野の花
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「野の花」は徳島聖書キリスト集会の文集です。
2007
(2007年1月15日発行)
「野の花」 第20
素面には (表紙正面にぶどうの絵があります)

カラタチバナ


カラタチバナ
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苦難から救って下さる神

この苦しむ者は叫んだ。主はその声を聞かれた。
そして彼のあらゆる苦しみから救われた。
主の使いは、彼のまわりに陣をしいて、主を畏れる者を助けられた。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。…
主に求める人には、良いものに欠けることがない。

(旧約聖書・詩編34711より)

This afflicted one called, and The Lord heard him, and saved him out of all his troubles.The angel of the LORD encamps around those who fear him, and delivers them.
Taste and see that the LORD is good; blessed is the man who takes refuge in him.
Those who seek the LORD lack no good thing.

  はじめに
            吉村 孝雄

この一年ほどは、とくに憲法や教育基本法の問題、そして核兵器の問題が繰り返し現れた。このような政治的、社会的な問題が迫ってくるとき、私たちは何に考え方の基礎を求めるのかが、いっそう必要になる。
主はわが岩、といった表現が、聖書にはよくみられる。

主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ。
      (詩編二八・1

主のほかに神はない。
神のほかに我らの岩はない。
      (詩編一八・32

神はこのように岩にたとえられているが、他方では、親鳥がひなをその翼の下に呼び集めて守るという愛にあふれた存在であること、ごくわずかな変化も見逃さないで瞳を守るように私たちを守って下さるとも記されている。

神よ、慈しみはいかに貴いことか。
 あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ…
     (詩編三六・8

現代のように無数の情報が入り乱れている状況において、もし私たちがしっかりとした基盤の上に立っていなければ、それらに絶えず揺り動かされそうになるであろう。
私たちはいかなる時代の変化にも動かされてない不動の真理、岩を知らされている。しかし、そこに立ち続けようとするときにしばしば痛みあり、厳しさに直面することもある。それゆえにこそ、そのような弱い私たちを包み込む、み翼の陰に置いていただき、そこに主の導きを受けつつ、立ち続けたいと願う。
区切り線

リストマーク内容・もくじリストマーク(数字は紙面でのページを表しています。)

リストマーク#御名によりて

4

リストマークみ言葉から

5

リストマークヒルティ「眠られぬ夜のために」第一部より

6

リストマーク明るい朝

リストマーク揺るがないわたしたちの神様

7

リストマーク聖書の言葉から

9

リストマーク聖書の言葉から

9

リストマーク「初めに言があった」

9

リストマーク牛乳の色

10

リストマーク神の恵み

10

リストマーク「千の風になって」

11

リストマーク聖句抜粋

12

リストマーク一言

12

リストマークM/S姉み国へ

12

リストマークいつくしみ深き友なるイエス

13

リストマーク伝道者との出会い

14

リストマーク眉山にて

14

リストマークねがい

15

リストマーク「信ずる」ということ

15

リストマーク「ありがとう」 手話讃美に寄せて

16

リストマーク唯一の道

17

リストマーク感想

17

リストマーク波風が静まる・主が一歩一歩を

18

リストマーク金持ちの青年

19

リストマーク真理の御霊を求めて

21

リストマーク絵に見る「放蕩息子」

21

リストマークあまつましみず・いのちのさと新体系

23

リストマーク信仰の道

25

リストマーク心に残るみことば

26

リストマークマザー・テレサ カルカッタ日記より

26

リストマークマザー・テレサの祈り

26

リストマーク「私を祝福してください」

27

リストマーク「主の山に備えあり」創世記22章より

28

リストマーク試練の夏

30

リストマーク信仰所感…秋に思う

30

リストマーク生きた石

31

リストマーク世の光とは

31

リストマーク

32

リストマーク高槻から

33

リストマーク私と山と神様

34

リストマーク病の床にも

35

リストマークアッシジのフランシスコの平和の祈りの歌

35

リストマークみ言葉に示されて

36

リストマーク海陽町讃美堂集会に参加出来て

36

リストマーク最近のいじめとそれによる自殺について思うこと

37

リストマーク「神は光である」

38

リストマーク#一年を振り返って

39

リストマーク秋風にさそわれ

40

リストマーク信仰により、神の真実によって

40

リストマーク市民農園

40

リストマーク心に残る聖句

41

リストマーク心に残ったみ言葉と讃美歌

42

リストマーク二〇〇六年を振り返って

42

リストマーク主に聞き従う

43

リストマーク祈りと賛美がわかってきた

43

リストマーク主が導いてくださる

44

リストマークみ言葉の力に支えられて

45

リストマークみ言葉から

46

リストマーク心に残った聖句

47

リストマーク私にとっての聖書

47

リストマーク子供を授けられて

48

リストマーク#この一年のニュースから

49

リストマーク讃美歌121番によって

49

リストマーク愛されて生きる幸せ

50

リストマーク小さき者たちも共に救われるように

51

リストマーク讃美はいのち

51

リストマーク不思議なこと

53

リストマーク心に残るみ言葉

54

リストマーク神の愛

54

リストマーク祈り

55

リストマーク神にあっての平和

56

リストマーク弱さについて

57

リストマーク「悔い改めねば皆滅びる」

58

リストマーク信仰とは信じること(その2)

59

リストマーク伝道集会での学び

60

リストマークあとがき

リストマーク御名によりて     N.S

 「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」    (使徒四・10-12

 今年もまた「野の花」文集の季節が巡ってまいりました。この一年間も相変わらず日本にも世界にも、大きな困難や災害が次々と起こりましたが、私にはそんな大問題を考える力もなく、自分の小さい日常の事ばかりに、振り回されている事を恥ずかしく思います。そして大変おこがましいのですが、私にとっても昨年は思いもよらぬ苦しい事が降りかかりました。ふと目についたヨブ記の次の言葉が私の気持ちでした。
  
    『私は幸いを望んだのに、災いが来た。
   光を待っていたのに、闇が来た。
   わたしの胸は沸きかえり 静まろうとしない。
   苦しみの日々が私に襲いかかっている。
   光を見ることなく、嘆きつつ歩き
   人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。』
                (ヨブ記 三十・26-28
 
 もちろん、私の苦しみなどはヨブの苦難の万分の一にも及びませんが、それでも当事者にとっては目の前が真っ暗になり、なすすべもなく、打ちひしがれてしまいます。何時も集会で信仰を学び、祈ることを教えられ、恵みに満ちた聖書の御言葉を与えられていながら、一寸、何かが起こると取り乱して、正しい判断も出来ない自分に絶望してしまいます。家族も皆信仰に程遠く、私自身も、とても祈るとはいえない、お粗末な状態の中で次々に起こる困難を、どうにか過ぎ越して来た事が不思議でなりません。
 そうして、思い当たるのは吉村兄を始めとして、集会の多くの主にある兄弟姉妹の絶える間のない、祈りの波の有難さと心強さです。この全ての人のために捧げられる祈りを、神様がお聞き届けくださったと思うより他には考えられません。我が家の問題はまだ解決はしませんが、神様の御憐れみと、皆様のお祈りに支えられて、一日一日を新しい命の中に、生かされております幸いを心より感謝します。          (主婦)

リストマークみ言葉から                  N.N
 
 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
 だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
 わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
 彼もまたわたしと食を共にするであろう。
                   (黙示録三・20

 イエス様は戸の中で座っておられるのではない。戸の中にいるのは私たちなのである。イエス様は戸の外に立って私たちが心の扉を開けてイエス様を迎え入れるのを、いつでも待っていてくださっている。「我に来よ」(讃美歌五一七)と。イエス様の「小さきみ声」(讃美歌三一三)を聴いて主をお迎えすればすぐにでも主は私たちの心に入って来てくださるのだ。
 私が「主よ、来てください」と呼んだとき、主はすぐに来てくださった。その時、風で雲がすっかり払われた後の秋の空のように、悶々としていたものがふっと消え去った。
 なんと言う平安。なんと言う喜び。
 
 わたしはみ言葉を与えられて、
 それを食べました。
 み言葉は、わたしに喜びとなり、
 心の楽しみとなりました。
                 (エレミヤ十五・16

 聖書は人生の最高の教科書。道徳を学ぶのは聖書で足りる。なぜ人を殺してはいけないのか。なぜ姦淫してはいけないのか。
人は何のために生きるのか。 みんな答えが書いてある。聖書から答えを求めなければ、親も学校の教師も本当の答えを子供に教えられない。その時ふさわしいみ言葉が与えられ、み言葉が自分のものにならなければ食べたことにはならない。み言葉は聞くだけではなく「食べる」ものなのだ。
 主よ、今日もみ言葉を下さい。 

 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く。
 神がその声を出されると地は溶ける。
 万軍の主はわれらと共におられる。
 ヤコブの神はわれらの避けどころである。(詩篇四十六・6)

 もしわが国が外国に攻撃されたら、と国は騒ぎ立っている。神から与えられた平和憲法を捨て去ろうと国は揺れ動いている。
 いかなる事態になっても、「主は我らと共におられる」ことを本気で信じなければ、不安で仕方がなくなる。半信半疑では信仰ではない。
 信仰とは確信である。(ヘブル十一・1)
 最後まで、主よ、共にいて確信にとどまらせてください。
                   (多摩集会 主婦)

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リストマークヒルティ「眠られぬ夜のために」第一部より         N.T

   三月十三日の内容より 
 どんな幸福な生活にも数多く起こる試練や心労を、堪えがたい重荷だと考えるか、それとも自分の生活原則を実行するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのである。この後の方の見方はもちろん信仰があって初めてできることであり、またそれが信仰の最も明らかな利益の一つでもある。

希望 
 十字架は重いが、ふしぎなことに、
 おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
 初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
 この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。
 
おまえの力は小さくても
 おまえが帰依した主の力は偉大だ。
 おまえの星はくらい夜空に輝きわたり、
 今日は死に…明日はいのちによみがえる。

リストマーク
リストマーク明るい朝          N.H

当たり前のように思っているけれど
見えるって、聞こえるって 歩けるって
笑えるって 泣けるって
すごいことなんだ。
当たり前のように思っているけれど
山があるって 空があるって 海があるって
これは奇蹟なのだ
山には木が生えて 野原には花が咲いて
空は青くて 雲があって 真っ赤な夕焼けもあって 
夜には月や星が光る

なんという不思議なところに生まれてきたのだろう
鳥は空を飛び、そして美しく囀る
犬やネコは人間の友達
神様が造られたものをご覧になると「はなはだ良かった」とおっしゃったから
これ以上の美しい完全な世界はないのだ。

目がどうか美しいものを見ていけますように
耳がどうか正しいものを聴き取っていけますように
心がどうか清いものを受け取っていけますように

一方では病気で苦しんでいる人達がいる
戦争で傷つけられた人達や家族を殺された人
核の汚染によってたくさんの人命が損なわれている
子供や女性、弱い人達が犠牲になっている
飢えで苦しむ多くの人達もいる
人間の罪がむき出しになっている世界
イエス様が人類の罪を負われたように
その人達も人類の罪を負って苦しんでいる。

この世の事はあまりにも深くて、
神様のご意志やご計画は
あまりにも高くて解きようがないけれど
愛なる神様がされることを信頼してお任せしよう。
私達にできる事はイエス様を信じて
ただ信じて祈ること。委ねること。
罪の赦しを受けること。

今、泣いている人、戦争で傷めつけられている人、
飢えている人、病気の人、その人達は幸いであると。
イエス様はその人達の友、その人達の救い主。

きっと来る、その朝
美しい事が美しい事として通じる世界が
当たり前のこととして正しい事が受け入れられる世界が
だれも歪んでものを見なくても
まっすぐなことがそのままが通る世界が。
流した涙が報われる日が。
痛みや苦しみ、悲しみが慰められる日が。

神様が造られたこの世界ははなはだ良かったと言われたので
この地球は素晴らしい。
神様がお望みの事が私達の中で成し遂げられていく
そんな日がきっと来る
明るい新しい朝が。
           (在宅支援ミルトス・ケアマネージャー)

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リストマーク揺るがないわたしたちの神様           N.Y

 世界中の至る所で、これまでの核実験や戦争の後遺症が静かに続いていることを最近知った。
 アメリカ軍が湾岸戦争で使用した劣化ウラン弾は、湾岸戦争のことなどあまり話題にされなくなった今日も放射能を放出し、イラクの人々の健康を蝕み続けている。
 劣化ウランは核兵器や原発用の燃料を取るために天然のウランを濃縮した残りカスで、廃棄に莫大な費用がかかる。それを兵器としてミサイルに利用し他国に打ち込む。イラクには今も劣化ウラン弾や破壊された戦車が放置され、放射能を出し続けている。住民には癌や奇形児などが急激に増えており、子供たちが沢山死んでいく。ウランの放射能半減期は四十五億年であることから、イラク、クウェートの人々は今後永久に核の被害を受け続けると言われている。
 テレビで「劣化ウラン弾」という言葉を聴いたことはあったが、こんなに恐ろしいものであることは知らなかった。国のレベルで戦争が終わっても、核の被害が続く限り(つまり永久に)その国の人々の戦争はずっと終わらないのだ。
 北朝鮮が自国で核実験を行ったことは世界中の非難を浴びたが、アメリカ等が恐ろしい核のゴミを他国に投げ込んでいることはあまり問題として扱われていない。しかし神様にまでその罪を隠すことができるだろうか。
 わたしは森住卓(もりずみたかし)氏という写真家の講演でこれらのことを知った。森住氏は、世界中の核兵器や核実験の後遺症について、一番弱い人の立場にたって取材を続けているジャーナリストだ。このような方の活躍によって、わたしたちは戦争の真の姿を知ることが出来る。テレビのニュースの切り口で見ることだけが本当の世界ではないと知らされる。
 しかし、このように世界が至る所で核に傷つき、修復しがたい汚染を受けており、人々も悲惨な状況であることを知って、わたしのような一般の個人に何ができるだろう。途方にくれてしまう。憲法九条もどんなに守りたく思っても、もしや守りきることができないのでは、と考えてしまうとやりきれなくなってくる。だから、わたしが知った事実、戦争の本当の恐ろしさを、一人でも多くの方々にも伝えたいと思った。
 この講演の翌日、徳島聖書キリスト集会では毎週土曜日の「植物と手話の学び」があり参加した。
そこでは野山の草花を観察し、特徴などを吉村さんに説明していただいたり、スケッチしたりする。この日の草はホラシノブやイヌタデ、センダングサ。本当に雑草と言われる草々だ。けれど、わたしはその日、くっつき虫と今まで呼んでいた「センダングサ」にとても惹かれた。ルーペを通して見ると色はまるでピーターパンの衣装のようで、緑の茎の上が、茶色、その上に黄緑のくっつくためのカギがあって、絶妙な色のバランスがとても美しかった。本当に美しいのだ。わたしはそこに、神様を見た。神様の創造の美しさ、足元の雑草に「わたしたちを愛している」というメッセージを込めて、見守ってくださっている御心を感じた。その時「神様は揺らがない。しっかりした岩なのだ。どんなに地球が汚染されてしまっても、悲惨な状況があっても、神様は揺らがない。そして地球のとても大きな問題を見つめると同時に、わたしの小さな問題も、見逃さずに見つめてくださる方だ。」と思うことが出来た。色々な問題があったら、それをしっかり見つめる勇気を持ちたい。けれど、足元を見て溺れるようではありたくない。溺れそうになってもイエス様に叫びたい。そして全能の神様が最後まで私たちを導かれることを、ずっとずっと信じて生きたい。

 「被造物は虚無に服していますが、それは自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から開放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ八・18
          (在宅支援ミルトス・ケアマネージャー)

リストマーク聖書の言葉から             N.H

「何の権威によって、これらの事をするのです。」
                 (ルカ二十・2)
                        (大工)

リストマーク聖書の言葉から        N.K

「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」        (コロサイ 三・14)                   (主婦)

リストマーク「初めに言があった」   N.K

  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
                  (ヨハネ一・1ー5)
 
 十月の高槻集会でヨハネ伝一章の一節から五節を学んだ。「言」は単に言葉ではなく「キリスト」を指している。「言」に「キリスト」をあてはめて読めば心の中にすーっと落ちてくる。この短い箇所の中にキリスト教の真髄がある。学ぶたびに聖書というのは、み言葉というのは、新しく聖霊に満ち満ちて私たちに天からの啓示を届けてくれる。天地創造の初めよりキリストは臨在しすべてを創造された。それは命そのものであり光であった。何という祝福に満ちたみ言葉だろうか。そのような神が肉となり、人間となり、しかもみすぼらしく人に侮られ、人に捨てられ地獄の底まで降りて来られた。そして私たちの罪を代わって担ってくださった。イエスの中に神のすべてがある。ヨハネ伝はイエスの神性を語る難しい福音書でもあるが、どのみ言葉をみても深い愛と信仰に満ちた書物であると思う。
 最近とみに自分のこれまでの罪を思い知らされることが多く秋の夕陽のなかで散歩をしている時でも、台所で野菜を刻んでいる時でも、自分の罪を思いポロポロと涙が出てしまうことがある。このような自分の罪を一身に担って代わりに死んでくださったイエス様を思う。
 更けゆく秋の夜空の闇の中で星が光り輝いている。「闇は光に勝たなかった。」どんなに弱く罪を繰り返す私たちであってもどんなに闇のような世の中にあっても、キリスト・イエスは変わらずに罪をそのつどつどに担い、光を照らし続けてくれる。戸を叩き続けてくれる。この恵みを晩秋の静かな自然のなかでしみじみと思うこの頃である。       (小学校教員)

リストマーク牛乳の色              N.Y

 あるとき、目の不自由な人が、目の見える人にたずねました。
「牛乳ってどんな色をしているのですか?」
「牛乳はちょうど白紙のような色です」
と目の見える人が言いました。
「では、そのいろは紙のようにさわるとサラサラしますか?」と聞き直しました。
すると目の見える人は答えました。
「いろそれは白い麦粉のように白いんです」
また、たずねました。
「では麦粉のようにやわらかくて、ポロポロしていますね」
「いや、その色はただ白いので、ちょうどうさぎのような白さです」
目の見える人がこう言って聞かせますと、その人はまた問い返しました。
「いろ、白い色って言うのはちょうど雪のようなのです」
「ははあ、それでは雪のように冷たいのですね」
その人はまだこう言っているのです。こうして、いくら例をあげて話しても、その人には乳の白いということがどんなものかわかりませんでした。
       トルストイ童話集より 「牛乳の色」

 キリストがわからない人の間にわたしは立たされていると感じることがある。わたしは少しでもキリストのこと伝える役目を果たさなければならない。言葉で、行為や祈りで伝えることができる。相手が理解できるように努力したり、理解できたか気になったりしてしまわずに、結果はキリストに任せたい。

キリストの使者たちよ
砂漠にも荒れ野にも、さかまく荒海にも、
信仰をもってたくましく、
拓きゆけ、主の道を。
(讃美歌21 キリストの使者たちよ より 二番抜粋)

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リストマーク神の恵み         N.H

 我が家には九才の雌のビーグルとその子の三才の雄犬がいる。寝るときは仲良く並んでくっついている。けんかをする事も無い。仲良しである事この上ない。世の中には親子でけんかばかりしている犬もいるそうだ。人間の世界を髣髴とさせる。家内はまるで私と母の様だという。私も母とはけんかをした記憶は無い。いつも仲良しだった。
 母ビーグルは六才の時、五匹の子供を生んだ。四匹が雌で、一匹が雄。四匹の雌はそれぞれに、可愛がられ方を知っていて、よそに貰われていったが、みんな可愛がられて幸せにしているようだ。時々帰って来て母ビーグルや兄弟とじゃれあって喜ぶ。我が家に残った雄犬は他の四匹と比べて愛想が無かった。しかると隅のほうへ逃げてしまう気の弱い犬だった。子供のときの個性は大きくなっても引き継いで持っているようだ。この雄の仔犬を、もしよそにあげていたら、きっと可愛がられてはいないだろうと思う。この我が家に残った仔犬はもっと幼い頃、母ビーグルを病気で病院に連れて行くというとき、一人にされるのが辛くて、ほんとに悲しそうに長い間泣いていたものだ。こんな甘ちゃんだけれども、本当にやさしい、気立てのいい犬だ。最近はだいぶ強くなって母親ばなれをしてきた。この犬が我が家に残って母犬と過ごせた事はこの子にとって本当によかったと思う。体は母犬よりも大きくなったのに寄り添って仲良く寝ている姿を見ると、神の恵みを感じる。
 人間に対してだけでなく、神様は創造された獣たちにも、そのみ恵を賜るのだと感じさせられる。
   
       (会社員)

リストマーク「千の風になって」              N.T

つい最近、テレビ放送された番組で、「千の風になって」という曲を聞きました。その由来を図書館で調べました。
 三十年前、著名な方々の葬儀で朗読。
一九九五年、アイルランド共和軍のテロで亡くなった二十四歳の青年が、「もし僕が死んだら、開封してください。」と、両親に託した封筒の中にこの詩が残されていた。葬儀の時、父親がこの詩を朗読した。
 二〇〇二年九月十一日
前年の「九・十一同時多発テロ」で亡くなった父親を偲んで十一歳の少女が追悼集会で朗読。
二〇〇四年、NHK「ラジオ深夜便、こころの時代」で、二夜にわたり新井満氏が出演。「千の風になって」日本語訳、曲を放送。全国から感動の声が殺到する。
私の友人の一人、これを聴いたそうです。早速CDを求めました。 (英語原詩を引用しておきます)
  A thousand winds
 Author unknown
 Do not stand at my grave and weep
 I am not there I do not sleep
 I am a thousand winds that blow
 I am the diamond glints on snow

リストマーク聖句抜粋             H.T

 「主は、力強い 御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。」    (出エジプト十三・14
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」   (ヨハネ十一・25
 「力の限り、見張って、あなたの心を守れ、いのちの泉はこれからわく。」       (箴言四・23
 「希望をもって喜び、苦難に耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」             (ローマ十二・12
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」
                   (ヨハネ十四・6)

リストマーク一言           B.T

 どこまでいっても神様の愛は一つ、どんな者にも与えて下さる神様に喜びと感謝を捧げます。
 
徳島市大道にある大久保病院に長らく入院されていたB.Tさんは十二月二十六日召されました。この「一言」が最後の文章となりました。姉妹がわたしたちのために捧げて下さった多くの祈り、そして板東さんと共にいて下さる主に感謝します。

リストマークM.S姉み国へ            F.M

 二〇〇六年七月二十六日朝、高知県佐川町のM.T姉が、八十一年のご生涯を終えられ、み国へ旅立たれました。
 M姉と私の出会いは、十数年前、高知無教会の新年集会で親しくお声をかけて下さったのが、始まりです。
 「祈の友」誌への投稿依頼を受けて、彼女の信仰歴を知ることとなり、生前もう少しいろいろお聞きしておけばよかった、あんなことも、こんなこともと思うことばかりです。F姉にたくさんのことを教えていただきました。
F姉も、東京のH姉に、東京での姉妹のことを教えられ、空白の期間が埋められ、感謝とのお返事。T姉、N姉からも、「近畿集会を控えていて、告別式には出席できませんが、お祈りしています。」とのメールが届き、「祈りの輪」も、こうして伝わってゆくものだと、感謝に溢れました。
 姉妹は、御結婚、御出産、女児を授かりますが、小児マヒがあり、治療のため、あちこち病院通いをしているうちに、御自身が結核になり、その後、協議離婚、現在の国立徳島病院に入院、ここで六年間過ごされました。この時、徳島無教会のS.T兄が、伝道に出向かれていて、一九四九年よりは、政池仁先生も来徳の度に、療養所を訪問され、姉妹も主の道への歩みを始められたようです。
 その後、病気も回復され、政池先生の紹介で上京され、H.U姉が経営されているお店で、洋裁をされ、生計を立てられたとか。その間ずっと、政池先生の聖書集会に出席されていたようです。一九九一年、徳島での第五回無教会全国集会には、東京から参加されたそうです。一九九二年に郷里(佐川町)に帰られてからは、加茂教会に所属され、熱心に礼拝を続けられていました。季節の変わり目など、体調を崩され、入退院を繰り返されていました。
 生前、御自分亡き後のこと、献体なども含めて、お葬式の段取りに至るまで、事細かく身内の方に託され、静かに旅立たれたそうです。多くの試練にあわれた御生涯であられたようですが、その時その時において、いつも主のお支え、お導きによって道開かれて、郷里高知で御生涯を終えられたこと、すべて神様のみ旨であったと思います。
 M姉からいただいた、多くの御厚情を神様からの恵みと深く感謝して、いつの日か、再会できますことを祈りつつ讃美いたします。

まもなくかなたの
 流れのそばで
  楽しく会いましょう
   また友達と
神様のそばの
 きれいなきれいな川で
   みんなで集まる日の
     ああなつかしや
         (新聖歌四七五)

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リストマークいつくしみ深き友なるイエス    F.M

高知のM.S姉は、今年七月二六日召天。二七日前夜式、二八日告別式とお嫁さんの金澤慧美様よりお知らせをいただいた。
 高北病院に入院して、酸素吸入が離せないと聞いていたものの、遂に召されたのかと感慨無量。地上が寂しくなり言葉もない。
 思えば長い主にあるお交わりをいただいた。かけがえのない友人であった。今から五〇年前の矢内原忠雄東大総長のご来徳のおり、嘉信読者会が持たれ、療養所から主治医の許可を得てM姉も参加された。その折、三〇名ほどの記念写真のM姉は、ふっくらとして別人に見える。当時、まだストマイはなく、絶対安静ばかりで、自然に太ったと聞いたことがある。その後、上京されて、政池 聖書集会員(現東京聖書集会)となり、高知へ帰省の度に、田宮のS.T氏を訪ねられていた。また、無教会全国集会が徳島市で開催された時も、東京から出席され後日、東京聖書集会の主日礼拝に出席した折、とんできて下さって「徳島ではお世話になりました。」とご挨拶をいただいた。その後、高知へ帰られてからは、東京聖書集会の主日礼拝のテープが送られてきており、特別礼拝(たとえば、政池ユキエ姉の告別式等 )のテープはダビングをして私に郵送してくださっていた。お元気な間は加茂教会の礼拝にも出席されていると聞いたことがある。
 M姉とは日本友和会、聖書の日本読者会、その他キリスト教関係の名簿に、M.S姉のお名前を見て、いつも嬉しく御名を讃美したことがあった。
 過ぎ越し日々を思い、祈りに祈って七月二八日の告別式に出席することができた。
 金澤慧美様の話によれば、 S姉は告別式のこと他、細々とすべて言い残してくれたので、何もかも順調に運んだよし、大感謝。
 高知県佐川駅の近くの西佐川会館で、キリスト教式の告別式が行われた。一番最初の賛美歌はM.S姉の希望により、「いつくしみ深き」であった。長く厳しいこの世での生涯を思い涙があふれ、私もまた、その賛美歌で送って欲しいと思ったことだった。晴れやかな遺影は、たくさんの生花につつまれ、ひとりひとりが献花をした。告別式のあと、美しく安らかなM姉とお別れをし、献体をされていたので、医学部の車に移されお見送りをしたのであった。
 遺影については後日談がある。
 先年、高知市で日本友和会全国大会がありM.S姉も私も出席を許された。東京聖書集会員の有志の姉妹が、もう一泊されて、M姉を中心に歓談された由。その折りの嬉しそうな写真が遺影となっていた。後日、遺影と同じ写真を、東京聖書集会の吉村薫姉が送ってくださり、とても美しく、嬉しそうなM.S姉に再会ができたのであった。今年、十二月二十日で八二歳の誕生日を迎える予定であったM.S姉、安らかに。ご遺族皆様の上にも主にある御慰めをお祈りして終わりとします。

リストマーク伝道者との出会い           H.S

 二〇〇三年九月に帰国機内でキリスト教の本を読みましたのがきっかけで、徳島聖書キリスト集会に参加させて頂き、吉村さまや集会の方々の、お仲間にさせて頂き、三年目を迎えました。
 その後に今は亡き、清家リツエさまの祈りの言葉を読み、ぜひ一度お会いしたい思いにかられ、二〇〇五年春に宇和島中町教会で、主任牧師をなされていた、Sさまをたずねました。
 教会は改修中でしたが、初対面の私を両の手で、やさしく抱きしめて、良く来られたと祝福してくださり、賛美歌九〇を皆様と歌いました。主と信徒の間に立つ伝道者の方々の御苦労と神さまに忠実に従いつくされる事に、私は心を打たれました。毎日の祈りの中で、益々信仰を磨いて行かねばと思いました。                      (民生委員)

リストマーク眉山にて           H.K

 秋の早朝、運動で眉山に登りました。広い高台に出て下の町々や遠くの山並みを、なんとすばらしい風景かと思って眺めていたとき、主イエスが受けた試みのことを思いだしました。 …サタンが、「これらすべてをあなたにあげよう」と、誘惑してきたことです。
イエス様が四十日四十夜 断食したあとこの世界を見せられ誘惑されたとき、聖書には簡単に「退けサタン」と、書かれているので、イエス様は簡単に誘惑から逃れたと、感じていましたが、そうでなくてとても苦しいことであったのだと思いました。自分にこんなすばらしいものを与えると言われたら、簡単には断れません。とても、勇気が必要だと感じ、イエス様の苦しみと信仰、勇気をはじめて感じ取ることができました。
 この世を見たとき、私も誘惑に負けそうになりましたが、本当の美しい神の世界を思い出しました。
 神様ありがとうございます。イエス様の強さを一層感じ、感動した一日でした。        (主婦)

リストマークねがい        M.K

 今年も徳島聖書キリスト集会よりカレンダーを頂きました。カレンダーの絵は「子どもたちをわがもとにこさしめよ」ヘリッツ・フォンウーデのものです。
 この絵は私の心を静かにとらえました。ああ…イエスさま…イエス様のお膝によりかかる子の肩におかれた右手、女の子の手をむかえて包む左手…ほんとうに、なんて暖かい御手。イエスさまのあたたかさが私に伝わってくる。
 子ども達を通して私に愛を与えて下さっている神様に、感謝です。そして、私の出会う子ども達に、イエスさまの御手のようなあたたかさをお返しすることが出来ますように……。
                     (作業療法士)

リストマーク信ずる」ということ     M.M

 吉村孝雄様の集会から私はたくさんの賜物をいただいております。「野の花」も一七、一八、一九号といただきました。毎回心をうつものがたくさんあります。いずれの文も、福音の喜びと感謝。また祈りに溢れております。この仲間に私も加えてもらっていると思うととてもうれしいです。
 私は最近、塚本虎二「わたしが命のパンである、イエスを信ずるとは、イエスにむしゃぶりつくことである」と「信ずる」ということが分かったような気になりました。
 分かったと思っていることが、何と分かったつもりであっただけのことか、身につまされる思いでした。何度も聖書を読み、お話しを聞く必要があるゆえんです。
          ( 無職 七〇歳 熊本聖書集会)

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リストマーク「ありがとう」 手話讃美に寄せて         M.M

 十月、ふとした私の不注意些細な事が引き金となって、失明になりかねない眼病で眼科通いをしました。集団生活なので感染源にならないために、どうぞ悪い細菌感染でありませんように!右眼を助けるために、薬品過敏症のために使えない薬品を強引に使わざるを得ませんでした。幸い長い間薬を使わなかったのでその分良く効いて思いのほか早く快方に向かい。いろいろ大変でしたが失明には至らずにすみました。
 眼科の主治医をはじめホームの職員の方達主に在る兄弟姉妹の皆様にも、ほっとして頂く事ができましたし有難いことでした。沢山のお祈りお心遣いを感謝しております。
 実は、角膜損傷は今回で三回目なのです。一回目は特に重症でそれこそ失明しないのが不思議なくらいでした。神様はその都度、決断力や優しさ思いやりを持った敏腕の医師を与えてくださり、常に奇跡的と思えるタイミングで良き方に運んで下さったのでした。
 今回は二回目にお世話になった眼科医院に遠いけれど通いました。以前から、白内障の症状もあるし…でも今のままでも見えないわけではないので副作用のためにかえって見えなくなっても困るし、全身悪くなる方が嫌だし自然消滅でいいか…等思っていましたが、ただ、手話讃美だけは見えないと私は学ぶ事が出来なくなるので少しでも長く視力が保てますように!と願い祈っていたのでした。
 「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いた。」(ルカ二二・6162
 私は、大勢の方達からお祈りを頂き、いろいろな形で常に助けて頂くばかり。神様のお心を離れる事が多いのだなあ、ユダでありペトロであり、聖書に登場する悪役を批判の目で見て行き、最後に それはあなたのことだと一撃されます。直ぐに傲慢になる私。でも神様はこんなに愚かで同じ失敗を繰返すその失敗をも赦してくださり祝福に変えてくださいました。
 いつも共にいて最善を成してくださる神様。ピンチをチャンスに変えて豊かに「いのちの水」を注いでくださる神様に「ありがとうございます」と手話で。夜半眠れない時もベッドの中で手話讃美。血圧が不安定な時もDVDの手話讃美を見ていると自然に安定します。「讃美は祈り」だからですね。
 恵まれた環境 優しいスタッフ。各室のネームプレートは、葡萄のイラストで飾られております。室を出入りする度に (ヨハネ一五・1~17)の「イエスはまことのぶどうの木」の箇所を思い出します。
 窓に雪を戴いた富士山を横に、目の前のDVDプレーヤーに映し出される「ありがとう」主に感謝 徳島聖書キリスト集会の皆様のお祈りに合わせて、共に祈りを捧げます。                 (無職)

リストマーク唯一の道          Y.K

 私は道であり、真理であり生命なのです。私を通してでなければ、誰一人父のみもとにくることはありません。
                   (ヨハネ十四・6)
 内村鑑三の言葉に
    我は日本のため
    日本は世界のため
    世界はキリストのため
    而して万物は神のため
があります。
これを読んだとき三行目の「世界はキリストのため」に私は目を瞠(みは)りました。自分との対比、他との対比においてキリストの位置は徐々に高くなっているにせよ、決して絶対的なものではなかったからです。頂上を目指す道はいくつもあると人は言います。日常の暮らしにおいてもつい自分を主にしてしまいます。「そうではないんだ」と内村鑑三は言います。「あーそうなんだ」と私も思い返します。
この繰り返しでキリストが唯一無二の存在となったとき、私は双手を上げてキリストに飛び込んでゆける自由を思います。

リストマーク感想          K.Y

 神が一つであり全てに満ちていることが矛盾で一向にわからなかった。電子が粒子性と波動性を持っていることと同じではと思った。その後「神は光である」というのを思い出し、遠回りしていたことに気づいてショックだった。
 翻訳はいつも問題を含んでいる気がする。日本語の神の語源は決まってないようだが村山七郎の「芽ばえ」「生成」説がいいように思っている。ユダヤの神が「ある」なら日本の神が「なる」なら面白い。山本七平さんは日本人の絶対性の一つになる=自然(じねん)を言われていて、本当のように思うようになった。
 この頃自然や野草の美しさに気づくことが増えた気がする。形と色の多様性・意外性など見ていて飽きない。香りも様々で夏ミカンは絢爛豪華(けんらんごうか)な気分になる。梅には気品を感じる。サザンカはほんわかとしている。ドクダミもイヤだとは思わなくなった。    (農業)

リストマーク波風が静まる            Y.T

 … 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い
望みの港に導かれて行った。
          (詩編一〇七・2830


 私たちの日々の歩みの中において、様々の嵐が吹きつけてくる。「人生の海の嵐」という聖歌にこの詩編は引用され、広く愛唱されてきたが、それはある程度この世を生きてきた人はだれでも、人生の海にあって強い風に吹かれ、大波にのみ込まれそうになったという経験をしてきたからであろう。
いくつになっても、私たちのところに吹き込んでくる荒々しい風、あるいは冷たい風、潤いのない風…がある。そして心の中や、周囲を波立たせるものがある。しかし、そうした風に働きかけ、静めて下さり、それに代わって、真実に求めるものに天の国からの風が吹いてくるようにして下さることは何という大きな恵みであろう。
主が一歩一歩を

人間の心は自分の道を計画する。
しかし、主が人の一歩一歩を備えてくださる。
               (旧約聖書・箴言一六・9
人の一歩一歩を定めるのは主である。   (箴言二〇・24

A man plans his course in his heart ,
but the LORD determines his steps.
A man's steps are directed by the LORD.

 私たちは、常にいろいろと過去から現在、そして将来のことを考える。あるときは、今さらどうすることもできないのに、過去のことをあのようにするのでなかったと反省し、後悔する。そして現在のことについては、いろいろある道のどれを選んだらいいのか、悩まされることがしばしばある。
さらに、将来のことは人間的に考えると自分の個人のこと、まわりのこと、世界のことなど、不安や心配になることもいくらでも思い浮かぶ。
そうした不安や心配のただなかに、主は道を開いて下さった。過去のことは主を仰ぐだけで赦されることを信じ、現在の私たちに差し伸べられた導きの御手にすがること、そして将来のさまざまのことは最終的に主が最善になして下さる、と信じることによって私たちは沈み込んでいくことから救われる。そうでなかったら、この世はいかに重いものとなることだろうか。
私たちは当然のことながら、いろいろと考え、計画する。しかし、それはしばしば狭い自分中心の考えでしかない。広い考えのようでも、せいぜいそれは人間の思索、人々の話し合いや努力、交流といった人間中心の考えによっている。それは必要なことではあるが、そうしたことだけでは、魂の平安や力というのは訪れない。
私たちのそうした一切のことの背後にあって、神は最善の視点から、私たちの一歩一歩を備え、導いて下さることを信じ得て初めて私たちの心に平安が与えられる。                                   (伝道)

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リストマーク金持ちの青年          Y.E

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に金持ちの青年の話があります。この青年の話は私には何故か同情の思いを抱かせるものでした。
 聖書には本人のまた家族、部下のいろいろな病を癒された人達、イエスさまに自分の持てるすべてを捧げる女性、イエスさまの話される言葉に聴き入る女性、みなその深い信仰が輝くような、読むわたし達に感動を与え、弱い信仰を鼓舞してくれるような場面がたくさんあります。
これらの記事に対してこの青年の話は悲しみを感じます。
 この青年はたくさんの財産を持っていました。が、心に虚しさを感じていたのでしょう。
「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいのですか。」と、尋ねます。「掟は子供の時から守っています。」と彼は言います。イエスさまは「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい……。」と言われます。青年は悲しみながら立ち去ったとあります。
 この青年はその後どのような人生を送ったのだろうかと度々思います。ある時、ふとアリマタヤのヨセフがこの青年ではないのだろうかと思ったのです。そのように書いてある本を読んだこともありません。聖書の研究からは決して出てこない結論だと思うのですが、個人的にそうであって欲しいと希うのです。ルカ伝ではこの青年のことを議員と書いてあります。
 この青年の話ではマルコ伝の記事が私は一番好きです。旅に出ようとされているイエスに走り寄って、ひざまずいて尋ねた。と記しています。律法は子供の時から守ってきましたと言う青年に、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われたと書いています。こうした言葉の中に青年の真剣さとイエス様に対する畏敬の念、そしてイエスさまも彼の純粋な気持ちを感じとられたように思います。青年に対する深い慈愛を感じます。

 三十年も前のことですが、ラーゲレーブ(スウェーデンのノーベル文学賞を受けた女流作家。「ニルスの不思議な旅」の著者でもある。)の『バラバ』を読みました。聖書のことはほとんど知らない頃で、やっと福音書を一通り読んだくらいのころでしたが、とても驚きました。
 祭り毎の決まりで囚人を一人釈放するのですが、イエスとバラバのどちらかを釈放するという時、祭司長たちに扇動されて群衆はバラバを釈放するよう要求し、イエスさまは十字架につけられました。殺人も犯した暴徒の一人と書かれたバラバは(現在でいうテロリストのような者でしょう)どんな気持ちだったのでしょう。何が何だかわからない、天地がひっくり返るような気がしたでしょう。バラバは傷ついた苦しみの極みのイエスさまを目の前にしたのですから、イエスさまのことを考えないではいられなかった筈です。バラバのその後の人生について考えませんでしたが、『バラバ』では、バラバはローマの大火の時捕らえられ十字架につけられます。
 わたしはこの本を読んでバラバははっきりした信仰からでなくとも、否応なくキリストの道を進んで行ったのではないかと思わされたのです。
 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトの所に行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ます。遺体を亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に納めました。弟子達は逃げ去っていました。今まで公の場に出てこなかったヨセフが最後にこのようにしてイエスさまに愛を捧げたのでした。
 金持ちの青年はアリマタヤのヨセフではないかもしれません。この青年はイエスさまの言葉を受け入れることが出来なくて悲しみながら去って行きましたが、慈しみの目で見つめられた青年の心はイエスさまのもとを去ることはなかったと思うのです。
一、ああ主のひとみ まなざしよ、
  きよきみまえを  去りゆきし、
  富める若人 見つめつつ、
   
なげくはたれぞ 主ならずや。

四 きのうもきょうも かわりなく、
   
血しおしたたる み手をのべ、
   
「友よかえれ」と まねきつつ、
   
待てるはたれぞ 主ならずや。   
                   (讃美歌二四三)
                        (主婦)

リストマーク真理の御霊を求めて     A.K

クリスチャンになりましてから二十年以上もたちますが心がいつもすっきりしないところがありました。それは今まで本気で聖霊を求めていなかったからです。そのことが私の今の一番の問題だったのです。心から喜べなかったのもそれゆえです。
「求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさいそうすれば見つかります。」というみ言葉、またヨハネ十四章で、「聖霊がすべてのことを教えてくださる。」と約束されていること、また主イエスが私どもの真の助け主であること、いつまでも共にいてくださること。イエス様が「平安あれ」といわれていますから大丈夫なことを信じてこれから生きていきたいと思っています。
いままで出会った兄弟姉妹の交わりが私の宝物になりました。ハレルヤ感謝です。

リストマーク絵に見る「放蕩息子」       I.E

 《夜警》や《ダナエ》などの絵でよく知られている一七世紀の画家レンブラントに、ルカによる福音書十五・1132を主題とした《放蕩息子の帰宅》という作品があります。父親から分けてもらった財産を持って家を離れ、放蕩の限りを尽くして挙げ句の果ては、豚の餌で飢えをしのぐまでに零落して父親の元に戻ってきた場面です。父親の腕のなかに顔を埋める息子。感極まって息子の背中を優しく抱く父親。しかし父親の両眼は明らかに視力を失い、息子の背中に回した手も探るような仕ぐさを感じさせます。聖書には「…ところが、まだ遠くに離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあるのですが、なぜ画家は父親を目の不自由な老人として描いたのでしょうか。私には、息子の安否を気遣いながらひたすら帰りを待ちわびる長い時間の経過を視力までなくしてしまった老いた父親の姿で表現したように思えます。
 また、同時に、人間が自分の罪に気づき悔い改めて神様に立ち返るまで、忍耐強く待ち続けてくださる神様の限りない愛を示したものといえるでしょう。ぼろぼろになった息子を心から労り優しく迎える父親のふところはまさしく神様のふところであり、その中に身を委ねる安心しきった息子のうしろ姿は、私達一人ひとりの姿だと思います。
 レンブラントは、光と影を精緻(せいち)なまでに表現することで人間の内的世界を鋭く描く彼の技法の特長を、この絵においても、父親とその前にひざまずく放蕩息子、二人を見下ろす難しい表情の兄に光を当て、他の人々はすべて闇の中に沈めています。ゴッホはレンブラントの絵について、「そこには悲しいまでの優しさ、人間の存在の彼方にある無限のものをしかもまったく自然に照らし出して見せる能力がある」と語ったそうですが、この絵の中にも気高いばかりの神秘性が干し草の温もりのような優しさで描かれています。
 実は、レンブラントはこの絵より三十年余りも前にこれと同じ題名のエッチングを制作しています。その作品は聖書の記述通りで実にリアルです。父親は乞食のような姿で帰ってきた息子をしっかりと抱きとめ、息子も傍らに杖を投げ出して父親の腕の中に倒れ込んでいます。この時期の作品に画集などでよく見かける 《居酒屋の放蕩息子》という油彩や放蕩三昧にふける息子を描いた素描もありますが、これらは、波乱に富んだ人生だった画家の時々の告白のように思えてきます。ともかく先に挙げた最晩年の作品とみられる《放蕩息子の帰宅》は画家が生涯の光と影のなかでしみじみと感じたであろう神様の限りない優しさを、赦しという神様の姿で描きたく、若い頃からかかわってきた「放蕩息子」をテーマにして、精魂こめて描いたのだと思います。
 ところで、画面の右側の苦り切った兄の横顔。私は兄の表情にいつも躓きます。真面目で働き者として通ってきた兄に違いないのですが、自分勝手な弟の帰宅を父親のように優しく迎えることができず、やれやれという表情で見下すしかないのです。父親のように待つことのできない人間の姿。神様に罪を赦され感謝しながらも、人のことは我慢できない人間の悲しさ。自己中心の身勝手さ。
 この絵を見ていると、神様に委ねきった放蕩息子のぼろ裂きのような背中が大変清らかに映ります。神様の愛に包まれるとどんな人もこんなに清められるのですね。「マザー・テレサ日々の言葉」の中に、排水溝のなかで体の半分を虫に食べられている男性が亡くなる時「シスター、神様の家に帰ります」と言ったとありました。マザー・テレサは書いています。「あのように言うことができる人間の偉大さを見るのは、本当に素晴らしいことでした。これこそ、どんな物的に貧しい時でも霊的に豊かでいられる人間の偉大さということができるでしょう」と。
 神様は誰ひとりも見放すことなく見守ってくださいます。私たちは神様の限りない愛を、そして神様の自由を賜っているのですね。感謝です。 ハレルヤ。
                      (生け花)

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リストマークあまつましみず     I.M

 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
  わたしが与える水は その人の内で泉となり、
  永遠の命に至る水がわき出る。」                                (ヨハネ四・14
学生時代社会に矛盾を感じ、虚しさを覚え帰県して大塚に入社。その時知り合ったMさんがピアノで弾いた曲が「あまつましみず」(讃美歌二一七・新聖歌四三三)初めて聞く。悶々としていた心がものすごく和らぎ落ち着く。曲は勿論、詞が心の奥まで安らぎを覚える。作詞者永井えい子さんがどのような人物か図書館などで調べると一八六六年生まれ。クリスチャンであり、救世学校(青山女学院の前身)で、生徒兼教師時代「あまつましみず」を作詞。その後教師から毎日新聞の記者になり、足尾銅山鉱毒事件のルポを連載し、被害者支援の推進力となる。一九〇六年渡米し、サンフランシスコ大地震の救済活動に奔走し、その後第一次世界大戦が始まると平和を願う詩を数多く書き、戦争反対を訴える。常に神様と共に歩む正義の人であった。一九二八年天に召される。
「事実あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、 自らの力によるものでなく、神の賜物です。」                   (エフェソ二・8)
罪深い自分でも神様は常に見守り、憐れみ、救いの手を差し伸べてくださっている。
そこに流れる神様の深い愛、主の恵みの豊かさに感謝せずにいられません。
自立支援法によるいのちのさとの新体系について
 障害者自立支援法が四月から施行され十月より新体系サービスが始まりました。
 この法律は名前は自立支援法ですが、数多くの問題点があり自立阻害法と言わざるを得ません。しかし法律として決まったことであり新サービスにのっとり運営しなければなりません。いのちのさとは今まで無認可施設として「小規模作業所」の補助金を五年ほど前より受けていましたが、九月末で小規模作業所が廃止になったため補助金も同時に打ち切られました。
いのちのさとは十月よりの新サービス事業で日中活動の場として、就労継続支援A型(雇用型)を主に、B型(非雇用型)、就労移行支援の多機能型事業、住まいの場として居住支援 (グループホーム)事業 を申請していましたが、十一月に入って認可されました。
中心になるA型事業は旧体型の福祉工場で全国的にも四十三カ所しか無く、四国では高知県に一カ所あるだけです。これは一般企業での就労が困難な人に多様な業種、事業形態により、多くの障がい者の就労を確保することで、十人以上を雇用し総数二十人以上確保しなければなりません。勿論雇用保険をかけ、最低賃金(徳島は時給六一七円)を守らなければならないので、一人当たり月十万円は支払いに必要です。
しかも一人当たりの補助金はB型(一人月三千円以上支払えばよい)も同じなので、 福祉法人の施設も含め大部分は運営的にも楽なB型に移行するようです。あえてA型を選んだのは一九七六年に始めたときより地域で共に働き生活し生きる場を目指し、その為の働く場として福祉工場的なものを思っていました。
しかし今まで福祉法人でなければ認可されませんでした。それが今回の支援法で福祉法人でなくても十年以上の実績があれば可能になったので躊躇することなく申請しました。今までの福祉工場からすれば今までより補助金が半分ぐらいになるそうですが、当方とすればゼロからですので大きな飛躍です。
少しでも地域で自立する障がい者を増やすことの一翼を担えればと思います。そこで自立に向け柱となる事業を採算、将来性を考え拡大、充実することになりました。まず菌床椎茸、今まで古い菌床を貰ってきて再度発生していましたが、今回菌床作りより全て行います。機械、ハウスも含め設備も大がかりになり資金的にも大変ですが、無教会のSさんの倉庫を無償で譲り受け、理事のNさんの指導で解体再建築しており、機械類も安く譲り受け、ハウスも古いのを出来るだけ再利用しています。今年中には完成させたいと思っています。お手伝いしていただける方がいれば新しく入所されたI君とI君が主に担当します。宜しくお願いいたします。椎茸はハウスと室内作業ですので、暑さ寒さにもあまり影響されず、肉体的にも重労働から軽作業とあり、いろいろな障がい者も係わることが出来、又健康食品でもあり、一番の柱に育てていきたいと思っています。
次にパンの製造。今年春に廃業したパン屋さんから設備一式を買い取り、パン屋さん自身もパート職員として来て貰って週三日作っています。女性の利用者を中心に当方で栽培している古代米を使用したりしてオリジナル製品を開発し充実していきたいと思っています。良いアイデアがあればお教え下さい。
三つ目は豆腐製造。これは一番古く、始めて今年で三十一年になります。しかし古い機械と技術の弱さもあり、味にばらつきがあります。しかし香川県の豊島に「みくに園」というクリスチャンの福祉法人がありここは大変美味しい豆腐を作っています。当方もお世話になっていますが、今回技術指導をしていただき美味しい豆腐を作りたいと思っています。Sさんが担当です。
そして九月末に入って急に飛び込んできた事業があります。岡山に福祉法人さざなみ園があり、ここは自立への取り組みとして印刷、うどん製造、菓子製造、弁当作り、魚加工などをしており、何よりもうどん店に力を入れ現在八店舗出店しています。 十一月末にさざなみ徳島店を開店することになり当方の利用者四名ほど指導して下さることになりました。K君T君MさんOさんが自立に向け働きます。期待しています。
そして新規事業としてパソコン事業を始めます。ホームページ、Webアプリケーション、アイコン、データ入力、名刺作成等です。会社でパソコンに携わっていた専門家Oさんの指導の元、他の施設でパソコンに関わっていたO君、N君、N君の三名が働きます。正式には十二月からですが農業大学校のホームページの依頼などが来ています。 勿論今までのE君O君の酪農とビン詰め牛乳、KさんOさんFさんの自然農法中心の米、古代米、野菜、果樹栽培は行います。一人でも多くの障がいがある人達の手助けになり、地域での自立に向け歩んでいければと思います。
神様は一人一人を同じように愛してこの世に送って下さいました。イエスはハンセン病の人を見て「手を差し伸べてその人に触れ『よろしい清くなれ』と言われると、たちまちらい病は去った。」(ルカ五・13)と言う聖句もあり、その他多くの病人を癒された記述があります。また「あなたがたは地の塩…世の光である」(マタイ五・1316)と記されてあり、神を信じる全ての存在が世の光であると言われています。今いじめでの自殺そして世界中で戦争の道を歩もうとしています。そこには何の罪もない人々の多くの犠牲があります。マザーテレサは「人間にとってもっとも悲しむべき事は病気でもない。自分はこの世に不要だと思いこむことだ。そして現世の最大の悪はそういう人に対する愛が足りないこと。神から授かった愛が足りないことです」と言われています。本当に私たちは神様を知り全ての人が平等で住みよい社会を少しでも実現していきたいと願っています。
 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」
                 (ヨハネ十五・4ー5) ( 障害者就労継続事業所いのちのさと職員)

リストマーク信仰の道      I.M

「私について来たい者は、自分を捨て、
日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
私のために命を失うものはそれを救うのである。」                (マルコ九・2324
 信仰があっても次々と問題が生じ、苦しみに遭います。信仰があるゆえに自分の罪に傷つき足元をすくわれたような気持ちに陥ることもあります。
 自我にとらわれず、真っ直ぐ素直に神様に従っていけたら信仰の道も平坦に歩めるのではないかと思ってしまいます。しかし人間はそんな簡単に自分を捨てることは出来ません。十字架を背負うとはそんな弱い自分の痛みや苦しみを信仰によって負っていくことであると学びました。どんな苦難な中にもボロボロの自分の姿であっても、キリストを信じて従っていくことだと教えられました。
 この世は人の評価や快楽への誘惑は常にあります。しかしそれを得ようとすることへの心の傾きが大きいと大切な神様に繋がっているものを見失ってしまいます。目に見えるものに心を奪われるのではなく、神様から与えられた目に見えないものを分かち合っていくと益々豊かに祝福してくださいます。神様の御心に従って生きていくとき、この世で価値あることが失われる場合があります。その時は失ったことで大きな打撃を受けるかもしれません。が、後から振り返ってみれば、それは神様が本当に必要なことを与えてくださるために失わせるという事です。失った苦しみにとらわれない確かな信仰を持つことが出来ますように。

   「薄氷を踏めぬ弱さを主に祈り」 M
   
   (障害者就労継続事業所いのちのさと職員)

リストマーク心に残るみことば           I.E

「わたしが生き、あなたのみ言葉を守ることができるように、あなたのしもべに恵みをほどこしてください。」
                  (詩篇一一九・17

 わたしは神に、生の恵みが与えられるようにと願う。 神によって与えられる生だけが、恵みである。
  (「主のよき力に守られて」ボンヘッファー著)より
                       (主婦)

マザー・テレサ カルカッタ日記より          I.S

  沈黙の実りは 祈り
  祈りの実りは 信仰
  信仰の実りは 愛
  愛の実りは  奉仕
  奉仕の実りは 平和

マザー・テレサの祈り          I.K

  考える時間を持ちなさい
  祈る時間を持ちなさい
  笑う時間を持ちなさい
  それは力の源
  それは地球でもっとも偉大な力
  それは魂の音楽

  遊ぶ時間を持ちなさい
  愛し愛される時間を持ちなさい
  与える時間を持ちなさい
  それは永遠につづく若さの秘密
  それは神が与えてくれた特権
  自分勝手になるには一日は短すぎる

  読書する時間を持ちなさい
  親しくなるための時間をもちなさい
  働く時間を持ちなさい
  それは知識のわき出る泉
  それは幸福へつづく道
  それは成功の価値

  施しをする時間を持ちなさい
  それは天国へと導く鍵

(マザー・テレサが作ったカルカッタの
       「聖なる子供の家」の看板に書かれた言葉)
スンダル・シングの言葉
 火打石の中に火があるように、人の心の中には、神との交わりへの憧れがある。この願望は、罪と無知という、火打石のような硬さの下に隠れているかもしれない。しかし、神の霊に触れられると、石が火打ち金で打たれたときのように、たちまち炎と化す。            (主婦)

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リストマーク「私を祝福してください」           U.Z

 二十七年近く勤めた職場をとうとう、しかし、この世的にはずいぶん早く退職した。
祈って決めたはずであったが、この世で所属するところを失い、これからのことを思って不安になることもしばしばである。また、ある程度覚悟はしていたものの、世間と違うことをすると人々の目は冷たいということも思い知らされた。
 冒頭の祈りは歴代誌上四章九節にある「ヤベツの祈り」の一節で、何年も前に知っていたが、この秋、友人が思い出させてくれたものである。
 「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって、災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」
 去年も「野の花」に、もっと祈らないとと書いたはずであったが、こんな状態になっても、まだ私は私に対する神様の愛や力を信じ切れずに祈りを怠っていた。
 しかし、とうとうこの祈りを毎朝、また思い出したときに繰り返すようにすると、今まで遠い存在だった神様が身近に感じられるようになってきた。そして、今まで当たり前のように思っていたことも祝福だったと気づくようになり、過去の苦い経験から物事を否定的にとらえがちだったのが、違う点から視ることができるようになってきて、感謝することが増えてきた。すべてのことに主が働いてくださっていると感じることができるようにもなってきた。
 これらは、主が私を祝福してくださって、私の(心の)領土を確実に広げ、御手が私と共にあって、災いから私を守り、苦しみを遠ざけてくださっているおかげであることを実感している。これからももっともっと体験させてくださることを信じ、前進し、主のご用をすることができる者へとつくりかえていただきたい。(大阪狭山集会)

リストマーク「主の山に備えあり」
           創世記二十二章1~19節    U.E

 神は、アブラハムを試されました。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地(後にエルサレムの神殿となる)に行きなさい。そして彼を焼き尽くす捧げものとして捧げなさい。」
 神に呼び出されて、何事であろうかと謹んでお聴きしたみ言葉は、アブラハムの心を凍りつかせました。最愛の独り子、しかも神の約束によって与えられたこの子を、ひつじや、牛のように燔祭として捧げよと命じなさる神はなんと無慈悲な、またなんと矛盾にみちた神でありましょう。以前神は「あなたの子孫は天の星の数のようになるであろう」(創世記十五・5)とおっしゃっておりながら、今、たった独り子を捧げよとはあまりにも残酷無慈悲ではあるまいか。アブラハムは天を仰ぎ、地に伏して神に訴えるのは当然とおもいますが、この箇所では彼は悲しんだり、神にくってかかるようなこともなく、聖書は、深い沈黙をまもっております。
 アブラハムは、サラにすら相談することも出来ず、一人黙々と準備をし、二人の若者とイサクを連れ、モリヤの地に向って行ったとありますが、アブラハムの胸中はいかばかりかとこの箇所には一つも彼の心の思いが記されていないことが、一層読者の胸を痛めます。
 モリヤの地に行くまでの三日間、いよいよ祭壇を捧げる場所を見定めた時、二人の若者をロバと共に待たせて、幼いイサクと二人だけになり、イサクに薪を背負わせ、アブラハムは火と刃物を持って黙々とモリヤの山を登って行きました。突然イサクに「捧げ物にする子羊はどこにいるの?」と聞かれた時、アブラハムは、「その捧げ物は、神が備えて下さるだろう」と答えて、恐らくここで真実を打ち明けたに違いありません。神によってこの世に誕生したイサクは、母の胎内にいる時から聴かされていたことで、全能の神に絶対服従していた父アブラハムの苦しい思いを、理解して、素直に受け入れたに違いありません。イサクは特に抵抗した様子も無く、この人類最大の子殺しの悲劇が今や始まろうとした時、天からの声がして、「この子に手をくだすな。あなたは自分の独り子ですらわたしに捧げようとしたほどに神を畏れる者であることが良く分った」 すると後ろの木の茂みに、一頭の雄羊が角をとられていたので、アブラハムは、イサクの代わりにその羊を捧げ物としたとあります。まさに主のために命を失うものはこれをうる、と言うことでしょうか。 
 そしてその場所を「主の山に備えあり」ヤハウエ・イルエーあるいはアドナイ・エレとも云われますが、ユダヤ人は神(ヤハウエ)という呼び方を畏れを持って避けるため、アドナイ(主)と呼んでいるのだそうです。
 このところを読みましたとき、動物や、人の子まで燔祭に捧げるなど、現代では考えられないことですが、翻って見ますと、現実のこの地上には、戦争、飢餓、病気等常にあり、苦しみや、嘆きの声が至る所に響いてまいります。
 災害や、交通事故、病のために、愛する人を捧げざるを得ない人々がおります。こんなことが起るなんて、神さまなんておられるのか、祈りを聞いて下さらない神など愛の神なんてどうしていえるのか、と神から離れて行く人もおられます。
 アブラハムを初め、多くの信仰深い先達は、その時は、何と理不尽なお方とおもいながらも、一切の望みが消え果てるかにみえたその時も、ただ主を仰ぎまつること、神にすがりまつることをやめませんでした。藤井武先生は、あの耐え難い悲痛の中に投げ込まれた時、静かに座して、聖書だけを読み進まれたとあります。そしてそのような神を義としてお受けなさいました。震災で、若き夫人を瞬時に捧げられた塚本虎二先生は、唖然と立ちすくまれながらも、神は愛なりと、受け止めなさいました。
 私事で申し訳ありませんが、十三年前の十月十日の天城山荘での出来事の知らせを受けた時の事を忘れることが出来ません。アブラハムが、イサクを捧げよと云われた時と同じ様な心の凍りつく思いでありました。はや、絶望的なことを知らされておりましたので、取るものも取敢えず聖書、讃美歌は持って義弟と新幹線に飛び乗りましたが、唯ひたすら、神様に祈りながら、キリストの御復活、死者の復活のところを、何度も読み返しておりました。
 こんな時、アブラハムの黙々と、この厳しい試練を受け止めていたことを思い起こし、心の散り散りになるのを抑え、黙してこの現実を受け止めなければ、と自分に言い聞かせていたことを思い起こします。私にとって、アドナイ・エレは十三年前の十月十一日となりました。
 「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。・・・・・わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちの罪を償ういけにえとして、御子イエス・キリストをお遣わしになりました。ここに神の愛があります」(Ⅰヨハネ四・9~10)「アーメン」と心より申し上げたくぞんじますし、私ども新約の時代に生かされておるものの幸いと、この良きおとずれをお一人にでも多くの方にお伝えする責任を思わされます。

リストマーク試練の夏            A.S

 この夏はちょっとした油断でケガをしたり体調を崩したりして、八月、九月と集会を欠席してしまいました。暑さに弱い私は、今年の八月の猛烈な太陽の強さに負けてしまいました。九月に入って不眠症にかかり、夜十時半に就寝すると十二時には目覚めてしまい、そのまま朝まで眠れない日々が続きました。
 九月第一聖日には、眠れないまま思い切って集会に出席したのですが、吉村さんの御講話が始まると、突然睡魔に襲われ、どんなに努力してもどうしても睡魔に勝てず、せっかくの御講話を子守歌がわりにしてしまいました。申し訳ないことでした。いつも集会の前日には準備をしておくのですが、当日の朝を迎えると出かけることが出来ず、本当に苦しい日々でした。私にとって唯一の楽しみであった集会に行けなくなり、このまま廃人になってしまうのではないかと不安に襲われました。
 夜中、目覚めている間、小さく音楽を聞きながら、今までの人生の日々を思い返しました。研究者であった夫との出会い、厳しくも平和であった結婚生活、三年間のアメリカでの生活、二人の子供の成長、晩年になっての夫の発病、徳島への帰郷、夫によって導かれた信仰、無教会との出会い、ひとつひとつ、辿っているうちに、何としてでも集会に出席したい。出席できますようにと祈っていました。
 十月からIさんの御好意で、私の家へ寄って頂き、集会に出席できるようになりました。まだすっかり復調したとはいえない状態ですが、礼拝の前に缶コーヒーを飲んで、目を覚まし、しっかりと御講話を聞くことができるようになりました。私にとって試練の夏でありましたが、このように守られて、今日の日を迎えることが出来ましたことを感謝しています。                          (無職)

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リストマーク信仰所感…秋に思う           O.T

 イザヤ書にしても詩篇にしても、多くの言葉によって書き残されている神と人間の繋がりであるといえる。詩篇二十三篇四節に「たとい死の谷間を歩むとも」とあるように、人生には死の谷間の時がある。そのような死の谷間を生きる時、それは、神とその人にしかその苦しみはわからず、他の人の見る事の出来ないものである。しかし、この詩は、その次には強い信仰が続いている。「あなたが共におられるからです。」と。「死の谷間の中であなたの鞭と杖は私を慰めます。」とある。今の私では耐えることは無理と思われる。しかし、幸いにも弱い私には神の恵と慈しみが注がれることに感謝している。「わたしはなんという惨めな人間なのであろう。誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか。」(ローマ七・24)さらに罪との関係におよぶのであるが、「なぜなら人は心で信じ義とせられ、口で告白して救われるのである。」(ローマ十・10)私は時々「神さま、神さま」と繰り返していることがあるが、これは本当の信仰ではないと思わされることがある。あまりにも平和に過ごしているからか、主を呼ぶことさえ忘れたのか。それとも神の愛で私が負えるだけの軽い荷を与えられているのかと、最近考えることがある。人は想う者である、慕う者である。天地の創造の神を慕い想う者である。また、望みを抱く者である。地上では半分も果たせない望みを抱く者である。永遠に望む者である。また、願うものである。とんでもない完成をも願うものである。想いも望みも、願いも主の名によらなくては遂げられない。救い主キリストを「心で信じ義とせられ、口で告白して救われる」とのパウロの言を身近に感じる。
 裏の畑が荒れ放題に草が繁り、秋風が吹き、草も茶色を帯びてきて美しく感じている。人生の老いも美しくありたいと思う。幸いにも主にありて国籍を天にもつ喜びがあり、これらを共にする友人のあることに感謝せずにはおられません。

リストマーク生きた石       O.N

  「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」                   (Ⅰペテロ二・4)

リストマーク世の光とは         O.E

 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12
 「世の光」とは、手話では「世界」と「照らす」の二つを表現するので、世界の人々を照らすイエス様と簡単に思っていたのですがそれが、命の光(心の光)でどんな深い闇の中であっても入ってきて救ってくださる。と教わりました。それだから、お祈りの時に、命の光が入ってください。と祈る意味をわからせていただきました。感謝です。
 私たちが信じて求めさえすれば、命の光は入ってくださるので、イエス様を信じ、求めて祈らねばならない大切さを思います。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」
                 (マタイ七・7)
                        (主婦)

リストマーク     K.K

何があっても

何があっても
何があっても
決して見捨てず守ってくださる力がある。
助けて下さい!と叫ぶだけで
必ず来てくださる力がある。
吹きすさぶ孤独の中で嘆いていても
その中に
あふれる愛を注いでくださる方がいる。
目には見えない。
でも、目に見える以上に
はっきりと知らされる力と愛。
何があっても
わたしと共にいて下さる方がいる。


主の平和

どこまでも深い主の平和
あなたは生きて共にいて下さる
心に暗い風が吹くとき
わたしは急いで主に走る
息を切らせて主に走る
主が来てくださるまで
主が来てくださるまで
わたしは切に主に走る
ああ、なんて
人智を越えた主の平和!
闇の力を追い払い
あなたは生きて共にいて下さる



かなしいと思う出来事は
あなたが来てくださるための
心の扉。
扉は祈りで開かれる。
泣きながら
あなたに切に祈るとき
扉は静かに開かれて
祈りの中で主は語られる。
                     (看護師)

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リストマーク高槻から          K.T

 徳島から来たときは、ハナミズキの咲く春でしたが、今はすっかり紅葉の秋、もう半年が経ちました。お陰様で、わたしの動きづらかった手足もほぼ自由になり、今では三十分ほどの散歩ができるまでになっています。この間の皆様からいただいたお祈りや優しい励ましに、どんなに支えられてきたことか、心から感謝いたしております。
 当初のことを思いますと、よくもここまで癒して頂けたと夢のようです。まるで奇蹟とも思われます。不思議なもので、かつては加齢と共に身辺から失われていくものを数え上げては嘆いていましたのに、この頃は与えられることの多さ、大きさに目が開かれ感謝でいっぱいです。
 原因のわからぬままの強い痛みと四肢の拘束、自由が剥ぎ取られたのはわたしにとって一大事でありました。神様、どうにかしてくださいと悶え、すべてをお委ねしますと祈りながら、弱り果てては揺れ動く、どうしようもない時期も長く続きました。全く脆い弱いわたしでした。少し落ち着くようになってやっとあたりが見え始めるのに、二ヶ月くらいかかったでしょうか。
 病院には肢体不自由な方があふれて、自分の姿を写し出していました。しかし、みんなけなげに見え、お仲間のように思えました。「頑張ろうねえ」と内心声をかけたら、わたし自身も励まされていました。重い症状の人も一所懸命に戦おうとしているように見えました。
 途中失明や、聴力を奪われた方、一瞬の間に半身の動きや言葉をなくされたかたもたくさんおられますが、どんなにつらかったことでしょう。叩きのめされ絶望の淵に立たされた方の心を思いますと、わたしは、分に甘んじ、試練としてうけとめなければ…。そんなふうにも思えてきたものです。
 「神は真実な方です。あなたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう逃げ道をも備えてくださっています。」(Ⅰコリント十・13)
教友が選んでくださったみ言葉、ひとすじの光のように、わたしの闇に射して広がりました。
 その他、度々手紙や情報を寄せてくださり、思いがけぬ訪問をいただいたりしました。八月からは高槻集会に迎え入れられ、新しい兄弟姉妹と交わりとみ言葉が与えられたり、月一度の医師検診やアドバイス、週に二度のデイサービス、近隣や知人の厚い心づくし、そして、生活全般をみてくれる家族等々に、愛に囲まれて、与えられる一方の恵みを受けて自立をめざすところまで導かれている昨今です。
 神様はどんなときにも私に寄り添って愛を注いでくださいました。私のこれまでにも様々なことがありましたが、この度のように四肢の拘束というとらわれの状態からひとつひとつ解き放され、力が漲ってくる経験は、ただごととも思われず、背後にある神を思ったことでした。
 すべて、み旨なしにはあり得ない、とのことを示されました。まことに信じる者は全面的に神に生かされている存在なのだということ。神様の広い愛と強い力を、何の功もない者が享受していることの感謝はたとえようもありません。神は愛そのものでありました。
 私の完全な立ち直りは「時の満ちるまで」この後も続くことと思います。それまで、み旨の袂に止めてくださいと祈らずにはいられません。
 やがてクリスマスが来ます。どうか、全地に御名が崇められますように。苦しむ人々の上に慰めがありますように。御心が天に行われる通り地にも行われますように。皆様の上に祝福がありますように。心からの感謝をもって。

リストマーク私と山と神様       K.M

 この世の様々な出来事やまた体調不良そして、自分でも分かっていながら犯してしまう罪、弱さを心の中に持っています。
 今日はそんな私と友と一緒に山に行くことができました。心はうきうき声もはずみ笑顔が絶えない。赤、黄、緑と美しく紅葉した木、またヤマシロギク、リンドウの花、ススキ、アキノキリンソウ、どの花を見ても、かわいらしく清らかに咲いている。これらの花に感動を覚えました。
 子供の頃、よく母と山へ登り、山菜を採りに行ったり、花や、小鳥の鳴く声もいつも、聞いていました。輝く星や、月を見てもそれが普通で自然だと思っていました。聖書を学ぶようになってから今見ているすべてのものを神様がお造りになったことを知り、より深く感動し癒されるようになりました。
 この高い山まで友と一緒に来ることができ、身体も守って下さったことに感謝いたします。家に帰ってからも、心から喜びが満ちあふれ、持って帰ってきた草花を見ながらもお客様とも話しの花が咲きました。 

「わたしは山に向かって目を上げる。わたしの助けはどこから来るのだろうか。わたしの助けは天地を造られた主から来る。」                 (詩編一二一・1ー2)
 
 今年も藍住ルカ集会を祝福してくださり、私達を導いてくださりありがとうございました。新しい友も加えられ、これからも皆様と共に神様につながることができますように。           (美容サロン・ルカ 美容師)

リストマーク病の床にも          K.Y

 一、病の床にも 慰めあり

  われらに代わりて 血を流せる
  主イエスの苦しみ 思い見れば
  痛みはいつしか忘られけり 新聖歌四四二( 讃美歌三九七)

 私は重い病気と障害を持っています。もう二十年を越えて入院しています。入院生活を長く続けていると、当然ですが単調な毎日になってしまいます。私のように慢性の時期になると、いつも治療があるわけではありません。退屈な日々を過ごすことも多くなります。私のような長期の入院者の中には、天井だけを眺めている人も多いと思います。
 では私たちは何をすればいいのでしょう。祈りが出来ます。クリスチャンでなくても出来ます。自分のこと、家族のこと、友人のこと、社会のこと、また世界のことを考えながら祈れます。これは何も貢献できない者の義務だと思います。それが他者のためになることだと信じています。体の不調な時は祈れないこともあります。そんな時には、一言、「祈れるようにして下さい」、とお祈りをします。これは祈りたいと思っている私の願望でもあります。それが私の日常です。祈れる時間と環境を与えて頂いたことに感謝です。平安、平安…。   (無職)

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リストマークアッシジのフランシスコの平和の祈りの歌     K.H

一、ああ主よ、我をして御身(おんみ)の平和の
  道具とならしめよ、我をして
  憎しみのあるところへ愛をばもたらしめよ
  争いのあるところに赦しをば
  分裂のあるところに一致をもたらしめよ
二、疑いあるところに、信仰を
  あやまりあるところに真理をば
  絶望あるところへ希望をもたらしめよ
  悲しみのあるところに喜びを
  闇のあるところに光をもたらしめよ
三、ああ主よ我をして慰めらるるより
  なぐさめることをば求めしめよ
  理解さるることより理解することをば
  愛さるることより愛することを
  我にもとめさせたまえかし
四、そは我らみずからあたうるがゆえ
  我らに神より与えらるるなり
  赦すがゆえに赦さるるなり
  おのが身をば捨てしするがゆえに
  とわの命をばうるものなればなり

 今年は京都の近畿地区無教会合同集会に参加でき感謝でした。
 たくさんの恵みをいただきありがとうございました。
 このアッシジのフランシスコの平和の祈りの歌は今年とくに心に残った讃美のひとつです。

リストマークみ言葉に示されて          K.T

 視力障害者同士での、妻との二人暮らしの私たちです。三人の子供はそれぞれに自立し、老後とまではいかないまでも、それに近い年齢を迎えたこのごろ、折々に、若い頃に比べると神さまからのお恵みを感じて感謝させられることが多くなったように思っております。妻と二人で、毎朝ルーテル聖書日課を読む会発行の「聖書日課」を読んでいるのですが、昨年から今年にかけては、エレミヤ書や詩編を中心に拝読するようになっておりました。
 神さまから示された真実を伝えればいのちを奪われるかもしれないという事がわかっておりながら、また、事実幾度となく危うい目に遭いながらも、どこまでも神さまから与えられた預言を語り続けたエレミヤの命がけの信仰や、また、その信仰に応えて彼を守られた神さまの誠と愛のお姿を示されて、「私も、神さまを中心に歩ませていただかなければならない。」と、幾度もそのような思いにさせられました。
 また、自分の罪を悔いて打ちひしがれ、神さまを叫び求めて御前に赦しを請い、全てを赦して受け入れてくださる神さまであるという信仰に立ち返って安堵するといった詩編の作者たちの、罪の意識の深さや、純粋さなどを通して、私自身がこれまでに歩んで来た六十年を振り返らされることもしばしばでした。いかに神さまに申し訳のない歩みをして来たことかを思い起こして後悔したり、全てを赦してくださる神さまであるという御言葉にふれて、神さまの愛にすがるしかないという思いにさせられたりと、そのようなことを繰り返してきた一年でした。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」 (Ⅱコリント十二・9)
 観念としては「自分の力で歩むことは、キリストの力を排除することになるのだ。」と考えているにもかかわらず、実際には愚かな自分の力に頼ることを繰り返しているために、まだまだ自分に死んでキリストの力に委ねることができないでいる愚かな者ですが、これからも、妻と二人で神さまにおすがりしながら残りの人生を歩ませていただきたいと思っております。
 「野の花」に連なっておられる皆さま方、このような私たちをよろしくお願いいたします。 (熊本聖書集会) (はり師)

リストマーク海陽町讃美堂集会に参加出来て            K.T

 海陽町に帰ってきて、父を看ながら讃美堂集会に導かれ参加できている事を感謝しています。参加するたび平安を感じ、一人では読んでもなかなか理解出来ない聖書の箇所を教えて頂き感謝しています。 主の守りと導きがなければこの二年近く続けてこられなかったと思います。また、父のことも守ってくださった主に感謝しています。
 私自身も精神科の外来に通いつつも順調でまた健康に守られ集会に集い学び続けられたことを主の守りと導きと支えだと心から感謝いたします。
 以前から車中でのミニ集会もして下さっていた頃もあり、常に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ十八・20)を思わせられ、励みとなる日々です。
                  (家事・介護他)

リストマーク最近のいじめとそれによる自殺について思うこと   K.M

 私は社会不安障害を患う者です。そのために自分の方から他人に声をかけることに、ひどく恐怖感を抱きます。小さい頃からそうだったので、教室の中で一人ぽつねんと座っていることが多かったです。心の中ではみんなと交わって遊びたいという気持ちでいっぱいなのに、どこかなじめないという気持ちもあったのです。客観的に言えば「シカト(無視)」されていたのです。
 最近の学校でのいじめの記事には暴力というものもありますが、無視ということが一番多いと思います。そのプレッシャーに負けて自殺してしまう子供たちの記事を読んでいて、死ぬ前にイエス・キリストの福音を正しく教えてくれる人と出会えたなら、死ぬことはなかっただろうにと可哀想に思います。
 愛とは他人の心の中にある悪いものが取り除かれるように祈ること、その人の心が善くなるようにと祈ることです。それは心の中にキリスト・イエスが入ってくださらなければ決して祈ることができない祈りだと思います。
 そこでこのような祈りができるようになるために参考になる聖書のみ言葉を調べてみました。
 「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」            (ルカ六・28
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」            (ルカ二十三・34
 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」                        (使徒七・60
 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。」                             (ローマ十二・14
 「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。」 (Ⅰコリント四・1213
 「同じ口から讃美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」                           (ヤコブ三・10
 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」         (Ⅰペテロ三・9
 「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」                      (Ⅰペテロ二・23
 「悪をもって善に報いるなら家から災難は絶えない。」                     (箴言十七・13
 「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。」    (箴言二十・22
 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」      (ローマ十二・17
 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する。』と主は言われると書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」               (ローマ十二・1921
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」                  (エフェソ四・32
 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造りあげるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」    (エフェソ四・29
 「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」     (Ⅰテサロニケ五・15

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
                (Ⅰコリント十三47

 みずからの命を断つということを、神はお喜びにならない。一人一人の命を尊重するために自らの子を敢えてお裁きになったのだから。
 神様、どうか全国にいる、いじめに苦しんでいる人の心に御手を差し伸べてください。そして、すべての人が互いに相手の心を尊重し、祈り合うことができるように導いてください。                    (コンビニ店員)

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リストマーク「神は光である」            K.K

 なんだか、あっという間に今年も終わろうとしています。今年の私は、本当に神様を知っていて救われたと思うことがたくさんありました。仕事や夫婦関係、大切な人の病気など なにもかもが孤独な戦いであると強く感じさせられることが重なりました。聖書を抱きしめて祈るようなこともありました。そんな時、いつも見ていてくださる神様がいるということはなんとありがたいのかと改めて感じることが出来ました。神の視点というものを与えられなかったら、いつまでも暗い心の闇をさまよっていたことでしょう…。 
 神は光であると教えられますが、光は温かさとともにものごとをよく見えるようにして下さいます。小羊集会や日曜礼拝で学ぶ聖書は雑然とした暮らしに光を注いでくれるように感じています。聖書の御言葉に支え、導かれながら、これからの日々を重ねて行きたいと思っています。多感謝。   (病院事務)

リストマーク一年を振り返って           K.I

 今年もあと僅かになりました。振り返ると、わたしは神様から多くの恵みと導きがあって、平安に歩んでこれたことを感謝します。
 一方、近所の人が、二人の子供を残して交通事故で亡くなったり、職場のストレスが原因で、入院された人。兄夫婦が入院というように、身近には、心が暗くなる出来事がありました。
 テレビやラジオのニュースなども事件、事故、不正などを伝えて、知れば知るほど心が暗くなります。いずれも心を清くしたり、希望をもたらしてくれません。
 いつの時代にも暗闇はあるでしょうし、その中に置かれた人は、どのように戦ったのかなと思わされます。
 聖書は、そんな弱い人に希望を与えてくださる神様を知らせてくださいます。わたしもその恵みに与らせていただいていることを感謝します。

 神様を知らない人も聖書にしるされている神様、主イエス・キリストに出会えることを祈っています。

  いかに恐るべき(新聖歌三一一)

 一 いかに恐るべき ことありとも
   御翼の陰は 安らかなり
   (折り返し)
   愛の神は いかなる時にも
   頼るなが身 保護し給わん

 二 骨折り疲れて 沈む時も
   道に危うきの 潜む時も

 三 必要ことごと 備えられて
   願い事すべて 受け入れられん
                  (鍼師)

リストマーク秋風にさそわれ        K.T

歩きながら思う
世の波風に誘われないように
ぶどうの木につながっていよう
つまずかないように
目を覚まして
神様にとどまっていよう

立ち止まり、空を見る
秋のいわし雲 空いっぱい
立ち止まり、野原をみわたす
秋の野草、ヨメナ、センダングサ
野の花を見よう。
そよそよ吹く風に心静まり
天を仰ぐ、共にいて下さるイェス様
導き守られ、主に感謝する。

リストマーク信仰により、神の真実によって      K.T

私がこの頃気になる聖句はローマの信徒への手紙三章28節です。前田護郎訳は「律法の行いとは別に、人は『まこと』によって義とされます。」と訳しています。
他の聖書は「信仰によって義とされる」となっています。信仰という訳語の原語(ギリシャ語)はピスティスですが、辞書によると ピスティスには「真実、忠実、信義」の意味があります。「信仰」という訳語より私には「まこと」(人の信仰の行為でなく「神の真実」という意味での「まこと」)のほうが はっきりするように思います。
それから、ルター訳では「信仰 のみによって(救われる)」と訳されて、「のみ」(allein)を加えています。日本語訳では、塚本訳が「ただ信仰だけによって」と訳しています。
神様は律法の行いに関係なく「イエスを信ずる 信仰によって、神のまこと(真実)によって義とされる」が正解のように思われます。

リストマーク市民農園         K.T

 私共は、定年を迎えよかったことが二つある。その一つは、ほとんど毎日テープにより約二十分間聖書の勉強をすること。もう一つは、週一回市民農園(クラインガルデン)に行って、農作業をすることです。
 農園は約十五坪で家庭で食べる野菜作りには適当な広さです。現在畑には、大根、人参、白菜、ねぎ等がおいしそうに瑞々しく育っています。二日前には玉ねぎの苗も植えました。こんなに書くと、さも作物が順調に育っているように思えますが、実はこれまで十年間には色々なことがありました。
 台風で作物がなぎ倒され水浸しになったこと。大根や白菜の種を蒔いて一週間して行くと、芽は出ていたが、虫にみんな食べられて、一~二本しか残っていなかったこと。トウモロコシが調子よく実り、もう一週間して収穫しようと思って行ってみると、ほとんどカラスに食べられていたこと等々、失敗ばかりでした。そんなとき、農作業で生計を立てている農家の苦労が少しわかったような気がします。
 しかし、段々土地に鶏糞や堆肥や米ぬかなど、せっせと入れ、四~五年、土地作りに専念しました。そして、土地もさくさく耕すことができるようになり、土地もこえて、少しずつ収穫ができるようになると、作物を作るのには、太陽、水分、空気、季節等の自然現象に大きく左右されることがわかりはじめました。
 そんなとき、ふと心に浮かんだ聖句は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ三・2324)でした。私共はただ信じるだけで、神様の方から価なしに義と認められ、永遠の命をいただくのです。それと同様に、作物も土地を良く耕し、適切な時期に種を蒔くと、神様の一方的な天の恵みによって無償で太陽、水、空気を与えて下さり、作物を実らせてくださることがわかりました。この神様の一方的な恵みと、無償による愛は、私共の「信仰」と「作物の実り」とに共通しているところがあるように思います。
 空気も良いし、旭川の水も表面上はきれいに流れているし、自然の中で、体力が続く限り土に親しんで、神様の恵みを受け、作物を作っていきたいと思っています。

リストマーク心に残る聖句            K.K

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
 一粒のままである。
 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
               (ヨハネ十二・24
 
 昨年の十ニ月に最愛の祖父を肝臓癌で亡くした。祖父の最後の希望は「家で家族に看取られて死にたい」というものだった。残念ながら徳島の在宅医療は大変遅れており祖父は自宅で非常に苦しんで亡くなった。しかし苦しみの中にも祖父は「ありがとう。おらは幸せものだ。」と常に周りに気を配り感謝をしていた。最後は医師不在の中、私が祖父の死亡確認をし死後の処置を行った。
 一年たとうとしている今も哀しみは深いが祖父が死をもって私に示してくれた事は日に増して聖句を重みのあるものとしてくれた。
               主婦(元看護師)

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リストマーク心に残ったみ言葉と讃美歌             K.M

 「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。
 わたしが与える水はその人の内で泉となり、
 永遠の命に至る水が湧き出る。」             (ヨハネ四・14

 「主よこの身今全くし」 (新聖歌三六九番)

一、 主よこの身今全くし 住み給えわが心に
   すべての偶像を砕きて 勝たしめよ悪しき者に
  (折り返し)
   持たしめよわれにも 雪よりも白き心

二、 身も魂もまた心の 知る限り汝が御前に
   献げて祈るわが身に 成し給え聖き御業
 
三、 目を上げて汝が十字架を 打ち仰ぐわが心に
   注がせ給え 尊き贖いの聖き血潮

四、「主イエスよ」と呼びまつりて 拒まれし者世になし
   来りてきよき心を わが内に造り給え

リストマーク二〇〇六年を振り返って         S.H

 今年は主治医の先生や集会の兄弟姉妹など、いろんな人から「(精神的に)元気になって良かったね。」とか「(むくみもとれて)顔がスッキリしてきたね」と幾度となく言っていただきました。
 また手話での自己紹介では、私の名前の「晴」は天気の「晴れ」で表現します。その時吉村さんに「曇っていたのが名前のとおり晴れました。」と言っていただきました。周りの人に言っていただけるほど、主に恵みをいただき満たされて感謝です。兄弟姉妹からのメールの中にも、愛や恵みを感じることが出来、感謝です。
 集会にも昨年より参加できる日も多くなり、感話・祈り・司会なども出来るまでに成長させていただきました。パソコンも植物の画像・賛美・礼拝CDの学びを整理するなど、一層世界が広がり 頭にはなかなか記憶できませんが、楽しんでいます。
 体調が守られいろんなことに挑戦でき、主に感謝です。振り返れば満たされた一年ですが、食事療法や生活習慣を守れていない自分と、心配が先にたって家族に対して、口うるさく言う自分がいます。祈って備えること、愛の心を持って接する難しさを痛感しています。次の聖句を心に刻み、心静かにあせらずにいこうと思います。
 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください。』と、どうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」              (ルカ六・4142)                          (主婦)

リストマーク主に聞き従う           K.T

「信仰の従順へと導くために、めぐみを受けて使徒とされました。」                (ローマ一・5)
 ある集会のローマ一・5の学びで、「hypakoe7@ybb.ne.jp」のメールアドレスは誰ですか?と言われた。私は自分のアドレスを言われたので、恥ずかしいと思いました。hypakoeはギリシャ語で従順、主に聞き従うと言う意味です。軽い気持ちで決めたので、自分とあまりにもかけ離れているので、恥ずかしかったのですが、神様に聞き従うことは、救われた私達の目標だと学びました。少しでもみこえを聞き取り、力を与えられて従って行けるようにと願っています。                                      (主婦)

リストマーク祈りと賛美がわかってきた     S.A

 「野の花」十七号に一度投稿したことがある者です。その時の文章を今読み返してみて、どうも祈りと賛美に欠けているなあと思います。今でも十分な祈りができるというわけでもなく、あまり好きではない賛美歌を延々と歌うとやはりまだ疲れるのですけれども、それでも以前よりはずいぶんとイエスさまとお話しする時間が増えたように思いますし、独りで賛美歌を口ずさむことも増えているように思います。
困ったと感じたときは、友人知人にお願いしてお祈りをしてもらいますし、教会(※注)でも祈ってもらいます。来年三月に結婚する予定のフィアンセにも祈ってもらうことが多々あります。つい最近までそういった祈りにあまり興味がなかった、祈りがどんなに大切な信仰生活の一部だと言うことがよく分かりませんでした。
しかし少しずつ少しずつ、祈ってもらえることに非常な喜びを感じるようになりました。そして同時に、自分も、友人知人が困っているときには、お祈りができるようになりました。教会では特に、困ったことをお互いにみんなの前で言って、お互いに祈り合う時をもうけていますので、私も参加して自分ではなくて他の参加者のことをイエスさまにお祈りします。
賛美については、ゴスペルに触れる機会が与えられつつあることが、最近の大きな変化です。賛美歌作曲家の武義和さんの賛美の会に参加したことや、フィアンセがゴスペルクワイアーに所属しているのでその方面からの影響が少しずつ私の頑なな魂を解きほぐしてくれました。そうはいってもまだまだ、賛美が不器用であるとは思いますし、ノリの良いクリスチャンの若者がかっこうよく賛美している環境にはまだまだ馴染めないのも事実です。
でもそれでも、あの人も、ああこの人も、主イエスがいないとだめなんだなあ、主イエスさえいればもう満足なんだなあということは良くわかります。そして自分の内面を振り返ったとき、私も同じ心持ちであることに気がつきます。あの人もこの人も、そして私もまったく同じように主イエスを慕っていることがわかるようになりました。感謝です。
最後に、私は二〇〇五年の無教会全国集会で若者の一人としてお話をしたのですが、そこで一つの過ちをしてしまいました。発表をスライドで行ったのですが、目の不自由な方々のことを全く考慮しないで話してしまったのです。スライドに向かって「これを見て頂ければお解りいただけると思いますが…」といって話を進めてしまい、目が見えない方の場合はどうすればよいのかに全く考えが及びませんでした。全国集会の最後にもうけられた参加者の感想のときに指摘され、「しまった」と思いました。この場をお借りして謝りたいと思います。ごめんなさい。

※注 私が通っているのは聖書にあるような「家の教会」で、「喜びバプテスト家の教会」と言います。高校で美術を教えている画家の古川勝之さんが自宅の一室を開放して礼拝しています。「精神障害者当事者専門家」の古川奈都子さんはじめ、二、三人で毎週日曜日に礼拝しています。奈都子さんの著作に「心を病むってどういうこと?―精神病の体験者より」(ぶどう社)があり、この本を通して、私はこの教会に通うようになりました。                      (学生)

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リストマーク主が導いてくださる          S.Y

 今年も主のお守りのうちに一年を過ごせたことを、主に感謝します。
 二〇〇六年、私達家族は移動の年となりました。六年前に家族四人でタイのバンコクへ発ち、今年の四月にマレーシアのクアラルンプールから次女と二人で帰ってきました。夫の転勤にはできるだけ家族も一緒に行く、というスタイルでこれまできた私達家族ですが、今回は思い通りにはなりませんでした。それは、中学生になる娘が、将来途中で転校することを嫌がったことも理由のひとつですが、それよりも、高齢になった父たちのことが重要課題でした。というのは、義父は十二年前に母をなくして以来一人暮らしで、八十五歳になりました。私の父も八十三歳で同じく一人暮らしです。今まで私達が遠く離れて暮らすことに、何一つ不服を言うこともなく支えてきてくれた父たちに、これからも心細い思いをさせることはできないと思いました。しかし、そのように考えるようになってからも、家族が離れることに不安もあり、心のどこかで、マレーシアでの生活に執着している自分がいました。そんな時に「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。」(民数記十三・27)とのみ言葉が目に留まりました。思い返せば、私がどこへ行っても(正確には神様が導かれたのですが)必ず主は共にいてくださって、教会生活が守られ恵みに満たされた日々でした。その主が、日本に帰ろうという思いを私に与えてくださったのだから、み心でないはずがないと確信させられたのです。
 これまで行く先々で出会うことのゆるされた方々との主にある交わり、それ以外にも親しくなった友人達との別れは寂しいものですが、帰ってからもいろいろな形で交流が続けられることもまた恵みです。それと忘れてならないのは、六年前に別れた兄弟姉妹にすぐに交わりに加えていただき、共に主を賛美し祈りあうことができる大きな恵みをいただいていることです。
 家族は今、夫がマレーシア、長女は埼玉、次女と私は大阪と離れ離れですが、メールという便利なもので連絡を取り合いながらそれぞれの地で暮らしています。一方父たちは、幸い元気で今も一人暮らしではありますが、距離が縮まったことにとても安心したようです。神様との距離もぐっと近くなってくれたらと祈るこのごろです。どこに行っても「私があなたと共にいる。」といってくださる主に導かれることの幸いを心から感謝します。

リストマークみ言葉の力に支えられて            S.M

 二〇〇六年の年明けから、私のまわりでは小説やドラマになりそうなくらい、次々と難しい問題が起こりました。家族の病気や土地家屋のことで近隣の人たちとのトラブルなど、厳しい試練の連続でした。どこまで行っても、出口が見えてこないような絶望感や、得体の知れない不安感、怒り、憎しみが、私の心を襲ってきました。でも、神様は、こんなわたしの心を憐れんでくださって、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私も信じなさい。」というみ言葉を与えて下さいました。それからは、少しずつ落ち着いてきて、何が起こっても、どんなひどい状況になったとしても、ただ主を仰いで信じて祈るしかないと確信することができるようになりました。苦境に立たされたときほど、み言葉からの力と光を強く受けることができます。そして、主がすぐ隣にいて慰め、励まして下さっていることがよくわかります。
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も、口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて繁栄をもたらす。」(詩編一・2ー3)
 このみ言葉は、ある家庭集会で詩編の学びが始まり、そこで教えて頂いて、今もわたしの心に強く残っているみ言葉です。心がぐらぐらと動いている時でしたので、大きな支えとなってくれました。
 どんな人でも、何の職業を持っていても、どんな環境におかれていても、人の行く道はたくさんあるように見えても、たったふたつの道しかないと教えられました。それは、主に逆らって、裁きを受けるか、それとも主に従って祝福されるか。このどちらかふたつの道しかないと言われたことが、私にとって、とても大きな力となりました。歩んでいくべき道が、はっきりと見えてきて、開かれたような気がしました。
 「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主である私はその番人。常に水を注ぎ、害するもののないよう夜も昼もそれを見守る。」(イザヤ二七・2ー3)
 このみ言葉は、最近友人から、メールで送られたものです。主は、色々な人を通して、今私に最もふさわしいみ言葉を示して下さっていることを思い感謝です。私のまわりは、まだ水面下に潜んでいる問題がたくさんありそうなので、いつ、どんな事がおこるか予想できませんが、どんな中にあっても、まっすぐに主を見あげて進んで行きたいと思わされています。
                        (鍼師)

み言葉から
リストマーク          S.K

 マタイによる福音書二二章35節~40
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

知恵の書一章1節
 国を治めるものたちよ 義を愛せよ
 善良な心で主を思い 素直な心で主を求めよ

律法全体・預言書・詩篇は全うされなければならない。
父、御子・聖霊。過去・現在・未来。天地・宇宙・・・、花、色・形、香り・・・
全て神様の御性質(三位一体)をあらわして、かつ、私たちはイエス様によって「知っている方を礼拝している」幸いです。
だから「祈りなさい」と「賛美しなさい(喜びなさい)」と「来なさい(求め、確信しなさい)」祈りは信じる力を強くしてくださる。信じると祈らずにはいられない。
他のことごとは全て添えて与えられていると「御国は来ていると」。
「起きなさい。」・・・私たちを憐れんできてくださった。私たち一人一人の最も好い時、よい場所、良いもので。「主のもので悪いものはない。」
ただ、私がそれを受け取れるようにと私を変えてくださる。さらに良いもので。
「信じないものとならず、信じるものとなりなさい。」主よ 憐れんでください。」AMEN
                       (鍼灸師)

リストマーク心に残った聖句        S.H

 そこでイエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。誰でもこの山に向かい『立ち上がって海に飛び込め』と言い、少しも疑わず自分の言うとおりになると信じるならばそのとおりになる。だから言っておく。祈り求めるものは全てすでに得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」               (マルコ十一・2224
                       (三療師)

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リストマーク私にとっての聖書         S.Y

 わたしにとって土曜日は、かつて火の車でした。それは明日日曜日にしなければならない礼拝講話の準備をしなければならないからでした。だから、土曜日になると、わたしの机の上は、いろいろな注解書や辞書や、などでいつも山になっていました。私はあっちの本を開いては、何か印象に残る言葉がないかと血眼になり、今度は別の本を読んでみて、明日の話の種を探す、といった風で、一生懸命ではありましたけれど全く余裕がありませんでした。こんな風でしたから、時には、夜遅くなっても、明日何を話してよいのかさっぱりまとまらず、ある時などは、夜中の一時二時になってもまだ、準備が出来ない、ということもありました。
 ところが、ある時を境にして、このような状態は一変してしまいました。いまから二十年程前になりますが、私は「アシュラム運動」というものの存在を知りました。朝日新聞社から出ていた三浦綾子さんの「ちいろば物語」を読んだのがきっかけでした。次の年の正月、琵琶湖のほとりで開かれるという「年頭」アシュラムに参加いたしました。これは私にとって実に大きな経験でした。わたしの、聖書に対する関係が一変してしまう程大きかったのです。それまでの私は、聖書を自分の力で読み解こうとしていたことが分かりました。だから、聖書は私にとっては、研究の対象でした。聖書のわたしに対する関係は、私が主で、聖書は従、つまりわたしによって研究される対象に過ぎませんでした。ところが、この時教えられたことは、「聖書に聴く」、ということでした。「聖書は読むものではなく聴くものだ」、といわれたのです。このことは、まさにコペルニクス的転換でした。それ以来、私は、聖書に一心に聴く、という姿勢で、毎朝聖書に向かいました。勿論聴くといっても読むわけですが、それまでとは違い、聖書を調べ、聖書を分解し解析するのではなく、聖書に書かれてあることを、そのままに一心に聴こうとするようになりました。それは、実に、聖書の言葉を通して、いま活きて働きたもう主の語られることに耳を傾けること、毎朝、密室にこもって、主にお会いするという習慣を私に備えてくれました。それ以来めっきり注解書や説明書を読むことが少なくなりました。何よりも聖書に聴くことのすばらしさが、少しずつ分かってきたからでした。聖書を解説するどんなに素晴らしい書物や神学書よりも、聖書そのものに一心に耳を傾けるようにして向かうことがどんなに大きな恵みであるかをますます示されております。そして、これは誰にでも出来ることである、ということがとてつもない神の恵みなのです。このことにおいて、このような道を示してくださった神に深く感謝するのです。そして、このことによって私は毎週の礼拝に語ることがとても楽しくなりました。勿論わたしの語ることは実に拙いことでしかないのですが。これからも、毎週皆様とご一緒に主を誉め讃えて参りたいと思っております。
              (浦和キリスト集会・精神科医)

リストマーク子供を授けられて         T.Y

「神は御心のままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ事を行なわせて下さるのです」(ピリピ二・13
夏の暑い日に、私たち夫婦に長男が生まれました。
名前を考えていたとき、偶然このみ言葉に出会い、『建志(けんじ)』と名付けました。
 子供が生まれてから、ふだんの生活の中で、神様の存在を感じるようになりました。そして、今までの人生を振り返ってみて、いろいろな所で助けられていたことにも気付きました。
私なりに、こんな子に育ってほしいという理想はありますが、神様がこの子に一番いい道を与えて下さることを信じて、これからも子育てしていこうと思います。

リストマークこの一年のニュースから         T.Y

 二〇〇六年を振り返ってみると、毎日のように、暗いニュースが報道されていました。とくに、飲酒運転のニュースが目立ったもので、検挙者も、増加傾向にありました。八月の事故では、子供が犠牲になるという最悪なもので、かなりの衝撃を受けました。
 飲酒運転のニュースを見ると、酒にまつわる、有名な聖書個所が思い出されます。
これ以上の犠牲者が出ないことを祈りたいものです。
最後に、聖書のことばを書きます。

「酒に酔いしれてはなりません。
それは身を持ち崩すもとです。
むしろ、霊に満たされ、
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、
主に向かって心からほめ歌いなさい。
そして、いつも、あらゆることについて、
わたしたちの主イエス・キリストの名により、
父である神に感謝しなさい。」
     (エフェソ書五章1820

リストマーク讃美歌一二一番によって          T.T

「すべてのものを あたえしすえ、
 死のほかなにも むくいられで、
 十字架のうえに あげられつつ、
 敵をゆるしし この人を見よ」(讃美歌百二十一番)

この一年、イエス様ではなく、自分中心な思いで歩んできました。
新しく始まった様々な歩み、その忙しさの中で祈る事が難しく、御言葉が心に届かず、神様が遠くにおられるように感じる事が多くありました。祈る事が少なくなると、どんどん自分中心な思いで一杯になり、心がカラカラに乾いていきました。
 カラカラになった心を満たす為、聖書を開きました。ですが、何にも変わりません。次に、神様に祈りました。しかし、何にも変わらないような気がしました。
 ある主日礼拝の時、讃美歌百二十一番を歌いました。これまで何度も歌ったはずでしたが、その日は特別にイエス様の美しさ、優しさ、真実さが輝いて見えました。乾いていた心が、満たされてゆくのが分かりました。
私に必要だったのはイエス様ご自身だったのだと、この時神様が教えてくださいました。
この讃美歌によって支えられました。   (サービス業)

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リストマーク愛されて生きる幸せ         T.E

「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
神はその一人子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。」  (Iヨハネ四・8~9)

私は長い間「愛」を知りませんでした。自尊心が強く、また、世の中に対して常に怒りを抱いていました。暗闇のイバラの道を手探りで歩いているような過酷な日々でした。言い過ぎではなく、「自分の目標を達成する以外に楽しみはない」と本気で思っていた私でした。
しかし、ある時期に私の人格の全てが打ち砕かれて壊されました。そして時間が経ち、聖書の神様の御言葉が砕かれた私の心を修復して下さいました。振り返ると全てが神様による私への最善の備えでした。その経験後から、自然にイエス様を救い主と確信し、また、十字架による私たちの罪の贖いも本当に理解することができました。あの時代に存在していなかった私の為にも血を流して下さったイエス様の愛。私の生まれて初めて実体験した「愛」です。この神様の愛はそれからずっと私を包んでいます。
 この二千年の歴史の中でどれだけ多くの人々が「神の愛」をイエス様から示されて希望を掴み、新しい人生を生きたのでしょうか。
神様に愛されていると実感しながら歩む日々は、毎日が新しく描かれるドラマです。神様という監督の見ている舞台で私の人生は「神の愛」というテーマの中で進んで行くのです。監督が愛の神様なので、私らしく生きて良いという楽しさがあります。
そしていつの間にか私の心に芽生えたもう一つの「愛」という花は、天の神様が創造された全てのものをただ、そのままの状態で愛おしいと感じる花です。花や木、動物、海、空、山…神様はこれらを完璧に美しくデザインしています。その美しさは私を慰めます。以前は興味がなかった自然の美しさが全て、神様から私達への贈り物だと今では感じるようになりました。

毎日、夕方は愛犬を散歩に連れて行きます。一日の中で一番楽しい時間です。オレンジ色の大空と沈む夕日を見ながら、目の前をチョコチョコ歩く愛犬の後ろ姿を追って、何事もなく一日のスケジュールを神様と共に無事に終えられたと感謝の気持ちで振り返ります。
愛犬の愛らしい顔をよくよく見ていると、こんなに小さな命の隅々までにも神様の深い愛を見る事ができます。そして、神様が私を愛してくれた分、私もこの小さな命を大切に愛していこうと思えるのです。そう考えながら神様と目の前の生命に向き合って、更に、愛されて生きる幸せをかみしめるのでした。
                       (会社員)

リストマーク小さき者たちも共に救われるように   T.T

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」       (使徒十六・31
今、私たちのキリスト集会関係の人たちに、幼な子が次々に誕生しています。かつて私たちの集会で集まっていた子供たちが成人して結婚して与えられた子たち、また集会に集っている人の孫たちだったり。
教育基本法が悪い方へ変えられようとしています。私の職場でも保育園の子供たちにかかる人件費などいろんな諸費が削られています。その中で、そうした小さき者たちが神様によって救われるようにと祈ります。また私にできることを示してください、神様。     (保育士)

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リストマーク讃美はいのち         T.T

無くてはならないものは、聖書の御言葉であるとの信仰を賜ってからこの弱い足りない私も何度も立ち返らせて頂き、生かされてまいりました。それだけで、本当に十分な恵みの日々でありましたが、神様の不思議な導きによりこの徳島聖書キリスト集会に集わせて頂くようになって初めて、讃美することがいかに重要で神様の恵みに満ち溢れていることであるかを教えられ、また、その讃美の中に身をおく平安を知らされました。
楽譜を見てもよく分からない私には讃美歌も聖歌もほんの少しの限られたものだけで二十年以上たってもほとんど知らないままでおりました。讃美することを、軽視していたのではありません。今思えば、讃美の恵みをしらなかったのです。
 礼拝のときの大勢の讃美だけでなく各家庭集会での讃美も恵みに満ちています。特に、T姉や、S姉の讃美を、間近で聞くと魂が打ち震えるような感動を覚えます。
私が聖書を初めて手にしたのは、十八才の時でした。チェイス先生という宣教師の先生の授業で頂いた英語対訳の小さな新約聖書でした。それを用いての日本語による授業でした。ビデオのように巻き戻しができたらとあとになって思うのですが、そのときのお話はほとんど覚えていないのですが、確かに神様は、私の心に種をまいてくださっていました。科学的社会主義というきいたこともなかった言葉を学び、民衆の力によって歴史は変えられていくというような唯物史観の立場で学んでいく中で、一歩も進めなくなった自分がおりました。幸せは制度や、経済と関係ないのでないか、また、自分ひとりのこともまったく無力なものであることに絶望しておりました。
 二十二歳のときでした。その時、人ではなく、さまざまな本を通して御言葉を神様はお与えくださっていること、希望の光が闇の中で示されました。トルストイ、三浦綾子さんの「道ありき」や小説、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟など、神様は、さまざまな言葉で、値なき私のまま「我に来よ」とよんでくださいました。聖研のTさんから新改訳の聖書を頂き、徳島聖書キリスト集会に集うようになるまで二十数年離さずそばにありました。生死をさまよう病を賜った時も平安を与えてくださいました。聖書を開きさえすれば神様は御翼で憩わせてくださいました。体は注射と薬で生きつないではおりますが、魂は、聖書の御言葉によって命の水として潤されております。
病気のため、目が見えにくくなってきた時、神様の不思議な導きによってこの集会に導かれました。今、集会で録音された、聖書講話や讃美が、家にいる時にもいつでも何度でも聞ける事が思いもかけなかったことで、神様の御手にただ感謝です。
不器用で特技もない私は、子供の本を借りるため図書館に行ったときに自分の読める信仰に関する本を見つけて借りて読んだりするのが、ささやかな楽しみでした。本も読みづらくなり、車の運転もできなくなった今、閉ざされていくことの多い中で、神様は、新しい世界を用意してくださいました。
讃美の世界です。今まで知らなかった讃美歌を、集会の方々の声によって録音してくださりCDやMP3プレーヤーで聞くことができることは、思いもかけない恵みです。体の痛みのある時は讃美をかけて歌詞に集中して聞くことでその言葉によって励まされ癒されます。今まで、讃美歌の歌詞を深く思いながら聞いたことは、ありませんでした。けれども現在では、私にとっては、讃美は心に染みとおる力があります。ほんの少しずつでも知っている讃美歌が増えていくことで、神様の御傍近くにいる平安を与えられています。
 イエス様は、十字架の上でご自身の死をもって、罪人である私たちに、永遠の命をお与えくださいました。天の国の大いなる集会において、心をひとつにしあなたを讃美できますように。
 今年の夏の北島の夕拝ではじめて聞いて心に残る讃美歌があります。
 
「主にありてぞ」

 一 主にありてぞ われは生くる
   われ主に 主われに ありて安し
  
 二 主にありてぞ われ死なばや
   主にある死こそは 命なれば 
     (新聖歌五一一番)

リストマーク不思議なこと     T.Y

 私はいままで徳島聖書キリスト集会に行っていることを主人に黙っていました。でもいつでも言えるように準備は出来ていました。二回ほど言うチャンスがありましたが私は一言も言えませんでした。その時の私はなんと信仰が薄いのだろうと思い、自分自身落ち込んでいました。「どこへいくの?」と聞かれたときには言おうと思っていましたが私が毎週集会に行っているのに知らん顔をされたり無視されたりしていたので私も黙って集会に行っていました。
 そんなときに可愛がっていた犬がなくなりました。悲しくて涙が止まりませんでしたが、自分では心の中では犬は犬だと言う気持ちがあって泣いているのにその涙が犬の為に泣いているのと違うような、自分自身の為に泣いていて、泣く事によって自分が洗い流されたような気がしていました。少しずつ自分が変えられていくのがわかりました。
 それから何日かたって首、肩、背中と痛くなり鍼治療にいき「Tさんこの痛みを取って、痛いよ。」といいながら治療を受けました。そして、治療を受けて少し楽になったらすぐに家の仕事をしたらまた悪くなり鍼の治療に行きました。そしたら、無理をしないように注意してくださり、一度病院を受診することを勧められました。私はいいわけに誰も家のことしてくれないとか、やってもらいたくないと言う気持ちを訴えました。「お父さんや娘さんに自分のことを話して助けてもらいなさい。」とTさんにアドバイスされ、家に帰ってそのように言ってみました。すると、みんなが協力してくれて本当にうれしかったです。いままで本当に話をしなかったのに私の傲慢さ、憎しみがなくなり腹の立つこともなく、なんでも話ができるようになり毎日が明るくなりました。
 八月二七日には特別集会に出席したいと思いながら日が過ぎていき二六日の夜には絶対に言ってみようと思いましたが主人が「今日はもう寝る。」と言って言えませんでした。二七日の朝主人は早朝の運動をいつもより早く帰ってきたので、どうしよう、言おうかと思っているときに後から誰かが押したような感じがしました。私はその時Tさんが教えてくれた御言葉で、「私達が神様を選んだのではない神様が私を選んでくださった」と言う言葉が頭の中にあり神様が私と一緒にいてくれると思ったらすぐに主人に「毎週私聖書の勉強とお祈りをしているの。今日田宮まで送って行ってくれる。」と言うことができました。そしたら主人は「いいよ。」と言ってくれました。私はいままでの重荷(集会に行っていることを言えなかったこと)が取れて肩がすごく軽くなったような気がしました。私は玄関で涙ぐんでしまいました。その時に神様ありがとうと心の中で感謝しました。また、帰りも迎えに来てくれました。娘が幼稚園から高校までの成長期間に言おう言おうという気持ちがあったけれど、もしかしたら嫌みを言われてしまうのではないか、とか、行くなと言われたらどうしよう、とか思い、なかなか言えませんでした。病気になっていろいろな御言葉が私の心の中に入り、神様の時がある事も分かり、助けられました。(主婦)

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リストマーク心に残るみ言葉      T.E

「その人はわたしを宴の家に伴い、わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。」(雅歌二・4)

 雅歌は男女の恋愛の形で書かれていますが、それは神様とキリスト者との愛として受け取ることができると学びました。
その中で、特に二章四節の愛の旗のみ言葉を、「私のうえに翻る旗、それは愛であった。」と言い換えて下さり、より深く心に残りました。
 どんな苦しみのなかにあっても、私が見上げることができないときでも、力強く神様の愛の旗が翻っていて、見守ってくださっていることを信じられたら、置かれた状況を希望を持って耐えることができそうです。それほどキリストを信じる人には神様、キリストの愛の旗が翻っています。
 一人一人のうえに、また集会のうえにイエス様の愛の旗が翻ってくださるようにと祈ります。

 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ十五・3)

 イエス様の言葉を受け入れて信じたら清められる。罪に汚れ、弱さのなかにある私に、主イエス様はこのように言ってくださっています。それも、今み言葉を聞いて信じるなら「すでに清くなっている」と言ってくださっています。
 十五章五節に、イエス様につながればゆたかに実を結ぶとあります。でも、イエス様につながらなければ裁きがあります。十五章六節で、イエス様につながっていなければ、火に投げ入れられ焼かれてしまうと。この厳しさをもイエス様は言われました。
 学びのなかで、苦しみのなかで、み言葉を信じ受け入れて、み言葉につながり続けて清められたいと祈ります。
                      (鍼治療院)

リストマーク神の愛       T.M

 現在、いじめによって自分の命を捨ててしまっている人が多い世の中で、神に、神の愛に救いを求めていたら…
 信仰の言葉
「み言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。主の名を呼び求める者は誰でも救われる。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。」アーメン。
(ローマ十・8~36)             (会社員)

リストマーク祈り       T.K

  今日の聖書の学びは、ルカ九章二八~三一の箇所。「イエスの姿が変わる」有名な箇所だった。その中から「祈るために山に登られた」とか、「祈っておられるうちに」と最初の出だしにある。ルカ福音書にはイエス様が祈られた箇所が沢山出て来る。
 「祈っておられると、聖霊が降った」 (三・21)とある。祈りにより始まっている。祈りがなければ出発出来ない。
「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(六・12)とある、最も大切な弟子を選ぶ時であった。(一八・1)では、気を落とさないで絶えず祈らなければならない事が言われている。他にも「主の祈りの」箇所、「ゲッセマネの祈りの箇所」等沢山出て来る。
 祈りは神様と私たちをつなぐパイプだとも言われていた。また、「祈りは呼吸するがごとき」と書いてあるのを読んだ記憶がある。
 一日の始まりも祈りで始まり。一日の終わりも祈りで終わる。食前の祈り、決められた時の祈り、困った時には神様に呼びかけ、また感謝を捧げる。私たちは、呼びかける方、より頼む方を持っていると言う事は嬉しい事だ。
 どうするべきか。道を迷う時も祈る事により、道を教えてくれる。
ずっと以前に、「はこ舟」(今の「『いのちの水』誌の以前の名称」)を持ってある姉妹を訪ねた。いつもは、誌を渡して直ぐに帰るのだが、ちょうどその日はTさんも教会から帰っていたので、ちょっとお邪魔をしてお交わりを持った。そして私が帰る時「お祈りをしよう」と祈りをした。とても嬉しかった。クリスチャンのあるべき姿であり家庭なのだと思った。早速私も試みた。でもその習慣のない私には長続きはしませんでした。いつの間にか止まっていたのです。でもまたそうしてみよう。神様を見上げてそうしてみよう。「呼吸するがごとく祈る」と言うのは、いつもいつもイエス様を見上げているのだろう。
ロマ書八・26には、聖霊自ら、弱い私たちの為に執り成して下さっている事が書かれています。1テサロニケ五・17にも、「絶えず祈りなさい」とある。イエス様とのパイプは細い細いものかも知れませんが、太いパイプにして行きたいものです。
                        (主婦)

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リストマーク神にあっての平和      T.M

 世界には、神を離れて様々な問題がある。
 核の脅威や飢餓、また、私の周囲を見回しても実に様々な問題で溢れている。
 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ二・14
 主が、この世のすべての人々の平和を願っておられることは、聖書を読むたびに痛感する。ありがたいことだと早朝に祈る。祈りが一日の始まりとなる。
 主は、世の人々がみ心にかなうまで忍耐強く待っていてくださる。み心にかなう人とは、主にあっては、心を尽くし、その栄光を日々讃美し、この世にあっては、隣人愛の心を持って、誠実さを忘れず、主にあって一つの身体である兄弟姉妹が互いに助け合って生きていくことの実現だと考える。これらのことを実践することは、そんなに困難ではない筈だ。
 旅の途中でしかないこの世に宝をたくわえるために、自分さえ良ければよいと考えることの虚しさに気づくことができれば良いのだ。貧しい人々にも充分な食糧を確保してもらうことは決して不可能ではないだけの食糧は生産されている。
 私達は主にあって、一つの身体であることを忘れてはならない。力のある者は弱い者を補って平和な世界が実現できることは、主のみ心だと考える。そして、その平和な世界の到来を主に深く感謝し、こうして主を讃美できる自分を感謝して日々、祈りの中で生きていく。
 私はクリスチャンになって日が浅く、聖書もやっと二回通読できそうな予定で、理解も浅いが、主はこんな未熟な私に、皆様と同じ量の愛を注いで下さる。感謝である。
主に感謝しながら筆を進める今。私の心は平安に満たされている。
 皆様が、主にあってご平安でありますようお祈り申しあげます。
  (ホームヘルパー)

リストマーク弱さについて         T.M

  わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。そのことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」  (Ⅱコリント十二・7~9)
 
弱さといじめ
 弱さの克服といわれる場合、弱さの価値は認められていない。弱さに打ち勝ってはじめてそれは評価される。けれど弱さは単に克服されるべきものだろうか。弱いからこそ見えてくる真実があり、弱さの中でしか味わえない喜びもあるのではないか。弱さとは強さの欠如ではなく、それ自体に固有の意味があり価値があると僕は思う。だから、弱さは否認されるべきものでないとしたら、僕たちは今よりさらに深く弱さへと降り下ることしか出来ないのではないか。自己の弱さを受け入れ、その弱さを徹底的に生き抜く、それで十分なのではないか。
この間、いじめっ子といじめられっ子が本音を語るテレビ討論会があった。それはいじめの実情を子供たちの生の視点からとらえようとする企画だった。画面で、いじめっ子たちは盛んにいじめられるほうが悪いんだと主張していたが、驚いたのは、いじめられっ子たちもいじめられる自分たちを悪いと考えていることだった。彼らは自分の弱みを友だちや先生はもちろん親にさえみせない。たまたまいじめを受けて親にそのことを打ち明けたら、親から「どうしてやり返さないの」といってしかりつけられた子供もいたくらいだった。どうやら現代の家庭では「いじめは卑怯者のすることである」という考え方はとっくの昔に廃れてしまって、「いじめられたらやりかえせ」が主流となってしまったらしい。現代の子供たちの世界では弱さは大罪なのである。
 
弱さの悲しみ

 私の妻は二分おきにトイレにいきます。いかなくてもいいよ、と言い聞かせるのですが、時間の感覚が狂ってしまっているのです。
 彼女は真夜中でも目を覚まして、外を徘徊しようとします。少しも彼女から目を放せません。この間、とても悲しいことがありました。夜中に立ち歩き、何回も何回も玄関のチェーンをガチャガチャ引きちぎって外にでようとするのです。空が白々と明け始めても止めませんでした。
 「どうして言うことをきいてくれないの」
 指示が入らず一睡も出来ない私は、とうとう切れてしまいました。妻を叩いてしまったのです、病気の妻を…。結婚して以来はじめてのことでした。自分でもどうしてそんなことをしたのか分かりません。そのとき私はイエス様を殴っているように感じました。胸がキリキリと痛みました。彼女はよっぽど辛かったのでしょう、
 「これからお墓に入ります」
 そういって、悲しそうな目で私を見つめました。

弱さの器

 今私は、妻の介護の明け暮れの中で、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という言葉をかみしめている。彼女は身の回りのことはほとんどできない。着脱や摂食はおろか、排泄や入眠さえできない。けれど彼女は彼女の不随意運動を見守る夫に向かって、晴れた表情で「おとうさんと結婚してよかった、おとうさんと結婚してよかった」と言ってくれる。また「ありがとう、ありがとう」と言って周囲の皆に感謝している。健常者とみなされている私たちの方こそ弱さそのものの彼女から生きる力を確実にもらっている。それは正しくキリストが最も弱いところに御力をあらわしてくださっているからである。その事実を目の当たりにした私は弱さに関して一つの確信に到達した。それはすなわち、人の弱さは神の恵みの力が働く場であるということである。人が肉体と精神に深い傷を負っているとしても、自分の弱さを押し隠したり、あるいはことさらに強さを志向したりする必要は全くないのであって、神の前で自らの弱さを有りのままにさらけ出していいのではないだろうか!神に力を発揮していただくために私たちに出来ることは、弱者そのものに成り切ることではないだろうか!私たちがこの世界に召し出されたのは、神の恵みのパワーを自分の弱さという器でしっかり受けとめ感謝するためではないだろうか!

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リストマーク「悔い改めねば皆滅びる」          T.T

「イエスはお答えになった。
『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いものだったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」
                   (ルカ十三・2~3)

 毎日のニュースで報道される災難は何故起きるのか、また何故被害者のその人たちにだけ災難が起こったのか? 病気でも天災でも死でも、人生のすべての不幸は、罪に対する罰ではないかという恐れの念を、人は生来みな持っている。そして特別な不幸に遭うと、その人の罪のゆえではないかと考える。しかし、イエスは「決してそうではない」とはっきり言われた。
 イエスは言われる「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
                   (マタイ五・22
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」        (同五・28
イエスは人の心に潜む罪をご覧になる。
「こうしてすべての人の口がふさがり、世界中の人が神に対して罪なしと言うことはできないのである」
                  (ローマ人へ三・19
 神の前に罪なしと言い得る人は一人も無い。アダムの罪によって人は一人残らず罪の中に生まれ、罪の中に生かされている。                 (ローマ三・1018
 もし ソドムの町に正しい者が十人いれば「その十人のためにわたしは滅ぼさない」 (創世記十八・32)と主は言われたが、正しい者がいなくて、ソドムの者は皆滅ぼされた。人はみな神の前に同罪である。同罪であるばかりでなく、共同責任である。
「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらの事をする者である」(イザヤ四五・7)という聖書の言は実に恐るべき言である。 即ち、不幸や災難は、個人に対するものも民族に対するものも、みな神がその罪に対して降されるものであり、決して偶然の出来事ではないというのである。
 それでは、なぜ神は特定の人を打たれるのか?イエスは「決してそうではない」と断言された。神が特定の人だけを打ち給うのは、その人たちを罰するためではなく、彼らによって人々を戒め給うのである。即ち彼らを犠牲として、すべての人が同じ運命にあることを他の人々にも示し、最後の日における恐るべき審判がすべての人に臨むことを教えておられる。
 しかし何故、神は、この人、あの人を選んで災難に遭わせられるのであろうか?これは、人間のだれにもわからない。 ただ、わたしたち神に選ばれて信仰を与えられたクリスチャンは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・16)のみ言葉により、神がその聖なる御心によって、救いのために最善をなし給うことを信じて神の御前にひれ伏すのみである。
「あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる」と言われるこのイエスの言は、現在の日本に対して 「耳ある者は聞け」と言われる神の警告であり、それはまた、自分への審判に対する神の愛の警告である。クリスチャンの一人ひとりに 「この世でなくキリストの奴隷として、信仰により生きているのか」が、今問われている。               (商業)

リストマーク信仰とは信じること(その2)         U.S

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ十一・1)
 「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし母は召使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。ヨハネ二章四~五節のみ言葉であります。イエス様のお答えは、母マリアのお頼みに対して。明らかに拒否されたお言葉でありました。しかし、神を信じ、どこまでもイエス様を信頼していられる彼女は、召使いたちに、イエス様から何かご要望があれば、その通りに実行してください、と言い残して離れて行かれたようであります。
 信じるとは何か、どのような行為を意味するのでしょうか。
 この世はわたしたちをして、幼少から否応なく人に頼る愚を戒め、自立と自我確立の精神を育ててきましたが、同時に、素直に他を信じる心も淘汰されてしまっているように思われます。これから先のこと、これから起ころうとすることは、誰にもわからないし、確信もありません。そこには大なり小なり、不安と恐れがつきまといます。たとい、一時的な状況に自分を委ねましたとしても、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り去られる」とのみ言葉の前には、所詮だましきることはできません。
 「それは天にあるものではないから、『誰かが天に昇り、わたしたちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。
 み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記三十・1214)とあります。。み言葉こそは、わたしたちの「道であり、真理であり、命」であります。不確かなもろもろのこの世のものに、心を煩わされることなく、ひたすらみ言葉を信じ、口に出して祈ることであります。
 「何ごとも時あり、天の下、出来事には、すべて定められた時がある。」(コレヘト三・1)と、そして、「人が労苦してみたところで何になろう。」とあります。なすには何ごとにも時があり、人には、その時を変えることも、ひっくり返すこともできないと言っているように思います。わたしはここで再び冒頭に上げているイエス様のみ言葉を思い出さないわけにはいきません。イエス様の「わたしの時はまだ来ていません。」との拒否のお言葉にもかかわらず、彼女の神を信ずる深い信仰とゆるぎないイエス様に対する信頼は、よくその神の時を(変えたのではなく)満たしめたのではないでしょうか。
「イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでも、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。」(マルコ十一・2223
わたしたちは他に右顧左べんする必要はありません。心に信じて、自分の言葉を口に出し、自分の願いを素直に神に訴え祈れば、神は必ず聞いてくださいます。パウロは、「善いことも悪いことも万事が益になるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ八・28)と言われます。
 わたしの小さな経験ではありますが、今日では当時の苦しかったこと、辛かったことが、現実にわたしの心と健康の支えとなっていることがわかります。

リストマーク伝道集会での学び       I.H

今年の十一月の大分市 梅木宅での伝道集会に参加しましたが、その時の吉村さんの聖書講話を録音してあったので、そのテープを再聴しながら
  マタイ福音書の十三章にに出てくる「天の国」のたとえとは、人が死んだ後に行くとされるいわゆる天国のたとえではなくて神様が王として支配されるその支配のことを言っているのだ。
そこで宝(神の真理)を見つけるとこの世では重要だと思われている名誉、地位、お金の豊かさ、娯楽などが自然と必要ではなくなってゆくという学び。
教師時代に暴力などを行なっていた生徒たちに、授業などを通して本当に良き物を提供してゆくと自然と暴力が治まっていった話。
キリストの「種」は、はじめは目に見えないほど小さくても、神様の力が臨んだらそれはじわじわと膨らんでゆく。どんな反対や滅ぼそうとする力があっても国の体制が変わろうとも膨らんでゆくこと。
種まきのたとえでは、どんな食べられてしまうような力や枯らそうとする力があってもよき地があって歴史の中で確実に実を結ぶ、これは○○さんは、石地に蒔かれたような人だとか言って、人を裁くためのたとえではない。…
などを学ばせていただきました。
私も毎日の生活の中で自分の心の中を占める割合がこの世のことよりも神様のことのほうが以前に比べてだいぶ大きくなっているように思います。
また福岡での聖書講話も「いのちの水」を通して拝見しました。トルストイの「アンナ・カレーニナ」のことが書かれていました。
私はトルストイの短編はいくつか読みましたが、長編に挑戦しようとして「戦争と平和」を読んでいましたが一巻の途中で挫折していたところでした。 今度機会があれば「アンナ・カレーニナ」に挑戦してみたいと思います。
私も時々「自分はいったい何のために生きているのか、生きる目的は何か」と自問することがあります。また、この世の人間は何のために生きているのだろうとも。
そんな時に、引用されていたところにあった老人の言った「わかりきったことじゃありませんか。真理に従って、神様のために生きていくだけですよ」という単純な答えが真理のように思えてきます。そのことが一番平安に生きる道ではないかと。

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リストマークあとがき

今年もここに、さまざまの人たちによる文章が集められました。短い聖句のみ、あるいは聖書の感想や、日常の歩みなど、内容はそれぞれですが、いずれも書いた一人一人を主が導いて下さっていること、主の大きな御手のうちにあることを感じさせるものとなっています。
さまざまの野の花がいろいろな場所に自由に咲いているように、ここに集められた文もそれぞれの心のある部分を表し、それが信仰によって咲いている一つの花だと感じられます。
「二人三人、主の名によって集まるところに、私はいる」と主イエスは約束されました。この文集もまた、主の名によって集められた文であり、そこに主が働いて下さっていることを信じることができます。
祈りも一人の祈りもあれば、複数の祈りがあります。
聖霊がたくさんの人たちに、最も豊かにあふれるように注がれたのは、使徒言行録二章に記されているように主の言葉に従って祈りのうちに待ち望みつつある、信徒たちの集まりに対してであったのです。
また、何らかの行動にしても、単独のよきわざもあれば、複数の人によって初めてなされるようなことも多くあります。キリスト教が初めて日本などの遠い異国に伝えられたとき、そこに命をかけて出向いていった人は一人あるいは少数である場合もありましたが、しかしその背後には、たくさんの人たちの祈りと物質的な援助、支えがあった共同のはたらきなのでありました。
 この文集も、主の祝福を受けて、複数のこうした人達の文によってのみなされるはたらきを主がして下さることを信じ、願います。
 今回の文集はナ行の人から順に掲載しています。なお、多くはパソコンで入力され、インターネットなどで送られてきましたが、それ以外の原稿の入力や、校正、レイアウトなどは集会のいろいろな方々によってなされたことを感謝します。                 (TY

光は闇の中に輝いている。
   
闇はこれに打ち勝たなかった。
     
        (ヨハネ福音書一・5)

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