集会」だより 2018年

 集会だより  2018年 2月号 第442
 二〇一八年一月一日(月)元旦礼拝  29名(内スカイプ11名)
 「新しい天と地」     聖書箇所(黙示録21・1~5)

 世界がどのように変わっても、聖書に記されている真理は変わらない。その聖書の最後に、新しい天と新しい地が与えられると書かれている。そして、完全な状態になり、もはや死も罪も苦しみもなくなるとある。そこでは、罪に汚れた人間と、神が共に住んでくださる。悲しみの涙をことごとく拭い去ってくださり、嘆きもなくなる、と記されている。

 黙示録の書かれたときは、キリストを信じただけで、捕らえられ、皇帝を神として拝まずにキリスト者であることを告白し続けるなら、火刑に処せられたり、大規模な陸上競技場のようなところで、飢えた猛獣に襲わせたり見せしめとしても、激しい迫害がなされた。その結果、家族も分断させられ、生きることに著しい困難を生じるような厳しい迫害の時代であった。殺されていく人も、残される人も重い悲しみがあった。

 しかし、悲しみや苦しみはそのような、厳しい時代だけにあるのではない。今、日本は経済的に豊かになり、食べ物もあふれている。しかし、変わりなく悲しみもあふれている。日本は世界の中でも、自殺者が多い。いくら、経済的に豊かになっても、悲しみがおこるのである。

 自分の罪ゆえに悲しみが生じることもある。自分の配慮がなかったから、家族に苦しみを与えることもある。罪ゆえの悲しみ。そしてまた、病の悲しみ。世界情勢も厳しい問題がある。しかし、それがあってもなくても、人間は孤独や苦しみを抱えている人が絶えない。

 主イエスは言われた。「心の貧しい人は幸いである。」

 これは、原文の意味からすれば、霊において貧しい人は幸いであるということである。一般的には、健康、家族、お金があることが幸いであるという。しかし、このすべてがあっても、悲しみがある。そのとき、「悲しむ人々は幸いだ。」と主イエスは言われる。そこから、神との結びつきができて、慰めが与えられるからである。

 イエスご自身も、イザヤ書では「悲しみの人」と預言されている。また、預言者の中でも個人的な苦しみ、悲しみが書かれているのがエレミヤ書である。エレミヤは民の苦しみを直視し、その背く民の悲しみを担って嘆いた。

 そのような人間の悲しみを神は覚えていてくださる。それは詩篇に記されている。

 「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」(詩篇五十六・9)

この作者の経験した深い悲しみ。神様はどんな小さな悲しみも苦しみも書き留めてくださっている。人間は、愛が深いといっても、他者の苦しみは本当の意味ではわからない。しかし、神様は、隠しているような悲しみまでも、記録して、覚えて、癒しを待ってくださっている。だから、神は愛なのである。

 悲しむものは幸いである、とは、どんな悲しみも神は記録して覚えてくださっているから、言えることなのである。このような神を知っているとき、非常な悲しみが起こっても、そこから立ち上がる力が与えられる。

 キリスト者のどんな小さな涙も、小さすぎることはなく、それを取って、そばにおいていてくださる。わたしたちは、どのような悲しみに出会うかわからないが、神様はそれを数え、時が来て、励まし、癒してくださるのである。

「見よ、わたしは万物を新しくする」

 公害、戦争、すべて消されて新しくされるときがくる。宇宙を創られた神。その神が、いっさいを新しくしてくださる。万物がキリストに結びついたら新しくなる。これは個人の心にも言える。自分のおかれた境遇だけをみていたら、落ち込んでいくが、心の深いところに沈んでいる悲しみが、主によって癒されると人は新しくなることができる。

 黙示録は、迫害のただ中で書かれた書物である。そしてまた、主イエスも暗い世の中に生まれた。そのような中で、神様は「見よ」と言われている。自分のうちを見るのではない。愛の神を見よ、と言われている。そうすれば、すべてのものを新しくしてくださる。人間の体は弱り、最終的には死んでいく。しかし、闇と混乱の中にあるところに光がある。その光を「見よ」と言われている。

 新しい年、目の前のことではなく、神のみことばをしっかりと見ていきたい。

 ★新しい年を迎えた1月1日の 早朝6時半、夜明け前から礼拝がもたれ、礼拝をしている間に新しい年の太陽が昇りました。今年も御言葉によって共に導かれる年となりますように。

 ○一月七日(日)主日礼拝 マタイ十三・4446
    大人 45名(内スカイプ 12名)・子供 4名

   「天の国のたとえ(3)」

 畑に宝が隠されているのを見つけた。また、真珠を探している人が、高価な良い真珠を見つけた。本物の宝を見つけた人は、持ち物をすべて売ってその宝が隠されている畑を買うし、また、特別素晴らしい真珠を見つけた人は、持ち物をすべて売ってその真珠を買う。これが神の御支配であるという。

 神はまず、宝を見いださせる。この宝がキリストの真理、福音である。それを見いだすとき、いままで価値があると思い持っていた、すべての持ち物に価値がなくなり、売り払ってその宝を得たいと願う。大事と思っていたものはいらなくなるのである。

 キリストの真理を知るとき、このように、これ以上はない宝と感じる。この世の争いは、地位、権力、財産の奪い合いであり、人が称賛されると自分も称賛されたいと思い、人が賞をもらうと、自分もほしくてねたむ。それは、この世の楽しみをこえた宝がわからないからである。もし、この本物の宝である神の御支配が与えられたら、この世の称賛や財産、これまで、大事と思っていたことがいらなくなる。

 神が人を導こうとするときに、神はこの本当の宝を人に見いださせる。神が先に与えるのである。そして、その福音の宝は、時がたっても、価値が失われない。千年、二千年経っても、どんなに壊し傷つけようとしても、傷がつかない。聖書は、永遠に変ることなき神の言葉であるゆえに、何があっても傷つけられることはなく、その価値は変わることがない。そして、変質せず、また盗まれることもない。

 十字架による罪の赦し、復活、最終的に悪が滅びること、そして神が共にいてくださるということ。天の国の宝である福音という本当のものをみつけたら、これこそが、ほかのものより価値があると実感する。それは、盗まれることもない。この世の宝は盗まれるとなくなるし、金塊を泥沼に投げ込めばなくなる。しかし、福音は泥沼に投げ込まれても消えず、かえって福音を潰そうとする力が最終的には滅びる。いかなることがあっても、キリストの真理はこわせない。そして、それがわかれば、大事と思っていたこの世の持ち物が小さなものになるのである。

 その宝は隠されている。福音の真理は啓示であり、すぐにはわからないように覆いがかかっている。そして、あるときに見いださせてくださるのである。

 イエスは天に宝を積めといわれた。そこでは宝は古びることもない。本当の宝を見いだした者は、地上ではなく、天に宝を蓄えるようになる。この宝はただでもらえる。信仰は信じて受け取るだけで与えられる。神の御支配の方法は、この宝こそが本当に価値あるものだと気が付くようにしむけ、この世の宝への執着から解放させてくださる。キリストの弟子たちもイエスのことばをきいて、ただちに、すべてを捨てて従った。全てを捨てて隠された宝を受け取ったのである。そのキリストの無限の価値を生れつき知っている人はいない。神によって目覚めさせられるまでは誰もわからない隠された宝なのである。

 キリストは高価なる真珠であり、魂の深いところに与えられる。そして、それは増えていく。良き働きとなって目で見える形になることもあるし、そうでなくても信仰を持って生き抜く、と言うことが証となる。そしてこの宝は死んでもなくならない。その宝をしっかりと持っていると、毒麦が生えてきてもそれを追いだすことができる。このようなキリストの名による集まりにも、その宝が宿されている集まりであることが願われる。

 そして、神は宝を見いだすために、さまざまな悲しみ、苦しみを与える。そこを通って宝を見いだすようにされているのである。だから、悲しむ者は幸いであると主イエスはいわれた。また、心の貧しいもの、つまり誇ることなく、自分の罪に悲しむ者は幸いであると言われた。それは、この宝が見えてくるからである。この世のさまざまの問題に心がうばわれていたり、娯楽、快楽に心がひかれている間は宝はみえない。どこに本物の宝があるのか、真理があるのかと探しても探しても見つからないと思っていても、あるとき苦しみを通して見いだされることがある。わたしたちに起る、望んでいないこと、起って欲しくないこと、それも、この高価な真珠、本物の宝を見いだすためにおこってくる神の導きなのである。

○一月十二日(金)天宝堂集会 マルコ十二・1327

 この問題は、「税金を納める」という問題だけではない。権威に対してどうすべきなのか、ということを記している。

 これはイエスを陥れるためになされた質問である。イエスがローマに税金を納めるべきだと言えば、ローマ帝国を支配する皇帝の手先と同じであると、糾弾できる。しかし、税金を納めるべきではないと言えば、皇帝反する危険分子であるとなる。こうしてイエスを何とかして引きずりおろそうとした。イエスはいかに答えるか。それを人々は注目した。イエスは、彼らの心を見抜いて、「なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われた。その硬貨にはローマ皇帝の像が刻まれていた。イエスはそれを見て「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。それには誰も反論できなかった。

 現実の生活の中では、キリストだけに従うのは困難が生じる。税金も支払う必要がある。皇帝のものは皇帝にとあるが、しかし、どこからが、皇帝のものなのか。神のものを神に返すとはどういうことか。

 神への忠誠心、何があっても神に従う心は神のものを神に返すということである。礼拝とは神に私たちの最も大切な部分を神に返すことである。この問題は、長い、迫害の問題に直面した。皇帝が、自分を神として礼拝せよと言った。税をとるのと同じように、皇帝は自分を礼拝させた。しかし、神(キリスト)だけを礼拝すべきであるゆえに、「わたしは、キリストにつくものです。殺されてもキリスト者である」と明白にキリスト者であることを告白する人もいた。命を懸けて、神のものを神に返す、そして死んでいったひとたちは数知れずいた。神への忠誠、とは、人によって、程度が違う。それぞれのひとが、祈って求めることである。

 また、日曜日に礼拝を守ることも神のものを神に返すことである。何千年も前から週に一度は休む、そして、安息日は神に返すことが行われてきた。週に一度、日曜日は神を礼拝する。神のものを神に返す日である。そこに祝福があるので、今に至るまで続いてきた。

 どこから先が権力者のものか。どこから先が、神に返すのか。長い歴史のなかでは、神のものを真剣に神に返すとき、それは命さえ奪われることさえあった。私たちはつねに神のものを神に返しているのかーと問われている。

 祈りは、神のものを神に返す時間である。祈り、お金、与えられた神のものを神に返しているかが問われているのである。礼拝の心、讃美の心、それも神のものを神に返すことである。

 サドカイ派の人は、復活はない、死んだら終わりと言っていた。それで、つぎつぎ死んだらどうなるのかと質問した。主イエスは「聖書も、神の言葉、神の力を知らないからだ」と言われた。神の力は全能であり、復活の時は霊の体となりイエスのように、天使のようになることが記されている。このことを明確に記しているのが

 「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ人への手紙三・21

ここに最終的な希望がある。

 復活したら手や足があるのか。それはここに引用したことでわかる。キリストの栄光あるからだとは、霊的なからだであり、聖霊と同じである。私たちも復活させていただいたときには、イエスの栄光ある霊的なからだと同じようにされるのであるから、地上での生活に伴う手足などは必要なくなる。手足は重力のあるこの地上で生きていくために必要なのであるから、重力も口から食物をとる必要もまったくない天の国ではそのような手足は不要となる。

○一月十四日(日)主日礼拝 マタイ十三・4752
  大人43名(内スカイプ 10名)・子供 1名

 「神による選別」

 この箇所も、神の国(神の御支配)についてかかれている。最後に、神はすべての人を「集める」こと、そして「選び分け、悪いものは捨てる」ということが示されている。その捨て方は、「燃えさかる炉の中に入れられて、なきわめいて歯ぎしりする。」という厳しい表現がなされている、聖書には、優しい言葉とともに厳しい言葉も書かれている。なぜそこまで厳しく言われたのか。この「燃え盛る炉」つまり、炎で焼くということは、他の箇所にも記されている。

 「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」(黙示録二十・10

 「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(黙示録二十・14

 最終的にサタンは滅ぼされる。人間にサタンがはいって、悪人になる。その悪そのものが滅ぼされるのである。この世においては、毒麦がはえてくる。人間はその毒麦ー悪の力に翻弄され苦しむ。しかし、悪は最後には滅びる。

 悪の力は強い、教育をしても、科学が発達しても、憎しみも減らず、戦争も終わらない。だから、目先のことだけをみて、核を持とうとする。しかし、最終的には悪そのものは滅ぼされるのである。

 わたしたちは、悪人が滅ぼされることを願うべきではない。悪そのもののサタンが滅ぼされることに希望を置くべきである。他者を苦しめ、悔い改めもしない悪人であっても、その最後の時に、悔い改めるかもしれない。悪人がどのようなさばきを受けるのか、、あるい人生の最後のときにどのように悔い改めたのか、私たちには分からない。私たちはさまざまの悪しき出来事、そうしたことを引き起こす悪しき人たちにも最善がなされるように祈り、神様にまかせればいいのである。イエスと共に最後に、十字架にはりつけになった罪人は、最後の最後に、イエスを見上げ、キリストが復活して神のところに帰るということまで信じることができた。 それゆえに主イエスは、あなたはきょう、パラダイスに行くと言われた。神は最後まで見守っておられる。最後まで、わからないから、神にゆだねるべきなのである。そしてどのような人も死んでからのことは、神が裁かれるので、神が最善にしてくださる。わたしたちは、その人が生きているときには、神が働いてくれるように、と祈るべきであり、他者の裁きを考えるべきではない。

 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ三・18

 神を信じなければ、いま、もう、裁かれている。心が平安にならない。いくら、何をしても最終的に悪が強いと思ってしまう。それがすでに裁かれているということである。

 人は最後に救いと滅びに分けられる。このことは、十人のおとめのたとえでも示されている。

 「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ二十五・1113

 主イエスの再臨の時に、戸が閉められて、はいれなかった人がいた。だから、目を覚ましていなさい、と言われているのである。目を覚まして、神を仰ぐ、ということに能力や経験は関係ない。つねに目を神に向けていく、それだけで、天の国、神の御支配に入れていただけるのである。

 神の裁きも赦しも、死んでから起こることではない。重い罪を犯すことによって、火の中に投げ込まれるような苦しみに遭うこともある。家族もその地域で住めなくなったり、離反したりして追い詰められる、それは火で焼かれるような苦しみである。裁きも、復活も赦しも、死んではじめて起こること

ではなく、今、起こることなのである。

 世の終わりのとき、神は呼び集めてくださる、とある。

「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ二十四・31

 この広大な宇宙で選ばれた人をあつめてくださるのである。ここに希望がある。

 また、神は羊と山羊を分けるように最後の裁きの時に分けることが書かれている。

 「羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」(マタイ二十五・3336

 「小さい人にしたのはわたしにしたのである」と主イエスは言われた。死を前にした人は、一番小さい人であるともいえる。そういう人のところに近寄って、心から祈る。マザーテレサのようには誰もができなくても今、死にそうな人、今、、希望がすべて打ち砕かれた人、そのような人に近寄り、ともにいること、祈ること。それが神に祝福されることなのである。そして、また、そのような小さい人を見捨てるなら、永遠の火に入るとある。「小さい人」が、基準になっていることに驚かされる。何もできない小さい人は、この世では見捨てられるが、神は特別に見ていてくださるのである。この世ではスポーツでもなんでも一番になることだけが大きなことになるが、神は逆である。そして、だからこそ、原発も、事故があれば、どれだけ小さな人が苦しむかを考えるべきである。戦争ももっとも苦しむのは小さな人なのである。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(ヨハネ十五・6)とある。

 だからこそ、つながっていなさい、と言われているのである。つながっていなければ、枯れる。枯れたら、焼かれるしかない。イエスに心が結びついていなければ、人のことが気になる。そういう心が、人を枯らしていく。憎む心は人を枯らす。キリストを信じていても、この世に流されると枯れていくのである。

 目をあげて、主を見上げる。良きことができなくても、たとえ、悪いことばかりした人でも、最後のときに主をみあげると、天に入れていただける。信じるだけ、見上げるだけ、で枯れて行かない。

 イエスがたとえをもって語られたのは、霊的なことは論理的な説明によっては表すことができないからである。たとえで言われたことは、霊的な成長によって徐々にわかってくる。弟子たちは、「わかりました」といったが、実際はわかっていなかった。

 また、主イエスは、「神の御支配を知らされたひとは、倉から新しいものと古いものを取り出す」と言われた。わたしたちは、毎日選び取りながら生きている。自分自身、できないことや罪ばかり思うと、心が古びてくる。しかし、罪が増えても恵みもまた、増すのだとパウロは言った。だめだ、と思うと、いっそう悪くなる。しかし、赦しがあると、そこから、また、新たな力が与えられる。星の光をみても、その光が人にもありますように、自分の心にも、周りの人にも、光りがともりますようにと祈る。悪いものをみても、そこに神の光がありますようにと祈る。

 人は心から毎日、何かを取り出している。将来は何がおこるかわからない。苦しいことが起こるかもしれない。しかし、そこから新しいものを取り出していける。神様が一番喜ばれるように、良きことが与えられるようにと祈ること。それが、倉からよきものを取り出すことになるのである。

○一月二十一日(日)主日礼拝   マタイ十三・5358
   大人49名(内 スカイプ17名)こども 4名

 主イエスが郷里の会堂で語られた。しかし、郷里の人は主イエスを受け入れなかった。人々は、イエスが語ることに驚いた。それは単なる知識や研究や個人的経験で語っているのではなく、神の叡知(英知)と力を感じたからである。叡知のことを ギリシャ語では「ソフィア」という。この言葉は、何が真理であるのか、何が本当に価値があるのか、を見抜く力である。真理は普遍性、永遠性をその本質としてもっているが、英知はそのような真理を持っていることである。英知の結晶というべき書が聖書である。 箴言にもその叡知が記されている。

「これは知恵と諭しをわきまえ分別ある言葉を理解するため。諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため。」(箴言一・2~3)

 箴言が書かれた目的は、この「叡知」を与えるためであった。

 「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。 高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。」(箴言八・1~4)

 「神の叡知」自身が声をあげ、人に呼びかけている。

「英知は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない。」(箴言八・11

それは何にも代えがたい者である。

「わたし(英知)を愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(箴言八・17

 「主は、その道の初めにわたし(英知)を造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。」(箴言八・2225

 ヨハネの福音書で記されている「初めにことば(ロゴス)があった」というキリストの預言を思わせる。天地創造の前から神の叡知は存在していた。キリストも存在していた。キリストこそ究極の叡知である。そして、今も絶えず、呼びかけている。聖書における、「英知」はそういう深い意味がある。

 郷里の人々が驚いたのはその英知と「力」であった。奇跡的な力。その不思議な力はどこから来たのか。彼は、普通の大工の息子であり家族も知っている。普通の人間にそんなことはできるはずはない。彼らは主イエスを預言されていた救い主とはとても思えなかった。いくら、力を見ても、教えを聞いても、イエスを信じることにはつながらない。故郷では、人は信仰を持とうとはしなかった。主イエスに与えられた力を見ても、人々は信じられなかった。本当の神がわからないから、その中心にあるものがきてもわからないのである。

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ一・1112

 民はイエスを受け入れなかったが、しかし、信じる人には神の子となる資格、力を与えた。その力、権威は、どうして与えられるのか、どうして信じられるのか、人にはわからない。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ三・8)

 それは、聖霊が与えられなければわからない。この世界では聖霊が大きな力がある。聖霊が与えられると、力が与えられ、命を懸けて信仰を守るほどとなった。

 郷里の人たちは主イエスが身近な人であり、かえってその本質がわからなくなっていた。いつも接するもの、それは人であっても、また青い空などの自然であっても、神の無限の英知を現しているにも関わらず、いつも見ていると、わからなくなる。神の直接の被造物、野の花や空が、身近にあると、価値を感じなくなるのである。そして、豪華さや肩書きなど、外側で価値を判断する。それが罪である。

 常に心の目を覚まし、緊張感をもって感じる心がないと、慣れてしまい真理を見落とす。わたしたちは常に、新しい心で見ること、新しいものを得ようとすることが大事である。

〇1月26日スカイプ集会 ヨブ記28章 箴言1・8章 集会の書1章

「聖書における叡智(英知)」(参加者15名)

 ヨブ記というと苦難に関するものであると、大体の人が知っている。ヨブ記の中にも、知恵(ソフィア)とはどういうものかということが書いてある。

 ソフィア(英知、真理)への愛は、プラトンの著作の中心に流れている。プラトンは自分の思索を直接に書き記すというかたちではなく、ソクラテスと一般の人が会話するという形をとり、ソクラテスの言葉としている。(* 

*)「英知への愛」を意味するフィロソフィア(*)という言葉は、江戸時代末期に生まれた学者 西 周(にし あまね)によって「哲学」と訳された。

 フィロソフィアという言葉自体は、フィレオー 愛する、ソフィア 英知(真理)という言葉から成り、英知(真理)への愛であって、「学」ではない。愛 なくとも 学 は理解できる。「愛」と「学」とは大きくことなる。真理への愛は誰でも持つことができるが、学(学問)は論理的な体系であり、その理解にはそれなりの能力が必要である。


  聖書においても、ソフィアを愛するということは多く記されている。叡智は「知恵」とはニュアンスがかなり異なる。例えば、知恵をつけてやれ、とは、嘘や不正なこともやるように仕向けることに使ったり、遊具に知恵の輪というものがあったりする。

 しかし、英知(叡智)という言葉はそのような意味には使われない。神の知恵の讃美とタイトルにあるが、本当に讃美出来るものは神以外にないはずだが、神の叡智は神そのものでもあるゆえに、讃美される。金銀銅を得る際には人間はどんなに危険な場所まで行く。それはどこに埋没しているか分からない。硬い岩を切り裂いてまで得ようとする。

 しかし叡智はどこにあるのか。探しても見当たらない。純金によっても買えない。それを知っているのは神だけだ。その叡智とは、主を畏れ敬うことであるとある。そして悪(罪)を遠ざけることが分別である。本当の主への畏れは愛を伴う。それが知恵の根源である。そういうと日本人の圧倒的多数の人は分からなくなってしまう。

 一般的には、人間の努力では、どうしても罪を遠ざけられない。パウロでさえ、したくないことをしてしまうと書いた。それゆえに、キリスト地上にが来てくださった。十字架を信じ、罪を遠ざけて初めて悪を遠ざけたこととなる。

 箴言1章7節はよく知られている。神様は無限に大きな方で全て見抜いておられ、正義の方である。だから時が来たら必ず罰せられる、と思えば、自ずと畏れが生じる。と同時に、主への愛がある。

 箴言1章は、ヨブ記との共通項が多い。知恵(ソフィア)と諭し(パイデイア・教育とも訳される)。

 20節ソフィアは巷において叫んでいるとある。このようなことは、プラトンの著作には出てこない。哲学は絶えず人間の側から英知に迫っていくという形をとる。人間の理性によって論理的に真理を愛する。

 漢字の叡とは「鋭い目」という意味を含んでいる。見抜く目ということである。たしかに、英知を得るためには、人間の側から真剣に真理を見つめ、愛し求めていく姿勢が必要である。

 しかし聖書ではそのような側面だけでなく、叡智の方から我々に向かって呼びかけ叫んでいると記されている。また叡智に霊があると書いている。

 この20節の表現は重要で、ヨハネの福音書7章37節の預言的に表す内容となっている。イエスが立ち上がって大声で呼びかけたという所である。

「渇いている者はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。

 叡智とは、究極的には、キリストである。箴言1章33節、叡智に来た人は確かな住まいである、主イエスの内に留まることが出来る。箴言8章ソフィアが呼びかけ、叫んでいる。ヨブ記にあったように、叡智はどの

 ような宝も比べることはできない。主を畏れるならば、罪から清められたいと願う。神を畏れることは愛すると言った事を伴う。叡智を愛する人は、叡智もその人を愛する。これは「求めよさらば与えられん」の預言ともなっている。叡智を愛する者は神ご自身を嗣業として受け取る。また22節からの所は、ヨハネ福音書1章のロゴスの記述と共通する。

 旧約聖書の続編シラクの子の書(シラ書・集会の書)1章「全ての叡智は主から来る」。これがシラ書で言われていることの要約。

 続編には、シラ書の前には「知恵の書」というものが置かれている。これらを合わせると叡智について130ページほども使って書かれている。それだけ叡智が重要視されていた事が分かる。

 こうした英知の重要性は、新約でも記されている。第1コリント1章24節には「神の叡智であるキリスト」と書かれている。そういうものとして聖書はソフィアを取り扱っている。キリストによって本当の神の叡智を受けることができる。コロサイ2章3節「知恵と知識の宝とはすべてキリストの内に隠れています。」叡智が生きて働きかけてくれる。また、聖霊が全ての事を教えて下さる。                                              YN

○一月二十八日(日)主日礼拝 マタイ十四・112
          41名(内スカイプ 14名)

 「ヨハネの死と、神の御支配」

 領主ヘロデは洗礼の

ヨハネの力や権威は感じていた。だからイエスの評判を聞いて、イエスの力もヨハネと同じものであると感じ、ヨハネが生き返ったのだと言った。イエスの特別な力、権威をヘロデはわかっていたのである。しかし、その力がどこから来たのかはわからなかった。本当の力はどこからくるのか。それは人間にはわからない。

 根源的な本当の力が神にあると言うことを、神は初めにイスラエルの少数の人に啓示した。その本当の力がどこからきているのか。源がわからないと、人は恐くなる。

 ヘロデは自分の妻がいたが、兄弟の妻を横取りした。その罪をヨハネが指摘した。そのことに対して、ヘロデも、妻もヨハネを憎んだ。しかし、ヘロデは民衆を恐れていた。本当の神を恐れるのか、人である民衆を恐れるのか。人はそのどちらかであり、また入り混じって恐れているといえる。ヘロデはヨハネを捕えて牢に入れていたが、殺すことはしなかった。しかし、ヘロデの妻は民衆が正しいと思っているヨハネを殺そうと企て、娘を利用しヨハネの首をはねさせた。

 このような、忌まわしいことがなぜ書かれているのか。それは「ヨハネの使命」が示されているのである。ヨハネの使命はイエスのために道を備えることであった。人々の心を神に向かって準備させることであった。ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスの伝道が始まった。ヨハネの使命は終わったのである。神は悲劇的なことをも起こして、神の御計画を行う。

 人間に起こる、さまざまな苦難。それも壮大な神の御計画の中でなされている。理由はわからない。だから信じる。この悲惨な中でどこが愛なのか。しかし、神は愛であることを信じる。もし、神の永遠の愛、神の真実がないとなれば、希望もない。神がおられるから、殺されてもよみがえる。自然災害、犯罪、どのような死であれ、神は信じる者に復活を与える。イエスを知らなかった者については神に委ねる。神は愛であり、その心を見られ最善をなされる。ここに希望がある。

 ヨハネはイエスの道を備えた。イエスは聖霊を受けて、伝道を始めた。それは、預言されていたことである。

「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」(マラキ三・2324)父と子とは、相互の深い関わりを指す。この預言されたエリヤが、洗礼のヨハネであった。そうして、ヨハネは道を備えたのである。

 人間から見たら、まだ、役割は終わっていないと思える死がある。しかし、神の壮大な御計画では、地上での役割が終ったのである。そして、その最期はどのように迎えるかは誰にもわからない。だた、人は生きている限り役割がある。使命がある。悪い人でも、その死を望むのではなく、その人が変えられるように、祈り待ち望むべきである。人は神によって変わりうるからである。

 このヨハネの死のあと、五千人のパンの奇跡が記されている。この奇跡は四つの福音書全てに書かれている重要な内容である。この奇跡の中で書かれている「パン」こそ、イエスの言葉であり、イエスそのものでもある。

 洗礼のヨハネの悲惨な死、闇の世界の出来事も、神の御計画の一歩、一歩なのである。

 日本は本当の神も、キリストもほとんどの人が知らない。それも、神の大きな御計画のなかにあるので、だからこそ、神の言葉そのものであるキリスト教を知らせていく必要がある。わたしたちはこの日本に特別に置かれている。神が壮大な御計画をもって、全世界を導いているということ、それを知らせていくのが、わたしたちの使命である。

 世界で起るどんなことも、また、日常で起ることも、神の愛の御支配の中にあると言うことを信じて、使命を生きる者とされたい。   (要約は、スカイプ集会についてはYN ほかはKK、補筆修正はTY

お知らせ
〇今月の移動夕拝は、227日(火)1930分~。熊井宅。 スカイプでも参加できます。

〇冬季聖書集会の「復活」を主題とする3回の聖書講話の録音があります。希望者は、MP3版、あるいは一般のCDラジカセなどで聞ける形式のCD(WAVE 版)なのかを明記して左記の吉村まで申込してください。MP3版なら1枚で300円(送料込)ですが、wave版なら7枚となります。聖書講話だけならwave版では3枚です。1200円。

1月発行の「野の花」文集もまだ余分が若干ありますので、希望の方にお送りできます。

集会だより  2018.2  NO.448
  主を畏れることは、英知のはじめである。(箴言1の8)

発行 徳島聖書キリスト集会