詩文集 第8 集
十字架からの風を受けて
著者 貝出 久美子(徳島聖書キリスト集会員)

病院の朝

ナースステーション
朝六時
東に向かった大きな窓から
朝陽が差し込んでくる
長い夜が終わって
一人一人の患者さんの一日がまた始まる
痛み止めの白いシロップを計って注ぐ
その薬に朝陽が輝いている
ああ主よ
どうか全ての薬が祝福されて
あなたの癒しが与えられますように
この朝の光を
病気の闇に注いで下さい


礼拝

こころがとかされて
安らかに 安らかに
なんと感謝なことだろう
こころがとかされて
安らかになっていく
主よ
礼拝を
ありがとうございます。


シュウカイドウの花

主日礼拝の机の上に飾られた
シュウカイドウの花がゆれている
みんなを見ている
微笑んでいる
主日礼拝の讃美の中で
シュウカイドウの花が歌っている
シュウカイドウの花が祈っている
今日の主日礼拝は
シュウカイドウといっしょだった。


主のまなざし

雲間から差す陽の光は
キリストのまなざし
まっすぐに
わたしに向けられる
風が吹き
主がわたしを呼んでくださる
わたしには大切なものがたくさんあるけれど

主よ
あなたのまなざしの他には
わたしはなにもいらない


白いアセビ

真っ白な野生のアセビの花
この白さは、天使の羽
そっと揺らせば天使の鈴

風を受けたらアセビの花は
羽のように飛んで行きそう
遠い山里の家の中で
泣いてる人を見かけたら
シャラシャラシャラと鳴り出して
天使の鈴の音響かせる


スミレ…夜勤明け

もう限界…
とぼとぼ、ふらふら、家に帰る夜勤明け
ぼんやりした頭、疲れた心
駐車場まで来て鍵がない
いつまでも車の鍵を探している
頭が痛い…とうなだれた
その足元のコンクリートの隙間から
小さなスミレのつぼみたち!
ああ
うなだれている場合ではない
元気になって元気になって神様のために働こう
朝の空気を吸い込んで空を仰ぐ
こんな駐車場で排気ガスをあびながらスミレたちは
並んで薄紫のつぼみをつけている
鍵が見つかった
さあ、わたしも元気に帰ろう!
スミレ…日勤の帰り

仕事から帰ろうとすると
駐車場のコンクリートの隙間
こんな所に小さなスミレが咲いている
仕事で疲れてかちかちになった心と体
逃げ出したいような思いだった
「おかれたところで咲いているよ」
スミレが呼びかける
主よ
ここがわたしのおかれたところ
あなたは全てを支配しておられる
コンクリートに咲くスミレのように
わたしもその全能の御手で導いてください
わたしの願いではなくあなたのみ旨がなりますように
スミレの花の隣には
種をつけた小さなスミレが
いつか咲くために神様の時を待っていた

どこにあるのか

どこにあるのか
神の御支配は
求めても
内なる罪は消えず
心の中の根強い闇は
思わぬ時に心を覆う。
祈ってもなおこの罪にまみれた心よ
求めても
古い自分は死なないではないか
ああ
十字架の主イエス・キリスト
だからわたしは死んだのだと
その罪のために死んだのだと
十字架の血で贖い続けてくださる主よ


スイセンの祈り

スイセンは、
頭を垂れて手を合わせ
誰かのことを祈っている


ふたつの力

わたしを神様から引き離そうとする力と
いっそう神様に近づけようとする力と
ふたつの力がわたしをとりまいている。
あまり疲れると
足元をすくわれそうになる。
しかし
このふたつの力を
完全に支配される方は
まどろむことなくわたしを守ってくださる方。
何があっても
何があっても
神様はわたしを
捕らえ続けていて下さる。


白い雲の中

すいこまれていくような青空に浮かぶ
あの白い雲に
そっと手を触れたら
やわらかくて
雲の中にすっと入ってしまうでしょう
その中は白い光の世界
優しい光に包まれて
きっと
すやすや眠ってしまうでしょう


雲間の光

一日中
地の上を駆けめぐって働き終えた主の天使たちが
雲を通り抜けて天に帰る
空に広がる夕暮れの雲の間から
天使の衣の光がこぼれて輝く

神様は愛だよ
神様は愛なんだよ

人の悲しみを見続けてきた天使たちは
通り抜けていく雲間から最後の光を放ち
神様の愛を
地上に知らせ続ける


心の野原に


心の野原に花が咲く
白い祈りの花が咲く
心の野原に風が吹き
白い祈りの花香る


いのちの水

橋の上に立って
川を見ていると
川の水が
わたしに向かって押し寄せてくる
御座から流れるいのちの水が
押し寄せて
押し寄せて
わたしに向かって流れてくる
主よ
このままわたしを押し流してください
罪も汚れも洗い流し
あなたの流れの中に溶かしてください


ふるさと

河辺に生えたタラノキも
土手でなびくチガヤの穂も
みんなどこから来たのかな

遠い空に浮かぶ雲
梢を揺らす初夏の風
みんなどこに行くのかな

わたしも同じ
みんなと同じ
神様のもとからやって来た。
おかれたところを喜んで
感謝と讃美を捧げたら
さあ、いつの日か帰りましょう
神様の許へ帰りましょう


小さなホトケノザの花

「おかあさん」
母の病室を訪れる
小さなコップに
ホトケノザの花が飾られている
母は老いてつらそうに私を見る
こころが痛い
主よ
この悲しみも
あなたからいただいたこと
うす紅色のホトケノザが
優しくわたしを見つめる


母の最後の夜

二月十四日十八時十分 母のベッドサイドにわたしは座っている
脈拍数100 呼吸数50 意識無し
対光反射プラス  睫毛反射プラス 痛み刺激の反応無し

母が死んでしまう。
悲しみの多かった母の人生
ひとつの人生が終わろうとしている
主よ
神よ
あなたは人を創られた
いのちを与え世に送り地の上に生まれて生かされ
そして死んでいく
わたしに最も長く関わってくれた人
一番、心を注いでくれた人
お母さん
お母さんが死んでしまう
十三日の夜、病室を訪れて「お母さん、おやすみ」と言った。
「帰ってくるね」と言って帰った。
そしてもう今、意識がない。
お母さん
お母さん
いのちの灯火がちかちかと最後の光を放っている
だんだん暗くなってくる
八十五歳
いろんなことがあった母の人生
ピ・ピ・ピ・ピ…心電図の音
病院で聞き慣れた心電図の音
波を描くような心電図の波形
数え切れなく見てきた画面
末期の呼吸も今までに何度も見てきた
そして今
最後の呼吸をしているのはわたしの母だ
ベッドサイドに座って母の頭を抱える。
ああ、良くわかった
大切な人が亡くなるときの家族の気持ちが
今、痛いほどわかった。
入院患者さんが亡くなるとき
残されていく家族の涙を思い出す。
さっきから、わたしは何度も何度も母のまつげを触っている
まつげを触ると目がぴくっと動く
睫毛反射プラス。まだ母は死なない
何度も何度も睫毛を触っている
一晩中、わたしは睫毛反射を見ているかもしれない
顔を触られるのが嫌いだった母は嫌がっているだろう。
八十五歳の母に
わたしはこんなに生きていて欲しいのだ。
深夜勤務明けの疲れは、重い服を着ているようにのしかかる。
体中が苦しいけれど
わたしはこんなにこの母を愛していたのだと体の疲れがわたしに教える。
どんなに疲れてもかまわない
ただ、お母さん
生きて。
イエス様のところに帰っていくとしても
それでもお母さん
もう少し生きて
生きて。
苦しそうに呼吸をする母にわたしは生きていて欲しいと願っている
それは、わたしの自分勝手な願い
本当はもういいんだよ
苦しいね。お母さん。
点滴がぽたぽたと落ち
心電図の電子音が響き
規則的で苦しそうな呼吸が続き
母の最後の時間を刻んでいる
ああ
それでもなお
わたしは母に
生きていて欲しいと願っている。


母へ
 ごめん。お母さん、ごめん。
 死んでしまうとは思わなかった。
 ごめんね、最後に一緒にいなくてごめん。ごめん、ごめん、ごめん。
 寂しいとよく 言っていたのにごめん。
 お母さんは死なないと思っていたのに、死んでしまった。
 もう、話ができない。
 でも信じられない。
 いろいろと大変なこともいっぱいあった。わたしは母を苦しめた。
 どうしたらいい?でも、どうしようもない。
 お母さん
 でも、今、お母さんが、こんなに近くにいると感じるのは、
 イエス様のところにいるからでしょう。
 お母さん、イエス様は優しいでしょう。
 お母さんは、すぐにイエス様の名前を忘れて、
 「紙に名前を書いて」と言われて書いたけれど、
  それでもやっぱり「イエス様」という発音ができなくて、
 「ウエさま」な んて言っていた。
  おかあさん、もう、イエス様の顔を見たからよくわかったでしょう。
 「嫁さんにいったんやけん、ちゃんと仕えなあかんでよ。」
 「ぜいたくしたらあかんでよ。」
 お母さんにいつも言われていたことが、今、心の耳に話しかけてくる。
 イエス様にいわれたの?
 わかりました。
 お母さんがいつも見ている。
 厳しいね。
 わたしも、もうちょっとちゃんとできるように守ってね。
 お母さんありがとう。
 お母さんに育てられてよかったよ。
 これからはイエス様のところから、わたしを守っていてください。
 ときどき、厳しく叱ってください。
 ありがとう。おかあさん。


新しい朝

母の葬儀の朝、葬儀場のベルモニー会館で目が覚めた
母の遺体の横で眠った
この母の顔を見るのも最後。
笑顔をありがとう、おかあさん。
窓を開けたら、朝焼けだった。
清らかな空気が天から流れてきた。
新しい朝、わたしの出発の朝だ
主イエスの御もとから母がわたしに力を注いでくれる
天国でイエス様にしゃべり続けている母が目に浮かぶ
お母さん、きょうの葬儀もよろしくね
そして、これからのわたしをよろしくね
清らかな朝焼け
さあ!
きょうから新しく、母のいのちを生きていこう。


天から吹く風

真夜中に窓を開けると
すうっと冷たい風が入ってきた
寒いけれど
優しい夜風
この風はどこかで出会ったことのある風
そうだ
幼いとき
母がうちわで扇いでくれた風に似ている
母は突然天に帰っていったけれど
今こうして
天から吹いてくる風がある
イエス様の風
聖霊の風
神様は天から
祈りを込めて風を送って下さる


雪の日の礼拝

雪がふわふわ降る礼拝
ふうわ  ふうわと舞い降りてくる
天からの白いメッセージ
雪は地上に降り積もる
み言葉は人の心に降り積もる


ぼくは小さなゆきだるま

ぼくは小さなゆきだるま
大雪の日に作られた。
寒い中で雪を転がし
せっせとぼくは作られたんだ。
とけないように日の当たらないところに運ばれて
ぼくはこうして立っている。
きっとすぐにとけて消えてしまうんだろうな。
だけどぼくは知っているよ。
ぼくが作られた大雪の日
ぼくを作る小さな手はとても優しかったんだ。
だから、
こうして立ったまま
歌えないけど歌っているよ
全部がとけて消えるまで
ありがとうって歌っているよ。


創られたもの同士

土手に並ぶ竹の木が風に揺れ
澄み切った青空の上に
昼間の白い月が浮かぶ。
ああ、よかった。
イエス様に会えてよかった。
竹よ、月よ、大空よ!
創られたもの同士
心をあわせて歌いましょう
みんなでいっしょに歌いましょう


雨雲

黒い雲が空を覆って雨が降る
光を閉ざし
昼間であるのに薄暗い
青い空はどこに行ったのか
しかし
この雨の滴の一粒一粒が
地の上のいのちを育んでいるのだ
やがて雲が晴れ
大空から光が差すとき
水を受けたいのちたちは
天に向かって育ちが始める
いのちの水を受けるため
この暗い雨雲が今必要なのだ


天に咲く花     
  (イースターでの子供たちへのお話より)

 天国にはきれいな花が咲いています。一つ一つがちがっていてとてもきれいです。その花は、何でできているのでしょうか。それは、祈りでできています。地上で心から祈った祈りが天で神様に受け取られてきれいな花になります。悲しみの涙の祈りも、苦しみの叫びの祈りも、やがては美しい花に変えられて、天で咲いていきます。
 じっと心を静めていると、地の上でも祈りの花園から清い香りがしてきます。

 天国にも空があります。空には白い雲が浮かんでいます。その雲は、何でできているでしょうか。それは、心の悪かったところをイエス様に赦していただいた、新しい、きれいな心でできています。どんなに悪い心であっても、イエス様ごめんなさい、と心の底から思ったとき、天の大空に白い雲がふわふわ生まれます。
 じっと心を静めていると、地の上でも、心がやわらかい雲に包まれてきます。

 天国にも海があります。青いきれいな海。その海は何でできているでしょうか。それは、人の流した悲しみの涙からできています。地上の上には、悲しみが一杯。どうしてこんなに苦しまなければならないのかと思うような、悲しみと苦しみに、満ちています。でも、神様は、人間の悲しみの一つ一つを全部知ってくださっています。そして、その涙を全部すくってくださっています。流した涙は、天で、きれいな海になり、優しい波がよせてきます。
 じっと心を静めていると、地の上でも、神様の愛の波の音が聞こえてきます。

 天国にも星があります。きらきら輝いています。その星は何でできているでしょうか。わたしたちが、こころから神様を見あげたとき、天で星が生まれます。わたしたちが、神様を愛して讃美したとき、星はきらきら輝きます。さあ、みんなで讃美しましょう。天国の星はいっせいに輝いて、鈴が鳴るように光ります。
 じっと心を静めていると、地の上でも天の星がきらきら輝くのが見えてきます。

 天国の真ん中に、まぶしく輝く十字架が立っています。イエス様がわたしたちの罪のために死んでくださった十字架です。イエス様は十字架で、わたしたちの罪を赦すため、身代わりとなって死んでくださいました。でも、死んで三日目に復活されました。きょうは、その記念の日。イエス様が命を捨てて天国と地上を結んでくださいました。だから、こんな素晴らしい天国が、わたしたちの心に与えられるのです。

 天国で咲いている祈りの花は、わたしたちの心にも咲いています。白い雲はわたしたちの心に浮かび、輝く星もわたしたちの心で輝き始めます。どんなに悲しいこともイエス様は知っていてくださる。どんなに良くない心もイエス様は赦してくださる。それは、十字架で苦しんで死んで、そして復活して、今、生きてくださっているからです。

 このイエス様を信じて一緒に生きていきましょう。
  イースター、おめでとうございます。

お祈り
 神様、イエス様が復活していつも共にいて下さってありがとうございます。どうか、いつもわたしたちの心に、祈りの花を咲かせてください。心に澄んだ青空があって、白い雲がありますように。清い波の音がいつも流れ、そして、暗いときにも星が輝いていますように。
 集まっている子供達を神様が祝福して、うれしいときも、かなしいときも一緒にいて下さり、神様が育てていってくださいますようにお願いします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。


「愛と伝道」
 
 (二〇〇五年十月 無教会全国集会(*)で発題として話した内容の一部)
               (*)「無教会とは内村鑑三によって始まった、組織を作らず、
                        聖書とキリストを中心とするキリスト教のあり方」


 今回、「愛と伝道」というテーマをいただきました。はじめに神さまの愛があり、多くの人の命がけの伝道があって、福音は伝えられ、日本の四国の徳島にも福音が届き、このわたしも、救いに入れてくださったことを思います。わたしが受けた「愛と伝道」をお話しします。
 一九九七年の夏、徳島聖書キリスト集会で手話の学びをしていることを小さなトラクトの片隅にのっていた案内で知らされました。手話が学びたかったわたしは、電話をして、集会場を訪れました。その玄関がわたしの信仰への入り口であって、イエス・キリストに出会い、罪赦される扉でした。小さな扉は、宇宙をこえて、永遠にまでつながっていました。無教会の集会場に手話を学びに来たわたしにとって無教会は一方的に神様が与えて下さったところ。ここに流れている真実に、わたしは入れて下さったのだと感じています。
 手話の学びを求めて、というと、健康的に聞こえますが、そのころのわたしは、心が病んでいました。一見元気そうに見えて、その心の中は、得体の知れない闇の力、自分で自分を破壊してしまうような力に縛られているのを感じていました。そんな自分から何か逃れの道はないかとおもって始めた手話でした。
 手話の学びから、その年の冬、火曜日に行われていた夕拝に導かれました。わたしの関心は手話であって、聖書の話ではなかったのに、突然心が変えられて、救って欲しい、助けてほしい、という思いが与えられました。
 夕拝の学びはエゼキエル書の難しい箇所でした。ここに書に書かれている「神殿」の内容が、新約聖書では、どう書かれているか、という説明があり、第一コリント三・一六「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と説明がありました。その短いみ言葉は閃光のようにわたしの心を刺し抜きました。今まで犯してきた闇の生活、罪、人に対してしてきたこと、すべてが心の中で照らしだされ、同時に、その闇の中のわたしの孤独も、罪の鎖の苦しみも、すべてイエス様は知っていて下さり、とがめることなく赦してくださったことを、感じました。
 わたしは神様の前に、赦しを求めました。今まで経験したことのない平安に包まれ、鎖が解き放たれているのを感じました。
 「愛と伝道」というテーマを思うとき、わたしが受けた伝道を感謝を持って思います。始めに神様の愛、憐れみがありました。そして、イエス様の名前によって集まる集会がありました。そこに、主の愛を受けている人たちがいました。そして、参加し続ける人がいて、その集会は休むことなく行われていました。そこで命があふれたみ言葉が語られていました。
 徳島聖書キリスト集会場にはいると、長い間の祈りを感じます。祈りの家、神の家、長い年月の祈りがあったことを思います。そしてそこにわたしは導かれました。集会に流れる神と人との愛。み言葉のメッセージ、そのすべてによって、伝道され、わたしは救われました。
 だからわたしは、語ることが伝道であり、集まることが伝道であり、祈ることが伝道であるのだと感じます。
 今回の全国集会は、「今、生きるとは、キリストにある愛の働きと」いう大きなテーマがあります。キリストにある、愛の働き、人が働くために、生きた体が必要であるように、キリストが働かれるためにキリストの体である集まり、エクレシアがあるのではないかと思います。
 イエス様は、その集会、集まりの真実をじっと見つめておられる。人間の集まりである故に様々な罪や弱さを抱えた集まりであっても、それでもなお、その弱さを悲しみ、また共に痛みをにない、迷いながらでも主を求めようとする心をイエス様はじっと見つめておられる。共に祈りあう祈り、お互いのために、また関わる他者のための祈りをじっとイエス様は聞いておられる。そして、祈りに答えてくださる。わたしもそうであったように、イエス様自らが、弱り果てているものの手を取って、集会につれてきてくださり、伝道して下さるのだと思います。そしてまた、わたしたちも、その集会に友人や、家族をつれてくることによって伝道ができるのだと思います。
  わたしの父親は、八十一歳で三年前に召されました。仕事とパチンコで家にあまりいなくて、また、気むずかしくて、短気で母親をいつも怒っていた、怖くて遠い父親でした。父親が病気になって入院したときにイエス様の話をしてみました。父親は笑って、「わしは地獄の鬼でも踏みつけたるわ。」と言いました。病気になってますます、気むずかしくなって大変でした。その父が末期癌になったとき「父をお救い下さい」と祈りました。父の前でも祈りました。祈りに答えてくださる主が父に働いてくださって、「おまえに拝んでもろうたら楽になった」と言うようになり、ある日、死を自覚した父は「おまえの神さんのところに行く」と言いました。「わしは、キリスト教になる。真言宗はわしの代でおわりじゃ。」といいました。それから、「死ぬんがいっちょもおとろしいない(少しも恐くない)」といい、「みなが迎えにきよるんがわかる」といい、「ほな、いってくるわなあ」と、おおよそ父らしからぬ言葉をいって、十字架も、パウロもしらないまま苦しみの中であっても、静かに召されていきました。父との最後の一週間、はじめて父と静かに語り、母のことを話し、和やかな親子の会話をしました。父は、「おまえの休みの間に向こうにいけたらちょうどいいんやけどなあ」といい、葬儀の段取りやお墓の話しを父と相談してから、年の明けた一月六日に静かに召されました。父に伝道したのはイエス様でした。そして、祈りが伝道であるのだと感じたことでした。
 「キリストにある愛の働き」と今回のサブテーマがあります。キリストに与えられなければ愛はない、与えられなければ、愛を届けることはできません。どれだけ、キリストにある愛を求めてうけとるか。心がキリストにある愛で満たされたとき、少しでもキリストにある愛の働きができるのだと思います。キリストから受ける愛の働き、それが伝道なのだと思います。
 仕事で疲れ切ったとき、ふと見上げた空から、水が流れてくるように、神様からの安らぎが与えられることがあります。集会の中で、野草の学びがおりおりにあり、小さな野草をルーペで見たとき、その小さな世界の中に大きな神の御業に驚かされるときがあります。置かれているところにいてじっと祈っているような山々の伝道、遣わされるままに、遣わされるところに行って、ひとときの癒しを与える風の伝道。神さまによって造られた、大きな自然は、人を囲み、人に呼びかけ、静かに伝道しています。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。(詩編十九・2)
山や海や空をみていると、その置かれたところで一心に祈り、讃美し、神に向かう、そのことが、伝道なのだと知らされます。
 一九九七年の冬、「あなたが神の神殿なのです」というひとことによってわたしの心に灯された火は、今もあたたかく、明るく燃えています。集会の中で灯されたその火が、どうかこれからも集会の中で燃えていますように、そして、同じように苦しむ人が導かれますように。
「今、生きるとは、キリストにある愛の働き。」といテーマの通りに、キリストの愛が燃やされますように。イエス様が御業をなしてくださいますように。「人にはできないが、神にはできる」とあります。無教会を、キリストにある愛の働きの体として、どうか、祝福してくださいますようにと願います。


主のまなざしは苦しみの中に注がれて
       
(二〇〇六年キリスト教(無教会)四国集会の証しの内容の一部)

 わたしは病院で看護師をしています。癌で苦しむ多くのかたに出会います。治って退院する人も多くありますが、再発を繰り返し、手術を繰り返す人もいます。
「どうしてこんな目にあわないかんの」と叫んだ声、訴えもなく、じっと黙って耐えているかた。亡くなっていった方達、誰もが、「帰りたい、早く家に帰りたい、」と叫んでいるのが病院です。体はどこが痛んでも、本当につらいものだと感じます。痛みと機能障害と、そして再発や死の不安とにさいなまれ、苦しんでいる患者さんを思います。
 病院の昼間はとにかく忙しくて、看護師は緊張しながら走り回っているのが現実です。なかなかその苦しみと向かい合うこともできません。でも、真夜中の巡視のとき、ひとりひとりを見回りながら、患者さんの苦しみを思わされ、祈りを持って見回ります。
 そのような苦しみのなかにある方と、祈りをもって関わっていくとき、イエス様がその方をとても大事に思われていることを感じるときがあります。イエス様はじっとこの方を見つめて下さっている、それならば主よ、どうか、この苦しみの故に、この方をお救い下さい。罪が赦され、いのちにうつされ、苦しみ故にどうか、お救い下さい、と祈ります。
 なぜ、苦しみがあるのかはわかりません。でも、聖書で、ラザロの話も書かれていて、ラザロは苦しみながら死んでいったけれど、天使につれられて、天国にいきました。ここでも、ラザロがどのような信仰を持っていたかということは書かれていなくて、ラザロの恐ろしい苦しみだけが書かれています。神様は苦しみを見つめられ、救われるのだと思います。
 主日礼拝でルカ福音書七章を学びました。イエス様がナインという町にはいって奇跡を行われたことを学びました。
 イエス様の一行がナインという町に入ろうとしたとき、町から葬式の列がでてきたと書かれています。夫に先に死なれてしまった女の人が、そのたった一人の息子にまで死なれてしまった、その葬儀の行列が、ナインの町からでてきたところに、イエス様が出会いました。聖書に、「イエスはこの母親をみて、哀れに思い、『もう泣かなくともよい』といわれた」とあります。文にすれば短いですが、このイエス様が「哀れに思った」というのは、内臓という言葉から作られた動詞が用いられているとのことで、ちょっと気の毒に思ったのではなくて、最も愛するものの苦しみに出会ったような、胸が裂かれるような思いであったことを知らされました。自分にとって本当に愛する人が大きな悲しみにあったとき、同じように胸が苦しくなってきます、イエス様はそのように、ひとりひとりの苦しみに対してくださっているのだと思います。
 そして、泣かなくてもよい、というのも、「もう泣くな!」という、命令形であると学びました。イエス様は人間の苦しみを決して見過ごされることはない、苦しんでいるものに走り寄って下さり、同じ苦しみ痛みをわかって下さる方であって、その苦しめる闇の力に対して怒り、そして、苦しむものに、「もう泣くな、わたしはすでにそのような、闇の力に勝っているのだ」と知らせてくれているように思いました。
 ここで、この母親の信仰も、息子の信仰も、また、母親がイエス様のことを知っていたのかどうかも書かれていません。ただ、大きな悲しみ、苦しみの中にあったことが書かかれているだけです。善人にも悪人にも同じように太陽の光を注いで下さっていると、また、悪人が滅んでいくのを喜ぶだろうか、と、聖書に書かれています。イエス様は、人間のすべての人の苦しみを憐れんでくださっているのだと思います。
 わたしたちが、少しでも苦しみにある人のために祈るためには、出会うこと、苦しみを知ることが大事なように思います。世界に苦しみが満ちあふれて、たった一人がどうしたところで、とても空しいようにも思えるし、平和を願い、飢えに苦しむ人のために祈る、大きな祈りも大事と思います。でも、今、戦場に行くことはできず、災害があったところに、すぐに行くことも実際には難しいことです。目を見て、手を握って話しができるのは、その瞬間にはひとりだけなんだと思います。
 他者の苦しみを負うことも、同じように理解することも人間にはできませんが、イエス様は働いてくださいます。苦しみの中にイエス様きてください、と祈る、そのために、苦しむ人に出会わせていただきたいです。自分が自分の力で関わっていけば、良きことはおこらないけれど、そのなかにイエス様が働いてくだされば、必ずイエス様が最善を成してくださる。自分でなくイエス様が働いてくださるために、どうか、この置かれたところで苦しみに出会わせてください、と祈ります。そこに、復活のイエス様がかならず働いてくださると信じます。
 「祈ったことはすでにかなえられたと信じなさい。」「み旨にかなう祈りは聞かれる。」と聖書に書かれています。そして、イエス様が一番大切とされた教えは、「心を尽くし、力を尽くし思いを尽くして神を愛せよ、そしてまた、隣人を愛せよ」という教えでした。出会った、苦しみに対して、素通りしないで、できる限りのことをしなさい、ということなのだと思います。できることはほんの少しで、力にも、時間にも、元気にも、精神的にも限界があるし、良いと思ってしたことが良く無かったり、失敗したりしてしまうこともあります。それでも、その限られた中で、神様に力をいただきながら、できるだけのことを、イエス様だけを見つめてなしていくことができたらと願っています。
 多くの苦しみの上に生かされ、多くの死の上に生かされているのだと思います。どうか、生かされている間、少しでも遣わされて、神様の愛を少しでも運ぶ者とされますように。イエス様のまなざしは、苦しむ人に注がれ続けていますから、どうかその方のところに御国が来ますようにと、祈ります。


木の祈り

木の葉を落とした冬の木が
夕暮れに
じっと立っている
ひらひらと
飛んでいった木の葉たちは小さな手紙。
近くに遠くに
悲しむ人に手紙を送った。
木の葉を落とした冬の木は
これからじっと祈り続ける
手紙を届けた人のために祈り続ける。


雲の旅

羽のような雲たちが
東へ向かって大行進
姿を変え
色を変え
光の中を大行進

どこへ行くの?
行くのではなくて
帰っているんだよ

ひとつの所に向かい
創られたところに帰っていく
雲もわたしも遠い旅


列車に乗せて

線路のそばで家庭集会
メッセージの途中で
列車が走る音がする
どうか、列車よ。
このみ言葉を乗せてください
夜の野山に村に町に
このみ言葉を運んでいってください


踏切の警報機

踏切のそばにある家での家庭集会
メッセージの中で警報機が鳴る
カンカンカンカン カンカンカンカン
天からの警報機
み言葉に耳を傾けなさい
信じなさい
立ち帰りなさい
カンカンカンカン
神様からの警報機


見えるようにしてください

わかっていても どうにもならない
神様に背いている心
言ってしまった多くの言葉
黙っていようと思ったのに心を守ることができなかった
そのときわたしは主イエスが見えなくなるのだ
バルトロマイという盲人は
見えるようにして下さい!と主イエスに求めた
信じて

神様、多くの罪を犯します
すぐに、あなたが見えなくなって
見えなくなっていることさえも、わからなくなる。
この弱さの中から叫びます
憐れんでください
このこころを見てください
どうか、いつも、あなたが見えるようにして下さい。


分かれ道

どちらに行くか。
道が分かれている。
少し疲れた
ちょっとだけ休もう
神様から離れるわけではない
今、少しだけ、とどまってしまおう
いいではないか
信仰はそんなことで揺らぐものでもあるまい

ああ
この心だ
このかすかな心から
道が分かれていくのだ


雲よ

雲よ
そこから何が見えますか
車の流れ
畑のおじいさん
運動場の子供たち
橋の上でたたずむ人
工場では、そろそろお昼の休み時間
雲よ
あなたはどこへ行くのですか
人の悲しみを伝えに神様の所に帰ります
どの家からも
街からも
悲しみの声が聞こえてくる
それらを全部、こぼさぬように
神様に伝えに帰っているのです


見あげれば

目の前に、つぎつぎと押し寄せてくるこの世の波に
立ち止まることもできずに
疲れ切っていた
倒れた心で目を上げて天を仰ぐ
そこには光に満ちた空がひろがり
聞こえてくるのは風の音
ああ、主よ
あなたは共にいて下さる


呼び止められて

初夏の夕暮れ
帰り道
夕陽に包まれて
思わず車を止めた。
主よ
あなたはわたしを包んで下さる愛の光
何という優しさ
初夏の風吹く夕暮れの道
主に呼び止められて
立ちつくす


星のかけら

窓からみえる物干しのさおに
雨のしずくが輝いている
ふたつ、みっつ、よっつ
大空の
星のかけらが
すぐそこに


天のピアノ曲

静かな雨音
きれいな雨音
天から降ってくる雨のしずくは
木の葉を
ベランダを
庭を
屋根を
鍵盤にして
ピアノ曲を伴奏している

神様は
何でも楽器に変えられて
天のメロディーを
地の上に響かせてくださる

ひかりの花

冷たい冬の雨がやんで
夕陽が差してくる

冬枯れの小枝の先や
枯れた野草の葉の先に
雨のしずくがキラキラ輝いている
銀色の雨のしずくはひかりの花

神様は
枯れたところに
輝く花を咲かせられる


風の伝道

澄み切った大空をわたり
山の木々を梢を通り
土手のチガヤの穂を揺らした風が
わたしのところに今届いた。
喜びの上にも
悲しみの上にも
世界は神様の愛で満ちているよと
風はわたしに語りかける


手を伸ばせば

手を伸ばせば
その手の上に
あなたは花をのせてくださる

目を上げれば
まなざしの中に
あなたは光を注いでくださる

心を向ければ
この心の中に
あなたはいつも来てくださる


あとがき

 初めて徳島聖書キリスト集会場の門をくぐってから九年目の夏になりました。
 きょうまで、どんなときにも主に守られて来ました。
 感謝します。
 今回も、小さな詩文集を神様に捧げることができて感謝です。
 この詩文集を手にしてくださった方の上に
 神様からの祝福が豊かにありますようにお祈りします。

             二〇〇六年八月一日   K.K
                   徳島聖書キリスト集会所属