集会だより NO.437   2016.12

主は私の右におられるゆえ、私は動かされることはない。

 主を畏れることは、命の泉である。(詩篇168、箴言1427

 

○十一月七日(日)小羊集会 使徒言行録 十五・1~21

 キリストが復活して使徒たちに聖霊がそそがれてからキリスト教は非常な早さで伝わっていった。聖霊の力があると、権力や組織が命じなくても伝わっていく。そして、ローマ帝国の全域にまで広がった。その過程のできごとである。

この箇所は、キリスト教がユダヤ教の一派になって終るのか、全世界のあらゆる人々に伝わるのかのおおきな分かれ道の問題について書かれている。それは、救いはいかにしてなされるのか、ということであった。

 キリストは、「割礼をしなければ救われない」などと全く言われたことはない。

 しかし、ユダヤ人でキリスト者となった人たちの中には、割礼を受けないと救われないという考え方の人がたくさんいた。

 それは、割礼を受けなければ、滅ぼされるという記述が旧約聖書にあったからだ。 起源は創世記までさかのぼる。「あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記十七・1314

 このほかにも割礼に関して記されている箇所がいろいろある。そうした旧約聖書の律法に記してあるから、キリスト者となったユダヤ人の一部は、割礼の必要を強調した。信仰だけは救われないと言った。

 それに関して、聖霊の示しを受けて、そうではない、信じるだけで救われると主張するパウロたちがあり、深い対立が生じた。間違った道にそれようとするとき、正しい道に導こうとする流れがでてきたのである。

 パリサイ派からキリストを信じるようになった人たちは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセが示した律法を守るべきだ」と言った。

 しかし、パウロは、「異邦人も聖霊を受けた」という明白の事実を示した。モーセの律法に書いてあっても、変えられたのは聖霊を受けたからであった。その点においては、パウロも弟子も、異邦人も同じように聖霊によって変えられたのである。

 救われるのは、ただ、神のめぐみにより、信仰による。その信仰も神によってあたえられた恵みである。

 この箇所と深く関わっているのがガラテヤ書である。ガラテヤ書は、信仰によって救われる、ということをテーマにして書かれた。その中に「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ一・6)とある。

 この異なる福音とは、「割礼を受けなければ救われない」ということである。ユダヤから来た人々がキリストの福音を覆そうとするのに対して、「そんなことをするなら、呪われるがよい」とまで言っている。信じるだけで、救われる、という、その真理から大きく離れてしまうと本当の祝福はない。だから強い口調で言った。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(ガラテヤ書三1~2)

信じるだけで救われるのに、割礼が必要という人たちに関して、パウロは、聖霊をうけたのは、律法をおこなったからか。割礼をしたからか、それとも信じるだけで救われたのか、と言っている。

 「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(ガラテヤ五・23

 信じる以外に何かが必要であれば、キリストは必要なくなるのである。 「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ六・15

 今日、形をかえて問題が続く。水の洗礼を受けなければ救われない、と主張する人たちがある。しかし、水の洗礼によって救われるのではなく、イエスを信じて救われるのである。 よい行いを積むとか律法の規定を守って救われるのではない。人間は本当の意味で善き行いはできない。すべて、自分中心であり、自分のためにしている。

 その罪をキリストの贖いによって赦していただいたと、信じるだけで救われるのである。それは、どんな人にとっても希望になってきた。どのような罪や汚れがあっても、キリストを信じるだけ救われるからである。

 「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ書四十五・22)全世界のはてにいる人までも、人から遠く離れている人までも、わたしが神であるから、仰ぎ見るだけで救われる、と神は言われる。この真理は2500年もたったが、真理であるゆえに、消えないで続いて来たのである。  


○十一月六日(日)列王記上十二章1~19

              47名内(スカイプ13名)

 ここは、ダビデ王国が分裂するときのことである。王国は北イスラエルとユダに分かれ、後には北イスラエルはアッシリアの攻撃で滅び、残ったユダもバビロンの攻撃で滅ぼされた。しかし、ユダは滅ぼし尽くされず少数が残され、そこからキリストが生まれることにつながった。王国はどのような理由で分裂したのか。

 それは、直接的には、ソロモンが神に背いたからであった。

「わたしがこうするのは、彼がわたしを捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、わたしの道を歩まず、わたしの目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからである。」(列王記上十一・33

 神は裁きを与えられた。しかし、滅ぼし尽くさないで、そこからまた、導いてくださる。わたしたちも、罪を犯すとき裁きを受ける。しかし、滅ぼされることはない。そこからまた、悔い改めるとき導かれていく。

 ソロモンが死んで、新しい王となったレハブアムは、民から、これからは課された重い苦役を軽くして欲しいと懇願された。それで、レハブアムはこれからのことを、ソロモンに仕えていた長老たちに尋ねた。長老たちは、以下のように告げた。

「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」

 王は君臨して支配するのではなく、仕えるべきである、と、このような時代に、長老は語った。それは新約につながる真理である。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ二十・2528

 イエスは王としてこられた。それは仕えるためであった。イエスは一貫して、よきことを提供しようとされた。聖書において仕えるとは、言うままに従うことでなく、良きものを提供しようとする姿勢である。キリストは最もよきものー神の力、神の言葉、罪からの解放、永遠の命等々を常に与えようとされた。

 この時代に、長老たちも正しい助言をしたのであった。しかし、レハブアムは長老の助言を聞かずに、自分に仕えている若者にも相談した。そして彼らは、もっと苦役を重くしようと助言し、それを聞き入れた。

 それが、王国の分裂の原因となった。民はレハブアムに従い、国は分裂していった。そのため、レハブアムは、戦車を集め、分裂したイスラエルに戦いを挑んだ。そのとき、そこに神の言葉が臨んだ。

 これは、神の御計画であり、ソロモンの罪に対する罰である。だから、その罰を受け、イスラエルと戦争をしてはいけないといわれた。レハブアムは戦いの準備までしていたが、戦いをやめて、神のことばにしたがった。それで、ユダは今に至るまで続くことができたのである。

 今のわたしたちにも、罪に対する裁きはある。しかし、心から悔い改め、神の言葉に従うとき、また守られ、祝福の道に導かれるのである。 


○十一月十三日(日)主日礼拝 マタイ六・16

               50名(内スカイプ8名)

 「人を裁くな」というタイトルが書かれているが、この内容は、まず、自らの罪の赦しを受けよ、ということを告げている。「裁く」、ということは、人の悪い点を指摘して批判し、相対的に自分が偉くなったように思うことである。愛から出たことではなく、相手をおとしめて、自分が高くなろうとすることである。

 人を裁く、その裁きで裁かれる。これは法則である。数学のような精神的な法則がこの世にはある。それは真理であり、場所、時間を問わず存在しつづけてきた。

、他の人の罪はすぐに気が付くのに、自分の罪は気が付かない。自分の中に取り除くべき罪があるではないか、と問われている。

 だれでも、本当は罪があるのに、善き者のように見せている。正しい道からいつも外れているのに、気が付かない偽善者であるといえる。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ六・2223

 自分の目に、妨げ、罪があれば、他者のものもみえない、自分の中の丸太のような罪が除かれれば、光が入ってきて見えるようになる。心の窓から神の光を取り入れると、よくみえるようになるのである。

 自分の心から罪を取り除くために、イエスは来てくださった。まず、自分の罪を赦していただく。そうしたら、聖霊が与えられ。はっきりと見えるようになり、他者をも愛のまなざしでみることができるようになる。そして、聖霊が与えられれば、悪い人に対しても神の力が、そこに臨むようにと祈ることができるようになる。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ十八・2335

 1万タラントとは現在で言えば、六千億円ほどにもなる莫大な借金を帳消しにしてもらった人が、わずかな借金を返されないと言って、捕えて牢屋に入れた。人を赦さないと言えば、その裁きで神に裁かれる。赦さなないといえば、その人の罪も赦されない。わたしたちも、まず、自分の罪に気が付いて、イエスから赦しを受けることが大事である。

 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」とは何を意味するか。聖なるものとは神の言葉を指す。これは、人間が非常に、悪魔的なことをしているとき、真理に関して平気で踏みつけているとき、いきなり「聖書にこう書いてある」といったら、逆効果であるということである。

しかし、神のことを語るなと言うことではない。だれでも、神を知る前は死んだような者であった。

 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェソ二・1)

 死んだようなものに、真理を投げかけてくれたのが、キリストであった。わたしたちも、犬や豚のように、神の言葉はわからなかった。そして、犬や豚のように平気で汚れたことをする人に、キリストは殺された。しかし、それによって、神の大きさが示された。

 敵のため、届くのは祈りである。み言葉をもって祈り、みことばが与えられるように祈る。たとえ、表面的には足で踏みにじってきても、背後で神が働かれる。主イエスは、敵のために祈れと言われた。祈りと、神の愛はすべてに勝つのである。そのために、まず、自分の罪の問題を見据えて、知り、赦しを与えられることが必要である。 


○十一月二十日(日)主日礼拝 マタイ七・712

                42名(内スカイプ9名)

 神を信じる者には偶然はない。ただ、起っていることの理由がわからないだけである。しかし、わからないから、神様がいないのではない。不可解なことがおこるから、神様はいない、とおもうのはまちがいである。

 ヨブ記には、どうしてこんなことが、ということが次々と起ってきた。友人たちが来て、ヨブに意見をした。その最後に現われた人、エリフが、神との橋渡しをした。彼は「大いなる自然の前で、おまえは何を知っているのか」と次々問うた。人間には実はわからないことばかりである。

 しかし、だから、死んだ方がましだということはまちがいである。神を信じるということは、全能の神を信じるということだからである。

 「求めよ、さらば与えられん。」よく知られている言葉である。しかし、現実には、お金も、健康も、求めても与えられないではないか、という人もいる。しかし、御心にかなうことは、実際に与えられる。

 人間には自分中心の思いがある。それが罪である。自分中心の本能は、人間としてのただしいありかたではない。それを進めると、争いになり、殺し合いになる。

 人間にとって一番大事なのは、罪のきよめである。そのために、主イエスは来られた。そして、罪赦された心に聖霊が与えられる。

 罪の赦しは、求めたら、日々与えられる。病気を癒してくださいと、必死で祈っても聴かれないことがほとんどである。しかし、中風の人をイエスの所に運んできた友人たちは、家に入れなかったので、その家の屋根を開けて入ってきた。その熱心を見て、イエスは御業をなされた。よいことは、あきらめてはいけない。

 求める度に、必ず与えられる、それが罪の赦しである。信じるだけで赦される。キリスト教の出発点も、そこにある。そして、聖霊によって目がひらかれたら、いっそう求めていくべきである。人間は、神に頼らないという罪をもっている。 しかし、罪の赦しを求めたら、確実に与えられる。罪の赦しを味わった人は、キリストから離れない。だから福音なのである。そしてそれは誰にでも与えられる。

 だから、まず、神の国と神の義を求めなさいと言われているのである。神の正義をしなさいといわれても、人間にはできない。しかし、イエスを信じることで義とされ、聖なる霊を与えられる。聖霊は、イエス様と心から言えるだけですでに働いているのである。

 星のような自然界のものに関しても、真剣に求めたら、その沈黙の輝きから なにか、清いもの、美しいものが、ひとしずくでも与えられる。そのためには静まることが必要である。静まらなければ、神の声は聞こえない。

 静まって、門をたたくと、神の国が開かれて、与えられるのである。その神の国は無限大である。人間の愛はひとりにしか与えられない。しかし、神の愛は、もらえばもらうほど、増える。

神の愛、神の真実、神の力、御計画、美しいと感じる心、それを、もとめるときにくださる。

 ルカの福音書にはそのことのまとめとして以下のように記されている。

  「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ十一・11

 聖霊がすべてを導いてくださる。自分が目的とすることは与えられなくても、別のことがあたえられる。日々おこる出来事も、神からのメッセージと思い歩むことが大事である。

 


○十一月二十七日(日)主日礼拝 マタイ七・1314 

                 39名(内スカイプ9名   狭き門とは何か。特に日本では神を信じる者が1%程度であり、一般の人からみたら、聖書を信じると言うことが狭い門である。「光あれ」と神が言われたら光があった。また、この世がどうであれ、神が愛である。求めよ、そうすれば与えられる、ということも、神を信じなければ信じることができない、狭い門であるといえる。そして、人間の競争心、努力で進んでいこうとすることが広い道である。

 昔から歴史は悲惨を繰り返し、大事な人が簡単に殺され、災害があり、戦いは後を絶たない。目の前のことを見ていると、愛の神はわからない。だから何かを拝んでいないと不安となるので偶像の神々がうまれた。

 しかし、イスラエルの民に、唯一の神が知らされた。そして、神は、唯一の神への信仰を全世界に広げた。しかし、人間には狭い道に見える。唯一の神を知るためには啓示が必要である。わたしたちはその啓示を祈り求め待つ。

 神を信じていても道はふたつにわかれている。身近な植物の花を見ても神の国の美を感じ、汲み取ろうとする姿勢、それが狭い門から入ることとなる。

 祈りも、このこと自体が狭い門であり、祈らないという道が広い道である。朝起きた時に、まず、祈らないで、新聞などを読むことが、広い道である。信じている人も、信じていない人も、人間には罪があるので、広い道から入ろうとする。

 人には二つの道しか与えられていない。命に通じる道と、滅びに通じる道と。神を信じなければ滅びるということは、自分の力で頑張っている人には受けいれがたいことである。しかし、唯一の神がいないとするならば、そして死んだら終わりとするならば、最終的には滅んでいくことになる。

神の言葉に聞く道と、聞かない道の二つの道。詩篇には最初からそのことが示されている。

 「いかに幸いなことか、

主の教えを愛し

その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。

 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。

彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。

神に逆らう者は裁きに堪えず、

罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。

神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩篇一・16

 

 みことばに従う道か、人間的なことに従う道か。神に従う道は狭い門から入っていく。しかし、門を入ると広い道となる。この世は競争ばかりであるが、神の示す狭い道は、競争者はなく、どんなに増えても狭くなることはない。聖なる道は大路である。

 

「そこに大路が敷かれる。

その道は聖なる道と呼ばれ

汚れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ

愚か者がそこに迷い入ることはない。」(イザヤ三十五・8

 

 はるかな昔から、歴史的に実際にあったことの啓示から、永遠の真理として示されている。狭い道に意味があるのである。わたしたちも狭い門から日々はいる必要がある。そして命の道に導かれていく。しかし、人間は弱く、広い道を選んでしまうことがある。道を間違えたと思うときには十字架を仰ぎ、赦していただき、また新たに進んでいきたい。広い道か、狭い道か。ここだと思うときに祈って進むことが大事である。


お知らせ 


〇キャロリング…1224日(土) 午後6時半に集会場に集合。。

〇クリスマス特別集会…1225日午前10時から午後2時。

 会費500円。(弁当代金)弁当不要、あるいは持参の方は申込なしでもどなたでも参加できます。

 子供向けのプログラム、いのちのさと作業所関係の賛美、集会員有志の賛美、デュエット、聖書講話、7~8名の1年間の感話。(感話する人はあらかじめ決まっています。)会食、交流会など。 

〇元旦礼拝  例年のように、1月1日午前6時半から、徳島聖書キリスト集会場で行います。

 今年は、1日が日曜日なので、午前10時半から定例の主日礼拝もありますが、参加可能な方々で、新年の早朝に祈りを合わせることで、神様からの新たな力、み言葉を与えられたいと願います。 


集会だより    2016.11  NO.436  

主よ、あなたは、恵み深く、あなたを呼び求めるすべての人に慈しみを豊かに与えられる。(詩篇86の5)

 ○九月二十六日() 北島集会 ナホム書2103

 今日の箇所において、その冒頭に、つぎのように記されている。

…見よ、良き知らせを伝え、平安を告げる者の足は、山の上を行く。…二度と悪しき者がお前の土地を汚すことはない。

 彼らはすべて滅ぼされた。…

主は、ヤコブの誇りを回復される。(ナホム書2の1~3より)


 この記述のあと、預言者ナホムは、独特の強い表現によって、神のさばきの力を表現している。古代、広大な領域を支配していたアッシリアの首都ニネベ。しかし、いかに強大な地上の力も、神によればたちまち滅ぼされる。

 目に見える圧倒的な力を見せつけられれば、誰しも、神の力はどこにあるのか、と思ってしまう。現代に至ってもそうである。だが神の真実や愛を踏みつけるような勢力に対して、神の力が働けば、悪の力は必ず滅びることが言われている。神の裁きの力は大きい。このことを告げるのがこの箇所の冒頭で言われている「よき知らせ」である。

 「わたしはすでに、世に勝っている(ヨハネ福音33書16)」とイエス様は言われた。この世のすべての悪に、イエスさまは勝利した。だから、この世の悲劇、人間の憎しみ、あらゆる罪の力、死の力、いろんな形をとってくる悪に、わたしたちもまた勝利していける。イエスを仰ぎ信じるだけで、この力をいただける。

 イザヤ書40の9には、バビロンからの解放の予告としてのよい知らせが告げられている。気づかないがわたしたちも、罪の力に縛れらている。罪から解放されていないと縛られたままだ。よき知らせとは、そこからの解放という意も含まれている。

 良き知らせについては、イザヤ書ではさらに52章の7節でも言われている。こうした「良き知らせ」とは何か、に関して、新約聖書の時代になって、主イエスをただ信じるだけで救われるーという真理が明確に告げられるようになった。(新約聖書の全体にこの真理は記されているが、とくにロマ書35章、10章、ラテヤ書などはこのことを一貫して強調している。)これがこのナホム書やイザヤ書など旧約聖書の時代から言われていた「良き知らせ」が指し示すことなのである。(信じることもなく、悔い改めもしないのに、万人が救われるとは言われてはいない。)

 214節は、どんな強力な武力も、神さまの力が焼いてしまうことを象徴的に言っている。イナゴという自然の現象、徹底して食い尽くすイナゴの集団がじっさいにあった。そのように神の力が働くのだ。それほどの多数の者が一斉にいなくなる。時至れば、悪の力は徹底してほろぼされる。

 このことは、神さまがなされる霊的世界にも重なる。悪の力のはかなさを、詩篇第一篇では、風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえている。悪の道は滅びると。 アッシリアと言う強大な帝国の繁栄も、また急激に萎んでいくのだという預言が実現していった。それを通して、悪の力の強大さも、時が来れば神の力によって一掃されることが言われている。


○十月二日(日)主日礼拝 上列王記上 九章 47名(内スカイプ7名)

「あなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。そこにわたしの名前を置く」とある。神が神殿に心を向けてくださると約束されている。神が人に心を向けたのが先か、人が神に心を向けたのが先か。

 神が先である。聖書のはじめからそれは記されている、はじめは闇であった。そこに光があった。人間が造るのは闇、神が光を創られる。それを指し示している。人間が造り出すものは、どれも闇を帯びる。科学技術も便利さを生み出すが、それが闇に用いられてしまう。しかし、そのただ中に、神は光を造られる。闇に直面しても、そこに光が与えられるのである。それは、まず、神が与えてくださる。

 信仰の父、といわれているアブラハムも、まず、神が語りかけたことからはじまった。神が、羊飼いであったアブラハムに、語りかけ、それにアブラハムが従った。そのようにまず、神が語りかけ、それに従った人たちは歴史の上でも後を絶たない。

 ここで書かれているソロモンも、まず神が語りかけた。そして、いつも見守っていてくださる。しかし、わからないのは人間の目の感度が悪いのでわからないのである。神に心を向けていると、神がみつめてくださる方、赦してくださるかたであることがわかってくる。

 そのみつめてくださる神はどのような方か。完全な真実な方である。そして人間は弱く、心の中に悪が住んでしまうこともある。ここに「無垢な心で歩みなさい」とある。この「無垢な心」とは「全き心、完全な心」とも訳されていることばである。しかし、人間は完全な心で歩けるのか。このことばは以下のようにも訳されている。

「あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守らなければならない。」(列王記上八・61

 この心をひとつにする、つまり神と共にあれ、ということである。それは全き心、真実な心、幼子のように神に向かう心である。人間は真実ではなく純粋でもない。しかし、キリストの十字架の赦しを信じる。罪を感じるとき、すぐに幼子のように十字架をあおぐ。愛もない。だから神に祈るのである。

「全き」という心は、十字架を仰ぐときに、示される。主イエスは信じるだけで救われるといわれた。だから、罪を思うそのたびごとに、十字架のイエスを仰ぐ。そのとき、汚れていても汚れていないと神はみなしてくださるのである。

 まず、神が、聞いてくださるので、わたしたちは憐れみを乞う。死のまぎわの苦しみの中でも、神だけがともにいてくださる。呼びかけても返事がなくても神はともにいてくださる。そして、祈りをきいてくださる。

 ここに書かれている神殿、それは今は、わたしたち神を信じる者が神殿である。信じて、うちにキリストがいてくださるから、うちなる主に語りかけるとすぐに答えてくださる。十字架によって赦してくださる。いつも、みていてくださるから、振り返るとそこにいてくださるのである。


 十月三日(月)小羊集会  使徒言行録十四・2128


  パウロたちは、デルベからリストラやアンティオキアまでわたって行った。何百キロもの長い距離であり、命がけの苦しみの旅である。さまざまな困難があった。


「神の国に入るには、大きな苦しみを経なくてはいけない」このような旅の苦しみを指すと共に、キリストに従って歩むときの苦しみをも指す。迫害の時代、キリストを信じると言うだけで拷問やまた殺される苦しみを受けた。

キリストを信じるとき、苦しみは神の国に行くための一歩である。一般的には大きな災害とか苦しい病気など特別な苦難は運が悪かったなどと言われる。しかし信仰によって、それは神が備えた道であると知らされる。そのことは信仰による恵みである。

 それぞれの人がそれぞれの悩みや苦しみを経て、信仰を与えられ、今に至っているといえる。

 トルストイも、自らが大きな苦しみを経験し、そこから他者にも影響を及ぼしていった。ステパノ、ガンジー、キング牧師、も「死」という苦しみを経て今にいたるまで影響を与え続けている。わたしたちも、どのような苦しみに遭うかわからないが、それはすべて神の道を進むために必要なために与えられたことである。

 「神の国に入る」とはどういうことか、どのようにすればいいのか。

 「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」(ルカ十八・1517

 弟子たちはこどもをつれてきた人たちを叱った。騒がしいし、こどもなどキリストの話を聞いてもわからないと思ったからである。しかし、話の内容は理解できなくても、霊的なことは受けることができる。赤ちゃんであっても、祈られて、祝福を受けことが大事である。また、病気が重くなって死が近くなり意識もないようなとき、何もわからない状態であっても、祈りによって聖なる霊は注がれる。

 神の国は幼子が母親を見つめるように、神に全面的に信頼する心に与えられる。神の真実な御支配があり、愛の御支配があるということを、疑わないで、全面的に信頼していく。人間は罪深く疑い深い。その罪を赦していただく。キリストの十字架を心からあおいで、赦しを信じる。

 神の国に入ると言うことについて以下のようにも記されている。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ三・3)

「『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ三・5~8)


 すべての根本は聖霊である、聖霊によって新しく生まれる必要がある。どんな人も、信仰が与えられるのは、聖霊の風が吹いたからである。わたしたちも、聖霊を受けると、魂が新しくされる。聖霊に導かれて歩む、その課程で苦しみも受ける。そのことによって、いっそうイエスを真剣に見つめるようになる。幼子の心で聖霊によって歩みつつ、与えられる苦しみも神の国にいく一歩一歩なのである。  


○十月九日(日)主日礼拝  マタイ六・1921

                37名(内スカイプ8名)

「天に富を積みなさい」とある。この箇所は、新共同訳以外の聖書では「宝」と訳されている。また、英語訳でも「宝」と訳されている場合が多い。そして原語の意味も「宝」をさす。「富」はお金や財産のことを指す。「宝」という場合には、お金以外にも人間や場所、また、記念の持ち物など、大切とするもの、貴重な価値あるもの全般を指す。

 つまり、ここで、地上に単に財産を積んではいけない、ということではなく、目に見えるものに価値をおき、熱をいれると、そこには神の祝福はない、ということである。それは、お金に限らず、地位や名誉も指す。一番になると、ほめられるが、これが地上に宝を積むということになる。目先の富や権力を求めた結果、原発を生みだし、廃棄物が解決のできない問題を生み出していくことになった。一番になって誉められたい、人の注目をあびたい、といったこの世の常識はすべて地上に宝を積むことになる。そしてそれはもろく、一番になったところで、すぐに別の人にその地位は奪われる。盗まれたり、壊されたりするものに他ならない。主イエスのことばは、わかりやすく話しながら、確信をついている。そして、この世のものは「虫食い」「さびつく」ものばかりを扱っているといえる。変質しないものを求める、ということは、ほとんど言われない。

 「宝は天に積む」とは具体的にはどうすることか。誉められるということも、人に誉められるのではなく、神に誉められるように求めることである。地上から目を転じて、また、悪しきものから目を転じて神に向く。そのことが宝を天に積むことになる。

 よきものは、神のみ前におく。人に見てもらうためではなく、良きことをする。苦しんでいる人のために、見返りを求めないで、できることをする。そのことが、神のところによきものをおくことになる。

 聖書は、天に宝を積んだ人と、地上に宝を積んだ人との、その違いが満ちている。信仰の父、アブラハムは、人生のあるときまでは普通の羊飼いであった。とつぜん、神から呼び出されて、「わたしが示す地に行きなさい」と言われて、親しいものを捨てて、旅立った。神を信じて歩むこと、進むこと、それも天に宝を積むことになる。そして、神のことばに従うとき、それは祝福があり、他者にも祝福をあたえる。アブラハムは「祝福の基」といわれた。それと反対に、地上に宝を積む大規模なものが世界大戦になった。その犠牲のもとに作られた憲法九条の根本はミカ書に記されている、剣を鋤に変えて、田畑を耕し、農産物を作る、という精神である。天に宝を積もうとするとき、武力は必要なくなる。

神を信じること、信じて祈ることも天に宝を積むことになる。短い時間であっても、誰かのために真実に祈る。そのことも天に宝を積むことになる。「人を裁くな」と主イエスは言われた。自分はその人よりも偉いのだというひそかな心があるから、人のことを悪く言う。それは宝を自分に積もうとしている。

 聖霊を求めよといわれている。真剣に祈ること、そして聖霊のひとしずくを受けて何かをすること、それが天に宝を積むことになる。最も良きことは信仰、希望、愛とある。真実なこと、まっすぐに神を見ること、神から希望をもらって生きること、そして神の愛をもって何かを行うこと、それも、天に宝を積むことになる。

 天に宝を積むとは、すべてを御存じの神の前におくことである。心をこめて、何かをするとき、そこに心がある。朝起きて、まず、主の祈りを祈り、身近な人のことを祈る。少しなりとも祈る。それも天に宝を積むことになる。それらは毎日の生活の中で、いつでもできることである。

 地上に宝を積むことで必死になっているこの世の中で、わたしたちは神を知らされた。天に宝を積むという道を知らされた。感謝して、日々、生活の中で宝を積むことができるように導かれたい。


○十月十四日(金)天宝堂集会 コロサイ三・1825

  夫、妻、子供、そして奴隷にあてて書かれている。当時、裕福な家では奴隷を持つということは珍しいことではなかった。そして、そのあり方として書かれている。

 家族である夫や妻に対して、また、子供や奴隷のような弱い立場の者に対して、どのような心で接するか。それは人間に対してするようにではなく、主を信じる者は主に対してするように行うべきであると記されている。その結果として、「御国」を受け継ぐことができる。

「御国」とは、原語 バシレイア(*)の意味から「王の支配、権威、力」、さらに、「王の支配の及んでいる領域」などを意味する。言い換えると、神の御手にある一切のものを「御国」という。それは戦争や災害によっても壊れない。死によっても滅ぼされるのではなく完全になる。主に対してするように身近な者に接する、その報いは「御国を受け継ぐ」という素晴らしい祝福なのである。

*)御国と訳された原語 バシレイア basileia は、「王」を意味するバシレウス basileus から作られている。それゆえ、バシレイアは、王の支配、権威、さらに王の支配の及ぶ領域ー王国 などを意味する。

 

 ここには、その身近なものに対して「仕える」ということが繰り返し書かれている。「仕える」とは、相手の言うとおりにするというのではない。それは、聖書の別の箇所を参照すればわかる。

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ二十・28

 イエスが来たのは仕えるため、イエスが、罪の虜になっている人たちを、自分の命を差し出して救うためであった。つまり、仕えるということは、自分の一番良きことを差し出すことである。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ二十・2527

 大きくなろうと思う者は、小さく、幼子のようなこころになるべきであると示され、そして、イエスご自身が、一番小さきものと自らなられ、仕える道を示された。それは、人間には難しい事である。しかし、わたしたちは、神の力を受けて、少しでもそのような方向に向って行きたいと願うものである。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ二十三・1112

 権力をもって、自分は偉大であると考え、陰で不正なことをしていても、時が来れば明るみになる。高ぶる者は低くされる。しかし、砕かれた心を持って仕える、つまり良きことを行なうとき、神はそれを見てくださる。


このように「仕える」ということは、主に仕えるように行うことであり、イエスが命を捨ててまでわたしたちを愛してくださったように愛する。それが究極の正しい方向性である。

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ五・2125

 相互に仕えること、キリストに仕えるように仕えることが明示されている。本当に仕えるべきは、キリストである。そして、キリストに仕えるように他者に仕える。つまり、心を尽くして、もっとも良きことを神に捧げ、人に捧げていく。最終的なありかたは、人々に少しでも良きものを捧げようとすることである。わずかなことであっても、仕える人となれ、と言われている。一番になることを目指すこの世であるからこそ、キリストの真理が大事になる。

「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。

 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(コロサイ四・1~2)

「仕える」ということは、祈って神からの力を受けないと、できない。祈らなければ、地位とか名誉に引きずり込まれていく。弱い者に対して主の心で少しでもよきことを提供する、それは祈りなくてはできないことなのである。 


○十月十六日(日)主日礼拝 マタイ六・2223

            44名(内スカイプ7名、子供4名)

 体のともし火は目、とある。目は心の状態を示す不思議な器官である。目には不思議な力がある。

 わたしたちは、イエスのたぐいないまなざしを見て救われる。ペテロがイエスを裏切った時、イエスがじっと見つめた。そのときペテロが激しく泣いた。イエスのまなざしに触れたからである。

 心に迷いや動揺があるとき、目を見て話せなくなる。神は「目」というものに、見えないものを掴み取ることを与えている。目は心を映す。赤ちゃんの目は清く澄んでいる。

 ここで書かれている、「体のともし火が目である」とはどういう意味なのか。「体」とは、肉体だけではなく精神も含めた体を現している。その体のともし火が目という。この「目」は「窓」という意味でつかわれている。目が澄んでいたら、天の光が入ってくるから、明るくなる。明るくなるから、光りを受け取って、体が明るくなるというランプのような役割がある。

「澄んでいる」これは、原語の意味からは、「誠実に、まっすぐなこころで」という意味がある。まっすぐに、シンプルに神を見つめる。そうすると、そこから光が差し込んで明るくなる。目が濁っていたら、光りが入ってこない。ガラスが曇っているように光がはいってこない。

 この世での科学技術とか、何がどのように発達しても神の光は決して変質しない。また、科学が発達していなかったときであっても、深い見る目を与えられていた人はいた。この世は情報の洪水である。惑わされて、表面ばかりを見てしまい目に見えるものに、操られてしまう。そのただ中で、霊の目を活発にさせるためには「祈り」が重要となる。霊の目は内からのエネルギーがなくなると、見えなくなる。内なる光は充電しないと見えなくなるので、絶えず祈る必要がある。祈りによって光を受けると、人ごみの中にあっても、自然の中にあっても、神を仰ぎ、その働きを少しなりとも実感し、霊的に見ることができる。礼拝も、集まり中に、主がいるので霊の充電ができる。そして、その目でこの世をみる。 神のことばをうけるとき、みことばは、足のともし火となる。わたしたちは、日々新しくされ、日々光を受けて進んで行きたいと願う。  


○十月二十三日(日)主日礼拝 マタイ六・2430

                 38名(内スカイプ8名)

 「神と富に仕えることはできない。」とある。富、つまりお金は強い誘惑になる。気を付けていなければ、お金に目が奪われる。ふたりの主人に仕えることはできない。ここでは神かお金か、と言い換えることができる。そしてこの世では、特に今の日本においては圧倒的に「お金が大事」といわれる。神は目には見えない。お金に力があるのは誰もが知っている。そして、神はいないと考えている日本人には、神に力があるというのはわからない。しかし全世界を創造している神が今も支えているのである。その神だから仕える値打ちがある。

 「仕える」これは、原語の意味からは「奴隷として仕える」ということばである。パウロはその手紙の中で自分自身を「キリストの僕」と言っているがそれも原語の意味は「キリストの奴隷」ということである。奴隷は忠実に言ったとおりに働く。パウロのキリストに対する思いが表されている。

 わたしたちが従うのは神か、金か。この世界には二つの力がある。華やかなオリンピックも準備段階から膨大なお金が必要である。神の真実を無視して金に頼るとき、さまざまな問題が出てくる。必要金額の虚偽の報告からも今、問題が起こってきている。また、報奨金という巨額のお金が動いているメダル。これがお金に仕えるということの実態である。原発も、莫大なお金を振りまいて反対の人を賛成にしてしまい、村が分裂することもあった。そして今なお解決不可能な問題を負うことになりながらも原発は強行されている。それは金の力の奴隷になっているからである。

 日本人は、本当の神を知らないため、華やかなものにお金を投じて、困っている人にお金をつかわないという社会全体の問題にも関わってきている。戦争にも莫大なお金がいる。このように、世界はお金で動いていると思える。しかし、世界の万事を支え、動かしているのは神である。それは、心や魂のことを考えるとすぐにわかることである。お金があっても隣の人を愛で満たすことはできない。億のお金があっても、心は清められない。世の中にどこを見ても、お金の力が蔓延しているように思えるが、実際は神の力こそが蔓延しているのである。すべてを創造して光輝かせているのは神。神を信じるときに大いなる力をうける。罪赦され、復活をさせていただけるーそれは神でなければできない。

 イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われた。イエスは自然に深い意味を与えていた。自然は目に見える神のことばである。神からのメッセージとして与えられている。心が汚れた時には、清らかな白い雲や白い雪を見なさい、といわれる。すべてはイエスによって創られた。イエスによって創られなかった者はなかったとある。美しい花も自然も神の英知の中にあった。完全な美である神が自然にさまざまな美しさを反映させている。人間も音楽や芸術でそのまねをするが、そのためにはお金がかかっており、また人間の感情もはいっている。純粋とは言えない。しかし、野の花をルーペで見ると、その美しさに驚かされる。それは完全で不純物はない。また空の鳥は罪を犯さない。動物は本能で生きている。しかし、人間は間違え、罪を犯す。人間にだけ神の真理の道が与えられている。しかし罪があり従うことができない。だからキリストがきてくれた。悔い改めて福音を信じるためにキリストは来られた。

 自然が神を讃美している。それは詩篇に表されている。

「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。 天の天よ天の上にある水よ主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。主はそれらを世々限りなく立て、越ええない掟を与えられた。地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ。山々よ、すべての丘よ、実を結ぶ木よ、杉の林よ。野の獣よ、すべての家畜よ、地を這うものよ、翼ある鳥よ(詩篇一四八・1~10

 太陽も山も賛美している。賛美をやめよと言われても石も叫ぶと新約聖書には記されている。無限のものを創造した神を信じなければこの詩は書かれない。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。あなたたちは喜び祝いながら出で立ち平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え歓声をあげて喜び歌い野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。(イザヤ五十五・813

 天を見るとき、神の無限を思う。雨を見てもそれがまた、めぐる。そして神の言葉もめぐる。雨が降り、雪が降る、それも神の業の象徴である。だから山も丘もよろこんで手をたたく。

イエスが自然を見よ、と言われた。そこに神からのメッセージがあるからである。


○十月二十四日() 北島集会 ハバクク書 1122章4

 ここには聖書の基本になる重要なことが書かれている。

 人の労苦に目を止める主。だがそのような愛と真実の方がなぜ偽りの者(悪人)をそのままにしておかれるのですか、という問いがある。

 当時ユダの国は、新バビロニア帝国に攻められて滅びようとしていた。このことはそのような危機的状況の中から言われいる。

 聖書は、全体として、非常な切迫感の中から言われている。パウロも「神の国は苦しみを通って入る」と言っている。神のご支配がわかるために、神さまはたえず苦しみを置かれる。その中で啓示をされる。

 神は聖なるお方。「聖」という漢字は中国の文字で、もともとの日本語ではない。聖書において、「聖」と訳されている原語(ヘブル語)は、カードーシュで、それはヘブル語の辞書には、「set apart separate」で、「分ける、別にしておく」と 説明されている。

 神は聖なる神、という意味は、人間世界のものとは全く別のいかなる時代や時の流れにも影響されないし、いっさいの汚れもない、人間的なものとは本質的に分けられた存在だということである。

 神は、そのようにすべての地上のものや人間世界から別たれていることを、聖書の民族は知らされていた。

 しかし、日本の古事記やギリシャ神話などにみられる神々は、人間と区別がなく、悪いことも人間と同じようにやっていることが記されている。

 聖書の神はそれとは正反対に、人間的なものとは完全に別たれている。万物を創造されたという、人間のレベルからは無限に遠いお方である。

 イザヤ書6章に、イザヤが示された神さまの基が記されており、聖なるものの本質が言われている。今もこの本質は変わっていない。

 主の祈りの初めにも、み名が聖とされますように、とある。だが、どうして悪をそのままにしておかれるのですかという、この切実な疑問。その答えが2章にある。

 どうして悪に裁きが与えられないのか。だが裁きは必ずあると、言われている。最終的に癒されることが必ずある、と。これは一貫している。

 イエスさまにも、信じる者には復活の体を受け継がせてくださる約束があるが、こうした神さまの約束がはっきりわかるように、2節には「走りながらでも読めるように書き記せ」とある。

 「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書24

ガラテヤ書3の11にはここが引用されている。パウロは、聖霊をもっとも豊かに与えられた人と言える。それは、彼が啓示されたことを記した書簡が神の言葉として最も多く新約聖書に収録されていることからもわかる。

 そのパウロが、「信仰によって救われる」という福音の中心を述べるときに引用したのが、ハバクク書のこの箇所なのである。 英訳では、The righteous live by their faith. (NRS)  (なお、新共同訳は、正しい、正義 というヘブル語(ツァッディーク)を 「神に従う人」と意訳したために、新約聖書との関連がわからなくなっている。)



○十月三十日(日)主日礼拝 マタイ六・3134

                 41名(内スカイプ8名)

 「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」

これは、今の日本の状況で考えるべきではない。当時は食べること、また、衣服を着ると言うことは切実な問題であった。そして現代でも飢えている人は8億人もいる。そのような厳しい状況の中では、食べること、また衣服のことは命に関わる重要な問題であり、考えて当たり前のことである。そして、またどの国においても人間はまず、衣食住、つまりお金を求めていることがほとんどである。また、政治の一番の問題は経済問題だとされている。

 しかし、主イエスは当たり前という問題を別の方向から見据えた。まず、求めるべきは、衣食住ではないと言われた。聖書はこの世とは別のことを指し示す。それは、他にも、敵のために祈れと言うこと、また死んだら終りではなく永遠がはじまると言うことなど、普通に人が考えることと別のことを示している。洪水のような情報や議論、論説の中で、どのような人間の評論とは関係なく残っている聖書。それは神からの啓示であるから残っているのである。

 ここで、一番大事なことは、神の国と神の義を求めることであると示されている。どういうことなのか。

 「神の国」とは「神の王としての支配」ということである。つまり、「神の真実、正義と愛に満ちた御支配をまず求めよ」ということである。それらをまず求める。自分が支配するのではなく、また人間が支配するのでもなく、神の正義や愛が支配するようにと願う。

 それは、たとえ病気でも、まずこのことを祈り求める。痛い時には、神様の力で取り去ってください、と祈る。痛みの中でも、神の御支配を求める。そしてそのような中に神の平安を与えてくださいと祈る。まず、自分のこころから出発して、周りの人に神の国、神の御支配がありますように、神の愛と、真実が支配しますようにと祈る。これは、どんな人でも祈ることができる。表面にある、目に見えることだけを祈り求めるのではなく、目には見えない、神の支配を求めるべきである。

 戦争は神の国ではなく自分たちの支配する国を広げていくことである。他国のおびただしい人々を殺傷して神は喜ばれるはずがない。殺されたら、憎しみが生まれる。  キリストの使徒たちは迫害されたが攻撃はしなかった。あえて、拷問にあっても殺されていった。それによって、神の力の支配がなされた。迫害の時代には、想像もできない険しく厳しい道をキリスト者は歩んでいった。現代の私たちには考えられないような苦しみをもって神の国をまず求めていった。それで、キリスト教は伝わっていった。キリストのいわれていることは、限りなく奥が深い。私たちの日々の生活のなかで、ささやかであっても、まず神の国を求めていく姿勢が重要なのだと知らされる。

 空を見ても、あのような心を下さいと求めて祈る。それも、神の国を求めたことになる。悪い人をみても、神の国、神の御支配を求める。何を見ても神を求めるべきである。都会には洪水のように人がいるが、それらの人にも神の御支配が届くようにと祈る。電車の中でも、神の国がきますようにと祈る。このように、どこでも、神の国が来ますようにという祈りはできる。

 「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ十七・2021

 神の国は全ての中にある。全てが神の御支配の内におかれている。神の国は 身近なことなのである。

 次に「神の義」について。これは神のもっている正しさである。時代によって変わらない,動くことのない正しさを求める。人間は正しい道から外れていく弱さがある。隣の人を愛する、といってもできない現実がある。その罪深い者を、いつも、神のもとにもどしてくれるために、主イエスは十字架についてくださった。信じることによって、神は正しいとみなしてくださるのである。神の目において義とされる。信じるだけで、正しいとしてくださる。神の義をもとめる、ということは、十字架を仰ぐということなのである。

 わたしはできないと思うとき、十字架を感謝する。それで、もう正しいとされる。悪い人であっても、イエスを信じるようになれば、神の前に正しい人と変えられる。罪の解決のために十字架を仰ぐ。それをもとめたら、その他の生きる上での必要なものは与えられるのである。明日のことは明日が心配する。だから信じて祈る。それは、だれでもできる。そして今できることである。一番大事なことは全ての人に開かれている。


お知らせ


〇第40回市民クリスマス 122日(金) 1830分~2030分(開場1800)郷土文化会館 (あわぎんホール)

講師 藤井圭子 小児科医、尼僧となったが、のちにキリスト者となり、巡回伝道者。著書「我、尼僧なれど」等   入場券千円。

〇今年のクリスマス集会は、12月25日。午前10時~午後2時。


〇前月の「今日のみ言葉」に写真を掲載した、フジバカマの花に集まるアサギマダラのことに関心ある方々が多いようです。その写真をハガキにしたものを希望する方は、左記に申込してください。一枚20円です。代金は、200円以下の少額切手でお送りください。

〇「いのちの水」誌にも掲載した、藤井美代子さんの前夜式(1118日、)には40名近い人たち、また葬儀(19日)にはその2倍ほどのほどの方々が集り、復活に関する聖書からのメッセージ、そして美代子姉の愛唱讃美歌を賛美して記念とし、その葬儀を通してみ言葉が伝わるようにと願いました。

11月9日~17日まで、九州~中国地方の幾つかの集会や訪問先にて、み言葉を語る機会が与えられ、無事に帰宅できたました。その間、地元徳島集会の方々や、各地の集会の方々の祈りと準備がなされましたことを深く感謝です。各地の集会のなかには、初めての方、また病気や高齢化等々の重荷を負っておられる方々もあり、そうした方々にとくにみ言葉と聖霊が豊かに与えられますように。

 そして、各地のキリストを中心とする集りが、今後とも主に導かれ、神の言葉を中心としてみちびかれますようにと祈ります。


集会だより 2016.10   NO.435

神は一つのことによって語られ、二つのことによって語られるが、

人はそのことに気付かない。(ヨブ3313


○九月五日(月)小羊集会 使徒言行録十四・120

 パウロとバルナバは人間の考えや希望ではなく、聖霊によって送り出されてきた。そしてここでは、イコニオンで福音を会堂で伝えていた。すると、大勢のユダヤ人、ギリシャ人までがキリストを信じるようになった。しかし、信じない人も大勢いて、パウロたちを迫害しようとした。

 福音をはっきりと告げると迫害を受ける。戦前の日本もキリストが王として再臨するという信仰箇条のゆえに捕らえられたこともあった。パウロも、ここで石を投げられて、殺されそうになったが、それでもなお、やめることなく、福音を伝えた。これは聖霊が働かなければできないことである。敵意のただなかで、福音を告げようとする心は動かなかった。

 主イエスもナザレで真理を伝えたとたんに、激しい敵意を受けた。

 「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」(ルカ四・16)と、はじめは喜んで聞いていた人たちが、罪を指摘されると敵意をもった。

 「 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(ルカ四・3031

しかし、主イエスは殺されそうになるほどの敵意のただ中を守られていった。悪意のただ中を進んでいったのである。それは、昔も今もかわらない。

 そして、パウロたちは難を逃れてリストラとデルベの方に行った。そこでも福音を伝えた。するとそこに、足が立たない、生まれて一度も歩いたことのない人がいた。福祉もない時代、偏見の中見下され、不便で不自由な中、彼は福音を聞いて信じた。その信仰を見てパウロは彼を立たせた。

 群衆はそれを見て、神を讃えないで、パウロを神だと讃え始めた。それを聞いたパウロは「服を裂いて」まで、その群衆の中に飛び込んで大声で、自分はただの人間に過ぎないこと、神に立ち帰るために福音を伝えていることを全身全霊で伝えた。

 自分が讃えられたい、と必死になっているのが人間である。しかし、すべての良きことをされている神、その神に立ち帰るようにとパウロは言っている。愛と真実を今も行い、生きて働く神、人がその神に方向を転換するのが目的だからである。

 人間が素晴らしいことを行なったとしても、人間を誉めるのではなく、その力を与えた神を讃えるべきである。人間の心は変わりやすく、またどんな行いもそこには自分中心の思いがある。良きことをしたときには、それをさせた神を讃えるべきなのである。

 「誉められる」ということは傲慢になり、讃えられた人も罪を犯すことにつながる。讃えられて、誇る思いが出てくる。誉められたり敬われたりするとき、そこから誘惑されて傲慢になることがある。ダビデも敵が迫ってきてもゆらがなかった信仰が、安泰になってから罪を犯した。信仰によって危険を乗り越えても、誉められて思い上がり倒れてしまう人もたくさんいる。

 パウロは、天地すべてを作られた神を讃えよと言った。神は雨を降らせ太陽を照らせる。その神がいるから農作物も育ち生きていくことができるのである。この神を指し示し、群衆がパウロを讃えることをやっと、やめさせることができた。

 しかし、それから、またユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を巻き込み大勢でパウロに石を投げつけて殺そうとした。意識を失ったパウロを見て死んだと思われ、引きずり出され町の外に出されたが、パウロは気がつくと起き上がり再び、パウロを殺そうとした町へ入っていった。これほどの激しい目にあって、なお、福音を伝えにその町へ帰っていった。

 パウロがどれほどの危険なただ中を進んでいったか、パウロの手紙だけではわからない。そして、そのような歩みをなさしめたのが、聖霊である。聖霊によって導かれても、危険も苦しみもある。わたしたちも福音を伝えようとするとき、ことばやまた、何らかの悪意など、さまざまな形の「石」を受けることがある。しかし、その苦しみを通り抜けていくことができる。そして殺されても復活し、キリストのところにいくことができるのである。


○九月九日(金)天宝堂集会 マルコ十・3245

 主イエスがエルサレムに上っていく。それは十字架で殺されるためであった。イエスが先頭に立って進んだとき、弟子たちはおそれたとある。それまでのイエスと違う厳しい表情、真剣なまなざし。それは、イエスがそこで非常な苦しみを受けて殺されるということを覚悟していたからである。

 ルカによる福音書では以下のように書かれている。「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(ルカ十八・3134

 イエスは、ご自分が人間の罪のために身代わりになって死ぬ、そして復活をするという重大なことを、これから起こる苦しみを覚悟をして告げた。しかし、弟子たちは何も理解できなかった。そしてその反応は、まったく場違いであった。殺されようとするイエスに対して「お願いがある」といったのである。それもイエスが王となるとき、自分をイエスの右、左に力あるものとしておいてくださいと言う願いだった。

 上になりたい、偉くなりたい、認められたい。これは子供から大人までもっている願いである。しかし、こういう時に願うことではなく、また、御心に適う願いでもない。それほど弟子たちには真理が見えていなかった。

 イエスは「わたしが飲む杯が飲めるか」と聞いた。それは迫害されて殺されるということを指す。しかし、弟子たちは、意味もわからないまま「できます」といった。イエスは、今はわからないが、最終的には杯を飲むことになる、といった。それはキリストを信じるがゆえに将来厳しい運命になることをいったのである。そして、たくさんの人たちが、イエスのような苦しい杯、死の洗礼を受けることになった。弟子たちはこの時には何もわからなかったが、後には苦難の洗礼を受ける。「あなたがた」というのは、キリストにつく弟子たち、無数の人たちが受けてきたという預言にもなっている。しかし、この時にはまだ弟子たちは全くわからず、他の弟子たちは、自分たちを出し抜いてそのようなことを言ったと腹を立てていた。誰もが何もこの重大なことがわかっていなかったのである。

 そんな弟子たちとは別に、弟子でもなかった人がイエスの復活ということをわかっていた人がいた。イエスと一緒に十字架ではりつけになった人である。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』 すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。 するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ二十三・3943

 犯罪人の一人は最後までイエスを罵った。しかし、もう一人の犯罪人はイエスのことを「この人はなにも悪いことをしていない」と言い「あなたの御国においでになるとき」といった。それはイエスは復活する、ということであった。弟子たちは復活の意味がわからなかったのに、この犯罪人は、イエスには罪がなかったこと、そして死んでから、復活して神の国に行くのだということをわかっていた。どんな罪をおかしても、イエスは最後まで見捨てない。そして、イエスは犯罪人に「あなたは、きょうわたしと一緒にパラダイスにいる」と告げた。今、この死を越えて「きょう」死なない存在になるのだということを告げたのである。この罪人と、弟子たちとでは、イエスへの思いがかけ離れていることがわかる。

 イエスは、他の弟子たちが、ヤコブやヨハネのことで腹を立てているのを見て「あなたがたのうえで。大きくなりたいものは仕える者、全ての人に仕える者になりなさい」といわれた。仕えるということは、何か良きことを提供することである。そのために、イエスが私たちの内にいることが大事である。この世的に一番下になっても他者に良きことを提供したい、という思いは、そのままの人間ではできない。弟子たちも、上になりたいという思いがあった弱い者であったが、聖霊が与えられることによって変えられていった。

 わたしたちも、聖霊を求めることによって少しでも他者に仕えるものとしていただける。この聖霊を祈り求め続けていきたい。


○九月十一日(日)、主日礼拝 

  マタイ六・1112  38名(内スカイプ5名)子供2

 主の祈りの中で、わたしたちに特に身近なこと、「食物を与えてください」「罪を赦してください」という二つの内容についての箇所である。

「負い目」「負債」とも訳されているが、これは「罪」ということであり、神の前に正しい道からはずれた状態をさす。それは、犯罪を犯すということだけではなく、人のものを欲しいと思う心、怒る心、すべて正しいあり方ではない。つまり、人はだれもが、正しい道から外れていると言える。「愛する」ということを考えても、敵対する人への愛、その人に対して、その心が変えられるようにと祈ること、それが本当の愛である。しかし人間には難しい。だから、罪とは毎日、犯すことであり毎日赦していただく必要がある。食事も毎日のことである。

 そして、この祈りは「わたしたち」と記されている。必要な糧を与えてください、という祈り、これは、実際の生きるための食物も指すし、また、いのちのパンである霊の食物もさす。

 実際に世界には八億人の人が飢餓で苦しんでいる。日本は莫大な量の食べ物を捨てている。わたしたちは、今も食物がない人たちのことを少しでも思い、この祈りを祈るべきである。

また、霊の糧も毎日必要である。

 「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ四・4)

 すべての生物は口からたべて生きる。しかし、神の言葉で生きるのは人間だけである。人間だけが神を思い、祈ることができるのである。その唯一の神、愛と真実の神がおられることを、はじめにアブラハムに知らされた。それから全世界に伝わっていったが、日本では、真実の神のことを知る人が極端に少ない。この神が語られる言葉を受けなければ、人は本当の意味では生きることができない。そして復活も永遠のいのちもわからず、死んだら終りという、考えになる。それならば、永遠に比べて生きる事は一瞬のことであり影のようなものである。

 神を知り、霊的にいのちを生きるのは霊の食べ物、神の言葉が必要なのである。その神のことばが必要だから、礼拝ももたれている。そして、この「霊の糧を与えてください」という祈りは、終ることはない。食物のないところの人に思いを馳せて祈り、また、食物があふれ豊かな国であっても霊的な飢えと渇きのある、この日本のような国のためにも祈る必要がある。それを「わたしたちに与えてください」という祈りは、朝起きてから寝るまで続く祈りである。神を信じていても、霊の栄養不足があれば、良くないことばを言ってしまう。霊の食事とともに、イエスがいわれた「霊の水」が必要である。普通の水をどれだけ飲んでもまた渇く。しかし、イエスから与えられる水を飲むとき心は満たされる。そのような、命の糧をきょうも、わたしにも、また周りの人も与えてくださいと祈る。

 喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい、と主イエスはいわれた。しかし、自分の病気や家族のことでは必死で祈るが、他の人の喜びを本当に喜ぶこと、また、他者の苦しみ、困難や痛みを、一時的にではなく本当に思い続けて祈ること、そのどちらも、真実にはなかなかできない弱いものである。だから、神の愛を受け続ける必要がある。この目指す高い道をわずかでもできるように進んでいきなさいといわれているのである。聖霊が与えられて少しでもできるようになる。

 罪を赦してください、という祈りにおいても「わたしたちも罪を赦しましたように」とある。しかし、心の中でどうしても赦せない思いがあるとき、祈れなくなることがある。それでも神に近くにいるときには、そのような思いは消える。心に赦せない思いが出てくる度に十字架を思う。そして、もし赦せない心があるなら、そのままでかまわない。赦せるこころを与えてくださいと祈るのである。主イエスはそのような祈りを受け止めてくださる。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ十八・1314

 この収税人は「罪を赦してください、憐れんでください」と祈った。そのように素直に祈ればいいのである。

 主の祈りは、毎日私たちに必要な祈りである。この祈り、ひとつでも、本当に心から、毎日切に祈り求めることが大事である。


〇9月22日 スカイプ集会「ユダの手紙」(参加者20名)

 あまり引用されることのない手紙であるが、この手紙が聖書に選ばれているのはやはり、聖霊に満たされた人たちが、主に導かれてここに収録したと信じることができる。これも神からの啓示によって記されているのであって、神の言葉である。

 この著者のユダは、イエスを裏切ったユダではなく、イエスの家族、イエスの実の兄弟である。マタイ福音書13章55節に「兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ…。」と記されているユダである。この書簡で、ユダはイエスの実の兄弟であったが、イエス・キリストのしもべと書いている。たとえじっさいの兄弟であってもイエスという神の子に対しては、みな人間はしもべである。マリアも人間から崇拝される存在でなく、イエスのしもべの一人である。

 あお、ユダという名前は、ヘブル語では イェフーダー という。イェとは、ヤハウェの省略形、フーダーのもとの形は、ヤーダーで、「賛美する、感謝する」という意味なので、ユダという名前は、「主を賛美する」という重要な意味をもっている。

 …今度こそ、主を賛美(ヤーダー)しよう、と言った、そこで、その子をユダと名付けた。(創世記2935

 この手紙の最初に「挨拶」というタイトルが書かれている。しかし、この部分は、挨拶という表現は適切ではなく、祈りである。挨拶とは、例えば卒義式などでの来賓挨拶を思えば、それらが形式的なものにすぎないという連想がある。このようなタイトルでは多くの人は、読みとばしてしまう可能性が高い。

 本来、原文には、このようなタイトルはない。新共同訳では、欧米の聖書には以前からなされていたこうしたタイトルをそれにならって新共同訳で付けるようになった。

 この最初の、挨拶とタイトルされた内容は、決して単なる挨拶でない。

 まず、キリスト者とは何かが書かれている。まず神様に愛され、呼び出されている人。その人たちへの祈りがある。神の憐れみ・平和・愛がますます与えられますようにということであった。神様のご支配が進むことで、これらのものが与えられるので、主の祈りと繋がっている。

「憐れみ」ー人から憐れまれるというのをいやなことと感じる人が多いのではないか。それゆえ、憐れみが与えられるように、との祈りもまた、多くの日本人にとっては、なんとなくしっくりこない。

 しかし、聖書では、滅んでしまいそうな者に一方的に手を差し伸べて、赦してくださる神のお心、その愛をあらわす。私たちも本当に追い詰められた時は、この「憐れんでください!」ーギリシャ語では、キリエ・エレイソンーという心からの祈りがあれば足りる。

 ユダがひたすら祈っていたのは、私たちに与えられた信仰のために霊的に戦うことであった。

 サタンは人を傷つけたり殺したり盗んだりするだけでなく、キリスト者の集会、教会にも紛れ込んでくる。みだらな楽しみとは男女間のことだけでなく、偶像を信じることを含む。こういう戦いに負けてしまう人がいる。ひそかに入り込んだ、似て非なる者が異端であり、本当の真理から外れている。そういうことをしていたら滅ぶということを思い出してほしい。

 ここには霊的な天使のようなものですらも、間違った行動をしたとある。聖なるものを知らされているのに、別のものを誘惑して間違った道に連れていく者は厳しい罰を受けるということが書いている。誘惑する者は必ず滅ぼされている。モーセの遺体とは、旧約聖書の続編の中にこの記述がある。同胞の民を救おうとしたモーセは人を殺したことがあるから、その遺体はわれらのものだとサタンが言った。それに対し「主が適切な裁きをなされるように」とミカエルは答えた。

 カインの道とは人間的な感情やねたみで人を殺す。バラムやコラのことは民数記にある。12節に、食事の席まで入り込むとある。親睦の食事とは愛さん(アガペー)のことである。礼拝の後の食事は単なる楽しみでなく神の愛を受けることでみんなと一つになることである。意図的に本当の信仰から離れさせようとする。そういう者たちは、「風に追われて雨を降らさぬ雲…」と厳しい表現がされている。

 イエス様も、信じる小さき者をつまずかせる者は、石臼を首に巻いて海の中に沈められた方がましだと言われた。それだけ、主イエスを信じる弱い人たちを守ろうとされている。

 イエスが十字架で罪をあがなってくださったので、「悔い改めがなくとも救われる」ということを言う人がいるが、このユダ書にもあるように、聖書にはそのようなことは書かれていない。

 イエス・キリストを信じて義とされるのである。主イエスも、伝道の最初に、「悔い改めて福音を信じよ」(マルコ115)と言われた。

 ほかにも、聖書の随所に、この悔い改めと福音を信じる、イエスを信じることによって救われることが記されている。

…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ532

…決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(ルカ1335

 人の考え、意見を重んじるのではなく、聖書にどう書かれているかが重要である。聖書こそ神のお考え、ご意見であり、永遠の真理だからである。

 マタイ25章31節にも、世の終わりには羊とヤギに分けると記され、悔い改めない者は、裁きを受けるということが書かれている。

 さらに、再臨のときには、だれでもみな救われるとは言われておらず、選ばれた人たちだということも主イエスは言われている。

 

…人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。

天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マタイ2431

 このユダ書に記されていることも、ユダの個人的な考えでなく、主イエスご自身がこのように厳しい表現をされており、ユダも聖霊に導かれて記しているのである。

 「私を仰ぎ見よ。そうすれば救われる」(イザヤ4522

 これは、旧約聖書の時代から、一貫して変わらぬ真理である。

 17節:そうしたことを知った上で私たちがすべきこととして、わたしたちには聖なる道が与えられている。聖霊に導かれて祈ること、そして主イエスの憐れみを待ち望むこと。私たちを守るのは神の愛である。神の愛によって守られる。少しでも多くの人が、信じて救われることを願う。聖霊の火を消してはいけない。神は私たちの悪に染まりやすい本性を、どこまでも憐れんでくださるということをユダは知っていた。

 終わりに、祈りがある。ーキリストによって、栄光・威厳・力・権威が永遠にいつまでもあるように。この手紙は短かく、あまり読まれていないが、現代の私たちにも神の言葉として語りかけてくる霊的内容をもっている。


○九月二十五日(日)主日礼拝 マタイ六・1621 

            44名(内スカイプ11名)、 子供4名

 ほとんどの人は断食などしたことはない。食事という本能的な欲求を断ってまで行なう真剣な祈りである。

 聖書ではどのように記されているか。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(使徒言行録十三・2~3)

 パウロが異邦伝道にいくという、大事な時に、食事を断って祈った。そのとき聖霊が告げた。次にパウロを送り出すとき、また、断食してまで祈って送り出した。これは、燃えるような信仰があったから可能であった。聖書は究極的な姿が書かれている。

 また、主イエスご自身が断食されたことも書かれている。

 「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(マタイ四・2)

 イエスはどうして、厳しい断食をされたのか。福音伝道の初めにあたって、サタンからの攻撃を受けた。それに対峙するために祈りによって備えられた。イエスの試練の中でも特に厳しい、サタンによる誘惑であった。祈りなくしては耐えられない。しかし、祈りがあればサタンに勝つことができる。この祈りによってサタンとの戦いにおいて神のことばによって勝利できた。

わたしたちも、どのような苦しみに遭うかわからない。しかし、祈りによって神の力を受けることが出来る。

 食事は生きる上で日常的に必要なことである。断食の祈りは、それをおいて、祈りに集中することである。自分にとって大事なものを神様に捧げるということである。日曜日に礼拝することも、休日を神様に捧げるという、ひとつの断食といえる。そのとき、この世の楽しみではない霊の食べ物を受けることができる。

 古代ローマでのキリスト者たちは、遠いところ夜明け前に歩いて集まっていた。そのとき、明けの明星は際だって輝き、主イエスが闇の中に来られることを思った。また、迫害されても、地下空間に広大な穴を作って、そこで、礼拝していた。それは、ある意味でこの世の楽しみを捨てた人生全体の断食であった。そして、それによって霊の食べ物を受けていた。

 わたしたちも日常の生活の中で、朝起きてまず、祈り、御言葉に触れる。それも断食といえるのである。イザヤ書にはこの断食の精神が示されている。

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。」(イザヤ六・6~8)

 裸の人に服をあげたら自分もなくなるかもしれない。しかし、少しでも与えること。自分の時間とエネルギーを割くこと。自分がどれだけ楽しいかということを置いて、他者のためにすること、それが断食の精神である。他者のために名前を思い出して祈る、それも断食と言えるのである。神様から力をいただいて、少しでもこのような神様に喜ばれる「断食」ができるものでありたい。


お知らせ

〇10月16日(日)主日礼拝には、久しぶりに船井康弘さんが参加され、長女の藤原康代さんも横浜市から参加されました。船井さんは、近い内に心臓の手術とのことです、ご加祷ください。

〇藤井美代子姉のためのご加祷を引きつづいてお願いします。

〇10月16日(日)午後、眉山の徳島キリスト教霊園の草抜き、清掃作業。集会から20名の参加がありました。秋らしい日の午後、召された人たちを偲びつつの作業となりました。あとで、集会員の月岡多恵さんのお母様の、納骨式を行ないました。

〇10月25日(火)の移動夕拝は、熊井宅です。スカイプの参加もできます。申込は、吉村まで。

10月から、主日礼拝開始前に、両親、または祖父母に連れられて集会にきている2~4名の子供たちのための時間を10分ほどとることになりました。賛美をし、短い聖書のお話、祈りというごく短いものですが、その中で主が働いてくださいますようにとねがっています。

〇ろう者の郡 美矢さん、キリスト教の手話のことなど

 先日の朝日新聞(10月8日)に、徳島県の郡 美矢さんのことが、2面にわたり、大きな写真入りで紹介されていました。郡さんは、ろう者の牧師。5人家族のうち4人までがろう者という特別な状況で育った方ですが、両親はキリスト者で、彼女は信仰も受け継ぎ、かつ積極的に機会をとらえ、小学6年の途中でふつうの小学校に転向し、その後も健聴者の中学、高校と進学した方で、歯科技工士の資格をとり、カナダへわたり、さらにアメリカでも大学に入って学ぶなどいろいろ経験を積んで帰国、現在は牧師。

 私は、30数年前、ろう者のキリスト者であった郡さんのご父君には、キリスト教手話を教えていただきました。キリスト教手話は、当時はまったく本もなく(現在もごくわずかしかありません。)、テレビなどの番組や手話サークルなどでもどこもやっていなくて、直接にキリスト者のろう者のところに出向いて教えてもらうしかなかったのでした。

 そのために、ご父君が理容師だったので、仕事が終わる夜8時ころにしばしばお店に訪ねていって、キリスト教独自の手話ー洗礼、神、祈る、聖書、賛美、神の国、キリスト、あがない、罪、赦し、恵み、再臨等々のキリスト教用語の手話を教わったのです。

 郡 美矢さんが書いた本「あなたは見えないところで愛されている」(角川書店)  定価千円ですが、ご希望の方は、私たちの集会で補助をしますので、500円でお届けできます。(代金は、未使用の古切手、または、82円とかの少額切手でも可。送料込)

〇「祈りの友」への新規入会者。

北海道瀬棚在住の二人の方が入会されました。

・野中正孝

・野中幸枝

 なお、正孝さんは、幸枝さんの義父にあたる方です。

  遠く離れた地域にあっても、祈りによって近くに感じます。互いに祈られ祈る友として一層相互の祈りが深められますように。

 

〇現在でも、5月の無教会全国集会の録音CDとそれを聞くためのMP3対応CDラジオの申込があります。このCDラジオは、現在はインターネットでの最安価格は送料込で

6100円程度。ただし変動があります。(近くの電器店では税込では8千円余)

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集会だより


集会だより  2016.9

NO.434

あなた方は、語っている方を拒むことがないように注意しなさい。…イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変ること がない。

                                     (ヘブル書1225、同138より)

 

八月七日(日)主日礼拝  列王記上八・4153 

                   39名(内スカイプ3名)

 この箇所には切実な祈りが書かれている。その祈りの中心は、罪の赦しである。心が正しいありかたから外れていることが罪であるが、人間は弱さがあり、神の前に正しく歩めない。隣人を愛すると言うこと一つを取っても、無差別に全ての人のために祈ることはできない。また、すぐに他者を悪く言ったり、高慢になったりする。この八章では三十節にもあるように何度も「罪を赦してください」ということが書かれている

「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(列王記上八・30)ここでは、異邦人が遠くからきて、真実に祈るならば、祈りを聞き、赦してくださいと言っている。この箇所は、初めから終わりまで「聞いてください、赦してください」ということで貫かれている。それは、新約における「主よ、憐れんでください」という祈りに通じる。一番の憐れみは罪を赦され、聖霊を注がれることである。

 八月は平和を考える月である。原爆、それは二度とあってはいけない。しかし、日本人がどれほど朝鮮や中国に、罪を犯してきたか。そのことは日本人は知ろうとしない。昭和天皇の名によって戦争をしたが、その謝罪もなかった。かつての日本がどれほどの罪を犯したか。それをおいて、戦争がないようにという。日本人が何をしてきたか。神を知らなければ罪の深さはわからない。わたしたちは、聖書にいつもたちかえる必要がある。ソロモンは三千年も前の王であるが、さまざまな問題が起こるときに、わたしたちの神に対するあり方を考えさせられる。それは、今も人間は自分が間違っていることをおいて、他人が悪いということを考えてしまうからである。聖書は人間とその社会の根本問題が、人間の罪にあると示している。自然災害による被害も、そこには神からの警告が秘められているのではないかと考えるべきである。さまざまな問題も、神からの罪に対する警告であると聖書は示している。

 聖書に立ち返るときに、魂に与えられるのが、主の平和である。これが最も必要なことである。イエス様は人を罪から救うために来た。

 ここに「神殿に向かって祈る」とある。真実な祈りはしかし、どこにいても聞いてもらえる。わたしたちは、今、十字架の主を見上げて祈るべきである。神の無限の愛、十字架をみつめて祈る。そして、祈りを聞いてくださると信じて感謝する。すでに罪を赦してくださったことを信じて感謝していのる。

この箇所では異邦人にも罪の赦しが及ぶことが示されている。43節でも、「地上のすべての民が御名を知る」と記されている。今から三千年も前、つまりイエスより千年より前から、罪の赦しは世界に広がっていくことが予告されているのである。

60節にも、「こうして、地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。」とある。そのような状態が来ることを予言的に知らされてきた。このように旧約聖書はキリストを指し示しているのである。そして実際に罪の赦しの福音が世界に伝わった。

 これから、どのように科学技術が発達しても十字架なしでは罪の問題は解決はしない。わたしたちは罪赦され福音を知らされた。だから、自分だけで満足するのではなく、絶えず他者に福音を伝えようとすることが大事である。そこに祝福が与えられるからである。

 

八月十二日(金)天宝堂集会 コロサイ三・1217

 キリスト者は、神に選ばれて、分けられたもの、不十分であっても神に愛されている者である。だから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を持つことができる。この「寛容」という言葉は原語では「大きな心」という意味があり「忍耐」とも訳される言葉である。憐みの心とは、相手を愛し、罪を犯しても、相手を赦す心である。謙遜は、相手に罪を感じても、自分も罪があるという目をもって相手を見、罪を犯した人を裁いたり軽蔑しない。柔和という意味も、他者に悪いことをされても仕返しをしない、甘んじて受けることをさす。

 キリストを信じるだけで、迫害を受ける時代や状況においては、その悪の力に対抗するためには、まずキリストを信じた者同士が、主にあって愛し合い、赦し合うことが大事であった。そのとき小さな集まりに力が与えられ、外からの迫害にも対抗できる力が与えられる。

 信仰を持っていても、人にはさまざまな欠点がある。それでも、忍耐をもって忍びあう。それは、キリストがまず、わたしたちを赦し、愛してくれているからである。

初めに神が愛してくださっているのである。ペテロが勇敢になれたのは、キリストを裏切ったが赦されたという実感、そして聖霊の力である。それで迫害にも耐えることができた。

 キリスト者になったから、すぐに愛のある人になれるのではない。誰もそれぞれの、足取りがある。だからいろいろな経験が必要なのである。さまざまな人がいるので、この世は助け合うことができる。それをひとことで言えば、愛はすべてを完成させる、ということになる。忍耐、寛容、などいろいろな表現があるが、それらは「愛」ということでまとめることができる。

 この愛は神の愛である。人間の愛ではない。敵のために、自分を苦しめるもののために祈ることは、神からの愛を受けないとできない。その愛を身に着ける。これは「着る」ということばである。つまり、愛を着なさい、と言われている。神の愛は上からくる。上から服を着るように、神の愛を着る。

互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・910

 ここにも、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る、という表現がある。自分で創り出すのではない。目には見えない服を着る。その神の愛が。すべてを結びつける。神の愛の絆は何があっても切れることはない。さまざまなことを通して完成させてくださる、ふしぎな綱である。人間の愛はそれに比べるとはかなく、影のようなものである。自然も、神と人との間に絆を作ってくださる。星も空も、神の愛で絆をつくり結び付けてくれるものとなる。

神の愛と、結びついているのが、キリストの平和である。その主の平和を共有させるためにわたしたちはひとつとされた。

キリストの平和は特に重要であるから、キリストが殺される前夜の食事のときに弟子たちに告げた。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33

 ヨハネ福音書では最後の時、十三章からずっとキリストが弟子たちに話している内容が記されている。その結論がここである。

 人間は健康やお金で平和を得るのではない、キリストによってのみ平和がある。ここに示されている苦難は恐ろしい迫害の苦難も指している。しかし、それを超える平和がある。その平和を与えるということをキリストは話したのである。

 また賛美の重要性も記されている。神のことを思うとき、さまざまな仕方で神を讃えようとする。何を話すにしても、キリストを思って話す。それは、すぐにできることではないがわたしたちは、遥かに高い峰を見る。そのとき、自分の小ささも知らされる。それによって赦されていることをも知らされ神への感謝ができるようになる。

 

八月十四日(日)主日礼拝 マタイ六・1~6 

                 35名(内スカイプ4名)

 貧しい人に施しをするとき、周囲の人たちに知ってもらうために大きな声を出す、また、道で大声で祈る、これは今の日本では見られる光景ではない。しかし、何か善いことを人の前でする、見てもらおうとして善いことをする思いは誰にでもある。 人間から高く評価されたいというのは根深い思いである。本能的に「生きたい」という思いからまず、自分中心になる。この世のすべての問題は自分中心から生まれてくる。人の評価が大事という考えの下では弱者は排除される。しかし、神の評価は別である。

 わたしたちの内にキリストが住んでくださるとき、人からの評価が気にならなくなる。聖書は人間の究極的な到達点を示している。

 人間にとってもっとも大事なことは、何かの領域でトップになったり、賞をもらってほめられることなどでなく、神に方向転換をすることである。一人が悔い改めるとき、天の世界で大きな喜びがあると記されているとおりである。

 日々心を神に向けるときには、神からのよき報いがある。善き行いを右の手のするときには、左手に知らせない、という強い表現。困難なことであり大事なことであるから、このように強い表現となっている。

 隠れたところにいる神は、必ず善きことを見てくださっている。反対に隠れて行われる悪い思いや言葉、それも神は見てさばきをを与えられる。万事において、神がおられるので、隠れたことも隠れていないことも見ておられるのである。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ六・33

 人に正しいと思われることを求めるのではなく、神の正しさを求めるべきなのである。

 人間は、人の心の中もわからず、明日のこともわからない。しかし、神はすべてを御存じである。神は目であり、何でも見える。

「車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた。」(エゼキエル一・18

「また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。」(黙示録四・6)

 エゼキエルも、黙示録の著者も、神の目がいたるところにあることを示された。神の心を受けると、見えない部分の目が与えられる。この世の目は、神はいない、という。しかし、新しい目が与えられると、神の心が与えられる。弱いもの、病んでいるものにも美しさを見出すことができる。災害にあっても祟りや運が悪かったということではなく、神の業が現れるため、という目が与えられる。

 この世で有名になる必要はない。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブル四・13

 すべてを見てくださる神は、失敗も見られているが、赦しを願う心も見ておられる。そのすべてをみてくださっている神を信頼して生きていきたい。

 

八月十二日(金)天宝堂集会コロサイ三・1217

 キリスト者は、神に選ばれて、分けられたもの、不十分であっても神に愛されている者である。だから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を持つことができる。この「寛容」という言葉は原語では「大きな心」という意味があり「忍耐」とも訳される言葉である。憐みの心とは、相手を愛し、罪を犯しても、相手を赦す心である。謙遜は、相手に罪を感じても、自分も罪があるという目をもって相手を見、罪を犯した人を軽蔑しない。柔和という意味も、他者に悪いことをされても仕返しをしない、甘んじて受けることをさす。

 キリストを信じるだけで、迫害を受ける時代、その悪の力に対抗するためには、まずキリストを信じた者同士が、赦し合うことが大事であった。そのとき小さな集まりに力が与えられ、外からの迫害にも対抗できる力が与えられる。

 信仰を持っていても、人にはさまざまな欠点がある。それでも、忍耐をもって忍びあう。それは、キリストがまず、わたしたちを赦し、愛してくれているからである。初めに神が愛してくださっているのである。ペテロが勇敢になれたのは、キリストを裏切ったが赦されたという実感、そして聖霊の力である。それで迫害にも耐えることができた。

 キリスト者になったから、すぐに愛のある人になれるのではない。誰もそれぞれの歩みがある。だからいろいろな経験が必要なのである。さまざまな人がいるので、この世は助け合うことができる。それをひとことで言えば、愛はすべてを完成させる、ということになる。忍耐、寛容、などいろいろな表現があるが、それらは「愛」ということでまとめることができる。

 この愛は神の愛である。人間の愛ではない。敵のために、自分を苦しめるもののために祈ることは、神からの愛を受けないとできない。その愛を身に着ける。これは「着る」ということばである。つまり、愛を着なさい、と言われている。神の愛は上からくる。上から服を着るように、神の愛を着る。

互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・910

ここにも、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る、という表現がある。自分で創り出すのではない。目には見えない服を着る。その神の愛が。すべてを結びつける。神の愛の絆は何があっても切れることはない。さまざまなことを通して完成させてくださる、ふしぎな綱である。人間の愛はそれに比べるとはかなく、影のようなものである。自然も、神と人との間に絆を作ってくださる。星も空も、神の愛で絆をつくり結び付けてくれるものとなる。

 神の愛と、結びついているのが、キリストの平和である。主の平和を共有させるためにわたしたちはひとつとされた。

キリストの平和は特に重要であるから、キリストが殺される前夜の食事のときに弟子たちに告げた。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和(平安)を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33

ヨハネ福音書では最後の時、十三章からずっとキリストが弟子たちに話している内容が記されている。その結論がここである。

健康やお金で平和を得るのではない、キリストによってのみ平和がある。ここに示されている苦難は恐ろしい迫害の苦難も指している。しかし、それを超える平和魂の平安がある。その平和を与えるということをキリストは話したのである。

 また賛美の重要性も記されている。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ書316)神のことを思うとき、さまざまな仕方で神を讃えようとする。何を話すにしても、キリストを思って話す。それは、すぐにできることではないがわたしたちは、遥かに高い峰を見る。そのとき、自分の小ささも知らされる。それによって赦されていることをも知らされ神への感謝ができるようになる。

 

八月二十一日(日)主日礼拝 マタイ六・7~9 

                  35名(スカイプ3名)

前回の箇所より

「祈るときには隠れたところにおられる神に祈る」とある。そうすれば、隠れたところにいる神が報いてくださる。これは、実際の個室に入って戸を閉めて祈る、ということを指すのではない。身分の低い人は自分の部屋などない場合も多い。この奥まった部屋とは、誰の心にもある心の部屋を指す。そして戸を閉めると言うことは、外の声を遮断すること、神だけを見つめることである。だからそれは、人ごみの中でもできることである。心の部屋を閉じて、ただ神だけを見つめて祈るということである。

 祈りはひとりで神に祈ることも大事であるが、集まって祈ること、心を合わせて祈ることも大事である。詩編にも「集まりの中で神を賛美する」ということは記されている。キリスト教の出発点は、聖霊が注がれたときからであったが、それは、弟子たちがあつまって心をひとつにして祈っていた時だった。大切な事は、ひとりかどうかではなく、神だけをみつめているかどうかである。 人の前で、熱心さを見せようとして祈っていることが書かれている。当時は人の前で大声で祈ると称賛された。しかし、人に称賛されるとき、すでに報いを受け取っているので、神からの報いはない。真実な行いが人に認められないとき、神からの報いが与えられる。

 オリンピックなどで、一番になるためには、誰かを負かせる必要がある。練習に膨大な時間やお金がかけられない貧しい国の人は出場もできない。そのような問題は報道されないので、本当に正しいことがわからなくなってくる。神は弱く小さな者を見ておられる。その弱い者のひとりが救われるとき天で大きな喜びがある。

 今回の箇所では「異邦人のようにくどくどと祈るな」とある。本当の神を知らないと、心をこめないでくどくどいのることになる。たとえば、同じ内容の言葉を繰り返すのが仏教の念仏である。唱えていたら真理が入ってくるという考えで長々と繰り返すことになる。

 このことは、異邦人だけではなく、わたしたちも、祈りが形だけになる恐れがある。「くどくど」ということばは原語の意味からは「空しい、口ごもる」という意味のあることばである。心を込めずに口数多く祈ることに意味はない。

 神は願う前から必要なものを知っている。それは、その人にとって本当に必要なものである。まちがった願いは神はきかれない。人間にとって誰でもが本当に必要なものは聖霊である。そして、その人にとって本当に必要なことは、神はご存じである。だから、求めなさいと言われている。聖霊は、また、本当に必要なものは求めたら与えられるのである。

 次に主イエスが示された祈り、主の祈りが記されている。これは全世界で祈られている重要な祈りである。しかし、この祈りの内容を正しく認識し、心を込めて祈る人は少なく、単に唱えるだけという場合が多いのではないかと思われる。

 はじめに「天におられる」とある。天とは人間を越えた霊的な世界を指す。無限に高いところにおられる神が「お父様」という、身近な存在であるということを示している。

(この言葉に続く「主の祈り」については、次号以下の「いのちの水」誌に掲載予定です。)

 

八月二十一日(月) 北島集会 ナホム書一章

 大国アッシリアの首都ニネベが滅んでいく。そこには大きな神さまのご意志があった。

 国が興ったり滅んだりするのは単なる偶然だろうか。歴史をどう見るか。聖書は一貫して、神が背後で導いているという歴史観を持っている。

 主は熱情の神、報復(裁き)を行われる方、と2節にある。神さまを信じようとしないニネベの人々が、正義や真実を踏みつけ、欲や権力を第一にしようとしたため、裁きを受けるのである。個人においても国家においても、神さまご自身がその悪を打ち砕く。神さまは、どんなに続いているような悪でも、黙って見ておられる方ではない。

 神さまの力は自然の中にも現れている。台風、竜巻などのすさまじいエネルギー。人間の力は到底及ばない。空の雲、夕焼けなどの無限の変化も、その力の現れである。神の広大な力は自然を見ればわかる。人間が月に到達したといって科学技術の力や人間の力を賛美することが多いが、月も星も大宇宙さえ創られた神の無限大の力と比べるときかぎりなくゼロに等しい。

 神さまは必ず悪を裁く。人間の怒りは単に感情的なものが多く、そこには愛などは存在しないことがほとんどである。しかし、神さまの怒りは、正義に基づいて悪を滅ぼすものでである。人間の不幸の根元は悪である。それゆえ、その心の悪が滅ぼされるならば救いとなる。

 しかも神のおおきな力は恵み深い。悪の力を滅ぼして、苦しむ人を助ける。病気のときも神さまを信じ、すべてを最善にしてくださると思えば平安が与えられる。人間の様々な苦しみも、闇の力が働くからだ。その闇の力を神さまが滅ぼしてくださる。

 世の中は、表面だけ見ていたらごまかされてしまう。だが聖書はいつの時代でもその奥を見る。例えばオリンピックのように皆が表面だけを見て騒いでいるようなときでも、聖書はいつも別の目を与える。

 ニネベのように、神さまの愛を踏みにじるようなものは、いかに力に満ちて数が多いように見えても、必ず切り倒され、消え失せる。

 悪の力が必ず消えるという断言は聖書しかない。このことは、どんな学問でもわからない。神の啓示だけがわかるものである。

 詩篇の第1編にも「神に逆らう者は、風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。悪の道は確実に滅ぶ。ここでも変わらない法則性が言われている。ヨハネ福音書の15章6にも「わたしにつながっていない者は外に投げ捨てられ枯れる」とある。

 悪はわたしたちの内にも入っている。だがイエス・キリストが悪の力を担って死んでくださったゆえに、これを信じるだけで罪の力が滅ぼされ、罪赦される実感を与えられる。そしてそこに聖霊をいただくことで新たな力を与えられる。これはわたしたちにとっての大いなる福音である。

 

八月二十八日(日)主日礼拝 マタイ六・10 

              46名(内スカイプ8名)

「主の祈り」御国がきますように

「御国が来ますように」これは、神の御支配が来ますようにということである。つまり、神がすべてを支配し、宇宙をも支配しているという事実がもとにある。だから祈り求めることができるのである。聖書のはじめにも、どんな闇や困難があっても神が光あれ、といわれたら光があることが示されている。その光が勝利をするのである。

「御国」とは原語のギリシャ語では「バシレイア」であり、これは「バシリュース」(王)から派生したことばで、「王」が抽象化され王の支配、王の支配する領域、あるいは王の力や権威などを意味する。

 「御国が来ますように」とは、神の王としての支配がきますように、という願いである。この支配は、神の愛と真実による御支配であり神の御意志である。

 神の御意志がきますように、まず、自分の心に、そうして、誰の心にもきますようにと祈り求める。それがなければ、自分中心になり、すぐに嘆いたり、嫉妬したり、自分が認められたくなる。自分が認められるかどうかではなく、神の御意志を求める。朝起きた時に、まず神の御意志を求めるべきである。

 神の御意志は、昔から変わらない。健康であろうと病気であろうと世界がどのようであろうと変わらない。その神に背く思いが罪である。そして、その罪を除いてくれるのがキリストの十字架である。わたしたちは弱く罪があるが、十字架を信じ、そしてその赦しを感謝して受け取ることができる。聖書のなかにこそ、神の御意志がある。

 主の祈りを祈って、心がざわつくことを静める必要がある。毎日毎日、朝起きたときからまず、神の国、神の御支配がきますようにと願う。それは「マラナタ」(主よ、きてください)という祈りに通じる内容を持っている。

 だれもが真実を求めている。しかし、この世では暗い事件があとを断たない。だからこそ、わたしたちは、そのような悪のただなかに、御国がきますようにと祈る必要がある。情報の洪水の中で、神の御意志を求める道が与えられている。暗い世界に神の御支配がきますようにと祈る。この祈りはいたるところで祈る機会がある。そして祈る人も祝福されていく。聖書はこの祈りと願いで満ちている。

 ハレルヤ、という賛美も祈りによって与えられる。聖霊があたえられるほどに、苦しみを与えられても、それを乗り越えられるようになる。神の御意志があらわされるように。聖書はすべてこのことにつながっているのである

 

九月四日(日)主日礼拝 列王記(上)85466 参加35                                (うちスカイプ10名)

・(この日は、京都で開催された 近畿地区無教会 キリスト教集会があり、徳島集会からも10名近い方々がそちらに参加されました。)

 

 神殿が完成したときのソロモンの祈りの中心は、人々が絶えず正しいことから外れてしまう、その罪を赦してください、ということであった。あらゆる問題の根本に、人間の罪があったからである。

 神はイスラエルの民に安住の地を与えてくださった。しかし、目にみえる土地は敵に攻撃され、征服されてしまう。キリストの時代になって、この真の安住の地は、霊的なもので、キリストがわたしたちの内にあり、わたしたちもまたキリストの内にあることによって与えられるようになった。

 主から出たよき言葉は、一つとして空しいものはなかった。神の言葉はすべて生きたものである。人間の言葉は、無数にあっても空しい。心を清められるような言葉ではない。

 神の言葉に対する絶対的な信頼は、考えてわかるものでなく、霊的啓示によっておこる。イザヤ5511には、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない、とある。 預言者の言葉は確信に満ちている。神の言葉は絶えず働く。わたしたちもそのエネルギーを受けたい。

 インマヌエルー神がともにいてくださるようにという57節の願い。キリストが来てくださって、このことが完全に行なわれるようになった。自分たちの数々の罪を数えてそれらを一つ一つ悔い改めているのでは、きりがない。日々、神の愛や真実に反することはいくらでもあるからである。そうでなく、心の方向そのものを主に向け、魂の方向を転換することによって、わたしたちにも神の力や聖霊が流れ込み、正しい道を歩けるようになる。たえず主に心を向ける。この方向転換は、原語のヘブル語では、シューブといい、重要な言葉となっている。悔い改めるとか、立ち返ると訳されている。これが決定的に大切なことである。

 ユダヤ人だけでなく、地上の全ての民が、主こそ神と知るように、との願いがある。主と心を一つに(61節)とは、シャーラム=全きものとする、完成する、の意。主に対して完全な心をもって、主と一つになるということ。

 だが神さまと心が一つになる、そのような完成された状態になる、とは驚くべきことである。無限大に大きい神さまと人間ではあまりにもちがい過ぎる。ありえないようなそのようなことができるのだろうか。

 だが、神に信頼すればそのような状態へと近づけてくださる。信頼を寄せれば寄せるほど、わたしたちも全き状態になれる。

 わたしたちが、無限大に大きいものにゆだねる時、そのようになって行ける。わたしたちが主の内にあり、主がわたしたちの内に聖霊として住んでくださる。聖霊が来てくださればひとつに融け合う。

 キリストも、私の内にとどまろうとせよ、そうすれば私もあなた方の内にとどまる、と約束してくださっている。(ヨハネによる福音書15の4)

 

九月五日(月)小羊集会 使徒言行録十四・120

 パウロとバルナバは人間の考えや希望ではなく、聖霊によって送り出されてきた。そしてここでは、イコニオンで福音を会堂で伝えていた。すると、大勢のユダヤ人、ギリシャ人までがキリストを信じるようになった。しかし、信じない人も大勢いて、パウロたちを迫害しようとした。

 

 福音をはっきりと告げると迫害を受ける。戦前の日本でも、キリストこそが王の中の王であると、聖書の記述を言い表すだけで、迫害され捕らえられ、死に至った人もいた。それは、天皇こそが最高の王だ、という戦前のまちがった考えのためにこうした迫害が行なわれた。

 パウロも、ここで石を投げられて、殺されそうになったが、それでもなお、やめることなく、福音を伝えた。これは聖霊が働かなければできないことである。敵意のただなかで、福音を告げようとする心は動かなかった。

 主イエスもナザレで真理を伝えたとたんに、激しい敵意を受けた。

 「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」(ルカ四・16)と、はじめは喜んで聞いていた人たちが、ユダヤ人たちが罪の中にあることを指摘されると激しい敵意をもった。

 

 「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(ルカ四・3031

 

しかし、主イエスは殺されそうになるほどの敵意のただ中を守られていった。悪意のただ中を進んでいったのである。それは、昔も今もかわらない。

 そして、パウロたちは難を逃れてリストラとデルベの方に行った。そこでも福音を伝えた。するとそこに、足が立たない、生まれて一度も歩いたことのない人がいた。福祉もない時代、偏見の中見下され、不便で不自由な中、彼は福音を聞いて信じた。その信仰を見てパウロは彼を立たせた。

 群衆はそれを見て、神を讃えないで、パウロを神だと讃え始めた。それを聞いたパウロは「服を裂いて」まで、その群衆の中に飛び込んで大声で、自分はただの人間に過ぎないこと、神に立ち帰るために福音を伝えていることを全身全霊で伝えた。

 自分が讃えられたい、と必死になっているのが人間である。しかし、すべての良きことをされている神、その神に立ち帰るようにとパウロは言っている。愛と真実を今も行い、生きて働く神、人がその神に方向を転換するのが目的だからである。

 人間が素晴らしいことを行なったとしても、人間を誉めるのではなく、その力を与えた神を讃えるべきである。人間の心は変わりやすく、またどんな行いもそこには自分中心の思いがある。良きことをしたときには、それをさせた神を讃えるべきなのである。

 

 「誉められる」ということは傲慢になり、讃えられた人も罪を犯すことにつながる。讃えられて、誇る思いが出てくる。誉められたり敬われたりするとき、そこから誘惑されて傲慢になることがある。ダビデも敵が迫ってきてもゆらがなかった信仰が、四方を平定して安泰になってから罪を犯した。信仰によって危険を乗り越えても、誉められて思い上がり倒れてしまう人もたくさんいる。

 パウロは、天地すべてを作られた神を讃えよと言った。神は雨を降らせ太陽を照らせる。その神がいるから農作物も育ち生きていくことができるのである。この神を指し示し、群衆がパウロを讃えることをやっと、やめさせることができた。

 しかし、それから、またユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を巻き込み大勢でパウロに石を投げつけて殺そうとした。意識を失ったパウロを見て死んだと思われ、引きずり出され町の外に出されたが、パウロは気がつくと起き上がり再び、パウロを殺そうとした町へ入っていった。これほどの激しい目にあって、なお、その町へ帰っていった。

 パウロがどれほどの危険なただ中を進んでいったか、パウロの手紙だけではわからない。そして、そのような歩みをなさしめたのが、聖霊である。聖霊によって導かれても、危険も苦しみもある。わたしたちも福音を伝えようとするとき、ことばやまた、何らかの悪意など、さまざまな形の「石」を投げつけられることがある。しかし、その苦しみを通り抜けていくことができる。そして殺されても復活し、キリストのような栄光の姿に変えられると記されている。                (まとめと入力  K.K & E.I))

 


 

お知らせ

 

O眉山のキリスト教霊園の清掃。10月16日の1時半より。

 

O鳴門市の中嶋玲子さんが、今年7月28日に召され、今年のキリスト教霊園の合同記念礼拝に参加されるとのことです。(娘さんの西川厚子さんー大阪府河内長野市在住ーよりの連絡)中嶋さんは、今から17年ほど前から折々に参加されていましたが、近年は、西川さんのところで過ごしておられました

 

O主日礼拝をスカイプによって参加される方々がより臨場感をもって参加できるよう、いままでは音声だけであったのを、映像も加えてなされるようになり罪した。これは、パソコンの性能の向上とスカイプというソフトのバージョンアップによってなされるようになりました。どなたでも自由参加です。

 また、毎月の月末のころに行なっているスカイプ集会(参加者全員がスカイプ)の参加希望の方は、いずれも次に申込してください。 

 

O今月のスカイプ集会は、9月22日(木)午後8時~。

参加希望者は、中川陽子さんまで申込ください。

 

Oなお、スカイプによって参加できる徳島聖書キリスト集会の定期的に行なわれている集会はほかにもいろいろあります。日時など詳しいことの問い合わせは、吉村孝雄まで。(奥付のメール、または電話を用いてください。)

 

O9月の移動夕拝奥住宅。(板野郡藍住町)スカイプでの参加希望者は、吉村孝雄まで申込ください。聖書箇所は、マタイ福音書181-5「天の国で最も大きい者」

 

O10月の県外の集会(吉村が聖書講話を担当する集会)

・阪神エクレシア10月9日(日)午前10時~12時。

  場所は、神戸市元町駅近くの兵庫県私学会館。問い合わせは、

 

・高槻聖書キリスト集会10月9日午後2時~4時。

   場所ー高槻市塚原5ー8ー5。問い合わせは、

 

 O眉山のキリスト教霊園での合同記念礼拝11月6日(日)午後2時より。このキリスト教霊園とは、1965年に完成し、最初は次の7つの教会・集会の合同霊園として始まったものです。日本基督教団徳島兄弟教会、同徳島教会、小松島栄光教会、無教会徳島聖書研究会(現在の徳島聖書キリスト集会)、徳島聖徒教会、徳島バプテスト教会、キリスト改革派徳島教会の7つです。 現在では、多数の教会がこれに加わって県下の教会の合同の納骨堂となっています。毎年11月の第一日曜日の午後に合同記念礼拝が行なわれてきました。祈り、交読、賛美、説教などのあと、献金、納骨の時があります。