「野の花」 第34号 202101発行 (本文)

 

目次

氏名と紙面の頁数

はじめに                                            

2

賛美・栄光から栄光へ 

S.Y(徳島)3

悔い改めの中で御神を仰ぎ見て

S.K(東京)3

聖書の言葉

S.H(徳島)4

聖書通読(2) 

T.A (岡山)4

ヨハネによる福音書を読む 

T.Y(京都)4

心に残った言葉

T.H(徳島)5

神様が全てのことを導いてくださいますように。

T.K (宮城)5

イラスト

T.M(徳島)6

イラスト

T.Y (徳島)7

「全ての善は神のもとにある」 

T.Y (千葉)7

みことば

T.L(徳島)7

詩編との出会い

T.H (青森)7

愛をば愛をば

T.S (千葉)9

フィリピ信徒への手紙の学びから

T.Y(徳島)10

み言葉からの恵み

T.E (徳島)10

雑感(スカイプ集会のことから) 

T.M(千葉)10

松原湖畔にて

T.K (徳島)11

「感謝」「感動」「恩」「もったいない」

T.Y (徳島)12

歌いつつ歩まん

N.N (東京)12

台湾での生活を通して

N.Y (大阪)14

常に喜べ 絶えず祈れ 凡てのこと感謝せよ

N.M (静岡)15

救いをもたらす神の力

N.K (大阪)16

讃美歌333番「主よ 我をばとらえたまえ」

N.M(北海道)17

母の平安と神さまのご計画

H.H (徳島)18

どんな時も

N.Y(北海道)19

「私の平和を与える」 

H.G(福岡)20

復活の希望

F.F (徳島)20

Ⅰヨハネに学ぶ

F.S (鹿児島)21

主にあって全て恩寵

H.M (神奈川)22

朝ごとに聞いて下さる神様

M.K(愛媛)23

聖句

M.K (徳島)23

神の慈しみ(聖句)

M.N (香川)24

最近の出来事と詩篇90篇

S.J (茨城)25

人みなの幸い祈れる我となりたし療養の日々から

M.Y (東京)26

本当の奇跡とは

M.K(愛媛)27

私達の救いがあるべき姿に

M.M (兵庫)28

創造主なる神

Y.M (埼玉)29

恵みの足

Y.T (徳島)30

穏やかないちにち

A.M (徳島)31

好きな聖句

I.M (徳島)32

スカイプで初めて集会の主日礼拝に参加して

I.J (埼玉)32

聖書

O.E(徳島)33

短歌

I.M (徳島)32

証し

O.E(北海道)32

「荒地よ、喜べ」 

K.K(徳島) 32

聖句

K.I(東京) 35

心に残った聖句

K.H (徳島)35

聖句

K.K(徳島)33

ドラセナとカポックから教えられたこと

K.A (福岡)33

聖書の言葉

K.R(北海道)35

神様に聞くこと

K.I (徳島)35

ニュートンの言葉

K.T (東京)37

行き詰まっても大丈夫

K.T(徳島)37

星や野の花を見て

K.K (三重)36

それをここに持って来なさい

K.N (福岡)36

聖句

K.M (徳島)37

恐れるな

K.K  (徳島  37

あとがき

38

リストマークはじめに

新型コロナウイルスのために苦しむ人たちが増大し、それと共に自殺者が急増している。

 ある女性看護師が感染し、4週間ほどの入院、隔離ホテル生活を続けて、勤務先の病院勤務に戻ったが、同僚看護師から、自分の名前を付けて〇〇ウィルスと言ったり、自分を警戒していたり、エレベーターでのすれ違うとき、コロナの人ね、と言われたり、自分の発症と関係がないのに、病院でほかの人が感染が見つかったりすると、みな自分が感染源だという人がいたり…遂に退職へと追い込まれた。その看護師は、「心が壊れた」と。(朝日新聞の医療サイトによる)

 だれもが、自分を避けている、さらに他者に感染させた悪い人だと言っているーそのようなことが続いて、感染での入院隔離、病気の苦しみなど重なった上であったから、精神的に疲れ果て、壊れ、崩れていったのだろう。

 私たちは、だれでも、打ち続く苦しみや悲しみがあるとき、立ち上がれないという気持ちになる。私もかつて、まだ、キリスト教のことも知らない学生時代にいろいろな問題からの苦しみがあって、下宿でおられなくなり、京都の北山方面にあてどもなく自転車で走っていたーそしてとある山の登り口にきて、そこから山に登った…といったことを思いだす。(それが現在まで続く山への愛好のきっかけとなった。)自分の苦しみや悲しみ、孤独感が深いほど、他人には到底わかってもらえないと感じて一人その苦しみをかかえて沈んでいく。そしてそのあげくには、壊れてしまう。

 その看護師は命を断つことにはならなかったが、 「新型コロナに感染して、私の人生は変わってしまい、前向きにはなれない」という。

 このように精神的に追い詰められていく方々は、コロナ以前にもさまざまの問題で数多くおられる。みずからの命を断つという、ふつうなら本能的に命を守ろうとするのが人間をはじめ動物一般のすがたである。 その大きな力に抗して命を断つということはどれほどか、心が壊れたことだろう。

 こうした心が壊れ、命が壊れていることをキリストはすべて見抜いておられた。その上で、そのような「重荷を負う者、すべてわがもとに来れ。その荷を軽くしてあげよう」との言葉が出された。いかなる時にも真実に求める者には必ず立ち上がる力をくださる御方、そして壊れて元に戻らないようになった心、死んだも同然の心に、新しい命を与えて、魂を復活させる御方こそが、キリストである。

 世の無数の心の壊れて人たち、傷ついて元に戻らない方々が、キリストを信じて、傷癒され、新たな命へと復活に導かれるようにと願ってやまない。

リストマーク 賛美 栄光から栄光へ

                  S.Y

 リビングプレイズ79番

 

栄光から 栄光へと 私を変えて

栄光へと 私を 変えてくださる

主と同じ姿に 変えられるまで

主は私を変えて 変えてくださる

 

 主日礼拝の学びで心に残ったこと。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(フィリピ3の21~4の1)

 イエス キリストは万物を支配し、維持している。万物とは天体宇宙の世界すべてであり、

小さな生物から、社会、歴史、人間の生活すべてを支え導かれている。夜空の星の美しさ、

自然界のさまざまなすべてを、愛をもって支えておられる。

 最終的には、万物を支配されている神様が、私たちの卑しい身体をキリストと同じような

栄光の姿に変えてくださる。ことが心に残りました。

 最後まで信じて歩んでいけますように願います。

 リストマーク悔い改めの中で御神を仰ぎ見て

                    S.K

「賛歌。ダビデの詩。主は羊飼い、

 わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青 草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる。」

               (詩編23の1~3)

 素敵な「野の花」の皆様と再会でき幸せを味合わせてくださり御神に感謝いたします。原典で学んでおりますと実感がひしひしと伝わって参ります。そして、昨年はコロナウイルスで集会は長い間休みがありました。そうした中で、有り難いめぐりあわせがありました。その方はNさんです。かつて「胆のうの摘出手術」で入院先の埼玉の病院で、内村鑑三先生著書の「一日一生」を戴きました。今は、それを、テキストにしてお互いに本旨や感想をメールで交換しております(リーダーはNさんの方です) リハビリ一年の先輩後輩でありますが、クリスチャンとしては八年の先輩であります。

 今年も神様は救いの試練をお与えくださいました。一つは、東京立川市の都営幸町住宅の自宅前の丁字路で3月末に転倒し左手親指の解放骨折手術を行い、10月始めにリハビリにより完治いたしました。

 二つ目は、9月半ば、立川市栄町の理髪店前で倒れました。夜、自宅で高熱により動けなくなりました。立川病院に入院しまして、診断は「尿路感染症」でした。9月25日に解熱しリハビリ後完治いたしました。神様の御前に尊き「いのちの水」誌、「祈りの友」、そして、「春期四国集会」等を通して 祈り、賛美、感謝、神様の導きを、刊行物をもって救いの道にお導きくださり感謝付きせじであります。

リストマーク 聖書の言葉

                                          S.H

「見よ 私の僕 私が支える者を。私が選び喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず呼ばわらず声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする。」(イザヤ書42章1~3節)

                       (徳島)

 リストマーク聖書通読(2)

                                        Y.H

 一日一章、二年近くになりました。新約から始めて、旧約の列王記下まできました。

 少しずつでも確実に積み重なっていくのが、具体的に実感でき、励みになっています。                           

◎バイブルワールド 地図でめぐる聖書 いのちのことば社

◎聖書人物おもしろ図鑑 旧約編 日本キリスト教団出版局

 この二冊を参考にしています。

 〝おもしろ図鑑〟は子供向けで、人物の描写が楽しく、面白く学べます。新約編もあります。      (岡山)

リストマークヨハネによる福音書を読む

                       T.Y

 一八九一年(明治24年)、点字でヨハネ伝が出版され、盲人が初めて自分で聖書を読むことができるようになりました。このヨハネ伝を、イエス様の言われた御言葉のみを点字で書き出し、ゆっくり読みました。以下の箇所が私の心を捉えました。

 それは、天の父なる神様と天の父なる神様の御子と、御子を我らが救い主と信じ告白する者との関係を、「あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」と明白に説かれ、かつイエス様を通して天の父なる神様への祈りのお手本が示されていたからです。

 ヨハネ17の15~26 口語訳。

 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。

 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

 この御言葉により一筋の光、大きな希望を与えられたことを、天の父なる神様に御子なる救い主イエス様を通して感謝を捧げます。                 (京都)
 リストマーク心に残った言葉

                                             T.H

 今年一番心に残った言葉は、マザー・テレサの言葉です。

「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは、神がそのひとたちを愛していないからでなく、あなたが、そしてわたしが与えなかったからです。…キリストが飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などのいたましい姿に身をやつしてもう一度来られたのに、私達がキリストだと気が付かなかったからなのです。」      (徳島)

 リストマーク神様が全てのことを導いてくださいますように。
            T.K

 「あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。」(詩編10編14節)

 夕拝にスカイプで参加させて頂いたときに、このみ言葉が心に残りました。

 あなたこそは苦しみと悲しみを見ていて下さる。長い苦しみを通して耳を傾けて下さる。弱き者のために働いて下さったと分かる時が来る。神様は数々の困難を通して強い確信に導こうとされている。という吉村先生のメッセージがとても心に深く響きました。感謝します。

 

「人の心を見抜く方は〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は神の御心に従って聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ書8の27)

 私たちの祈りは本当の必要を神様に執り成して下さる聖霊なる神様に日々助けられて、必ず神様が聞いてくださっていることを信じています。どんなに苦しいことがあっても神様は苦しむ人の叫びを忘れることはないことをいつもどこかで覚えていられますように! 背後で神様が働いて下さっていることを、その時は実感はできなくても、神様を信じて仰ぎ望むことができる恵みを心から感謝いたします。

 主イエス様を仰ぎ見て、煩わしい心労をいっさい神様にゆだねて、問題のさなかにあっても耐え忍び、あなたを信頼することができますように。

 イエス様が私たちを引き寄せて下さっていることを喜んで、主の平安を与えて頂いて主の後を最後まで従っていけますように!                   アーメン。

 

『それでも、「愛」は夢み、「信仰」は信じるであろう。

(私たちに必要なものをご存じの神は、正しいお方だから。)

いかにしてか、どこかで、きっと会えると。

ああ、イトスギの間から星が輝くのを

見ることのできない人の哀れさよ!

彼は、絶望のうちに死者を葬り、

夜明けの光が、悲しき墓石の向こうに

戯れるのを見ようともしない!

彼は、信仰の学びの時に、

肉体と感覚には知られざる真理に、目を開かれていない。

「生」は常に「死」の主人であり、

「愛」はその愛する者を決して失いはしない、という真理に!』         (P23)

(「雪に閉ざされてー冬の田園詩」 ジョン・グリーンリーフ・ホイッティア作  根本 泉訳)

 日々主イエス様の慈しみによって、その日の罪を赦していただき、私たちに恵みを与え続けてくださっている神様に感謝して、明日は少しでもあなたに近く歩ませてください、と祈りつつ。 主にあって、よろしくお願いいたします。

 

「耐え忍ぶ 忍耐は力の強さにまさる。

自制の力は町を占領するにまさる。」(箴言16の32)

 主よ、忍耐することは簡単ではありません。忍耐すればするほど、耐えることがますます増えるような気がします。自分勝手な解決法を慌てて求めることがないように、私たちを助けてください。

 待つことができず、一時の感情に駆り立てられて急性に動くと、平安と喜びを失ってしまいます。「待てない」というだけの理由で、自分でなんとか切り抜けようとする過ちを、どうぞ赦してください。問題のさなかにあっても耐え忍び、あなたを信頼することができますように、アーメン。   (仙台市)

 リストマークイラスト           T.M(中学2年)
 リストマークイラスト           T.Y祐(小学5年)
 リストマーク「全ての善は神のもとにある」

                      T.Y

 「全ての善は神のもとにある」という啓示を受けて、私の神への信頼は一段と深められ、信仰は単純化し、そして神、キリストへの信仰の確信はほとんど決定的なものとされました。全ての善は神のもとにあるとはっきり知れば、それに反し逆行する世界の流れ、時代のしるしは明白に見分けられます。全ての善を本質とする神、キリストに繋がっていない者は罪に陥り、そして悪の道を歩むことになるでしょう。

 神の本質である善、つまり義、愛、平和、隣人愛、命を大切にし、その源である神を目指して行こうとしない政治、経済、宗教者等は、正しい道から外れ、悪の道を歩むことになるのは明らかです。破壊と惨状を招く戦争や軍備を否定しない世界の多くの指導者の心は悪魔に魅入られています。

 また多くの宗教人は、神の平和への切なる願いを無視し、逆らっているので、真の信仰者とは言えないでしょう。彼らの創り出す世界は隣人への不信感と優劣、競争心に支配され、精神的に暗く貧困です。

 人が全ての善の源である神につき従うなら、そこでは神から流れ出る多くの善を戴いて、永遠の平和、平安の中に豊かに生きられます。この尊い啓示を下さった神様に感謝し、賛美します。

 リストマークみことば

                      T.L

 「主にのみ、わたしは望みをおいていた。

 主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」

                 (詩編40の2)

 このみことばをどんな時でも心においてしっかり留めて、これからも主とともに進んで行きたいと思います。(徳島県)

 リストマーク詩編との出会い

                       T.H

 徳島聖書キリスト集会の「夕拝」にスカイプで参加して、詩編を学び続けている。先日第10編が終わった。

 詩編は「祈りの風」第11号にも「詩編」という題で書いた。ほぼガンですと主治医に言われた中での、手術までの12日間、詩編だけを第12編まで読んだ。ATD註解(ヴァイザー)を参照しながら、新共同訳、関根正雄訳で読んだ。

 かっては感情移入出来ず、読み続けることが難しかった詩編は、手術の後「慕わしい書」と変わった。あの12日間、いつも通りの生活なのだが「ただ沈んでいた」ように思う。祈りの時、どうであったかは思い出せない。詩編の詩人のように叫んだろうか。奇跡を願って神に命乞いしただろうか。助けて下さいと叫んだと思う。キリエ・エレイソン。

 ほぼ1年後の「夕拝」での詩編講話は、各詩編の中心的な箇所あるいは大事な箇所についての「説き明かし」を主としている。ヘブライ語、ギリシア語、時に英語、まれにラテン文字で大事な言葉が説明される。

・ アシュレー(幸い)【第1編】、

・ 主(ヤハウェ)とキリスト(メシア)【第2編】、 

・ホンネーニ、 ヤハウェ(ヘブル語) キリエ、エレイソン(主よ、憐みたまえ)【第6編】、

 ・主の御名(本質)は、新共同訳では「力強い」と訳されているが、英語では マジェスティック(マジェスティの形容詞形)が用いられている【第8編】、

・ヤーダー(ユダ)(ほめたたえよ)ー主の驚くべきみ業【第9編】、

・アーニー、(圧迫された者たち)、

 また、苦難の続く時には、主は見捨てたかと思われるほどであったが、実は、ずっと私たちを見ておられた、助けを与えてくださる主【第10編】…等々。

 キリエ・エレイソン、マジェスティ、アーニー、どれも忘れられない響きをもって記憶に残る大事な言葉。

 また、新共同訳では分かりにくい、あるいは違和感を感ずる言葉は、いくつかの英訳と日本語訳が参照されて、原語ヘブライ語を確認しようとされるのもいつものことである。「御名はいかに力強く」(詩編8の2)はKJV(欽定訳聖書)ではexcellent 卓越性。聖書協会共同訳では威厳。旧約学者関根訳では「尊い」と訳され、そしてNIV(プロテスタント系)ではマジェスティック(力や美、その広がりなどすべてにおいて壮大な、威厳、品位のある等)とされている。「力強い」だけでは狭く捉えられてしまう神の本質。

 

「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、

慈しみとまことに満ち、

いく千代にも及ぶ慈しみを守り、

罪と背きと過ちを赦す。」(出エジプト34の6~7)

 

  この箇所に記されているように神の本質はさらに深く広い。

 

 マジェスティは新聖歌170番にて歌われており、テンポよく浮き立つような曲である。しかし、「曲ではなく歌詞が神の言葉に沿った内容ゆえに大事なのである」といつも言われる。事実、あらためて読むと、歌詞がいいのだと分かる。そして、それ以上に、この歌詞によって立つ聖書の言葉は素晴らしい。「屠られた子羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしい方です」(黙示録5の12)、「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録7の16~17)。

 ただ読み進めるだけでは、見逃してしまう、大事な深い意味をもっている言葉がある。ざっと読むと平板に感じられていた各詩編が講話を通して生き生きとした様相を帯びてくる。病気のために進退きわまり、ATD註解のヴァイザーを導きとして読み続けた時の詩編とは違った形での、新たな詩編との出会いである。          (ボイラーマン)

 リストマーク愛をば愛をば

                        T.S

 信仰を与えられ、罪を赦していただいたのに、愛の足りない自分が情けなく思うときがある。自分を捨てることが出来ず、自分の十字架を負うことが出来ない自分がいる。人を愛し、キリストに従う者でありたいと願いながら、人を愛せない自分が見えてくる。情けないキリスト信者の自分に気づき、「愛せるものとしてください」と祈り求める自分がいる。

 クリスチャンは、イエスキリストを主と信じる信仰によって義とされ、救われる(ロマ2の22~24)と書かれています。だから、信仰だけで行いは問われないようにも思われますが、わたしは救ってもらえると安心し油断して胡坐をかいてはいられない。

 聖書には、「互いに愛しあう」という新しい掟を守るものは神のうちにとどまり、その人のうちに神様がとどまってくださる(Ⅰヨハネ3の23~24)と掟を守るように求められています。

 ブドウの木のたとえの中では「父が私を愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15の9~10)と述べられ、キリストの愛にとどまるためには(ブドウの枝につながっているためには)、私の掟を守ることが求められていると思います。

 私の掟とは、「互いに愛し合いなさい」という掟です。(ヨハネ13の34、ヨハネ15の12~13)イエス様は十字架に掛けられる前に弟子たちに繰り返し繰り返し言い残した言葉「互いに愛し合いなさい」という新しい掟です。

 新しい掟に照らして自分を見つめなおしてみると、いかに自分中心(罪)で、「互いに愛し合う」ことが難しいかと思わざるをえないのです。

「イエスは主なり」と信じられるようにしていただいたのに、わたしは新しい掟とは全く反対であることに気づかされて、全くみじめになることがあります。相手を批判し、裁き、見下し、自分こそが正しいと誇り、分かってくれないからと怒り、自分を大切にしてくれない(愛し、注目し、話を聞いてくれない)と不満に思う自分が見えてくるのです。愛の足りない自分が見えてきます。

 人を愛せない自分がみじめに思うとき、わたしの心にアシジのフランシスコの祈りが響いてきます。「神よ、慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することができるようにしてください。与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ、あなたのためにいのちをささげることによって、永遠のいのちを受けられます。」

 そして、讃美歌321番が響いてきます。

1 わが主イエスよ、ひたすら祈り求む 愛をば、増させ給え主を愛する、愛をば愛をば

2 世の安きと楽しみ、求めたりし身なれど、今は願う主を愛する、愛をば愛をば

3 来たれ来たれ苦しみ、憂き悩みも厭わじ、勇み歌わん主を愛する、愛をば愛をば

4 今わの息かすかに残るときも、愛をば増させ給え、主を愛する、愛をば愛をば              無職(畑仕事)

 リストマーク フィリピ信徒への手紙の学びから

                     T.Y

 3章1節「主において喜びなさい」は「主にあって結ばれて」ということ、引用箇所は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5の16~18)主の喜びがある。というのが心に残りました。                  (主婦)

 リストマークみ言葉からの恵み

                        T.E

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ書三章13~14)

 〇メッセージから受けた恵み

 後ろのものを忘れてとあるのは、私の犯した多くの罪を赦していただいたということを感謝して受け取るなら清められて罪が消える。清められたと信じることができなかったらいつまでたっても自分を責めてしまう。どうにもならないままで心は闇のままである。

 信じて義とされるとある。なんという恵みのみ言葉。

だからただ信じるだけで神様が正しいと言ってくださり、罪が赦されるということなのだ。それが神様の十字架の愛である。その神様の愛と赦しによって罪から解放され前を向くことができる。前を向いてとは神様の国、イエス様の愛と真実を見つめてということ。

 イエス様をみつめてひたすら走ること、それはほかのものに目を奪われないで目標の神の国だけを目指して走る。幼子のように神様を見つめるなら神様も私たちを見ていてくださる。それが主のまなざし、愛のまなざしである。

 自分の罪にしばられてうずくまっていた私が、神様に方向転換でき、神様の十字架の愛と赦しを信じて受けていけばいいのだとみ言葉の学びで知らされた。神様の国を目指して主のまなざしを感じつつ生きていきたいと祈る。

                (鍼治療院 天宝堂)

 リストマーク雑感(スカイプ集会のことから)

                     T.M

 スカイプ夕拝に参加できるようになりました。一日の仕事を終えたあと、眠りにつくまでの時間にみ言葉を聞くことの幸せを感じています。一日の締めくくりであり、眠りに入る時に神様のみことばで満たされていると心が温かくなります。

 私はまだ勤めている頃、夜中に目が覚めると、何やらとても不安な気持ちに襲われることがよくありました。夜中に目が醒めた時にはとにかくお祈りをすることにしました。遠く離れて暮らしている家族の事が多かったのですが、「祈りの友」祈りの課題を読むようになってからは、まだ見ぬ方たちの課題を覚え、どんな方なのかを思い描きながらお祈りをするようになりました。すると心が温まります。

 また以前に妹が〝 不安・恐怖心・心配事〟を表す英語は、「FEAR」という言葉があって、その文字一つずつに意味があり、Fは「間違った」Eは「予測」Aは「見える」Rは「現実のように」だと教えてくれました。それを聞いて〝そうか、自分はまだ起こってもいない事に間違った予測をして、それがいかにも現実のように見えてきて、さも起こってくるかのごとくに心配している状態なのか〟と気づいた時に少し気が楽になりました。

 そして「私はここにいる、ここにいると言った」(イザヤ65の1)「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『私はここにいる』と言われる」(イザヤ58の9)「見よ、私は戸口に立って、たたいている」(ヨハネの黙示録3の20)という聖句を思う時、直ぐ近くにいて下さる神様を感じて心が満たされます。

 以前、徳島聖書キリスト集会のスカイプ日曜礼拝でコリントの信徒への手紙を学んでいた時、

「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのか。」(Ⅰコリント3の16)

「あなた方は自分自身の事がわからないのか。イエス・キリストがあなた方の内におられることが」(Ⅱコリント13の5)

 この聖句に衝撃を受けたことを思い出します。その時の私に対して、〝自分の内に神様がすでに居て下さるのだという自信を持ちなさい。そんなことも知らないのですか?〟と、言われたように思えたのでした。

 神様は近くにもいる、自分の内にまでいて下さる。何故心を揺らせているのですか、とパウロに叱責された思いでした。神様は必ず見ていて下さっているという事も、詩編10編14「あなたこそは本当に見ておられた方だ!」と強調された聖句を通して、10月27日の夕拝で、その思いを強められて感謝でした。

 もう一つ、働いている時にはできなかった事でしたが、真夜中に目が醒めた時の楽しみは夜空の星を眺める事。煌々と輝く月・星を眺めて、その美しさの中に、〝ダンテの神曲にはその章の最終行は「星」という言葉で終わっている〟とか、〝天地創造の初めからイエス様がいらっしゃった事〟などの思いを乗せて、ひとときの間、眺めるのが楽しみになりました。

 リストマーク松原湖畔にて(「友よ歌おう」の中の歌詞より)

                 T.K

一 松原湖畔の 朝

  イエス様と出会いました

  愛に 満ちたまなざしで

  「シャローム!」と言われました

  

  折り返し

  イエス様を知った喜びは忘れられない

  イエス様のことを 歌わずにはいられない

 

二 松原湖畔にて 午後

  イエス様と歩きました

  松の木陰に休んで

  声合わせて歌いました

三 松原湖畔にて 夜

  イエス様と語りました

  静かなやさしい声で

  友と呼んでくれました

    (「友よ歌おう」12番)

 

 私は新しく延長になった川岸を通る度にこの讃美を思い浮かべる。湖畔のようにおおきな川岸ではないが、車も通らないし人も出来て間もないので通らない。向こう岸は近いが河原は長い。夕方には、落日を見つつ歩いて行く。イエス様の事を歌わずにはいられない。

 この川にはもう直ぐ渡り鳥も飛んで来て、かわいい声で歌い出す。

 リストマーク「感謝」「感動」「恩」「もったいない」

                         T.Y

 五月の春期四国聖書集会、九月の祈りの友合同集会、十月の瀬棚聖書集会とオンラインで参加させていただき、後からも読んだりそれらの集会の録音をMP3で聞いたりで充分味わわさせていただき感謝でした。家でいて主にあるお交わりをいただきました。本当に感動でした。…○榎本保郎師の早天の説教の中で「キリスト教は感動の宗教である」と言われました。私は思わず「それでそんなに長く続けられたんだ…。」と言いました。

 学生時代「教養とは何だと思いますか」と質問があり、先生は「恩を忘れないこと」と言われました。又三分間スピーチの課題を出された時、私は年を重ねても、どのような環境にいても自然や季節の移り変わり、生活の中でささいな事にも眼をむけ感動できる自分でありたいと話しました。

 地球環境で多大な功績を残したワンガリ・マータイさんは「もったいない」でノーベル平和賞を受賞されました。私も生活の中で「もったいない」と口ぐせのように言っています。神様は私達を誰一人滅びることなく救いに導きたいと願っておられます。イエス様が私の罪のために十字架にかかられて救いの道を用意して下さった事を信じるだけで救われるのです。イエス様と出会わない人生はもったいないです。せっかく出会っていながら、その大きな愛、みことば、真理、叡智、から充分に恵みをいただかない事はもったいないことです。私も信仰のマンネリ、スランプがありました。すごくもったいないことをしました。こんな者を見捨てず、見放さず、忍耐強く守り導いてくださいました。

 74歳の今、若い日に描いていた「恩」と「感動」を毎日の生活の中で家にいながら味わえていることは、しみじみ幸いだと思います。「カルバリの十字架、我がためなり」と心の底から言える日まで与えられた日々を導かれて行きたいです。    (徳島)

 リストマーク歌いつつ歩まん

                      N.N

 私の中の自己中心や自我という罪は一生消えません。気づいたらすぐに主を仰いで赦していただきます。「罪に定めない」と言ってくださるから、前に進めます。罪を振り返っていつまでも苦しむのは正しい生き方ではありません。ロトの妻は後ろを振り返ったので塩の柱となったとあります。上を向いて歩こうという歌の作者は主を信じていた人だったと聞いています。「昔は何々ができたのに、もう駄目だ」と思うこともやめて、賛美しながらこの世の旅路を歩み続けていこうと思います。

 

 新聖歌325「歌いつつ歩まん」

1、主にすがるわれに 悩みはなし 

 十字架の御許に 荷を下ろせば 

 (折り返し) 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ!

        歌いつつ歩まん この世の旅路を

2、恐れは変わりて 祈りとなり 

  嘆きは変わりて 歌となりぬ

3、主はいと優しく われと語り 

  乏しき時には 満たしたもう

4、主の御約束に 変わりはなし 

  御許に行くまで 支え給わん

 

 ホセ・ムヒカのことばより

 ムヒカは南米ウルグアイの元大統領。 1935年モンテビデオ郊外に生まれ貧困の中に育った。反政府ゲリラに参加、万引き、脱獄、13年間投獄を経験。出獄後農園暮らし。議員に当選、その後大臣になった。2013年に国連で演説、日本の東京外国語大学などで演説…という経歴。

 ムヒカの言葉

 「倫理や道徳で歯止めをかけなければ、科学が思いもよらない悪意の道具になることをわれわれは知るべきだろう。人間は唯一、同じ過ちを犯す生き物であることを歴史が証明している」(外国の要人が記帳する芳名録にスペイン語で記した)

 「人類は消費社会にコントロールされている」「貧乏な人とは少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人」

 ムヒカは大統領時代、収入の70%を貧困層向けの住宅建設のために寄付し,自身は月にたったの10万円で生活。個人資産は自宅と農園とトラクターと友人にもらったフォルクスワーゲン。

(以上 新聞・日めくり等参照)

 世界一貧しい大統領と言われたホセ・ムヒカが政界引退、のニュースは2020年10月24日。

 世界の、政界のトップまた携わっている人たちはどう感じられたであろうか。

 「唯一夢中になれるのは愛です。他のすべてのものは災いです」との言葉もあります。ムヒカは投獄中に神の言葉に出会ったのではないかと思っています。少年院や刑務所には聖書が置かれ、講話をしてくれる人があり、かつて私が保護観察対象者に聖書の話をしたところ、聖書を知っていて関心があった人がいたのです。どのような状況下でも神はおられます。

 

 「冬には冬を味わいつくす」の本より

 人は往々にして自分の事で心が精一杯になり、ゆとりをなくし、人への思い遣りという在庫がよく空になってしまうことです。そこで、よき知らせがあります。優しさ、思いやり、愛といった薬の製造元は神様であって、祈りを通して頼めばいつでも調達可能です。神様の前に静まり、じっと神様のご存在に心を寄せます。

 「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(聖書箇所はヤコブ1の17)

 しばらく静まってこう祈りませんか。

 「神様、あなたの優しさ、思いやり、愛を今私のもとにお届けください。どうか私の心がそれらのよきもので満ちますように。そしてあの方この方の心にやさしさの薬、愛の栄養素を届ける私となれますように」

 (この本の著者は子安八重子姉、1ヶ月分の言葉があり絵画が仰臥生活五十年の中で絵筆をとられてきた佐々木那智恵さんの絵画が挿入されていて、私はその絵画にも感動しました。徳島の富永良子さん(「祈りの友」会員)から紹介されました)                                                (東京都)

 リストマーク台湾での生活を通して

                        N.Y

 生活環境が大きく変わったにも関わらず、なんとか家族4人で生活できていることを、感謝しています。多くの方の祈りに本当に励まされ、支えられています。

 職場が慣れた高校から小学校・中学校に変わりました。小2と小4の我が子を見ているにも関わらず、学校での指導、共同作業などをする段になると学級経営や子どものできること、できないことのギャップに戸惑いを感じる日々です。何色で線を引けばいいのか、線は定規を使って引くのかどうか、この漢字は習っているのかどうか、…など枚挙にいとまがありません。前もって自分なりに意識していても、いざ活動の段になって気が付かされることも多々あります。先日も、余談の延長から、2つの電球AとBがあり、Aは白熱電球、BはLED電球の場合、Aは最初は安いけれど、電気代は高い。Bは最初は高いけれど、電気代は安い。この2つを比較する2本の直線のグラフを書いているときに、ほとんどの生徒がしーんと静まって、何のことを言っているか分からないという表情をしていました。言っていることはよく分かっているのに、それを「直線のグラフで表す」ということとつながっておらず、グラフが何を意味しているのか分からないということに、その瞬間に気が付きました。

 学校指示もかなり細かく出さないと手が動かない子もいます。動かないというか、めあての形に持っていくために何をしなければならないのか、そしてそのために最初に何をしなければならないのか…。

 これらの経験から、私たちが何気なくこなしていること、無意識のうちにできていることは、当たり前のことでないと改めて気づかされます。教わらなくてもできるようになることもありますが、その境界はかなりぼやけています。家庭で、学校で、教わりながら、新しい体験を積みながら、たくさんのことができるようになっていっている、そういうことを目の当たりにしています。

 以前徳島で森祐理さん(福音歌手)が、東南アジアの小さな村を訪れた時のことを話しておられたことを思い出しました。その小さな村の若い母親は自分の子供の名前は分かるけれど、何人いるか分からない、数えられないのだ、そして自分たちの暮らしが少しでも楽になる術を知らない、教わる場所を持っていない、ということをおっしゃっていました。教育がいかに大切なことか、どれだけ自分を形作っているか、普段の生活からはなかなかわからないのではないでしょうか。

 教わらないと分からないこと、信仰の世界はどうでしょうか。聖霊が様々な形でイエス様のことを教えてくださいます。まことの教師が、永遠の命へと至る道を教えてくださり、また共に歩んでくださいます。まことの教師に導かれつつ、歩んでいきたいとの祈りを改めて強く持たせされました。

 リストマーク常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ        N.M

 10月25日、清水聖書集会はテサロニケの信徒への手紙一を学び終えました。手紙を締めくるにあたり(5章12節以降)、パウロは、教会信者たちへ心温まる優しい言葉を残されました。…「あなた方を導かれる指導者を大切にしなさい、尊敬しなさい。兄弟姉妹、互いに平和でいなさい。怠けている者がいたら戒めなさい。気落ちしている者、元気のない者がいたら励ましの言葉を掛けなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に忍耐をもって交わりなさい。すべての人に対し、悪を悪で返さず、善を行うように努めなさい。兄弟姉妹同士で、助け合い励まし合いなさい。」…

親が子供を励ます愛情に満ち溢れた気持ちが延々と続いています。

 この言葉に続き、パウロは最も伝えたいことを書き記しました。「いつも喜んでいなさい。」(5の16)「絶えず(いつも)祈りなさい。」(同17)「どんなことも感謝しなさい。」(同18)」 一節ごと短い言葉で簡潔に書かれています。何としても喜び、祈り、感謝の3つを忘れないで信仰生活を送りなさい。ここにテサロニケ教会産みの親・パウロの深い愛情が凝縮されています。喜び、祈り、感謝は、キリスト教を信じる全ての人にとり、大切な言葉です。

 では、喜びとは何でしょうか。恵みを頂いた喜びです。その恵みとは何でしょうか。イエスがこの世に誕生したことです。イエスの存在そのものです。福音書にありますように、イエスは私たちの罪を赦すため、御自身が身代わりとなって十字架に上られ死んでくださいました。ですから、私たちにとりイエスは命の恩人であり、恵みそのものです。私たちはイエスによって命拾いしたのです。

 では、私たちの罪とは何でしょうか。沢山有ります。私に示された罪二つを挙げます。先ず、大言壮語してしまうことです。大口をたたく、傲慢な言葉を言ってしまうことです。ヨハネ福音書冒頭に「初めに言葉があった。言葉は神であった。」とあります。言葉は神そのもの、と伝えています。言葉についてヤコブの手紙に詳しく書かれています。ひと言で言えば、人は完全な言葉を用いて話せないということです。

「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(ヤコブ3の2) 「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。」(同3の5) 「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(同3の8)

 私自身、「あ~あ、あんなこと言ってしまった」、「それなりに気を使って言ったつもりが、上手く伝わらなかったな。」と、話した後で悔やむことが度々あります。言い訳するつもりはありませんが、人間である以上、誰もが、言葉により相手を不愉快にさせてしまった経験は少なからずあると思います。

 そしてもう一つ。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22の39)と言っています。耳にタコができるほどよく分かっているつもりでも、いつも自分を優先して愛し、隣人への愛はお印程度であることを認めざるをえません。わたしの富(財)をはじめ、時間や体力、エネルギー等など、これら全ては、自分のキリスト者としての体面を保つ程度に用いている現実の姿があります。富める青年そのものです。悲しくなりますが、これが偽りのない私の姿と認めざるを得ません。

 ここで、犯した罪の代償について考えてみたいと思います。罪についてヘブライ人への手紙に書かれています。「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないのです。」(ヘブライ9の22) 〝血を流す〟とは死です。死ぬべき私が、イエスの十字架上で流された血により命拾いしたのです。ですから、わたしにとって、イエスそのものが恵みであり喜びです。イエス無しに私にどんな喜びがあるのでしょうか。

 しかし、わたし自身、罪の自覚が弱く、イエスの恵みの大きさに対し心から喜ぶことに乏しい者です。パウロは祈りを奨励していますが、キリスト者の祈りは、罪の自覚を強めてください、と祈ることに熱心でなければならないと思います。私自身の罪が示され、その罪が赦されたことを心の底から感ずることができれば、自ずとイエスに感謝せずにはいられません。

 喜び、祈り、感謝の三つは繋がっています。この三つの言葉を結ぶのは、罪の自覚です。私が犯し続けている罪、この罪を祈りの中でもっと鮮明に示されたい。罪の自覚が与えられると同時に、イエスの十字架上の姿が目前に迫って来るものと確信します。そのためにも毎朝、毎夜の祈りの時間を大切にしたいと切望しています。       (無職)

 リストマーク救いをもたらす 神の力

                       N.K

 今年はコロナ禍にあって、徳島からの発信でスカイプによる集会が多く持たれるようになりました。集まることができず、集会をやむなく休会されている方々や、遠方におられる兄弟姉妹、また新しい方々が参加されるようになり、お顔は拝見できなくても共に聖書を学び主を讃美できることに感謝しています。吉村さんがよく言われる、今後 高齢、病気、寝たきりになったり、色々な事情で参加が困難になったりしてもこの様な形でみ言葉に繋がる方法があることを提示されたことは大きな神様の恵みだと思います。そしてコロナを通して与えてくれた神様からの憐れみだと思わされます。

 5月の独立伝道会春期四国集会に始まり、祈りの友合同集会、最近では阪神エクレシア、高槻集会との合同集会、また北海道せたな聖書集会と続いて恵みをいただきました。特に、5年前、初めて瀬棚、札幌に行かせていただいたことは今でもはっきりとその感動を覚えていて忘れることはありません。今回懐かしい兄弟姉妹とスカイプを通して交わりの時を持ち、神様はこのような形で再会をさせてくださるのだと思いました。

 当時 実感として思ったことは、

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」(詩編23の1~2)

瀬棚の青い海、そして牧草地の一面は まさにこのみ言葉の情景を地上に見る思いがしました。そして野中正孝さんが早朝、「ホーイホーイ」と呼びかけながら牛たちを青草の原に一頭一頭呼び集めて行かれる様子は、主イエスが「…わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」                                          (ヨハネ10の16)

 「イエスは良き羊飼い」のみ言葉を彷彿とさせ、イエス様は絶えず私たち一人ひとりに声をかけ、導き続けてくださっているのだと思いました。今回のスカイプ集会でもその時の感動が鮮明に思い出され感謝でした。

 このようにスカイプにおいても主に在る交わりが与えられることはその背景に、スカイプを取り次いで下さっている吉村さんはじめ徳島の兄弟姉妹の主に在るお働きがあること、膨大な時間を費やし、捧げてくださっているからできることであり、そのことにいつも心から感謝し、そしてその労に対して神様からの祝福がありますようにと祈ります。

 さて、最近パウロ書簡の始めにある「ローマ人への手紙」を註解書の助けも借りながら読んでいます。なぜ、最初に「ローマ人への手紙」が書簡文の最初に配置されているのか、またパウロの信仰がどんなものであったか 学ぶ度に改めて迫ってくるものがあり、主体的に読むことの恵みを味わっています。1章のテーマは16~17節にあり、そしてこのみ言葉は殆ど聖書全体のテーマといってもよいと思いました。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ1の16~17)

パウロは続いてこう宣べています。神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができる、従って弁解の余地はない。神を知るようにとすべての人間に啓示され、与えられてきたのに、感謝することもせず、かえって空しい(自己中心)思いにふけり、心が鈍く暗くなり、様々な偶像を拝するようになった、そして多くの罪を抱えてしまった、と。

 私たちは四季の自然の美しさ、日、月、星、鳥、野の花、などあらゆる被造物からでも目に見えない神の力を感じることができます。神の力を注がれているのに闇の力に誘われてしまう、その罪をイエス様が来られ十字架によって贖い、罪を始末してくださった、そして復活され聖霊となって今も尚私たちの中に住んでくださっている、毎日新しく生きる力を与えてくださっている。パウロが逆境の中にあって、いかにその福音を確信し世界中の人に伝えたかったか!今年も近づいてきたクリスマスを前に、その高く、深い福音の喜びを私たちも日々持って歩むことができますようにと美しい秋の陽の中で祈りつつ思っています。

 リストマーク讃美歌333番「主よ 我をばとらえたまえ」

                     野中 正孝

 この讃美歌は、私の祈りです。

1 主よ 我をば捉えたまえ

  さらば、わが霊(たま)は解き放たれん

  我が刃(やいば)を、砕きたまえ

  然らば わが仇(サタン)に 打ち勝つをえん

2 我が心は定かならず

  吹く風のごとく絶えず変わる

  主よ 御手もて引かせたまえ

  然らば 直き道 踏み行くをえん

3 我が力は 弱く乏し

  暗きに彷徨(さまよ) い 道に悩む

  天つ風を 送りたまえ

  然らば 愛の火は 内にぞ 燃えん

4 我が全ては 主の属(もの)なり

  主は 我が喜び、また幸なり

  主よ み霊を 満たしなまえ

  然らば 永遠(とこしえ)の 安きを受けん

                      (酪農業)

 リストマーク母の平安と神さまのご計画

                        H.H

 母の闘病に際して、お祈りをありがとうございました。

 昨年末、悪性リンパ腫の治療を終え、年明けに肺癌治療のための入院の連絡を受けて、母の体調を説明。外来受診後、即入院。間質性肺炎の急性増悪(急な悪化)でかなり肺の状態が悪くなっていて、肺気腫もあり、酸素療法が欠かせない状態となっていました。

 母は双極性障害で、私が子供のころから入退院を繰り返してきました。昨年の2度の癌の告知、今回なんども命の危機を言われた母は、肺の症状よりも鬱状態になることを恐れていました。私の体調を心配しながらも不安が勝っていて「遅くてもいいから、来てね。」と言っていました。自分では指先のしびれが収まり、折り紙で百合の花をたくさん折って、気持ちを落ち着かせていたようです。

 母は昨年8月にはじめてスマートフォンを持ちました。抗がん剤治療中は指先がしびれていたのでラインは使えなかったのですが、集会の姉妹が母のラインに送ってくださったのを私が見せると喜んでいました。電話は朝から5~6回、思い出すたびにかけてくるので伝言を聞くのが大変でした。副作用で食べられないときはやわらかいお菓子、つねに喉が渇くので飲み物は毎日、伝言を聞いて買い物です。院内の自販機やコンビニは10階の病室から遠いので、私の手足の浮腫を心配して少しでも楽なようにと連絡をくれていました。カメラの操作を教えると、分からないままに病室内や向かいの建物の鳥を撮影していました。花壇の手入れができないので「散歩しながら、野の花を撮影したい」と言っていました。私が撮影していた画像を保存していき、見せていました。スマートフォンはよい気分転換になりました。私もインフルエンザからも咳喘息からも守られて、毎日お見舞いに行くことができました。

 1月末頃に「大学病院から個人病院へ転院して、ステロイド治療が落ち着いたら居宅支援施設に移る。娘の健康状態を考えると、7日間すべて在宅にはできない。」という話が患者支援センターから出た時は「家に帰れないなら、もう治療しない。」と言いました。そのあと「落ち着いたら週に2日は帰れるようにしていく。」と話し合いました。母にとっては精神的にいっぱいいっぱいだったと思います。私の前では受けいれたように振舞っていましたが、夜はひとりで気持ちを押し殺していたと思います。

 2月になりサイトメガロウイルスや2度目の間質性肺炎の急性増悪になりました。召されるまでの一週間は病院に付き添い宿泊できました。

 葬儀は2月23日(日)でした。葬儀場の手配からすべてを吉村さんにお任せして、前夜式は行わず、キリスト教式で、葬儀から納骨まで一日で終えることができました。集会からも30数名が参列してくださり、親戚は8名。そのなかの一人に「大勢の人が来てくれてよかったね。」と言っていただきました。コロナ感染症の流行、外出自粛。翌週から主日礼拝もしばらくスカイプのみでしたので、3月に入っていれば吉村孝雄さんの司式で行なうことも参列をお願いすることもできなかったと思います。

 父の葬儀のとき、私は何も分からないままの喪主で、父方の伯父がとりまとめ仏式で行いました。自分が死ぬまで真言宗のままで変えないと言っていた母でしたが「もう晴美に任せるから。」と父の三回忌に決断。その年にそれまでの墓地からキリスト教霊園に父を含め4名のお骨を移していました。母の葬儀をキリスト教式で行なうことができ、娘として十分なお別れができたと思います。

 昨年1月の急性腎不全の入院から母にとって試練の連続でした。母の闘病生活のすべてを神さまが背後でご計画してくださり、母の精神状態が落ち着いていられるように支え、もうこれ以上は…というときに召してくださったように思います。コロナ禍のことも神さまはご存じで、わが家の二人はとても乗り越えられないと神さまが判断され、最善をなしてくださったと思います。

 3月は各種手続きや遺品整理、部屋の模様替えに追われましたが、早々に集会に誘われ、4月から礼拝や夕拝、家庭集会にスカイプで参加できています。春期四国聖書集会や瀬棚聖書集会にも参加できました。咳喘息があるので、コロナが収束するまで公共交通機関の利用はやめています。タクシーで通院するぐらいです。コロナでなくても私は遠い所へは浮腫の関係で行けないので、瀬棚の皆さんとの交わりはとてもうれしかったです。

 母が亡くなり、目で見える家の中にはひとりですが、スカイプで兄弟姉妹の集まりの中に早い時期に帰ることができ、精神的に落ち着いていることができています。一人っ子で甘やかされ育ったので、母が亡くなったあと、どうなるかと思いました。これから悲しくなる時もあるかもしれませんが、神さまに導かれて、兄弟姉妹に支えられて、ともに御国まで前進していきたいと思います。母の好きだった飛行機雲やコスモスの花を見て、癒されます。        (無職)

 リストマークどんな時も

                     N.Y

 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」

                  (詩編62の2)

 どんなことが起こっても、神に信頼して、全てをゆだね、祈り続ける者でありたいです。

 リストマーク「私の平和を与える」

                       H.G

 古代ギリシャの世界で「平和」と言えば、長く続いた戦乱の世に時々訪れる平穏無事な状況を表す言葉だったようですが、イエスが「私の平和を与える(ヨハネ福音書一四の二七)」と言われたその平和は、戦争の真っ只中にあっても揺らぐことの無い平和です。

 クリスマスの時期に思い出すのは、第一次大戦最中の一九一四年に起こった「奇跡の平和」の出来事です。クリスマスの夜に対峙していたイギリス軍とドイツ軍のどちらからともなく兵士たちがクリスマスの讃美歌を歌い交わして肩を組み合った、という停戦の美談が有名ですが、近年この出来事を書いたイギリス兵の母親に宛てた手紙が公開されました。事実は次のようなことだったようです。

 「今これを塹壕の中で書いている。凍るほど寒く、まさにクリスマスの気候だけど、焚き火をしていて藁もたっぷりあり、居心地はまあまあだ…今日、僕が見たものは、これまでに誰も見たことがない驚くべき光景だったと思う。

 朝十時、塹壕の壁越しに外をのぞいていると、一人のドイツ兵が腕を振っているのが見え、すぐに別の二人が塹壕から這い出て、僕たちの方に向かって来た。僕たちはただ彼らを撃つところだったが、向こうは銃を持っていないのが分かった。それで味方の一人が出て行った。すると二分もしないうちに、二列の塹壕の間には両軍の兵士や将校があふれかえり、互いに握手を交わしてクリスマスを祝福し合った。

 兵士たちは塹壕の壁の上を気ままに歩き、塹壕の間の中間地帯から遺体を回収した両軍の戦死者の合同埋葬式が行われた。僕たちは煙草とサインを交換し、何人かは写真も撮っていた。 戦争が今後、どれだけ長く続くのかは分からない…とにかく、元日にはもう一度休戦する。ドイツ人たちが、写真の写り具合を見たいと言うからだ!」この奇跡のクリスマスは、イエスの到来によって実現したものでした。どんな闇の中にあっても、イエスを心に迎えるとき、溢れる喜びで満たして下さるのです。

 今年は新たな戦争が始まった年として記憶されるでしょう。新型コロナウイルスとの戦争です。この闘いがどれほど長く続くか分かりません。私たちは恐怖・不安の中に置かれています。しかし、イエスは私たちが闇のさなかにあっても、奪われることのない「平和」を与える、と言われます。「心を騒がせるな。おびえるな」と。

 イエスは必ず全てを良い方向に導いてくださることを信じて、新しい年も日々を歩み進めたいと思います。

 リストマーク復活の希望

                       F.F

 二〇二〇年一〇月二五日 主日礼拝に吉村孝雄代表が主題「主と同じ栄光の姿に」として、お語りになりました。

 私は吉村さんの講話をお聞きし新しい信仰の世界を見せていただきました。

 聖書箇所はフィリピの信徒への手紙三章二一節です。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

 私たちの信じる神様は万物を支配下に置くことさえできる力によってとありますが、その神様は太陽や月、星,などの宇宙にある、すべてのもの、また私たちの住む地球にある植物、動物、鳥、など、すべてを神の愛をもって創られ、その営みなどを支配されていると言うのですから、その力は絶大です。

 神様の、お創りになった私たちの住む地球も遠い昔に日本列島は西側の大陸から離れてできたのが今の日本列島だといわれています。

 大陸が動くとか、高い山の上に貝殻があるとかを知らされると神様であるキリストの、創造とご支配を感じます。

 吉村さんが講話で、よくお話になる、きれいに咲く野の花の麗しさをみると、イエス・キリストによる創造とご支配を感じます。星も花も神の愛をもって創られ輝いている。これは神を信じることによって、このことがわかり、すべての自然はキリストの栄光を表している。

 私どもは、このことによってイエス様を身近に感じる幸いを感謝しています。

 そしてイエス様は万物を創造し御支配する力をもって御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのですと言ってくださいました。

 このことは私たちイエス様を信じる者はイエス様と同じ形に復活させていただけるのです。

 イエス様を信じて歩むのに大きな希望を与えてくれて感謝です。                (無職)

 リストマークⅠヨハネに学ぶ

                       F.S

 鹿児島聖書集会では、現在Ⅰヨハネを学び終えたところです。Ⅰヨハネは難解なところが多く、今まで以上に、十分咀嚼できないまま語ってしまった印象が残っています。しかし、心に残る信仰・思想・生き方が次々に示され、深い感動を受けました。それが何であったかを振り返って、今後に生かしたいと思います。

 この手紙は、ヨハネ伝やヨハネ黙示録と共に使徒ヨハネの作とこれまでも考えていましたが、学んで一層それを確信しました。

 この手紙は新約聖書の他の手紙と異なり、差出人も宛名も抜かし、冒頭から「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあり、著者が「命の言」、つまりは神のひとり子イエスが永遠の生命であることを伝えるために書くのだと書く目的をはっきりさせています。この信仰、思想はヨハネ伝1章と全く同じで、作者が同じだと思われます。

 著者はさらに読者が「わたしたちとの交わり(御父と御子イエス・キリストとの交わり)を持つようになり」、喜びを共にしたいために書くのだといいます。ヨハネ伝の目的は「イエスは神の子イエスであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20の31)とありますが、本書は既にイエス・キリストを信じているものの、さまざまな世と世の誘惑、迫害や異端、偽キリストにさらされていた人々に、改めて真の信仰とそのあり方を示し、激励したものと思われます。老いた身と厳しい環境の中で渾身の力で主への限りない感謝をこめて書き始めていることを感じます。

 ヨハネはまず、神が光(真理)であり、わたしたちは罪を清めてくださった御子イエスを信じて、神の光の道、真理の道を歩むことができると説きます。弁護者イエス・キリストの助けを受けつつ、神の戒め、神の言葉を守ること、主イエスの道を自らも歩むことが神の喜ばれる道、神がともにいたもう道である、それを励みなさいと。そして戒めは古くて新しい、あの「互いに愛し合いなさい」だと。(明示されていませんが、前後から明らかです。)

 ヨハネは『「光の中にいる」と言いながら兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。…』とか「神の子たちと悪魔の子たちとの区別は明らかです。正しい生活をしていない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。」と、兄弟を愛する生活をしているかいないかで、光の道か闇の道かが分かる、それはまた神と悪魔に起因することを教えてくれています。

 「わたしたちは、自分が死から命に移ったことを、兄弟を愛することによって知っている。愛することのない者は、死にとどまったままです。」(3の14)という言葉にはハッとさせられました。本当にそうだと実感しました。ヨハネは、その愛は本来の自分たち人間には持ち合わせないものだと直感し、次の有名な句を綴ったのでしょう。

 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(16節)。主の愛の絶大さと共に、感動して書いたヨハネの愛にもまた感動させられました。この句はヨハネ伝の同じ3の16「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」を想起させます。

 また、ヨハネ伝17の1~3「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命をさずけさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」も思い出しました。

 Ⅰヨハネの最後近くには「神の子を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、(既に世に勝っているからには)永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」とあり、最後に「この方(イエス・キリスト)こそ、真実の神、永遠の命です」と断言し、「子たちよ、偶像を避けなさい」との愛の戒めで終わっています。感謝、感謝。たどたどしくても、主の道を歩めますように。

 リストマーク 主にあってすべて恩寵

                        H.M

 私は東京大空襲で生家を焼かれ一家でホームレスになり、疎開・避難民生活の過労が元で親を亡くし、孤児として育ち、大層苦労致しました。

 その苦難の原因を20歳頃まではアメリカの空襲企画遂行者カーチス・ルメイ将軍に帰したり、その後最近迄は、「戦犯」であった親達の所為と考えたりして来ました。空襲被災後75年たった今、ようやく、それらのすべてが「神の業が現れるため」(ヨハネ伝9の3)という主のお言葉が納得できるようになりました。主にあってすべて恩寵と感謝致します。

 

「家焼かれ国滅びゆく夜の壕に むつかりて吾は母を泣かせき」

「壕の闇に身を寄せあひし父母兄弟 わが唯一の家族の記憶」

「わが仇はカーチス・ルメイ 家焼かれ 国滅ぼされ 親殺されぬ」

「よろこびも苦難もありし喜寿の秋 主にありて すべて 恩寵と知る」                 (技術士)

 リストマーク朝ごとに祈りを聞いて下さる神様

                   M.K

 毎月、吉村先生の礼拝記録CDを、数度勝茂様から送って頂いています。この福音を頂ける恵みをありがとうございます。

吉村先生からは「いのちの水」誌、「集会だより」、貝出様の詩集を送って頂いています。重ねてお礼を申し上げます。

そして 発送のお世話をして下さる集会のお一人お一人に感謝します。

 2020年は 想像も出来なかった事が起こり ニュースを聞くたびに息苦しくなりました。今も コロナウイルスに苦しんでいる人が沢山おられ、心が沈みます。

 今年の8月の聖書講話で 詩編5編の学びを頂きました。

 この世界では どうにも解決出来ない問題に直面する。朝ごとに喜べない。朝ごとに苦しんでしまう。しかし、私たちが追い詰められた時、神様に結びついて、叫び続け、仰ぎ続けるならば、切実な祈りを聞いて下さる神様がおられ、現実問題は変わらなくても、神様を避けどころとし、別の所から 神様の平安が伝わってきて 新しい命を得させて下さり、新しい朝を下さる と吉村先生に教えて頂きました。

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください。

 わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。

 あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。

 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。」

(詩編5の2~4)

 今年1月に 孫の手術がありました。不安を持つ娘と共に お祈りができる恵みを頂きました。神様は 私達のような取るに足らない者をも 慈しんで下さり憐れんで下さり 導いて下さっている事を思います。朝ごとに 小さい者の祈りの声を聞いていて下さる 神様に感謝して これからも日々お祈りします。           (松山市)

 リストマーク聖句

               M.K 

  神は愛なり  (第一ヨハネ四・一六)

 リストマーク 神の慈しみ(聖句)

                     M.K

 神の慈しみに感謝して、神の愛による聖句を次に記します。

 

1 神

○「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3の14)

○初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1の1~3)

○「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず(出エジプト記34の6~7)

○神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3の16~17)

○初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1の1~5)

○わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ16の7・13)

 

2 罪

○「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3の17・19)

○裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(ローマ5の16)

 

3 悔い改め

○わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ3の11)

○そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ4の17)

 

4 神の義

○ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒言行録2の38)

○「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(ヨハネ3の3・5)

○自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10の38~39)

 

5 恵み

○何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6の33)

○「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10の27~28)

○わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(ヨハネ15の2)

 

6 希望

○ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16の22)

○王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。(マタイ25の34)

○「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21の3~4)

                                 (司法書士)

 リストマーク最近の出来事と詩篇90篇

                       S.J

 私の行っている教会で、親しくさせて頂いている婦人達三人のうちの一人の友が最近大きな病気になられました。ある日、尋常でない鋭い腹痛に見舞われ、検査の結果、腹部の癌でステージ4、転移ありで、余命宣告も受けたというのです。この事を聞いた時、私自身も大変ショックでしばらく考えこんでしまいました。その病気はまず軽いうちに見つかることはないそうですが、告げられた友は、びっくりする位、この事実を冷静に受け止め、落ち着いておられるのには又、驚かされると共に、神様が友と共にいて支えて下さっていることに大きな感謝がありました。その後、友は通院で治療をうけておられ、副作用も痛みもなく比較的元気に過ごしておられ、私は、毎週朝拝の帰りに、友人宅にお寄りし、少しお話しを交わして週報をお渡しして来る事が続いています。

 この友人のことがあって、今更のように、私達の命は、すべて神様のみ手の中にあることを思い、一日一日を大切に過ごさせてくださいという祈りが大きなものになりました。

 私が行っている教会では、毎週火曜に早天祈祷会があり参加しているのですが、そこでは、毎週詩篇を一篇輪読した後、み言葉の分かち合いをし、集った人が一人ずつ、皆で祈りを

捧げているのですが、先日は詩篇90篇のモーセの祈りを読み、最近の私の心にぴったり響くみ言葉でした。

10節「人生の年月は七十年程のものです。

    健やかな人が八十年を数えても

    得るところは労苦と災いにすぎません。」

12節「生涯の日を正しく数えるように教えてください。

    知恵ある心を得ることができますように。」

14節「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ  

    生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」

15節「あなたがわたくしたちを苦しめられた日々と

    苦難に遭わされた年月を思って

    わたくしたちに喜びを返してください。」

16節「あなたの僕らが御業を仰ぎ 

    子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。」

17節「わたしたちの神、主の喜びが

    わたしたちの上にありますように。

    わたしたちの手の働きを

    わたしたちのために確かなものとし

    わたしたちの手の働きを

    どうか確かなものにしてください。」

                 (新共同訳から抜粋)

 人生で労苦や災いが与えられても、神様は14節、15節にあるように、慈しみで満ちたらせて喜び歌い祝う日々も下さり、神様を信じて歩む者がそれらのみ業を仰ぎ数える時に、16節のようにその子らもそれによって神様の威光を仰ぐようにして下さることを私達が信じていく時、希望があり、どんな労苦や災いを通っても、神様は私達を憐み、喜びも与えて下さる事を思う時、神様への感謝と讃美をもって歩み続けることができるのだと励まされました。

 10節にあるように、人生で労苦と災いを得ても、それらが神様から来るとしても、それは神様が人を滅ぼす為でなく、それによって人が命を得たり、神様のご栄光が輝く為と思いますから、17節のように、神様が与えて下さる一日一日を大切にし、私達の手の働きを確かなものにしてくださいと祈りながら歩んでいきたいと思っています。

 リストマーク人みなの幸い祈れる我となりたし

            ー療養の日々から

                     M.Y

神拭ひくれる涙の光の粒よ

 

我がことで暮れたり小さき我の一日

嘆く朝淋しい真昼主に見守られたる

 

人みなの幸い祈れる我となりたし

 

悲しき夜父親の愛を夢で知る

 

秋の気にいつとは知れず包まれん

 

立ち上がる日常にあう動悸かな

 

山茶花の花一輪にしかと向く

 

もう一度この山茶花に会いにくる

 

山茶花の気高さずっと見ていたい

 

山茶花はすっかり無心なる母か

 

日溜まりは愛なりどこも暖か

 

花びらの中に祈りの旋律あり

 

天にある礼拝の時近づきぬ

 

信じるといふ天上のことが地上にある

 

争いなき主の自由なる楽園たれ

 

この蕾花になるまで祈り続けん

 

揺られ揺られ神の揺籃昼寝せん       (東京)

 リストマーク本当の奇跡とは

                     M.K  

 マルコ4の35~41のみ言葉は、ガリラヤ湖上で、キリストが嵐を静められたところです。み言葉では、キリストは、何よりまず、不信仰な弟子たちの叫びに応えて下さったように、私たちがいかに信仰なき祈りを捧げたとしても、私たちが真実をもって神に求める時、神はそれに真剣に耳を傾けてくださるということだそうです。

 そこで、刑務所伝道をなさっておられる方の著書(畑野寿子編「甦った人・ある死刑囚の証したこと」)から、内容を抜粋したいと思います。久田徳造さんという死刑囚は、幼い時に母に捨てられ、天涯孤独となり施設で育ちました。

 やがて少年院を出たり入ったりしているうちに、恐ろしい罪を犯し、29歳で死刑確定となりました。刑務所で彼は、おびえ、おののき、わめき狂ったようになりましたが、畑野さんと出会い、キリストを知るようになりました。それからの彼は、「救われようもなかった僕のような者にとっては、主のお約束の全く変わることのない、この大きなあわれみは、そして喜びは、言葉に言い尽くせません。

 死刑囚とされて初めて、人間としてこの世にあることを喜び感謝し、生かされることに望みが与えられました。」という内容の手紙を畑野に書くようになりました。死刑執行の前日の夜は床に就かず、多くの人に感謝の手紙を書き続け、立派に何の乱れもなく喜んで召されたそうです。彼の最後の手紙に引用されていた聖句は、「わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災いに会う恐れもなく、安全である。」(口語訳 箴言1の33)でした。

 死刑、いえ、死を前にしてこのような生き方ができたことが、奇跡です。彼は、嵐の中にあっても、真実をもって神を求め、神が真剣に耳を傾けてくださったからこそ、キリストと共なる歩みがもたらす平安を得られました。これこそが、本当の恵みの奇跡なのです。

 「負わされた十字架」という著書から抜粋させていただいたのですが、自分自身の不信仰な毎日に、そして、信仰なき祈りに、イエス様は人間には計り知れない愛をもって、あわれんでくださるのではないかと思った次第です。罪深い、情けない私の全てを委ねますので、どうかお許し下さいと祈るばかりです。

 リストマーク私達の救いがあるべき姿に

                      M.M

 「一日一生」の10月31日、内村鑑三はこう言われています。

 「私は私の不義のこのまま、キリストを信じて神の義者(ただしきもの)として彼の前に立つことができるのである。私は私の汚穢(けがれ)のこのまま、キリストを信じて神の聖者(きよきもの)として彼の前に立つことができるのである。私は未だ救われた者ではないが、キリストを信じてすでに救われた者として神に取り扱われるものである。完全な救拯(すくい)は神から出て信仰によって自分の物となるのである。」

 私は毎年「一日一生」を読んでいますのに、何年もの間、字面だけを読んでいたようです。今日の朝、このページを読んで何故〝はっ!〟としたかと言いますと、8月30日の主日礼拝で「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリピの信徒への手紙2の12)と言うみ言葉を学ぶ機会を与えられていたからです。

 その日の講話の中で吉村さんは言われました。「救われていても、愛がない、祈りもない…事故のニュースを興味半分で見ていないか、人々の苦しみに共感しているだろうか…真実をもって神様を礼拝しているか、惰性に流れていないか…」身に覚えのあることを畳み掛けるように語られるのを聴いているうちに「自分の救いを達成する?信じるだけで救われているのではないの?」と言う最初に抱いた私の浅はかな考えは薄れて行きました。お話は続きます。「神様は手痛い裁きで絶えず私達の目をさまさせようとされます。いつも目覚めて、緊張感を持って、私たちの救いがあるべき姿になるようにという願いを持ち続けるとイエス様が私達を清く、とがめられることのない者にして下さるのです」というような内容だったと思います。私の心の中のもやもやはすっきり消えていました。

 私たちはイエス様を信じることによって、神様に救われたと見なしていただいてますが、いまだ完全でない私たちの救いをあるべき姿にしていただく必要を知らされたことを感謝いたします。そのために、常にサタンの存在に敏感になり、真実な気持ちで神様、イエス様を仰ぎつつ、イエス様が再び来て下さる日に備えて行きたいと思います。

 主を仰ぐ 心静けし空は秋           (兵庫)

 リストマーク創造主なる神

                       Y.M

 旧約聖書の創世記1章1節の御言葉「初めに神は天地を創造された。」は聖書の冒頭の文章です。私は高校一年のとき、机の上にあった聖書をふと開いた瞬間に目にした言葉がこの聖句でした。この御言葉がきっかけで、私はキリスト改革派の教会に通い出し、その年のクリスマスに、北浦和教会の松尾武牧師から洗礼を受けました。1958年12月21日でした。それは不思議な神様の導きであったと思います。

 この、創世記1章1節の御言葉を、私は神様の人間に対する最高の啓示だと思います。創造主に対する信仰は、この御言葉が、神様の啓示であるという信仰に基づくものです。

 人間も、天地創造のあと、神様ご自身の御手と命の息によって創造された被造物ですから、世界が創造される現場に居合わせ無かった人間が、世界はこのように出来たのだと書けるはずがありません。神様が教えて下さったことによって、聖書の記者は、それを忠実に書き記したのです。

 この、神様の啓示を信じ、受け入れることができないと、信仰は始まりません。世界はビッグ・バンで、突然、偶然にできたのだとか、自然そのものが神であるとか、人間は勝手に、世界の存在する原因を考え出します。この1節の御言葉は、たった4つのフレーズ(単語)から成り立っています。「初めに」「神は」「天地を」「創造された」。原語のヘブライ語は、「ブレシース」(初めに)+「バーラー」(創造した)+「エローヒーム」(神)+「エス・ハッシャマイム・ウーエス・ハーアーレツ」(天と地)と語順が日本語訳とは異なり、主語より動詞が前に来ます。

 「初めに」は聖書において、非常に大切な言葉です。聖書には3つの大事な「初め」の言葉があると思います。

 一つは天地創造の際の初めです。時間の初めでもあります。また、ヨハネ福音書の1章1節の「初めに言葉があった。」の初めは、永遠から永遠にいます、神と同一本質で、父、子、聖霊の三つにして、御一人にいます神。三つの人格(位格)のおひとりにいます、神の御子キリストがおられたという意味での「初めに」です。また、マルコ福音書1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」の「初め」は福音書の語り始めという意味の初めです。「創造された」のバーラー(単数形)は「無からの創造」です。

 神の創造の御業を意味します。「神は」はエローヒームで複数形ですが、多神教の意味の複数形ではなく、神の偉大な尊厳を意味し、「三位一体の神」が天地創造の御業をしておられる「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」という2節の御言葉を暗示しているのではないでしょうか。「天地」エス・ハッシャーマイム・ウーエス・ハーアーレツは天地宇宙でしょう。

 4つの単語(フレーズ)で、神様は、私たちに至高の、驚くべき天地創造をなさった創造主であって、聖書は神様の特別な啓示の書として、開口の第一声で、神様は、私たちに御自身を現わしてくださっておられること。 この聖句は、神様の救いの御計画を、私たち人類に伝えるための、真理の教えの第一歩の「初めに」でもあることを覚えます。その神様の偉大な御業と御恵みを感謝し、尊き御名を、心から賛美いたします。ハレルヤ!

 リストマーク 恵みの足

                      米田 武子

 二〇二〇年も早や十一月コロナ禍での生活、外出を制限されて、桜の花も住まいの近くの小さな公園の数本の木の花を見るのみでした。神様が私達に下さる自然の御恵みをほとんど感じる事なく春、夏、そして秋も去ろうとしています。

 私は自転車に乗れなくて運転免許も有りません。だけど、歩くのは子供の頃から大好きでした。若い時は、太い大根足が嫌でした。でも今は、神様が私に下さった大切な移動手段です。歩いていると、道端の草花に季節を見つけ、田の道に好きな野菊が咲いています。つゆ草の青紫色は大好きです。空を見上げていろいろな形に変化していく雲。犬になり馬になり、ライオンになり。神様が空のカンバスで遊んでおられる。そんな思いで見ています。大自然の中に見せて下さる美しい景色、いかなる画家も描く事の出来ない神の御業。私達へのみ恵みなのですね。

 朝目覚め、新しい一日が始まります。今日も神様からいただいた恵みの足で感謝しながら歩きます。一日五千歩は毎日健康のためにはと思っています。今の私の行進曲は、讃美歌八十七番のBです。「われらも愛せん 愛なる神を」と頭の中でくり返し歌っています。誰も通らない田んぼ道や、車は一方通行の道などでは小さな声を出します。今度田宮集会場へ歩いて行く時、何回くりかえすのか数えてみようと思います。

 

「めぐみのひかりは、わがゆきなやむ」

1 めぐみのひかりは わがゆきなやむ

  やみ路を照らせり、神は愛なり。

  われらも愛せん、あいなる神を。

2 うき雲おおえど み顔の笑みは

  さやかに照りいず、神はあいなり。

  われらも愛せん、あいなる神を。

3 うれいのときにも のぞみをあたえ、

  なぐさめたまえり、神はあいなり。

  われらも愛せん、あいなる神を。

4 ものみなうつれど めぐみのひかり、

  とわにぞかがやく、神はあいなり。

  われらも愛せん、あいなる神を。

  アーメン

 

 讃美歌の巻末に交読文と言うのが有りました。(マタイ伝六章・聖書ではマタイによる福音書六章25節から34節です)

 

何を食らい何を飲まんと命のことを思いわずらい、

 何を着んと体のことを思いわずらうな。

命は糧にまさり、

 体は衣にまさるならずや。

空の鳥を見よ、播かず刈らず倉に収めず、

 しかるに汝らの天の父は、これを養いたもう。

汝らはこれより遙かにすぐるる者ならずや、

 汝らのうち誰か思いわずらいて、身のたけ一尺を加え得んや。

また何ゆえ衣のことを思いわずらうや、野の百合はいかにして育つかを思え、

 労せず、つむがざるなり。

されどわれ汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、

 その装いこの花の一つにも及かざりき。

今日ありて明日爐に投げいれらるる野の草をも、

 神はかく装いたまえば、

まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ、

 さらば何を食らい何を飲み何を着んとて、思いわずらうな。

これみな異邦人のせつに求むるところなり、

 汝らの天の父は凡てこれらの物の、汝らに必要なるを知りたもうなり。

まず神の国と神の義とを求めよ、

 さらばすべてこれらの物は、汝らに加えらるべし。

このゆえに明日のことを思いわずらうな、

 あすはあすみずから思いわずらわん、

一日の苦労は一日にて足れり。

 

 皆様のお手元に有る「讃美歌」の本に有りますが、文語体ですので、リズミカルに口ずさむことが出来、私は好きです。

 我々の望むところすべてごぞんじの父なる神様、いつもよりそって下さっているイエス様、愛とみ恵みを感謝して 御名をほめ歌い お祈りいたします。アーメン

(徳島聖書キリスト集会)

 リストマーク穏やかないちにち 

                      A.M

 次男が突然の心肺停止で倒れて、10月で3年半になりました。昏睡状態のまま今年の7月に病院を退院し、在宅療養を始めて、もうすぐ4ヵ月です。今年は27歳の誕生日を家で祝うことができました。

 いちにち、いちにちが大切で愛おしく、普通の日常生活を共に過ごせることを、神さまに感謝し、この穏やかな時が守られますようにと祈るばかりです

 聖書の学びや信仰の確かさにも自信はなくて、何ひとつ誇れることはありませんが、次男に『生きて、人生を全うするように』と家族の元に返してくださったのは、神さま以外に有り得ないことを確信しています。

 こんな私を神さまから離れないように、手を繋ぎ続けてくださる集会の友たちに感謝しています。(徳島)

 リストマーク好きな聖句

                           J.M

 「私は道であり、真理であり、命である。

 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14の6)

                   (施設職員)

 リストマークスカイプで初めて集会の主日礼拝に参加して

                      I.J

 さいたま市に在住し、日頃は関根義夫先生が主宰されている「浦和キリスト集会」の主日礼拝に出席しているのですが、「新型コロナウイルス」感染拡大ために4~5月の2カ月間は休みとなってしまいました。

 そんななかで「いのちの水」誌4月号で「春期四国聖書集会」がコロナ禍のために今年はスカイプ集会に変更することになった旨のことを知り、思い切って参加の申し込みを行いました。今迄はスカイプやズームという名前だけは知っていたのですが、一度も利用したことがなかったので、ゼロからのスタートでした。

 併し、吉村さんや貝出さんから懇切丁寧にスカイプの使い方について説明とご指導をいただいて、無事にこの集会にスカイプ参加することができました。そして、講師の先生方や皆さんの素晴らしい講話や証しを聴くことができ、感謝でした。

 首都圏では東京を中心に引き続き多くの感染者が発生していたために、浦和の集会も6月から再開されましたが、間隔をあけて座れるように会場を2部屋借りて主日礼拝は月2回に減らして、今日(2020年11月)に至っています。10月に入って再び感染拡大の気配が見られはじめており、この冬一杯はこのような状態が続くのではないかと、懸念しております。

 そのようななかで残りの週はこの徳島聖書キリスト集会の主日礼拝にスカイプで全国各地の皆さんと共に参加して、霊的な繋がりを持つことができて嬉しく思いました。このスカイプ集会の開催と運営のために労力を惜しまず、協力をしておられる数度勝茂さんを始めとする皆様には心から感謝いたします。

 定年退職以来、ここ十数年の間に直腸癌、関節リウマチ、膵臓疾患などを相次いで発症し、2回の入院手術を受け、一時は平均して週2回程度八つの病院通いが続きました。

 中耳炎では手術の甲斐もなく高度難聴となり、身体障害者手帳を持つ身となりました。それにも拘わらず、近く齢80歳を迎える今日まで、神様に守られて健康を与えられ、妻の和子にも支えられて生かされてきましたこと、そして何よりもこれらの病によってこの罪深い私の信仰が深められましたことに、関根先生をはじめ、吉村さん、そして信仰を共にする多くの兄弟姉妹の方々の祈りと導きによるものと深く感謝している次第です。

 いま私の一番の楽しみとなっているのは「畑仕事」です。家から徒歩20分のところに約百平米の土地を借りて、20年程前から始めている実益を兼ねた健康のための家庭菜園ですが、土を耕し、種を播き、苗を植え付け、殆ど無農薬で育てた野菜が一日一日大きく育つ様子と収穫できる楽しみ、そして何にもまして四季折々に変化する自然の恵み…いろいろな野鳥たちの囀り、周囲の林の木々の花や新緑、紅葉の美しさ、ミレーの「晩鐘」を思わせる夕暮れ時の美しい風景等々…に浸りながら、畑作業をして過ごすひと時、それは目には見えない世界「天国」が遥か彼方の天上にあるのではなく、今のこの場所にあることを実感する、私にとっては至福の時のように思われます。

 残された短い人生をフィリピ書で述べられているパウロに倣って、私も全身を前に向けて「神よりの賞を得ることを目指して」歩んでゆきたいと願っております。

 リストマーク聖書

                      O.E

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3の15~16)

 この個所から聖書は神からの賜物であることを思い知らされました。

 又、故杣友豊一さんからは「神さまからのラブレターですからよくよく読みなさい。」と

教わっていますがなかなか実行できない私ですが、毎日少しでもコツコツ読んで間違った道へ迷わないよう導いてくださいと願っています。            (中途失聴)

 リストマーク短歌

                     I.M

 

コロナ禍で集会の輪の広がりて ネットでつなぐ聖書の学び

 

突然のこの痛みをも主に任し 平安となるコスモスの道

 

茎のみでひと筋に燃え曼珠沙華 

             まっすぐに主を見つめいきたし

 

人生の秋歩き出し主はずっと 老いても背負い担って下さる

 

命かけ日本語聖書作りたる ヘボンより受く大きな恵み

 

様々な苦難の向こう光あり 主のご計画希望への道

                     (施設職員)

 リストマーク証し

                       O.E

 私は、先々のことを思って、良い方向に考えるのでなく低い方向に考えていく自分…そして思いわずらいばかりで前へ進めない自分…。主のみ名を賛美しますと言っている自分が本当なのか考えてしまいます。

 八月の末より吉村様のご愛労で徳島聖書キリスト集会の主日礼拝を、始めのうちはスマホで、現在はスカイプで参加させていただいております。

 吉村様の講話、参加者の方々の感話、そして徳島聖書キリスト集会のお世話いただいている方々、札幌聖書集会の大塚様との交流の中で主の愛を感じさせていただき、聖霊によっての喜びがどんなに大切なことなのか、私は愛されているという実感は、大変嬉しく感謝の毎日です。ありがとうございました。

 リストマーク 「荒れ地よ、喜べ」

                      K.K

 讃美歌21-173の「荒地よ、喜べ」この歌が心に残っています。

 1 荒れ地よ、喜べ 砂漠よ、歌え。

   咲かせよ、一面に喜びの花を。 

2 荒れ地よ、喜べ 砂漠よ、歌え。

  閉ざした耳、目、口開くときが来た 

3 荒れ地よ、喜べ。砂漠よ、歌え。

  もつれた舌ほどけ讃美の歌うたう。 

4 荒れ地よ、喜べ。砂漠よ、歌え。

  よろめくひざは立ち、喜びにおどる。

5 荒れ地よ、喜べ。砂漠よ、歌え。 

  いのちの花が咲く、今、この荒れ地に。

 

 自分の心の荒地、身近な者の心の荒地、関わる人の心の砂漠を思います。人は誰もが砂漠の中で水を求めて生きているのだと感じます。しかし、すべては神によって導かれていることを信じるとき、どんなことも最善になるという神の約束を思います。御心にかなった祈りは聞かれ、願いはかなえられる。それは神の約束です。あきらめないで祈り続けようと思います。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル十一・1)

 

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ロマ八・28)

 

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ十四・13~14)     (徳島)

 リストマーク聖句

                     K.I

「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、

 神はとこしえにわたしの岩、わたしに与えられた分。」

                                      (詩編73篇26節)

 リストマーク心に残った聖句

                       K.H

 お祈り有難うございます。感謝です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8の28)

 今年も後わずかとなりました。光陰矢の如しといいますが年がいくほど一年一年過ぎ去っていくのが早く感じられます。今年は新型コロナの影響で集会もスカイプですることによって、全国、各県の方が参加されるようになり、多くの方の感話なども聞くことができ良かったです。

 でも、さまざまな事情で集会やスカイプでの参加もできない、しようとしてもできない、こようとしても来られない人のことを思います。主が共にいてくださり心の平安が与えられますように。

私も皆さまのお祈りによって支えられていることを実感することができる年でした。本当に有難うございます。

神様は、一人一人の祈りを聞いてくださっている。

主を幼子のように信じ一歩一歩歩んで行きたいと思います。

                       (徳島県)

 リストマーク聖句

                       K.K

               テモテ第一6の17

「高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」   (新共同訳)   (徳島)

 リストマーク「ドラセナとカポックから教えられたこと」

                       K.A

 今年、二種類の植物から教えられたことがあった。

 ひとつは、七月に買った花束の中に、花はない緑の葉っぱがついているだけの茎が一本あった。おそらくドラセナの一種だと思う。

 他の花が全て枯れてしまったあとも、この緑だけはずっと枯れずにいた。枯れるまではと思って毎日花瓶の水を変えてあげていたら、なんと茎の断面から白い根が生えてきた。

 根の数は増え続けて、すごい生命力だと感心していたら、そのうちに新しいきれいな枝も生えてきた。もうすぐ十一月というのに、今も元気である。

 もうひとつは、カポックである。私の実家の庭にあるカポックの、枝を剪定して切ったものが、空のプランターに斜めに突き刺さっていて、それがなんと生きていて葉っぱがつき、成長していた。

 そのプランターの中のカポックを、いびつな形なのでかわいそうに思い、根の途中から切り取って、私の家に持って帰り、鉢植えにしてみた。しかし、もともと斜めに生えていたため、まっすぐに茎を立てて植えてみたところ、すべての葉っぱが下を向く形になってしまっていた。これは元気に育たず枯れてしまうかと、かえってかわいそうなことをしたと、半ばあきらめながらしばらく水を定期的にあげつづけた。

 すると、驚くべきことに、一か月以上経ったある時に、ふと気づくと、すべての葉っぱがきちんと上に向き直り、日光を浴びることができる形にいつの間にか姿を変えていた。また、根もきちんと生えたようで、生き生きと元気になっていき、新しい葉っぱも生えてきた。

 このドラセナとカポックから、私は三つのことを学んだ。

 一つは、生きようとする逞しさである。コロナウイルスのために世界中が困難な時期にあり、そのうえ政治は国内外ともに愚劣な事柄が目立つので、私自身ともすれば生きることに対してあきらめや倦怠を感じそうになることもあるが、このように逞しく生きねばと襟を正される思いがした。

 二つめは、太陽があたりさえすれば、カポックのように葉っぱの向きは変わり、ドラセナのように新しい根や茎が生え、再び新しく生き直し、成長していくということである。神の愛に触れる時に、人の魂や人生もまた、新たな生きる力を得、新しく向き直っていくことができるのだと思う。

 三つめは、神の愛というのは、いかなるものも捨てず、水をやり続け、慈しむようなものだと、あらためて思い至ったことである。神は、余ったパンくずをすら捨てない方である(マタイ十四の二十)。神は、傷ついた葦を折らず、消えかかった灯すら消さず、大切にしてくださる(イザヤ四十二の三、マタイ十二の二十)。

 神の御心というのは、実のならぬ木や、いびつな木や、パンくずのようなものも、すべてもったいないと思って、決して捨ててはおかず、生かそうとするものなのだと思う。

 主イエスのたとえ話の中に、三年も実がならないいちじくを切り倒そうとする主人を、園丁が止める話がある。園丁は言った。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」(ルカ十三の八~九)。これは主イエスの人に対する御心そのものなのだと思う。

 思えば、私自身が、なかなか実のならぬいちじくだった。花束の中の目立たぬドラセナや、いびつなカポックのようなものだった。余ったパンくずであり、くすぶる灯芯だった。しかし、神は根気強く、見捨てることなく、見守り、支え、導き、照らしてくださった。そのために、いまこうして、キリストを信じ、聖書を学ぶ身となっているのだと思う。そして、決して捨ててはおかぬ神の愛の御心に触れるうちに、いつの間にか、自分にも、植物を慈しむ気持ちがいくばくか、ほんの少し起こるようになったのだと思う。

 現代の社会は、ともすれば経済や効率優先で、落伍者や脱落者に冷たく、競争に勝ち残ることばかりを目指しがちである。しかし、神の御心は、あらゆる生命や人間に対し、その滅びることを決して望まず、「もったいない」と思い、なるべく生かそうとし、慈しみ大切に思うものである。そのような神の御心に触れる時に、私たちは自分自身も生きていけるし、他をも生かすことができるのだと思う。

 コロナウイルスは、社会の最も弱い部分を直撃した。女性の非正規雇用の失業者が他と比べて著しく多いなど、もともと日本社会が抱えていた構造的な不平等がコロナウイルスによって顕在化している。コロナウイルスで問われていることは、私たちのあり方の見直しなのだと思う。弱者切り捨ての社会のあり方は、神の御心に沿っていない。

 逞しく生き抜くことと、神の愛に触れ続けることと、神の「もったいない」と思う御心に触れ、その御心に沿って生きること等、ドラセナとカポックを通して今年神が私に教えてくださったことに心から感謝したい。(福岡)

 リストマーク聖書の言葉

                    K.R

 いつもお世話になっております。

 苫小牧も寒くなって来ました。 聖書の言葉です。

 詩編91の1~2

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ

 全能の神の陰に宿る人よ

 主に申し上げよ

「わたしの避けどころ、砦

 わたしの神、依り頼む方」と。」

 リストマーク神様に聞くこと

                         K.I

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ書10章17節)

 

 聞くことの大切なことを思います。信仰を続けることは、神様の言葉を聞くことだと思います。

 リストマークニュートンの言葉

                      K.T

 瀬棚聖書集会で紹介されたアイザック・ニュートンの次の言葉に感銘を受けました。

 「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のままに無限に広がっているというのに。」

 この言葉は、神様と人間の関係をよく表していると思います。科学者は全てをなげうって研究に人生を捧げますが、神様の目にそれは海辺で遊ぶ子供のようなのでしょう。このイメージには幸福感があります。神様の大きさは何ものにも脅かされないという安心感です。科学者の目が子供のようにキラキラしているのは、超越的な存在を実感しているからではないでしょうか。私たちクリスチャンも祈りや聖書や人生から何かを発見した時、まさにきれいな小石や貝殻を見つけたような喜びがあります。この喜びは、神様の一部に触れた喜びであると同時に無限の神様は決して知り尽くされることはないという安心感に裏打ちされた喜びでもあると思います。

(春風学寮(無教会学生寮)寮母)

 リストマーク行き詰まっても大丈夫

                      K.T

 生きかたを変える、聖書の言葉の本を読んで残っている言葉。

 

あなたの道を主に委ねよ。

 主に信頼せよ。

 主が成し遂げてくださる。

 神を愛する人々、すなわち、

 神のご計画に従って召された人々のためには、

 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、

 私たちは知っています。

 いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について感謝しなさい。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

 

 私たちの罪の為に、十字架につけられ、復活されたイエス様は、今も生きて、働かれる。野の花、谷や川のせせらぎ、雲、澄み切った青空。大きな月、キラキラ輝く星、すべて創造された神様の聖霊が心に注がれ、どんな小さな事にも感謝し、喜びを受け、祈り、笑顔で御国へと進んで行けますように祈ります。

 リストマーク星や野の花を見て

                       K.K

 わたしは、吉村先生に導かれて、天空の星や野の花にとても関心を持つようになりました。

 そして、見れば見るほど、神様が直接御手を触れられたものは何の穢れもないことが実感させられます。

 今の時期は早朝の東の空に金星(明けの明星)が見えます。

是非、朝1番のディボーションの時に眺めてみてください。(*

 流れ星もよく見せていただけます。ハレルヤ!  (三重)

 

* 編者注) この「野の花」文集が届く一月中旬には、残念なことに、明けの明星としての金星は、朝七時ころに東の空に見え始めるのですが、明るくなりつつあり、ビルなどにも妨げられて見るのは難しい状況となっています。

 リストマークそれをここに持って来なさい

                       K.N

 アシュラムの聖書教室でマタイ14の13~21「5千人に食べ物を与える」の所を読みました。祈りと讃美に続いて15分間聖書をじっくり読む時が与えられます。

 そしてそこから聞き取った事を共有します。

 私は15節の「夕暮れになったので、もう時間もたちました、群衆を解散させてください。

 そうすれば自分で村に食べ物を買いに行くでしょう。」弟子たちは群衆が自分で買いに行くでしょうと言いました、「自分で」この言葉が自己責任や自助という言葉をよく耳にしますが、何か、弟子たちの言葉がわたしには冷たく聞こえました。それに対してイエス様は「行かせることはない。あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになりました。本当にきっぱりとした響きで私に迫ってきました。行かせることはない、あなたが与えなさいと。

 すると弟子たちは「ここにはパン5つと魚2ひきしかありません。」弟子たちは「しかありません。」と言いました。パン5つと魚2匹、この貧しいものが何の足しになるのかと、でもここを読んでいると自分もこのわずかなもので何になるのかこれしかないではないかと思っている事にきづかされました。あるものには目がいかず、常に無いことを嘆いているのです。

 私たちがこんなもので何の足しになるのかと思っているものをイエス様は「それをここに持って来なさい」と言われました。私たちがこれだけしかありませんと途方にくれる時イエス様はあなたの持っているものをここに持って来なさいと言われます。

 「そして天を仰いで賛美の祈りを唱え。」私たちの為に賛美の祈りを祈って下さるのです。そうするとすべての人が満腹した、残りのパン屑を集めると、十二の籠一杯になった。あふれるばかりの豊さです。私たちも持ってるものを差し出すときそれがいかに貧しいものであったとしてもイエス様は祝福の祈りをもって溢れるばかりに豊かにして下さる。

 ルカ6の38「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量りかえされるからである。」とあります、このふところに入れてもらえるという所が私には喜びで満たしてくださるという風に思えました。

 クリスマスを迎えるにあたり、「あなたがたが彼らに与えなさい」「それをここに持って来なさい」と言われるイエス様のお言葉をしっかりと覚えたいと思います。イエス様は私たちに神様との和解の道を開くために全てを与えて下さったのです。   (介護福祉士)

 リストマーク 聖句

                       K.M

「主はわたしの力、わたしの盾

わたしの心は主に依り頼みます。

主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。

歌をささげて感謝いたします。」(詩編28の7)

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5の1618)  

                    (徳島市)

 リストマーク恐れるな

                                           G.K

  昨年のクリスマスの頃に発生した新型コロナウイルスにはあっという間に世界中に広がり、四月のイースターの頃には日本も全国に緊急事態宣言が出されるに至りました。

 そのの後もマスクを常に持ち歩き、人との密接を避ける生活が日常となりました。

  短い人生の中で千年に一度とも言われる感染症に出会ったということはやはり意味があると思います。

 神様の御心はわかりませんが確かなことはイエス様は今も私たち一人一人のそばにいて「恐れるな、あなたがたは心を騒がしてはならない。神を信じ、また わたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)と語りかけて下さっています。

 闇の中で恐れ震えている私たちのところへ天から下って来てくださった神の子 イエス・キリストのことをコロナ禍の中の今 改めて思います。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ 1の5

 唯一の真の光であり、今も生きて働いておられるイエス様のことを覚え、感染の一日も早い収束と、生活で困窮している方々が助けられ、守られますようお祈りします。(徳島市)

 リストマーク徳島聖書キリスト集会にて感あり

                                           F.Y

 

賛美聖書神自存      聖書を賛美すれば、神おのずから存す

偏無教会索天門       偏に無教会は天門を索める

霊風到処祈被祷       霊風 到る処 祈り、祷らる

何不救此煩悩魂       何ぞ この煩悩の魂を救わざらん

(編者注)船井兄は、施設で車いす生活をしておられ、90歳を越えていますが、月に二回ほどは、施設外の漢詩の学びに行っているとのこと。宗教関係の漢詩は仏教や神道関係のものはあっても、キリスト教のものはないので作られたとのことです。

 ここにあげられた漢詩について、 少し編者が以下にコメント、感想を付けておきます。

 …神の言葉たる聖書を重んじ、賛美するときには、神は自然とそこにいてくださる。キリストご自身がロゴスー神の言葉とも言われているからであり、御言葉を賛美することは、すなわちキリストを賛美することになる。

 無教会は、天への門ー神の国への門と、そこから続く御国への道を、形式や儀式的なことでなく、霊と真実を尽くして求めていこうとする。イエスは、狭き門から入れ、と言われた。

 聖霊の風をうけるとき、人は自ずから祈り、祈られるようになる。 真実な祈りこそは愛であるゆえ、イエスが、互いに愛し合えと言われたが聖霊によってそのような道が開けていく。

 聖霊ーすなわち復活したキリストは、信じる人をこの世の悩み苦しみから必ずや救い出してくださる。

 

 

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「ことば」 から

 

〇泉のような祈り

 

彼は全く打ちのめされたのではなかった。

彼の堅固な心が彼を支えた。

そして絶えることのない祈りが

彼の魂をいのちあるものとした。

その祈りは、心の内部の

いのちの源から湧きだしてくるものであったし、

さらにそれは辛い世の中をも

つらぬき溢れてやまない祈りであった。

それは、あたかも海のただ中に湧き出る

真清水の泉のようであった。

                  (「イノック・アーデン」795800行 テニソン作)

He was not all unhappy.

His resolve

Upbore him,and firm faith, and evermore

Prayer from a living source within the will,

And beating up thro' all the bitter world,

Like fountains of sweet water in the see,

Kept him a living soul.

 

○この詩は、イギリスの代表的詩人の一人であるテニソン(1809年~1892)の九百行を越える長編の物語詩の一部。私は、この詩を物語として訳された文を中学一年のころに読んでとても印象に残っていた。

 その十年ほど後にキリスト者となって、テニソンの「イン・メモリアム」 という長編詩を知った。その巻頭には、「力ある神の子、永遠の愛…」とあり、そのあとには、親友の急死を悼む驚くべき長編の詩が続いている。

 次頁に引用したのは、その巻頭の部分。

 

 Strong Son of God, immortal Love,

Whom we, that have not seen thy face,

By faith, and faith alone, embrace,

Believing where we cannot prove;

 

力に満ちた神の子、永遠の愛、

我らはあなたのみ顔を見たことはない。

信仰によって、ただ信仰によってあなたにすがる。

(この世においては論理的な)証明はできないが、

ただ信じつづけていく。

 

 この冒頭の詩句は、讃美歌二七五に次のような訳文で用いられている。

 

…つよき神の子 朽ちぬ愛よ 

われらは君を 見るをえねど 

見るにもまして いとさやかに 

信仰によりて 君をあおぐ

 

 

〇あの青い空へ

 

あの碧蒼(*)な空へ

帰れるのだと思ったら

今日もほんとうに

いい一日だった

 

私から何もかも

取り上げてしまわれた

神様はいい方

神様ご自身を下さった!

 

もうすぐ

あの雲のように

自由になれるのね

ああ お父様

ありがとう!

 

*)碧(へき)、蒼(そう)いずれも、深く青い色。

(「祈の友」信仰詩集 一八〇頁より 野村伊都子の詩 一九五四年静岡市 三一書店刊)

 

○深く澄んだ青い空、白い雲、それはこのような死が近いと思われるほどの苦しみの中にある者にも、神の国へと魂を引き寄せるものとなる。そのような青い空や雲こそは神のお心の一端を表しているものであるから。

・この詩の著者である、野村伊都子は、若くして腎臓結核となり、苦しみにさいなまれたが、この詩もそこから生み出された詩。

 野村の詩文はとくに戦前に亡国の病として恐れられ、多数が死んでいった結核で苦しむ人たちを力づけた。作家の三浦綾子もその一人で、次のように書いている。

「世には血のしたたるような本がある。私が十三年の療養中によんだ『静かなる焔』はそのような本であった。言語に絶する腎臓結核の苦しみ、その苦しみと戦うキリスト者野村伊都子さんの生々しい記録―。当時、この一冊に奮い立たされた療養者のいかに多かったことか。」

 

 

〇神の国への旅

 

 神に向かって旅を続ける人は、だれでも、一つの始まりから新しい始まりへと歩む。

あなたは、勇気を出して、自分にこう言い続けよ。

「もう一度始めよ。失望や落胆を置き去れ。おまえの魂を生かすのだ!」(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 一月一日の項より。)(*

 

○私たちは日毎の生活のなかで、自分の病気や職場などでの人間関係、家族の問題や老年による孤独等々によってしばしば苦しみ、その重荷に意気消沈してしまう。

 しかし、そこから全能かつ愛の神を仰ぐと、私たちの前には、常に新しい道が続いているのを示される。

 こうした自らを励まし、新しい始まりへと立ち上がろうとする心は詩編にも見られる。

 

…なぜうなだれるのか、わが魂よ

なぜうめくのか。

神を待ち望め。

私はなお、告白しよう

「御顔こそ、わが救い」と。(詩編四二・11より)

 

*)ロジェは、テゼ共同体(修道会)の創始者。彼はスイスの改革派(プロテスタント)の牧師であったが、教派を超えた和解を生きる共同体への願いを持っていた。彼は一九四〇年にフランスの村テゼに住み始め、一日三回の祈りと労働の生活を始めた。その後プロテスタント教会の出身者が加わり、一九四九年にテゼ共同体 が始まった。まず迫害され苦難のただなかにあったユダヤ人難民をかくまい、孤児たちを迎え入れた。しだいに彼のまわりにはさまざまの人たちが集まってきた。ヨーロッパでは毎年一〇万人規模の大会が開かれるようになっている。讃美歌21には、テゼ共同体で生み出された讃美が十五曲も取り入れられている。そのうち、「グローリア」(38番)「共にいてください」(89番)などは私たちの集会でもよく用いてきた。

 リストマークあとがき

 

 今年の「野の花」も、多くの方々の投稿、そして文集担当の方々が、冊子となるまでの御愛労によって発行できますことを感謝です

 神は、その全能ゆえに、砂漠のような荒れた地、渇ききった大地においても、そこに水を流し、うるおして花を咲かせることができます。

 この新型コロナウイルスによって渇き苦しむ魂に、荒れたこの世界にも、主がそこにいのちの水を各地で新たに流してくださることを祈り願っています。

 

…荒れ野よ、 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。(イザヤ 35章より)

 

…あなた方は、神に立ち帰って、

静まっているならば救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある。(イザヤ 3015

 リストマーク