは、とても察することはできないと思いました。
その中で、被災者の方々の魂の渇きを痛感しました。
ボランティアグループの中での活動でしたので伝道はできませんでしたが、本当に被災者の求めていることは、私たちの罪を贖うために十字架にお架かりになった、救い主イエス・キリストをお迎えすることだと思いました。「今日のみ言葉」などの文を読み、そのことを確信いたしました。
まことの命を与えてくださる主の福音の光が、被災者の方々の注がれることを切に祈っています。(関西の方)

○この度は福島から避難の方々への献金として送金を頂き、ありがとうございました。
災害の多い2011年でしたが、こちら(三重県の)伊賀市に原発から避難してこられた方々のことは、常に覚えて、少しでも寄り添わせて頂きながら歩みたく思っております。
先日も避難してこられたAさんは「お正月気分にはなれそうにもなくて…」と言われました。全くそのとおりです。
クリスマスには、皆様からのご献金で、3月にこちらへ避難してこられた16人の子どもたちにミカン、野菜、絵本などをプレゼントさせていただきました。
福島、山梨へ移転された方々からも「子どもたちが喜んでいます」との電話やお手紙をいただき感謝でした。(聖霊社事務局 Hさんから)