祈りの友通信   

   「祈りの風」  第十四号

二〇二二年十月発行

目次

はじめに

近況報告

自由投稿

最近の出来事から…浅井慎也11

 祈り、みことば、行動…I.T

箴言のみことばより…Y.A.

フィリピの信徒への手紙の学び…K.S.

私たちの祈り…K.N.

祈りについて…K.M.

すべてを主におゆだねして…S.E.

支えられて…S.E.

イザヤ書二章四節…S.M.

老い楽川柳(5)…T.R.

主はガリラヤ湖の(新聖歌395)…T.K.

真珠の歌…T.H.

主にある交わりを与えられて…T.Y.

泣いていられない…N.N.

姉召される…N.T.

聖霊によって…N.K.

最近思うこと…N.Y

心に思うこと…N.M.

近況報告&雑感H.K.・M.

「主イェスこそわが望み」(讃美歌21の531番)…F.S.

ダニエルの祈り…F.S.

「神父さん」と呼ばれて…M.T.

 サムエル記下九章の学びから…M.J.

俳句八句…M.K.

神に従いなさい ヤコブ書四・7…横井久26

召天者…26

新規入会者報告27

祈りの友集会報告28

あとがき52

 

はじめに

 

 現在の世界の状況は、ウクライナでの戦争がはじまって以来、国を武力で守る、という武力の重要性が広く言われている。しかし、巨額の金を使って戦闘機、戦車、砲弾などを造り、購入しても、さらにまた強力な兵器が造られていく。  それらが使われるたびに大量の人達の命が失われ、あるいは障がい者となり、日々の生活、その生涯が破壊されていく。 また、そのような大量破壊兵器の増強競争は巨額を要し、それだけ、世界の飢えた多数の人達への食料はじめ、医療や水資源などに使われるべき費用が空しく消えていく。しかも、そうした兵器の増産によって安全になるのでなく危険性はますます増大する。

 これと全く異なる霊的な戦いの武器がある。キリストの生き方は戦いの生涯であった。それゆえに、当時は権力者たちから無視され、侮辱され、殺されるに至った。

 しかし、キリストこそ、武力による戦いによる勝利ということに終止符を打った御方だった。それは、祈りによる神の力によってであり、そのためには何の費用もまた他者を害することもない戦いであり、逆に無数の人達の命を生み出すことにつながってきた。現代のような状況にあって、いっそうその活けるキリストの力による祈りが求められている。祈りあるところから、いのちの水が流れでるゆえに。

近況報告

A.T.(広島市)

 7月に初孫が生まれ、我が家でお世話しています。生命の不思議さ、子育ての大変さを改めて感じます。また、平和を心から願います。

 

A.S.(神奈川県)  

 土曜日の午前は、代々木公園(代々木公園通路チャペル、モバイルチャーチ)で、賛美や伝道をしています。屋外生活をされている方の事情も一人一人、違い、とても複雑であります。

 この奉仕活動を通して、アメリカ、中国、韓国、ロシア、フィリピン、カナダ、ブラジルなど多くの国のクリスチャンの方々と知り合うことができ、交流がつづいてることは、神様からの祝福です。  (もっと詳しい情報が必要な方は:asa12361236@gmail.comまで連絡ください)

 

I.A.(静岡県浜松市)

 一昨年の秋から一年間ほど、長野県の山里で一人暮らしをしていたが、冬の厳しい寒さと雪の多さに耐えられず、昨年の十一月下旬から岡崎に戻ってマンションでやはり一人で生活していた。しかし、今年の一月下旬頃から心身共に健康を害し、一人で生活することが困難となったため、二月中旬から一時、愛知県渥美半島にある実家に身を寄せていたが、四月上旬、一旦岡崎に戻り、その間に適当な高齢者施設を捜し、七月から浜名湖畔にある施設(サービス付き高齢者向け賃貸住宅)に入居し、新しい生活を始めている。

 この転居に伴い、今まで参加していた名古屋聖書研究会から浜松聖書集会に移り、聖書の学びを続けている。

 

O.J.(島根県雲南市)

 デイサービスに週一回、町のタクシーでスーパーにも週一回まとめ買いに行っています。自分が食べる量の野菜ーナス、トマト、スイカなどを畑で作り 草抜きなどして体を動かすようにしています。

 今年は暑さがきつく最近はなかなか集会に行けていませんが、ふだんは息子や嫁が車で送迎してくれ日登集会に参加しています。世界情勢も色々なことがあり心痛みますがこれもまた神様のご計画の中にあると思い祈っております。

 

O.K.(八王子市)

 六月二十二日に社会福祉士二名と年金事務所へ行き、二十七年間加入した国民年金の支給を、一年以上繰り下げることにしました。所持金が無くなるのを待つということです。親の遺産を取り崩している身としては、年金の増額が見込めるのはやはり有難いことです。生活保護の申請時期を待つことができるということです。 

 

K.H.(香川県小豆郡)

 コロナの影響で6月の責任牧師奉仕の礼拝式が二回目でした。出席者は4名でした。

主の名の元に集まるところには私もいる。とイエス様の言葉のようなおだやかな安らぎの時間でした。在主

                       

K.I.(東京都日野市)

 つるまき聖書会では月ごとに聖句交換を、国立聖書研究会ではZoomによって、イザヤ書と使徒言行録を学んでおります。

 

K.A.(福岡)

 最近、マリア・ワルトルタ著『聖母マリアの詩』(あかし書房)を読んでいます。深く感動しています。

 

K.Y.(兵庫県) 

 集会にはできるだけ参加しようと思い、日頃は今津集会、月に一度は高槻集会に参加しています。朝は祈りと聖書、幾つかの本を読むようにしています。

 

K.Y.(さいたま市)

 朝食の前に夫婦で榎本保郎著の「新約聖書一日一章」を読み、ヒム・プレーヤーで讃美歌を二つ歌っています。

 

KEIKO PERKINS(ケイコ・パーキンス)(アメリカ)

 はじめまして、今回祈りの友に参加しました啓子パ-キンス、アメリカ、ワシントン州の東部の田舎に住んでいます。福岡市出身です。アメリカには1983年から住んでいます。 

 2007年にクリスチャンになりました。 日本人の方から聖書の勉強をしませんか?と聞かれ、わたしは日本の仏教団体にはいっているので出来ません、と言うと、彼女は誰でも聖書の勉強はできます、と言われ家庭主婦で暇もあったので初めて聖書を手にとりアメリカ人の女の人たちに交わり(約150人)聖書を勉強を始めました。一週間に一度毎年9月から4月迄、宿題も沢山あり英和辞典を片手に大変で約1ヶ月過ぎ、ああやめたい、聖書の勉強は無理々々と思いました。学びは出エジプト記でした。何とかして言い訳を見つけてやめなければならないと、思っても言い訳がみつからない(暇あり主婦なので)イヤイヤながら続けました。

 そして2ヶ月過ぎて出エジプト記4章10~17節のところでこの聖書勉強はやめてはいけないと決心させてくれました。神様は私たちの弱さを弱さとみないで励まし、助けてくれる事、神様が私達を創造してくださったので神様が私達を助けてくれるのは当然、だから神様を信頼しなさい。…誰からも教えられたこともない言葉、こんなに私を愛してくれている方がいらっしゃる。わたしの頭と、心にドシンときました。私達が弱い時、神様を信頼し何事も相談すると私達が言いたいことも用意してくれ力、勇気もくれる事の教えに私の目がひらきました(このようなことわざが日本語にありますね)忘れました。 

 2006年5月、ひとつ上の兄が急に亡くなり(兄は20年前に離婚し一人暮らし)福岡に帰りひとつ下の弟と、兄の片付けをしました。その同じ年2006年11月にその弟が癌になり(弟は一度も結婚していません)福岡に帰り3ヶ月弟の世話をしました。私の心が張り裂ける思いでした。

 弟はクリスチャンではないけど私がお祈りすると黙って聞き、いつもアーメンと言いました。

 その間、聖書の励ましだけが頼りになると思い福岡聖書研究会を見つけ、秀村先生にお会いしました。マタイ五・4「悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからです。」私の大好きなイエス様の教えです。弟も兄がなくなった9ヶ月後になくなりました二人でお祈り出来たことに感謝しています。  秀村先生、吉村先生にもお会い出来たこと、とても感謝しています。

 祈りの友の皆様一緒に神様、イエス様にお祈りできる事とても励ましになります。どんな苦しみ困難があってもこのすばらしい聖書の教えで乗り越えられていける確信、希望、約束があります。私達はとても幸せですね。皆様の平安健康をお祈りします。

 

K.T.(岡山市)

 2020年11月28日に、夫 香西民雄が天に召されました。段々と天の国が近くなってきたように思います。一日一日を祈りつつ歩んで行きたいと思います。

 

K.S.(京都府)

 第二、第四水曜日に宮田咲子さん宅での狭山聖書集会に参加し始めました。共にマタイによる福音書、サムエル記上を学んでいます。健康を守られ、伝道私信「マラナ・タ」(既刊94号)の発行も続けることができて感謝です。

 

K.T.(東京都)

 一月に父が亡くなりました。お祈りありがとうございました。認知症が進んでいましたが、言葉を超えて神様がしっかりお守りくださったと信じて感謝しています。

 

K.N.(福岡県)

 昨年仕事を辞めました。毎日ほとんど家にいます。お陰様で元気に暮らしております。

 

S.E.(大阪市)

 今年5月より、自力生活が困難になり特養に入居しました。礼拝に今までのように通えなくなるのが残念ですが、神様を見上げて希望をもって生活していきたいと思います。(電話での聞き取り)

 

I.k.(東京)

 北松戸のケア付き老人ホームに入居中の夫(礼次郎)が発熱のため7月15日に緊急入院になりました。松戸周辺の病院がコロナ禍で満床のため、我孫子聖仁会病院に入院となっています。①肺炎、②尿路感染、この二つの治療が必要であるため、1~2週間程度の入院となるようです。このようにホームから連絡が入りました。

 夫は現在94歳の高齢です。以前のように元気になって、もう一度ホームに帰ることができますようにと、日夜、私は主イエスの神に祈り続けています。これが私の一番祈りたいことです。コロナ禍で面会・見舞いはできません。どうぞ、皆様礼次郎のために お祈り下さいませ。よろしくお願い申し上げます。主にある平安をお祈りします。

 

S.E.(愛媛県)

 毎週火曜日の夜、伝道会の聖書集会にZOOMで参加させていただいています。

 8月に静岡で開催された伝道会のバイブルキャンプのお手伝いもさせていただきました。

 

S.Y.(さいたま市)

 コロナの影響はやはり人口密集と関係があるようで、残念ながら「礼拝は各自家庭で」という状況が続いております。

 

S.M.(長野県上田市)

 昨年の三月に住み慣れた千曲市を離れ、上田市で娘家族との同居を始めました。二度目の夏を迎えています。信仰もさることながら価値観の異なる二つの家族が一緒に住むということは、簡単な事ではないと実感しています。また馴染みのない土地で新たに暮らし始める大変さもあります。それでも、間近で孫達の成長が見られる事は有難いことです。

 仕事を辞めましたので、社会や人との繋がりが殆どなくなりましたが、高齢者の気持ちが少しばかり分かるようになってきた気がします。

 自分が若かったり、身軽に自由に動けたり、子育てや仕事に追われている間は、御高齢の方や病気を抱えておられる方々の気持ちが全くと言って良いほど分かりませんでした。今、自分の様々な面での衰えを感じるようになってきて、神様が徐々に分からせてくださっているように思います。

 そして、施設にいる母の事が今まで以上に気にかかります。これまでの親不孝の数々や母に対する生意気だった言動も思い出されます。与えられた環境の中で、イエス様の十字架を見上げて感謝しながら歩む事が、母へのお詫びと恩返しになるのかもしれません。

 

S.M.(松江市)

 今年に入ってから、着物リメイクに目覚めました。3年前に母が召され、少しずつ実家の始末をしています。母が若いころ着ていたらしい物、父の物と出てきました。捨てるのは惜しく、You Tubeを先生にして簡単なワンピース、チュニック等を作っています。お蚕から作られたシルクなので、着心地もよく、母を思い出しながら制作しています。

 

O.T.(茨城県)

 妻の介護では、気持ちの良いことをするようにと教わっています。自分の体調を保持しながら実行できるように願ってやっています。不思議な体験もします。主イエス様がかかわってくださることを感じます。皆様のお祈りに感謝します。

 

T.Y.(鹿児島県霧島市)

 祈りの友の二人の姉妹がいつも熱い祈りの手紙・ハガキをくださいます。返信できないのですが、本当に感謝しています。

 

T.K.(北海道)

 最近気づいた事は賛美の力です。疲れ果てている時、主イエスを賛美する声を聞くと心に安らぎがあふれてきます。

 

T.Y.(岡山県)

 北田康広さんの讃美歌で祈りの時間持っています。日常の中で集中できる大切なひとときです。感謝です。聖書通読はゼカリヤ書まできました。3年半かかりました。           

 

T.R.(兵庫県)

 息子が小学校四年生になりました。私は、子ども向け福音解説のイラストの仕事をしたり、PTA本部役員をしたり忙しくしています。忙しくできるくらい元気になったのだなと、お祈りに支えられていることを実感しています。

 祈りという仕事が一番大切な仕事なのだということも日々痛感しています。戦争、なかなか終息しない感染症、様々な困難。世の終わりを感じる今日この頃、祈りの武器を取って闘うものでありたいと思います。与えられた持ち場での働きに聖霊の力を祈り求めていきたいです。

 

T.H.(青森県)

  三月に大阪に集会を持っておられるМ姉から「午后三時祈祷療友会」「祈の友」誌、八十冊ほどを譲り受けた。М姉が発行している誌上で、戦前の創刊当時からの「祈の友」誌について書いておられ、わたしが現在の「祈りの友」会員であることをお話して譲り受けたのである。段ボール二箱の内の一箱分、ギッシリと八十冊ほどが送られてきた。各号六十ページほどである。昭和二十七年からのものが送られてきた。ところで、М姉は「祈りの友」会員ではありません。わたしの視力の衰えと、冊子の活字が小さく不鮮明なせいもあって、一日に二ページずつ読むことにした。各号に五十名ほどの短い証しと二、三人の昇天記があり、ざっと素早く読むようなものではなかった。どっと七十年もの歳月を飛び越えて、かの人たちと、現「祈りの友」会員として、特別なつながりの感覚を持って読み続けている。

 

T.K.(徳島)

 6月、教会員の方が安らかに召されました。97歳。長年ご夫婦で誠実に種苗店を営んで来られ、信仰生活もご夫婦共に誠実は私達のお手本でした。ご主人を天へ送られた後、思いもかけず、高齢になりお店とお家を手放すという大きな困難に遭われましたが、1テサロニケ五・16~18のみことばに素直に従う神様への信頼と平安は変わることはありませんでした。この出来事により、兵庫県の娘さんのところへ迎えられましたが、神を愛し人を愛し、神に愛され人に愛されるご生涯は最後まで変わることはありませんでした。みことばに親しみ、祈り、その存在をもって平安、喜び、希望を周りの人に与えられました。

 

T.M.(愛媛)

 わたしは82才と二か月になりつつありますが、旧約聖書(歴代誌上)と新約聖書(ピリピ人への手紙)を拝読し、引照は聖書で(第二コリント)を読んでおります。また聖日礼拝集会では、三人の仲間と共に当番で聖書を読み、賛美を致しております。この小さな集まりが、生活の軸となって、一週間毎の活力をいただいております。身体は脊柱管狭窄症が悪化して、痛みと歩行困難の状態なので、近々手術を受けることにしました。歩くことが基本ですので、何とか少しでも回復したいと願っております。

 家族は六人で、中に小学生と中学生がおりますが、現在、不登校の状態で家族が心配しております。神様がきっと解決してくださることを信じて、毎日祈っております。

 また、世界の戦争が終わり、イエス様の光によって悪魔の業が消滅して、平和になるように、飢餓の苦しみから人々が救われますように、特に子供たちがイエス様の御翼の陰に守られますようにと祈っております。

 

N.N.(八王子市)

 家の近くの教会の牧師さんを姪が紹介してくれました。無教会であることを承知で「聖書を一緒に学びたい」と言われ、早速姪と3人で8月から開始します。

 

 

N.T.(京都市) (次男の泉さんより)

 母は今寝たきりになり、食事の時は起こしてもらい、全介助で食べています。神様の御慈しみを祈っています。

 

N.K.(福井市)

 バランスの障害にもとづく歩行障害が目立ってまいりました。転倒事故は避けられております。しかし、安全だと思われるところでもバランスを崩して倒れることもあり、歩行には杖や歩行器が欠かせません。徐々に身体機能が制限されていくような不安な気分におそわれますが、積極的にリハビリに精を出し、じわっとくる障害についても、さあやってこいという気概をもって対応したいものと思っております。万軍の主がわたしの助け主でいてくださるから、どんな苦難からも守られるとの信仰が私にはあります。一方それはイエス・キリストの信仰と重なる信仰であります。自分の信仰であったら天国に入る自信はないが、イエス・キリストの信仰によって救われると確信しています。そこに立った時、平安が与えられました。

 

N.Y.(台湾 高雄(カオション G?oxing)市)

 台湾の高雄在住。健康。毎週イラストを描いて御言葉を伝える礼拝を家族で持たせていただいています。

 

n.K.(大阪府高槻市)

 コロナ禍の中にあって礼拝が守られていることを感謝しています。さまざまな事情で集えない兄弟姉妹がおられ、人数は少ないですが、みな心を合わせて主を讃美できていることは本当に恵みです。月に一度徳島の家庭集会(北島集会)に参加できていることも大きな慰めと力をいただいています。

 今回も「祈りの友」との連絡の中で それぞれの方から、また新たな主からの試練の数々を知らされ共有しています。祈っていきたいとおもいます。

 

N.M.(東京都)

 二0二二年一月から部署の移動で地域包括の予防プランナーになりました。私はそこでケアマネとしての知識も力も何もないことを痛感させられ、すっかり落ち込んでしまいました。本音で相談できる人がいなくて、職場の皆が大ベテランに見えて、昼休みも心を開くことができず、一人孤立してしまいました。 

 一月中旬から辞めたいとは伝えましたが、すぐには受け入れてもらえず鬱状態は益々ひどくなり、家でも娘の前でも泣いてばかりで、心療内科の主治医には相談していました。結果、診断書を書いていただき六月十三日から休職し六月末で退職しました。神様が私をケアマネにしてくださったのに私がだらしないからではないか、続けるの辞めるのと、どちらが神様の御心なのか、ずいぶんと悩み自分をたくさん責めました。

 徳島の中川姉陽子姉、八王子の永井姉、通っている教会の方々にずいぶん祈っていただきました。自分では最後はどうか辞めさせてくださいと祈りました。神様はその祈りに答えてくださりあっという間に退職させて下さいました。

 七月になり心も元気になりました。今は職場に合ったプランナーさんが与えられるように祈っています。後はこんな私のために心から祈ってくださり相談に乗ってくださった方お一人一人のためにお祈りしています。これが私の近況報告です。

 しかし、この体験も私に必要であり意味があったと信じます。これからは神様が私に何をしてくださるか、ただ神様にゆだねて祈って感謝して、次のステップに進ませていただきたいです。

 

N.H.(埼玉県)

 心のゆとりができて、体を動かせるようになって、体調が少し良くなりました。

 

N.M.(北海道)

 先日、牛を放牧に出す時、牛舎の通路で牛の前に倒れてしまいました。600キログラムの牛に踏まれたり、頭や首を蹴られたら危ないところでした。驚いた牛が見事に私を飛び越えてくれたので無事でした。今までも、太い倒木の下敷きになりそうになったり、トラックで積み荷の丸太ごと落ちて救急車で運ばれたり、建設の足場から落ちたり、他にも沢山危ないことがあります。家族からも、いい加減に年齢や体の動きが悪くなったのを自覚してくれと叱られています。神様が助けてくださっているのですが、私の心の中では「信仰の薄き者よ。」との声が聞こえて仕方がありません。

 

N.Y.(北海道)

 五月に十歳の息子がコロナウイルスに感染しました。夫も私も持病があるので、感染しないようにとの思いの中 療養が始まりました。息子は三日間激しい頭痛と高熱に苦しみましたが、無事元気になり、息子の頑張りもあって、夫も私も感染することなく十日間の療養期間を終えました。できる限りの感染対策をし、十日間緊張の連続で、精神的にも肉体的にもヘトヘトになりました。改めてコロナ渦での医療現場等で働いておられる方々の大変さを感じました。どうぞそのような方々の上にも神様のお守りがありますように。

 

H.H.(徳島)

 いつもお祈りをありがとうございます。ことし1月に右側の胸水が1400ミリリットルまで増えて肺を圧迫。息切れの症状が生じ、春に入院しました。原因は持病の蛋白漏出性胃腸症によるものです。3回ほど胸膜穿刺にて抜きましたがすぐにまた増えるので、入院中の3月24日からステロイド剤プレドニゾロン5mgを一日4錠から服用し始めました。

 「元々、免疫グロブリンが漏出しているうえに、副作用でさらに免疫が低下している状況のため、感染などにさらに注意が必要。」と言われ、毎週キリスト教の集まりに参加していることを伝えると、「ステロイド治療が終わるまで、オンラインで参加したほうがよい。」と、大学病院の消化器内科と呼吸器内科それぞれの主治医から言われました。

 胸水の量は、退院直前の4月5日~7月14日受診時まで、500ミリリットル前後で横ばい。溜まっているけれど抜くほどではない状態です。胸部レントゲンやCT検査で経過観察しながら、プレドニゾロン5mgを一日1錠まで減量でき、継続中です。呼吸器内科は大きな変化がないので、3週間ごとだった診察が9月まで延びました。息切れの症状は落ち着いています。

 ステロイド剤は急に服用をやめると胸水が1リットルまでまた増える可能性があるため、いつまで服用するか見通しが立ちません。私の病気は患者数が少ないので、ほかに参考文献がない中、主治医の先生方が治療方針を探り、慎重に進めていってくださっています。

 「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここにすまわせてくださるのです。」(詩編四・9) 

今年は持病のことばかりに気が向いて落ち着かない時もありますが、スカイプによる参加ができ、主の平和をいただき守られています。

 

H.G.(福岡)

 今年の二月一四日は、福岡聖書研究会の創立九十年記念日でした。内村鑑三先生の召天翌年に、弟子であった田中謙治氏ほかで記念会がもたれ、その翌年一九三二年に田中氏自宅を会場に、聖書集会が産声を上げたのでした。

 それは、九州で最初に誕生した無教会集会でもありました。爾来あの大戦を始めとする様々な苦難を乗り越えて、またコロナ渦中もZOOMの助けで休むことなく、福音の灯火が掲げ続けられたことは驚くべきことだと思います。組織無く、会堂無く、資金も無い、無い無い尽くしの営みが九十年も続いたことは、主のみ業としか言いようがありません。お恵みに感謝するだけであります。

 そして七月二四日には、明治の宣教師、エステラ・フィンチ女史を記念することも許されました。フィンチの活動を支えた黒田惟信牧師の孫・海野涼子さんからZOOMでお話を伺ったのです。フィンチは横須賀に拠点を設けて(一八九九年)、軍人への福音伝道に力を注ぎました。福岡聖研創立者の田中謙治氏は海軍軍人であり、彼女によって信仰に導かれたのです。そして、フィンチを内村が支援した(一八九三年頃から)関係もあって、フィンチの召天後に内村の弟子になりました。即ち、私たちの集会の源泉は内村を遡ってフィンチにあるのです。

 九十周年の時に、そのことを心に刻むことができたのも感謝でした。ウクライナ戦争の渦中にある今日、日本の「軍人伝道」に生涯を捧げた米国婦人がいたことを、改めて心に刻みたいと思います。

 最も福音から遠いところに存在するかに思える軍人をも捕らえるイエスの福音の力は、その信仰がイエスに絶賛された無名の百人隊長(ルカ七・一~一○)、イタリア大隊の百人隊長・コルネリウス(使徒一○章)などの記事を通して聖書に明らかにされています。(フィンチについては、海野涼子著「エステラ・フィンチ評伝」芙蓉書房出版が発刊されました。)

 

F.F.(徳島)

 高齢になり身体の不調も、多くなり、そのひとつずつが医者と繋がり薬となり、診察日となりますので、これには神経を使います。すべて神様に、おゆだねし平安をいただいて過ごしています。

 インフルエンザAにかかり、脚力が低下しました。車は私にとって外に出る唯一の手段として欠かせませんので高齢者運転試験を受け免許証取得、安全運転のできる車を購入して事故の無い運転に努めています。

 

F.S. (霧島市) 

 公民館の仕事を与えられ忙しくなりました。キリスト者としてどう生きるかが問われる毎日です。

 

M.K.(いちき串木野市)

 弟がギャンブル依存症で、多額の借金があることがわかり驚いています。その事で不眠になり血圧上昇等あり、安定剤を常用しています。全てを主に委ねることの難しさを痛感しております。

 

M.K.(兵庫県尼崎市)

 わたし(七十八才)と妻みち子(七十四才)は尼崎市内にて牧師夫婦として奉仕中です。子ども五人は全員結婚して取手市、愛知県内(三人)高知市にいます。特に高知にいる次男は、日本基督教団高知教会で伝道師として奉仕しています。近く正教師検定試験を受けます。合格したなら正教師按手礼を受けることになります。

 

M.J.(茨城)

 長男の入院前、長男を助けて下さいと、神様に叫ぶように祈っていた私の祈りを神様が聞きあげて、長男を入院に導き、良い主治医の先生にも出会わせて下さったことは感謝でした。長男の為にお祈り下さった方々にも感謝です。

 長男は、身のまわりの事の為に、私の助けもいるので、私達夫婦の健康も神様がお守り下さり、長男の将来のために、考えておくべき事もお導き下さるようにと祈っています。

 

M.K.(東京都)

 夫や、理学療法士やヘルバーの方々や近所のかたや色んな方々の助けを借りて、何とか生活の型が落ち着いてきたと思います。

 毎週日曜日には、徳島聖書キリスト集会のスカイプでの集会に皆さんと集会に集い、心の糧なるご講話を聞ける幸いを思っています。

 

Y.T.(高槻市)

 現在 施設に単身入居されています。面会もご様子も聞きに行くことができません。今年の誕生日(2月 90才)、母の日に北海道の娘さんがケアマネさんを仲介に電話で少しお話しできたようです。精神障がいもあるとのことですが何とか健康は守られておられるようです。

(北海道の娘さんからの聞き取りです。お祈りください。)

 

Y.H.(佐賀県)

 コロナ禍以後、引き籠りがちな生活ですが、霊肉共にエクレーシアにあって、支え・導かれつつ感謝の日々を過ごしています。老いて示されることは「キリスト信仰のみ」の一語ですね。

 

Y.M.(さいたま市)

 メンデルスゾーン作曲、オラトリオ「エリヤ」を聴きました。「パウロ」も聴きたいと願っています。

 

Y.K.(さいたま市)

 毎月、スカイプで海陽集会(*)に参加させて頂いて、霊的養いと励ましが豊かに与えられ感謝です。(*)徳島県海陽町の数度(勝)宅での集会、現在はコロナのためオンライン集会)

 

W.T.(宮城県)

 一九三七年四月八日生まれ。心身なんとか元気です。家族は、妻と長男と私の三人です。平安、感謝です。仙台集会を現在休会中で、また通えるようになることを願っている状態です。吉村先生の「いのちの水」誌を拝読しております。

 


自由投稿

 

最近の出来事から

                A.S.(神奈川県)

 最近のニュースを見ていて、憎しみの気持ちが、人を殺すという行為に変わった事件を知りました。詳しい背景を聴くと、本当にどれだけ辛かっただろう、希望がみえなかっただろう、孤独だったのだろうと、思いました。本来、困ってる方に色々なものを分配しなければならないはずの宗教団体によって、富を搾取され、家庭がぼろぼろになったということで、どれだけ怒りと絶望に満ちたことでしょう。

 反対に、両親が日本の兵隊によって、殺された方が、その殺した日本人のために伝道をしたという話もぼくは頭に思い浮かびます。韓国の方だったと思います。同じようなお話を別の国の例でも聴いたことがあります。

 右の二つの例は同じように憎しみを与えられたけど、結果が違う例であり、これをわけたものはイエス様の愛が届いていたか、届いていなかったか、の違いであると思います。

 イエス様を知るか、知らないかで180度出ていくエネルギーの方向性が変わっていくと思います。そういう意味で伝道という役割は、本当に尊い大切な働きだと思います。

 最初の山上徹也さんも悪いことをしたのは理解しますが、ぼくが同じ境遇だったら、もっとひどいことしていたかもしれないとも思いますし、どうかイエスさまと出会い、すべてが造り変えられ、神様が与えた彼の優秀で明晰な頭脳が多くの方を救うために再び用いられたらよいな、ということを願っています。

 また僕の住んでる東京・神奈川地域にも、きっと山上さんと同じような苦しみや痛みを抱えている方がいると思いますので、そのような方とかかわり、イエス様の福音を伝えることができたらよいなということを思わされています。

 

祈り、みことば、行動

                I.T.(神奈川県)

 6月23日、午後9時、用を終えて何気なくつけたCGNTV、クリナビ(クリスチャンナビゲーション)で参議院選挙に立候補された、金子みちひと牧師がお客様でした。外交官をつとめ終えたら献身、と考えておられたけど7年目にお声がかかり、牧師になられ教会、フリースクール、老人施設をたてあげられ、フリースクールは校舎を建て障碍者、引きこもりの方をお迎えしておられる。教科書も聖書に基づいたものを作り、他にも提供しておられるとか。司会者の質問には答えの中にみことばがでて、どこを切っても金太郎飴と感心しました。表情もとても柔和でこれは祈りつつ応援せねばと、翌朝、以前祈祷課題に、国会にクリスチャン議員をと出しておられた姉妹にお電話をし喜びあったことです。7月10日が投票日、それまでに多くの人に知って祈っていただきたい、と思いつつ7月1日若い祈り人に夜でしたがお電話しました。明日土曜日なので今夜でなくてもと思ったのですが、私からの電話を切ってから調べ、女性会のおしゃべりラインで流してくださり多くの方が見られ各々が動いて下さったようです。

 7月2日からはKDDIのシステム故障により我が家の電話は3日間使えませんでしたのでよいタイミングだったと感謝しています。そして、神が働かれる時にはサタンも働くと聴いています。主よ、お守りをと祈っている時、7月8日、安倍元首相が亡くなるという考えもしなかった事件がおき犯人は、元統一教会に恨みを持った人だということで、金子牧師が働きづらくなるのではと思いました。「民よ。どのような時にも神に信頼し、」詩篇62・9が与えられ、すべては御手の中で平安をいただきました。ロシアによるウクライナ侵攻では上に立つ者の為祈らないと、武器を送ることより平和への使者をと祈っています。

 この一カ月余りの中で教えられたことは、やはり祈りの足りなさにもかかわらず主はみことばをもって慰め、励まし、平安をお与えくださる生ける神であることを教えてくださいました。神の時には即座の行動、応答をすること、とも。 

 マタイ2・13「ヨセフは起きて夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、」明日といわず夜のうちに、行動することが大切なことを教わりました。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」(Ⅰコリ15・58)ハレルヤ 主に感謝

 

箴言のみことばより

                K.A.(福岡)

 「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別」(箴言九の10)。この箇所のヘブライ語原文は「テヒラット・ホフマー・イルアット・ヤハウェ、ヴェ ダアット・ケドシーム・ビナー」で、「分別」と訳されている「ビナー」は「理解」という意味があり、「ケドシーム」(カードーシュ)は「聖なる方、聖なるもの」という意味です。神を畏れることが神とつながった真の知恵を得る始まりであり、聖なる方つまりキリストの生涯やみ言葉を深く知ることが本当の意味での人生やこの世界の深い理解につながる。そういう意味だと、この箇所を読んでいて思われました。旧約聖書を読んでは神に対して畏敬の思いを持ち、新約聖書を読んでは聖なるキリストの事績や言葉を深く理解していく。そうした道をこれからも歩んでいきたいと、この聖句に触れて、あらためて思いました。

 

 

フィリピの信徒への手紙の学び

                 K.S.(京都府)

 岡山聖書集会では、フィリピの信徒への手紙を学んでいます。この手紙は53年頃エフェソの獄中で書かれたと言われています。困難に直面しても、けっして絶望することなく、かえって自分の投獄がきっかけになって福音が図らずも前進したことを「喜び」続けている使徒パウロの姿は、私達に大きな希望と勇気を与えてくれます。

 パウロは自分の救いとは、使徒としての職務(福音の前進)を果たし続けるときにはじめて約束されるものであると確信し、これが彼の世界宣教の原動力となりました。現代を生きる私たちは、非常に厳しい現実に直面しています。けれども、希望を失うことなく、主の再臨の日というゴール、救いの完成を目指して走り続けていきたいと思います。

 救いの意味するところ、すなわち福音の真理とは「主が共に居て下さる」という確信のもとに聖書を読むときに必ずや与えられます。「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずるものは誰も皆救われん(新聖歌182)」

 

 

私たちの祈り

                 K.N.(福岡県)

 私たちの祈り

 この地で 疎外された人たちの魂にも

 生きて働いておられる 神様

 

 みこころが すでに天上で成っているように

 この地で もっとも小さくされた命にも

 みこころが 成就しますように

 

 蔵に 山のように積むという過ちを 犯すことなく

 飢えがなくなるよう 必要な糧だけをたべさせてください。

 

 柔らかい衣服と 安易な居場所に誘惑されることなく

 キリストの歩みを黙想することができますように。

 

 私たちが お互いを赦しあったように

 主も 私たちの過ちを赦し、省みて下さい。

 

 農作業することが出来ず、最低の賃金ももらえない

 この地の不遇な隣人と

 低い穀物の値段、低い賃金で苦しんでいる農民や労働者と

 正しい行いによって 捕らわれの身となった人たちに

 キリストの自由と解放をお与え下さい。

 

 私たち 引き裂かれた民族が 一つになりますように。

 御国が来ますように。

 力と栄えとが 限りなく 神にありますように。

 キリストの御名によっていのります。アーメン

 

 この祈りは韓国のシゴル教会の祈りです。

 犬養光博さんに教えてもらいました。

 

祈りについて

           K.M.(静岡県伊豆の国市)

 私達「家の教会」が始まってこの8月で4年になります。狭い我が家で3年余り礼拝をもちました。その間会堂を色々探しましたが、遠すぎたり家賃が高すぎたり又、教会だからと断られたりと見つかりませんでした。そのような時に駅近くの場所を貸してもらえることになりました。2時間で1,000円と安くて良かったのですが、借りた後人数制限や、礼拝の音が外に漏れないようにとシャッターを閉めるなど制約が分かりました。駅前なので新しい人が来ることを期待したのですが叶いませんでした。人数の多い時には従弟のジャズ&ポップスのお店「すみか」を借りてやりました。

 ある本に、祈りは具体的にすると良いと書いてあり、私は次のように祈りを変えていきました。①駅に近い②広いスペース③家賃が安い④駐車場がある⑤清潔である。この条件の会堂をと人間の目から見たら無理なような祈りをしました。神様が必ず与えてくださると信じて祈りました。

 「家の教会」のリーダーである息子は3年前から区公民館で仕事をしていますが、その公民館が5月に建て替えられました。公共の場所なので借りることは難しいと思っていたら、区の役員さんの方から「齋藤君、今度公民館で礼拝をしたら?」と突然言ってくれたそうです。彼は小学校の頃教会学校に通っていて、区長さんも通っていたそうで、話はトントンと進み、何と祈っていた5つ全ての条件に合った場所が与えられたのです。遥か60年以上前にこの地に福音を伝えてくださったスエーデン人宣教師たちの働きにも感謝で一杯です。又説教台がなくてテーブルで代用しようとしたら、3日前に公民館で講演があり台を買ったとのことで、それが説教台にぴったりでした。神様の細かい配慮を感じました。私達は今喜びの中で礼拝しています。この4年間放浪のような日々の中、神様が導き生きて働かれておられることを目の当たりにし神様をほめたたえます。

 

 

すべてを主におゆだねして

              S.E.(大阪府)

 二〇二〇年の末頃だったと思います。通院している整形外科で足の診察を受ける前に、看護師さんが私の胸に目を留めて、胸の赤いアザに気づかれ、医師の診察を勧めてくれました。

 診察を受けると、先生が急に真剣な顔つきになられ、「紹介状を書くから大阪急性期・総合医療センターの『乳房外来』に行きなさい」と言われました。数日後、大阪急性期・総合医療センターの診察を受けると、医師から「乳腺癌です」と言われ、それも「手遅れです。覚悟してください」と言われ、帰宅しました。

 薬も治療も何もなく、不安な気持ちで神様にお祈りしました。祈り続けていると、乳房の腫れが小さくなったように思えました。「この85歳まで守られただけでも良かった。主よ、あなたの道にゆだねます。」と祈りました。

 一週間後、診察に行くと、乳房外来の先生が私の顔を見るなり「手術しますか?しませんか?」と聞かれたので、私は、この前、言われた言葉を思い出し、あ然としました。しかし、これも神様の憐れみと気づき、その場で「手術を受けます」と返事しました。そして、それとともに マルコ九・45のみ言葉が与えられました。

 「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲハナに投げ入れるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ九・45)

 すべてを主にゆだねることにより、手術を受けることができました。手術は一時間半位だったと思います。その後、転移もなく、放射線治療だけで抗がん剤はしないで済みました。

 手術に立ち会った先生が「早く来て良かったね!もう少し遅かったら、大変なことになっていたよ。」と言ってくださいました。その言葉を聞いて、本当に主が働いてくださったと思い、感謝しました。

 

主に支えられて

                S.E.(愛媛)

 今年4月7日に左股関節の手術(関節温存手術)をしました。3年前の右股関節に続いての手術でした。昨年の12月18日に手術が決まってから今年4月6日に入院するまで、特に年末年始の精神の落ち込みようはひどいものでした。自分の中に答えがないにもかかわらず、答えを求めてさまよっていた感じがします。その間、たくさんの信仰の友によって支えられました。

 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(イザヤ書四五・22)

 4月6日に入院、4月7日に手術をしました。32日間(4月6日~5月7日)の入院でした。途中、病院内でクラスターが発生して騒がしい時期もありましたが、なんとか最後までリハビリを続けることができました。

 単調な入院生活の中で、徳島のスカイプ礼拝に参加させていただいたり、お祈りをしたり、聖書を音読したり、黙読したり、書き写したり、聖書講話を聴いたり、キリスト教関係の本を読んだりする機会が十分に与えられたことは大変大きな恵みでした。苦しみが続く時も、後になって振り返る時には、その苦しみによって神様は、それがなかったらば決して与えられない良きものを与えようとされてのことだったと気付かされます。

 5月7日に神様に守られて退院することになりました。

 「主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇百二十一・8)

皆さんの祈りの風が私を後押ししてくださいました。本当に感謝申し上げます。

 地元松山に帰ってからもリハビリは続きました。6月27日に職場に復帰することができました。

聖書読みの聖書知らずにならないためにも回復された健康をもってsomething beautiful for God ができたらと願っています。

 「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(第二コリント十二・ 9)

 

 

イザヤ書二章四節

             S.M.(長野県上田市)

 「戦争が止むのに二途がある。進んで敵意をはらすことであり、退いて自己を正すことである。そして神は常にその第二途をお選びになる。けれども人は常に罪を他人に帰して、自信は美名を帯びて死のうと願う。これが戦争の理由である。名誉心であり、傲慢心であり、流血を存在させるものはこれである。人類が自己を省みることに敏で他を責めることに鈍である時に、戦争は全く廃止されるようになるのである。」一日一生の七月二十二日は、イザヤ書二章四節の御言葉でした。そして、内村鑑三のこの言葉が添えられていました。世界が「きなくさい」方向に進んでいる近頃、争いに対する自分の考えをしっかり持っていなければと思っていたところです。自分ではなかなか言葉で表現できないのですが、前記の内村鑑三の言葉に尽きると思いました。罪の無いイエス様が人類の罪の為に死んでくださった無私の心と無償の愛。イエス様の姿に倣う事の他に解決方法は無いと、改めて思わされました。これを日々の何気ない生活の中に於いても、どこまで実践できるのか?聖霊の導きに頼るのみです。 

 

老い楽川柳(5)

                T.H.(岡山県)

・気を落とさず 絶えず祈れと 主は言う

・今日明日も 次の日も主は 進みゆく

・愛のある 主従の関係 主と我

・喜ぶ それが神への 讃美となり

・こだわりは こだわるものを 神とする

・相対化 固定観念 くずす鍵

・生涯を かけて終活 クリスチャン

・聖霊に 導かれて 聖書読む

・逃れる道 備えて下さる イエス様

・何者を 恐れるべきか 吟味せよ

・老い仲間 老いへのグチで 盛り上がり

・老いの道 駆け足はダメよ 足踏みで

・例外なく 老いは全身に 深まりて

・始めての 老いですからと 言い訳を

・ボランティア 辞める日決めて 老い仕舞い

・高齢者の 集まりコロナ とどめさす

・後期とは うまくつけたと 老い仲間

・雑のうえに 老いが加わり 大雑に

・医院にて 「元気?」「元気?」と 声交わす

・核禁止 率先すべき 日本なのに

 

 

主はガリラヤ湖の(新聖歌395)

                T.K.(仙台市)

四節の歌詞

「わが跡を踏みて 右や左に

 迷い行くなかれ 道狭くとも

 十字架を担いて 天(あめ)を望みて

 常世の朝まで われに従え」

 最近、夕拝で教えていただき心に響いた讃美です。弱いものですが、ただ神様の恵みと憐れみを必要としています。本当に皆さまと主イエス様に頼っていきたいと願っています。この恵みに感謝します。これからもよろしくお願い致します。

 

 

真珠の歌

                T.H.(青森県)

 先日、旧「祈の友」誌八十冊あまりを譲り受けて毎日少しずつ読んでいる。それ以前に同会員の「真珠の歌」が有ることを知ってネットで買い求めて読んでいた。真珠の歌の背景が「祈の友」を読んでいて感じとれる。今ではすでに忘れ去られてしまった戦前戦後八十年あまりの一大運動、超教派(プロテスタント)の天の国、十字架・復活運動とでも言い得るだろうか。 わたしは一九五二年の号から読んでいるが、会員六〇二名、加祷者一三八名の大所帯である。このあたりが会員のピークとなる。

 ところで、一九四五年に結核死亡率はピークとなり、以後大きく減少してゆく。それは一九四四年に結核の特効薬ストレプトマイシンが発見され、自然療法、手術等から抗生物質治療に変わってゆくからである。ちなみに、同年一九四四年に内田正規は亡くなっている。内田等何百人もの激しい闘いと切実な祈りは「聞かれた」といえる。

 「真珠の歌」は一九五〇年に発刊されている。真珠の歌はいわゆる短歌ではない。生と死の戦いの「呻き」の記録である。そこには、罪と苦痛と定めを超えでようとする命がある。静かに受け入れようとする戦いがある。その消息は「祈の友」誌によって少しは具体的に知られる。

 

〇永遠にわが ひとりのいのち いつくしみ 強く生きむと 思へば泣かゆ

 

〇御摂理と 確く信じて 今宵しも 心安らに 苦しみに耐う

〇苦難(くるしみ)の きわまる時し むらぎもの 心は澄みて み神を思ふ

 いくそ度 祈れど撃てど 砕けざる かたくなな心 しみじみ泣かゆ

 この世なる 凡ての望み 絶えぬれど ただ朝ごとの 命よろこぶ

 新しき 天地(あめつち)を待つ 身にしあれば 清く生きなむ うつそみの世も

 氷嚢(ひょうのう)の 下より見ゆる 小さなる 窓一ぱいの 空が吾がもの

 しかれども、病癒えたひとの喜びの歌もわずかにあり、やはり健康の恵みも強く思う。忘れないでいたい。

 布団かつぎ 廊下登り来る 吾は師よ かくも癒えたり 見給えや師よなし

 

 

主にある交わりを与えられて

                T.Y.(徳島)

 「はこ舟」を1997年2月432号から送っていただき、「ともしび」「祈りの川」「祈りの風」「野の花」貝出姉、伊丹姉の詩集なども入れて下さっていました。聖書講話も聞いていました。

 四年前より「祈りの友」に入れていただき、徳島聖書キリスト集会に導かれ一年半になります。主日礼拝、夕拝、各集会にスカイプ参加。みことば、祈り、賛美、感話、主にある交わりの恵みをいただいています。

 罪を示され、深く聞きとれていない時も他の方の感話で気付かされたり、先生の熱心、参加者の熱心に刺激をいただき、励まされています。

 日頃、身体を休ませていることの多い生活ですが、スカイプ参加でメリハリがつき意味のある生活と思え助かっています。

 ある時、ふと思いついて、たくさんいただいている「ともしび」他の冊子を読み返しています。全部は読めていないのと忘れてもいるのですが、新しい発見もあり引き込まれて読んでいます。すでに天に帰られた方、聞くだけ参加の方、スカイプ参加の方の証しをあらためて読み、信仰の歩みお人柄がうかがえて身近に感じられて良かったです。

 愛の反対は無関心とも言います。知ること理解することによって、祈られ祈る祈りの友として想い合うことができると思います。

 「ともしび」二〇一〇年三四号に勝浦さんは「私の足跡」「新しい病を得て」「死後のこと」伊藤しず子さん、古賀さんのこと五つも書かれています。書かずにはおられないことを全部書いたという感じです。たくさんの方から祈られ、勝浦さんもたくさん祈っておられたことと思います。賛美データをたくさん残していただき、お会いしたのは一度だけでしたが、深く心に残り感謝しております。

 二〇二二年三月号の「いのちの水」誌はウクライナの悲劇。すごく深い内容で、二〇〇六年十二月号も読みました。平和への道が書かれていて、あらためて貴重なものをいただいていたこと、先生のお働きを感謝致します。

 無駄に時間を過ごしてきました。「いのちの水」誌も少しでも読み返してみようと思っています。

 「私たちはひとりひとり隣人を喜ばせ、その徳を高めその人の益となるようにすべきです。」(新改訳 ローマ十五・2)

               (徳島聖書キリスト集会)

 

 

泣いていられない

                N.N.(東京都)

 昨年11月に主人が神の下に召されました。主人は3年間で2度の人工膝の手術をしてから自らリハビリに、と毎日散歩していました。最初は往復2時間、次第に1時間、30分、となり最後は10分くらいになりました。次第に主人の言葉数が減り、黙々と歩いているだけになってきた時、私は、夕焼けや、虹が現れると「うわーっ」と大げさに感動してみたり、雲の形に「あれは何に見える?魚に見えるね。あっちの魚の方が大きいね。並んでるね。」とはしゃいでみたりして、刺激を与えていました。

 主人は、よく大活字の本を図書館で借りて読んでいました。入院中も重たい本なのに読んでいました。召される半年前まで、夜中に目が覚めて読んではまた寝る習慣がついて、もう借りる本がなくなると、「大陸の花嫁」(陳野守正著 集会で共にしていた長年の信仰の兄)の本を私の書棚から自分で選んできて3日で読了したので、今度は私の方が選んだ「おばへの手紙」(岩島公著 私の信仰の師)はすぐに読了して「よかった」と感想を言ってくれました。なんといっても元気な時は目にも入らなかった書物をこんな状態の時に読んだのは神様の働きに違いないと、私は神様を讃えました。

 主人の信仰は? 4年ほど前から、朝食の前に二人で短い聖句を読み(私が選んで作成した物)、主の祈り、讃美歌を「慈しみ深き」一曲だけ、そして二人で祈る、という礼拝生活をしてきました。これは主人の足が弱くなって元気がなくなったので、毎日お祈りしようとの呼びかけに賛同してくれたことから始まったことです。 主人は集会には結婚当初2~3回出席しただけで、大半の生涯はこの世の楽しみを満喫していました。 徳島聖書キリスト集会の吉村さんが、夏になると瀬棚集会の帰路に八王子に寄ってくださり、私の家などで集会をしてくださるようになると、主人も毎回参加して、準備のために協力してくれました。15年間そうして参加してきた主人を神様が、主人の心を開いてくださり、人生の残り4年間私と共に祈り合う朝の礼拝を持たせてくださったのです。 

 主人は昨年6月「救われていることを感謝します」と祈りました。その昔は危機的状態の最中、私が助け起こした際に、咄嗟に「復活を信じる」と泣きながら何度も言っていたことがありました。「復活を信じる」「救われていることを感謝します」この二つの信仰告白で十分だと思いました。しかし、これは主人が前から思っていたことではなくて神様が言わせた言葉であったとしか思えません。 私はその言葉が聞けましたから安心してキリスト教の葬儀が出来ました。 私は、介護、世話をしている時は自分のことはどうでもよくなっていました。相手は人間でも精一杯世話をするのは神様にすることだと、むしろ喜んでさせていただきました。 

 その仕事が終えて、もう8カ月になります。もしこの間、孫の世話をするとか勤務するとか、忙しいことがあれば主人のことをいつまでも思って寂しがっている暇などないはずですが、私は暇でしょうがない、家事をして、必要な外出をして、誰かと電話で話したりメールして、食事してもまだ日が暮れない。読書すれば目が疲れるし、一人で讃美の歌を歌ってもまだ日が暮れない、目に入るのは主人の写真。見れば悲しくなる。「どこにいるの。神さまと一緒ならこの私を見ているでしょ。夢の中でもいいから出てきて!」と、話している有様。 神様はこんな私の愚痴を聞いてくださいました。友達からの悩み事のメールや電話。ある友に認知症のご主人のことで、若井さんのことが書いてある「いのちの水」誌を送ったら喜んでくれたし、私が体験してきた主人との関わり方が参考になった、と言ってくれた。

 また一人暮らしの人同士との交わり。それにある牧師さんから一緒に聖書を学びたい、との申し出で姪と3人でスタートできる恵みが与えられたこと。二人の信仰の友の来訪もあり祈り合えたこと。毎日曜日のスカイプ参加。毎夜の信仰の友との学び。時々賛美したり、祈り合う友との交わり。これからも神様が必要なことを与え、なさせてくださるのです。いつまでも悲しんで泣いていられません。

 

姉召される

                 N.T.(福井市)

 今年六月三十日姉が天に召されました。享年八十四歳でした。一ヵ月前、膵臓癌の末期で肝臓にも転移しており、本人には認知症もあって治療不可能と告げられました。以後、彼女は関連病院のホスピスでホスピスケアーを受けることとなりましたが、病勢は病院の予測を超えて強く、一ヵ月後の三十日に昏睡状態となり召されました。激しい病魔の侵襲は全身に及び、日夜苦痛に苦しんだものと懸念を強く持たされます。ただ姉は信仰篤いキリスト信徒でした。その信仰深さは家族や友人に対する熱心な伝道に顕われました。七十歳を超えた母も導かれ洗礼をうけました。三男の小泉健は献身して牧師となりました。

 福音伝道にかくも熱心であった者の生涯を主は喜んでくださって、闘病期間を縮め死の苦痛を軽くして天国に凱旋させてくださいました。告別式でのお別れの時、私の唇にあった歌は讃美歌四百八十六番でした。 〝天路歴程〟の旅路を終えて最後の死との決戦に勝利して、イエス・キリストに迎え入れられる姉道子にふさわしいと思えたからでした。 〝世に勝ちにし戦人(いくさびと)にさずくるはこれと玉のかむりかかげ持ちてイエス君は待ちたもう〟そして、私は、〝道子さん、万歳〟と叫んでいました。

 

聖霊によって

                 N.K.(高槻市)

 ペンテコステ(五旬節)の日に起きた出来事を使徒ルカが、使徒言行録一章から二章にかけて詳しく証ししています。今回 前講の準備のために使徒言行録を読んでいる時、改めて示されることがありました。イエス様が復活された後、ご自分が生きていることを示し四十日にわたって弟子達に現れ、神の国について話されました。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てに至るまでわたしの証人となる。」(使徒一・8)とあり、イエス様はそのあと、天に上げられていきました。

 「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア 又、イエスの兄弟達と心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒一・4)

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒二・1~2)

 イエスの母、兄弟達、弟子達は 〝心を合わせて熱心に祈っていた〟とあり、又、〝一同が一つになって集まっていると〟とあります。今回このみ言葉に強く目が留まりました。

 私たちは「礼拝」のたびに兄弟姉妹が集い心を一つにして祈ります。『どうか今日の礼拝にも主の聖霊が注がれ、聖霊が導いてくださいますように。キリストにつながるものとしていつも新しい命をいただき、霊的に生まれ変わらせてください』と。 礼拝というのはあのペンテコステの時のように聖霊が降る場所なのだ。互いに祈り合い、キリストの名によって集まることができることは、これまで聖霊によって導かれてきたのだ。細々とでも信仰が続いてきたことは一方的な神様の恩恵なのだ、自分の業でも何でもない、信仰さえも神様からの賜なのだ、生きてはたらくイエス様の聖霊によって与えられているのだ。と今回改めて強く示されました。

 また、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていてもすべての部分が同じ働きをしていないように、…キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ一二・5)とあるように、私たちが主から受けている賜は一人ひとり違う、すべての人が同じ賜を持っていないから、互いが必要なのだ、補い支え合っていくことが求められてるのだと思いました。

 パウロがコリント書の中で「主イエスキリストの恵みと神の愛と聖霊との交わりがあなたがた一同と友にありますように」(Ⅱコリント12・13)と書いている。また祝祷でもこのように祈られる。礼拝がいかに聖霊が豊かに与えられる場であるかを深く思ったことでした。

 「神は言われる。終わりの時に わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒二・17)

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒二・21)

このみ言葉を胸

 

最近思うこと

             N.Y.(台湾 高雄市)

①次女が「死んだらどうなるかときどき考える」とベッドで一緒に横になっているときにつぶやきました。即答は控え、そうだね、と手を握りました。こうした問いにどう答えるべきか?不安や迷いはありません。主にある平安がこのような形でも与えられたことに改めて感謝しました。聖書では様々な箇所で罪赦された者の死後を語っています。イエスご自身が私たちのために場所を用意し、イエスもそこにいらっしゃること(ヨハネ十四・3)、朽ちない身体が与えられること(第一コリント十五章35~)は希望であり、期待でもあります。

②ウクライナ戦争は2022年7月現在、終わりの姿は見えていません。ロシアとウクライナの地政学的、歴史的な問題は中国と台湾の間にも似通うところがあると私は思っています。日本では中国台湾有事の際を想定した様々な防衛上の対策、費用の増額が盛んに伝えられています。様々な問題が複雑に絡み合っているのですが、「防衛」や「東アジアの秩序をリードして作り上げていく」ために、兵器や殺傷能力のある武器を増強していくことはキリスト者としてまったく同意できません。イエス様なら、どうするか、何というか。明らかだと思います。

 

 

心に思うこと 

           N.M.(東京都)

 神様のなさる事は、針の先一点の間違いもない。

 

 

近況報告&雑感

              H.K.・M.(宮城県美里町)

 今年五月、次男が友人(スペイン人でデンマーク在住)を連れて帰省した。日本語がとても上手で驚いた。日本語の他に英語・デンマーク語も習得されているとのこと。日本のアニメ映画や漫画、歌手、日本食が好きで、日本語をマスターし、観光が目的で何度か訪日しているとのこと。食事の準備や後片付け時には、「コラボします。」と言って積極的に行動し、瞬く間に家族の一員に。いろいろな国に行っているようだが、日本は治安が良く食事も美味しく、一番気に入っているので、何れは日本に居住したいとのこと。私たちのことを、「お父さん・お母さん」と呼んでくれ、三男坊ができたように思った。 テレビで、ロシアのウクライナ侵略戦争を報じる度に視線を避けて、「戦争は人を殺すので絶対嫌だ。たった一人の大切な兄をアフガニスタン戦争で亡くしているので、早く戦争は止めてほしい」と。共に、戦争の終結を願ってお祈りした。 日本に来てスペイン語を話していないので、スペイン語で会話できる人と交流したいとのことで、私たちの友人で、コスタリカ出身のRさん(現在畑地を借りている方)に連絡したところ快諾してくださり、Rさんと交流。Rさんは、「日本もコスタリカのように平和憲法を実行し、軍事費を教育・環境予算に当てたら、他国に尊敬され、国民も更に豊かになれるのにとても残念です。」と、話されていた。コスタリカの人々は、インタビューで「私たちは幸せです。軍隊を持っていないので、他国から侵略されません。」と。日本は、第二次世界大戦後、世界で初めて戦争を放棄すると憲法に銘記し、今年で七十七年間戦争をして来なかったが、今後も現憲法の戦争放棄をしっかり掲げ戦争しないことを切に望んでいる。イザヤ書二章四節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」すべての国が、戦争を放棄したら、なんと素晴らしいことだろうと思う。宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」に通じるように思う。

 

「主イェスこそわが望み」

     (讃美歌21の531番)

                F.S.(徳島)

 主イェスこそ わが望み、

 わがあこがれ、わが歌。

 昼も夜も みちびく

 わが光、わが力。

 主イェスこそ わがつるぎ、

 わが喜び、わが盾。

 ただ主こそが わが神、

 わが宝、わがすべて。

 こころみの世にありて

 罪の力、死のやみ

 とり囲みて 迫れど

 なお主こそ、わが望み。

 

 アーメン。

 

ダニエルの祈り

             F.S.(鹿児島県霧島市)

 わずか数人の集会ですが、恩恵により隔月に「祈りの友会」を開いています。前半は聖書の学びをしており、今年に入ってダニエル書を学んでいます。七章まで行った所です。未習の所ですが九章に「ダニエルの祈り」があり、難しい部分もありますが胸を打たれましたので特に感じた事を述べたいと思います。 新共同訳では「定めの七十週」、協会共同訳では「七十週の預言」とあります。「七十週」は週年の数え方で七十×七年で「四百九十年」、イスラエルの苦難は続くーそれが神によって定まっているということです。この事は「ダニエルの祈り」に答える形で示されています。

 この祈りがなされたのはダレイオスの治世第一年とあり西暦紀元前五二一年ということになりますが、クセルクセスの子であるダレイオスとあるのは、歴史的には親子が逆で間違いです。ダニエル書はダニエルが主人公ではあっても、ダニエルの作でも彼の時代のものでもなく、ダニエル書作者の生きた紀元前二世紀の作である影響がこういう点に現れていると感じます。

 ダニエルの祈りは、実はダニエル書作者の祈りであると思われます。祈りは、エレミヤ書にエルサレムの荒廃は七十年とあるのに、なぜその期間は過ぎたのにいつまでも苦難は続くのかという思いから発せられます。しかし断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈るその言葉は、まず「罪の告白」から始まり、自分たちがどんなに神に背いてきたか、また今もそうであるかをくり返しのべます。

 主なる神に「顔を向け、断食し、粗布をまとい、灰をかぶって」祈り嘆願しています。恥辱の現状は真実の神に犯し続けている背きと罪の結果であることを自覚し、それにもかかわらずその現状を変えてくださるのも契約と慈しみの主なる神であることを信じてやまない姿を見ます。主なる神は聖なる方であり約束を必ず守られる。エジプトの地から神の民をあのように導き出された神に、自分たちの背きと罪にも拘わらず「あなたご自身のために」私たちを救ってくださいと迫ります。虫のいい願い・祈りであることは百も承知です。ダニエル(ダニエル書の作者)の砕かれた魂が感じ取れます。讃美歌の一節「ただみ名のために救いたまえ」を思い出しました。 

 祈り進むにつれて、祈りは一層へりくだりと主への熱心を増して行きます。祈りの最後は「…そうです。私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。主よ、お聞きください。主よ、お赦しください。主よ、心を向けて御業を行いください。わが神よ、ご自身のゆえに救いを遅らせないでください。そうです、あなたの都でも、あなたの民の間でも、あなたの名は呼ばれているのですから。」(協会共同訳)このダニエルの必死の祈りに応えるのが神の使いガブリエルです。それによると、民と都の荒廃は七十週と定められている。さらにそれは七週と六十九週、そして最後の一週という段階を経て実現する、最後は遣わされたメシアも絶たれ、滅びの君が来て「憎むべきもの」(偶像)の上に座す、しかしついに洪水のように滅ぼされるーと。

 信ずる者にとって、今も常に最も大切なことは「信じて待つ」ということだ、そう受け止められるメッセージです。「神の御旨を行って約束のものを受けるためあなたがたに必要なのは忍耐である」(ヘブル十・三六)を想起しますが、忍耐しておられるのは人よりもむしろ神であることを銘記したいと思います。ともかく、ダニエルの祈りを含めてダニエル書が私たちに強く訴えるのは、「時」を支配されるのは神だという信仰です。敬愛園の坂上豊輝さんはある日吉城一郎さんの愛唱歌だった讃美歌五三八に「時もたからも この身もたまも」とあることに気づきました。コロナの蔓延やウクライナの戦争の泥沼化の中で、すべてを支配しみ国へ導かれるイエス・キリストの神に信頼し歩めますように。

 

「神父さん」と呼ばれて

              M.T.(兵庫県尼崎市)

【なぜ、そうよばれるのか】

 わたしは、二〇二〇年四月から、兵庫県尼崎市にて居住している。二〇二〇年、二〇二一年、二〇二二年と足掛け三年しかこの地で生活していない。近隣の方々は、なぜか知らないが、わたしのことを「神父さん」と呼ぶようになっていて、どうしたものかと困っている。「神父さん」と呼びかけられて、「ハーイ」とでも返事しようものなら、本当に神父になってしまうからである。道に捨てられたゴミを拾い集めたり、近くの児童公園や公民館の庭の草ぬきをわたしがしているのを見て、誰とはなしにわたしのことを「神父さん」と呼ぶようになってしまった。いくらわたしが「神父と違います。プロテスタント教会の牧師です。」と説明しても「ほんとうですか。神父さん。」なんて言われてしまう。もう勝手に、好きなように呼んでいただくしか方法はない。

【どこで草ぬきを覚えたのか】

 ゴミ拾いはともかくとして、草ぬきが好きになったのはなぜだろうか。振り返ってわたしが若い日から七十八才になった今までの歩みをかえりみると、その発端というか原因というかは、一九六三年春に、ある大学の農学部農学科に入学したことに起因する。そのような方面で学び中学高校理科と高校農業の教員免許状を取得した。学生時代は自然科学一般と農業に関する学びをした。実習農場に送られて相当の日数をかけて農作業に当たった。田植え、ひえぬき、稲刈り、脱穀というようなお決まりの農作業の他は草ぬきであった。草ぬきといっても、一時間や二時間の作業で済むものではない。一日に八時間草ぬきをし、それを一か月も続けることになる。来る日も来る日も、日がな一日草ぬきに明け暮れるということであった。

【共産党員の態度が変わる】

 福島県白河市で短期間ではあったが牧師をしたことがある。わたしの前任牧師が、一人の老婦人にバプテスマを授けて、他教会へ転任していった。困ったことに、その老婦人にわたしが面会することは家族が許してくれなかった。その老婦人が身を寄せていた世帯主は教員で熱心な共産党員であった。その教員は、教会の横の道を通らなければ出勤することも帰宅することもできなかった。その道は土道であって、道の両脇にはものすごい勢いで草が繁った。わたしはその教員の出勤時間と帰宅時間をめがけて、その土道の雑草の草ぬきをした。一か月後、その教員は「あそこの教会の牧師は草ぬきばかりするバカな奴だ。」と近所の人に言うようになった。二か月後、「よく草ぬきが続くことよ。」と言うようになった。三か月後、土道の草がきれいさっぱりなくなって見違えるようになった時、「あの牧師はただ者ではない。長年この土道の雑草には悩まされてきたのに、今は気持ち良く通ることができる。」と言われた。そして、「あの牧師なら老齢の母親に面会を許してもよい。」とのことで、一週間に一回クリスチャンの老婦人を訪問することができるようになった。

【街路樹の下の雑草】

 わたしは、一九七七年~二〇一九年の四十三年間を名古屋市中村区で過ごした。一九九〇年のことであった。わたしが居住している地域の道路に街路樹が植えられることになった。街路樹としてサルスベリが植えられた。夏には赤や白の美しい花が咲くようになり、市民は喜んでいた。ところが、困ったことがあった。街路樹の下の土の部分に雑草が生えてきて、市民たちの中で雑草をぬく方が少なかった。いうならば雑草が伸び放題となって、サルスベリの木の美しさを台無しにしていた。見るに見兼ねて、わたしはその雑草をぬくようになった。朝に夕に草ぬきをした。わたしの年齢は七十五才で、なかなか多忙な状態になっていた。それでも時間を見つけては草ぬきに精をだした。その地域は住宅と店舗が半々であった。草ぬきされたその道路はしっとりと美しくなった。わたしは牧師として知られるよりも、草をぬく人として認められて、街の人々から喜ばれていた。

【むさくるしい公民館の庭】

 尼崎市で生活するようになったのとコロナ感染症が流行しておおわらわとなったのとが同時であった。年齢が七十五才であったから、すぐに地域の老人会に入会した。老人会では年間四回、公民館を借りて昼食を共にして交流をしているらしかった。コロナ対応ということで老人会の行事は何もできないで一年が過ぎた。年度末には、会費還元とかで豪華な弁当が会員に配られることになった。指定日には各自が公民館に弁当を受け取りに行くことになった。児童公園を通りぬけて公民館へ弁当をもらいに行く。その時に気付いたのであるが、児童公園も公民館の庭も草だらけで、むさくるしい状態であった。以来、早朝に一時間ほど草ぬきに通った。そうすると、公民館の庭も児童公園も、さらに隣接している市営住宅の庭も、雑草がぬかれてきれいになった。「公民館の庭の草ぬきをしたのは誰か。」という声が上がり、ある人が「確かヒゲを生やした神父さんの仕業だ。」と指摘した。そのようなことで、少なからぬ人々が「神父さんのおかげで公民館かいわいの草がぬかれてきれいになった。」と言うようになっている。

 近ごろでは、いろいろな人から「神父さん」と呼ばれている。神父になったような気もしてきて、まことにおかしなことである。

 

サムエル記下九章の学びから

                        F.J.(茨城県)

 最近、サムエル記下九章の学びで、ダビデがヨナタンの息子のメフィボシェテに恵みを与える箇所を学びました。(サムエル記下九・1~13) この箇所の前章の八章15節で、ダビデは、イスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しい裁きを行ったとありますが、そのあと、「サウルの家の者でまだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい」と言い、その言葉によって召し出された、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテに、「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたは、いつも私の食卓で食事をしてよい。」と申しわたしています。 ダビデのその言葉に対し、メフィボシェテは、「このしもべが何者だというので、あなたはこの死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」と言っていますが、彼は、幼い時の戦いで、乳母が彼を抱いて逃げる時に、彼を落としたことにより、両足が共に萎えていた人で、「この死んだ犬のような私」と自分のことを言っています。彼がこの時、いかにダビデの言葉に驚き、恐縮したかが推察されると思いました。 ダビデ王は、この時、サウルのしもべツィバを呼び寄せて、サウルとその一家の所有になっていた物を皆ツィバの主人の子(メフィボシェテ)に与えたこと、ツィバの家族や召使達も、メフィボシェテのために地を耕して作物を得たら、それはメフィボシェテのものになると宣言し、ツィバは、ダビデの言葉のようにすることを誓っています。 こうして、メフィボシェテは、サウルとその一家の所有になっている物を受け継ぐと共に、ダビデ王の食卓で食事をすることになるという栄誉を頂くことになりました。 この部分の聖書を読んで、ダビデが過去、サウル王から命を狙われるようになってからも、ヨナタンと深い友情で結ばれていた主にある友情物語が思いだされると共に、年月を隔てて会ったダビデが、両足の萎えたヨナタンの息子メフィボシェテに、親友ヨナタンとの友情のゆえに、いかに寛大な恵みを与えたかに驚くと共に、ダビデから思いもよらない寛大な恵みを頂いたメフィボシェテの大きな驚きと、ダビデに対する感謝がいかに大きなものだったかを推察することができました。 そして思ったことは、年月を経て現わされたこのダビデとメフィボシェテの物語は、罪人の頭である私、神様に対して、「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」としか言えない私に対して、天の神様がいかに大きな恵みと祝福を与えて下さっているかの象徴のようなお話だと思ったのです。それと共に、神様のお約束は、年月がたっても、「神様の時」が来たら、確かに実現するということも象徴的に示されているという事も思いました。 私たちの人生は、明日どうなるかは隠されていてわかりません。年を取ってくると、体の弱まりや、いろんな弱さが表れてきて、未来に対し不安を抱くことも多々あり、私は主の祈りの中の、「私たちを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」という祈りが切実になってきたという思いがしますが、そんな中にあっても、神様が、いつも私と共にいて下さり、たとい大きな問題に直面して悩むことがあっても、神様は愛のお方で、試練と同時に逃れの道も備えて下さること、神様の奇しきご計画の中で、恵みの結果に導かれ、最後は、神様が与えて下さる永遠の命の憩いの中に入れて下さるという大きな祝福のお約束に導き入れて下さることをいつも固く信じ、信仰を強くして、み国までの道を歩み続けていきたいと祈っています。

 讃美歌270番は、そんな私をいつも励ましてくれる讃美歌です。

1.信仰こそ旅路をみちびく杖、

  よわきを強むる力なれや。

  こころ勇ましく旅をつづけゆかん、

  この世の危きおそるべしや。

4.信仰をぞわが身の杖と頼まん、

  するどき剣もくらぶべしや。

  代々の聖徒らを強く生かしたる

  みたまを我にも与えたまえ。  アーメン    

 

 

 

俳句八句

                          M.K.(東京都)

鳥の啼く 空は故郷と 繋がれり

花ちいさき 消えつつ庭に 根をはりぬ

冬の空 おおきな白雲 寝そべりぬ

ひと皆の 幸い祈る 不器用に

ベゴニアは 普段着を着て 着ぶくれて

虫たちの さみしき宴 果て知らず

来歴は 星にあらむや 水引草

間違っており あああれも 夏の夜半

 

 

 神に従いなさい ーヤコブ書四・7ー

                Y.H.(佐賀県)

 老いが進むにつけ、ピリピ書に見られます様に、「私は既に捕らえられたとは思っていない、唯この一事を、即ち目標目指して走り、キリスト・イエスに於いて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」の聖句に引かれる様になりましたね。

 キリスト者は未来に生きる者、善きものは未来にのみあり、過去・現在も未来の為のもの。真に善きものは何かを知っている者がキリスト者でありましょう。神の国から射してくる光の中を、光へ光へを進む日々でありたいと祈っている日々です。 又、キリスト者の使命に就いても考えさせられました。既に神の国に召された者、神の国はキリストと共に地に臨み、聖霊によって信じる者の集団エクレーシアにて実現を見せつつありますが、再臨によって完成されるでしょう。

 私共は神の御国の為に召されているのですから、信仰によって自己の救いを全うすると共に、神の国の為に働く使命もあります。神を信じることが此の世に於ける唯一つの善き業です、主に生涯を献げて十字架を負った聖徒達に見習い、十字架を負わなければ、通らなければ見えないのが神の国です。

 老後は安楽には、神への信仰無き人の思いではないかと、又、力による平和を求めるのはサタンの手法であって、キリスト者は神の義と愛により平和の為に労する者でなくてはならないのではないでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻によって始まった愚かな戦争に、祈りを新たにさせられますね。

 

召天者

 

〇弓削 影忠(宮崎県)入会後しばらくして召されました

(祈りの課題と近況報告を記念として載せます。)」

① 妻と二人の家族です、老年期に入り、足腰が弱くなり健康回復が出来ますように祈ってほしいと思います。

② 文通を通じて神様の事を語り合えれば幸せです。ペンフレンドを希望します。神様のメッセージをお待ちしております。

③ 現在失語症の為文章のみしか伝えることができません、健康回復が第一です。

 

〇大塚 寿雄 (北海道)

 二〇二二年 九月八日 召されました。

 「祈りの友合同集会記録」(本誌 51 ページ)

       大塚正子さんの近況報告に記載しています。

 

新規入会者

 

N.M.

住所 〒910-0024

福井県福井市照手1-7-1

生年月日 1944年1月1日(78才)

体の状態 何らかの病気や障害がある

所属教会 日本キリスト教団 ホーリネスの群 如鷲教会

・祈ってほしいこと 

 主人(凱次)パーキンソン氏病 寄り添う家族として。

・共に祈りたいこと 

祈りの友お一人お一人のため。まだ、イエス・キリストを信じておられない家族・求道する人が起こされますように。伝道者のため。

・入会にあたっての希望事項

 わたし個人としては祈りのために集中して心を合わせ、祈る時間が持ちたい。

・自由記載文

「告白を神へのいけにえとして捧げ、いと高き神に満願の捧げものをせよ。それからわたしを呼ぶが良い。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」詩編50編14から15節

 祈りには自分の姿勢が問われました。罪深い者であるにも関わらず、必ず聴いてくださる方の存在を信じます。以前、連鎖祈祷をお教えいただき、教会で病の友のため、牧師の呼びかけで実践。癒されることはありませんでしたが、「私は罪人の頭です」と仰っていたその姉妹の最後の言葉は「主の十字架のみ傷によってわたしは癒されました。ハレルヤ!」でした。祈りは力、祈りには力がある、と信じています。わたしも入会して、一緒に祈り合いたいと決めました。

 

I.Y.

住所…〒651-1321

神戸市北区有野台6丁目20-B17-205

・生年月日 1939年9月25日  82歳

・健康 だが、高血圧症あり、服薬治療を受けている。

・所属集会…阪神エクレシア

・祈ってほしいこと…阪神エクレシアに神様の祝福がありますように。

・ともに祈りたいこと…世界中の衣食住に困窮している多くの人に、生きていくのに必要なものが備えられますように。

・自分に都合のよいことだけ祈っても聞き入れられない。

み心にかなって生きることを望み、それを求める祈りをしていきたい。

 

第十回 祈りの友合同集会報告

                オンラインでの集会

〇9月23日(休日) 11時~16時  プログラム

1、開会礼拝    司会 K.K.(徳島)

賛美①「天の神祈ります」讃美歌21の354

開会の祈り(司会者)

〇開会メッセージ 吉村 孝雄(徳島)

「昔在り、今在り、そしてこれからも在り続けるものとしての祈り」

2、聖書からの祈りに関する聖書講話(各10分)

①「松尾達子(みちこ)さんと「祈りの友」秀村 弦一郎(福岡聖書研究会代表)

②「私につながっていなさい」(ヨハネ151-2)西澤 正文(清水聖書集会代表)

③「祈りにおける罪の赦し」 マタイ612」 清水 勝(高槻聖愛キリスト集会)

④「キリストの祝福をあふれるほど携えてーパウロの祈り」 那須 佳子(高槻聖書キリスト集会代表)

賛美②「主の平和」世界の讃美(1)- 27

3、1210分~1250分 休憩、昼食

4、1250分~1330分 自己紹介・近況報告《一人1分以内》(時間の関係で、聖書講話、証しの方々は除外します)  司会 貝出 久美子

、⑩古川 静(鹿児島県霧島市)

*)ワシントン州( アメリカの北西部、カナダと国境を接する太平洋に面した州)

6、1505分~ 午後三時の祈り        司会 林 晴美(徳島)賛美③「祈りの友の歌」 参加者全員による祈り(祈りを聞いているだけでよい方は「次の方へ」と言ってください。)

7、閉会集会  司会 数度(すどう)勝茂(徳島県海部郡海陽町)

感想(1人5分以内) 富永 良子(徳島)、本間 勝(神奈川)、小林 典子(福岡)  祈り 土屋 聡

賛美④「神共にいまして」新聖歌508

 

1、開会メッセージ 「昔在り、今在り、そしてこれからも在り続けるものとしての祈り」  

                    吉村 孝雄(徳島)

 祈りの友合同集会でひとりひとりに新たな神様の霊が注がれますように。現代の状況は、何が一番大事なことであるかが、混乱している。そのような中で、旧約聖書から新約の時代、今に至るまで、ずっと続いてきたのは祈りである。そして、祈りは、どんな人でもできる。本当に追い詰められた時には「イエス様、憐れんでください」という叫びしかできないが、それが祈りである。いよいよ意識もない状態になっても、周りの人が祈ってくれるその祈りを神様が聞いてくださる。

 ロマ書8章には、イエス様がうめくように執り成してくださっていると記されている。「執り成す」と訳されている原語は、「祈る」とも訳されている。(その箇所等「いのちの水」21年9月号参照)

 しかし、日本語の「執り成す」は、対立する二者の間に立ってうまくまとめる」ことであり、祈りの意味が含まれていない。私たちの深い罪をも祈ってとりなしてくださる主。イエス様は、わたしたちが祈れない時でも、うめくほどに祈っていてくださっている。また、神は愛であってすべてを知ってくださっている。わたしたちも、家族などが苦しむとき、目の前に苦しむ人がいたときなど祈らざるを得ない思いになる。イエス様は、常にその愛のまなざしで私たちを見つめ、神を忘れて高ぶっているときには、それがなくなるように、苦しい時にもじっと見つめて、祈ってくださっている。神は愛である。生きて働く完全な愛であるから、祈ってくださっているのである。 

 イエス様はきのうも、きょうも、明日も変わることはない。主にある祈りもまた、何千年も前から世界のいたるところで続いている。祈りはありとあらゆる人に働く神の力である。祈りしかできないのではない。唯一の神、愛と真実の神に向って叫び、そのみ声を聞くことができるという祈りこそは、大いなる恵みであり、この世界への力となる。祈りによりみ言葉が与えられ、それは霊の剣となって、この世の悪の力との戦いの剣となる。真実な祈り、その祈りを、神はきいてくださっている。

 「祈りの友」は1932年に、結核で苦しめられていたその絶望の中ではじめられた。今もあらゆるところに絶望はある。 しかし、祈りこそは、暗夜の中で輝く星のごとくに、そうした絶望的状況のなかで一層激しさを増すことは詩編にもよく記されている。罪赦され、死からの復活という祝福は、その輝きの中心であり続け、この祈りはどこまでも続く。    今日の集会が、参加者一人一人の祈りを集め、さらなる祝福を生むものとなりますようにと願っています。

 

祈りに関する聖書講話

  松尾達子(みちこ)さんと「祈りの友」 

              ヨハネによる福音書1515

                      秀村 弦一郎(福岡聖書研究会)

  福岡の「祈りの友」の先輩・松尾達子(みちこ)さんが召されて四十年になります。松尾達子さんは一七歳で倒れ、結核にかかっておられることが分かり、入退院を繰り返され、二九歳まで延々病との闘いが続いたのでした。肺を切除するなど七回に及ぶ大手術、貧しかったものですから学術研究用の患者、何が起こっても文句を言わないというハンコを押して実験的な手術や治療を受け続けられました。そして病状は悪くなる一方でした。病床にあって苦悶と絶望の眠れない日々を送っておられました。

 入院して三年目に「祈りの友」に入会されます。それから九年目に驚くべきことが起りました。ある日、送られてきた見舞いのハガキに記されていた「勇気を出しなさい、私は既に世に勝っている」(ヨハネ福音書十六・33)というイエスの一言に触れたのです。そして爆発する喜び(達子さんの言葉)に満たされます。それから達子さんの生活は一八〇度変わりました。睡眠薬が要らなくなり、どんどん薬が減り、遂に退院することが出来ました。働きながら夜学で勉強して臨床試験士の資格をとり、病院で働きます。この頃私は転勤で三年間福岡の集会でご一緒しました。達子さんの生き方は徹底して「他人の為」の愛の捧げでありました。食事を減らしてでも困っている人の為にお金は全部使ってしまう。いつも微笑みを絶やさず、弱い身体でどこからそんな力が出るのだろうと不思議なほどでした。死刑囚の支援にも奔走され、免田栄さんの有名な冤罪事件では無罪を勝ち取った支援者として新聞一面に達子さんの喜びの姿が載ったほどでした。達子さんは松尾道晏(みちやす)さん(結核患者。祈りの友会員になる)と結婚されますが、時間がありませんからこれについては省略します。祈りの友会の弁当の準備中、交通事故で召されました。四七歳でした。その前年に「主イエス様、私はあなたです」と祈られたそうですが、生けるイエスと共に走り抜かれた短い生涯でありました。

 達子さんは何よりも「祈りの人」でした。祈りの友、特に西川賤先生に祈られていることについて、次のように書き残しておられます。「事実として、先生のお祈りに私は漬けられてきたのだ。だから、私のどこを切り取っても、先生のお祈りの味わいがするのだ。二十五年の歳月、祈られぬ日とてなく来て、どうして私が主に憶えられぬことがあろう。どうして先生のお祈りが、主を動かしたてまつらぬことがあろう。私は主に捉えられてきたが、それは先生が主の胸ぐらをつかむかのようにして、ミチ子を護り給え、危うきより救い出し給え、と祈って下さったからだ。先生のお祈りを主がお聴きになられぬ訳にはいかなかったからだ。だから私には先生の祈りの匂いがする。」

私も過ぎ来し日を省みるとき、如何に多くの人に祈られてきたかを思わずにおれません。そして、「祈り」は「愛」にほかならないと思います。導いて下さった先生、親、友人や周囲の方、多くの人の「祈り=愛」によって私は存在しています。存在することが赦されない罪人である私が生かされているのは、「祈り=愛」によって支えられているからです。

「祈りの友」は、そのような方々が与えられているということです。感謝とともに、「祈りの友」のための祈りの足らざるを思わされます。

 そして、「祈りの友」の中で最大の友はイエス・キリストだと思います。イエスはこう言われます。

「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

(ヨハネ十五・15=聖書協会共同訳)

 最後に、達子さんが教えてくださった、毎日忘れずに祈る方法をご紹介しましょう。達子さんは毎朝五時に裏山を歩かれましたが、一本一本の木を祈るべき人の木に決められたのです。私の木もあったようです。それを真似て、私も日課のウオーキングの道沿いの木を祈るべき人の木にしています。その方が召されると祈りは天に広がります。こんなこともありました。東京で通勤途上の教会のその木はC君の木。C君がアメリカ留学に出発するとき、「君の為に毎日祈るよ」との約束を忘れないよう、路でその木の前を通る時にC君のことを祈ることにしていたのでした。ある日、帰宅途上教会の前に来て仰天しました。その教会のシンボルのようなヒマラヤ杉の大木が切られて中庭で丸太の腰掛になっていたのです。そしてもう一度仰天しました。程なくC君が帰国しているとの連絡が入ったのです。約束満了と同時にあの杉は切り倒されていたのでした。

 

 

私につながっていなさい

      ヨハネによる福音書15章1~2節

              N.M.(清水聖書集会)

 先月末の朝6時半、仙台に住む田嶋恵子さんから電話がありました。惠子さんの実家は静岡市の丸子。私は、今から7年前に天国に帰られた惠子さんの父親・石川昌治さんには大変お世話になりました。

電話があまりに早く、何かあったのかと思いながら電話に出ました。「もうすぐ静岡の実家がリフォームするので荷物は全て処分されます。もし、良ければ父の本など置いたままなので、気に入ったものがあれば貰ってください。」「有難うございます。全集は、今迄、沢山の人からいただいているので、どうしようか…遠慮しますよ。」 すると、数日後、再度メールで、「こんなものが残っていますよ」と、写真を送ってくださいますた。見慣れたものが目に留まり、実家近くの石川さんの長男に連絡し、「明日、伺います」と伝えると、「良かった。明後日、全部の荷物を廃棄します。」との返事でした。

約10年振りに石川昌治さんの家にでかけました。2階の静岡聖書集会に足を踏み入れると、沢山の本、写真、カセットテープ、壁掛け用御言葉等など、あれこれ物色するうち、懐かしい気持ちに満たされました。

福音伝道の道をただひたすら歩み続けられ、この部屋で多くの兄弟姉妹を招き,御言葉を語り、賛美し、祈り合われた石川昌治さん。ご自身の命を捧げられ、全ての心血を注ぎ尽くされたこの部屋で、今、私一人が、額に納まった石川さんに見つめられている。私自身の信仰生活の在り方が、問われた時間となりました。

 特に、50歳頃の写真でしょうか、額に納まった笑みがこぼれたはつらつとした顔写真は、石川さんからじっと見つめられているような気持となりました。文集「静岡聖書集会30年の歩み―(サブタイトル)旧新約聖書66巻を学ぶ歩み」の冊子が目に入り、ページをめくると1979年から2008年までの30年間、年代順に集合写真が何枚も挿入され、1ページずつ捲ってみた。石川さんの予てからの目標だった主日礼拝で旧新約聖書全66巻を学び通すこと、その学びの年月を克明に記載し、学んだ当時の静岡聖書集会、県中部地区(静岡、清水、焼津市)の集い、静岡県下の集い、夫々の集合写真が挿入され、真に石川昌治さんの信仰生活の証しそのものでした。

この世での信仰の戦いを終えられた石川さんの姿がふつふつと次から次に湧いて来ました。個人的に「西澤さん、西澤さん」と駆り出されては、講話の場に立たせられました。私がまだ38歳の時、当然、地元開催のキリスト教講演会の講師に立つように、と強く背中を押されました。これも福音伝道の場を沢山経験し、独り立ちする様に、との計らいであることが伝わって来ました。

 石川さんは、次男が徳島大学で学ばれたことや杣友(そまとも)豊市さんをよく知っておられたこともあり、静岡聖書集会と徳島聖書キリスト集会の交流も盛んで、毎年交互に講師を派遣し合いました。徳島から吉村さんが来られると周辺の集会にも声がかかり、吉村さんとの交わりが出来ました。その内、吉村さんは、聖書集会毎に訪問され、清水聖書集会でも集会を持ってくださいました。

 ある年、石川さんから「私は、もう長く徳島集会に行っているので、西澤さんにバトンを渡します。最低5年は続けてほしい。」さりげなく、あっさりと言われ「はあ」の一言を返すしかありませんでした。信頼する人から正面きって「何々してください」と言われると、断れない空気に包まれ、素直に受諾するしかありませんが、私にとり、石川さんもその一人でした。

 結局、私は徳島集会へ10年間訪問し、聖書講話をしました。私を受け入れてくださった徳島集会の皆さんのことを思いますと、不十分な話をよくお聞きしてくださったと思います。また、吉村さんに至っては、毎年その都度、年によっては空港まで迎えに来られたり、ある年は駅前で共に食事をされたり、駅近くの公園を案内され静かな空気の中で散策の時を設けてくださり、今思い起せば、細かな配慮に頭が下がるばかりです。

 特に、公園に寄られた時は本当に助かりました。あの当時、平成の大合併で政令市になったばかりの静岡市は、静岡市と旧清水市の行政のすり合わせが完全でなく、旧清水市職員は静岡市の行政の進め方に慣れず、かなりの職員が退職したり、精神的に追い詰められ休職したりしました。私もその日は、朝から激しい頭痛に見舞われ、明日の礼拝は大丈夫かなと、内心不安でした。しかし、ちょうどタイミングよく吉村さんから公園に誘われ、緑陰から流れてくる涼しい風を受けながら散策しているといつの間にか頭痛が消えたのです。この時は本当に助かりました。

話を戻しますと、リフォームされる前日に過ごせた10分間、過去の出来事が、走馬灯のように次から次に蘇ってきました。それは、私に、石川昌治さん、吉村孝雄さんの愛溢れた導き、それに応えられなかった申し訳なさを呼び起こす時間でした。後悔と私の至らなさ、罪を示されるため、ここに呼び出されたのだと悟りました。

 今、こうして命を捧げつくされた石川さんの礼拝場で、一人で黙想しながら過ごしていますと、イエスの言葉がふつふつと蘇ってきました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(同十五・5)

 イエスは、私のところに来て、つながっていなさいと、優しく招いてくれます。ああ有難い、その優しさに接してほっとします。

 しかし、ほっとしたまま、それだけではいけない、つながって、実を結びなさいと言われています。「実を結ばないものは取り除かれる」(マタイ十五・2)の御言葉が迫って来ました。 イエスは、この御言葉を早々に語りかけています。見落としやすいですが、大切な御言葉と思います。恵みを受けっぱなしではなく答えなさいと。

 このイエスの御言葉を通し、私は、石川さん、吉村さんの愛の導きのやさしさにのほほんとしていたことを改めて示されました。これから何年命を与えられるか分かりませんが、恵みに応えられるよう心から祈っていきたい、そう思います。

 

 

「私たちの負い目をお赦しください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」マタイ福音書6章12節

                S.M.(高槻聖愛キリスト集会)

 毎年の「祈りの友の会」で「主の祈り」を講話して来ましたが、今回は第五番目の祈りです。

 私たちは日ごとに神の前に出て、この第五番目の祈りによって、過ぎた一日に犯した大小の罪を悔い改めて神に赦しを乞うのです。再び清い、新しい人としていただいて、希望と力に充ちて新しい出発をするためです。日ごとの悔い改めはとても大切です。なぜなら、赦されていない罪の存在は、神と私たちとの霊的交流を遮断するからです。神様は私たちが悔い改めて、キリストの十字架を仰ぐなら、何度でも無限に赦してくださるお方です。神様の赦しは完全であり徹底的であるから、神様が私たちの罪をいったん赦されたなら、全くこれを忘れてしまわれるのです。私たちの過去の罪はことごとく神に洗い清められるのですから、私たち自身も自分たちが犯した罪をすっかり忘れなければならないのです。赦された罪にいつまでも捕らわれることは、神様の御心ではありません。

 しかし、この五番目の祈りには、他の祈りにはない困難さがあります。「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」という、一つの条件が付けられているからです。

 私たちにはこの祈りができない場合がしばしばあります。他人が自分に対して犯した罪を、自分が赦し得ない場合が多いからです。

 しかし、14~15節で、さらに徹底して言われています。

「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 ここで、私たちはまず、私たちの罪を赦してくださる神の愛について目を向けなければならないでしょう。聖書の言葉から学びたいと思います。

コロサイ二・13~14

「あなたがたは過ちによって、……死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。」

 神様は、御子による十字架の贖いによって、私たちが犯した無限に大きな罪を完全に赦してくださったのです。

Ⅰペトロ一・18

「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

Ⅰコリント六・20

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

 かつて私たちは神の敵であり、神に刃向かっていました。その私たちの神に対する無限に大きな負債を神は御子キリストを十字架につけ殺すことによって、完全に弁償されたのです。神は私たちを破滅させることは望まれず、ご自分による私たちへの復讐を御子に対して為された。御子イエス・キリストはそれを受けて十字架上で死んで下さったのです。

ローマ五・10

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

 私たちキリスト者は、自分の罪を知って、神様とキリストの御前に低くなり、御赦しに心から感謝するのです。そして、私たちは、この神様の赦しの愛が自分の敵である人、自分を苦しめている人の上にも注がれていることを知って、その神様の御心に服従することが求められています。キリストは私たちの敵のためにも死なれました。神様の御心は、私たちが敵を愛し、敵が私たちに犯した罪を赦すことです。

 聖書には次のイエスの言葉があります。

ルカ六・27~29

「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」

 さらに以下のように続いています。

ルカ六・35~36

「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」

 しかし、私たちの心の底には根深い利己心があります。そこから起こる隣人愛の喪失は大きく、周囲に毒を与えます。こうして、お互いに相手の罪(愛の欠如)を責め、裁き合うのです。この悪循環は果てしなく続きます。赦しこそが、この悪循環を断ち切り、私たちが共に生きるための道なのです。

パウロもこの愛と赦しの道を具体的に述べています。

Ⅰコリント十三・4~8

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。」

 イエスは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ十五・12)と言われました。イエス様の私たちへの愛は、敵であった私たちの救いのためにご自身が苦しまれ、辱めを受け、十字架に上げられ、死なれることを通して現れました。それほどの愛をもって愛せよ、という命令は、私たちがキリストの愛、神の愛を受けなければ、私たちには決して実行できません。

 私たちに、イエス・キリストの十字架を通して神の愛がと共に聖霊が注がれるならば、他者から受けた不正や傷が私たちに非常な苦しみや損害を加えたとしても、それに耐える力、そして、心の平安、敵の罪を赦す心が与えられるのです。

 

「キリストの祝福をあふれるほど携えてーパウロの祈り」

          N.K.(高槻聖書キリスト集会)

 主の御名を讃美します。今年もまた祈りの友合同集会で集うことができますことを感謝します。

 さて、二年ほど前から、集会の姉妹と共に「聖書を読む会」を始め、「ローマ信徒への手紙」に取り組みました。一章ずつ丁寧に読み進めパウロの信仰を本当に実感し多くの示唆が与えられてきました。いよいよ最終の15、16章になって パウロの使命、パウロの心を感じ深い感動に包まれています。 今日の話のタイトル「キリストの祝福をあふれるほど携えて」は15章29節のみ言葉です。パウロは15章20節でこれまで主要都市を回りキリストの名がまだ知られていないところでキリストの福音をあまねく宣べ伝えようと熱心に努めてきた、と言っています。

 およそ2400キロの道のり、晴れの日ばかりではなかったでしょう。暑さ、寒さ、時には暴風の中で殆ど徒歩か時には船、ロバなどにも乗ったのでしょうか。想像を絶する伝道の旅です。

 そしてこれからローマ教会を訪問しイスパニアに行こうという計画を持つのです。当時の地理的な状況からいえば全世界にキリストの福音を知らせたいというほどの願いです。

 パウロの時代は、ローマ帝国の迫害の中にあってまた教会のさまざまな問題も抱え内憂外患の時代でした。決して楽な状況の中で書いたものではありません、信仰を持つことさえ命がけの時代でした。30節で、

「…どうかわたしのために、わたしと一緒に神に祈ってください。…神のみ心によって喜びのうちにそちらへ行けますように」と切々と訴えています。共にキリストの福音に立ち、共に祈り合う同志が必要だったのです。この計画が必ず神様に祝福されることを確信しながらも、同時に人の計画はその通りにいかないこともある、だから祈りがいると、祈りの支援をいつも求めています。 

「…わたしたちは、聖書から忍耐と慰めの源である神が、あなたがたにキリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエスキリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」(ロマ十五・5~6)とあります。

 聖書がもたらす恵みーこれは一貫してパウロが宣べていたことでした。

「義人はいない一人もいない」とし、「イエスを信じる信仰によって義とされる」はパウロの信仰の確信を表わすみ言葉です。

 「万事相働きて益となる」(ロマ八・28)このみ言葉も多くの人たちがこれまで励まされてきた希望のみ言葉です。この世では困難がある、苦しみ、悲しみ、病、突然の死もあり、問題も多い、でも人生のあらゆることが神様の救いの完成というゴールに向かって必ず益となって働くーこの希望をパウロは確信しその希望を共に持つことが出来た時、先ほどの6節にあったように「心を合わせ声をそろえて」主を讃美できるのだと言うのです。

17節「わたしは神のために働くことをキリストイエスによって誇りに思っています。」とあり、まさにパウロは神、主イエスと同労者になっています。ローマ書の中で旧約聖書のメシヤ預言をあらゆるところで引用しながら神様の大いなるご計画、人類の救いの計画を伝えることを使命としてキリストの僕として働いてきたのです。

 キリスト者を迫害し、殺すことまでしてきたパウロがここまでキリストの福音を伝える者として大胆に変えられたのは一方的なキリストの恵みであり、恵みのゆえに復活のキリストに出会い使徒としての召命を受けた、イエス様の恵みは信じるだけで百%受けることが出来るのだという励ましであり希望です。

 最後の16章では多くの兄弟姉妹の名を挙げ、ローマの信徒への手紙を終わるにあたっての祈りと願いの言葉となっています。パウロが深い信頼を寄せ、ローマにこの手紙を運んだと言われたフエベという女性、また、あらゆる時にパウロの協力者として物心共々支え続け、命がけで自分を守ってくれたプリスカとアキラ夫妻、この夫妻はすでに自宅で集会を開き「家の教会」としての歩みを持ち始めていたとあります。

 そして自分より先にキリストを信じる者となり一緒に捕らわれの身となった兄弟アンドロニコとユニアス、主に結ばれているルフォス、自分にとっても母のような存在だったルフォスの母、また何より伝道を共にし信仰によるまことの子と呼んだテモテなど何と30名近い個人名をあげよろしくと言っています。

 各聖書訳ではそれらの人を協力者、援助者、奉仕者、同労者とも訳されていますが一貫して通じることは、主のために苦労して働いている、主イエスに結ばれている者ということです。この記事から パウロが当時各地で福音を伝え歩き多くの信じる兄弟姉妹を持ち、信仰の協力者、同労者を持っていたことがわかります。

 信仰は最後は神と個人の関係だけれど共に心を合わせ声をそろえて主を讃美できる仲間がいること、そしてそのことを心から大切に思っていたことがこの16章から非常なリアルさをもって実感できます。そして興味深いのは現在私たちが各地で大小様々な主にあって集まる集会の形がパウロに時代にあったということです。

 主につながり祈りをもって支え合うネットワークがあったのです。15章でパウロがこれからエルサレムに一度戻り募金を渡した後、ローマにキリストの祝福をあふれるほど携えて行きますとし、最後の16章で多くの同労者の名をあげていることから、私はまさに「祈りの友」のことを思いました。

 今私たちもこうして北海道から沖縄まで祈りの友として繋がり、ただ主キリストの福音を信じるという、ただ一つの点で空間を超え時間を超え主に結びついています。会ったこともない方もいる祈りの友お一人おひとりのことを思って祈るときパウロが信仰の同労者として力を受けてきたと同じように私たちも互いに励ましを受け合っています。

 それぞれに苦しみや悲しみを持ちながらも礼拝で心を一つにして祈り讃美している姿に重なります。16章は単なる挨拶ではなく、福音の使徒として主に在る愛の結びつきを表明しているのです。

16章最後の25節で「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」と結んでいます。パウロはローマ書で何が言いたかったのか。

エフエソ書の3章8~13節から抜粋します。

「この恵みは聖なる者たちの間で最もつまらない者であるわたしに与えられました。…すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた神の計画を…すべての人に説き明かしています。…私たちは主キリストに結ばれておりキリストに対する信仰により確信をもって大胆に神に近づくことができます。だから、あなたたがたのためにわたしが受けている苦難を見て落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」

パウロが、最もつまらない者である私に与えられた、この苦難はあなたがたの栄光だという、この言葉に大きな力、慰めが与えられます。

 先日も病を抱えつつ94歳になられた遠方の「祈りの友」の姉妹から三日かかって書いたという8枚に及ぶお手紙をいただきました。その文字は高齢のゆえ、たどたどしいものですが信仰に立つ証しがはっきりと感じられます。イエス様を信じ祈りの友に信頼し生きていこうとされる姿におおいに励まされています。

 信じていてもなかなか良くはならない罪深く弱い私たちですが弱さを持ったままでいい、日々主を見上げてキリストの福音を携えて歩んでいけますようにと願っています。

15章16章にはまだまだ大切な真理がたくさんありますが、特に今日この「祈りの友集会」でお伝えしたかったことをお話させていただきました。ありがとうございました。

                             祈りに関する証、感話                ① KEIKO PERKINS(アメリカワシントン州( アメリカの北西部カナダと国境を接する太平洋に面した州)録音による証

 ことし祈りの友に加入させていただいたKeiko Parkinsです。1980年からアメリカに住んでいます。アメリカ、ワシントン州シアトルから車で東へ4時間ほどかかる、小さな田舎の町です。ベントンシティというところです。アメリカ人の主人、88歳と住んでいます。

 私は71歳。先日、日本から学生さん23歳の男の子がシアトルの牧師さんと私の家に訪ねてくれて、その学生さんが私のことを高齢者と言わず、「御高齢者ですね。」という素晴らしい日本語を聞いて嬉しかったのと、ああそうか、自分は高齢者なのだと再確認しました。日本語の美しさに何ともいえない懐かしさを感じました。

 祈りの友誌を読ませていただき、皆様の信仰心、神様イエス様を愛し、聖書勉強、集会などに励んで、クリスチャン同士で励まし助け合いながら毎日生活をしていらっしゃる様子を読んで、日本にこんなにも優しい人たちがいらっしゃると思うと、私の心は穏やかになり励まされました。 心の平安を感じました。祈りの友の方々、本当にありがとうございます。

 14年前に仏教からキリスト信者になり、その後、日本へ帰るたびに聖書を持って帰りました。私の家族、友達はみんなクリスチャンでないので、聖書を読まなければ心の平安はないと思って、日本に聖書を持って帰りました。

 日本には生活に困らないほど何でもあります。ある意味、アメリカが何もかも遅れているような感じを受け、いつでもどこでも何でも手に入り、おいしいものはたくさんあり、困った生活することがないのを見て、日本でクリスチャンとして生きて行くのは、とても難しいなと感じました。

 毎日、悪魔との戦いになるなあと思いました。悪魔がいつでも襲ってくる恐怖を感じました。あれもこれも欲しいという私の弱さ。それが悪魔となって襲うようになった。そういう感じで恐怖を感じました。

 でも、その反面、日本人の心の中は寂しい人がたくさんいるだろうなとも感じました。孤独死、自殺をする人が多いのだなあと思いました。もっと日本の若者が聖書に触れるきっかけがあれば、神様イエス様の言葉に触れられれば、心の中が満たされるのは絶対だと思いました。

 聖書と共に生きれば、心の平安、苦しい時も乗り越えられる。聖書の強い教え、イエス様の十字架の本当の意味、イエス様がどのようにして、私たちのために亡くなったのか。そのイエス様の十字架の本当の苦しみの意味を勉強すれば、何もかも手に入れることが可能ではないかと思いました。

 イエス様が私達の為に亡くなった、すごい亡くなり方。人間的ではない亡くなり方をされた。それは私たちに愛のために、イエス様が自分で進んで、お父様の言うことを聞いて死んだ。その意味をもっと勉強すれば、何もかも手に入れることが可能性が高い、 でも何も手に入れることが出来ない、

 でも幸せになる助け人イエス様がいつもそばにいらっしゃることを学ぶきっかけがあれば、世界で一番に幸せになる人間だと確信することが間違いないと思います。そして私のような御高齢者はもっと聖書の勉強をしなければならないと感じてます。年を取っていくにつれて、体の衰え、突然襲う病気、夫と妻の死の遭遇、たくさんの苦しみ、悲しみが襲ってくるので、本当に毎日聖書を読み、旧約、新約聖書も重ねて、その中に登場している、信仰の深い人、証人として現れている人たちを信じ、神様イエス様からの約束を疑いなく強い信仰心、希望を持って生活しなければならないと、特に私たち高齢者はそうだと思っています。

 聖句を最近暗記できなくなっているけども、毎日お祈りして新しい今日、今を大事にして聖書とともに生活しています。

 皆様の平安をお祈りしています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

S.J.(茨城)

 私の長男は数年前から精神の病です。通院治療をしている過程で、医者不信になり、通院もしなくなり、薬も飲まなくなり、状態がだんだん悪くなってしまいました。

 入院させて、必要な治療を受けさせて、状態の回復をと思いましたが、長男は絶対入院はしないといい、主人も、入院しないといっている長男を夫婦二人でも入院させられないし、入院をさせる業者に頼んで入院させて退院後、両親と本人で信頼関係がなくなってしまったという例がインターネットに沢山でていてなおさら入院はさせられないと、私の調子が悪くなってもなお入院反対で、私はどうしようもなく、苦しくなるばかりでした。先で両親がなくなった時、長男は相談する人、生活の手助けをしてくれる人が必要で、そういう人と話ができなければ、助けて頂くこともできないから、そこも確保できる状態になるよう、入院して治療うけなければだめと祈り続けました。

 ルカ8章26節からのゲラサの狂人とイエス様との出会いによって、哀れな狂人がイエス様によって生気を取り戻し、イエス様のおともをしたいというまでになった記事は私の光で、この人を助けて下さったように、あなたは長男を助けることがお出来になりますから、どうぞ長男を助けて下さいと毎日涙を流して祈っていました。

 そんな日が続く中、福井県で仕事の為、単身赴任している主人が帰ってきて長男に声をかけ、今迄は長男は薬をなんとか飲んでいるといっていたが、この頃は飲めていないといったから、もう仕方ないから入院させようというのです。あれだけ、薬はのめていないと毎日伝えていたのにと思いましたが、主治医の先生にお話しし、すぐに入院がきまり、そうはしたくなかったですが、業者も頼んで入院させました。

 入院した病棟担当の先生は、若い先生でしたが、この病気は、薬をやめると、その度にだんだん悪くなってしまうから、薬をきちんと飲むことが大事とよく話して下さり、どの薬をどれくらい飲むかも、本人の希望もききながら段階的に決めていって下さったそうで、長男は薬を飲む習慣がつき、退院後も病院にいたときのように、毎日の薬の表を自分で作って一回も忘れずに飲めるようになり、そのおかげで、状態はずっと安定し、大きな声をだすのもなくなり、私はどれだけほっとしたかわかりません。神様が信じて祈り続けた私の祈りを聞き届けて下さったことを本当に体験しました。良い病棟担当の先生を備えて下さっていた事も本当に神様の助けでした。

 退院前に試しに家に帰ってきた数日も、その後も、私達が業者の手をかりて入院させた事で長男が私や主人に文句や不満を言うことも一度もありませんでした。調子がよくなって長男も楽になったからでないかと思います。

 退院してから、長男は、自分の部屋を少し片づけ、彼の部屋のごみ箱に印刷した用紙の束が無造作に入れられている時があり、何かと思って一番上の紙を見たら、自殺の方法が印刷されたもので、私は心が氷りつく思いで中は見ず処分しましたが、その後、静かな時間に彼に話しかけ、「今までいろいろ苦しかっただろうし、大変だったね、でも退院後もきちんと薬が飲めるようになって安定してほっとしているよ。前に、あなたに、あなたが生まれて名前をつけた時の事を話したことがあったけど、あなたの名前の祐介の祐の字は、神様の助けという意味があるので、あなたの人生にいつも神様の助けがあるようにと願って名前をつけたけど、これからも神様がずっといつもあなたを守って助けて下さるから、希望をもって生きていってね」と話しましたら、いつもは口数少ない長男がその時は、珍しく自分の気持ちを話してれたのです。「その話は覚えていた。今まで自分にとって、危険な時が何度かあったけど、不思議に通りぬけられたのは、その名前の話のように守られたと思っている、」と。その話を聞いて私は神様に心から感謝しました。

 

 別の話になりますが、最近、私の若い時の体験で、いつもは忘れていたのに、不思議に思いだした事があります。それは、長男が小1の頃ですが、主人の父からの電話で、九州の大分で暮らしていた主人の母が、胃がんになった、本人には話さないつもりというのです。主人はすぐ主治医の先生に電話をかけ、母の命はあまり長くないという事がわかりました。

 当時、主人の父と母と、血のつながりがない母の育ての祖母の三人が大分で暮らしており、私と主人は、こちらに三人も一緒に暮らせる家を建てて、一緒に暮らすことにしたらと話しあったのです。私の両親や両親の隣に住んでいた叔父にも話したら、老人三人の面倒をみていくのは大変だ、あなたの主人は男三人兄弟だから、兄弟の家で一人ずつひきとることにしたらともいわれました。でも今まで三人でくらしてきたのに、年とってばらばらになるのは寂しい事だろうと私は思いました。

 ちょうどそんなある日の教会の朝の礼拝のお話の箇所は、ヨハネによる福音書15章の16節からで、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」という箇所で、このみ言葉がその時、神様が私に与えられたみ言葉だと感じたのです。大分の父母達三人を迎えて一緒に暮らすようになったら、困難もあるだろう、けれど、それは、私が困難でつぶれてしまう為でなく、実を結び、その実が残る為であり、私が神様に求めるものは何でも与えて下さる為でないかと。

 そして、私の心の中に与えられたみ言葉をしっかり握って、主人と私は急いで家を建て、三人を迎え暮らし始めました。主人の父は、入院した主人の母の病院に毎日見舞いに行っていましたが、やがて母は亡くなりました。当時私は、うちからすぐの所にあった同盟福音教会に出席しており、子供達は教会学校でお世話になっていました。月に一度うちでその教会の牧師さんに来て頂き、家庭集会を持っていました。

 家庭集会の皆さんと昼食を共にして頂く時に、主人の父と母の育ての親の祖母も一緒に昼食にでてきてもらい、主人と年齢がほぼ同じの牧師さんは、昼食の時に、主人の父や祖母とも話を交わして下さっていました。父が亡くなったときは、クリスチャンでなかった主人が、葬儀はキリスト教式でやるといいました。

 主人の末の弟は、毎日夜写経をしていた父の葬儀は仏式でやるべきでないかといいましたが、主人はキリスト教式でないなら僕は喪主を辞退するから君達で喪主も葬式もやってくれと言い、私が口出ししようとしたら、主人は君は黙っていてというのです。すると、主人のすぐ下の弟が、兄さんの家で9年間三人の老人がお世話になったのだから、兄さんのいう通りでいいのじゃないのといいました。

 そして、キリスト教式でやると決まりました。その後、祖母が入院した時も牧師さんは見舞って下さって、イエス様の救いの話や天国の話をして下さり、祖母はイエス様を信じますと告白し、主人の父に続いて祖母も教会でお葬式をして頂いたのです。

仏教だった主人の父と祖母のお葬式を教会でしたという事は、人の思いでできることでなく、すべて神様の御手の業でした。ヨハネ福音書のイエス様のお約束が人の思いをはるかに超えて実現したとの思いでした。

 なぜこの話をしたかといいますと、この頃この時の事を思いだして、この話は決してその時だけの話でなく、今も主イエス様のお約束は続いていると気が付いたのです。

 今は、長男の病のことで、いろいろ悩んだり、心を使っていますが、神様は、この病気も神様の御用に用いる為にそうされているのかもと。今もさきほどの聖句の「あなたがたが実を結ぶ為、その実が残る為であり、あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも父があなたがたにお与えになる為」と約束し続けて下さっている、その事を信じ、希望を失うことなく、神様への信仰を熱くし、神様に助けて頂きながら雄々しく歩んでいきたいと願っています。

 

 

Y.M.(さいたま市)

 神様にお祈りすることを、わたしは幼児の時に、母から教えてもらいました。お祈りの最後に、「このおいのりを、イエスさまのおなまえによって、うけいれたまわんことをと言うのよ」と母はわたしに教えてくれました。

 文語調の言い方で、ちょっと子供には難しい表現だったです。

 でも、わたしはいつでも、どこでも、どんなことでも、お祈りして、生きてきました。

 今年の918日にわたしは満80歳の誕生日を迎えました。こうして元気で歩んで来られたことを、まず、わたしを産んで、育ててくれた両親に、そして、妻や家族、親族、友人、学校の先生方、教会の方々、学校や職場の皆様に感謝します。 神様が与えて下さった人々との出会いや周囲の環境、経験は神さまの恵みです。しかし、特別に感謝すべきことは、高校生の時の聖書との出会いによって、救い主イエス・キリストを知り、福音によってもたらされた信仰による救いの恵みが一番です。

 人は神のかたちに創造されたと創世記第1章2627節に記されています。神様はわたしたちの目には見えませんが、祈りをとおして、神様と会話ができます。神さまはそのために、ご自身に似せて、人間をお造りになったのではないでしょうか。

最近、イエス様の山上の説教の中の、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」というマタイによる福音書第7章7節の御言葉で、新しい発見をしました。

 「求めなさい。」というのは、命令だというのです。この言葉をわたしは、勧めとして、しばしば受け取ってきました。でも、宗教改革者カルヴァンは、キリスト教綱要の中で、「ここで命令は必然のものとして約束と結び付けられているわけであるが、命令には服従すべきだと万人は承認していても、大部分の人は、神がこれを聞き届けられ、あまつさえこれを出迎えると約束されているのでなければ、神を呼び求めることを避けてしまう。」と記しています。

 「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」という主の御言葉は、「何々した方が良いですよ」といった、単なる勧めではなく、命令です。「祈りなさい。」「求め、探し、たたきなさい」というイエスさまのご命令、それは必然のものとして約束に結び付けられ、神様はこれを聞き届けられるのだと信じて祈ることができるのです。

 使徒パウロは、ヘブライ人への手紙第4章16節でこう語っています。「だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 それはイエス様が「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うなら、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書第141314節)。また、「いままでは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(同第1624節)。

 お祈りを、わたしが幼児の時に教え、小学校1年生の時、東京の小岩にあるルーテル教会の日曜学校に連れて行ってくれた母をとおして信仰の道に導かれたわたしは、80歳になる現在まで、祈りによって、歩んでくることができました。これからも、救い主イエス・キリストと共にある人生を歩んでゆきたいと願っています。アーメン!

 

Y.K.(さいたま市)

 「心に響いたみ言葉を通しての感話」  

 毎朝のデボーションで、9月20日の聖書日課から受けた御言葉の恵みをお話ししたいと思います。

 エゼキエル書34章全体ですが、特に3411節、12節、31節、ヨハネによる福音書101節から18節で、特に2節と16節です。

エゼキエル書3411節「まことに主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」

12節「牧者が自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すようにわたしは自分の羊を探す。」

31節「「お前たちは、わたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である。」と主なる神は言われる。」

ヨハネによる福音書102節「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。」

16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 神さまと人間である私達一人一人との関係において、私達人間は罪の中に生まれ、罪の中に滅びる惨めな者ですが、神様はイエス様を信じる私達一人一人を憐れんで下さり、罪の赦しによる永遠の救いのご計画を御子イエス・キリスト様おいて成就してくださいました。

 その御業のゆえに私達はまことの救い主、まことの良き羊飼いの御声を聞き分けて従う羊とされ、救いの民とされました。さらに、豊かな祈りとみ言葉の学びに導かれ、主の民の群れの中で主の民と共に真実な礼拝へと導かれ、ただ神の栄光を仰ぎ望む者とされることを願わされています。

 

K.I.(東京都日野市)

 感謝

    「あめつちにまさる  かみの御名を

     ほむるに足るべき  こころもがな

     おごらず、てらわず へりくだりて

     わが主のみくらと  ならせたまえ

     生くるも死ぬるも  ただ主をおもう

     ゆるがぬこころを  あたえたまえ

     こころをきよめて  愛をみたし

     わが主のみすがた  成らせたまえ

     みめぐみゆたけき  主よ、きたりて

     こころに御名をば  しるしたまえ」 

                  (讃美歌 11番)

 朝ごとに、この讃美を心に思いながら祈るこの頃です。

 聖書を読み、内村鑑三や矢内原忠雄先生をはじめ、毎月山梨の加茂昌子様から送られてくる『いのちの水』誌など、与えられる色々な著作をひもとく年月も長くなりました。

 自分の力ではなく、多くの方々との出会いやその支えによって、更にはその背後にある主なる神のご恩恵によって、今日あるを思い、感謝の念につつまれます。

 聖書の学びは大学時代の聖書研究会によって培われ、その関係で下宿近くの教会に通うようになりましたが、戦争に対する教会の考えや態度に疑問を持ちました。たまたま職場の方が紹介して下さった『東京独立新聞』に、矢内原先生没後、川西田鶴子、日暮勝英、臼田斌、永田泉、陳茂棠、吉野和夫講師が力をあわせて毎夏に開催する山中湖聖書講習会が、私が当時読んでいた「イザヤ書」をテーマとするという記事があって、初めて参加しました。そこでの真摯な聖書の学びと、誠実な交わり、地に足の着いた信仰に接し、教会を離れて、日暮勝英先生のつるまき聖書会に入れて頂くようになりました。

 この山中湖聖書講習会での出会いによって、静岡の加藤美代子様が『はこ舟』を私にお送り下さるようになり、加藤様の御遺志をついで、その娘さんの山梨の加茂昌子様が「はこ舟」、そしてその後名前を変えた「いのちの水」誌を送り続けてくださっているのです。感謝の外ありません。

 日暮先生の没後、つるまき聖書会は距離的に遠く、母の介護もあったため、月一回、暗唱聖句の交換をしている(我が家からは夫と息子と三人で参加)のみですが、聖句を通しての交わりが続いていることに感謝しています。

 自宅近くの東京光の家での相澤忠一先生の聖書講話にも出席しておりましたが、相澤先生はご高齢のため引退、私自身も心臓弁の手術や圧迫骨折のため、今は東京光の家の聖書講話には参加できずにおります。

 現在は、加納貞彦・孝代ご夫妻がリードの労をとって下さっている国立聖書研究会において、コロナ下のため、月一回、Zoomをとおして、「イザヤ書」と「使徒言行録」を学ばせて頂いております。外出がままならぬ身にとって、自宅で聖書の学びに参加させて頂けることは喜びです(時に操作に戸惑いますが)。

 吉村様には、長く『いのちの水』から、信仰とは何かを学ばせて頂くばかりでしたが、八王子(東京)の永井信子様から、吉村様が北海道の瀬棚からの行き帰りの伝道活動で御寄りになられるからとお誘いを受け、実際にお姿に接することができました。インターネットを通して、「今日のみ言葉」から、美しい高山植物に、神の造化の業の素晴らしさにも触れさせていただいております。

 自分が本当に信仰をもっているのかどうか、迷い苦しんだ時もありましたが、それを判断するのは神ご自身であって、私ではないことを示され、以来こうしたことに心煩わされることはなくなりました。イエス・キリストの真実と愛は疑いようもありません。

 至らないこと多く、愛の業に欠けることばかり、祈りの友の会に入れて頂いておりながら、具体的にお名前をあげて祈ることも少ないのですが、支えられておりますことに、ただただ深謝です。

 祈りの友の会が、また、その会につらなる一人ひとりが、主なる神によって嘉せられ、聖霊によって潔められ、病や苦しみ・悩み、重荷を持ちつつも、感謝して、イエス・キリストのみ言葉の宣べ伝えに労することができますよう、お導きをお祈りいたします。そして、平和がなりますよう願っております。

 

N,N,(八王子市)

 憐れみ深い人々は幸いである

マタイによる福音書5章7節「憐れみ深い人たちは幸いである。その人たちは憐れみを受ける」

同じく9章13節「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない。」

テトスへの手紙3章5節「神は、わたしたちが行った義の業によってではなくご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださった。」

 わたしは「祈りの友」の原稿に、主人が昨年召天したことを書きました。そして今日の証しで、何を話そうかと考えたのですが、結局、主人の召された時の事しか浮かんできませんでした。

 同じことを話そうとしている自分がいる、と思った時、Aさんの事を思い出しました。40年程前の集会では年に数回、感話会がありました。

 Aさんが毎回前置きのように必ず「主人が亡くなってから…」と話し始めていました。何度も聞くのでわたしは、「いつまでも一人で寂しいのだなあ」と、思い遣るどころか「また同じことを言っている」と冷めた気持ちで聞いていたことを思い出しました。

 なんと冷たい憐みのかけらもない人間だったと、思い知らされたのです。Aさんが後に孤独死されていたということは間接的に知りました。有志で旧約聖書を学び合った時に会場を提供してくださったり、何かとお世話になったのに、いつのまにか交わりが途絶えると祈らなくなっていたわたしの愛のなさが浮き彫りにされて、自分は、なんとみじめな人間なのだろう、とパウロの心境になりましたが、神様の憐れみにすがり、赦されている信仰に戻していただけました。

過去の苦い経験を思い出した時には、神様に赦しを乞うしかありません。

 その反対に過去に他人から被害を受けたことは忘れ難いものなので、許す以外に心が平安になる方法はないと思っています。

 どうしても許せない問題は十字架のイエス様の痛みを思って、許せるように祈って待つしかありません。

 話を戻して主人が召された時の事を少し語らせていただきます。

 昨年わたしの姉が1月に亡くなり、義理の妹が6月に亡くなりました。3人目は主人かなと、なんとなく思っていました。

 その通りになって11月に召されました。主人がまだ散歩が出来ている頃、近くの霊園を歩きながら「二人のどっちが先に逝くか分からないけどキリスト教式でいいね」というと「いいよ」と即答してくれたので、司式者を決めるところまで話し合って一致しました。

 召される半年前に主人と二人だけの礼拝で主人が「救われていることを感謝します」と祈ったので、安心してキリスト教の式で葬儀が出来ました。そのことは親戚の人やほかの参列者には伝道のよい機会となりました。

 自宅の前に集まって、見送りに来てくださった大勢の方々に、わたしは故人が生前お世話になったお礼の言葉を述べてから、「主人は天国へと旅立ちました」とあえて天国という言葉を用いました。近所の人にキリスト教の信仰者と知れ渡ったものと思われます。

 主人の訃報を受けた二人の女性が駆け付けて「よい人でした」と、悲しんで泣いてお花を手向けて下さいました。遺族に対してもその後、気を配ってくださいました。自然な行為にその人の温かな心を感じ、ノンクリスチャンの憐みの心に触れました。

一方、親しいクリスチャンの女性からは電話で一言「しょうがないよ」と言われました。

一瞬、えっと思い、わたしの心が乱れました。よくよく考えると確かに悲しんでもしょうがないのでした。

 彼女はといえば、わたしには耐えられないような苦難を強いられ、その中で信仰が与えられました。どんな困難な時も、神様に任せているから大丈夫との言葉が返ってきます。わたしと一緒の時は必ず祈り合っています。彼女の方から祈りましょうということが多いのです。

 また悩みがありそうな人を見つけると、知らない人でも笑顔で近づき話を聞いて励ましてくるのです。善きサマリヤ人のように、自然と手を差しのべることできる人は本当に憐み深い人だと驚かされます。さらに、悪さをしている子供がいると「ほら神様が見ているよ」と笑いながら諭しています。

 そういう彼女ですから、わたしに「しょうがないよ」といったのもきっと「天国に逝ったのだからハレルヤでしょ」との前向きな意味が含まれていると受け止められて、ありふれた言葉より簡潔で相応しい言葉なのでした。

 直接的な言葉でなくても、祈ってくださる方々の祈りによって励まされ、日々新たにされていくのを感じており、今まで以上に、賛美と祈りと聖書中心の生活が何よりも楽しくなりました。日常生活では歩きながらでも讃美の歌を口ずさんでいます。でも祈りの友の方々の祈りを深く祈り続けていきたいと思います。

 杖を突いて重たい荷物を持っている人がいるとしばらく見守ってしまいます。主人の時の経験が自然にそうさせています。近所の人との会話も増え、年長者の安否も気になりドアを叩いている自分がいます。神様がわたしを動かせてくださっているのを感じます。

 今の心境は新聖歌257番の讃美がぴったりです。

 「キリストは生きておられる」

「主イエスは わたしたちの罪故 十字架で

 贖いの道開き 蘇られた救い主

 キリストは生きておられる わが内におられる

 すべてはみ手の内にあり

 今日も励もう 主に守られ 」

  本当にぴったりです。 

T.R.(神戸市)

 闇の中で光を与えられて 

 祈りの友の皆様とはお会いしたことのない方がほとんどですが、祈りに覚えていただき、時にはお手紙で励ましていただいたりして心から感謝しています。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

 現在夫と小学4年生の息子と3人で暮らしています。いつも祈りの友では夫のこと、息子のことで投稿して祈っていただいています。

今回は私の今までの人生で神様がしてくださったことを一部証させていただきたいと思います。

 

 私は10歳の頃から原因不明の体調不良に苦しんできました。ひどい頭痛や動悸、吐き気、倦怠感、首や肩や腰が痛くて血圧も低くなり、同じ姿勢を保てず身の置き場のないようなしんどさが続き、起きていると同じ姿勢を保てず横になっていました。

 学校にも行けなくなり、一日に何件も病院に行きましたが、どんな検査をしても異常なし。医者からは「精神的なもの」周りからは「怠けている」などと言われ、どんどん追い詰められていきました。

 誰にも分かってもらえない、自分でもなぜこんなにしんどいのか分からない、学校にも行けない、本当に取り残されたような気分で居場所がなく、自分は廃人だと思っていました。外を歩く時はいつも人に合わないように裏道を歩いていました。

 でも、そのような裏通り、混沌とした暗闇の中をさまよっていた時期のある日、聖書のみことばが神様から自分に語りかけられたという実感を持って迫ってきました。

 私の両親は無教会の集会で知り合って結婚したクリスチャンでしたし、子供のころから教会へは行っていたのですが、聖書の話は何となく昔の物語のように感じていました。

 でも、徹底的に孤独になって、誰からも理解されない状況に追い詰められて、そのような中で神様の言葉が初めて私の中に光として入ってきました。よく吉村さんが聖書の講話でお話しされる、創世記のはじめの「神は言われた『光あれ』すると光があった。」という箇所のように、混沌とした私の中に神様が光を与えてくださったのでした。

 人に理解してもらえない、自分でさえも理解できないような苦しみの中で、徹底的に助けを求めるべき、頼るべき存在は神様だけなのだということを思い知らされました。

 まさに「苦しみに合ったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」詩編119・67というみことばのとおりです。

 

 28歳の時、18年間苦しんだ体調不良の原因が分かりました。「脳脊髄液減少症」という、当時日本人の医師が発見したばかりの病気だったのです。どこの病院に行っても分からなかったのは世界でまだ発見されていない病気だったからでした。

 病名が分かった時、長い間閉じ込められていた牢獄から解放されるような、ノーベル賞のような大きな賞をもらったような、飛び上がるような喜びでした。誰にも理解されない状況が続いていた私にとっては、癒されるよりもまず、原因が分かることのほうが嬉しかったのです。人には分からないことがあるけれど神様はすべてをご存じであり、隠されていることで明らかにならないことはない。神様を信じて頼るなら必ず時が来れば正しい裁きをしてくださる。そのことを私は知りました。

 長い年月でしたが、振り返ってみるとあの苦しい期間があったからこそ今こうして神様と共に歩む恵みが与えられているのだと感謝します。時間をも支配しておられる神様は、何もできない、無駄なように見える苦しい時間を宝に変えてくださり、失った時間を取り戻してくださっている経験もしています。

 6年ほど前から『こじか』というカトリックの子供向け週刊誌の福音解説のページにイラストを描く仕事をさせていただいています。

 学校にもほとんど行けなかったこともあり、社会経験の乏しい私ですが、PTAのお手伝いをする中で、有能なお母さん方からパソコンの使い方を教えていただいてできるようになったり、今までできなかったことが少しずつできるようになってきている恵みに感謝しています。

 クリスチャンではない夫と生活する中で様々な葛藤があったり、暴言に途方に暮れそうな時もありますが、お祈りに支えられています。

 子育ての悩みも尽きず、子供へのかかわり方が悪かったことを日々痛感し、自分の弱さや足りなさを思い知らされています。

 イエス様の十字架を仰ぎ見つつ、聖霊様に弱いところ、足りないところを補っていただきつつ日々新たにされて神様から任されている子育てや仕事を忠実にしていきたいと願っています。

 毎日忙しく、疲れて少ししか祈れない日もありますが祈りという一番大切な仕事をおろそかにしてはならないと思っています。

 祈りの友の皆さま、今後ともよろしくお願いいたします。

 

K.S.(京都市)

 内村鑑三「後世への最大遺物」を読んで 

 出口の見えないコロナ禍や、気候変動による自然災害の頻発、戦争によって脅かされる平和、混迷している政治経済など。ここ数年は、私たちが希望を持って生きることが非常に困難な状況が続いています。そのような中で、内村鑑三の「後世への最大遺物」という著書をあらためて再読する機会がありました。この書物が出版されたのは、明治30年(1897年)ですので、時代的に古いと感じざるを得ない記述も多いですが、丁寧に読むと時代を越えた普遍的な真理が語られている古典にふさわしい書物で、私自身、今回それを読んで非常に大きな慰めと励ましを与えられました。今日は、その感想をお話しすることで、証としたいと思います。

 何らかの形で自分が生きた証を後世に残し、それによって歴史や記録に残る人間になりたい。このような思いは誰しもが自然に抱くものであり、私たちクリスチャンとて例外ではありません。自分の生きた証を後世に残そうとするとき、それらがとる形は往々にしてお金であり、事業であり、思想、教育である。本書で、内村はこれら一つ一つについて決して否定するのではなく、丁寧に説明した上でその価値を客観的に判断します。例えば稼いだお金を使って慈善事業(孤児院を建てることなど)を行うことや、土木事業などに使うことの後世に残す価値を評価します。また内村は、文学作品を記して後世に思想を残すことと、全人格的な教育をすることを蓄財、事業よりも個人が独立してできるものとしてその意義の高い重要性を認めています。

 けれども内村曰く、これらはいずれも最大遺物であるとは言えない。内村が言う「最大」とは、誰しもが実現可能なものであるという意味です。彼は、特別な才能がなくても誰でもその実現が可能であるという点を最も重視します。お金を稼ぐことにしても事業をなすにしても、ある種のお金や事業に関する才覚が求められ、単独では難しい大規模な事業を起こそうとすれば、組織に属する必要も出てきます。思想を書き残すこと、教育活動は単独でもできるものですが、誰もがこのような特別な才能に恵まれているとは限りません。だとすれば、特別な才能を与えられた者しか後世への最大遺物を残すことはできないのでしょうか。誰しも独立で、しかも特別な才能を必要とせず後世へ残すことが可能な最大遺物とはあるのでしょうか。

 それは勇ましい高尚なる生涯に他ならない、と内村は言います。では、勇ましい高尚な生涯とは何か。勇ましい高尚なる生涯の例として内村が引くのは、19世紀イギリスの評論家・歴史家トマス・カーライルのエピソードです。カーライルはフランス革命に関する研究に注力し、その研究書を何年もかけて書き上げます。そして、その原稿は出版するばかりになっていました。けれども彼が元になる原稿を一晩友達に貸した時に、それを友人の家政婦が誤ってストーブのたきつけとして燃やしてしまいます。現代で言うならバックアップを取っていなかったパソコンで何年もかけて書き上げた原稿データが一瞬にして消えてしまったことに相当します。何年もかけて心血を注いで書き上げた原稿が一瞬で灰になってしまったことで、カーライルは途方に暮れて10日間ほど何もできなかったそうです。

 にもかかわらず彼は失望しませんでした。自分を襲った苦難に負けなかった。彼は我に返って次のように思い直すのです。おそらく自分の書いた原稿はそんなに貴いものではなかった。それよりも最も貴いことは、この直面した艱難に途方に暮れるのではなく忍耐して、もう一度筆を執ってもっと良いものとして書き直すことである。そう決意してもなかなか実行するのは難しいと思われますが、カーライルは再び一から「フランス革命史」を書き直します。そして1837年に無事に上梓されたその著書は、非常に高い評価を得たのでした。カーライルのこのような姿勢こそが誰でも実践することのできる高尚なる生き方であって、最大遺物として後世に語り継がれる形で残っていく。内村はカーライルの勇ましい高尚な生涯を支えた信念について以下のように説明します。

すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信じることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。(岩波文庫版、58頁)

 後世への最大遺物となる勇ましい高尚な生涯とは、困難に直面しても絶望することなく、信念(信仰)を持ってそれを乗り越えたという生きた証である。こう考えるとき、後世への最大遺物とは使徒パウロの言う苦難と希望との関係、目に見えないものに著眼点を置いた生き方と実によく符合していることがわかります。苦難の経験は私たちを例外なく襲います。

 それらは一見不条理なように思えますが、実はその一つ一つが神の与えた暗い祝福なのです。パウロが獄中においても希望を失わず「喜びなさい」と勧告しているのは、苦難の中でこそ、私たち信仰者にとって「キリストを生きる」ことの意味が開かれることを確信していたからではないでしょうか。苦難に直面したときにこそ、私たちの信仰はその真価が問われるのです。

 わたしは信じる。「激しい苦しみに襲われている」というときも(詩篇116・10)

 この詩人のように苦難の中で、腸のちぎれる思いでそれでもなお神への信仰を告白する時、神は私たちを必ず憐れんで下さいます。どんな時にも、私たちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができます。なぜなら神は忍耐と慰めの源であり、希望の源であるからです。(ロマ書15・4f、15・13)何のとりえもない、臆病で無力な自分でも、このように神を信じて生きることはできる。そしてそのような生き方こそを神は憐れんでくださる。神が取るに足らない私の生き方を最大遺物として用いてくださると考えるとき、心に深い平安が与えられ、感謝が溢れました。

 

S.G.(松山市)

 主の導きのあと 

 私は1970年生まれの51歳です。5歳の時に10万人に5人という股関節の病気であるペルテス病という病気にかかり、小学校入学前に入院生活を送り、松葉づえをつく生活を余儀なくされました。そのためにカトリックの幼稚園である道後聖母幼稚園を中退しています。自分は人とは違う、人と同じことができない、という焦りが、自分の力でなんとかしなければならない、という強迫観念を生み出し、その後の性格形成に影響を及ぼしていきました。

 ちなみに、中学・高校もカトリックの学校で、こちらのほうはちゃんと卒業できました。私が初めて聖書(新約)を手にしたのは中学1年生の春でした。受験少年院のような学校で、心に渇きを覚え、新約聖書を読もうとしたこともありましたが、マタイの福音書の系図から読み始めたので、チンプンカンプンであきらめてしまいました。若い頃は、自分の中に答えがないにも関わらず、自分の生きがい、自分のやりがい、自分の手ごたえ、を自分の中に探すことに必死でした。自分の内側を見ることに汲々としていたのです。

 

…地の果てのすべての者よ。

わたしを仰ぎ見て救われよ。

わたしが神だ。ほかにはいない。(イザヤ45の22)

 

 30歳の時、新居浜の在日韓国人の教会で洗礼を受けました。私は若いころから神経症に悩んでいるのですが、神経症の人は自分を鍛錬するために武道に走る方が多いそうです。私も例外ではありませんでした。たまたま韓国武術テコンドーの師範のお父様が牧師先生で武道場のすぐ横に教会があったのです。 今思えば不思議な神様の導きでした。しかし、救われたという実感もないまま、牧師先生の顔色を気にしての受洗だったので、生活が変わることはありませんでした。教会にも行ったり行かなかったり、形の上ではクリスチャンになっても、聖書そのものに、みことばそのものに耳を傾けようとはせず、聖書に「関する」ものに関心がありました。

 42歳の時に無教会の存在を知り、ある先生の、いわゆる、追っかけになりました。しかし、その先生の指が指し示す神様を見ずに、先生の指ばかり眺めていました。 そのころの私は自分のほうから神様に近づこうとする生活をしていました。努力することによって、精進することによって。これは律法主義的な生活とも言えます。人間の熱心さ、人間の敬虔さ、を通してでしか神様を見ることができないというのはなんと悲しいことでしょうか。

 所詮、人間の側の思いや考えなどは、十字架の主の愛の前では、ひとたまりもありません。実は神様のほうから自分のほうに近づいて下さっているのですね。45歳を過ぎたあたりから長距離を歩くことが難しくなります。股関節の痛みと格闘しているうちに次第にイエス様から遠ざかってしまいました。

…アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた。(歴代誌第二16の12)

 しかし、私が知らないところで、クリスチャンの兄弟姉妹たちがずっと祈ってくれていたのです。その祈りの風を受けて、またイエス様に戻ってくることができました。3年前に右股関節の手術、今年の4月に左股関節の手術を受けました。今のインマヌエル松山キリスト教会は3年前の手術後に通い始めた教会です。ここに通い始める前に、キリスト教に加えて、何か新しい教えを探していたところ、原始仏教を称するインターネットでも有名な僧侶の教えに傾いたこともありましたが、実際にその人に会ってみると、そこには決定的に欠けているものがありました。

 それは「愛」です。そこで悔い改めて、これからはキリスト教一本で行こうと決めたのです。今でもこの世の中は、自我、自分を支える鍵を自分の内側に求めようとする傾向が強いですが(例えば「思想」などはその典型でしょう)、その鍵、自我、自分を支える鍵は実は他者、それも絶対的な他者である神様であることを知らされました。

 

…いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ26の4)

何が出来ても、出来なくとも、関係ありません。人はその存在自体に価値があるのですから。

…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43の4)

 

 神様を知れば、自分の生きがい、自分のやりがい、自分の手ごたえ、などは、さほど気にならなくなります。日々みことばを聞きながら毎日の日常生活を一歩一歩踏みしめながら生きて行くだけで十分なのですから。神様は日曜日ごとに、この教会からそれぞれの持ち場に派遣される私たちの日常生活の営みを、とても大切なこととして見ていてくださるはずです。

 これからも、人間の言葉ではなく、この主のみ言葉に自分の生きる土台を据えていくものとならせていただきたいと願っています。何度、倒れることがあっても、そこから立ち上がって一歩踏み出す力を必ず与えてくださるとイエス様は約束してくださっているのですから。最後に、

…みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである。(箴言16の20)

 以上で私のお証を終わらせていただきます。最後まで聞いてくださり、どうもありがとうございました。

 

 

F.S.(鹿児島県霧島市)

 神の恵み

 古川と申します。ひと言お祈りさせてください。「天の父なる神さま、いつもこの小さい者を恵み、いつくしんで導いてくださり心から感謝いたします。これからあなたが私を導いてくださった恩恵の一端を証しいたします。偽らず飾らず、ありのままに話せますようにお導きください。主のみ名によってお祈りいたします。」

 さて、神さまの恩恵は日々に新しくありますが、今日は私にとって吉村先生との出会いが正にそうであったことを話します。先生が初めて鹿児島にお出でくださったのは、2011年11月11日でした。九州を始め西日本のあちこちを伝道するその計画を組もうとしておられた時に、私が差し上げた手紙を見て「鹿児島に寄ってもいいですよ」とお電話下さいました。夢のようでした。神さまのご計画は測り知れません。

 以前何かに書きましたが、実は、先生の「いのちの水」誌は「はこぶね」の一部を含めて私の信仰の恩人、野崎忠雄さん(埼玉)によって紹介され送っていただくようにしていたのですが、仕事(小学校教師)にかまけてじっくり読むことをしていませんでした。いわゆる積ん読でした。2009年(平成21年)3月60歳定年、4月から再任用でS小学校で働き始めました。

 ところが、その年の春頃から高三のひとり娘愛子の様子がおかしくなり、学校へ行けなくなったのです。気が動転しました。娘は吹奏楽部の活動がなくなると家に引きこもるようになり、大変深刻な状態になりました。時々恐ろしい言葉を発するようになり、親子共々にっちもさっちも行かない非常な苦しい日々が続きました。安閑と仕事も続けられません。しかし、再任用とはいえ担任の身、年度途中で変わることは極力避けねばなりません。加治木の筋ジス病棟での集会もしばらく休むことにしました。ロマ書の学びの途中でした。

 学校は家から車でちょうど一時間の所でした。ある日の夕方遅く帰宅途中、あと十分余りでわが家という山沿いのカーブの所で、私は一瞬眠気を催したようで、気がついたら左のガードレールにガーッと車体をぶつけていました。気がつき急ハンドル、急ブレーキをかけながら「神さま!」と叫んでいました。もうダメかと思う一瞬でした。幸い後続の車も対向車もなく、人影もありませんでした。降りて見ると、車体は深い傷がついていましたが、ガードレールは少しへこみができた位で済んでいました。神さまの深い憐れみに感謝しました。「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。」(詩篇121の4)を実感しました。

 しかし、私はこのことでもう仕事は辞めようと決心しました。確か前の夜、学級通信を仕上げるために半徹、半分徹夜していたのです。しかし、「3月までどうか神さま、お支えお導きください」、そう祈り過ごしました。

 娘は不登校にはなりましたが、それまでのまじめな学校生活や成績が考慮され、何とか高校を卒業でき感謝でした。しかし生きる意味が見出せなくなり大学へは行かず、その後苦しみつつ東京の専門学校へ行きました。本人も私たちも全く思いもよらぬ道でした。無事その学校を卒業し、数年間専門を生かした仕事をしましたが、今はまた非正規の仕事をしています。具体的なことを話したいのですが、妻が公表を嫌いますのでお話しできません。

 ともかく、人生最大の試練が私たち親子三人を襲いました。しかし、私たちが苦しんでいる2011年10月、吉村先生から「11月、そちらに伺ってもいいのですが」という初めての電話が入ったのです。まことにまことに「神は愛なるかな」です。

 最後につい最近心に響き、暗誦し、神の愛に感動している聖句を読み上げて終わります。出エジプト34章1~10節です。長いのであちこち省略します。

 「主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。…主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神。…モーセは急ぎ地に伏して拝し、そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。

終わります。

 

O.M.さんの近況報告より

 9月8日、主人は天に召されました。あまりにも突然の別れでした。二日前のスカイプ主日礼拝に、「大塚壽雄です。」と名前をはっきりと伝えることが出来ましたのに、その週の8日に、全く苦しむことなくイエス様のみ元に旅立ちました。きっかけは転んでしまい骨折したことですが、コロナ禍のため付き添い、面会すらできない不安感は(2か月前の体験からようやく立ち直ったばかりで)全盲の身には辛かったのでしょう。私はついていけないけれどイエス様だけはっどんな時も共にいてくださることを信じ祈って送りました。二日後手術にいたることなく苦しむこともなく、眠ったっように召されました。急性骨髄性白血病の発症から21年、視覚障害と透析通院で走ってきて「お疲れ様、走り切ったね…...」と声をかけて送りました。もし手術しても術後とリハビリ中の入院はコロナ禍の状況、視覚障害あり透析も必要な主人にとっては体力、気力の限界であり恐怖だったことでしょう。主に守られて本当に安らかな顔で眠っている様でした。

 家族だけで葬儀とおもっていましたが、コロナのため、3年以上も会ってなかった札幌聖書集会の方々も参加してくださいました。私はみなさんに祈られていたとわかり、主人をみおくることができました。主人の21年の視覚障がい者としての歩みは、私を導くためにがんばってきてくれたのだと思いました。

 21年以前に書いたペン書きの聖句が家族宛てに残されました。

 「目をさまして 感謝をもって たゆみなく祈りなさい。」     (コロサイ4の2)

 「全てのことについて、主に祈り、主の導きを受けて、力強く毎日を生きることを我が家の願いとしていきたい。」と記されていました。主人が家族を導くためにここまで頑張ってきてくれたことに感謝し、これからの家族の励みとしていけるよう祈ります。(北海道)

 

祈りの友 合同集会」の感話、自己紹介などから

 

浅井 慎也 …いつも土曜日は いろいろな教会の人達とともにホームレスの人とともに。今朝祈った。(神奈川)

 

〇貝出(久)…祈ってほしいと言える信仰の友が与えられていることの恵みを感謝です。私も  祈ってもらってきたので、 祈ってと言われたときには 祈っていきます。(徳島)

 

〇小林 典子…祈りの友 合同集会 を用意してくださった徳島の方々、ありがとうございました。

 とくに、証し、講話きいていて、 憐れみと忍耐の神様のこと、いつも祈っている神様とは憐れみと忍耐の神様であることを

知って感謝。

 札幌市の大塚寿雄さんと初めてあったときのことも思いだしました。初めて徳島での全国集会に参加したときでした。そこでも正子さんが、ご主人に支え、仕えておられる姿が残っています。

 厳しい病との戦いを終えて天に帰られたご主人を 神様は両手を広げて受けいれてくださったと感じます。(福岡)

 

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あとがき

 

 今号は「祈りの友 合同集会」の記録を収録した特別号です。  部分参加を含め、56名の方々がともにオンラインで集まり、み言葉に心を集め、祈りを合わせる機会となったことを感謝です。

 コロナの感染がひろがり、世界中でそのたぬに苦しみまた命を落とす方々もたくさん生じてきました。

 しかし、そうした中で、祈りの重要性は一層強められ、そのことがあらためて「祈りの友」の方々においても知られていくようになったこと、またコロナがなければ、主日礼拝やこの祈りの友 合同集会に、各地の多くの方々が参加するということはなかったことを思いますと、神様は、苦しみや困難の中にも、つねに何か善きことをしてくださるのを思います。

 それはこの「祈りの友」そのものも戦前に、結核が亡国の病として恐れられ、最もひどかった時期に生れたこと、私たちも病気とかの苦しみの後に、それまで知らなかった信仰や祈りの深い意味を知らされていくことも同様で、神様は、つねに闇のなかにも光を与えてくださる御方だと知らされます。

 この「祈りの風」、また「祈りの課題集」も、多くの「祈りの友」の方々のご協力によって作られました。それぞれの担当の方々の主にあるご奉仕に感謝しますとともに、この冊子が、「祈りの友」の会員の交流を強め、また深めて、その祈りが祝福されてそれぞれの会員が抱えている問題に光と力が与えられますようにと祈ります。(T・Y)

 

 

 御国がきますように。

あなたの愛と真実な御支配がこの世界にきますように。

   M.T.さん

「祈りの風」第十四版

 発行 二〇二二年十月

 発行責任者 吉村孝雄(「祈りの友」代表)

                   徳島聖書キリスト集会