集会だより  2017.1112月合併号  NO.446

  聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
                                                        (ルカ135

○十月一日(日)主日礼拝 

(列王記上十一・1221ローマ十一・444名(内スカイプ13
                                                       子供3
「残りの者」

  神が、その遠い道のりの後で与えたのは、新しい使命であった。わざわざ、遠いところまで行って使命を与えた。神の言葉を聞くために回り道をする必要があったのである。

 そして、神は「イスラエルに七千人を残す」と言われた。エリヤは自分だけしかみえていなかったが、神は七千人も、残すと言われたのである。人間は自分だけしか見えない。そして、たえず揺れ動く。しかし、真理につくものはかならず、残される。国際情勢がどうであれ、神の真理であればなんらかの方法で滅び尽くされることはな そして、これは、五千人のパンの奇跡に結びついている。パンを食べて残りのものを集めたら、十二のかごがいっぱいになった。それは、残りの者が残されていく、という重要な内容が込められている。わずかなものでも、神の完全な支配の中にあり祝福が与えられたら、無数の人を満たす。

 歴史的に、永遠におこることが、ここ示されているのである。

残りのもの、つまり取るにたりないもの、捨てられるようなもの、それが、祝福されて世界にひろまった。わたしたちも、残されたものである。残されたものである福音を伝えていくことが大切なことであり、そこに祝福がおかれていくのである。

 ○十月二日(月)小羊集会 使徒言行録十七・2934
  パウロたちは、ギリシャでイエスの事を伝えた。しかし、それは、イエスが山上の垂訓などで教えたような教えではなく、イエスが十字架について死んでくださった。そして復活したということであった。キリスト教、とは単なる教えではない。教えだけではイエスが来てくださる必要はなかった。この復活の事実とそれを証しすることがキリスト教伝道の出発点となった。

 そうして神とキリストを信じた者には、山上の教えが現実のものとなり、生きる指針となり、それを実行する力も与えられる。

 神は天地万物を創造された。全てを作られた神は近くにいて下さる。わたしたちは神の子孫、神のこどもたちであるといえる。その神は、全ての人が神に方向転換をすることを待たれている。神の裁きは必ずある。神は、正しく裁かれる。人間の裁きは、時代や状況によりさまざまに変わる。だから、十字架を仰ぎ、キリストに方向転換し罪を赦していただく必要がある。単純に、十字架を仰ぐだけで、赦される。信じるだけで赦される。それをキリストの十字架の死と復活、によって神は人に示された。死に打ち勝つ力を現されたのである。

 キリストは神と同じ力を与えられている。その証が復活である。イエスを信じて受け入れたら、復活の命を与えられる。このことを信じるとき、人間の持つ根本問題が解決される。

 わたしたちは正しい道を歩くことができない。愛についても、真実についても、なす事ができない。しかし、イエスを信じるだけで赦され、裁きの時も赦される。

 罪からの悔い改めと赦し、再臨。人間にとって必要な真理が、ここに短い言葉で凝縮されている。終末を思わせるような、世界も社会も混乱している現代であるからこそ、この真理に固く立って揺れ動かされないように神を仰いでいく必要がある。

○十月八日(日)主日礼拝 (マタイ十二・1521

          大人45名(内スカイプ13名)・子供4名

「傷ついた葦を折ることなく」

 イザヤ書四十二章に記されている預言が書かれている。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(イザヤ四十二・14

 、イエスはその灯火を消えないように守ってくださる。そこに新たな命の光を与えてくださる。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ十一・28

 傷ついた者、灯火が消えそうな者に休みを与えて新たな命を与えてくださるのである。この話をした後で、イエスは山を下りられて、らい病の人を癒された。もっとも傷ついた葦を折らないで わたしたちは傷ついた葦であるけれども、イエスによって助け、支え、修復し、新しい命を与えられる。わたしたちは、傷ついた葦であるけれど、イエスがともにいてくださる葦なのである。

〇十月二四日(火)移動夕拝 エレミヤ四三章 13名(内スカイプ3名)

 主題 「残された民の背信とエレミヤ」

 ユダの国が神に背き続け、裁きを受け、新バビロニア帝国の大軍が攻めて一帯を支配した。エレミヤが言った通りの事が起こり、ユダの国は裁かれ多くの民は捕囚となった。一部の弱い人たちはユダの国に残された。エレミヤは特別にバビロン軍からどこに住んでも軍が守るから自由に決めなさいと言ってもらえたが、あえてこの残された弱い人達と運命を共にした。

 残された民の指導者ヨハナンはエレミヤの所に来て、「主の決めた通り行うので、今後どうすれば良いか祈ってください。」と嘆願した。エレミヤはこの要請を受けて、真剣に祈った結果、十日後に神からの言葉を与えられた。

 その内容を指導者ヨハナンや民に言うと「おまえの言っている事は嘘だ。この地に留まれと言うが、それはバルクにそそのかされて自分達を滅ぼす為に言っているのだ」と神の言葉を斥けた。

 バルクとはエレミヤが語る事を口述筆記しエレミヤ書を書き上げた人である。常にエレミヤと一致して神の為に活動した。ユダの指導者と民は、目に見える大国エジプトに頼り、エジプトに逃れたいと願った。

 しかし、エレミヤが神から受けたのは、「ユダに留まると神が共にいて救うが、エジプトに行くと剣、飢饉、疫病で必ず死ぬ」という言葉であった。エレミヤは神から示されて正しい事を言っても指導者や民は主の声に聞かず、エレミヤを悪人扱いした。

 人間は自分に都合の良いことしか聞かない。ここに人間の空しさが現れている。エレミヤはエジプト行きに反対したが、民が選んだエジプト行きの混乱の中にバルクもエレミヤも含まれた。エレミヤは、安全な道をとれたのにあえて弱い民と運命を共にする方を選んだ。

 主イエスも敵対する人々のただ中で留まり、十字架の道を選んだ。この当時、これが根本的に勝利する道だと誰にも分らなかった。「恐れるな、神は信じる者とつねに共におられる。」

 1128日(火)移動夕拝 いのちのさと エレミヤ四五章 「真理に関わる者の苦しみと悲しみ」16名(内スカイプ3名)

 エレミヤが神から受けた最後の言葉が先の四四章にありユダに対する預言は四四章で終わっている。そして、四六章からは国々に対する預言が書かれている。


 その間におかれた45章は、エレミヤ書の母胎となった書を書き続けたバルクというエレミヤとともに労苦した人に関する記述である。


 エレミヤは四〇年間ユダの地で神の言葉を語り続けた。背信したユダと運命を共にし逃れたエジプトでも神の言葉を語り、半世紀ずっと聞き入れられず敵対する自国の民に語り続けた。神に忠実に従ったたぐいまれな人である。


 エレミヤが預言した通り、ユダ王国の人たちの多くが捕囚となりごく少数の者を除いて滅びた。この世にどんな事が起こっても神の言葉は実現する。霊的真理は永遠に変わらないのである。


 今日の四五章にはエレミヤが神から受けた言葉を口述筆記したバルクについて書かれている。このバルクがエレミヤ書のもとになる文書を作った。三六章で ユダの民が悪の道から立ち返ることをねがいつつ、エレミヤの指示に従い主の神殿で神の言葉を読んだ。役人たちがどのようにして書いたか聞くと「エレミヤが私に語った通りの事を皆書いた」と言った。


 すると役人が「おまえとエレミヤはすぐ隠れよ」と言った。王はバルクが書いたエレミヤが語ったみ言葉を暖炉の火ですべて燃やした。巻物を作る技術と字が書ける能力とエレミヤ同等の信仰がなければ作れないので、大変な巻物である。エレミヤを通して神からもう一度同じ物を作るように言われたバルクはもう一度すべての言葉を書いた。


 これは歴史の流れのなかで、神の真理に関する象徴的な出来事であった。


 神の言葉は、さまざまの迫害に遭う。御言葉を与えられた人たちも殺されたり、迫害されることが多かった。そして、その御言葉を与えられた民も、偶像崇拝に陥り、神に逆らい、厳しいさばきを受けて滅んでいく。


 あるいは、のちのローマ帝国の時代にキリストは生まれ、キリストも殺され、多くのキリスト者も迫害され、殺されるに至ったものも数知れない。


 いかに神の言葉が滅ぼされるようにみえてもー火で燃やされるような状況となっても、なお、不思議なことが生じて、神の言葉はあらたにどこかでよみがえって働きはじめる。


 それは、バルクが大いなる労苦をもって書き留めた神の言葉が、すべて燃やされてしまったが、ふたたび神の命令によって導きにより、新たに書き記されたことが、そうした神の言葉が受けていく歴史をも指し示すものとなっている。


 神の真理はいかなることが生じようとも、不滅だということをも暗示している。


 そのバルクのうめきの言葉が記されている。「主はわたしの苦しみに悲しみを加えられ疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。」神の言葉を担当して残していく人は苦しみ悲しみを受けつつ周囲に神の言葉を広げた。


 神は、「わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜き、全世界をこのようにする」と言った。また神は「自分に大きな事を期待してはならない」と言った。


 御言葉が世界に残され、伝えられていく過程で、エレミヤの死に直面するような大いなる苦難や悲しみ、また、そのエレミヤを助けたバルクの苦しみ悲しみがあった。神はエレミヤと共にバルクにも大きな使命を与えた。そのような迫害と苦しみを通ってみ言葉が伝わってきた。


 現代もこれから大変な事が起こるかもしれない。しかしどんな事が起こっても神の御手の中にいるのだと信じていくことが求められている。


 私たちは最終的には死を迎える。事故や病気、あるいは災害…等々、しかしいかなる状況で死を迎えようとも、キリストを仰いでいるかぎり、永遠の命が与えられると信じていく。


 死も、現在、過去、未来のいかなるものも、権力ある者も、、死…いかなる被造物も、神の愛から、私たちを引き離すものはない、との御言葉がある。(ローマの信徒への手紙83839より)その約束に流れている真理を、今日のバルクに関する記述のなかにも見ることができる。

集会だより 2017.10 NO.445


主は私たちのために死なれた。それは私たちが目覚めていても、

眠っていても、主と共に生きるようになるためである。

  (Ⅰテサロニケ510

○九月三日(日)主日礼拝 (列王記上 十八・118

              46名(内スカイプ11名)

 「静かなる細き声」

 偽預言者を天からの火で滅ぼしたエリヤ。イエスも洗礼のヨハネに対して「エリヤが来た」とさえ言った特別な人物である。しかし、悪の力に取りつかれた王妃イゼベルが、「明日の今頃までに、殺す」と、非常な憎しみをもってエリヤを殺そうとしたとき、エリヤは恐れて逃げた。人間を見ていると、恐れてしまう。神を見つめる、ということをやめたとたんに、力を失うのである。エリヤは、遠い砂漠まで逃げた。そして、えにしだの木の下で死のうとした。

 そこまで追い詰められて、初めて、神の使いがきた。神はなぜ、もう、死のうとするまで何も語りかけなかったのか。しばしば神は人が自分の弱さを完全に知るまで、そのままにする。弱さを知り尽くしたときに、初めて神の助けがある。苦しくて死にたいというところまできて、はじめて神が来てくださる。

 神の使いはエリヤに食物を与えた。それは四十日四十夜、つまり、神の決められた長い期間を進む必要があったからである。死のうと思っていたエリヤは特別に神の食べ物をもらって四百kmもある道のりを進んでホレブの山まで行った。そこは神の山、モーセが十戒を受けたところである。

 そのような遠い地に砂漠を越えて行かなくても、今いるところで、神がことばを告げたらいいのにと思わされる。わざわざ、命がけで旅を強いられる。時として神は、神の民を遠いところ、苦しいところを歩かせて、そこで、神の言葉に出会わせる。そのような、神のことばに出会うために遠くまで行く熱心を神が祝福される。

 神が、神の民を遠回りさせるということは、モーセが導いた民にも言えることである。エジプトからカナンに行くのに40年もかかった。実際は、数週間でいける距離である。神と出会うのに、人生の回り道をさせることがある。、晩年になり死の床でイエスを信じる人もいる。

 そのようにして着いたホレブの山で、主の言葉が与えられた。神の前に立てと言われた。そして、その風の中にも、火の中にも地震の中にも神はいなかった。これは、この世のさまざまな出来事を示している。暴風雨、嵐、火。心にも嵐がある。エリヤは、神の力をもらっていたのに、殺されるとおもったら、人間に対する恐怖になった。それも、エリヤのなかの嵐である。そういう苦しみを経験して、そのあとで、静かにささやく声が与えられた。

 この声を聞かされてからエリヤは、また、ダマスコまで行けと言われた。それは、数百kmもある地である。遠い地まで行く力と使命をこのとき受け取ったのである。静かな神の声を聞いて、自分だけ休むのではない。新しい使命に立つ。そのために与えられた。

 静かな細き声を聞いて、安らぎとともに、立ち上がっていった人がたくさんいた。神と出会ったら新しい力を得る。そこで終わらない、万里を超えていく。さまざまなキリスト教宣教師たちも神の力を得て使命をうけて出て行った。その原型が書かれているのである。

 イエスの弟子たちも聖霊をうけて強められた。ペテロもイエスを裏切ったが、あとでは聖霊が与えられた。聖霊をうけて、イエスに会うことが大事である。

 次に引用するのは、富田 和久氏の講演の一部である。これは、私(吉村)が、初めて聞いたキリスト教の話しであった。

 〇富田和久(*)の講演「静かなる細き声」より抜粋
 …多数が力である と、人は何の気なしに考えます。知ることが万事である。知ることが力であると学者はまことしとやかに申します。

 しかし、本当の力とは何か。私どもひとりひとりが、天より私たちの心に囁かれる神の赦しと神の約束を聞くことではありませんか。このような時代にあって、神を信じる者の果たすべく役割は何ですか。

 それは、心の深みに囁かれる「静かな細い声」を聞き取ることではありませんか。そして囁かれたことを人々に言い表すことではありませんか。

 これは私ども自身が優れたものであるからではありません。私どもは土の器でありまして、いかなる意味においても神の言葉にふさわしいものではありません。それ故にサタンが私どもを襲い、私どもの罪を指摘して真っ向から責めるとき、私どもに言い開きをするすべはない。私どもは罪人であります。自分で自分をどんなに飾っても、私どもの姿は神の前に明らかであります。

 しかしながら、私どもが罪を追及せられて本当に途方にくれてしまったとき、私どもの耳に囁く声があります。

 それは、汝を救うものは信仰である。汝、もし信ずるならば、汝の罪は赦されたのだ。という、イエスの言葉であります。

 悔い改めて信ずる。ただそれだけで、私たちの心に絶対的な解放が及ぶのであります。

 この思いも寄らない声に接して私どもは、夢であろうかと初めは疑いますが、しかし、心を開いて静かにその声を受け入れたとき、自分自身が本当に新たな者として生き返ることを経験するのです。

 しかしながら、こうして私たちの罪が赦されると言うことは、私ども自身の自己満足のためではありません。また、苦しいことから逃避するためでもありません。それは、私どもが自分々々と言って、自分という、小さい者にかまけていないで、神のご計画のために、私たちの愛する日本を神の悦びたもう国となすために、心を合わせて働かんためである。

………

 このような状況下に「暗い暗い」世界に光を点ずるものは、キリスト再臨による救いの希望以外に何があろうか。この希望をしっかり保つ者こそ「汝らは世の光なり」と呼ばれるにふさわしいのである。と、矢内原先生が申しておられる通りであります。

 しかし、そう思って私たちが働けば、世はこれを受け入れるであろうか。現代のアハブは悔い改めるであろうか。残念ながら、現代にもイゼベルが存在いたします。巧論をもって人を誘い、神の言葉を憎悪する霊が存在する。

 そして、かかるものが存在する限り、私どもの前途は決して平坦ではないでしょう。しかし、私たちが神のために戦いに傷ついて、エリヤのようにホレブの山を想うとき、静かな細い声が囁くでありましょう。

              (1967年6月4日 京都市左京区の京都会館にて)(*19201991 京都大学理学部教授(物理学)

 

 自分の罪、家族のこと、さまざまな困難な時、力になるのは神からの静かな細き声である。神の言葉は生きて働いているから、求めたら与えられる。やがて、いつか、こうして座ることもできなくなり、親しい人もいなくなる、そのときでも、静かなる細き声はいっそう聞こえてくる。これが現在のわたしたちへのメッセージである。                       KK

○九月四日(月)小羊集会 使徒言行録十七・1028
   「主は近くにおられる」

 パウロは、まず、ユダヤ人に伝道した。それで、ユダヤ人の会堂に行って教えていた。それは、ユダヤ人は神を知っているからである。神の言葉を知らされているユダヤ人に、旧約聖書の預言が成就したことを伝えていた。

 このベレアのユダヤ人たちは熱心で、毎日聖書を調べていた。キリストが預言されていた、ということについて調べていたのである。そして、パウロの話を聞いてキリストを信じる人が多く起こされた。

 聖書にはどのように書かれているかということを調べる習慣が大事である。聖書を正しく調べていないと道を間違い、キリスト教の真理から離れて別の宗教に引き込まれていく場合がある。たとえば、イエス・キリストは完全な霊であって人間ではない。それゆえ、洗礼を受けたときに、イエスという人間に聖霊が宿ったが、十字架にかけられたときにその霊はイエスから離れて天に帰ったので、「わが神、わが神 どうして私を捨てたのか」という叫びは完全な霊であるキリストが発したのでない、などという考え方があった。(このようなイエスが肉体をとって現れたということを否定するまちがった信仰に関しては、ヨハネの手紙で厳しくその間違いが指摘されている)

 また、エホバの証人もキリストが神であることを否定し、統一協会は、キリストは人間の救いに失敗したので本当の救い主が別に必要であり、それが文鮮明だとする。モルモン教も聖書という入り口から、聖書とは全くことなる別の彼らの教典へと導こうとする。

  しかし、ヨハネ福音書にも記されているように、キリストは神である。そして肉体を持つ人間として地上に来られた。理論的には説明できない神秘な存在である。聖霊を受けて信じる事が根本であるが、他方、理性的に聖書を調べることも必要である。

 アテネは哲学的な地であった。しかし、パウロが話した、キリストの復活のことは全くわからなかった。頭脳明晰で思索の能力があるから、キリストの真理がわかるのではない。学問、健康、地位、関係なく信じる者を神は人の隔てなく起こされる。

一番大事なことは、キリストが神と同じであって死に打ち勝ち、復活されたことである。そのことは、哲学者にはわからなかった。死者の復活のことを聞いたら、あるものはあざ笑った。しかし、それでもパウロにつき、信じた者も何人かいた。キリストを信じる人は、予想もできない。そしてまた、どんな人でも

 

信じることがある。それは能力とは別である。

 すべてのアテネ人やそこの外国人は、何か新しいことを求めて時を過ごしていた。真理であるかどうかではなく、物珍しいこと、新しいもの、おもしろいものを必死になって求めていく。それは、今の日本の現状でもある。

 マザー・テレサは「神のための なにか美しいもの」(Something Beautiful for God)を求めた。新しいおもしろいものではなく、また、きらびやかにきれいなものでもなく、神のために美しいものを求めていた。人間のための美しいものを求めているのか、神のために美しいことを求めるかが問われている。

 人は新しいことを求めている。ニュースも珍しいことを報道する。しかし、それは真理とは関係はない。時間的に新しいことを人は求めているが大事なことは質的に新しいことである。それは神を知ればわかる。

 聖書は日々、新しい。何度も読んだ箇所であっても、そのときに新しい命をおびて語りかけてくる。

 天地宇宙を創造した神がおられる。すべてを神が創られたので、神の本質がどこにでもある。だから、求めたら、見いだされるのである。人間が作ったものであっても、心を込めて作ったものがあると、その人の心が近くに感じられる。神がすべてを創られた。風を受けても、花を見ても、神が創られたことを感じる。だから、その神は近くにいるのであり、求めたら見いだすことができるのである。求めたら与えられる。死が近くなっても復活の新しい体が与えられる。万物を創られた神はすぐ近くにおられること、このことを、いつも、覚えていきたい。

                                        KK

○九月五日(火)夕拝 エレミヤ三八章1428 9名「神の言葉に聞くこと従うこと」

ユダの国が風前の灯になっている時でエルサレムが焼かれると書かれてある。当時の社会的状況は文字からは想像できない。国全体が滅びようとしている時で、たくさん人が殺されるような危機的状況を思い浮かべて読む。

17節に「もしバビロン王に降伏したら助かる」とエレミヤが言った。エレミヤは「神の言葉に従え、武力で対抗したり、エジプトに頼るな」と言った為、井戸に投げ込まれて、そのままでは死んでしまう状況に置かれたこともあった。

 当時のゼデキヤ王はエレミヤに聞いたが、神に本当に聞こうとしていなく、自分のことを心配していただけであった。聞こうとしたが心から従うことはしなかった。一応は聞くが従わない。一応は求めるが本当は自分の思いに従う。聖書は人間を見抜いている。人間はそういう所から逃れられない。聞く事と従うことは時として違ってくる。シャーマーは聞くということばで、聞き従うと訳される。本当に深く聞いたら従う力も同時に与えられる。うわべだけ聞くと力があたえられないからやはり自分の要求に従う。

 日本人は、聖書は買ったり一応は部分的に読む人は多いが、その内容をほとんどの人は、信じようとしない。

 また、キリスト者は、信じた人たちであるが 本当に従う人は少ない。本当に聞くかどうか、段階があると示されている。十二弟子は従った。弟子は家庭や仕事を置いて従った。どんなに反対があっても従う。本当に聞き取ると従っていくことができる。アブラハムもただの羊飼いであった。故郷の親族を離れて私が言う地に行きなさいという神の言葉を聞き、従う力も与えられその通りした。

エレミヤは、「神のご意志に従えば 救いを得るが、聞かないで、エジプトの軍事力に頼り、バビロンに降伏しない時、ユダ王国の国王は必ずバビロンに捕らえられ都は火で焼かれるとはっきり対比して言った。ユダのゼデキヤ王の側近たちは王をそそのかしてバビロンに降伏しないでよいといった。

 現代の私たちもゼデキヤ王の様に、ある種の神に対して従わないというかたくなさがあり、いい方向だと思いつつ。自分の欲望、周囲の人間の言葉に従ってしまう。反抗したのではないが従わなかった。

 そこで、エレミヤが予言した通り、ユダの国はバビロンからの大軍によって攻撃され、町は焼かれ、たくさんの人たちは死に、また多くの人は捕囚となってバビロンへと連行された。

 ユダ国のゼデキヤ王は両眼をつぶされるという悲劇的結末が訪れた。

だれにおいても、罪を認めて神に立ち返るのか、神の言葉に従おうとするのか、人間の考えや言葉に従おうとするのか、という岐路がつねにある。

いろいろな人生における歩みにおいて、自分にも罪があると認めないで罪を犯し続けていくなら、次第にその人の一番大事な心の部分が、いわば「火で焼かれ」滅びていく。

 例えば、嘘をつき続けていたら、真実に関する感覚が失われ、真実そのものである神からの平安や力も与えられなくなっていく。

 誰も神の御手からは逃れられない。罪ふかき私たちに対して根本的な治療のために、主は十字架にかかり、さらに復活され、私たちへの究極的な救いのとりでとなってくださった。 さらに、ペンテコステ以降聖霊が与えられ生きたキリストが、私たちの内に入ってくださるようになった。私達は、この内にいる聖霊に聞き、主のしめされる道を選び取っていきたい。(HN

○九月八日(金)天宝堂集会 詩篇二篇 

 詩篇の最初、一篇は詩篇全体の表題として全体を現している。一篇「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇一篇・1~3)

 この「教え」と訳されたことばが原語では「トーラー」神の言葉である。神のことばをいつも心にとめ、みことば中心に生きるとき、祝福される。しかし真理に背くとき、裁きを受ける。これは法則である。

 第二篇にはいり、個人の心の悩みを悲しみという内容でなく、「国々」に関することが、神の支配という視点から書かれている。これが詩篇全体の最初の部分におかれている理由は何であろうか。

 この世の国々の指導者は神に逆らい、真理に逆らう。正義を踏みつけ、壊そうとする。そこから戦争になる。戦争は大量殺人である。ここにある「主の油注がれた方」というのは、神の本質を注がれている人であり、神の大祭司たるメシアを現す。

「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」これがキリストの預言となっている。

 この詩篇は個人の内面だけではなく、世界の問題を取り上げている。これは、二千五百年、三千年前に記されているが、現代をも指摘する真理が示されている。

「枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」というのは、この世の権力者が、自分の力で動こうとしていることを指す。しかし、そのような態度に向かって、神は笑うという。真理に真っ向から背くものに対して、神は裁かれる。

神は王を立てるとある。神が立てた王、それがキリストを預言している。キリストの支配権が全世界に及ぶ。これは歴史の中で事実となってきた。

 また、この箇所は、新約聖書で、キリストが水の洗礼を受けた時に神が言われた言葉である。

「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ三・37

 そのときの神の言葉がこの詩篇二篇なのである。

詩篇は単なる人間のこの世の感情ではなく、全人類に真理を告げるために神に押し出されて書かれた書であると共に、このように預言の書でもある。

「つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩篇の第二篇にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。」(使徒言行録十三・33)これは、パウロのメッセージである。復活の時に、新しく生まれさせたと神は言われた。復活が新しく生まれたということであると神の啓示を受けて書かれている。この復活がなければ、キリスト教はなかった。

 詩篇は初期のキリスト者にとっても重要なものであった。地上の悪の力によって、迫害が起り、真理や正義が滅ぼされている。そのただなかで神は天に座し、悪の力を一笑される。そして、キリストを王として立て、地の果てにまで領土とする。実際、この預言は成就し、全世界はキリストの霊的な領土となっている。世界の中にキリストの力は浸透していった。霊的な力は、地の果てまで、二千年かけて実現してきたのである。そして、鉄の杖で、罪の力を打って、それで、回心する人が、世界中で増え続けた。キリスト教を滅ぼしてしまえと指導者は叫んだが、目には見えない悪の力は最終的には滅ぼされた。武力に対して武力で戦うのではなく、真理の力をもって対抗する道を踏んでいくべきなのである。

 神の子を心から敬愛するのでなければ、神の裁きは必ず起こる。この世の武力はではなく、主を避けどころとする。二篇は、通常の詩を超えて、広範な内容であり全世界の支配を指し示しているのである。

 そして、第三篇は個人的な苦しみにこたえてくださる神の存在を示している。その前に、まず、本論にあたる内容を最初に置いた。それが一篇と二篇である

 聖書の世界を知れば知るほど、その広大さを知らされ、それと共に人間の小ささを思い知らされることである。  KK

 ○九月十日(日)主日礼拝 (マタイ十一・2730

 「主のくびきを負い、主に学び休みを得る」

                            参加者46名、内スカイプ12

 ここで「父の他に子を知るものはない」とあるが、どういうことか。深い意味において、神だけが子なるキリストを知っているといえる。キリストは神秘に満ちた存在である。全能の神であり、人間でもある。それは、歴史の中ではかつてなかったことであった。キリストは生まれる前から存在していた。神と共にすべてを創造した。全能の神でありながら人間である。それは科学的な考えを越えた世界であり、キリストの本当の姿は神でないとわからない。神とキリストを知らされ、人は救われるのであるが、人間はきわめて有限な存在であるので、キリストのことがすべてわかった、ということは限界があるのである。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」この「疲れた者」とは原語では「コピアオー」であり「労苦する、苦しいまでに働く」という意味がある。また、「重荷」それはいろいろなものがある。病気の重荷、障害の重荷は深刻になると耐えがたい状態となる。家族の問題も家族が罪を犯すとそれは大きな重荷となる。戦争が起ると自分が起こしたことではなくても耐え難いさまざまな重荷を負わされることになる。そのような現実の世にあって、病気のもの、犯罪者、どのような人でも「来なさい」と言ってくださるのはキリストだけである。イエスと最後に十字架につけられた犯罪人も、最後に招かれて御国に行くことができた。このキリストからの招きがあることは感謝なことである。

「来なさい」と旧約聖書でも呼びかけがある。

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザヤ五十五・1)

 そして、「休みが与えられる」とある。この「休み」は「アナパウシス」という言葉であり、これは「止まること」という意味がある。心が騒いで動いているとき、そこに休止の時が与えられる。実際に忙しくても、霊的な休みが与えられるのである。

そして、イエス様が「くびき」をおいなさい、と言われた。イエス様のくびきを負うと言うことは、イエス様がすぐそばにいる、共に立っているということである。

 いつも、そばにいて、教えてくださる。イエス様とそばにいるとき、真理を学び示される。そして、イエス様によって安らぎを感じるとき、それも、学んでいることになる。人間のくびきは、重荷となるが、イエス様のくびきは不思議なほど楽になる。できなくても、罪を赦してくださるのでイエス様が与える荷は軽い。一緒に歩くと軽くなる。現代、老齢によっても、時代によっても国際状況でも、疲れてくる事が多い。しかし、焦ってもどうにもならない。わたしたちはイエスのところにいき、休みを得ることができる。

 国際情勢や個人の生活でも暗雲が立ちこめると思うときこそ、聖書に立ち帰る。すべての人が、休みを得て生きることができるようにと願う。 (KK

★次の二回分の要約は、担当の貝出姉がまとめてくださっていましたが、
スペースの関係で、「いのちの水」誌11月号に掲載します。

○九月十七日(日)主日礼拝 (マタイ十二・18

              40名(内スカイプ10名)

   「安息日の歴史とその恵み」

○九月二十四日(日)主日礼拝 (マタイ十二・9~14

            54`名 (内スカイプ13名 子供4名)

「安息日の重要性について」

○九月二七日(火)奥住宅 移動夕拝 ミカ書七章1~7 スカイプ含め 13名

冒頭の「悲しいかな」と訳された原文は、特別な悲しみの叫び。深い悲しみ苦しみをあらわす間投詞である。この時作者はどのような中にあったのか。

食べられるぶどうやいちじくの実がない。主の真実に従って生きる人は誰もいなくなった。互いに悪い事をしようと企む。役人も裁判官も自分達の私欲で語るが、それを隠して、人々の為のように言う。

 ミカはイエスより700年余り前の人だが今日の状況に当てはまる。そのころ、北のイスラエルの国は、次第に滅びに向っていく。指導者も一般の人も地位の高い人も本当の道を歩いていない。

 このような状況に対し、神の裁きが起る。4節、そういう状態のときは、隣の人も信じられない。親しい人も信じることができない。そして6節には一番身近な家族関係も壊れ人の敵がその家族となるとあり、社会的にも大きな不正があり、家族の中でも信頼関係が壊れるという真っ暗な状況であった。神様に対し真実でなく、周りに不正や闇が満ちていた。

このただ中から、7節の「しかし」がある。 しかし、わたしは主を仰ぎ、救いの神を待つ。神は私のことを聞いてくださるという確信。

何も困ったことが生じない、普通の生活ができている所から主を仰ぐのは簡単だが、どこを見ても光がない中で主を仰ぎ、神を待ち望む事がはるかな昔から示されている。すべてのことについて感謝せよとテサロニケ五章16節にある。たとえ状況が良くても悪くても、神様に感謝して喜ぶ。苦しみの中から主に感謝する事は普通にはできないが、神様はきっと私の願いを聞いてくださると確信し、この事も何らかの方法で助けて下さると信じて感謝する。

7節の「主を仰ぐ」「神を待つ」「願いを聞かれる」は同じように使われる。仰ぐ、待つ、聞かれるは原文は未完了で継続して続いていく。私は主を仰ぎ続ける。救いの神を待ち続ける。原文から本当の意味を知る。諦めないで信じる。この所と8節が結びついている。私の敵よ、私のことで喜ぶな。わたしは倒れても起き上がる事ができる。

 人間にとっての最終的な敵は、「死の力」である。私たちは、倒され死んだように見えても起き上がる。死からの復活は信じるすべての人に与えられる。敵対する力、死の力が迫ってくるがその只中でも主が光となってくださる。どんなに暗くても主を仰ぐと一点の光が見えるようになる。この事は聖書の一番初めから書いてある。神が「光あれ」と言うと本当に光があった。創世記は聖書全体のことを予言している。ヨハネ福音書では最初にこのことを書いてある。闇の中に光は輝いている。それだから、私はこの世に勝利し、闇に勝利している。

人間の究極的なよりどころは何か。闇の中から光を仰ぐ。主を仰いで主の力に頼る。これと似たことがハバクク書にある。ハバクク書の3の17、「いちじくの木に花は咲かず。ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生じず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかしわたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る」と。

究極的な神様の力を信じなければ悪の強大な力に自分の力で対抗してもできない。しかし、私は主によって力を得る。このように闇の只中で光を見ていた人が次々起こされた。私達も聖霊が与えられたら「主こそわが喜び」とどんな状況の中でも言える。(HN

 

集会だより 2017年9月号 第444号

 

恐れるな。見よ、あなたたちの神を。

悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

(イザヤ35の4)

      ○八月六日(日)主日礼拝 列王記上 十八・41~十九
              41名(内スカイプ12名) 「祈りへの集中」「預言者の力と弱さ」

 エリヤという預言者は、祈りによって天から火をも降らせる強い力を与えられた。と同時に、もう死んでしまおうとさえした弱さがあった。この二面性を対照的にあらわしている箇所である。

 エリヤが王であるアハブに「飲み食いしなさい」と言った。アハブは以前は妻イゼベルと共に神の預言者を迫害した人物であった。エリヤは神の力によって悪しき預言者に勝利し、滅ぼした。しかし、エリヤはアハブを殺さなかった。それどころか、ここにあるように「飲食しなさい」とすすめている。アハブに対する処罰が書かれていない。アハブはエリヤによって真実の神の力を知った。悪いものであっても、神はその心を待たれる。

 同様のことがアベルを殺したカインにもなされている。神はカインに罰は与えた。カインはさまよう者となった。生きる限り本当の導き手がなければ、人はさまよう。カインはさまよい続けた。しかし、神は印をつけて誰もカインを殺さないように見守った。神はカインを待たれたのである。同じようにここでも、悪いアハブに厳しい裁きが与えられなかった。アハブという王が神に近づくように神は待たれた。

 エリヤは、雨がまだ降ってはいなかったが、その後雨が降ることを示されていた。エリヤはカルメル山の頂上で、うずくまってひれ伏して必死で祈った。そうすると雨が近づいてくる実感を持った。祈りに集中し繰り返した。結果がなければ祈るのをやめてしまうのではなく、繰り返し祈り続けた。諦めないで祈り続ける。神は真実である。みこころにかなうことは、たとえ、人間の思ったとおりにはならなくても、必ず何らかの形で叶えてくださる。真実な神に対する祈りの姿勢を示されている。

 エリヤが祈っていたら、地平線上に小さな雲が見えてきた。わたしたちも祈るとき、祈りの地平線上に雲が見える。その雲が大きくなって、聖霊の雨を降らしてくださる。まず、聖霊をいただきながら祈ることが大事である。老年になってなにもできなくても、祈りの地平線を見る。最終的には、死んだあと、復活の雲をみる。死が近づくと、復活という希望を切に感じるようになる。祈り続けるときに「小さな雲があがってくる」このことを心に留めたい。

 それほどの力を与えられていたエリヤは、イゼベルの言葉で豹変した。イゼベルはアハブから報告を受けて、神の力を思うのではなく、エリヤを殺そうとした。

 イゼベルがエリヤを殺そうとしたとき、エリヤは、神に祈ることなく、逃げた。あの偽預言者と堂々と戦ったエリヤが、イゼベルの悪魔的な言葉をきいて、祈りもしないで、ただちに逃げた。ベエルシェバまで逃げ、そこで従者をおいて、また一日荒野に逃げた。荒野でエニシダの木の下に行くということは、死ぬと言うことである。エリヤの受けた、あの神の力はどこにいったのか。神の力は継続して受けないと、忍耐ができなくなり罪を犯してしまう。聖書は人間の弱さを赤裸々に記している。

 人間は弱い。肉体も心も弱い。だから救い主が必要なのである。弱さを知るほど神は近く来てくださる。

 私たちが病気になり、対話もできなくなると、友人たちは去っていく場合が多い。しかし、神は見捨てない。弱くなれば弱くなるほどに神は引き寄せてくださる。

 自分の弱さを知り、そこから神を求め、祈り、聖霊を求め続ける者でありたい。神は決して見捨てることなく、そこから新しい力を与え導き続けてくださるのである。


○八月十一日(金)天宝堂集会 マルコ十一・2733
                  「権威について」

ここに記されている権威とは何を指すのか。

「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マルコ一・2122

「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』」(マルコ一・27

 律法学者は、悪に対する権威を持っていなかった。群衆がイエスに対して驚いたのは、このような権威、力であった。現代にいたるまで、キリストは不思議な力を持っている。キリスト信仰をするということは、キリストに神の権威、力があると信じることである。

 イエスが「悪霊よ去れ」といわれると、悪は去り、どんな困難ななかにも行こうとする力を持つ。今なお、キリストは世界に絶大な影響力を持つ。キリストの神から与えられた権威を学者たちはわからなかった。権威は、地上でより権威ある人間が与えないと、できないものとみなされていた。しかし、イエスが権威について深く問うと、彼らは返答ができなかった。

 真理である神につながらなければ、神のみ声は聞こえては来ない。それは、学習や経験、儀式などでは与えられない。神の言葉を語る権威は、牧師になり按手礼を受けなければできないと、現代でも考えられている。しかし、それは後で人間が決めたことである。

 ここで「イエスが歩いていると」とあるがルカ福音書では「イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると」と訳されている。イエスが、何の権威でこのように福音を語っているのか。人間が与えた権威ではない。神から直接与えたのである。どんな人間も人間の集りである組織も真の権威を与えるのではない。

 このことは、現代の私たちにも通じる。イエスは万事において私たちの究極の模範だからである。

 私たちが御言葉を語ろうとするとき、いかなる人間的な権威ー組織や団体などによらず、ただ聖書とキリストに従う。神が直接的に御言葉を語る権威を与えてくださったゆえに、示されたものが自由に福音を語ることができる。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ一・12

 資格と訳されている言葉は、特権、権威、力、とも訳されている言葉である。弱く罪を犯す存在であっても、信じるだけで、神の子となる特権を与えられるのである。

 この世はすべて、誰かが権威を持つ。わたしたちは、この世の権威に惑わされないで、人間の意見や考え、思想ではなく、神に聴き、神に従うものでありたい。そして、神の権威を受けて、神の子として歩む、そのことが特に求められている時代である。


○八月十三日(日)主日礼拝 マタイ十一・2024
           42名 (内スカイプ12名)・子供5名

 数多くの奇跡とある。それは、起こりえないことが起る現象だけをさすのではない。奇跡はいたるところにある。科学技術がいかに発達しても、大空は造ることはできない。大空も、星空も、花ひとつみても奇跡である。自然は神が示した奇跡である。

 イエスは奇跡をみても神に立ち帰らなかったユダヤの数多くの町を叱り始めた。これらは神の民である。神を信じると言いながら、御心に反してかたくなになることがある。キリストを信じる指導者であってもかたくなになることがある。それは学問を深めても関係はない。当時の聖書を専門に学んでいる指導者たち(律法学者)、そういう人が真理の人キリストを理解できなかった。イエスの真理は、学問をしたから、経験を重ねたからわかるのではない。

 悔い改めなかったユダヤ人の町、つまり神の民が叱責されている。ソドムのような退廃した町が、まだましであるという。それほどまでに、悔い改めの重要さが示されている。

「悔い改め」と訳された言葉は、ギリシャ語では「メタノエオー」で、その言葉は「理性的な転換」という意味を持つ。ノエオーは、ヌース(理性)の名詞形というべき語。感情的に反省するのではなく、神に向って理性的に方向を転換する、ということである。ヘブライ語では「シューブ」という言葉であり、「方向転換する」という意味。英語では、turn または、returnという言葉に訳されるがこれはごく日常的な言葉である。

 この日常的な言葉が、心をこの世のこと、目に見えること、自分や人間などから、神へと方向転換するという特に重要なことに用いられており、「帰る」、「立ち帰る」という言葉で訳されることが覆い。

「彼女がこのようなことをしたあとにもなお、わたしは言った。「わたしに立ち帰れ」と。しかし、彼女は立ち帰らなかった。その姉妹である裏切りの女ユダはそれを見た。」(エレミヤ三・7

「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。」(エレミヤ三・14

「『背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ三・22

「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(イザヤ三十・15

「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。」(イザヤ三十一・6

「わたしはあなたの背きを雲のように罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザヤ四十四・22

「あなたたちは先祖の時代から、わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる。」(マラキ三・7

 このように、立ち帰ることの重要性は旧約の時代から繰り返し神が示されてきたことである。

 立ち帰る、方向転換をする、神の方に向く。朝起きて、まず、神のほうに向く。きょう一日も、意味があって造られている。神に方向転換するとき、ただ過ぎていく一日に意味が与えられる。常に神に向かい、神に方向を転換する。そのことを毎日の生活で、生かしていく必要がある。


 ○八月二十日(日)主日礼拝 マタイ十一・2526

                32名(内スカイプ8名)

「幼子のようなこころ」

 ルカ福音書は、この箇所の前に「聖霊によって喜びあふれていった」と書かれている。聖霊によって喜び、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と主イエスは言われた。

「あなたをたたえます」とある、この「たたえる」と訳された原語(ヤーダー)は、また「賛美する」、「感謝する」とも訳される。この言葉から「イェフーダー」ヤハウェ(神)を賛美すると言う言葉が生まれた。これが、日本語の表記で、「ユダ」という名前になっている。ユダヤ人は唯一の神を知らされた民であり、イエスもユダヤ人として生まれ、旧約聖書もユダヤ人が受け継いだ。また、「ユダ」という人物も、裏切り者のユダ、が思い起こされやすいが、重要な名前であり、ユダの手紙はイエスの兄弟ユダの手紙である。また旧約聖書ではユダはヤコブの子供のひとりであり、ヤコブは12人の子どもがいたが、ユダの子孫、ユダヤ民族だけが残った。このようなことからも、大事な意味を持っていることがわかる。

「知恵ある者や賢い者には隠して、幼な子のような者に示された。(*)」とある。

*)「示す」は、原語では、アポカリュプトーで、覆いやベールを外す、という意味であり、これは、「啓示する」とも訳される言葉である。「黙示録」と訳された原語は、アポカリュプシスであり、原語には黙するという意味はなく、覆いをとるということで、あり、「啓示録」と訳するのがより適切である。英語では 黙示録は、revelation であるが、この英語も、ベール veil を取る という意味である。

 神は幼な子のような者に、真理を啓示した。そして、この世の賢い人、偉い人には隠されていた。当時の賢い人とは、旧約聖書を学び、研究する宗教指導者、偉い人とは、地位、権力のある人たち、祭司階級のようなる人が賢いとされている人であった。そのような、知恵や知識もあると思われていた人に真理は隠されていた。 祭司たちもまたイエスを受けいれなかった。

 イエスが旧約聖書の預言の通りに現れたのに、律法学者はわからなかった。どんなに研究していても、幼子のような心でなければ聖書の真理はわからない。幼子の心がなければ啓示を受けない。

 真理は幼な子のような者に啓示される。漁師だった弟子たちが真理を与えられた。また、旧約では、ダビデが神の箱がきたときに喜びのあまりに踊ったことが書かれてあり、ダビデのまっすぐに神を見る姿勢が記されている。

 乳児はまっすぐに信頼して母を見つめる。人間的なことを考えるのではなくて、純粋に母を信じている。幼子のような心で神を見る。その心がなければ、まず、自分をほめられたいと思う。まず、自分の業績、まず、自分、と思うときには真理は隠され、おろかになる。


 まず、神を仰ぐ。このことは誰にでもできる。幼子のような心に神は啓示を与えるからである。病気であっても、与えられる。朝起きて、まず、神を求める。祈りの精神は、幼な子らしい心といえる。その本質は旧約に記されている

「地の果てのすべての人々よ 

わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ四十五・22

 また、詩篇は、まっすぐに神を見ようとしている心、神さま、憐れんでください、と必死で祈る心、神を仰いで祈る心が記されている。

 毎日の生活で、何が起こっても、神が深い意味があってされていると信じる。その姿勢がなければ、人は動揺する。

 どんなときにも神を仰ぎ、意味を教えて下さい、助けてくださいと祈る。それを支えるのが聖霊である。だから、たえず、聖霊を受ける必要がある。そして、たえず、新しい心にされて神を見つめていく。                  (K・K)


〇8月22日(火)の移動夕拝 中川宅  エレミヤ書373813

   スカイプ参加含め22名

 主題 … 苦難のなかの神の導き

 エレミヤは、B.C.627年に召命を受けた預言者。以後40年ほどにわたって預言活動をした。 それは、ユダが滅びに向う時期であった。

 今から2600年ほども昔の人の心の動きーその苦しみや悲しみ、そして命がけで神の言葉を語ったその内容が克明に記され残されていることに、驚かされる。

 ユダの王はエレミヤの言葉を聞こうとしなかったけれども大群がせめてくるというので不安になった。真理に背き続けてきた王でさえ、エレミヤに「神に祈ってほしい」と願った。

 神の言葉は真理であり、岩のごとくに動かないゆえに、悪事をなしてきた王であったが、自分やその王国の危機が迫るとき、神の言葉に心が向ったのであった。

 祈ってほしいと誰かに願うのは大事な事である。新約聖書でイエスがゲッセマネで捕らえられる前夜、弟子に「眠らずに祈っていなさい。」と言われた。この記述も、共同で祈るということの重要性を指し示すものである。しかし弟子たちは眠ってしまった。イエスにとって翌日は処刑される深刻な時、弟子はすぐそばで眠っていた。このような人間の弱さを熟知していたけれども、それでもなお、共に祈れ、といわれたのであった。

 主イエスは、一人静まって祈れ、と教えられたが、他方、二人三人主の名によって集まるところに私はいる、と約束され、祈りにおいても複数で祈ることの重要性が示されている。

 使徒パウロが異邦伝道に使わされるときも、信徒たちが真剣に断食をしてまで祈っていたとき、聖霊が一同に注がれて、パウロを派遣せよとの神のご意志が示されたのだった。

 テサロニケの手紙には、「私達の為に祈って下さい。キリストが速やかに宣べ伝ええられるように、迫害から逃れられるように、祈ってほしい」とある。二人三人が主イエスの名の元に共同で祈る時には、イエスも共にいて祈りを聞いて下さる。

 コロサイ信徒の手紙4の2~4 「目を覚まして感謝をこめてどんな時でも祈れ、私達の為にも祈ってほしい。私達がキリストの奥義を語ることができるように祈ってほしい。」とある。パウロのように命がけで従った人も祈ってほしいと言った。キリスト者は共に祈られ祈るという共同体なのである。

 命をかけてユダの国、その人々の救いのために神の言葉を語り続けていたエレミヤに対して、「エレミヤは敵に投降していのちを助かろうとしている」として、捉えられて地下牢に入れられた。

 そのような状況にあっても、バビロンからの大軍の攻撃におののくゼデキヤ王はエレミヤに会い、神の言葉があったのかとひそかに聞いた。

 エレミヤは「バビロンの手にあなたは渡される」と、神の言葉をそのまま言った。そんな窮状の中でも、偽らず神の言葉をまっすく告げた。しかし、当時の偽りの預言者たちは「神の都なので滅びるはずがない」と言った。しかしエレミヤは神の言葉通り、「敵軍に降伏したら生き延びる。敵軍に投降せよ」と言うと、「殺してしまえ、民衆の士気をくじいている」と言い、ゼデキヤ王も「エレミヤをお前たちに任せる」と言ったので、エレミヤをとらえて深い井戸につりおろした。

 これはそのまま捨ておかれるなら、死に至る状況である。それでもなお命にかけても神の言葉を語る。私たちは試みにあった時、真理を第一にしないで人間の言葉や悪い霊に従ってしまう。肝心な時、神の言葉に従いえなかったため個人的な不幸も国家的な不幸も起こった。

 エレミヤは、死に向っていた状況にあったが、エチオピヤ人の宦官、エベド・メレクがエレミヤが井戸に投げ込まれたのを聞き、王に直訴した。王はその熱意、真剣さにつられて、30人も連れて行き、エレミヤを助けよと命じた。

 エレミヤは井戸から引き上げられた。危機一髪で不思議な助けがあった。エベドメレクは39の15でも出てくるがエレミヤを命がけで助けた。王の心も動き、神様からあなたを救うという約束を与えられた。

 エレミヤは、神の言葉を国家存亡のときに伝え続けた。 私達は様々な弱さから神の言葉を第一にできないことが多いが、エレミヤ書に学ぶ事で神の言葉を第一にすることの重要性を知らされ、そのときどきの多くの人間が主張し、もてはやされることに引き込まれないようにすべきことを教えられる。

 現在の日本、世界の状況もこうしたエレミヤの精神がいっそう必要とされている。      (H・N)

 報告

〇第17回 近畿地区無教会 キリスト集会 8月2627日(日)の二日間、京都市左京区の関西セミナハウスで開催。

 参加者は、関西地域以外からは、青森、岡山、徳島などからの参加者もあり、45名ほどが集められた。主題は、「復活」。4人の講師(香西 信、小舘 美彦、清水 勝、吉村 孝雄)によって、異なる聖書の箇所から語られました。すなわち、それぞれ、Ⅰコリント、ローマ書、ルカ福音書、ヨハネ福音書です。さらに、今回は、中途失明者の竹下八千代さんによる証しがなされました。

お知らせ

〇報告の欄に書きました近畿地区無教会キリスト集会の四人による聖書講話と感話の一部などの録音を希望の方は、お送りすることができます。MP3形式のCD。300円(送料込)申込は吉村まで。

〇「いのちの水」誌に紹介した、7月の北海道瀬棚、札幌の交流集会での聖書講話、感話などの録音のCD(MP3)も、申込がなされています。それも希望の方にお送りできます。代金300円(送料込)

〇「祈りの友」の会報第7号の発行。45頁。300円(送料込)

「祈りの友」以外の希望者にもお送りできます。

〇「祈りの友」合同集会

・日時…9月23日(土)秋分の日 午前11時~午後4時。

・開会礼拝…11時~12時。内容…祈りについて以下の四名が短い時間ですが語ります。
「イエスの祈り、パウロの祈り」(吉村孝雄)、詩篇からのメッセージを次の三人の会員によって。
                        (香西 信、那須 佳子、清水 勝、) ・昼食、交流

・祈りに関しての感話。   ・午後三時の祈り

・会費 五百円(弁当代)


・なお、集会場での宿泊も可能です。(無料)

〇今月の移動夕拝は、26日(火)板野郡藍住町の奥住宅。スカイプでも参加できます。希望者は左記まで。

 

〇今月のスカイプ集会(全員がインターネットのスカイプを用いる)は、9月29日(金)午後8時から。申込は、中川陽子姉まで。

 


集会だより 2017.7~8(合併号) NO.443


 私は主に望みをおき、 御言葉を待ち望む。

 (詩篇130の5より)


 ○六月十八日(日)主日礼拝 マタイ十・2633 

          大人47名(内スカイプ11名)・子供4名

 

「恐れるな」

 人は誰もが何かを恐れている。

人間を恐れ、病を恐れ、死を恐れる。また、家族の問題、さまざまな苦しみを恐れている。国のトップになろうと、恐れはつきず、言動にも責任が問われ、また、その地位が脅かされることを恐れる。また、食事がない、水がないというのは生きる事に直結する恐れである。だれでもが老いる。そのときには病の恐れがつきまとう。

 ここでは特に信仰による迫害について書かれている。信仰を持っていると言うだけでわたしたちが想像することもできない苦しみを受けた時代があった。さまざまなこの世の苦しみは、自分のほうに問題があることが多い。しかし、キリスト教の迫害は何もしていないのに、キリストを信じるだけで苦しめられたのである。

 主イエスは「体を殺しても魂は殺せないものを恐れるな」と言われた。体と魂が分けられている。そして、すずめが空から落ちることさえ神の御意志がかかわっていると言われた。また髪の毛までも数えられているとは、どんなことがあっても、神の守りの中にあるということである。

 不信は恐れを生じさせる。神が全能で愛であると信じていないからおそれが増幅されるのである。

 聖書の最初に恐れが記されている。それは間違いを犯すと神を恐れるということを示している。

 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』 彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記三・8~10

 アダムが、神に「食べてはいけない」と言われていた木の実を、神に背いて食べてしまった。それから神を恐れはじめた。神が園の中を歩いたら、神の顔を避けて隠れたのである。神は愛の方だから、駆け寄りたい存在である。しかし、避けて隠れた。神は全てを知っていたので、アダムに「どこにいるのか」といった。いつも、わたしたちは、神に「どこにいるのか」と言われている。

アダムは神に対して「足音が聞こえたのでおそろしくなった」といった。神のことばに背いたら、急に神が恐ろしくなる。誰でも、嘘をつくと、ある種の恐れが心に刻まれる。

 わたしたちも、誰かを恐れると言うときは、神に信頼していないからである。その悪人が悪いことをするので恐れる。しかし、悪人であっても、神を思い、祈りの目で見たら恐れは減る。

「恐れるな」と言ってくださる方を、わたしたちは、ただ、信じたらいいのである。神はわたしたちを「あなたはわたしのもの」と言ってくださる。たとえ、死んでもわたしのものだと言ってくださり、いつも、共にいてくださる。

 主イエスは、エルサレムに入るとき、みすぼらしくめだたない、ロバに乗ってきてくださった。立派でなくていい。一番にならなくてもかまわない。主イエスはそのままのところにきてくださる。だから、小さな群れよ、おそれるなと言ってくださるのである。苦しい時であっても、この言葉があれば、わたしたちは救われる。たとえ、失敗しても神に立ち帰るとき、神の国をくださる。苦しみの中にあっても神の国を下さる。それを信じることが大事なのである。

 そして、ここには証をすることの重要性が示されている。神がしてくださったことを黙っていてはいけない。たとえ話したことで恥を受けても、主イエス故に恥を受けることを喜ぶべきである。弱さのために、言えない人もいる。また、黙っていることは楽である。しかし、聖書的ではなく、そこに祝福はない。

 厳しい状態のなかでも、キリスト者だと公言し、命をも失った人が殉教者である。拷問にも耐えて信仰を守った人がいる。自分はそのようなことはできないと感じたとしても、そのような人を、神が起こしたということを考える。高い山は見上げるだけでも心が引き上げられる。

 命がけでキリスト者であることを表明した人たち。「わたしは、キリスト者です」このひと言に、どれだけの苦しみをうけたか。その苦しみを経て証がつたえられ、キリストの福音は伝えられた。

わたしたちは、小さな事でも耐えられない弱さがある。しかし、神を知らない人に少しでも福音を伝えて、その人が主の平安を得られるようにと願うものである。

 ○六月二十五日(日)主日礼拝 マタイ十・3439

                48名(内スカイプ12名)

 

「二種類の平和」

 「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」という、主イエスの言葉に驚かされる。そして家族が敵対するものとなると言う言葉にも厳しさを感じる。隣人を愛せよといわれた主イエスが、なぜこのように言ったのか。

 この内容は、主イエスが弟子を派遣するときの際の、心構えを示しているのである。

「平和をもたらすために来たのではない」というのは、伝道に生きるということは、身近な者が敵となったり、また、命の危険をも覚悟しなければならないということを示すために言われた。迫害の時代となり、実際にこのような厳しいことが起ってくる。しかし、主は共にいてくださるのである。そのような厳しいただ中を通って守られ、導かれ、最終的にはすべてを祝福に変えてくださるのである。

 ここで「平和」という言葉が用いられているが、聖書では別の意味でも用いられており、その方がはるかに重要な意味を持っている。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ十四・27

 主イエスが殺される前の夜、最後の夕食の時に遺言として語られた。主イエスが与えてくださる「主の平和」主イエスはこの平和を与えるために来てくださった。

 それは信仰によって与えられる。この平和が重要なことであるから、新約聖書のパウロやペテロなどの書簡では、その冒頭の祈りの中に平和(平安)を祈る祈りが記されている。

「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ローマ一・7

 パウロの祈りがここに凝縮されている。「恵み」とはその最も中心的な内容は、十字架による罪の赦しである。赦しが与えられたら主の平和がある。それは信じるだけで与えられる。

 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(Ⅰコリント一・3

 「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ガラテヤ一・3

 このように、パウロは手紙に心にある願いを記している。罪の赦し、そこから与えられる平和。それぞれの地にいる人に対して、何を祈るべきか。神からの十字架の罪の赦し、そこからくる主の平和が与えらえますようにというパウロの祈りが示されている。

 年月を経てから、過去の罪を思い知らされることがある。老年になりなお、知らされる罪、また、弱ってくる心身、しかし、そのような全ての罪を赦し、弱った心身に新たな力を与えるもの。それが恵みと平和である。主イエスが来られたのは、この平和を与えてくださるためであった。

 神の言葉を踏みにじる闇の力は、創世記のアダムとエバからはじまった。神の言葉に従わなくても、何も悪いことは起らない。かえって、よくわかるようになる。そう言う甘い声をかけてくる。

 真理に生きようとするとき、今も誘惑や戦いが起る。しかし、主イエスが来られたのは、その悪との戦いに勝利を得させるためである。

 たとえ、神に従ったことで家族が敵対してきたとしても、最終的には必ず勝利が与えられる。主イエスを信じる者は家族も救われると、使徒言行録に記されている。実際に家族も殺されることもあった。父、母以上にキリストに従った人もいた。そのような中で、いかなる困難、恐ろしい事態をものり越える力を主イエスが与えてきた。そして、今日まで神の言葉が伝えられてきた。

 たしかに途中で、脱落してしまった人もいた。しかし、神はそれぞれの人に違った役割を与えておられる。従いきれなかった人を裁くべきではない。大事なことは、自分がどのように神のことばを聴き、従って行くかである。

 主イエスご自身も三十歳で大工の仕事を辞めて伝道を始めたときには、家族にも理解されなかった。また、主イエスが語る言葉を聴いて絶賛していた人たちも、真実を語るときに豹変し殺そうとまでした。

 「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」(ルカ四・22

 「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(四・2830

 主イエスを殺そうとまでした闇の力。そのただ中を主イエスは通り抜けていくことができた。神は勝利している。どんな苦しい状況の中であっても、超えていく力が与えられるのである。

 この力が与えられ、主イエスの福音が伝えられるように、そのためにわたしたちも、主によって用いられることを願うものである。

 〇6月29日スカイプ集会

(参加者19名)第Ⅱコリント4章7~18節「苦しみを越えて命へ」

 この箇所は引用されることが多い言葉が含まれているので、多くの人が慰めを受けたと思われる個所である。

 パウロがみずからのことを「土の器」と言っているが、それは三浦綾子さんの著書「この土の器をも」のタイトルにも用いられている。

 この表現によって、パウロは自分自身のことを、汚れたもの、壊れやすく、どこにでもあるものとして表現している。汚れた壊れやすい物であっても、非常に重要な宝を入れてくださっている。

 水を流す道具として、昔はその管は竹を用いていた。それは、少々壊れていても水を通す。このように十分でなくても役ができる。

 それゆえに、このパウロの一言にも共感できるところがある。宝とは、「天に宝を積め」という言葉もあるが、この世で褒められようとか有名になろうと言うのではなく、人に評価されなくても、神様が喜ばれることをする。真実な幼子らしく仰ぐことであり、福音とそれを語る力が与えられていることを「宝」と言っている。罪人の最たるもの、壊れやすいもの、真理を迫害していた者であったのに、福音を伝えるという代えがたい宝を与えられた。

 5節には現代でもよく起こりがちなことであるが、間違った宗教は自分自身を述べ伝えている。うっかりすると、自分自身がこれだけ研究して知っている、他の人は知らないだろうと、上からの目線で教えようとしてしまう。それでは、その人間の学識とかの力とが伝えようとされるために、肝心な主イエス・キリストの力がつたわらない。

 パウロは、イエス・キリストだけを何とか伝えたい、そうした純粋な気持ちで福音を伝えようとする気持ちを神様から与えられた。委ねられたと書かれている。

 この世でもてはやされるスポーツでは自分自身を誇り、あるいはその人をたたえる。人間がこれだけ偉いんだということを伝えようとする。その才能を与えたキリストを述べようとしない。

 「イエスの死を身にまとっています」という文で、「まとっている」という語の原語は「着る」という意味の言葉ではない。それは、フェロー(英語のフェリーの語源ともなっている)であり、それは、「運ぶ」という意味がある。イエスの死をこの身にあって運んでいる。行くところいつもイエスに働いたような思いがけない大変な苦難が起こる。イエスの死を運んでいるようなもの。しかしそれが絶望につながるのではなく、イエスの命が現れてくるのである。

 普通では、苦難があればだんだんと希望がなくなって命がすり減るが、パウロの場合は、イエスの命がますます明らかにされて行ったのである。

 苦難はたんに苦しめるためではない。ここではキリスト教独特の前向きなメッセージが語られている。この世の小説やドラマでは全く見られないものである。パウロが示している真理は、苦難が起こっても、そこにイエスの命が現れる。他の様々な知識は知ってしまえば終わりである。知れば知るほど空しさを覚えることもある。歴史を学んでも、同じこと繰り返してしまう。しかし主イエスと繋がれば新たなことが知らされる。色んな苦しいことがあって初めて、新たに知らされることもある。

 12節ではイエスの命が別の一部の人に現れる。キリストを信じている人に及ぶ恵みが書かれている。榎本保郎さんが戦争の時に信じたことが嘘だったと分かって悩み苦しんだが、そういう時に読んだのがクリスチャンの殉教の本だった。それを読んでクリスチャンになった。このように、イエスキリストが死の苦しみを受けたが、今日の私たちにイエスの命が働いている。このようにキリストの命が終わることはない。他の人に命を働かせる。

 命は絶えず働き、復活させる。だから私たちは落胆しない。外なる人は、肉体のこと。老人になると色々な個所が全体的に衰えるが、内なる人、霊的なものは衰えない。しかし外なる人はたんに肉だけでない。知識、論理的判断力・研究・分析力、そういうものも衰えて失われていく。しかしそういうものよりさらに奥に、キリストが住んでくださっている。それは周囲の人には分からない。神様だけがそこを知っている。意識不明になっても、讃美歌の内容を口ずさんだ人もいる。

 苦しみ・悲しみ・思いがけない災害は、軽い艱難と書いている。しかしパウロは死にそうな目に遭っている。それを軽いと表現している。それに反して、「重い栄光」と書いている。永遠の栄光は、死んだらなくなるような、吹き飛ばされるような物とは違う。重みのある栄光である。

 この世の栄光は何かの分野で一番になること。オリンピックでは多額の賞金が与えられるが、事故などで何もできなくなると見向かれなくなる。軽い栄光である。しかし重みのある栄光は、消えることなく、むしろ完成する。永遠の力、清さ、命、真実、愛。これらは重みがあって吹き飛ばされない。そうでないものは風に吹き去られるもみ殻のようだ。見えるものでなく、見えないもの、神の国に目を注がなければいけない。目に見えない真実や清さ、神の清さは永遠である。これは目が見えなくても全く変わりなく見える。人間は、いじめられると追いつめられて、自らの命を絶つことさえある。しかしキリストとしっかり結びついていれば、イエスの命が現れる。

 それゆえ、キリストの命をいただいた私たちキリスト者は周囲の方々のために祈っていきたいものである。   

 ○七月二日主日礼拝 列王記上(十八・2040

         大人49名、(内スカイプ13名)子供4名

「火をもって答える神」

 これは、カルメル山を舞台として、真実の神と偶像の神との戦い、そして、真実の神が勝利したことを示す内容である。

 真実の神と悪との戦い。これは、昔も今も、人間の根本問題である。さまざまな問題は悪の力に付随して起こってくるからである。政治、社会的な問題も、真実を第一としないで、目の前の利益を第一とすることから起ってくる。

 そして、この世では悪の力が強いようにさえ思えることが次々起ってくる。しかし、どのような悪の力に対しても神の力は勝利していることを聖書は示している。この箇所もそれを指し示しているのである。

 (この内容については、次号にくわしく掲載予定)

 ○七月三日(月)小羊集会  11

        使徒言行録(十六・3540 十七・19

 パウロは言いがかりをつけられて捕えられ鞭打たれた上に牢に入れられていた。しかし、神の力によって、牢から出ることができた。その時、逃げ出さなかったことから看守とその家族が神を信じるようになった。神は闇のような出来事のただ中を不思議な力で導いていく。

 高官たちはパウロを釈放することにした。しかしパウロは「ローマ帝国の市民権を持っている」ということをそのときに告げた。パウロはローマ人ではないけれど、ローマ人と同じ権限を与えられているということであり、裁判にもかけないで鞭うつことは違法であった。高官たちは、このことを知り出向いて謝罪した。

 なぜ、釈放前にパウロはローマ市民権を持っていることを話したのか。捕えられたときに告げれば鞭打たれることはなかったはずである。鞭打ちの刑は命を落とすこともある厳しい刑であった。その上で牢に入れられた。しかし、パウロは、絶望しなかった。神を信じて讃美と祈りをした。パウロはこの世の権限ではなく神の力に頼った。すると神の力によって牢獄の戸が開いたのである。この世の権利をかざして牢が開いたのではない。ローマ帝国の市民である、ということを初めに告げると、釈放されたであろうが、神の力が働くように祈り、神が祈りに答えられたのである。そのあとで、パウロは自分がローマの市民権があることを明かした。これは大きな証になった。

 パウロは牢を出て解放されてから、最初にリデアに会いに行った。パウロがヨーロッパで伝道し、初めに信仰を与えられたのがリデアであった。パウロはたったひとりの信仰者をも大切にして、訪問してから出発した。

 そして、テサロニケに行った。ここでは会堂があり、会堂で話をした。パウロは聖書を用いて話した。そしてメシアは、苦しみを受けて殺され、そして復活する、このメシアがイエス・キリストである、ということを伝えた。パウロは神の言葉である聖書を用いて話した。聖書の真理は決して変わらない。わたしたちも、何を考えるにしても、変わりやすい人の言葉ではなく、聖書に基づいて考えることが大事である。

 メシアがイエス・キリストである。このことは以下の箇所にも記されている。

「彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」(使徒言行録八・3235

                                                                                        

「彼(アポロ)が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」(使徒言行録十八・28

 

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ二十四・27)。

 このように、メシアはイエスであり、聖書はイエス・キリストについて預言されていることがわかる。そしてまた、そのメシアは苦しみを受けると記されている。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ五十三・35

 主イエスは、すべてのわたしたちの罪、弱さを、わたしたちの身代わりに負わされて殺された。しかし、そのような苦しみを受けたメシアが復活をする。それも旧約聖書で預言されている。

「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」(イザヤ二十六・19

 死んだ者が命を得るという預言。復活が預言されている。主イエスは苦しんで殺され、しかし、復活する。そのことを聞いて、あるものは信じた。パウロに宿っていた聖霊の力が、働いたのである。

 聖霊が働いて信じる者が起こされる。同時に、それを滅ぼそうとする力も働く。神の業は、良きことだけではなく、絶えず反対者がおこり、また苦しみがあり、命の危険までもある。しかし、そのただ中を通って、福音は伝えられ聖霊の力によって広がっていったのである。

 ○七月九日(日)主日礼拝 マタイ十・4042

              47名(内スカイプ10名)

 

「この小さきものに」

 十章は主イエスが十二弟子を選んで派遣する、という内容であった。

 主イエスが派遣した弟子たちを受け入れる人は、主イエスを受け入れることであり、それは神を受け入れるということになる。これは、主イエスの名によって派遣された者は主イエスとひとつであるということを示している。キリスト者はこの世に派遣された者である。そして、その報いは確実であること、また、派遣された人は特別に神が守ってくださることも書かれている。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

「はっきりいっておく」とは、主イエスの言葉としてよく出てくる。これは、あいまいに言うのでなくはっきり言うーといった明瞭性を言っているのではない。

  この原文は、ギリシャ語では、アーメン レゴー ヒューミーン であり、アーメーンとは真実に、レゴーは言う、ヒューミーンはあなた方に  である。「真実なこと、真理を、あなた方に、言う」という意味になる。英訳聖書などではほとんどが、

I tell you the truth . あるいは、Truly I tell you などとなっている。 

 小さな者に冷たい水を与える。そこに神からの報いがある。

小さな者とは誰か。この世は小さなものではなく、大きな者に目を注ぐ。有名になりたい、儲けたい、広げたいと人は励む。しかし聖書は反対である。野に咲く花、1羽のスズメ。小さなものに神様は目をとめてくださる。

 そしてまた、どうしても正しい道を歩めない人間も弱い小さな者である。それは聖書の初めから記されており、アダムとエバも神に従えなかった小さな弱い者であった。そのように罪を犯して神に背いた二人に神はどうされたか。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記三・810

 神の約束を破った人間に対して、神はすぐにはとがめなかった。そこで立ち帰る時を与えた。罪を犯した者に、「お前はどこにいるのか」と言われた。どうしても罪を犯してしまう、小さなものに、神は静かに語りかける。しかし、アダムは罪の告白もしなかった。その罪の性質は息子のカインにもあった。聖書は人間の赤裸々な姿を見抜いている。カインは自分よりも神に愛されていると思った弟をねたんだ。他人が良かったら引きずりおろしたいと思う、醜い心が人間にはある。これが罪である。

「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」(創世記四・89

ここでも神は「アベルはどこにいるのか」と聞かれた。立ち止まり、立ち帰る機会を与えられていた。しかし、カインは罪の告白ができなかった。それで裁きを受け、さすらう者となった。

 しかし、神はカインの命を守った。

「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」(創世記四・15

 罪を犯すこの小さなものを神は印をつけて見守られる。人間全体に小さきものに神は配慮してくださるのである。

 小さき者を守られる神様のまなざし。その小さき者の中に神はおられる。

「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ二十五・3440

 どのような人に神の国が受け継がれたか。それは、小さき弱い者を助け励ました者に与えられた。そのような小さき者に何かをした人は神の祝福がある。水一杯でも飲ませると神の国を受け継がせるとある。

 小さな者にしたことが神に対してしたことと同じという。この世では大きな者にすることばかりが考えられている。しかし、神は小さなものにしたことを目に留められている。マザーテレサは、この神の言葉を生きた。死に瀕した貧しい人にイエスを見た。それだけで行なったことが世界中に知られることになった。御言葉の真実と力を現す。神はどんなに小さくても、誰も見ていなくても、神が引き上げるのである。

 その反対に、貧しい者にしなかったらどうなるのか。

「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』(マタイ二十五・41

 貧しい者を助けなかった。ここに厳しい裁きがある。永遠の火とは裁きの象徴的な表現である。苦しむ人を見捨てて、はなやかなところに行こうとする。そのとき、神の祝福はなくなり良きことが滅んでいく。小さなものを顧みなければ神から裁きを受けるのである。これは、神がどれほど小さき者を愛し、配慮されているかを示している。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ五・35

 何も持っていない、誇るものはないと知る心、その人は幸いである。誇る気持ちが出てくると、幸いは消える。どのような能力も神からいただいたと感謝する心がなければ滅びる。

 人の傲慢を砕くために神は悲しみを与える。病気になったり大きな家族の問題を抱えたりするとき、地位も、能力も空しくなる。そのとき、人は小さくされる。良いことばかりであると人は傲慢になる。悲しみに叩き落されてそこから神を見上げる。神はその時、待っておられる。うれしいこと、楽しいことばかりでは人は小さくなれない。その時には苦しい人に目が留まらなくなる。

 パンの奇跡においては、力のない弱い子どもが、貧しい大麦のパンを持っていた。それに神様は目を留められて祝福された。一匹の迷う羊を探し回る神である。この世と違って、神様は小さなものに目をとめてくださる。罪を犯す弱い人間。その人間を解放してくださるために一人子イエスが十字架にかかって死んで下さった。ここに小さな者への神の愛が示されている。

 ○七月十六日(日)主日礼拝 (マタイ十一・1~5)

                 45名(内スカイプ11名)

 

「福音を告げ知らされている者」

 洗礼者ヨハネはイエスが聖霊を与える方であると知らされていた人である。

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ三・11

 しかし、捕えられ、牢獄での苦しい日々を送るうちに、イエスが本当に救い主であるのかどうかわからなくなった。イエスが大きな改革もされず、ただ弱者を癒し救っていたからであった。それで弟子を使わした。

 キリストの先駆けとして、現われたヨハネでも、信仰がぐらついた。人間は弱い。お互いに励まさなければ、信仰が弱ることがある。

 ヨハネの弟子に対してイエスが言われたことは、イエスが弱く貧しい虐げられた人たちを癒し、救っていること、それを伝えなさいと言われた。福祉のない時代、目が見えない、耳が聞こえない、またらい病であるということは虐げられ悲惨な生活を強いられていた。そのような底辺にいる人たちをイエスは癒していた。それがメシアなのか。社会変革を行ない悪を退けるのがメシアではないのか。ヨハネは納得できず疑いが取れなかった。そのヨハネに対してイエスは別の説明もしないで、あえて、同じことを伝えた。

 目に見える形で、悪の力を排除しようとしなかったイエス。イエスは見捨てられた人に新しい力を与えただけであった。今日でも、まず目先の事を重要視して改革しようとする。イエスはこの世の改革者とは違う。一見なにも改革していないようにみえる。ただ、無きに等しい人に力を与えていった。しかし、その精神から、病院や福祉などの根本的な改革につながっていった。

 このことはイエスより五百年も前に預言されていたことなのである。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」(イザヤ十一・16

 

「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」(イザヤ二十九・1819

 ここで預言されているように、イエスがされたことは、盲人や弱い人を救うことであった。

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ三十五・5~6)

「そのとき」という、神の決められたそのときには、人間の計画ではない神様がなされる。砂漠に川が流れ出る。そのような人間の精神状態を現している。イエスは弱い者を見ておられるのである。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを(公正、正義を)導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ四十二・1~3)

 人間は弱い。風が吹くと曲がる葦のようなものである。その弱いものを折らないように守る。それが、メシアであると預言されている。それがイエスであった。イエスは、繰り返し遥かな昔に預言されており、それが実現したのである。

 洗礼のヨハネの疑問に対し、それは預言されていたことであり、その成就なのだと主イエスは伝えた。そして、このことは今日にも続いている。

 わたしたちも、正しい道は歩けない弱い存在である。病があり貧しさがある。生きていても死んだような状態である。それが主イエスによって生かされている。小さき者、弱っている者、そこにこそ、よき知らせを与え、力を与える。それが、神の御意志であり、預言されていた救い主の姿なのである。

 ○七月二十三日(日)主日礼拝 エペソ五・(6~20)
    利別教会でのメッセージ 40名(内スカイプ8名)
 

「光の子として生きる」

 絶えず、そばに立ってくださる主、恐れるな、と言ってくださる主、そして主によって励まされて進んでいく。そのことが光の子として進んでいくことである。「光の子」とは何か。完全な光の子は、神様が創られた自然そのものが光の子であるといえる。美しい野草。植物は神の御性質を受けて生きている。

 人が「光の子になる」と言っても、どのようにしたらいいのかわからない。しかし、特別なことをするのではない。自然の神秘さ奥深さ、美しさは神を信じない人でも、心が安らぎ、また力を与えられる。神が創造されたからである。神が愛である、だから愛によって創られたのである。光の子として生きるとは、自由に神の光を受けて神を見上げて生きる。その単純なことである。

「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」とある。「主に結ばれて」とは、原語では「主の中にある」ということばである。以前は闇であったが今は、主の霊的な中に浸され、光となっている。だから光の子らしく歩めと言われているのである。

 これは聖書のはじめから記されている。闇の中に「光あれ」といわれて光があった。神の言葉を絶えず受けて進むことが光の子として生きることである。どんな闇であっても、神が光あれ、というと、光がある。

 世界の初めにあったのは、闇と混沌であった。混沌とは原語の意味では「荒涼、空しい」という意味の言葉である。これは、今も言えることである。現代は、どんなに遊ぶものがあっても空しい。医療が進み長寿になっても、苦しみが続く。老後には思いも寄らない暗い谷間を通るかも知れない。しかし、そのような中でも祈ることはできる。たとえ祈れなくなっても、まわりの人の信仰によって救われることがある。中風の人を屋根からつり下ろして主イエスのところに連れてきた、そのまわりの人の信仰によって中風の人は救われた。たとえ、反応できないような状態になったとしても、神の愛はすべてに勝利する。イエスは愛だから、すべてに勝利している。神の最善を信じる事ができる。

 聖書の約束がなければ、この世の闇には救いはない。この世の情報や知識は知れば知るほど心は曇る。いかなる力にも、勝利する神の力、その光の力を信じるのである。大切な事はただ、神を仰ぎ見ることだけである。全ての人よ、主を仰ぎ見よ、と神は言われた。

 光の子として歩む、ということは神が創られた自然のすばらしさを思って生きる。そして、歴史を動かしてきた神を知る。キリストの名による集まりの中にも、キリストはおられる。今、この集まりがキリストの体なのである。

 世の終わりまでこの真理は続く。そして、新しい天地になるとすべて変えられる。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」(Ⅱテモテ二・8)

 朝起きてイエスを思う。昼もイエスを思う。イエスを思うことがすべてである。たとえ今、無残に死んでも、イエスが引き上げてくださる。神の無限の愛を信じて生きることが大事である。

「主の教えを愛しその教えを昼も夜も唱える人。」(詩篇一・2)

 そして、このことばにあるように深く思う。それが光の子として歩む道である。

 聖書全体が、光の子として歩む、ということを示している。闇の力は強く、油断をすると引き込まれる。だから絶えず祈り、その度に主イエスを思い起こすことが必要なのである。

                                                                 (要約 K.K & Y.N

 お知らせ
 

〇吉村孝雄による聖書講話シリーズ

  マタイ福音書 1章~10章。MP3版CD 1枚。300円(送料込)

 現在マタイ福音書は、主日礼拝で聖書メッセージの継続中ですが、マタイ福音書の聖書講話を希望される方々からの要望がありますので、まだ、10章までですが、ご希望の方々に、お送りできます。 下記の吉村 孝雄まで。

 マタイ福音書の主日礼拝講話が全部終わってはじめて録音CDを作成するとなると、大分先のことになるので、今回途中ですが、希望者の方々に配布することになったのです。

 

 マタイ福音書11章以降は、順次作成していく予定ですが、一つ一つの章を詳しく学ぶために、時間がかかります。マタイ福音書をはじめたのは、2015年10月ですが、2年ほどかかって現在、11章の半ばですので、終わるのは、まだ二年ほどは要すると思われます。

 

〇使徒言行録も現在聖書講話の継続中です。これも希望がありますので、現在は16章までの録音があり、その部分までの講話CDを作成し、希望者にお送りできるようにと考えています。

 

〇詩集

 伊丹悦子さんの詩集「星めぐり」、貝出久美子さんの詩集「神様の手のひら」を、 ご希望の方は、一冊300円(送料込)でお送りできます。代金は、「いのちの水」誌奥付の郵便振替、もしくは200円以下の少額切手で代用も可です。(当方は郵便物が多く以前の古い切手でも使用するからです。)

 

〇「祈りの友」合同集会 9月23日(土)徳島聖書キリスト集会場にて。午前11時~午後4時。会員以外も参加自由、また部分参加もできます。会費500円。(弁当代金)

 


集会だより 20176月号  第442号


見よ、わたしは万物を新しくする。(黙示録21の5より)

 渇いている者には命の水の泉から ただで飲ませよう。(同6)

 

 

○五月二十八日 主日礼拝 マタイ101623

                              42名(内スカイプ10名)

 

 キリスト者が、世に遣わされる。それは命の危険をも伴う。

それで、ここでは、蛇のように賢く、鳩のように素直であれ、と言われている。

 蛇は獲物を得るために敏感に反応し俊敏に動く。そして鳩は純粋さの象徴でありまっすぐに見つめる心を示している。

 ここで、遣わされた者たちが会堂で鞭打たれることが予告されている。そして、実際、キリスト者は、歴史の中で、世界のいたるところで厳しい迫害を受けた。その、非常な苦しみと忍耐によって、福音は命がけで伝えられてきたのである。

 家族がキリスト者である、というだけで、キリスト者ではない家族も迫害を受けた。そのため家族が分裂し敵になる、ということが起こってきた。逃げたとしても、住むところも食物もなく言語に絶する苦しみを受けた。

 そのようなもっとも苦しい厳しい状態を、イエスは見抜いていたのである。

 しかし、そのように迫害の苦しみに耐え、それでもなお平安の中で殺されていった人たちの姿を見て、キリストを信じるようになった人も起こされた。その迫害の苦しみが、キリストを信じていない人への証となっていったのである。なぜ、神様、このような苦しみを与えられたのか。それは長い時間の中でキリストの証しをさせるためであった。そして、そのとき神が助け、神が語らせたのである。

 今の日本で、キリストを信じると言って捕えられることはない。しかし、職場や地域の中で大胆にキリストを伝えようとするときには、反対者や軽蔑するものもあらわれ、迫害がおこる。キリストの福音は、絶えずそのような迫害の苦しみによって伝えられてきた。そして、わたしたちも、福音を告げ知らされて信じることができたのである。

 わたしたちも、それぞれの与えられた賜物を用い、置かれたところで、少しでも福音を他者に伝えていくものでありたい。

 誰にも弱さがあり罪があり、成すべきことができない。しかし、そのたびに十字架を仰ぎ、できない罪をも赦していただき、少しでも力を与えられ、進んでいくものでありたい。

 迫害の苦しみに打ち勝つために力を与えたのが聖霊である。迫害だけではなく、人には病気の苦しみや、そのほかにもいろいろな苦しみがある。そのとき、聖霊は、語りかけ力を与えてくださる。

 「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」(使徒七・5556

 ステファノは、聖霊を受け、自分を殺そうとするもののためにさえ祈ることができた。どのような理不尽な攻撃も、不満も聖霊が与えられるときには祈りに変えられる。

 人を強め、正しくするものは、道徳でも努力でもない。聖霊である。そして聖霊がすべてを教えるのである。

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ十四・26

 与えられた苦しみの意味も、聖霊が教えてくださる。

そして聖霊の実としての平和が与えられる。

 最後に「人の子は来る」と再臨が示されている。まず、約束の聖霊が来てくださった。そしてまた、世の終わりの時、キリストは必ず再臨し、新しい天地となることが約束されている。

 ここに、消えることのない希望がある。

 〇スカイプ集会 5月25日(木) スカイプ集会
 創世記12章1~4節「神の祝福と現代の私たち」

 

 アブラハムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教での共通の非常に重要な人物である。主がアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい」と言われた。

聖書の人物や現代の主を信じる私たちには、誰もが神様から、慣れ親しんだ環境を離れて、神様が示す霊的な地に行くように示されている。

 この呼びかけは日々与えられている。キリスト教は絶えざる前進という姿勢がある。こうしたことがないと、今楽しいこと、今面白いことを探してしまう。

 一時的な快楽はあるが、そこには祝福がない。そうしたことを離れて、神様が示す地に行く。そのことが祝福と深く結び付いている。この世の多数の人から離れて行きなさいと言うのは、静かな細い声である。他の人、新聞、マスコミの人間の考えに巻き込まれると、神様のことが分からなくなる。

 大いなる国民とする、祝福の源、名を高めるとある。本来は直訳すると「あなたの名は祝福となる」という表現である。名は本質を現わすので、あなたは祝福されるという意味となる。

 聖書の祝福とは、狭い個人の人間の中でなく、良いことが横にも縦にもずっと広がっていく。アブラムは主の言葉に従った。御言葉に従うということが、この祝福の基になる。一つの道をあなた方の前に置く。祝福の道か、闇に閉ざされる道なのか。

「聞け、イスラエルよ」(ヘブル語で、シェマー イスラエル)という言葉や賛美がある。主の言葉に聞いて従うことに力がある。その単純なことが、祝福につながる。

 創世記18章18節「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」神様は非常に大きなスケールの創造主であるから、たった一人の元から、全世界に祝福を及ぼすような、とてつもないことを起こされる。

 聖書は全体として大きな祝福の道、消えることのない大きな良きものが最初から書かれている。聖書の世界を知らなければ、この世界の様々な事象を見て呪われたものではないかと感じてしまう。人生の荒波は霊的な世界にも大きな波がある。しかし聖霊という大きな風が吹いている事が、霊的な目を開かれると分かる。

 詩篇にも最初から祝福の道とそうでない道がはっきりと書かれている。1篇は詩篇全体の大きな要約ともなっている。祝福の道は、人間の様々な言葉に従わず、トーラー(神の言葉)を愛し、いつもその言葉を黙想・瞑想することである。その人は流れのほとりに植えられた木であり、萎れることがない。詩篇では、人間の心中における豊かさ、平安が大きな祝福として書かれている。反対に人間の言葉に従うと、風に吹き飛ばされるもみ殻のような存在となる。

 これがマタイ福音書5章のイエス様の言葉とも共通している。心が貧しいーこの意味は、心、あるいは魂、霊の奥深いところにおいて自分は真実な歩みができない、罪ある者だと深く実感している人、のことである。

 自分の弱さ、限界を知っている人は幸いである。そこから、罪の赦しを与えられ、御国が与えられる。

 一番大事なものを失った人、最も深い悲しみを持つ人は幸いである。そこから神様を求めたら、神の慰めを深く受ける。

 このように、この世的には幸いな人に見えない人にも、そこに祝福がある。聖書は全体に祝福の道と、祝福が受けられない道が書かれている。パウロのローマ書8章にも、28節以降に「神の愛する者には万事が益となるように相働く」このことをしっかりと信じると力が与えられる。

 私たちがもし、目で見えるものばかりを見つめているなら、様々な暗い出来事や、難しい問題によって心も体もなえてしまうが、ご計画によって呼び出されている私たちには万事が益となる。祝福の究極的な力は「どんなことがあっても、わたしたちはキリストの愛から離されない」ということである。この世だけが世界ではなく、最終的にはこのように輝かしい勝利を与えられるということがある。もし殺されてしまっても、勝利している。キリストの愛から引き離されることはない。たとえ人間からは褒められなくても、神様だけは分かってくださる。

 ○六月四日(日)主日礼拝 列王記上(124) 

              41名(内スカイプ10名)

 

 「主は生きておられる」という、信仰の確信を表すことばが、今回の箇所で二回記されている。これは、誓って言う、確言するという意味で用いられているが、主が生きてはたらいてくださっているのは、それほど確かなこととして受けとられていたのを示している。

 

「あなたの神、主は生きておられます。」(列王記上十八・10

「エリヤはこう答えた。『わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現します』。」                 (列王記上十八・15

これは、十七章にも記されていた。

 「彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。』」               (列王記上十七・12

 主は生きておられる。しかし、災害や戦争が起るとき、神は本当に生きているのか、と思わされるような苦しみにあうことがある。しかし、現状がどうであれ神は生きておられる。そして神は愛である。これは、罪の赦しを実感しなければわからない。人間の考えでは理解できない。しかし、聖霊が与えられると、他者に否定されても信じることができる。

 オバテヤはアハブ王のもとで働く、地位の高い従者だった。アハブは真実の神に反し、預言者を迫害して殺した。妻も同様であった。そのアハブのもとに、神を敬う真実なオバテヤは仕えていた。神のご計画は人が考えてもわからない、思いがけないところで行なわれることがある。悪に満ちた人物のそばでも、神に選ばれ聖別された働きをする人が起こされるのである。キリストを信じる人たちも、予想もしないところから起こされることがある。

 オバテヤは神を畏れる人であったが、また、大胆でもあった。王と妻のイゼベルが、預言者を殺そうとしているときに、預言者たちをかくまって助けた。この行為は、見つかれば殺されるかもしれないことであったが、オバテヤは大胆に神に従い命がけで助けたのであった。

 この年、雨が降らなかったため、飢饉となった。アハブはオバデヤに、水がある地を探すように命じた。オバデヤが水のある地を探しているとエリヤに出会った。オバデヤはエリヤが神の人と知っていたのでひれ伏した。エリヤが、「わたしがここにいるとアハブに伝えてください」と言ったのでオバデヤは恐れた。それは、アハブはエリヤを何とかして捕えようとして探していたからである。そしてエリヤは神に選ばれた特別な人であり、アハブに捕えられないように神が守り連れ去られる。アハブが来たところでエリヤは神によって逃されていると思ったからである。そうすればオバデヤはアハブに殺される。

 しかし、エリヤは、自分はアハブに会うと伝えた。オバデヤはそれを信じて、アハブにエリヤがいることを伝えた。

 アハブはエリヤと会った。エリヤは臆することなく大胆に、アハブに対して民を苦しめていることを指摘した。そしてアハブに対して、バアルの預言者やアシェラの預言者たちを集めるように言った。アハブ王はなぜかエリヤの指示を受けて、そのとおりに偶像の神の預言者たちを集めた。

 そのとき、エリヤは集まっている民に言った。

「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」(十八・21

 「いつまで迷っているのか。」

 この問いかけは、わたしたちにも語られている。

 神は愛である、と告白しながら、思いがけないことが起ると迷う弱さがある。社会問題、災害、自分の苦しみ、真実な人が突然召されたりすることなど、なぜこのようなことが起るのかと思うときでも、本当に神は愛であると信じているか。

 何が起っても、神は愛であると信じていく。どっちつかずではなく、神につく者となる。たとえ、思った通りにならなくても、神は愛であると信じ続けていく。

「あくまでわたしはキリストに仕える」という覚悟。それは、厳しい迫害の時代には大きな苦しみをともなうことであった。そうでなくても、毎日の生活の中で、日々わたしたちも問われていることである。

 しかし、弱さの故、神に従えないこともある。その時にはすぐに十字架を仰ぎ、赦しを求めていく。それが、神に仕えていくことになる。

 アハブのような闇の人間に、神の光をうけた側近が与えられていた。闇の中に神の光が輝いていた。今、この闇の気配が増強している時代にこそ、この光を信じる必要がある。

 次々と起ってくる闇の出来事、日本も世界も闇に包まれようとしている。このときこそ、何があっても変わることのない、全能の愛の神をしっかりと見つめていなければならない。たえず、神に立ち帰り、御言葉を持って悪と戦う。わたしたちの戦いは霊の戦いである。

 主は生きておられる。そして闇の中に光がある。このことを信じて進むことができるように。そしてどのようなときも、主につくことができるように、できないときには、こころから十字架を仰ぎ、神に立ち帰っていくことができるように。わたしたちは常に祈り求めていきたい。

 ○六月五日(月)小羊集会  使徒言行録十六・1634
 

 パウロたちは、占いの霊に取りつかれた女性に出会った。まだ起っていないことを言い当てる占いは、神の霊に反することである。本当の神だけが正しい預言をするのであり、それは神ではない汚れた霊が働いている。

 この女性は、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と叫んだ。それは、正しいことを話していたが、幾日も繰り返すというような異常な行動を続けた。表面だけを見て一見正しいように見えても、実は汚れた霊によって導かれていることがある。悪の霊が言わせていることを見抜いたパウロは、女性の中の霊に向って「出て行け」と言った。霊は出て行った。

 しかし、この占いでお金儲けをしていた女主人は、二人が町を混乱させているとに言いがかりをつけて役人に引き渡した。捕えられた二人はむち打たれ、傷を受けていた状態にありながら牢の中で夜中に賛美と祈りをしていた。それは神の力が与えられなければできないことである。囚人たちは聴き入った。そして神の力によって牢の鍵が開くという奇跡が起った。

 このような出来事は十二章にも記されている。

 「ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。…こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。…ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。」(使徒言行録十二・47)ここでも、牢が開かれるという奇跡を神はなされた。

 キリストが殺されてからわずか三十年ほどでローマ帝国の広大な地域にキリスト教は広がっていった。ローマ皇帝が厳しい迫害をする必要があるほどに広がった、その背景には、このような神の不思議な導きが次々と起ってきたことが考えられる。

 そしてそれは、真実な切なる祈りによって神が働いてくださることによる。困難なとき、熱心な真実な祈りがあれば、神は祈りを聞いてくださる。それは、結果的には人間の思い通りではないことであっても、神の最善がなされていくのである。

 真実な真夜中の祈りの力、そして賛美の力をこの出来事で知らされる。

 看守たちは、囚人が逃げたと思い死を覚悟した。しかし、そこにパウロたちが逃げずにいたために、神の力を感じた。そして看守はパウロに、救われるためには何をしたらいいか、と聞いた。そのとき、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と言った。

 「家族も救われる。」これは、生きている内に起らないことであっても、神の約束として信じる事ができる。また、神を信じる者は霊の家族である。霊的な家族の中にも、信仰の力は及んでいく。

 この看守の家族は、神を信じ、証として洗礼を受けた。

洗礼は、信じた証としてなされたのであった。

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録一・5)

 洗礼という儀式を受けたから救われるのではない。イエスは聖霊による洗礼を授けるために来られた。その証として水の洗礼があるのである。

 どのような状況にあっても、そこから真実に真剣に祈るとき、神の力が働く。苦難の時にこそ力が与えられる。共に集まり祈るとき、そこにまた聖霊が働く。祈りを持って集まりに参加することが伝道となるのである。

 ○六月九日(金)天宝堂集会  マルコ十一・2026
  イチジクの木が根元から枯れている。これは、葉ばかりが繁って、実がないイチジクを主イエスが「枯れよ」と言ったことによる。

 主イエスは自然の現象を通して人間の霊的な状況を示した。

葉ばかりが繁っている状態とは、宗教的に熱心そうに見えて、実儀式など表面的なことばかりに熱心な律法学者や祭司に対して言われている。真実をいい加減にするとき、確かに枯れていく。

枯れないためにはどうすればいいか。

 主イエスにつながっていることである。ぶどうの木のたとえにあるように、主イエスと結びついていたら実がなる。離れたら実は実らない。

「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。

 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない」(詩篇一・1~3)

 神のことばを見つめていたら、実を結ぶ。悪しきことを思うとき枯れていく。だからこそ、神を信じ、神の力を信じなさい、と主イエスは言われたのである。しかし、人は弱く、誰でも間違えることもある。真実ではなくうわべだけであった、と気がつくときに、すぐに神に方向転換をして赦していただく。そうすれば、弱い私たちであっても枯れないで済むのである。

 「山に向かい、水に飛び込めというと、山が水に飛び込む」

ここに、「信じる」ということばが、繰り返されている。山にむかって飛び込むということは、文字通りには、信じられないことである。山とは動かないことの象徴である。人間的に考え得て、絶対に動かないこと。それが、神の力によって動く。神が動かそうとすれば、どんなことでもできる。そして、それに、人間は祈りによって関わることができる。

 迫害の時代も、闇の勢力が打ち壊されるように、必死の祈りが成された。そのとき、神の力は働き。武力をつかわなくても、悪の力は滅びて行ったのである。

 これは、人間にも言えることである。どんなに悪いと思う人でも、そこに神の手が働くと人は変わる。神を信じるほどに、神の力は働く。わたしたちが信じるのは全地を創られた全能の神であり、愛と正義の神である。

 ここには、信仰の不思議な力が示されている。「信じる」ということの大事さ、それは、アブラハムの姿にも示されている。アブラハムはただ、信じたことから大きな力になったのである。

 「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。』 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」                  (創世記十二・14

  実際に、アブラハムのこの信仰の形が全世界に伝わっていった。

 「神は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・5~6)

  アブラハムは神に星を見せられたとき、「そんなことはあり得ない」といわなかった。信じた。それが、正しいとされた。信じる、ということが決定的なことになったのである。

 信じるということの重要性を示しているから「祈り求めることはすでにかなえられる」と言われているのである。それは、人間が思った通りではないこともある。しかし、神はより最善にしてくださるのである。

 祈るときに、他者を恨んだりしているときには、祈りが不純になる。そこには力はない。他者に対して、憎む気持ちがあると神との間に、壁を作っているのである。祈っても祈りが聞かれない理由には、憎しみが妨げになっていることもある。

 私たちは弱い。だからこそ、絶えず祈り求め、「憐れんでください」「罪を赦してください」祈り続けて行く必要がある。

 ○六月十一日(日)主日礼拝 マタイ十・2431 

               45名(内スカイプ11名)

 

 弟子は師に勝るものではない…この箇所は、今後の弟子たちの苦しみに対する覚悟を示している。主イエスは神であるのに、悪だと言われ中傷される。主イエスでも言われるのであれば、弱さを負った人間である弟子たちが、どれほど苦しむか。キリストを信じる霊的な家族である弟子たちが受ける苦しみ、そのための覚悟を示しているのである。

 しかし、そのような、迫害の中でも、聖霊は働く。神などいないのではないか、と思わされるような状況の中で、福音は伝わっていった。

 そのような、苦しい状況が起こる。だからこそ、恐れるのではなく、証をする。それは、絶えず、「恐れるな」という主イエスからの語りかけを聞いて行かなければできない。

 暗闇でいうことを、公然といいなさい、耳打ちされることを屋根の上で、公然と言い広めなさい、というのは、聞いていた主イエスの言葉を語りなさいということである。

 体は殺されるかもしれない。弟子のヤコブも、すぐに殺された。しかし、魂は誰にも殺されることはない。それは死んだら終りではないことを示している。そして、そのような魂さえも滅ぼすことができる方、それが、神である。その神を恐れるべきなのである。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 はっきり言っておく。

 死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ五・2425

 生きているが、死んだようなものであるのが、人間の姿である。しかし、主イエスの声を聞いて受け取った者は生きる、と示されている。

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。

 わたしを信じる者は、死んでも生きる。

 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」       (ヨハネ十一・2526

 死んでも、イエスを受け入れる限り、死なない者とされる。キリストの栄光の姿となる。そこには、永遠も、清らかさも、すべてがある。

「恐れるな」ということが、この箇所では、三回も繰り返されている。小さな鳥であっても、神の御意志がなければ、落ちることはない。この世に偶然はない。だから、「恐れるな」と言われているのである。

 人間は本質的に恐れる者である。命が狙われるような場合だけではない。人の評価にも恐れ、人から認められたいと必死になるのが人間の姿である。

 しかし、人間に認められなくても、神に認められることが大事である。それがなかなかできないからこそ、神様は繰り返し「恐れるな」と言われているのである。「恐れるな」という言葉は聖書では八十回以上、あげられている。

                    (まとめと入力  K.K & Y.N

 〇スカイプによる集会 
 
 〇第17回 近畿地区 無教会 キリスト集会
 

・申込締切り 7月20日

 〇全国集会の記念賛美集CD
 

 去年の5月に、徳島市で、無教会の全国集会が開催されましたが、その際に作成した、私どもの徳島聖書キリスト集会員の歌声による、賛美集CDがあります。これは、従来の古い「讃美歌」に収録されていない賛美を紹介するために作成したものです。このCDを希望の方は、左記の吉村まで申込してください。代金は、送料など実費で200円(切手で可)。このCDを聞かれた中部地方のある方が、次のように書かれていました。

「体調を崩している妻が何度でもリピートしては大変癒さると話しています。 思いがけない賛美の歌声がこんなにも心に響くとは思いませんでした。またこうした賛美集が出されますことを願う者です。」

 病気などで外に出られなくて、日夜、苦しい思いをされている場合には、キリスト教関係の短い読み物、絵画あるいは絵の入った本、写真などとともに、素朴な賛美の歌声やメロディーが、単調で沈みがちな生活をうるおすことがあります。

 発行 徳島聖書キリスト集会
 



集会だより  2017.5  NO.441


 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変ることのない方です。
                          
(ヘブライ人への手紙138


 

 ○五月七日() 主日礼拝 列王記(上)171724 参加47(うちスカイプ12)
 

主題「復活の力と祈り」

 預言者エリヤが、貧しさのため死ぬのを待つばかりの異邦の女の人を助けた。見捨てられたようなところに、神がエリヤをつかわしたのであった。神さまはこのように、もう死ぬかもしれないというような特別の状態にある人をも見ておられることがわかる。

 助けられた女の人は、エリヤに言われた通り、エリヤに小さいパンを持って行った。自分が食べるものも無いのに、まず神に捧げることをした。そこから「瓶の粉も、油も尽きることがなかった」という思いがけない祝福が与えられたのである。先ず神さまに従っていこうとするその姿勢が、予想もしない祝福につながった。

 だが今度は、助けられた女の人の息子が病気で死んでしまった。女の人はエリヤに「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来たのですか」と言った。

 わたしたちも、元気で思い通りにしているときは、罪などどいうものは思い出さない。他人の罪はみなわかるが、自分の罪はわからない。何か苦しいことがあって初めて、自分の罪に気づかされる。

 だが「罪のために死んでいた」というほどの罪をも、十字架を仰ぐことで赦される。神の愛がそこにある。この女の人も、そこに思い至った。

 エリヤは、死んだ子供の上に三度、身を重ねて祈ったとある。三というのは完全数で、必死で祈ったということ。すると主が、子供の命を、もとにもどしてくださった。

 このようなことはあるはずはないと思ってしまう。このことをどう受け取るか。「ただ信じるだけで、死なない命を、わたしたちに返してくださる」。かつて、罪のために死んでいる(エペソ書2の1、5)とまで言われたわたしたちの命を、もとにもどして生き返らせてくださる。これが新約聖書の重要な内容になっている。

 神は死んだ者を生き返らせるという大きなメッセージとして、イエスさまを指し示す、預言的な内容となっている。

 深い祈りがなされるとき、霊的な復活が与えられる。その祈りによって復活の命が、どこかに注がれる。まわりにも、その祈る人にも注がれる。

 そこで命を与えられ、立ち上がることができる。神さまの言葉は真実だと感じるようになる。

 荒涼とした死の世界、そこにも神の光が注がれるとよみがえる。さまざまな形での復活の力がある。多くの人が、死んだような状態からよみがえらせていただいた。わたしたちはみな肉体的には死んでいくが、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われている。

 このことは旧約聖書から言われており、イザヤ書25の8に「主は、死を永久に滅ぼしてくださる」とあり、ヨハネ福音書112526には「わたしは復活であり命である。生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きる」とある。イエスご自身が命だから、信じるだけで、主イエスと霊的に結びつきを与えられ、それゆえにもう死なない存在になっている。死を超える力が与えられる。それを幼な児のように、信じるかどうかが重要である。

 学問や経験ではなく、ただ信じるかどうかである。信じれば不思議な命が与えられる。

 「瓶の粉も、油も尽きない」ということは、わたしたちの命も尽きないということに重なる。この世界には本当によいものは尽きない。神さまの命は尽きない。ただ信じるだけで、尽きない命がいただける。

 ○四月二十三日() つゆくさ集会 ヨハネの手紙 915
 

 「真理に歩む人、真理に背く人たち」

     聖書の中で一番短い手紙。

 「真に愛する」と訳されている原文は、「真理にあって」(エン アレーセイア)である。ほとんどの英訳も love in truth と訳している。

 「真理(キリスト)にあって愛する」ということである。言いかえれば「キリストにあって」愛するということであって、人間的な愛でなく、霊的な愛である。

 「真理」という言葉が何度も出てくるが、この言葉もアレーセイアである。真理に歩むことが一番喜ばしいことで、天でも大いなる喜びがあると言われている。

 有名になったり、誉められたり、賞を貰ったりすることが真理に歩んでいることではない。苦しい目にあってはじめて真理に歩むことができる人がたくさんいる。この世から誉められることでなく、たとえ病気であっても、真理によって耐え、真理によってそれを転機とできる。真理(アレーセイア)とはキリストである。

 対照的な二人の人物。ひとりは指導者になりたがっている人。コリント人の中にもこういう人がいたことが書かれているが、このように悪の霊が入り込んでくことがある。クリスチャンとなっても、人から認められなければ妬み、排除しようとする心が芽生えてくる。が、対照的なもう一人は、こういったことを捨てて、神のために働く人がいるということである。

 わたしたちもうっかりすると、キリストを信じた時は、きれいに自分の心の中を掃除をしたはずが、油断すると悪の霊が入ってきて、神から離れていく場合がある。(マタイ1244~)だが、黙って務めを果たしていく人には、あらゆる人と真理そのものの証しがある、と言われている。

 信仰の世界に於いても、こういった問題が起こるから、目を覚ましているように、ということである。

 「近いうちにお目にかかって親しく話し合いたい」(14節)…とあるのは、実際に顔と顔を合わせてみると、新たな祝福がある。思いがけない交わりや、霊の賜物がもたらされることもある。どこかに行っても祈りを持っていく。

 この手紙の終りに「あなたに平和があるように」との祈りがある。聖書で言われている平和とは、平安とも訳されるが、それは、主の平和を意味し、人間的な話合いや妥協による平和ではなく、また単に戦争がないということでもない。

 主イエスが最後の夕食のときに、「私の平和をあなた方に与える。それは世が与えるような仕方で与えるのではない」(ヨハネ1427)と言われたとおりである。

 この短い書簡には、真理に歩むことの重要性と、じっさいにそのように歩んでいる人たちを祝福し、さらにその歩みを続けるようにとの祈りの込められた励ましが記されている。

 そして、御名のため、真理のため、福音のために旅立った人たちを、主にある愛をもって助けの人たちがいる反面、それと逆に、自分がうえに立って指導者になろうという人間的な思いでキリストの集りを破壊しょうとしている人たちがいることを指摘し、そのようなサタンの誘惑に負けないようにとの主にある祈りがこの手紙には込められている。

 現代の私たちにおいても、自分の心や家庭、あるいはキリスト者の集り、また国や世界の至るところで、こうした二つの正反対の動きがある。

 私たちをまちがった道へと引き込もうとする闇の勢力に抗して、真理によって歩むことーそれは永遠の課題である。

 〇4月25日(火)移動夕拝 中川宅 エレミヤ三一章27節~40 「再建される時」27名(内スカイプ16名)
 

「見よ」と27節と38節にある。私達は必要なものを見ていない。テレビなどの内容は、見ないほうがよい、見るべきでないような内容が実に多い。

 そうしたおびただしい情報によって電気もテレビもラジオ、映画などが無い時代より心が深くなり、愛が増えたであろうか。心は清くなっただろうか。

 今日のように不要、あるいは有害な情報が洪水のように押し寄せる時代にあっては、神から来るものだけを 受けとろう、見ていこうとする意志が大切である。

 29節は、先祖が悪い事をしたらその罰が子孫に来るという当時の格言。そうではなく人は自分の罪の故に裁かれる。苦しい事があっても先祖の問題ではない。ヨハネ福音書でイエスは罰でなく「神の業がこの身に現れる為」と言われた。

 この時から、体の障がいや事故、病気…等々、いかに苦しい事が生じようとも、信仰によって祝福に変えられる道が開かれた。

 31節では「新しい契約」とある。「新約」と普通に言われるようになった言葉はここに出発点がある。

 十字架を仰ぎ見よ、そうすれば救われる。神の言葉(律法)を心の中に書き込む。それまでは石の板に書かれていた。外から強制されるのでなく、み言葉を心に書き込む新しい時代が来ると言われている。その時は心の中に書き込まれた神の言葉が分かるようになる。新約では「聖霊がすべて真理を教える」とある。

 聖霊により、心にイエスが刻まれると十字架、復活の事が心に書き込まれる。その神が天のすべての万象を造られた。神の軍勢は常に悪と戦ってくれている。壮大な聖書独特の世界がここに示されている。

 36節では神の民はなくならない。どんな事が起ころうと滅びる事はないと力強く宣言されている。

37節・天を測ることはできないように、神の民を滅ぼす事は不可能である。神の民が偶像崇拝しているので罰せられたが、それだからといって棄ておかれる事はない。

27節 「見よ」 38節にも「見よ。」とある。霊の目で見なければ分からない。神の都が、徹底的に破壊されたのにその神の都がまさに再建されるときが来る。

 災害が起こり徹底的に破壊されたのに神は全能なので、再建できる。主の栄光の為にこの都は再建されるとエレミヤははっきり示された。

 私達も苦難や死に至る事態が生じようとも、再建(復活)が与えられている。死んでも霊の体が与えられる。

 イザヤ書には「新しい天と地」黙示録にも「新しい天と地で再建される」とある。肉体は仮のもの、宇宙も仮のもの、目に見えるものはすべて仮のものである。すべてのものは死の世界に入るが必ず再建される。ここに復活の希望がある。これは私達には身近な問題であり、日々の問題である。

 お知らせ
 

  今夏の北海道 瀬棚聖書集会の開催について。

 「いのちの水」誌の末尾にも掲載しましたが、印刷が不鮮明なので、ここにも掲載しておきます。

◇第44回 北海道 瀬棚聖書集会

主催:瀬棚聖書集会 協費:日本キリスト教団利別教会、  キリスト教独立伝道会

 世界各地で類度を増やしているテロや、 人種差別、貧富の差がひろがっていうように感じられます。また、それらに絡んでの国家どうしの脅し合いなど、各所でクローバリズム、ナショナリズムの大波に揺さぶられ「混沌l」 と称するしかないような状況です。私たちは何を指針として生きるのでしょうか。揺らがないものとは何でしょう。今年のテーマを決めるにあたり様々な意見が出されましたが、聖書から神様がキリストを通して何を語られておられるのかをクリスチャンの原点に立ち返って御言更を学んでゆきたいと思います。

 私たちは、今年のテーマを祈りを込めて

Stand by me」~側にいてください~

 そして、想いを込めて「主と共に生きる」  としました。

〇今年のテーマ … ~Stand by me  主と共に生きる~

〇日時] 2017年713日(木)20時  集合~716日(日)  閉会式後解散

〇場所  北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館          

〇講師…吉村孝雄 1945年 中国満州 生まれ。

 大学4年の5月に矢内原忠雄著の「キリスト教入門」を読んで十字架の福音を知らされ、人生の転機となった。

 そして、高校の理科教育にかかわりつつ福音を伝える道へと導かれた。

 1993年 徳島聖書キリスト集会代表。月刊の「はこ舟」主筆、編集責任者になる。

 1994年…御言葉の伝道に専念するために教員を退職、

 現在も県内外の集会で、み言葉を語る他、「はこ舟」から「いのちの水」と名称を変えて発行している。

 著書 原子力発電と平和」 20118

 〇会費 一般 15000円  学生 10000円(部分参加も可能です。一泊食費込みで5000円) 会費及びファームステイ費を含む 〇申し込み、問い合わせ先  野中信成宛 

〇締切〇 630日までにお申し込みください。(直前でも対応できると思います。)

〇所持品 聖書、筆記用具、着替え、寝間着、防寒着(夜は冷えます)など

(聖書は何冊かこちらにもあります。賛美歌は印刷して用意いたします。)

〇 交通  ★JR函館本線「長万部駅」下車、長万部駅前発函館バス「北桧山瀬棚行き」に乗車

 約1時間45分程で「瀬棚市街」下車、徒歩15分又はタクシー

  ★函館駅前発函館バス「快速せたな号」乗車、約3時間半で「瀬棚市街」着

★ 長万部駅前発  6:55  9:26  11:19  13:17  14:51  17:11 19:12

★ 瀬棚市街発   5:43  7:49  9:27  11:31  14:20  16:03  18:30

★ 快速せたな号   函館駅前発  15:00   

瀬棚市街発  6:17

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 右に開催要項を掲載した 瀬棚聖書集会は、今年で44年目を迎えます。


 この長い歳月を、酪農の忙しい生活のなかで、夏の3泊4日をの集りが続けられてきたのは、多くの方々、とくに生出正実、真知子ご夫妻の長期にわたる特別な御愛労があり、またそれを助ける瀬棚聖書集会や、日本キリスト教団利別教会の方々、そして後援してくださってきたキリスト教独立伝道会等々の主にある祈りと熱心、 さらに、その背後には、神の支えと導きがあったからだと思われます。


 酪農、あるいは一部米作の仕事に従事しつつ、聖書集会に参加するというやり方なので、仕事の関係で一部しか参加できない方々も多いのですが、主の御前にて顔と顔を合わせて共に祈り、賛美、御言葉を共有することの祝福を感じてきました。


 近年は、各農家での宿泊は、3泊となり、いっそう親しく農家の方々と生活の中での交流も与えられています。


 さまざまの問題、重荷を感じておられる方々、また、涼しい気候のなかで、御言葉の学びと瀬棚の方々の感話や証し、賛美などの交流に関心のある方々、この夏の数日を北海道の瀬棚での集会に参加してみませんか。日常の生活の流れの中での恵みとはまた違った祝福が与えられると思います。(吉村)


〇今月号の「いのちの水」誌は、印刷所の機械のトラブルのため、いつものような糊付けができず、ホチキス留めの冊子となりました。

 〇5月の移動夕拝は、23日(火)午後7時30分から藍住町の奥住宅です。スカイプでも参加できます。希望者は、末尾のE-mailで吉村孝雄に申込ください。
 

〇スカイプ集会…全員がスカイプで参加する集会です。

5月のスカイプ集会は、5月25日(木)の午後8時~9時半。

申込は、中川 陽子

 〇3月の名古屋での内村鑑三記念講演会の録音CD。希望者は、末尾の吉村まで。MP3形式。1枚。300円(送料込)切手でも可です。
 〇賛美集CD

 去年の徳島での無教会全国集会の記念に作成した、賛美紹介のためのCDです。新聖歌、友よ歌おう、リビングプレイズ、讃美歌21、教会福音讃美歌など、従来の「讃美歌」以外の賛美集からの20曲ほどを、集会員が歌っているものです。

 古い讃美歌以外のものを知りたいと思っても、自分たちの集会でつかわない賛美集は持っておらず、知ることが難しいので、より賛美のはばを広げ、主への賛美がより豊かになされるようにと願って作成したものです。

 希望者は、吉村まで。これは普通のCDプレーヤで聞けます。1枚200円(送料,CDメディア、ケースなどの実費)。

 〇6月の県外集会での吉村(孝)による聖書講話
 

〇6月11日(日)午後2時~4時 高槻聖書キリスト集会

 

〇この集会だよりも、プリンタの故障のため、作成が遅れて、発行も遅れました。

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集会だより 20174NO.440

  私が最も大切なこととして伝えたのは、

    キリストが私たちの罪のために死んだこと、

                三日目に復活したことです。

    (Ⅰコリント15章より)

 

 三月六日(月)小羊集会 使徒言行録十五・36~十六・10
 

 「パウロのはたらき、聖霊の導き」

 十五章36節に「もう一度行って」とあるのは、当時この辺りにはいろいろな宗教があった。短い期間しかパウロは行っていないので少ししかキリストについての話ができていない。パウロたちが帰ったあと、偶像的な宗教に戻ってしまうことがある。彼らの信仰を確認して、信仰を強めよう、そしてさらに新しい人たちにも伝えようという目的があった。

 パウロがこの地域を訪れたのは、短期間であったが、聖霊のはたらきのゆえに、各地で信仰を持つ人が生まれた。この当時は歴史上かつてない形で、聖霊の火が各地に燃え移っていったのである。

 今日の箇所につづく箇所において、パウロも水汲み場で居た人に少し話しただけで、伝わった。 バルナバとは、パウロがどこにいるか分からなくなっていた時にわざわざ捜しに行き見つけだした人であり、キリスト信仰において先輩格のような人である。

 異邦伝道の重要なときに、パウロとバルナバの意見が激しく衝突し、別々に行動をとるようになった。このようなことはマイナスに思えるが、一方では意見が分かれ別行動をとることにより、別々の地に伝わっていったのであり、さまざまの出来事をも主は全体として導き、神の国のために用いられる。

 時には意見の対立、また、ある人が病気となって代わりの人が行くーという人間の予想とちがったことを起こして、神は人間の予想を超えたさまざまな形で広げていく。病気になるという苦しい体験をしてから宣教に立つ、新しい経験の上に立っていく。マイナスに見えるようなことも、神のほうではプラスにする。こういったことはたくさんある。

 トルコ半島は広大な領域なので、宣教する場所はいくらでもあるにもかかわらず、「アジア州(*)で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とある。

 

*)当時のアジアとは、現在のトルコの西部の狭い地域を指していた。それが次第に広がって、現在では、トルコから、イラン、インド、中国、ロシアの東部、東南アジア、日本など広大な地域を指すようになった。

 

 パウロは、トルコ半島の北西部にある地域(ビテニア地方)に行こうとしたが、そこに入ることも「イエスの霊がそれを許さなかった。」ので、ミシア地方を通ってエーゲ海にのぞむトロアスに下った。そこではっきりと啓示があった。言葉で語りかけられることもあるが、視覚的に霊の目で見える形で 特別な人は啓示を見たり聞いたりする。預言者や黙示録の人も同じである。

 マケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」と言うのをパウロは見た。それが啓示だとパウロにははっきり分かった。神の啓示ははじめから知らされるのではなく、必要なときに、部分的に示されることが多い。 

 ここでは聖霊によって「行くな」という語りかけがなされ、他方ではマケドニア人が啓示のなかに現れ、「来てください」とパウロに願うというかたちで神からの啓示が示された。

 以上のように、パウロがユダヤ人以外のところに宣教に行こうとしたのは、パウロ自身の決断によるものではなく、聖霊がそのように命じたのであった。これは十三章2節に書かれている。断食をしていたー食べる時間も削って、祈りに集中していたーそのときに聖霊がのぞんだのであった。祈りが深いほど神の御心を感じ取ることができる。人間や組織が送り出したのではなく、聖霊が送り出したのである。

 ヨーロッパがキリスト教の中心となっていく、その最大の立役者がパウロだった。じっさいに神の言葉を携えて、聖霊に押し出されてヨーロッパ東部にわたり、そこで大いなる福音のとりでを築くことになった。 パウロが受けた啓示を記した手紙が、ヨーロッパにて手書きされ、さまざまの地方へと運ばれ、その神の言葉が力を発揮してヨーロッパ全土へと福音が知らされていくことになった。

 

 その最初のヨーロッパがマケドニア地方、ギリシャである。パウロが考えていなかったことに、神が介入してさせる。ギリシャ地域は、パウロよりも300~400年前からソクラテス、プラトン、アリストテレスという歴史上で最も影響力の大きい哲学者たちが輩出した地域である。

 その哲学的基盤の上に、キリスト教はそれらを取り込み、より強固なものとしてそうした国々へとひろがっていった。

 現在ではキリスト教はヨーロッパの宗教というように思われているが、その創始者たるキリストは、ヨーロッパ人でなく西アジアのユダヤに生まれた人である。しかし、当時のユダヤの国は、ローマ帝国の領域にあり、それゆえにキリスト教はその帝国の領域につたわっていった。

 そうした驚くべきはやさで広大な領域にひろがったその根源の力は、パウロの能力とか学問ではなく、聖霊であった。

 現代の私たちにおいても同様で、真に神の目に価値あることは、生まれながらの能力によらず、家柄や豊かさ、あるいは経験によらず、聖霊なのであり、その聖霊はだれでもが、神とキリストを信じて求め続けることで与えられる。

「…このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ福音書1113

 ○三月二十六日 主日礼拝 マタイ福音書九章14~17
 

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 必ずしもわかりやすいところではない。新しいぶどう酒とは何か。新しい革袋とは何か。わたしたちの毎日の生活のうえでどういう意味を持つのか。

 み言葉には力がある、それを本当に聞きとった人は大きな働きをする。

 食を断つほどに真剣な祈りもある。しかし、心の伴っていない形だけの断食は意味がない。宗教的なことは、しばしば形だけのものが残っていく。神さまが求めるのは、憐れみであり、慈しみ、愛である。形だけしても何にもならない。たとえば主の祈りは、形式的に唱えても意味がない。

 だがイエスさまはそういった形式的なものの中身を、霊的に一新するために来られた。

 新しいぶどう酒は、発酵して革袋を破ってしまうくらいのものである。それはイエスさまご自身であり、聖なる霊であるからだ。器そのものが、形だけの古いものではなく、新しい革袋にならねばならない。そのためにイエスさまは来られた。

 わたしたちが、他者から評価をよくしてもらうためとか、単なる習慣表面的に何かよいと思われるようなことをしても罪が残る。心がどうしても正しい方向に向かわないという罪。その罪を除くためにイエスさまが、十字架にかかられた。このことを信じるだけで、神様から「あなたの罪は赦された」と言ってくださる。感謝して信じたら、わたしたちの器が新しいものとされるのである。器が変わるのだ。そこにイエスさまの新しい霊を注いでいただく。それが唯一の道だ、といわれている。

 歴史の中でも、狭い中に閉じ込めようとすることがいくらでも起こってきた。迫害というのは、いつも狭い枠、人間的な枠の中に閉じ込めようとするところに生じてきた。

  自分という器。それが変わらないまま教えだけを守ろうとしても、とても守れない。神の言葉も入って行かない。まずわたしたち自身が方向転換(ヘブル語では、「シューブ」)し、十字架を仰ぐ。そうすれば不思議と変えられる。信じるだけで救われる。救われたということは、器が変えられたということである。そこに神の言葉が入ってくる。

 内村鑑三も、聖霊が働いて初めて、幼子のように十字架を仰ぐ(仰瞻)ことへの決定的な転機となった。イザヤ書4522に「わたしを仰いで、救いを得よ」。これは新約聖書の時代となって、「キリストを仰げ、十字架を仰ぎ見よ。そして救いを得よ。」となった。これが福音の根本である。

 また19世紀の神の言葉の大いなる説教者として、現代にまで多大な影響を与えつづけてきたイギリスのスパージョンの決定的転機も、イザヤ書のこの言葉が、小さな教会でメッセージとして語られ、それを聞いたことによってであった。

 わたしたちも、み国(聖霊)を来たらせたまえ、と祈り願うこと。それが無いと、つい人間中心の狭い中に真理を閉じ込めようとしてしまう。

 歴史の中でも、つねに古い革袋に、新しいものを無理に閉じ込めようとする。だが新しいぶどう酒は、張り裂けるほどの驚くべきエネルギーがあるから、迫害したものも、ローマ帝国も張り裂け、新しいぶどう酒だけが残ったのである。本当の新しい革袋とは何なのかということは、歴史の中でも証しされている。

 今も、真理を閉じ込めようとするものは至る所にあるが、イエスさまを見ていたら自由にされる。その自由な心でわたしたちも証ししていく。

 ○三月二十七日(月) 北島集会 ゼパニヤ書三章16~20
 

 ゼパニヤ書の最初と最後は対照的である。1章の最初には、「わたし()は地の面から すべてのものを一掃する」とあり、そのあとも繰り返し、滅ぼすことや、裁きについて書かれている。

 それまでにも神が、悪や間違ったことを一掃することは繰り返し言われてきたが、紀元前、約六百数十年頃、残ったユダの国の人に神の言葉を伝えたゼパニヤが出た。

 人間の本当の幸いとは何か。人間の内部にある悪()が、社会の悪ともなっている。一人一人が、神の真実に逆らう悪を持っているから、人間の集まりであるところにも混乱や戦争が起こってくる。このすべての人に宿る根源的な悪を滅ぼすのでなければ、人間の本当によい知らせなど来るはずがない。

 私たちの本当の幸いのために不可欠なことーそれは、悪の力が滅びることである。それゆえ聖書は、悪の力が最終的には滅びるということを力を込めて語りかけている。これはいつの時代でも最大の問題である。

 しかし、14節には初めの部分と対照的に「娘シオンよ、喜び叫べ」とある。

不思議なことに「その日」には、罪を犯し、裁かれ続けてきた神の民のただ中に、神が居られるのだと言われている。

 敵の力が追い払われる「その日」が来る。神さまから全く見放されてしまったのではない。そこによろこびの知らせがあるというのである。1章で言われていたこととは全く対照的であるが、この両面は本来、結びついていることである。

 本当の幸いが来るには、悪の力が滅ぼされなければならない。これは当たり前とも言える。双方が表裏一となっているからだ。

 イスラエルの民の心から悪が一掃され、最終的にはこのように王なる主が、民のただ中におられ、その「愛によってお前(あなた)を新たにする」と18節で言われている。「新たにする」というのは「静まる」とか「静める」「休ませる」と言う意味もある。

 人間的なもののうちにとどまれば、常に動揺、不安の中にある。しかし悪が一掃され、神の愛によって本当に新たにされれば、静けさ、安らぎがもたらされる。他のことに煩わされることなく深い静けさを持つ。

 集まりや個人の中にも、偶像的なものがそのただ中にいるのではなく、神さま(あるいはイエス様)がいてくださるように。「私の内にとどまれ。そうすればわたしもあなたの内にとどまる」とヨハネ15の4。新たにされるのも、本当に静まるのも、神さまの愛によってである。

 追い散らされた人たちを集め、弱いものを集め、(霊的)繁栄を回復させてくださる。わたしたちの「復活」も、霊的な体に回復させてくださる。本当の意味での繁栄である。キリストと同じようなものにしてくださるのだから。

 上を見上げれば、新たにしてくださる。そういうわたしたちを、神さまは喜んでくださっている。エゼキエル書の最後にあるように「主がそこにおられる」からである。

 〇3月30日  スカイプ集会(毎月一度、全員が自宅でスカイプによって集められての集会。
参加者19名)第1ペテロ1の22~25節「み言葉によって新たに生まれる」
 

22節の「真理」とは何か。カントの著作にもあるように、それは今に至るまでずっと鳴り響いている問いかけである。ピラトからの尋問の時に、

 主イエスは「真理について証しをするために生まれた」と言われた。ピラトが、イエスを尋問するとき、「真理とは何か」と言ったが、イエスキリストご自身が真理であった。

 ヨーロッパにて世界で最初に大学が創設されていった1112世紀頃にできたオックスフォード大学やパリ大学などの大学も聖書に著されている真理そのものが中心となっていた。そこからさまざまの学問へと広がっていった。

  日本は真理そのものであるキリストを受け入れないで、その真理の周辺にある学問ー法学、医学、経済学、科学技術等々とくに重視して取り入れたため、聖書の真理を知らない人が圧倒的に多いという状態のままになっている。

 「兄弟愛を持って深く愛する」霊の父から生まれたから霊の兄弟である。キリストから愛が来る。キリストがまず私たちを愛してくれたとある。キリスト抜きには本当の真理に関わる愛は分からない。人間の愛は悪人でも分かる。キリストの愛をもって兄弟を愛する。厳しい迫害の時代には命がけの愛の行為が見られた。それは歴史を見ると分かる。甘い愛とは全く違った、厳しい状況の中での愛であった。

 「朽ちない種」種まきのたとえはよく知られている。マルコ4章14節には種を蒔く人は、神の言葉を蒔くとある。復活のキリストを蒔く。どんな人でもある種の種を蒔いている。大学で経済学などを教える人もいれば、悪い考えやよこしまな思いを蒔く人もいる。子供であってもLINEでいじめと言う悪い言葉を蒔く人もいる。全国民の前で嘘を蒔いている人もいる。この世の中は色んな間違った種が蒔かれている。その中で聖書だけが変わることのない生きている言葉を蒔いている。そういう言葉が3千年以上絶えず蒔かれてきた。生きた言葉であるから、私たちもそれによって生かされる。

 アブラハムは牧畜などをしていた中で、突然神からの言葉を受けて、全く変えられて、遥かな遠い地、神の約束の地ろまで行くことになった。それ以降は、神の言葉を聴きながら絶えず生かされていくこととなった。そこからイサクやヤコブも新たに生まれて行った。

 モーセも王子として育てられたが、仲間を仲裁しようとして人を殺してしまった。そしてはるか遠くまで逃げていった。結婚して羊飼いをしていたが、神の生きた言葉によって「エジプトに行きなさい」と言われ、軍隊もあるエジプトという大国に行くこととなった。全く不可能なようなことであったが、神の行ける言葉によって力が与えられた。旧約聖書の時代から、人間を本当に変えるのは生きた言葉であった。人間の思想、考えによって影響をうけることもあるが、そういった経験は非常に限定されている。民族を超え、国を超え、時代を超え、いっさいの障がいを超えて、次々と広がっていく。

 そのようにして新約聖書の時代となったが、誰にも非常にはっきりしているのは、イエスからの呼びかけ「わたしに従ってきなさい」という言葉によって新たに生まれることができたということである。パウロにおいても、ユダヤ人の学問でも真理に近づけなかった。キリストよりモーセが大事と思っていた。学問的にどんなに研究しても、それでも真理には近づけなかった。しかし、まさに復活した生けるキリストが「サウロよサウロよ」と呼びかけられ、全く新しく生まれ変わった。御言葉以外の何にも変えられないものを変えてきた。

 時代の制限があり、人間の考えは大きな限界がある。プラトンも、弱い者に注がれる神の愛を書いていない。哲学的な思想力がなければプラトンを理解することもできない。しかし能力がなくても、病人でも、子ともにでも神様は働く。

 24節…人間の考え、思想がどんなに華やかでも、いつか枯れてしまう。

 この人間の世界にはさまざまの種が蒔かれてきた。ダイナマイトや核兵器のような種は大変な悪影響がある。人間の考えは草が枯れ、花が散るように消えていく。しかし、主の言葉は永遠に変わらない。これこそ福音だ。たえず私たちは、人間の作ったものに脅かされているが、神様の良い知らせこそは、そうした恐れへの最強のとりでである。   内村鑑三も、キリスト教をクラーク博士によって知らされた。しかしまだ平安が得られなかった。アメリカにまで行き、キリストが喜ばれるような仕事に就いてもなおも平安は得られなかった。その時にアマースト大学のシーリー学長に「あなたは自分の内ばかり見ている。神を仰ぎ見よ、キリストの十字架を仰げ」と確信と愛を持って語られた。内村ももちろん聖書を読んでそのような聖句は知ってはいた。

 だが、本当にその真理の深みは見えておらず、またその神の言葉からの力も受けていなかった。同じ言葉を知っていても、時が来るまで十字架を仰ぐことを知らなかった。聖霊が働いて、初めて神の言葉が大きな力をもった。聖霊がひとを新たに生まれ変わらせる。ペンテコステの時も祈っていたら聖霊が来て、根本的に変えられて行った。

 新しく生まれると言うことは、ヨハネ3章でよく知られている。「まことに、まことに真実を言う。人は新たに生まれなければ、神の国に入れない。」これは水の洗礼ではなく、聖霊によって変えられるということである。火と聖霊によって変えられる。6節や8節のように、霊から生まれる者は霊、肉から生まれた人は肉に属する「わたしを仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ45)。学者の研究が精密になるほど、一般的な人にはますます力とはなれない。ついていけなくなる。

 しかし、神の力は、どんな学問のない人でも、過去に大きな罪を犯した人であっても、大きく生まれ変わらせることが出来る。ただ神の言葉だけは変わらない。わたしたちがまず神の言葉を豊かに受けて、少しなりとも伝えていきたい。、

                       (まとめと入力  E.I  & H.H & Y.N

お知らせ  

〇戸川茂夫兄召される。

 

集会員の戸川恭子姉のご夫君、戸川茂夫さんが、4月1日に召され、前夜式が2日夕、葬儀が3日に行なわれました。

 35年近く前に、交通事故で全身障がい者となり、寝たきりで自分では起き上がることもできない状態となりました。歩くこともできないと言われていましたが、歩行器を用いての歩行が徐々にできるようになり、退院後は、恭子さんの助けによって歩行器を用いて戸外をも歩けるようになっていました。

 その事故をきっかけに、徳島聖書キリスト集会とも関わりが生まれ、恭子さんもキリスト教信仰を持つにいたり、私が教員を退職してからは、各地で家庭集会をふやしていきましたがその一つとして戸川宅での家庭集会も始めることになり、毎週二回の集会がなされるようになり、何年か後には、私のなすべき仕事が増えていったので、時間や体力の限界もあり、回数は少しずつ減らしてきましたが、現在でも、毎月三度の集会が戸川宅で行なわれています。  茂夫兄は、寝たきりという状態でもあり、直接それらの集会に参加することは少なかったのですが、、背後でそれらの集会を受けいれ、支えておられたことを感謝をもって思い起こします。 県外で開催された四国合同集会や、近畿無教会集会などには、集会員が送迎するという協力も得られて、かなりの回数を参加できていました。

 「いのちの水」誌の発送作業は、毎月第二水曜日の集会のあとで、参加者とともになされていますが、「集会だより」の二つ折りや折り込み作業もあり、水曜集会のあとだけではおわらないので、その残りの作業は、戸川宅での月に一度の北島夕拝のあとで、参加者とともになされて発送されています。

 つぎに葬儀の式順と用いた聖書箇所などをあげておきます。

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戸川茂夫兄 葬儀         司式 吉村孝雄

黙祷

讃美 「主よ御手もて」新聖歌 384

聖書 新約聖書 ヨハネ福音書145節より

祈り

讃美 「世には良き友」新聖歌426

聖書からのメッセージ 「命の光」

祈り

讃美 「きよき岸辺に」新聖歌518

故人の思い出

献花

遺族挨拶

祈り

黙祷

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聖書の言葉から

 

①イエスは再び言われた。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書812

 

②「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ福音書146節より)

 

③主はわたしの光、

わたしの救い

わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦

わたしは誰の前におののくことがあろう。 (旧約聖書 詩篇27篇より)

 

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〇 前夜式、葬儀には、集会関係の方々7人の方々に、故人の思い出、心に残っていることなど話していただきました。これは弔辞という棺に向って話すのでなくー故人は棺にはもはやおらず、神のもとに召されているので、棺に向って語りかけることはそぐわないからです。

 徳島聖書キリスト集会で主催してきた葬儀においては、ほかの方々の場合も同様で、集会関係の方々のうち、とくに故人と関わり深かった方々に故人のことを紹介を兼ねて、参加者に向って語りかけていただくようにしています。

 今回の戸川さんの場合も、召された茂夫兄が、その重度の障がいを受けた身で、わたし共の集会とどのようにかかわってこられたのか、ということを紹介して、奥さんの恭子さんと共に主が用いられたことが少しでも多くの方々に知られることになったと思われます。

 前夜式、葬儀には徳島聖書キリスト集会関係以外からも、多数の方々が参列され、キリスト教葬儀は初めて、という方々かほとんどであったようです。そのような方々にとっては初めて、キリスト教の聖書にふれ、御言葉を聞き、賛美の機会となったことを思い、主がそうした御言葉を用いて福音が少しでも参加者につたわるようにと願って、語らせていただきました。----------

 〇4月の移動夕拝
 

4月25日(火)午後7時半~。中川宅。スカイプ集会も兼ねてて行なわれます。スカイプ集会は午後8時からですが、移動夕拝のときは、7時半からです。

 

 スカイプ参加の申込は、中川 陽子さんまで。E-mail

      myrtus7@khc.biglobe.ne.jp

 わたし共のスカイプ集会にはスマホで参加されている方もあります。現在ではますますスマホ利用が増えていますので、スマホでのスカイプ集会参加に関心あるかたは問い合わせください。

 〇4月の(16日以降)の集会予定。
 

16日(日)イースター特別集会。午前10時~午後2時。

18日(火)夕拝。

22日(土)土曜日集会

23日(日)午後1時半~つゆ草集会(大学病院個室内にて)

24日(月)午後1時~。北島集会。戸川宅。

25日(火)移動夕拝 中川宅。

 〇「祈りの友」の新規入会の方々について
 

 去年の9月以降、新規に「祈りの友」に入会された方々についての紹介などは、 5月発行の「祈りの友」通信に掲載予定でしたが、都合で発行が延期されましたので。会員には、その方々のお名前、祈りの課題などを近日中にお知らせします。

 「祈りの友」への問い合わせは、吉村孝雄まで。