集会だより 2009.1 NO.343


 
何事をも思いわずらうな。
ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、
感謝してなんじらの求めを神に告げよ。
(ピリピ書四・6

十二月十四日(日)主日礼拝 ルカ二十一・2933
 イチジクの葉が出始めたら夏が来るのが近いと言うことは身近なことで、誰でもわかることであった。このような身近な出来事を通して、主イエスは世の終わりという、極めて重要なことを示された。身近なごく当たり前のことが、深い真理を暗示している。それは、霊的な目が閉じられていると、わからない。主イエスは他の箇所でも、身近な自然から真理を示された。空の鳥、野の花を注意深く見なさい、といわれ、そこに神の愛、無限の神のみ旨が見えることを示している。
 身近な自然も、また世界の歴史も、神のみ旨を指し示している。マイナスにみえることでさえも、神の御支配を表しておりのである。自然界には、不気味と感じる生き物もいる。それもまた、この世のさまざまな、闇、悪などの象徴でもある。このようには確かに、不気味なこと、闇の力が確かにある。だから警戒しなければならない。しかし、恐れることはない。神はすでに勝利して下さっている。マイナスにみえることも、神のみ旨、勝利の力の象徴である。
 「神の国は近づいた。」これは主イエスの伝道の初めから記されている。天の国、神の御支配はすぐ近くにある。だから、闇があっても、何があっても、神に近づいていくことが大事である。近づけば与えられるのである。
 神のみ旨は変わらない。いかなることがおころうと、キリストの心はきえない。その変わらない神様のご意志、を信頼していく。それが、キリスト者の恵みである。
 ・吉村兄は神戸、高槻方面への伝道のため録音によるメッセージでした。


一二月二日(火)夕拝  エレミヤ書三二章1644 九名
 エレミヤは祈りの中で神に「あなたの御力の及ばない事は何一つありません。」と言った。神はこれに答え、「わたしの力の及ばない事が何一つあるだろうか」と言われた。神は万能である。時が来たら悪そのものも滅ぼされる。この地がたとえ滅びても、神は新しい天と地を創造される。病気、死、地球の滅び、苦しみ、災害などこの神に解決のつかない問題はない。私達もこの一つの事を信じて歩むなら神の力がそこに働く。万能の神の真実な導きがあるのに繰り返し反抗し背いていたら、罰があるのは当然である。神は万能だから周辺の国をも動員してイスラエルの国に罰を与えた。しかし裁きだけで決して終わらない。厳しい裁きもあるが、イスラエルが良い事をした訳ではないのに再び遠い異国のバビロンから祖国に帰還させて下さると預言されている。そして「一つの心を与え、一つの道を与える。彼らに永遠の契約を与える」と神は言われた。神が一方的に与える。神は愛なので与える事を喜びとしている。裁きや罰があるのは、その苦しみを通って神を分からせる為である。 
十二月十日(水)水曜集会 ローマ十六・1~16
タイトルは「個人的な挨拶」となっているが、決してなんなる挨拶でなく、わたしたちにとっても大事な意味がある。
手紙はコリントで書かれ、ローマに届けられた。この重要な手紙を運んだのはパウロの働きを助けまたパウロが信頼していたフェべという女性。パウロは、どんなことをしてでも彼女を助けてください、と言っている。他にも主だった働きをした女性の名がある。神様は女性にも平等に、主にある働きを与えられた。プリスカ(妻)とアキラは夫婦。またパウロが母とまで思うほどの女性のことも記されている。福音を伝えるという共同の目的のため、どのような主にある深い愛があったか。まず神ご自身がパウロを守られたが、具体的な人も遣わしてパウロを支え守った。
「主に結ばれて」「主にあって」「主のために」など訳し方は異っているが、原語はみな「エン キューリオー」。言い換えればそれは「主の霊の内にあって」すること。人間的な考えや勇気でなく、主にあって為すことに深い意味がある。主にあって愛する、ともある。人間だけでなく自然や音楽なども、自分が主の霊の内にあってするのでなくば、単に人間的な好き嫌いの感情になり、すぐまちがった方向へいってしまう。
パウロは協力者となった人に「よろしく」と言っている。よろしく、とは一人一人を思い出していることだが、遠くの人を思い出す時も人間的な感情によるものでなく、主にあって、主と共に思い出す。人間関係において、また働くことにおいて、わたしたちにも大切な事がこんなところにも示されている。
ここに言われている教会とは、エクレシアのこと。「この世から呼び出された人の集まり」である。キリストの福音を伝えるために命がけでパウロを支えた人たちもみな、この世から呼び出され人である。
その人たちのなかには皇帝の家に属する地位の高い人たちもいた。キリスト教はそのときすでに、網の目のように中枢部の支配階級の中にも深く浸透していたのである。当時、福音を伝えるためにパウロを支え、命がけで働いた人々のことが当事者パウロが書き残したものによって浮かび上がってくる。
・集会後、集会だよりを折ったり、十二月号の「いのちの水」の発送準備をしました。


一二月九日(火)夕拝  エレミヤ書三三章 十名
 エレミヤは獄舎に囚われていた。神の働きをしたのにどうして捕らえられなければならないのか。現代も「世の中は悪い事がいっぱいあるのにどうして神がいるのか」と言う人がいる。信じない人は奇蹟を見ても信じない。個人的に神が語りかけたら周囲がどんな状況であっても信じる。正しい人が殺されようとも、神がいないということでなく、そこにも深い意味があり、神の御計画がある。ここで言われた事は「神は万物の創造者」という事。そして呼べば答えて下さる。復活や再臨の事は勉強しても分からない。本当の真理は求めるところに知らされる。イスラエルへの裁きは厳しいが、癒しと回復をもたらしてまことの平和を豊かに与えるとある。イスラエルの民が神に対して犯したすべての罪を清め、罪を赦すと書かれてあり、その恵みは大きいので世界の民が驚嘆する。エレミヤは獄舎にありながら、ダビデの血筋に正義の若枝(キリスト)が出て、彼(キリスト)は公平と正義をもってこの国を治めると啓示を受けた。都の名は「主は我らの救い」というようになると、豊かな救いで溢れる事が神によって示された。救いの約束、契約は決して変わらない。強力な希望をエレミヤは神から受け取った。


十二月二十一日(日)クリスマス集会
参加者全員が各自の名前と住所(郡、市、町名程度)を初めにいいます。全盲の人四名と強度の弱視の方一名には、参加者名簿が見えない上に、だれが参加しているか分からないためです。)

第1部 子供とともに 司会 T.K・「もろびとこぞりて」新聖歌76番 、 祈り
・ミニ劇 「風のトリーピス」T.TK.KN.YM.MT.TK.MT.E(歌の応援)
・いのちのさと作業所の人たちによる讃美
たき火子どもさんびか77番「お星が光るぴかぴか」
子どもさんびか119番「主に従うことは」
第2部 み言葉に聞く 司会 I.E
讃美 「生けるものすべて」新聖歌73番
聖書朗読 ルカ福音書2章1節~12
祈り
聖書講話 「明けの明星としてのイエス」 Y.T
祈り (講話者)

第3部 讃美のひととき 司会 N.H
・オルガン演奏 「鳥の歌」 新聖歌94 T.Y
・デュエット 「さやかに星はきらめき」讃美歌第2編219 N.YS.M
・ギター讃美 「ナルドの香油」讃美歌21-567  S.HT.E
・手話讃美「驚くばかりの」1節のみ全体で。 手話の指導 O.E
「主イエス神の愛」、「わが魂の羊飼い」リビングプレイズ143 ・コーラス
「世の人忘るなクリスマスは」 新聖歌74 、「ああベツレヘムよ」新聖歌84
・「きよしこの夜」 新聖歌77番
第4部 感話会 (県内一人3分、県外5分以内) 司会 T.N
 N.YK.MK.IK.TK.HS.HS.YM.D N.YO.Y
*)このあと、写真撮影があります。
第5部 食事と交わりタイム 司会 N.H

・今年もクリスマス特別集会には、初参加の人、久しぶりの人、また大阪からN.Y兄、O.Y姉、そしてアメリカから帰省したM.D兄なども参加され、み言葉の学びや讃美など子供たちも共に主にある交流を与えられて感謝。参加者74名。


一二月一六日(火)移動夕拝 N宅 ロマ書五章 一一名
 救いとは何かということが3章から5章に書いてある。それがローマ信徒への手紙の中心である。キリスト教の信仰とはどういうことなのか、何故十字架がシンボルになったのか。福音書は、主イエスの言行録であるから、キリストの死の意味は少ししか書かれていない。キリストが十字架によって死なれたことの意味、ここでは詳しく書いてある。このようにわたしたちは信仰によって義とされたから平和を得ている。罪とは、神様に逆らって人間中心になってしまう事。キリストが私たちの罪を背負って死んでくださった。その為に私達は正しいとされた。だから神様との間に平和を得ている。それは神様とつながりができたと言うこと。人間の根本的な平和が信仰によって与えられる。あらゆる方法を持ってしてもできないことが、信仰によってできるようになる。将来にわたって、神様の栄光(あらゆる善きもの)がもらえる。私たちのような汚れたものでも、神の栄光を共有させてもらえ、神様のもつあらゆる善き物をいただける希望がある。信仰と希望と、神様の愛がここに入っている。「艱難をも喜ぶ」と書いている。日本語では、「誇る」という言葉は、自慢のニュアンスがあるので、他の訳では「喜ぶ」となっている。神の栄光に預かる希望を喜んでいる。練達というのは、信仰を持った上で絶えず前向きに神様を待ち望んでいけば、性格に刻み込まれていくという事。苦しいところを通って変えられる。そういう希望が性格に刻み込まれると、私たちを欺くことがない。パウロ自身も厳しいところを通り過ぎてきた。信仰告白と言える。


十二月二十四日(水)水曜集会 ローマ十六章17~終
手紙のいちばん最後のところ。中でも17節からは最後の勧めである。パウロは、「不和やつまずきもたらす人々を警戒しなさい」と言っている。キリストに仕えないで自分の腹に仕えている人、とは自分中心の人のこと。そこから分裂が起る。自分中心からは、本当に愛し合うことと逆のことが起って来る。そういう人は言葉が上手で、素朴な人々をあざむいてしまう、とある。そこに分裂が生じる。わたしたちも気をつけなければならない。何かを言うその一言で、聞いた人に分裂が起るか、愛が増えるか。それはわかることである。そのようなことはたとえ聞いたとしても、聞きたくないと言わねばならない。イエスに仕えないで自分に仕える者となってしまってはいけない。
ここで言う「従順(ヒュパコエー)」とは、「聞く」という言葉に接頭語が付いた言葉で、「神に聞き従うこと」の意。自分の欲望に聞き従うのでなく、また分裂をもたらす人間の声に聴き従うのでなく、神の声に聴き従うのである。キリストの集会も神の声を聴くためにある。「善にはさとく、悪には疎く」・・よいことや何か美しいことには直ぐに反応し、よくないことは退けねばならない。「平和(エイレーネー)」の根元は神にある。神様やイエス・キリストが内に入ってくださると自然に平和になるし、争いを好まなくなる。
キリストの力が増え広がろうとするとき、必ずサタンが入って来ようとする。しかしサタンの力も死の力も必ず打ち砕かれていく。そういう驚くべき確信が旧約、創世記の時代から与えられている。
「恵みと平和」の恵みとは、罪の赦しのこと。心の罪がいつも赦されてあるようにとのパウロの願い。それがパウロの念頭にいつもあった。わたしたちも、これがあれば他のものはいらない。
・今年最後の水曜集会。二〇〇六年九月から始まった水曜集会のローマ書の学びが今日で終った。香川県からSさん参加。


十二月二十四日(水)キャロリング
 クリスマスイブの夜、今年も集会場近辺でクリスマスの讃美をしました。はじめに集会場で讃美し祈って出かけました。今年は21名の参加でしたが、特にキャロリングは初めてというかたが六名、そのうちの二名は子どもで、神様の祝福を感じました。寒い夜で途中で弱い雨も少し降りましたが、それでもみんなで心を込めて、元気に讃美しました。夜風に乗ってこの讃美が、聞く人の心に届きますようにと祈りました。集会場に帰り、みんなで食事をして良き交わりの時をも与えられて感謝でした。


十二月二十八日(日)主日礼拝 ルカ二十一・3438 30
 世の終わり。そのときには、様々な混乱、苦しみが生じるとある。これは、ヨハネの黙示録にも記されている。「全世界にくる試練の時にあなたを守ろう」(ヨハネ黙示録三・10)「獣は聖なる者たちと戦い、これにうちかつことが許され」(ヨハネ黙示録十三・7)とある。世の終わりは混乱と苦しみの中に来る。
 そのとき、どうあるべきなのか。「心が鈍くならないように」している必要がある。これは、原語では「心が重くなる」という意味があり、新改訳では「心が沈み込む」と訳されている。一時しのぎのこの世の楽しみは、過ぎ去ればまた、心が重くなる。心の中の罪。鉛のように重く、どのようにしても、取り去ることはできない。しかし、主イエスの十字架を信じるとき、その重荷は軽くなるのである。
 世の終わりに人はキリストの前に立つ。世の終わりは、混乱と苦しみがあるが、キリストが来てくださる時なのである。大いなる闇の中に、光としてのキリストが来てくださる。創世記から示されているように、闇の中に光があるのである。
 だから、目を覚まして祈りなさい、と言われている。祈らなければ、目を覚ましていることはできない。祈ることを知らない人は、目が開かれない。どんなにこの世の栄誉を受けても、魂の目は開かれないのである。礼拝、集会も魂の目を覚まし、祈るためにある。共にあつまり、礼拝することを怠れば、心は眠ってしまう。礼拝よりも他のことを優先していくと、心の目は閉じられていく。讃美も祈りである。讃美によって心の目を覚ますことになっていく。
 主イエスは、聖書の中で一番大切な教えは神を愛することであると言われた。神を愛し、主イエスを愛するとき、魂の目はいつも覚まされ、祈ることができる。神への愛がないと、目を覚ましていることができなくなる。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、そのときを知らないのだから。」(マタイ二十五・13
 
・今年最後の主日礼拝でした。感話のときには、今年一年を振り返っての感話も話されました。主が、それぞれの人に働いてくださっていることを知らされ感謝でした。


読書会十二月二十八日(日)礼拝終了後の午後から、ダンテの神曲・煉獄篇の第十三歌を学びました。妬みの罪の清め、妬みの心は鉛色の心。 かれらは煉獄において、妬みと逆の心である神の愛によって訓練される。「 彼らにぶどう酒なし」というヨハネ福音書にある、マリアのみじかい言葉に、深い意味をこめたこと、ダンテを導くローマの大詩人、ウェルギリウスも、煉獄での道を正しく歩むには、神の光を受けなければできないことなど、まなんだ。去年の十二月から主日礼拝に参加しておられる大賀さんも、所用のため部分参加でしたが、学びに加わりました。
なお、読書会の録音を希望の方は、ふつうの(MP3対応でない)以前からのCDラジカセでも聞けるCDに録音してお送りすることができますので、吉村(孝)まで申込ください。
テキストは、いろいろありますが、一番だれにでも分かりやすい口語訳の平川祐弘訳(河出書房新社)を使っています。そのほかにも、山川丙三郎訳(岩波文庫版)、寿岳文章訳(集英社)なども併用しています。


二〇〇九年一月一日 元旦礼拝 詩編一三九・110 22
 「主イエスを喜ぶことはあなたの力です」(ネヘミヤ十・8)
 わたしたちが一番必要としているのが力である。悪の道に引かれていく、それは、踏みとどまる力がないことからはじまる。貧しい人を助けること、愛すること、良いとわかっていても、できない。力がないからである。どうすれば力は与えられるのか。ここでは、神を喜ぶことによって力が与えられるということが示されている。
 神は、近くにいてくださり、わたしたちの心にあることをすべて知っていてくださる。そして、いつも見ていてくださる。神はこんなに近くにいてくださるのだ、という証言の詩である。心の中を見ておられる神は、良くない思いをも知っておられ、時が来れば、警告される。また、たとえば、あまりにも苦しいとき、神が近くにいてくださることを実感できないこともある。主イエスも十字架での苦しみの時、神が共にいて下さることがわからなかった。しかし、神は共にいて下さる。わからなくなっても、すぐ近くにいてくださるのである。このように共にいてくださる神であるから、わたしたちは神を喜ぶことができる。そしてそれがわたしたちの力になるのである。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケ五・16)祈りがなければ、神を喜ぶことはできない。祈ることも力、感謝も力なのである。
・新しい年の初め、朝6時半より元旦礼拝が行われました。寒い朝でしたが、み言葉と讃美を持って新しい年をはじめることができ、感謝でした。 
参加者 T.Ni、、iKST.EO.EO.NST.KN.HN.T、、IN.HY.TY.ET.RMTM.MI.MS


一月四日 主日礼拝 ルカ二十二・113
 過越祭ということが何度か書かれている。ユダヤ人が大事にしてきた、過越の記念の日に主イエスは殺された。なぜ、記念の日に主イエスが殺されることになったのか。この日はユダの裏切りという、悪の力が働くときとなった。しかし、悪の力が働くときも神の御支配の中にあることを示している。過ぎ越しについては旧約聖書に記されている。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい家の鴨居に小羊の血を塗りなさい」(出エジプト記十二・12)小羊の血を鴨居に塗ることによって神の裁きが免れた。旧約聖書の中にいけにえの捧げものをする記事はあったが、それは雄牛や雄山羊であった。「小羊」がでてきているのはここだけである。そして、記念にこの過越を覚えていくようにと示され、ずっと過越祭は守られてきた。この「小羊」が新約聖書で主イエスのこととして示されている。
 「ユダの中にサタンが入った」とある。これは「ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ十三・2)とも訳されている。神様の思いから外れた思いはすべてサタンが働いている。サタンが働き、悪魔のことばを言わせ、行わせる。サタンは人間に働き、悪をなす。しかし、しかし、キリストもわたしたちの中に入ってくださる。そして、キリストが勝利してくださるのである。
 主イエスが最後の食事をするとき、「都に水瓶を背負っている男性に出会う」と主イエスが言われた。そのとおりのことが起こった。過越祭で多くの人が来ている状態であったが、主イエスは先のことが見通せる力があることを示された。主イエスがロバにのってエルサレムに入ってきた、そのロバを用意するときにも、先のことを見通されていわれた記事がある。ここに、先のことを見通される神が示されている。この世のことを考えると、神などいないと思わされる。しかし、どのように、悪の支配が働いていようと、その背後で神のご計画は進んでいる。神はすべてをご存じで、悪をも用いて御支配されているのである。
 ずっとイスラエルの民は過越を記念してきた。わたしたちも、神様がさまざまな災いを小羊の血、主イエスの十字架によって過ぎ越してくださった。新しい年もこのことを記念しつつ進んでいきたい。


一月五日(月)北島集会 シラ書三八章~三九章11
タイトルに「医者と薬」とある。わたしたちの心が病気の苦しみに耐えて、より神に近づき、私たちの心を深めるために神様は病気を与えている。
感染性の病気は薬があれば助かる。わずかの木や草がわたしたちの内に投げ込まれたら病気がよくなることがある。しかし医者にも失敗があり、多くの薬も本質的には有毒なものであるから、適量を越えると有害な作用をするのが多い。だがどんな病気の時も、祈ることにはそうした有害なはたらきがない。その祈りから力をいただこうと思ったら、わたしたちの心もまた、神様から心を清めていただかねばならない。これがわたしたちが当然するべきことである。心の病気でも、体の病気でも、祈ることは万人に当てはまり副作用もない。寝たきりであっても、主に結び付いたら、たとえその病が治らなくとも、心の重荷が軽くなり、持ちこたえていける。イエスご自身が、心身共にわたしたちの最大の医者だ。
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章ー神様の言葉を深く研究する人について言っている。彼は、祈りをもって賛美する。賛美は一種の祈りだ。歌うことによって、賛美の言葉がどうか成就しますように、他の人にも及ぶようにと。み言葉に対する熱意は祝福される。神の言葉は永遠だから、永遠の真理と共に、彼も永遠に忘れ去られることがない。
・内村鑑三所感集から。「平穏(おだやか)にして依り頼まば力を得べし(イザヤ書3015)」。すべての問題は、力がないことから起ってくる。本当の力を貰ったら悪いことはしない。神のみまえに静けさを保ち、神からの力を待つこと。そして神様が働いてくださるのを待つ。そこからこそ本当の力と守りとが来る。(「ルーテル特愛の聖句」)


一月五日(月)小羊集会 マタイ十八・114
 神様がどれほど小さき者、弱き者を慈しんでおられるかをこの箇所は指し示している。この世の価値観では、能力があり有名になることが大きい者と見なされる。しかし、神様の目から見たらそれらは価値がない。神様の目には、まっすぐに神を見る者、自分を誇らない者が大きいと言われる。ここには、神を信じる弱い者や小さい者をつまずかせ、神から遠ざける者に対して驚くほどの厳しい裁きが記されている。神を信じる小さい者を、どれほど神が愛されているかの表れである。
 また、たとえ、目がひとつになっても、命を受ける方がよい、とあるのは、罪であるとわかっているとき、それをそのままにしておくと神の命を受けることができなくなるということである。罪と知るとき、その罪の根源を絶ってしまわなければ、命を失う。
 神を信じる小さき者、弱き者はこの世からは圧迫されたりする。しかし、神の天使が守ってくださるとある。神を信じる小さき者をどれだけ神が大事に思っているかがここにも記されている。わたしたちも、弱さを感じていても、その心で神を見上げるとき、天使は守ってくださるのである。
 次に迷い出た羊のたとえが書かれている。迷い出た羊とは誰なのか。社会的に間違った道を進む人とか、問題のある人のことではない。実は人間全体が迷い出た羊なのである。神の目から見れば誰もが罪を犯し、どうにもならなくなっている。だから、キリストが必要なのである。主イエスを信じる者は迷い出たところから、見つけ出された者である。そして、そのことを神は喜ばれる。たった一人でもキリストを信じ、救いを受けるとき、神は喜んでくださるのである。キリストのために働くとき、大きなことができなくてもかまわない。たった一人のために祈り、関わっていく。そのことを神は祝福してくださるのである。


一月六日(火)  夕拝  エレミヤ書三四章
 バビロンの攻撃によってエルサレムは徹底的に破壊され、ユダの人々は捕虜として連行されて行った。国は存亡の危機にあった。この時ゼデキヤは奴隷を解放すると宣言した。(申命記15:1215に命じられているように。)
 しかしバビロン軍が一時撤退したのか、攻撃が弱まると、自由の身にして去らせた奴隷を再び強制して奴隷の身分とした。安心した途端に逆戻りしてしまった。このようなことはよくあることである。重い病気の時、熱心に求道した人が、病が癒されると棄教してしまう。大戦の後クリスチャンが増えたが、生活が安定して、豊かになっていくとクリスチャンが少なくなった。聖書に出てくるノアも周囲の人たちの堕落した姿に染まず、主のみ声に従ったゆえに、箱船によって救われたのに、生活が安定すると、ぶどう酒に酔って裸になって寝て子供たちの前によくない姿をさらすという乱れを生じたとある。
また、ダビデも子供のときから、すぐれた素質と勇気があって、後に当時のサウル王のもとで並びなき武将となった。しかし、王の妬みを受けて命を狙われながらも決して仕返しをせず、主に一貫してより頼みつづけた。そして最終的に神の導きで王となった。しかし、王としての支配も安定した時、信じられない罪を犯した。
イエスの弟子たちでさえ、イエスが殺されるという時に自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、と議論したとある。これも霊的な逆戻りを示すことであった。主に向かう真剣な心を失うとき、誰でも信仰が逆戻りする。だからいつも目を醒ましていなくてはならない。絶えざる前進のためには目を覚ましていないと、信仰は停滞するか逆戻りする。心の目を開いておれば、無限に新しいものを持っておられる神さまから、聖なるものをいただける。信仰生活に年数は関係ない。今、神の声に聴いているか、今信じているか、日々すべてを新しくしてくださる神さまに聴き従うことが大切なことである。


一月七日(水)水曜集会 詩編一二二編
 エルサレムに礼拝にいくことがテーマになっている。この時代エルサレム周辺の人も、過越祭のときなど、はるばるエルサレムに礼拝に行っていた。
 何のために礼拝に行くのか。平和をもとめ、平安を祈るために行く。この時代はエルサレムが礼拝の中心であった。そこに平和があるようにとの祈りがあった。そして、兄弟、友人、主の家のために平安を祈る。主の家に、本当の善きことがあるようにと祈る。
 これは、エルサレムへ行くときのうたでもあるが、礼拝に対する姿勢でもある。神を礼拝し、平和、平安を祈るために行く。この「平和」とは原語ではシャロームであり、神様から満たされた完全な状態を表す。新約聖書にあるパウロの手紙も、この「平和があるように」という祈りをもっていたことが記されている。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ロマ書一・7)
この平和は主イエスから来る。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ一四・27)とある。
 神からくる平和を礼拝の中で、祈り求めることの重要性が示されている。


一月九日(金)天宝堂集会
 新約聖書には、四つの福音書が書かれている。それぞれに特徴をもたせて神の霊によって書かれている。「福音書」とはどういう意味か。それは、ギリシャ語原文では、「よき知らせ」という意味である。それを、中国の聖書に翻訳したとき、「幸福の音信の書」という意味なので、福音書と訳され、日本語の聖書にもそのまま取り入れられたのである。
聖書は道徳的な教えだけが書かれた本ではない。人が本当の命を生きていくため、どのような状況であっても真の幸福を知るための、よき知らせが書かれている。
 マルコ福音書のはじめ、まず、神の子イエス・キリスト、とある。これは、イエス・キリストが人間ではない、神と同質の性質をもつお方であることを明示している。
 そして、旧約聖書の預言が成就されたことが書かれている。洗礼者であるヨハネがキリストの先駆けとして来た。これは、その五〇〇年以上も前にイザヤ書に記されていたことの実現であった。人間の罪を清めるために神の御子、イエス・キリストが来てくださった。そのことを、預言者を通して示していたのである。
 神はこのように準備をされる。出来事をおこし、歴史を支配し、人を遣わして道をそなえ、人が神に出会う準備をして下さったのである。そして、わたしたちも様々な困難や出来事を通して、神に出会うように導かれている。「荒野で叫ぶものの声」は今もなお地の上に響いている。
洗礼のヨハネは、罪を清めるために、水の洗礼を授けていた。この時代、交通手段もないところで、遠い砂漠の地にユダヤ全土から人が集まってきたということでも、このヨハネの力がわかる。しかし、ヨハネの現れた目的は、罪を清める水の洗礼のためだけではない。イエス・キリストを示すために来たのである。キリストの前では奴隷と同じようなものであるとヨハネが自らを言っている。
 ヨハネは水で洗礼を授けた。しかし、主イエスは聖霊による洗礼を授けて下さる。聖霊は目には見えない神の本質である。そして、この聖霊は求める者に与えて下さると約束されている。今も、わたしたちも、神と結びつき、心から求めるとき、この聖霊を受けることができるのである。


一月十日(土)手話、聖書、植物などの会
・植物の学び リョウブ カワラタケ よく似ていて、どちらも良い香りのするヤブニッケイ(葉柄の色がみどり)クスノキ(葉柄の色が赤い)などの植物を学びました。
 ろう者のY.Kさんが久しぶりに参加され、みんながそれぞれに、Tさんに自分の名前や、短い文章を手話と口話、指文字、空書などで表し、伝える練習をしました。口を大きく開けること、同じ口の形のことば例えば、秋、柿、垣、先、足、橋、滝、鯛、灰、等々は、どんなに口をはっきり開けて大きい声でいっても、ろう者には決して読み取れないので気をつけること、など、少しでも聴覚障害者の立場に立って表現することを教わりました。
聖書の学び。(テサロニケ五・1011)罪を犯すと、神との間に壁ができる。人間でも善くないことをしてしまった相手にはなにか、壁がある。神に対して罪があれば、神と共にいることはできない。だから十字架が必要である。
 主と共に生きることができたら、わたしたちは互いに励まし合うことができる。お互いがよくなるように向上を目指すことができる。主イエスが共にいて下されば、誰もいなくても孤独ではなく、共にいて下さるという実感がもてる。

一月十一日(日)主日礼拝の後で、私たちの集会からも献金をしている関係で、ギデオン協会の方がその働きについてお話しがありました。(まとめと入力 K.K & E.I& H.N & E.Y


お知らせ

「野の花」の第22号ができました。今回は、北海道から沖縄まで各地方からの八十名ほどの投稿があり、B5版 80ページのものです。この文集が、主によって祝福されて用いられ、すでにキリスト教信仰を持っておられる方には、み言葉の力を知り、またさまざまの証しをとおして信仰の励ましや、交流となり、また未信仰の方には信仰の世界を知るための導きとして用いられますようにと願っています。
去年は、後から追加希望の方々には足りなくなったので、今年はだいぶ多くの部数を印刷しました。それで、知人、友人に用いたいと思われる方は、その希望の部数をお届けできます。一部送料共で二百円。

徳島聖書キリスト集会のホームページは、S.Kさんの御愛労で、集会で発行している「いのちの水」誌、「今日のみ言葉」、文集「野の花」、文集「ともしび」、貝出久美子詩集、「福音」などが収められていますが、新たに、伊丹 悦子氏詩集「泉にゆく道」も加えられています。これらは、自由にどの部分でもコピーして伝道などに用いることができます。こうしたインターネットによる情報をも主が用いて下さいますように。

去年十一月下旬に、鳥取での集会のあと、砂丘を歩いたときの写真を聖句入り絵はがきにしました。数種類あります。希望の方は、一枚十円でお分けすることができます。そのうちのひとつは、「今日のみ言葉」の十二月分に「砂丘とハマゴウ」というタイトルで使ったものです。

MP3対応のポータブルCDプレーヤ
これは、病院とか、列車、バスなど移動のとき、待ち時間などのときに便利なものです。手のひらにのる丸いかたちのものです。MP3対応なので、私たちの集会で毎月制作している礼拝CDも聞くことができます。最近は電器店でもあまり見られないものですが、インターネットで安価で限定販売のものがありましたので、余分を購入してありますので、希望の方は申込してください。価格は送料共五千円です。なお、これはイヤホンとかヘッドホンで聞くものですが、自宅で聞くこともできます。その場合には、別に小型のパソコン用スピーカーを付けると大きい音で聞くことができます。そのためのスピーカーも送料ともで千円でお送りすることができますので希望の人は吉村(孝)まで申込してください。
なお、従来から紹介してきた、MP3対応 CDラジカセは自宅で聞くのには操作しやすいものです。これも近くに電器店がないとか、この機種のことがよくわからないかたには、私のほうからお送りできます。これは価格は八千円、送料千円です。

テープからCDへの変更について
私たちの主日礼拝や夕拝の録音を聞くために、テープ録音を希望されている方々も、MP3対応 CDラジカセに多くの方が移行されています。テープはかさばるうえに、変質もするし、頭出しがなかなかで必要なところがすぐに聞けない、などの欠点があります。MP3対応 CDラジカセですとそうしたことがありませんので、テープからCDに変更したいかたも申し出てください。
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内村鑑三所感集より

静まりて主により頼む

 「平穏にして依り頼まば力を得べし」 (イザヤ書三十章十五節)。 平穏にして、すなわち沈黙を守りて、依り頼むならば、すなわち自ら努めずして、神が働いて下さることを待つならば、力を得ることができる。強くなることができる。あなたの敵に勝つことができる。すなわち救われるのである。
自分一人が、羊が狼の群中にあるかのような立場におかれたとき、わたしはただ静寂を守り、すべての救いを神より望み、神が私の砦となり、守りであり、武器であるようにすべきなのである。私は弱いけれどもかれは強い。私は主とともにあるなら、私一人は全世界よりも強い。救いは主にあり。

新希願

 何人に対しても悪意を懐くことなく、万人に対して好意を表し、すべての機会を利用して善をなし、わが残余の生涯をして祝福の連続たらしめんと欲す、神よ願わくはわがこの希願を助けよ。