集会だより 2014年

   

集会だより 014.12 NO.413 

いかに幸いなことか、そむきを赦され、

罪を覆っていただいた者は。(詩篇321

 リストボタン○十一月十四日(金)天宝堂集会 マルコ八・1426

弟子たちはパンを一つしかもっていなかった。パンが一つしかないと言ったとき、主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われた。

弟子たちは、パンを持っていないから注意されたのかと思ったが、主イエスは、そのようなことを言っているのではなかった。パンの奇跡のことを思い起こしなさい、まだわからないのか、と主イエスは畳み掛けるように繰り返している。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ四・4)と主イエスは言われた。

人間が口から食べる食べ物をいくら食べても、本当の心の満たしは得られない。神の言葉こそが本当のパンであり人を満たす。この世の社会では経済が一番大事と言われる。しかし、聖書は人は経済だけでは生きられない、神の真実や愛がなければ、人間の言葉だけでは、生きてはいけないのだと示している。

本当の神の言葉を食べるために、妨げとなるのが、ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種であると主イエスは言われた。パン種というのは、酵母であり、パンを膨らすもとになる。初めは目には見えないが、だんだんと膨らんでくる。ファリサイ派のパン種とは、目に見えることを第一とする考えであり、そこから偽善が生まれる。主イエスのことばを聞いて幼な子のように信じるのではなく、奇跡を示せば信じると称してイエスを陥れようとする精神が隠れていた。

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ十・15

 幼子のように、乳児が母親をまっすぐに見るように、主イエスが神であると信じる。その心がよいパン種である。ファリサイ派のパン種はまた、人から称賛されることを求め外側ばかりを取り繕う心である。それは、以下の聖書のことばからもわかる。

「また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」(マタイ二十三・78

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。」(マタイ二十三・23

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」(マタイ二十三・25

このようなパン種は誰の心にもある。しかし、そのままにしておくとそれは膨らんでくる。故に、神のよきパン種が必要なのである。

ヘロデのパン種とは何か。それは武力、権力をもって物事を解決しようとする心である。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。」(使徒言行録十二・14

このように、よくないパン種がふくらんでくるということを、理解しないのか、わからないのか、と主イエスは繰り返して言っているのである。

 真実なよきパン種は、神の言葉である。神の言葉そのものであるイエスである。イエスこそが、この悪いパン種が膨らんでくるのを防ぐことができる。この主イエスを幼子のような素直な心で信じるとき、悪いパン種から守られ、わたしたちの内によきパン種が膨らんでいくのである。

 

リストボタン○十一月十六日 主日礼拝 ガラテヤ書四章1520

 「キリストが内に生まれるまで」

 聖書的な世界では、神の言葉を持つことが、人間を尊重することの中心にある。本当の神の言葉はイエスさまそのものであるからだ。パウロは神の言葉を持っていた。

 ガラテヤの人たちは、神の言葉を非常に重要なものと思いパウロを尊重していた。だが、割礼を受けていない人は汚れている、などと言う、本当の福音でないものから悪い影響をうけてしまった。信仰は、たえず正しく導かれなければ間違った方に移っていく。どこからが間違っているか。その基準はどこにあるか。人の意見や考えに依るのでなく、聖書をきちんと読むこと。そうすれば逸れてはいかない。神さまが、後の人をも正しく導くために、聖書という書かれた基準を残してくださった。たえず目を覚ましていなさい、とイエスさまは言われたが、聖書をきちんと学んで目を覚ましていないといつの間にか逸れていく。どこから離れたかわからなくなる。

 18節の、「善意」から熱心に慕われるのはよいことだ、というのは、「神の言葉を持っている」から熱心に…と置き換えられる。その人の中にある神の言葉が大切で、家柄や肩書で尊敬されるのではない。イエスさまが選んだ弟子の半数が漁師であった。そういう者に神の言葉を与えた。どんな者であれ、一ばん大切なのは、永遠のものを委ねられているかどうかである。委ねられた人は、死んだような人を生かすことができる。

 19節の「キリストがあなた方の内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」というのは、それが最終的な問題の解決につながるからである。迫害の中でも、その人の中にキリストが形づくられれば、どんな苦難も、死さえも乗り越えられる。キリストの持つ言葉の強さ、罪の赦し、そしてすべてを最善にしてくださること。こうしたことは深く、祈りに関わっている。

 ガラテヤ書2章20でパウロは「生きているのはわたしではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言い、「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ(エフェソ3章17)」と言っている。ヨハネ福音書15章4では、「わたしの内にとどまっていなさい」と。9節では「わたしの愛の内に居れ」と。イエスの愛の内に居ることが最終的な解決である。そのために祈りを深め、キリストの形が見えるための、パウロたちがしたような、痛みを伴う産みの苦しみの祈りが必要となる。

 

リストボタン○十一月十八日()海陽集会 ダニエル書5

 不可解で奇妙なことを書いてあるが、現代のわたしたちに何を言おうとしているのか。大宴会のとき、権力者の享楽のために、エルサレムから奪った神殿のものを使った。神を否定し侮辱する。本当の人間のあり方から遠く離れたような只中に現れた文字を書く指。神の裁きなど誰も考えもしないような只中で、人々は驚愕し、大混乱に陥った。 

 そのとき王妃が「神の霊を宿している人がいる」と、ダニエルを名指した。深い霊的な世界を解き明かすのは神の霊を宿しているからで、人間の能力、学問、経験などではない。

 ヨハネ福音書1426節に「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」とある。最も大切なことを聖霊が教える。神の霊は、新約の聖霊のことでもある。

 ダニエルは神の霊によってわかったことを王に話し、世界を支配しているのは神だということを悟らせた。厳しい時代ほど、何者が世界を支配しているかということが痛切な問題となる。個人的な問題では、事故や病気の苦しみなど。だがなぜこの苦しみが襲い掛かってくるのか、何者が起こしたのかという問いが起こる。

 書かれた時はアンティオコス・エピファネスによる厳しい迫害の時。前の王が警告を受けていたにもかかわらず、祭具を遊びに使い、神を畏れなかった。ダニエルは、そのことへの大きな裁きだと告げた。メネ、メネ、テケルとは、「数えられ、量られる」との意味。時が来れば悪を滅ぼすことを言っている。神のご支配の問題は、個人だけでなく、宇宙にまで至る。詩篇2編には神に逆らう者は必ず裁かれることが書かれ、神の支配の重要さが言われている。

 悪に対する支配権を持っている神。マタイ10章7には弟子たちに「悪霊を追い出す力」を与えたとある。悪の霊の更に上に立ち、支配する神さまの力。政治や社会も量られている。だが聖書を見ないとわからない。ダニエル書に言われている支配権の問題は聖書の重要な問題である。

 

リストボタン○十一月十九日 水曜集会 箴言8章2236

 知恵(英知)が、聖霊と同じようなものとして書かれている。英知とは、何が価値があるかという、真理を見抜く力である。

 英知()を愛する人は、英知もその人を愛し、それを探し求める人はそれを見いだす。英知を愛する人は嗣業を受け継ぐ。嗣業とは、最初は土地のことであったが、次第に霊的な賜物をも意味するようになっていった。神から与えられたものであり、それは次々と受け継いでいくこと。それは永遠的に価値のあるもの。真理、それは永遠に続く。

 永遠の昔からあった英知。神やキリストと同じように書かれている。英知は、神から直接来るものである。この世の学問、知識とは別のもの。ヨハネ福音書では「すべてのことを聖霊が教える」とある。英知の集まりがキリストで、新、旧約聖書もそのキリストに向けて書かれてある。わたしたちの生活も、キリストに向けてするのが一番よいことになる。

 35節に「わたし(キリスト)を見いだす者は命を見いだす」とあり、これはキリストが言われたことと同じである。聖書が永遠のベストセラーであるのは、人間の考えた知識、思想などとは全く違ったものが書かれていることがわかったからである。聖書は英知の結晶だ。深い真理を受け取るほど本当の命を得る。否定すれば魂が壊れていく。英知は、求めれば与えられる。 

 

リストボタン◯十一月二十四日 北島集会 マラキ書三章1924

 マラキ書は、旧約の最後に置かれているがそれも意味あってのことである。 アブラハムの時代にはなかった「主の日」は、啓示により示された。主の日を見つめ、待ち望むことは、新約聖書にも続いている。新約最後のヨハネの黙示録22章7に「見よ、わたしはすぐに来る」と、その日が来るのを告げており、新、旧訳共通のものが流れている。その日が来る、という確信は、直接神から与えられ、背後に神の全能を信じることが必要となる。

 19節の「高慢」は、神など居ないという悪が入り込んだ状態で、悪の霊が入り込むほど高慢になり、裁きなど無いと思い、人の命を奪ってもいいと思うようになる。キリスト者も罪を犯すが、それを知り、立ち返るために赦しをいただきながら義とされていく。信じないものは既に裁かれている(ヨハネ福音書)。真実な愛や永遠、清いものが無いのなら、どうしてほんとうの深い喜びが生まれるだろうか。その日には毒麦も焼かれる。根元的な悪そのものも滅ぼされる。これに勝ることはない。

 詩篇第一篇には、神に逆らう者はもみ殻のように吹き飛ばされる、と、悪の末路を巻頭言として言っている。また主を畏れ敬い、信じることだけで「義の太陽が昇る(マラキ20節)」とある。そこに不滅の太陽が昇ってくる、と。学問とは別個のところでわかる。信じるだけで、確かに昇ってくる。マラキが持っていた確信の本質が、わたしたちも芽生えてくる。クリスチャンはこの確信を与えられている者である。

 義の太陽とは何か。イザヤ書60章にも「あなたを照らす光(義の太陽)は昇り」とあり、新約では、キリストが義の太陽であることが示されている。どんなに闇の中でも、その太陽を見つめていたらよろこびが湧き、悪の力を踏みつけることができる。

 日常的にわたしたちは、心を狭くしていくものに囲まれている。だが過去から未来に来る主の日まで、神の言葉の雄大な流れが貫いている。わたしたちもそれをみつめ、聖書の世界に浸って視野を大きく広げていたい。 

 

リストボタン○十一月二十三日(日)つゆくさ集会 Ⅰヨハネ2の28~3の10

 御子(キリスト)の内にとどまれ、と最初にある。ヨハネ福音書のぶどうの木のたとえにもあるが、それがここにも出てきている。訳語は異なっても繰り返し言われているのは、それこそが究極的な幸いであるからだ。

 聖書の神さまは全能の神で、その方がわたしたちの内にとどまってくださる。その方が語りかけ、力をくださるから、あらゆることに打ち勝つことができる。だが、今、自分の心に何があるか。まず自分、また他の人間、人間の言葉などいろいろなものがある。だが神の言葉がたえずあれば、たえずうながされて、キリストの内にあろうとする。わたしたちの内にいつもキリストがあるならば、わたしたちもキリストのうちにあるという相互関係がある。そして死んだ後も、神のみ手の中に、永遠にとどまることになる。

 万物を創造されたその神の子供だとまで言って下さる神さま。それほど神さまの愛は大きい。死後も、キリストの本質が与えられることが約束されている。フィリピ321では「わたしたちの本国は天にあり~わたしたちの体をご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」と言われている。最終的にはどうなるのか、目的地はどこにあるのか。このことは重要な問題である。それはいつもみ言葉がとどまっており、キリストの内にあることとつながっている。ここに死んだ後にも希望がある。

 神の子供として将来が約束されているのだから、キリストから罪を清め、悪の力を排除していただき、神の子供であり続けることを今のわたしたちも覚えていきたい。

 

リストボタン〇十一月二八日 スカイプ集会 申命記30章「主を愛し、その声を聞く」(参加者20:徳島、神奈川、千葉、東京、福井、埼玉、福岡、オーストラリア)

  この箇所は、いかに神様がその民を導かれてきたか情熱的に語りかけており、神様の我々に対する熱い思いが現れている。

  心を尽くし、魂を尽くして、御声に聞き従う。英語では with all your heart.であるが、日本語訳だけが「全ての」という言葉を使っていない。心を尽くすというのはただ一生懸命なのでなく、心、魂の全ての精神作用をもって神様に聞くということである。どんな遠いところに追いやられていても、必ず連れ戻すとあり、神様からはるかな遠いところまで行ってしまったとしても、全精神を持ってみ声に聞こうとする態度があれば、十字架上の強盗のように連れ戻していただけるのである。30章4節はマタイ福音書2431節にも引用されており、選ばれた人たちは四方から呼び集めるられる。6節「心を尽くし、魂を尽くし」ということと「主を愛す」ことは10節、16節、20節にも繰り返されている。単に信じるというのではなく、主に聞こうとする態度が重要である。復活や十字架を信じていると言いながら、イエス様のみ声を聞こうとせず、習慣的に言っているだけということも起こりえる。それでは形式的な宗教になってしまう。マタイ223738節で最も大切な掟として、イエス様はある意味意外とも思われるようなこの個所を用いて答えた。生きている感情を神様に注いでいるかが重要である。それと同時に「聞く」という言葉が繰り返されている。主を愛する、主に聞くという重要なみ言葉は、高度な知識や経験、血筋も関係ない。特別な人でなければ分からない事でもない。それはすぐ近くにあり、そこに祝福がある。空を見れば、その青さや高さから神様のことが分かる。それが神様を愛することになる。理性的に、どこから見ても神様を愛することができるようになっている。11節から14節をパウロがローマ信徒10章6~8節で引用している。口でイエスは主であると言い、イエス様を復活させたというくらい神様は万能だと信じれば救われる。ローマ信徒4章24節にも同じような記述がある。神の全能性を信じることで義とされる。このように救いの道、祝福の道は決して遠くない。30章6節。「心に割礼をほどこす」とは霊によってあたらしく生まれ、イエス様の内に留まり、イエス様に留まっていただいている状態である。ローマ書10章、新共同訳のタイトルは「万人の救い」になっているが、12節を見れば分かるように、「主の名を呼び求める者は」誰でも救われるといわれているのであって、悔い改めをせず、意図的に悪を行い続けているようなものまでもが救われるなどとはいわれていない。

 

 リストボタン○一一 月二五日(火)移動夕拝 いのちのさと 申命記一八章9~22 15名 (内スカイプ3名)

 古代には、息子や娘を偶像に捧げる残酷な宗教があった。アブラハムも一人息子のイサクを捧げなさいと神に言われた。アブラハムの信仰は最も大事なモノ(イサク)を神に捧げようとすると不思議な所で備えられた。(アドナイ・エレ)これは新約に続く意味がある。古代宗教では一番大事なモノを殺して捧げると神が聞いて下さるという信仰があった。昔日本でも人柱という風習があった。このように愛とは正反対の風習が行われていた。宗教的なものは間違うと残酷なものとなる。霊媒、口寄せという死んだ者に聞く信仰が今もあるが、これは本当の神との交わりを遮断する。悪霊的なものと一切関わってはならない。死者と関わりを持とうとするのは本当の信仰とは関係ない。キリストが言われたように「死者の事は死者に任せる。」キリスト教は生きている人こそ目的である。しかし、残念なことに、日本では死んだ人に手を合わせたり、花やご飯を上げないとたたってくると思っている人が非常に多い。キリスト教では死者を神々のように拝むのでなく、記念をする。それによってその召された人の生き方を振り返り、神の導きを願う心を新たにし、御国のために生きようとする心を強められ、また、故人を思い出して天でまた会える希望を新たにする。

 預言者は神の言葉を預かる人。神の聖さに比べると人間は汚れ果てているので神を見たら殺されると思っていた。そこで、神の言葉を授ける預言者が立てられた。

 ここに、「これが神の言葉であるということが、どうしたら分かるか」と書かれている。神の言葉を受けると必ず変わる。パウロも直ちに変わった。内なる世界が開かれ、実際に私達も変わり、周囲にも何らかの影響を及ぼす。旧約では神から直接語られる事はなかったが、新約では十字架で罪赦されたので直接語られ、聖霊が与えられる。イエスはみ言葉を語って人々に命を与えた。神の言葉は命の言葉になった。使徒5章19「この命の言葉をt残らず民衆に告げなさい」等。人間の言葉は命がなくはかなくすぐ消える。神の言葉は何が起ころうとも壊れない。本当の世界遺産はこの「命の言葉」である。

 

リストボタン〇12月9日(火) 海陽集会  9名(うち、スカイプ4 名)

 ダニエル書の6章の学び。ダニエルは、ライオンのいるところに入れられたが、神の助けによって その猛獣の口が閉じられたために、危害をうけなかった。

 これは、現代の私たちにも、さまざまの暗示がなされる箇所である。信仰を持っていても、あやうく悪の魔手によって滅ぼされそうになることがある。しかし、そのような危険な状況にあって、神に信頼を固く持ち続けるときには、主がその闇の力が働かないようにとどめてくださるということである。主がそのようにしてくださらなかったら、私たちは信仰を与えられていても、その後のさまざまのサタンからの誘惑、試み、あるいは試練によって、悪の力に食われてしまっていたことだろう。

☆徳島の主日礼拝にも何度か参加したことのある中田 恵さんが、海陽集会の数度宅の近くに実家があるとのことで初めて参加されました。 


リストボタンお知らせ

 

12月の神戸、大阪府高槻市での集会

・阪神エクレシア…1214日(日)午前10時~12時。神戸市元町駅近くの兵庫県私学会館。問い合わせ  

 

・高槻市での集会…1214日(日)午後2時~4時

リストボタン〇クリスマス特別集会  1221日(日)午前10時~午後2時。会費は、昼食の弁当代金として500円。弁当を申込せず、自分で持参の方は、不要です。

 なお、いつもの主日礼拝より、30分はやい開会ですので、ご注意ください。参加は自由ですが、弁当の申込が必要なかたは、1218日までに申込が必要です。 参加申込は、 メール、電話などでしてください。(貝出姉宛て)

 

リストボタン〇キャロリング  1224日(水)夜 6時半に集会場に集合。出発7時。参加希望者は、綱野宛てに問い合わせてください。

電話は、

 

〇「野の花」文集は1月発行予定です。「いのちの水」誌への協力費をお送り下さっている方々などには、1部を「いのちの水」誌に同封してお送りしますが、複数部数を希望する方は、 希望部数を吉村孝雄までメールなどでお知らせください。 (1部200円です。)


 

リストボタン12月の移動夕拝

1216日(火)午後7時30分~9時。中川宅。スカイプ集会を兼ねていますので、参加申込は、

 

12月の第4火曜日(23日)の夕拝は休会です。(キャロリングが、24日にあるからです。)

 

〇元旦礼拝 1月1日午前6時30分~8時。徳島聖書キリスト集会場

 

〇高松集会…1月は第一日曜日でなく、第2日曜日の11日に行います。

 

〇博愛記念病院に入院しておられるF・Mさんは、苦しいこと、痛みとかがひどいときがありますが、それが和らいでかなり普通に話せる時もあります。文語訳聖書の有名な部分(詩篇23など)、昔からの愛唱の讃美歌(主われを愛す、慈しみ深き、主よ御手もて、十字架の血に…等々)を歌うとそれに合わせて声を少しだして歌おうとされます。み言葉や讃美歌は魂に深く刻まれていることを感じます。 


リストボタン集会だより2014.11  NO.412

 

 いかに幸いなことか、そむきを赦され、

罪を覆っていただいた者は。(詩篇321

 

リストボタン〇十月二日(木)いのちのさと集会  詩編一一九5764

 「主はわたしに与えられた分。」(57節)この「分」と言うのは、もともとは神から与えられた土地の事であったが、ここでは万物を造られた神が私に与えられた分であると言われている。これは途方もない大きな事である。多くの人にとっては大きすぎて頭にも心にも入らないほどであろう。人間は神に比べて無限に小さく罪深い者なのに「神を分」として下さる。新約では「私達は御国を受け継ぐ」とあり神ご自身を私達に下さる。み国は分けても無くならないので、争いがない。

 ローマ書八の17に「もし子供であれば相続人です。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」とありパウロにはイエスに於いてこの相続という事を深く啓示された。

 次ぎに「み言葉を守る事を約束します」とある。神に逆らう者が私をからめとって、そのような困難な時、試練の時、誘惑の時もあなたのみ言葉を忘れない。夜中に目が覚めても思い出して感謝を捧げると書かれている。

 この区切りでは最後に「この世界はあなたの愛、慈しみで満ちている」とあるが、昔も今も飢饉、天災、事故、戦争がいっぱいあるのに、全地は慈しみで満ちていると書かれている。イエスの聖霊は風のようにどこにでも吹いている。「野の花を見なさい」「空の鳥を見なさい」「雀は神の許しなくば一羽も地に落ちない。」神は愛である。聖霊が与えられれば、この世は愛で満ちているのが分かる。苦難や困難の中にも神の愛が満ちている。目で見える悲劇的な上にも神の愛を実感したい。こうした事を信じて歩めば一層神の国が与えられる事を期待できる。

 

リストボタン○ 十月六日(月)小羊集会 使徒言行録 五・3342

 大祭司によって捕えられたはずのペテロたちは主の導きで牢から出た。そして、強く禁止されていたにも関わらず、はっきりと主イエスについて証言していた。このことを聞いた指導者たちは激しく怒り、弟子たちを殺そうとした。宗教的な熱心は、キリストの心を持たないと、このように憎しみや殺意にさえなっていく。キリストの御心は敵を愛し、敵のために祈るということである。キリストに内に住んでいただかなければ、そこには争いやねたみが生じてくる。

 しかし、同じユダヤ人であっても冷静さの賜を与えられていた人もいた。ファリサイ派とは形式的で偽善的な人が多い宗派であったがそのファリサイ派の中で、ガマリエルと言う冷静な人がいた。そして、彼は議員たちに、以前、民衆を率いて立ち上がったような人が、跡形もなく滅びていった例を示した。そして、もし、弟子たちの行動が人間から出たものであれば、このように自滅する。神から出たのであれば、誰も滅ぼすことはできない、と言った。ガマリエルは神のご計画、正義の力を信じていた。神からでたことであれば、どんなことがあっても滅びない。このことを、たとえ殺されても信じていった人たちによってキリスト教は伝わってきた。真理は滅びない。神と結びついている人であれば滅ぼすことはできない。このことは聖書全体に流れている。真実の神を信じなければ、最終的には滅びしかない。それは詩篇のはじめにも記されている。

 「いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。」(詩一・16

また主イエスは毒麦のたとえを話された。

  「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ十三・2930) 

 どんなに毒麦のような心であっても、福音を聞いて信じたら、よき霊を受けよい麦になる。最終的には悪そのものが滅ぼされる。

神からでていないものは時がきたら滅ぼされるのである。

 ガマリエルは神の力を信じていた。しかし、主イエスの復活を信じたとは言っていない。ただ、神が正しく裁かれるから、関わらないようにと言った。 そして、民衆はそれに従った。弟子たちの命は守られた。神は必要な時に、意外な人を起こして用いられる。

「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」とある。人は何を喜ぶか。食べたり飲んだりする喜びがあり、芸術などの喜びもある。しかし、それはお金や健康がなければできない。神を知り神を喜ぶということは、どんな人にも与えられる喜びである。そこから進んで、聖霊を多く受けたとき、イエスの名のために少しでも辱めを受けことを喜び、イエスのために苦しむことを喜ぶことができるようになることが示されている。

 そして、弟子たちは、神殿の境内や家で福音を伝えて行った。信じる心があれば、福音を伝えることができる、聖霊がすべてを教えるからである。

リストボタン○ 十月十日(金) 天宝堂集会  フィリピ書四・1023

 パウロの旅には常に困難が付きまとっていた。盗難や病気などもあった。食べ物の保障もない。危険な広大な距離を歩いて行った。そのような困難な宣教の旅をするパウロに対して、フィリピの信徒たちが食料などの必要物資の援助をした。それは、福音宣教をともに支えようという心からだった。パウロを支えることによって、ともに福音宣教をする、その心をパウロは喜んだ。

「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。」(ロマ書十六・34

 パウロは自分の力だけで福音の伝道ができたのではないことを忘れなかった。キリスト信徒は共同体として活動し、支え合って福音がひろまっていった。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(ロマ書十六・13)と名前を挙げて感謝を記している。福音伝道に関して、女性が大きな働きをしている場合があることがこのように記されている。そして援助する者も、福音、真理をなんとかして伝えたいという思いから行っていた。

「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあるが、これは経験だけではできない。主イエスの力によって、初めて与えられることである。主によって受け入れるときには、困難も受け入れることができる。パウロは、殺されそうになったが、そのようなことをも耐える強靭な心を、キリストによって与えられた。

三度も主イエスを否定したペテロも、主イエスの力によって新しい力を与えられた。

 この世で生きる限り、人間はさまざまな問題を負っている。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」この確信があれば、何があっても進んでいくことができる。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」(詩篇二十三・14)このように、情況に左右されない確信が神によって与えられるのである。

「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」とある。迫害の時代には、迫害を受けているキリスト者を援助することだけでも、危険があった。そのような中でキリストが伝えらたのは、個々の人が苦しみ助け合いながら支え合ってきたからである。そしてそれは現代まで続いている。わたしたちも、主にある助けを覚えつつ、どのような困難にも、強めてくださる主イエスによって、すべてが可能である、このことを信じていきたい。

 

リストボタン○十月十二日(日)主日礼拝 ガラテヤ書三・1529

                32名(内スカイプ1名)

 アブラハムと子孫に対して約束が告げられた、とある。これは、創世記に記されている内容を指す。

「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(創世記十二・7

「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。』」(創世記十三・1415

 子孫とは多くの人を指すものである。しかし、ここでは原語は単数で記されている。パウロはこの子孫がキリストを指し示すということを啓示された。そして、キリストに結ばれている人、キリストを信じるものにも、その祝福が与えられることがここでは書かれている。それが、キリストによってキリストとひとつにされるなら、相続人である、と言われていることである。

 「すべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」ということは、「人間の力では律法を守ることはできない」ということである。自分がいかに、罪の中にあるかが知らされるために、律法があたえられた。厳しい律法が人をキリストへと連れていく養育係であった。だから、キリストと一つになれば、その完全な祝福に入れていただけるのである。律法を守ることではなく、ただ信仰によって義とされる。正しいことは何もないのに、キリストを信じるとき、罪赦され、それでいいのだとされる。キリストによって、罪が取り去られたので、もう、養育係はいらないのである。何かをすべきである、してはいけない、という、規定や決まり、それだけでは祝福はない。

 人間には罪や弱さがあり、どうしても心の中で神以外のものを大切に考えることがおこってしまう。すべて律法を守らないといけないといわれたら、逃げ道はない。そこにキリストが道を開いてくださった。

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」とある。キリストに結ばれる洗礼とは何か。主イエスは「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」といわれた。聖霊を受ける。そのときキリストと結ばれ、キリストを着ることができるようになる。霊的な衣服のように、キリストを着たら変わる。キリストのものになるのである。

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ書十三・12

 そして、キリストを着て変えられた者は、みんな、ひとつになる。そこには差別はない。男も女も奴隷も権力者も、また、病気の人も健康な人も、すべて同じになる。ひとつにさせるキリストの絶大な力があることを示している。信じたらキリストが内に来てくださり、ひとつとされていることがわかるようになる。アブラハムの子孫にあたえられる祝福、つまりキリストにあたえられる祝福がわたしたちにも与えられる。キリストによる神の国を相続されるのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ十二・32

 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ書一・1113

 この約束がきょうの箇所である。聖霊をうけると、相続されることがわかる。聖霊で証印を与えられたとあり確信が与えられる。信じるだけで与えられる、相続、つまり神の栄光、祝福がどれほど大きいかを知れるように、ということがパウロの願いだった。そのような相続が信じる者に与えられているのである。

 

リストボタン○十月十五日(月)水曜集会 箴言81221

 英知とはどういうことか。主を畏れることは悪を憎むこと。主を恐れるとは、神さまの正義、万能など、大きな力を敬うこと。それは当然、悪を憎むということになる。神さまは悪と反対側にある。日本の神々は正義でも何でもない。正義を愛するということには関係がない。

 英知とは、何が価値があるか、価値がないかを見分ける力である。それは学問でも身につかない。英知は神さまが持っているからだ。まず人間の側からその英知を求める。求めなさい、そうすれば与えられる。ヨハネ福音書15章4で、イエスさまが「わが内にとどまれ」と言われた。愛することはとどまることである。

 18節の慈善とは「セダーカー」で、正義とういこと。どんな金よりもまさる「富」は、普通の繁栄や名誉を言っているのでなく、神さまからいただく名誉のことである。

 21節の「嗣業」とは、神さまから与えられた受け継いでいくもの。「わたしは彼らの倉を満たす」とは、神を愛し、英知を愛して神の国を受け継ぐ者を、霊的に満たすことである。新約でも「神の国を受け継ぐ」ことが言われている。神の国とは、神さまの持っている一番よいものを受け継ぐことだ。

 テストの成績だけを求めるのは、本当の価値ではない。価値とは、神の前に真実な心、正しいことに向かう勇気。愛、清い心。

 学問はそれらを補足するものだ。目に見えない心の倉に、永遠の命を頂ければ、豊かなものでいっぱいになったことになる。

 聖書は、いつも変わることのない基準を教えている。

*)集会後、「いのちの水」誌の発送準備を手伝いました。

 

リストボタン○十月十五日(水)北島夕拝 ルカ二十四・1334

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ二十四・27

 旧約聖書は、キリスト・イエスを指し示している。そこには長い、神様の御計画があった。世界も歴史も神様の御計画通りに導かれている。旧約聖書全体が、キリストを指し示しているのは創世記のはじめから記されている。それは闇の中に光があったという記述である。この光が主イエスを示しているのである。また、荒地に水が湧く記述も、主イエスを信じる者に与えられる命の水を示している。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ五・39)旧約聖書はイエスを証しており、そしてわたしたちの生きる目的は、イエスを証しし、賛美するためなのである。

ここで、二人の弟子が歩いていると、復活の主が、ともに歩きはじめたとある。二人はそれが主イエスだとはわからなかった。目がさえぎられていたのである。わたしたちの目がさえぎられているとき、主が共におられることはわからない。二人三人集まっているところに、主イエスもともにおられるとある。主の名によって集まっているとき、主は共におられるのである。

 この二人の弟子たちに、主イエスはすぐには「わたしがイエスである」と言わなかった。目指す村に近づいたが、まだ、イエスだとは知らされなかった。主イエスはそのまま過ぎ去って行こうとされた。もし、弟子たちが、イエスをひきとめなかったら、目は閉ざされたままであった。主イエスを無理にひきとめたから目が開かれた。求めなさい、そうすれば与えられる、という姿勢が示されている。そのとき、主イエスによって命のパンが与えられる。どこまでも、求めつづけることが大事である。

 

リストボタン○十月十九日(日)主日礼拝 ガラテヤ書四・1~7 

                33名(内スカイプ3名) 

 キリスト者は、地上で生かされている間、主とともにあり心に安らぎを与えられる。しかしそれだけでは終わらない。神はアブラハムに約束の地を受け継がせると言ってくださった。それは、新約の時代になり主イエスによって、信じる者に神の国を受け継がせる、ということにつながった。

 キリストを信じる者は神の国を相続する。たとえ、目に見える国が滅ぼされたとしても、祖国は天にある。肉体の命も、はかないものであるが、信じるだけで、永遠の命が与えられている。

 その相続は大人になっていなければできないとある。つまり、キリストを信じるとこができなければ与えられないということである。パウロも、学問的には優れていたが、キリストを知るまでは、霊的には子供であった。主イエスに語りかけられて、はじめて、この世を支配するものがキリストであり神であると知ることができたのである。神の時があり。神の時が満ちて目が開かれる。そのとき、無限に大きな天の神、世界を創造する神を「父」と呼ぶことができる。「天のお父様」と呼ぶことのできる霊を送ってくださるからである。

「アッバ、父よ」とある。アッバとはアラム語で「お父さん」ということである。そして、神に向って「お父様」と叫ぶことのできる霊をわたしたちの心に送ってくださった、とある。この「叫ぶ」とは、大声で叫ぶという意味合いがある。それは、以下のところに使われている言葉である。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・37)主イエスが全人類に向かって、大声で叫んだ、この叫びの声ほどに、わたしたちに「アッバ、父よ」と叫ぶ霊が与えられている。神を「お父様」と言えるということが、聖霊を与えられている証しなのである。

 「同様に、(聖)霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ八・26

 聖霊がうめきながら助けてくださる。だからわたしたちを最善に導いてくださるのである。

「相続」とは何を相続させてくださるか。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ一・1113

 聖霊が与えられたら、相続、つまり神の国を受け継ぐことができるということがわかる。たとえ、命が短くても、病気でも、ただ信じるだけで、絶大な神の国の遺産を与えられる。この世のものがなくなっても、はるかに大いなるものが与えられていることを知ることができる。わたしたちは聖霊を求め続けていくことが大切である。 


リストボタン○十月二十七日(月) 北島集会 マラキ書三章13~(スカイプによる)

「 神に逆らう者」とは、「悪人」と訳される言葉。新共同訳だけかこのように訳している。真実に背を向ける。それは悪である。

 神を信じる民族でありながら、神を信じるのは空しいと言う。神を信じても、何もしてくれない。不幸が続くと、祈る気持ちにもなれないということが起こりうる。その結果、神に背を向ける。

 だがそれはいちばん高慢なものである。わたしたちは、完全な、一番よき者に造られ、導かれているにもかかわらず、へりくだりもせず、自分の能力、努力でできていると思ってしまうと、本当の傲慢ということになる。嘘を言っても罰などないではないか、というのが一般の考えだ。

 だが、主を敬うものたちが語り合うことを神さまは、耳を傾けて聴かれている。ここには書かれていないが、悲しみ苦しみ、謎のようなことが起こっても、最終的には、神さまがすべてを益にされることなど、信仰に基づくことの語り合いである。

 その益の一つに、心の平安がある。これは大きな益である。どんなことが起こっても、神さまが、最終的には悪を裁かれ、よきものを完全にされるということが確信できれば心の平安が与えられる。イエス様はこの世を去る時に、主の平和(平安)を与えると約束された。目に見えないから、人々は、そんなものに何の益があろうかという。だが神さまの導きを信じていれば、何らかの主の平安がある。問題を抱えていても、主の平安を与えられればそれが最大の益である。

 神を畏れ敬いつつ語り合う人たちのことを、神さまは記録されている。その人たちに主の平和、み言葉、聖霊を与えられる。ー見ないで信じるものは幸いだー。信じれば、啓示を受けた人と同じように、力が与えられていく。

 耳を傾けて聴いてくださる神さまが、黙って心の叫びを聞いてくださる、主こそ最大のカウンセラーである。その神さまの声を聞こうとすると、確かに聞こえる。聖書からの語りかけを聴く。

 悪は裁かれる。聖霊を汚す者は赦されないとイエスさまは言われた。悪しきことを考えていると平安がない。この世は栄誉やお金など、数に換算できるものが宝とされるが、主を畏れ敬うものは、たとえ一人でも、世から見捨てられたような者でも、神の宝としてくださる。詩篇17篇8には、ー瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してくださいーとあり、瞳という敏感な部分と、翼の陰の宝という大事なものとして守ってくださる。それは神さまの深い愛だ。

 聖書が示す神さまは、どのように孤独であっても、いかなる時代であっても、わたしたちが素朴に、幼子のように神さまを仰ぐだけで宝としてくださる。

 


リストボタン〇十月二十八日(火)移動夕拝 熊井宅 ルカ十三章3135  十四名 内スカイプ四名      「主イエスのわざとその愛」

「領主ヘロデがあなた(イエス)を殺そうとしている。」とイエスに言ったがこの場面がどんな厳しい状況か考えて読む。イエスが生まれた時もヘロデ王(領主へロデとは別人)が二才以下の男の子を皆殺した。生まれた時から強い闇の力のただ中を歩まれた。その中でイエスは「今日も明日も…」と言われた。神の力はどんな闇の力があっても着々と進んでいる。酷い迫害が今もある。歴史の中では常に本当の真理を無き者にする闇の力がある。しかし、イエスが言われた「今日も明日も…」と神の業は続いている。それは今も続いており自分と関係ないこととして読んではいけない。

 31節で、イエスは領主に「狐」と言った。私達は殺意とか脅迫が迫ってくると追い詰められるがイエスは全く恐れていない。そしてもう一度「今日も明日もその次の日も自分の道を進む」と強調された。イエスは悪の霊を追い出した。悪霊は人間の霊的なもの、真実なものを滅ぼそうとする。人間の心の中に入り込む暗い思いである。イエスが特別に選んだ弟子に与えたのは悪の霊を追い出す力でこれは重要な事である。人間は目に見えない力に苦しむ。悪の霊を追い出して貰った人は広い意味の病気が癒される。イエスがここで「三日目にすべてを終える」と言われたが、これは復活して甦る事である。イエスは今日も明日も神の業を続け、死んでも三日目に甦えられた。闇の力、悪の力があるが、そのただ中でイエスはめんどりがヒナを集めるように翼の下に集めて下さった。私達は弱くても倒れてもイエスの大きな羽の下に集められる。このイエスの愛の力を信じ続けていく事が大切である。


リストボタン〇スカイプ集会  十月三十日  イザヤ書261219節「光の露」(参加者22名。徳島、東京、神奈川、埼玉、千葉、福井、三重、岡山、福岡、オーストラリアから参加者)

 この個所は、信頼と賛美と祈りとの3つで構成されている。3節に信頼が現わされている。神様に対する思いが堅固な人にはシャロームが与えられる。これは戦争がないという社会的平和でなく、全存在の魂の平安のことである。イエス様の最後の食事の時にも、「私の平和を与える」と言われたように、シャロームは特別なものである。タイトルの「勝利の歌」にあるように、復活が祈られており、イエス様の誕生から七百数十年も昔からこのようなことが究極的に現わされていた。神様に従う者、正しい者の道はまっすぐ、平らである。実際には困難があるが、不思議とまっすぐであるかのように翼に乗せて運んでくださる。その中で、あなたの御名だけを唱えるとは、口先でなく、絶えず心に深く思い起こすことである。神に逆らう者は最終的に滅ぼされてしまうが、絶えず御名を呼ぶものは増やされていく。苦難が起こると祈りもだえ苦しみ、皆が産みの苦しみをした。しかしそのようにしても空しい風(ルーアハ)を生むようなものだった。人間の力でどんなに努力をしても本当に善いものを生み出せないことが多い。今日では大学教育を受けた人が多いが、それが本当に善いものを生み出せるだろうか。戦争ではとてつもない人々を殺したり傷つけたり破壊した。そういうところから憲法九条が与えられたのに、今風前のともしびである。あれだけの苦しみは何だったのか。まるで風を生むようだと、どこか空しい気持ちをもたらされる。そのような人間の状態のただなかで、死んだ者が生きるようになり、立ち上がるとある。新共同訳では「立ち上がりますように」と祈願文になっているが、shallが使われており、本来は予定・必然の意味から「立ち上がる」と訳されることが多い。死んだような者も喜べ、光の露を降らせるとある。光の露とは、パレスチナのような乾燥地帯の上に降りる露である。夏には朝、水蒸気が冷やされて水となり、滴り落ちるほどになる。乾燥地帯においては4月から12月にはまったく雨が降らないこともあり、露は作物にとって非常に重要な要素である。露は雨のようには目に見えないので、天から目に見えない形で降ってくると思われた。そのように人間の乾ききっているところに降りてきて、潤いを与える。しかもそれは光の露である。イエス様に従う者は命の水や光を得る。聖なる風はどこからきてどこに行くか分からないが、それが吹き付けた所では、生かされて光を感じることができる。圧迫支配の只中でも、この光の露はずっと降り続けてきた。それを受けた人はどこか輝いている。神の言葉を受けたら、その神の言葉が輝くのである。人間は風を生むが、そのただなかに命の露を送ってくださることを信じて、それが他の人々にも注がれるように祈ることができる。 


リストボタン○十一月二日() 主日礼拝 サムエル記(下)22章1~20

 ダビデ生涯の終わりの時。これまで、すべての敵の手から救いだされたことの感謝であり祈りである(詩篇18篇と同じ)。 

 5節以降のわかりにくい表現。神さまから何を示され、どのようなことを言おうとしているのか。

 2節の「主はわたしの岩」。神さまを岩とはあまり言わないが、これはこの人が経験したことである。悪や死が間近に迫り、その力に縛られて出られない。死の網が仕掛けられているからだ。そのことを5、6節でも畳みかけるように言っている。

 この表現は、死や病気、苦難にある人の状態を表わしている。非現実的なことでなく、今もわたしたちに起こりうることである。だが希望もなく、弱っていくのではなく、苦難の中から主を呼び求める(7節)。 主に叫ぶ、この叫びは神さまの耳に届くのだと、この人の深い経験であった。

 神の真理は今も変わらない。このように不動である神は岩だ。人間の心は常に揺れ動き、組織や集団も揺れ動き、自然も移り変わる。だが神にしっかり結びつき真理をはっきり持っていれば、その人も不滅のものとなる。

 叫びを聞いてくださった。その神の力はいかなるものか。どのように力が臨むのか。悪を焼き滅ぼす力が、ケルビム(天使)に乗り、時空を超えてどんな人の心にも行くとあるが、神は力そのものだ。モーセが、敵と海の間に挟まれ死の網に飲み込まれそうになった時にも、悪の力である海を分け、道を開かれた。滅びようとしている人でも全力で叫べば、神さまはすべての力で近づいてくださる。

 詩を作った人はこのことを霊的に実感した。神さまの力をみなが信じるようになってほしいとの願いがあった。十字架も復活も目には見えないが、信じる人はだんだんわかるようになる。信じることは、道のないところに、道を開くようなものである。

 神を見た、ということが記されている出エジプト19章9~には、濃い雲の中に居られ、語られる神秘の神、2410には、その足の下には青いサファイヤの敷石のようなものがあったと書かれている。このようにしか言葉では表わせないが、どんなに大きな力をもってわたしたちを助けに来てくださるか。

 その神さまが、高い天から引き上げてくださる(17)ということをまず信ずる必要がある。それがなければ、人は希望を失う。サタン的なものは確かに力があるが、それでもそこから救い出される。死んでも、そこで救い出される。狭いところに居れば、少しのことで動揺するが、霊的な広いところに導き出される。そこに「主の平安」がある。

                  (まとめと入力  K.K & E.I & H.N &  Y.N) 

 


リストボタンお知らせ

 

11月のスカイプ集会は、28日(金)の午後8時~9時30分です。

申込は、さん)まで。

 

〇今年の市民クリスマスは、12月4日(木)18時30分~20時30分です。あわぎんホール(郷土文化会館 )

 そのため、いのちのさと集会は、その次の週の木曜日1211日の午後7時30分からと変更となりました。

 

〇今年の徳島聖書キリスト集会での、クリスマス特別集会は

1221日午前10時~14時です。


集会だより2014.10   NO.411 

聖書(旧約)は、私(キリスト)について証しをするものだ。(ヨハネ5の39

 ○九月四日(月)小羊集会 使徒言行録五・1732

 主の天使が、パウロたちを牢から出して「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った                    (使徒言行録五・20

 この世には、言葉が氾濫している。悪意の言葉、人を傷つけるような言葉に満ちている。その言葉によって人は苦しむ。そしてまた、人は言葉で罪を犯す。学問を重ねても、知識だけでは人にいのちを与えることはない。

 神の言葉こそが命を与える言葉である。命の言葉を本当に受け取った人は、命をかけても守ろうとする。日本においても豊臣秀吉の時代から徳川幕府、そして明治になっても続いたの迫害の時代、この命の言葉を、たとえ殺されても守ってきた人たちがいた。それに対して幕府は鎖国までして、命の言葉を日本から断とうとした。語り伝えようとする力と、断とうとする力が常にあった。歴史を動かすほどの力のある神の言葉である。

 主イエスが命の言葉、そのものである。

 「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ六・6668

ペテロは主イエスが命の言葉を持っていることを知っていた。 

最初の殉教者ステファノは、自分を殺そうとする人たちを赦した。神のことばをしっかりと受けた人は、人を赦すことができる。神がその力を与えるからである。

 ペテロは大祭司という権力のある人に「主イエスの名によって教えてはいけないと言っていたではないか」と尋問された。それに対してペテロは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と答えた。主イエスが捕らえられたときには三回も「主イエスなど知らない」と言ったペテロが聖霊によってこれほどの力を与えられた。そして、ペテロは、主イエスは復活し、死に勝利したこと、それは、人間の罪を赦すためであったことを大祭司や民衆の前で証言した。

 復活と罪の赦しのために、主イエスは死なれ、それは聖霊が証ししている。このことを信じることができるということが、聖霊が働いたということである。主イエスこそが命の言葉そのものである。

 命の言葉を告げなさい、とある。わたしたちは、それぞれがおかれた場所において、この言葉を伝えていく使命がゆだねられている。神の言葉に力があり、神が用いてくださるからである。


○九月七日(日)主日礼拝 ガラテヤ書二・1116

         大人33名 子ども4名(内スカイプ4名)

 ユダヤ人でキリストを信じるようになったひとたちがペテロのところに来た。彼らは、律法を守らなければならない、そして律法に記されているので異邦人とは食事もしてはいけないと信じている人たちであった。ペテロは彼らをみたとき、異邦人と食事をしている場から尻込みしてしまった。

 ペテロは、神によって異邦人の上にも福音がもたらされることを啓示された人であった。そして神がペテロとコルネリウス(ローマの百人隊長)を出会わせた。コルネリウスは異邦人であったが主イエスを信じ、そして時間を決めて祈りをしていた。その祈りのさなかに御使いがあらわれ、ペテロと会うように語りかけられた。主はコルネリウスの信仰を見て、彼を用いられた。ペテロもまた、一日に何度か決められた時間に祈っていた。その祈りの時、異邦人の上にも福音がもたらされることを啓示された。神は祈りを見ておられる。自分の都合を優先するのではなく、まず決まった時間に祈りを捧げる。その時に神が語りかけられたことが記されている。祈りの時を神が用いられたのである。

 ペテロは、このように実際に異邦人にも福音が告げられ救われるということを特別に神から示されたのに、根強く心にしみこんでいた律法が、このとき思い起こされ、割礼を受けていない人と食事をすることができなくなった。バルナバなどの別の人たちにもそれが波及してしまった。

 パウロは、みんなのいる前で、はっきりとペテロの間違いを指摘した。ペテロはそれを受け入れ、その後、異邦人も救われる、ということを、この問題を取り扱った重要な会議の場で明言した。それによって、信じるだけで救われるという、根本的な原則が守られたのである。もし、パウロがこの間違いを指摘せず、ペテロが間違いを認めて正すことがなければ、この会議でペテロの明言が行われず、キリスト教はユダヤ教の一派のようになっていたかもしれない状況だった。

 何かをして救われるのではない。信じるだけで救われるのである。真理がすぐに間違って受け取られ、真理を揺るがそうとする人たちが常に起こってきた。人間の意見を重んじて、神様の御意志を軽んじてくる人が出てきたのである。

 誰もが、たえず祈り、御言葉を受けていかないと、道を間違っていく危険性がある。日々新しくされていないと、信仰はよどみ、真理から離れてしまう。そのためにも、共に祈りあい、支え合う必要がある。

九月十二日(金)天宝堂集会 マルコ八・113

 5千人にパンを配り、皆が満たされた奇跡の内容である。このパンの奇跡の内容がマルコ福音書に2回書かれている。常識で考えるとあり得ないと思われるような内容が、なぜ、繰り返し書かれているのか。聖書は特定の事象が書かれているのではなく、普遍的なことが書かれている。

 人間には目に見える食べ物を食べて生きている。しかし、霊的な食べ物はだれもが持ってはいない。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ六・34

 飼い主がいないと、羊は食べ物を求めてさまよう。同じように、人間は霊的な食べ物がなくて飢えてさまよっている状態である。そして、弟子たちは、わずかなものを主イエスに捧げた。小さな、とるに足りないものを主イエスが祝福されたとき、霊的な食べ物は、増えていき、人を満たす。そのことを象徴しているのである。

 「何も食べ物がない」とあるが、それは、霊的な食物に関しては、人間すべてに言えることである。貧しい人も、地位の高い人も同じように、霊的には飢えている。

 主イエスが、わずかなものを感謝をささげ、祝福をすると、人が満たされた。わたしたちも、神の言葉を他者に伝えるとき、祈りと感謝をもってすべきである。そのとき、神が働いてくださる。神のことばこそが無数の人を満たすのである。少しのものであっても今、与えられているものを捧げる。そこに神が働いてくださる。

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ四・4

神の言葉がないとき、人は迷い、飢える。神のことばによって満たされたとき、心は揺るがなくなり、迫害にも耐えうる思いが与えられる。神の言葉を信じて守る、その祝福が周りに広がっていく。 ファリサイ派の人が来て、主イエスに天からのしるし―かつてエリヤによってなされたような天から火が降るような大いなる奇跡を求めた。しかし、主イエスは小さな人、弱っている人に目を向け癒されるなど、つねにしるし(奇跡)を行なっておられたが、人々はそれらに目を留めなかったのである。

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。(マタイ十六・4)とある。 このヨナのしるしとは、ヨナは神の言葉を二ネべの町に伝えるように言われたが、拒んで逃げた。ヨナが船に乗った時、嵐に遭遇し、それはヨナが逃げたからだと示された。ヨナは自ら名乗り出て、身代わりとなって海に投げ込まれ、死んだも同然となったが、魚に飲まれて三日三晩すぎて、そこから助けられた、という内容である。このことは主イエスのことを指し示している。

 主イエスは身代わりとなって殺され、三日三晩過ぎてから復活した。ファリサイ派の人は、神の大いなる奇跡と見えるようなことを求めたが、主イエスによってなされたしるしは、そうしためざましい奇跡とはまったく異なっていた。 それは、人々から見捨てられ、あざけられ、鞭打たれた上に重罪人として身代わりになって十字架で処刑されるということと、だれもが信じなかった復活ということだった。


○九月二十二日(月) 北島集会 マラキ書3章 

  最初に「見よ、わたしは使者(マルアーク)を送る」とある。「わが使者」はマルアーキー(マラキ)となる。このように、マラキは人名でなく「わたしの使者(メッセンジャー)の意味である。。

 マタイ1110で、イエスさまが450年ほども前のここを引用して、洗礼者のヨハネはその預言が成就して現れたと言われた。こうした預言の成就をはっきりと見抜くのはイエスさまの特別な力である。

 預言書というのは何百年を超えて起こることを預言している。

 使者を送るというのは、イザヤ書40章3節「呼びかける声がある。荒野に道を備え~」にも関わっている。神さまは水のない荒野にも道を備える。死のような所にも道を備えるのである。

こうしたみ言葉によって、人間の意見や言葉に引き込まれることから守られる。マタイ3章1節~では「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイザヤによって言われているとおりである、と書いている。神さまは雄大なご計画を持ったお方であり、無限に大きな流れの中でそれを示される。

 1節の、「待望している主(アードーン)」と「万軍の主(ヤーウェー)」)とは原語がちがう。このままではわかりにくいが、突如メシアが来るということを万軍の主が言っており、その前に先駆けとして使者を送る、となっている。

 裁きの神とは、正義の神ということ。現代も裁きの神など居はしないという考えが至る所にある。だがそうではないのだ、と3節につながる。主が来られる、というのは新約の最後にも「マラナタ(主よ来たりませ)」とあるように、わたしたちの待望する主は必ず来る。これは旧約の中から約束されている。

 霊的な、おおいなる正義のお方が突然現れた。それがイエス キリストであった。主が来る、と絶えず言われ、使者もまた絶えず送り出されてきた。ある意味でクリスト者はメッセンジャーであり、遣わされた者である。それをいかに真剣に思っているかで、その人自身の豊かさも決まってくる。パウロは、自分はイエス キリストと、キリストを復活させた神から遣わされた者だとの意識を強く持っていた。わたしたちも神から選ばれ、遣わされた者として、どんな小さな道であっても、それを備えるべく選ばれたのだ。

 精錬する火としての神は、汚れたものを徹底して清める。本当のささげものをすることができるようにさせるためである。悔いた心、砕けた心を霊とまことをもってささげることが本当のささげものである。人間を超えたものに何かをささげようとする気持ち。それを持たなければ、人は知識や人からの評価など、何かを取り込もうとする。イエス キリストに変えられると、自然に何かをささげようとする。感謝のこころ、主の守りなどなど、まわりじゅう至る所に感謝をささげることができるようになっている。


〇9月26日 スカイプ集会 テモテへの手紙Ⅰ4章4~5節「神の言葉と祈りによって」(27:徳島、埼玉、千葉、三重、福岡、神奈川、東京、福井、福島、岡山、オーストラリアから参加)

  聖霊が次のように明確に告げている。終わりの時は近い。惑わす霊によって脱落する者がいる。長い間信仰を持っていて重要な立場にあった人でも、信仰から離れてしまうことがある。聖なる霊に敏感であったように、惑わす汚れた霊にも敏感であった。

 間違った本等から醸し出される霊に惑わされる。知的であろうがまじめであろうが、霊の働きが襲ってくる。イエス様にも悪の霊が働きかけてきた。試練を受けるためであった。しかしイエス様は御言葉によって退けられた。

 この世には悪の霊がいる。その霊の力を追い出すのが、キリストの重要な職務であった。イエス様が十二人の弟子を選んだ時、一番重要視していたのも汚れた霊(悪霊)を追い出す権威()を与える事であった。その後にあらゆる病気を癒された。 絶えず人間世界を苦しめているのは、背後の悪の霊であり、それがいろんなことを起こさせるため、それを追い出す力が与えられたのである。汚れた霊が親子、夫婦、教会、友人の中に入りこんで言ってはいけないことを言わせる。

 今私たちも気を付けていなければいけない。結婚にある種の汚れを伴うと考える人がいた。食事に関しても、レビ記に書いてあるような、旧約聖書のユダヤ教の考え方に引き戻そうとする考え方があった。

 しかしイエス様は、口から出るものが汚すのであると言われた。心が思うことが口から出る。口から入るものでは汚されない。新約では、男性と女性の結婚は、キリストと神を信じる者との関係に例えられるまで引き上げられている。

 そしてどんなものでも神様の愛を覚えて感謝して食べることができる。しかし本当の食べ物は神の言葉だ。神の言葉がなければ人は生きられず、感謝をして受け取るほど霊的な栄養になる。神の愛と真実が啓示されると全て良いものとなる。パウロが常に喜べ、常に祈れと言ったのは特別な意味がある。

 私たちが受ける敵意や中傷にも意味がある。私たちを鍛錬するものであり、自分の傲慢さに気づくためでもあり、また真剣に神様だけが分かって下さるということが分かるようになる為でもある。感謝して受けるならば、何一つ捨てることがない。 聖別する、とは、この世の様々なことから神のものとして分けて置かれるということ。ギリシャ語ではハギアゾー。

 コリントの混乱していた信徒も、様々な欠点がありながら「聖徒たち」と呼ばれている。特別な聖人を指すのではない。分けられたことを持続していくためには、絶えざる祈りが必要である。絶えざる聖霊、新たな霊を受ける。

 人の意見は洪水のように溢れており、人の確信は変わりやすいが、神の言葉は数千年変わらない。例えば、内村鑑三の言葉を真理の基準のようにする人もいるが、そうであってはいけないのであり、彼の書いたものにおいても、その時、その時代に考えられたことであり、永遠的でない部分も当然含まれている。

 私たちは、人間ではなく、永遠の基準である神の言葉に直接立ち返らなければいけない。聖霊が私たちを助けて下さるとある。祈れないような時も祈って下さる。そして万事は益となるように働く。どんなに不幸に見えても、神様によって善きものになるように大きく変えられていくのである。


○九月二十八日(日)主日礼拝 ガラテヤ三・714 32名(内スカイプ3名)

 主イエスは最後の夕食の時「主の平安を与える」と言われた。主にある平安を与えられた時、喧騒のただなかにおいて、静かな平安を与えられる。神に導かれて生きていくときにもさまざまな困難がある。しかし、主が共におられるとき、困難のただ中を静かな平安をもって歩むことができる。「岩のごとく固き心 砕くものは御力のみ」(新聖歌二三二・弱きものよ2節)どのような固い心も主によって砕いてくださる。神にはその力があると信じることができるからである。

 ここでは信仰によって生きる、ということが示されている。「わたしたちはアブラハムの子である」と書かれている。神はアブラハムを用いて、神の祝福を示された。アブラハムは信仰によって義とされるた。それと祝福が結び付けられている。信じるだけで救われるのが祝福の道なのである。アブラハムは何を信じ、なぜ義とされたのか。

 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(創世記十五・2)

 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・4~6)

 アブラハムには子供がなかったので、子孫が無数に増えるなど考えられなかったが、神がアブラハムを外に連れ出して空を見せたことで、神の接近によって、突然に信じることができるようになった。神が御手を触れられると、一瞬で心は変えられる。

 だから、わたしたちも、どんな状態の人に対しても希望を持つことができる。「神ができる」と信じたアブラハム。そのとき、神の祝福が与えられたのである。

このことは新約聖書の以下の記事によっても示されている。

「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ一・3638

神は万能の神である。そして、マリアは御使いの言葉を受け入れた。そこに祝福があった。神は、できるのか、できないのか。わたしたちは、それを選び取ることができる。

「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(マルコ十・2627

目に見えるものに思いを寄せるとき、誰も神の国には入っていくことができない。しかし、信じるだけで、神が御業をなさせてくださる。神は、愛と真理によって、その御業をなしてくださる。キリストは人を救うために十字架の贖いと復活をなしとげてくださった。それを信じたら、そこに祝福の基がある。

 そのような道があるのに、律法の道に引き込まれる人たちがいた。何かをしなれば救われない。その間違った道に行かないように、ここでパウロが真剣に言っているのである。

 真実なこと、大切なこと、本当に善きことが私たちの内にとどまり続ける。それが祝福である。

 神が万能で愛と真実の神がおられる。共に集まりこのことを信じ続けることが祝福となる。祝福と結びつくのが聖霊を受けるということである。神に祈ることができる、ということは聖霊を受けているということである。わたしたちは祝福を受けるためにこの聖霊を求め続けて行く必要がある。 

☆この主日礼拝に県外からスカイプで参加された方の感話から

○KY…祝福ということ とくに自分が祝福されていると感じていることはあまりなかったが、私は人に誘われて教会に初めていったのは 40歳代、 洗礼必要だと いわれて50歳で洗礼受けた。仏教の家でしたから 抵抗 あった。なかなか信じられず、教会も転会した。その後知った無教会も私の求めているところでないと感じた、 初めて全国集会に参加した後に、 冊子「いのちの水」誌が届いたので いままで読んでいたものとちょっと内容がちがうなと、読み始めた。  スカイプも知るようになった。私が クリスチャンをやめたと思った友だちも多かったほどだった。そうした経過を経てこうして新たな集会に参加できるようになったこと、 それが祝福だった、そのことにきづかなかったので 今日話した。

○TS…祝福について学んでよかった。祝福とは、何かいいこと というあいまいなとらえ方していた。神様は万能だと信じることができる その信仰がずっと続くこと、聖霊を受け続けることだと。それによって主にある平安が与えられる。ふりかえってみると、人の顔を恐れたり していたが、このごろはだんだんそれがなくなってきて、主にある平安を感じて喜びを感じている。

○TM…神様に義とされるということと 祝福されるということが結びついている。それがどんなによいことであるかが今日よくわかった。自分のなかにいろいろなものがなくとも、神様の祝福はこの世のどんなものよりもよい。神様は何でもできると信じることによってこのようなさまざまなことがおこる世の中にあっても希望持てる。

  堅い岩がくずれるようにして神様の言葉が入っていく。神様が日常のいろいろなことがあっても 神様が接近してきて 心のとびらをたたいてくれて 入ってくる。

                 (まとめと入力  K.K & E.I & H.N&Y.N


 ○九月三〇日(火)移動夕拝 奥住宅 ルカ七章3650  一六名 内スカイプ4名

 宇宙を造り、すべてを支配する神を愛する愛、真理を愛する愛はどこから生まれるのか。

 大学は元々キリスト教の真理を探究する機関として生まれ、それが広がり現在のようになった。この大学の学問は生まれつきの能力が求められる。法律も医学も習得には暗記が必要である。しかし、霊的心理は誰でも分かる。キリストの使徒は半分以上が漁師であった。神を愛する、真理を愛する事は誰でも道が開かれている。

 罪が赦される事と神や主イエスを愛する事は結びついている。自分の深い罪が赦されたと感じる程に神、主イエスを愛する。家柄、血筋等は一切関係ない。主イエスや神を愛せない人は罪の事が分からない。自分の方から愛していないのに神から大切なものは与えられない。他人の罪を言う人は自分の罪が分かっていない。それぞれの人がいかに正しい道から離れているか。赦しを深く受けると自然にイエスを愛する愛が生まれる。罪の赦しが大きいほど大きな喜びを感じる。神を愛すると他の人を愛する事ができる。私達がどれくらい神を愛しているかは他の人に対する事で分かる。奧をだどると人間のあらゆる問題は愛がないこと、自己中心の愛から起こる。

 今回御嶽山が噴火したが、火山と地震は結びついている。政治家は火山国日本に原発を林立させた。多少貧しくなっても安全な別のエネルギーを作ろうとしない。原発事故を起こしても、結局、弱い人や苦しんでいる人の事を考えていない。

 私達が他者を愛せないのは、愛を貰っていないからである。イエス様からの愛を貰ったら赦されたのが分かる。赦された事の少ない者は愛する事も少ない。礼拝の前に黙祷するが、その時自分の罪を思う。赦して下さいと言えば赦して下さると約束されている。

 イエス様、神様への愛は旧約からある。「神を愛しなさいそして隣人を愛しなさい。」は申命記で情熱的に繰り返されている。神を愛する事が出発点である。イエスはこの箇所を引用し人々に教えられた。誰も神から貰わなければできない。肺や心臓はいつでも動いている。大事なもの程いつでもどこでも使える。まず神を愛する。愛すれば愛を貰える。物があってもあっても満足しない。これは昔の教えではない。イエスに高価な香油を注いだ女の人は、私達のすべての心を神やイエスに注ぐことと関連している。高価な油とは私達にとって何か。日曜はキリストの復活の記念日。大切に思っている一日を他の事を置いて捧げる。一人の罪深い女の人は世の中から隠れている所でイエスに捧げた事が二千年も言い伝えられている。「あなたの罪は赦された」とイエスが言って下さった。この一言が大きい。心から赦して下さいと言うと「あなたの罪は赦された」と神は言って下さる。 


お知らせと報告など 

1019日(日)高松集会  松浦宅。午後3時~5時。

・連絡先 080-4034-0704 

10月のスカイプ集会…1030日(木)午後8時~10

・参加の申込先…中川 陽子。myrtus7@khc.biglobe.ne.jp 

〇土曜日集会…1025日午後2時~4時。集会場。問い合わせは、 吉村孝雄 (pistis7ty12@gmail.com 

11月5日(水)~1113日まで、吉村孝雄は九州、中国地方の幾つかの集りにてみ言葉を語らせていただく予定です。そのため、11月9日(日)は、録音での集会となります。 

1125日(火)の移動夕拝は、いのちのさと作業所です。 

〇香西 信さん、岡山に帰る。

  岡山聖書集会は、香西民雄さんが長く続けてこられた集会ですが、高齢のため、その集会を息子さんが担当することになりました。 8月まで、東京に在住していました。

  香西さんは、 9月21日(日)の徳島での主日礼拝に 初めて参加され、前講を担当され、その後22日(月)は北島集会、23日(火)の祈りの友・合同集会にも参加されました。

 香西さんの福音伝道のための今後を、主が導き、祝福してくださいますように。 

〇近畿地区無教会 キリスト教集会の録音CD

 8月3031日に京都市で行なわれた50名ほどの集会で、何十年と知的障がいの方々とかかわってこられた、福井達雨さんの講演も含まれています。主題は「神を神として生きる」。MP3

録音のCDがあります。希望者は、左記の吉村まで。代金は、CD一枚で300円。(送料込、200円以下の切手で可) 

〇スカイプで参加できる集会は次のものです。

・主日礼拝、小羊集会(毎月第一月曜日の午後3時~)、いのちのさと集会(毎月第一木曜日の午後7時半~)、毎月第二月曜日の藍住集会(午前10時~)、同日午後1時からの北島集会、第二火曜日午前10時からの海陽集会、、天宝堂集会(第二金曜日の午後8時~)、、移動夕拝(第四火曜日夜7時半~)゜第二水曜日の夜7時半~の北島夕拝。第一日曜日の午後3時~の高松集会。第四日曜日の午後1時半~のつゆ草集会。それらの集会と別に、全員がスカイプでのスカイプ集会が月に一度。大体第四週にあります。これらにスカイプで新規に参加希望の方は、左記の吉村まで申込してください。また、日が変ることもありますので、参加のときは事前に左記まで問い合わせ、確認が必要です。


集会だより 20149 410

神の言を取りなさい。たえず祈りと願いをし、どんな時でも、

聖霊によって祈り、そのために目を覚まして祈り続けなさい。

                                (エペソ書6の1718より)

 ○八月三日 主日礼拝 詩編七一篇

            (録音)26名(内スカイプ2名)
 この詩には、近づいてくる老いについて書かれている。わたしたちが年老いていくとき、体力やいろいろな能力が奪われ、できていた仕事もできなくなる。旧約聖書の時代には福祉や施設もなく、生活そのものが困難となり、孤独な状況の中で耐えていかなければならない。その中で、唯一頼ることができるのが神である。いまから、三千年もの昔から、神に頼り、神によって生かされることが証しされている。

「御もとに身を寄せます。」という言葉にその思いが表されている。

「とこしえに恥に落とすことなく」とあるが、この「恥」とは日本語のように、何か常識的なことを知らなかったら恥だ、といったような些細なことでなく、「滅ぼされる」という強い意味がある。滅んでしまうか、救い出されるか、どちらかであることを作者は知っていた。神に頼り、どうか滅びから守られますようにという切なる願いである。

「常に身を避けるための住まい、岩となり」とある。神が岩という不動の存在であり揺るがない方であり、そこに立ち帰る必要を作者は知っていた。

「母の胎にあるときからあなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹からわたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」とある。自分の意識のある前から、神との深いつながりがあった。全面的に神の御手の中にあったということが、このようにあらわされている。作者は胎児であるときから老いの日まで主に信頼し、確信を持っていた。

 それは、安泰な日々の中から与えられているのではない。

「敵がわたしのことを話し合いわたしの命をうかがう者が共に謀り」とあるように、命さえ狙われ、信仰そのものを打ち砕こうとする力が働いていたことがわかる。そのような敵が滅ぼされますようにと願っている。これは、新約の時代になり、悪人ではなく、その中に働く悪そのものが滅ぼされますように、という祈りに変わっていく。そして、主イエスは悪人に対しては、そのような悪が敵対する人の心から除かれるよう、「敵の為に祈りなさい」と言われた。

「老いの日にも見放さずわたしに力が尽きても捨て去らないでください。」とある。神は、どのような状況である人も見放さない。そこに最終的な希望がある。

 15節~18節まで作者は、御業を語り続けることが繰り返されている。最後の最後まで、伝えさせてください、という祈りがある。老齢になっても、受けた恵みを他者に注ぎだそうとする情熱を神から示されていた。神の業を証して伝えるのは、年をおいてもできる。寝たきりでもできる。そしてそれは、三千年も続き、誰かが伝えてきたのである。

「きたるべき世代」に語り継ぐ。この世の力では解決できない。神の言葉こそがすべてを解決する力がある。そしてそれは、真理であるから続いている。真理でないものは消えていく。神の言葉に聴くことこそが、幸いである。その神の言葉とは、聖書に記されている言葉であるが、それを一身に持っておられるのが、キリストである。世界は「光あれ」という神の言葉によって創造された。キリストも万物の創造者であり、すべてを支えている方である。(このことは特に重要であるからヨハネによる福音書、ヘブル書の第一章にこのことが記されている)

 初めに言があった。神の言が万物を創った。その無限の力をもつ神の言が肉体をもってこの地上に来られた。それが、イエス・キリストである。氾濫する人間の言葉でなく、イエス・キリストに頼る。そこに、どんなことがあっても、光りと希望が与えられる。

 真実な神、岩のごとき神、不動の神に頼るときには、いかなる困難なころであっても、引き上げてくださるという、確信が与えられていた。その確信は、神の愛を深く感じるから与えられた。神の愛を感じると、賛美と感謝があふれる。

 世の終わりには、すべての悪の力が滅ぼされる。すべての人が救いへと至りますようにという作者の祈りが主イエスを指し示している。


○七月二十九日スカイプ集会 「私たちに約束されていること」第二ペテロ1章3~15 (参加者18)

  この手紙の最初は、ペテロの単なる挨拶ではなく、自分とは何者であり、神様とはどういった方なのかといった大切なことから書かれている。僕とは全面的にイエスに従う者であり、自分がしたいという意志でなく、神様から遣わされた使徒であった。私たちは偶然的に生まれたのではなく、神様から遣わされている。特別な人だけが使徒なのではない。神と主イエスを知るということは、神は全能であると頭で知っているだけでなく、最終的には全て最善とする方ということを知っていなければならない。

 ここには恵みと平和の具体的な内容が書かれている。私たちは、十字架によって罪を赦されたと感じられない、神様が万能と思えない、私たちに受け取る心がない、求める気持ちがないなど様々な問題を持つことがある。しかし、神様を深く知れば知るほど、聖書を学べば学ぶほど、恵みと平和は与えられる。栄光と力ある業によって、私たちは素晴らしい約束を与えられた 。私たちは最終的にはどこに行くのか。神の本性に預からせていただいて、救い主イエスキリストの永遠の御国に入ることができる。うっかりすると、妬みなどの汚れた人間の欲が心に入り込み、染まってしまう。カインが罪のないアベルを打ち殺した。そういう本性が人間にはある。何か気に入らないものを心の中で追い払おうという物を、人間は共有してしまっている。

 しかしこの世の中で染まることなく、却って神の本性に預からせていただくことができるとある。「あずかる」とは、、共有するいう意味。神の本性を私たちは共有させていただける。神の目から見て、罪のために死んでいたような私たちを、キリストともに生かせてくださり、復活や天の王座まで共有させてくださった。生きたキリストの御言葉をしっかり持っていれば、本来、良くないものを共有してしまった人間が、神様の永遠性、清さ、完全な愛、美しさ、雄大さを共有させていただける。人間はどうしても清くなれない。頂いたものを大事にできないような者なのにもかかわらず、そういう約束をしてくださっているのである。

 神様は繰り返し繰り返し、立ち返ったら赦してくださる、無限の愛のお方である。人間には未来がわからない。しかし、万能の神様が、私たちに約束をしてくださっていることを受け取りたい。神様は本当に良い約束をたくさんしてくださっている。見上げるだけで、何もできなくても、復活の新しい命を与えられる。信じないのではなく、信じるものとなりなさい。最終的に、裏切られない。聖なる霊が与えられたら、既に御国が与えられたこととなる。神の国はいつ来るのかという質問に、イエス様は、神の国はあなたがたの只中にあると言われた。霊的に敏感になればなるほど、私たちの只中に神の国はある。

 それでもこの世では、私たちには謎のような苦しみが起こる。だからこそ、いつも思い出したい。私たちの本当のあり方は、素晴らしい約束を常に思い起こすこと。どのような苦しみが起こってきても、これは仮の宿の仮の苦しみである。仮の宿をいずれ離れなければならないが、神様は永遠に朽ちないものを約束してくださる。私たちが朝起きた時や黙想で、また礼拝によって思い出し、反芻しするのは、こうした神の言葉である。そうした歩みを続けていきたい。


○八月十七日(日)主日礼拝 (ガラテヤ書一・132441             (内スカイプ4名)子供5名

 福音を知るためには啓示が必要である。啓示―アポカリュプシスという原語は「覆いを取り去る」という意味である。見えないように覆われているものが神によって取り去られ、知ることができるようになる。これは、単に、学ぶということとは違う。聖書の内容は誰かが、学んで書かれたことではない。啓示の集大成である。 キリストのことはいくら学んでも、啓示を受けなければ、わからない。それゆえ、主イエスも、キリストを神の子(神と同じお方)ということがわかるのは、神から直接に啓示を受けたからだと言われた。

 パウロはめぐまれた状況のもとで、ユダヤ教のこと、旧約聖書を真剣に学んでいた。ローマ市民権もあり家柄がよく経済力もあった。しかし、イエスのことはわからなかった。突然、啓示を受けて初めてわかるようになったのである。

 母親の胎内からパウロは選ばれたと啓示されていた。キリストを信じたのは、キリスト者を迫害しているとき突然におこったことだった。しかし、それは前もって選ばれており、罪があっても、一方的な恵みによって、御意志のままに、御子をパウロに啓示された。

 主はアナニヤに、パウロのところに行くようにいった。そして、アナニヤはパウロに出会い、パウロは目が見えるようになった。

使徒言行録によると、パウロは、アナニアに出会いアラビアにはすぐに行ったが、エルサレムに行くのには、3年待ったと記されている。それは静まる必要があったからである。

 エルサレムにいる弟子たちは生前のイエスに会っていた。しかし、パウロは復活のイエスに出会っており、イエスが生きているときにはキリスト者を迫害していた。そのパウロが復活の主に出会ってから、イエスを伝えるようになったのである。

 イエスを知るには啓示が必要である。そして、それは、生まれる前から選ばれ、与えられたことである。しかし、一度与えられても日々求めていなければ、見失う。生まれる前から、天地創造の前から選ばれ、啓示によって与えられた信仰を、わたしたちも守り続けなければならない。


○八月二十四日(日)主日礼拝 ガラテヤ二・110 33

                             (内スカイプ1名)子供2名。

 パウロが、バルナバと共にエルサレムに行ったのは神による啓示を受けたからであった。それほど、重要なことであった。

「おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」とある。パウロは、神から示されて異邦人に福音を伝えていたが、そこに間違った教えが入り込み、このままでは信徒たちが違う考えに押し流されてしまう事態になった。だから、神よりエルサレムに行くように啓示を受けた。このままでは、「割礼をしていなければ、救われない」という考え方が広がり、キリストの福音が、ただのユダヤ教の一派となってしまうおそれがでてきた。

 救いのために、何が必要か。信じるだけで救われると示されているのに、それに加えて割礼が必要であるという考え方が、ユダヤ人には根付いていた。

割礼は旧約聖書に示されている。

 「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(創世記十七・10

「無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記十七・14

しかし、申命記において、割礼の本当の意味も記されている。

「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」(申命記三十・6

もっとも大切なことは主を愛することなのである。それが申命記には繰り返し記され、割礼は心に施されることであると示されている。

「わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、」

ということは、信じたら救われるという自由を、割礼を受けなければ救われないという考えに縛ろうとしていることを指す。

 この問題は、今では「水の洗礼をしなければ救われない」という問題として、現われている。何かをしなければ救われない、ということは、パウロが啓示を受けた真理に反することである。

 信じるだけでは救われない、という考えはいろいろなところに入り込んでくる。それによってキリストが与えようとしている自由が失われていく。縛られていく。それが「奴隷になっている」ということである。

 使徒言行録にこの問題が書かれている。

「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」(使徒言行録十五・12

「ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った」(使徒言行録十五・5

キリストの真理は人間によって絶えず、狭くされようとする。それを防ぎ、真理に立つためにパウロも戦ってきた。

 救いのためには、割礼、洗礼、集まることや何かをがんばることが必要なのではない。単にキリストを信じることである。無教会は水の洗礼を否定していると言われることがある。しかし、そうではない。水の洗礼を受けなければ救われない、という考えを聖書に基づいて受け入れないのである。洗礼を受けるのは、救われるためではなく、信じた証しとして、導かれて洗礼を受けるべきなのである。そして、ほんとうに大切なのは、一度だけの水の洗礼ではなく、日々、聖霊を受けることなのである。キリストが来られたのは、水の洗礼のためでなく、聖霊の洗礼をするためだと記されている通りである。(マルコ福音書18   使徒言行録15など参照) 


 ○八月二十五日(月) 北島集会 マラキ書1

 旧約のいちばん最後。バビロン捕囚から帰り、神殿も再建された頃(紀元前450年から460年ころ)のこと。

 「託宣(マッサー)」という言葉、イザヤ書46章1~2では「重荷」と訳されてもいる。重い意味のある神の言葉ということから生じた。

 この時、イスラエルの人々は神に背き、悔い改めもせず、間違ったことをすることで神の言葉が重荷となっていた。人々は、神が愛してくださると言っても、どこにそのような愛があるのかと反論した。現在のわたしたちも、災害や苦しみなどに遭遇したとき、神さまを信じている人でもこの問いが起こる。祈っても答えてくださらない、など、色々な人が思う。

 しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだとあるが、兄エサウの子孫は神を知らないエドム人となり、ヤコブの子孫がイスラエル民族となった。「憎んだ」と訳されているが、原語では「疎んじる、下に置く(サーネー)」である。ヤコブは祝福され、エサウは祝福を与えられなかったのでエドムは、いくら建て直そうとしてもできなかった。だが神さまと結びついていれば、たとえ病気や事故で死んでも、永遠の命として神が建て直してくださる。体を建て直して霊的に復活させてくださる。

 たしかに人間にはわからない神の選びというものがある。イエスさまを信じられるのも選びであり、愛を示してくださったからである。旧約のわかりにくいところも、言葉の意味を考え、霊的に考えると様々なところで新約につながり、今のわたしたちにつながっている。そして神の力は今も、全世界に及ぼされている。

 その神の愛を受けてきたにもかかわらず、神を軽んじたり、形だけの礼拝をすることを、神はよろこばれない。心から赦しを願わず表面的にするささげものをよろこばれない。

 この時の、ユダヤ人たちが神の愛を受けながらも不真実なことをする現状は、ほかの世界にも広がっていくことを暗示している。

 捕囚を受けたユダヤの民が、解放され、神殿まで再建できたのに、神の愛を感じていない。わたしたち現代のクリスチャンにも言われている。

 神からの様々な導き守りによる恵みを忘れれば、神さまの愛も力もわからなくなる。わからなくなって求めもしなければ偽善的になる。神からの啓示を受けたマラキは、そのようなところから人々を立ち返えらせようとしている。


 ○八月三十一日 主日礼拝 サムエル記(下)19 (京都での近畿地区無教会キリスト教集会と重なったので吉村孝雄が不在。そのため、録音による)

・徳島での主日礼拝参加者…中川兄、鈴江、内藤、逢坂、西條、伊丹、佐々木、奥住(邦)、矢野、増田、鈴木、戸川、吉村(恵)、藤井夫妻、高瀬、藤本、月岡(信)、高橋(3名)、★スカイプ 勝浦、黒川、土屋夫妻 4名。。合計23名。子供2名。

・私たちの集会からの、近畿地区無教会集会に参加者


・貝出夫妻、熊井夫妻、近藤、桜井、月岡(多)、筒井、綱野(悦)、中川(春)、中川 (陽)、吉村孝雄 12名。
 

「人の真実と揺れ動く心」

 息子アブサロムの反逆を受け、逃げていたダビデが、再び王となって帰ってくるところ。

 そのアブサロムが死んだので、彼を担いでいたイスラエル人も、ダビデを見放したユダ部族も態度を変え、ダビデを王として再び受け入れた。ダビデ自身はアブサロムの死を悲しむばかりであった。しかしダビデ自身の意図しないところで、事が動いていった。それにしても人の心がいかに移りやすいか。

 サウル一族のシムイは、「出て行け出ていけ…」と石を投げつけ、逃げていくダビデに最もひどい侮辱を加えた男であった(16章5)。だがダビデは「勝手にさせておけ。主のご命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返くしてくださるかもしれない」と、感情的にならず、一切を神さま中心に考えていた。


 いま再び王となって帰途につくダビデがヨルダン川を渡ろうとしていたとき、このままでは死刑にされると思ったシムイが来て、「誰よりも早く王をお迎えしようとして来ました」と言った。ダビデはここでも感情的にならず「お前を死刑にすることはない」と誓った。

 ダビデの運命が急変した。それと共にまわりの人々も急変した。そのように様々に態度を変えた人たちがいた。しかし、八十歳にもなるバルジライ(サムエル(下)1727)は、ダビデ達が荒野で飢え、疲れ、乾いているときに食料や生活の必要品を差し出した者であった。

  このように弱く、困窮している時に、予想もしていなかった人が、助ける人として現れることがある。弱っている者を散々に侮辱する人もいるが、不思議と手厚い配慮を行う人もいる。

 ダビデの運命が大きく変わったと共に、様々な人間が現れた。最後まで一貫して変わらなかったのがバルジライであった。このような人は、予期しない人でもあった。わたしたちも人生の中で、本当に苦しいとき、窮地に立ったとき、追い詰められたときも、神さまに頼っている限り、不思議な助け人が現れる。そのことを覚えておきたい。歳をとって何もできなくなっても、主にある愛、祈ることによって神さまのみ手がその人に及ぶようにと。

 ー弱いときほど強いー。泣きながら裸足で逃げていくようなとき、ダビデに不思議な助け手、支えが与えられた。わたしたちもそのようなときがあるかもしれない。だがどんな弱い時もイエス キリストが助けてくださることを確信することができる。(まとめと入力  K.K & E.I &  & Y.N 


 お知らせ 

○9月の移動夕拝

 いつもは第四火曜日ですが、今月は、祈りの友・合同集会があるので、次週の第五火曜日 9月30日、午後7時30分より、奥住宅になります。スカイプでの参加もできます。申込先は、中川春美姉。アドレスは、

 
 
○祈りの友・合同集会

9月23日(火)休日  午前11時~午後4時 徳島聖書キリスト集会にて。

 「祈りの友」にまだ入会していない方も、例年どおり参加自由です。申込は、吉村孝雄まで、電話、FAX、メール、ハガキなどでしてください。



 現在までのところ、地元以外の県外からは、愛媛、岡山、大阪などからの参加者、それからスカイプでの参加希望は、北海道、宮城その他があります。

○9月のスカイプ集会

 9月26日(金)午後8時~10 参加申込は、中川 (陽)さん宛て。

 
○第28 無教会全国集会

・会場…千葉県市川市 山崎製パン企業年金会館

・日時… 10月4(土)1330分~5日(日)17時。


・内容…主題講演「日本は世界のため」聖書講話「ともに生きる」、 証し―「原発事故から3年―福島の農業」、「ハンディを乗り越えて」、「主にゆだねて生きる」、「ベトナム人として無教会の寮で聖書を学んで」、「沖縄・基地と向き合って生きる」。

 発題―「共生を閉ざす原子力」「日韓がともに生きるために」「主にいかされる集会のあり方」「若者と他者」「寄り添う心」「平和の福に生きる」、 青年国際交流討論会「日中韓がともに生きるために」

 徳島聖書キリスト集会から、綱野悦子さんが、「視覚障がい者としての証し」をされる予定です。

 また、吉村孝雄は、「集会のあり方」について語る予定になっています。キリスト教集会(教会)は、一人一人のキリスト者の集りですが、一般の政治や趣味などの集りとはまったく異なり、「キリストのからだ」であると言われています。 (Ⅰコリント 1227、コロサイ124など)

 それはどのような意味なのか、また、キリスト教の集会は、いかなる重要性を持つのか、一人一人の信仰とどのようにかかわっているのか…等々、み言葉をもとにし、私自身の経験から学んだことも含めて述べたいと思っています。 

○吉村孝雄が、聖書講話予定の阪神地域での集会

・阪神エクレシア  1012日(日)10時~12 場所…神戸市元町駅近くの 兵庫県私学会館


○高槻聖書キリスト集会 1012 14時~16


問い合わせ 那須

○徳島聖書キリスト集会の毎月の主日礼拝、火曜日の夕拝などの全部の内容を録音したCD(MP3)は希望者にお送りしていますが、ご希望の方は、左記の吉村まで申込ください。。毎月500円(送料込) なお、これを聞くためのMP3対応の機器(CDラジオ)は、五千円前後でこれも希望者にはお送りできます。

○8月30日(土)~31日(日)の京都市の関西セミナハウスで開催された、近畿地区無教会 キリスト教集会の録音(MP3)CDをご希望の方にはお送りすることができます。希望者は、左記の吉村まで。300円(送料込、切手で可)

○9月第4土曜日の集会(手話と植物、み言葉)は、第2土曜日に変更しますので、今月の第4土曜日の集会はありません。


集会だより  NO.409     2014.8            (朝顔のカットがあります。)

生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。…
           今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。

                                 (ヘブル31213より)

 
 ○七月七日(月)小羊集会 使徒言行録五・116

 初代キリスト教の集まりは、土地や家を売って分配し合い、助け合い、生活を共にしていた。貧しい者もなくそこには不思議な神の力が働いていた。しかし、そのようなただ中にサタンの力が働いたことが記されている。それはアナニア夫妻のことである。アナニアは土地を売って神に捧げたが、一部を残し、これは全部である、と偽りを言った。ペテロは、その偽りをすぐに見抜いた。

 物事の真相、あるいは人間の深い心の動きを見抜く力は、経験や学習では十分には与えられない。聖霊によって与えられる。

 お金には人を誘惑する力があり、お金によって間違った判断をしてしまう人間の弱さがある。しかし、ペテロは表面でなくその奥にある真実を見抜くことができた。その力は、真剣に祈り与えられた聖霊によるものだった。自分の財産を売ってまで捧げる思い、不正を見抜く力、それもすべて聖霊によって与えられる力である。

 アナニアは神に裁かれて死んだ。3時間後に妻が来た。妻も土地の代金が一部であるのにすべてであると偽りを言った。そして裁かれて死んだ。神の前にはどのような偽りも見抜かれ、神を畏れない心は必ず裁きを受ける。

ここで、アナニアたちの行動を「聖霊を欺いた」「神を欺いた」「主の霊を試す」と表現している。聖霊と神、主イエスが同等に書かれていることがわかる。

 パウロ達には、聖霊によって勇気を持って語る力、権力も恐れないで語る力、病気を癒す力が与えられ、多くの人が信じるようになった。それは神のご計画であった。それ以降も、使徒パウロがそうで案たように聖霊によって適切な人が起こされ、聖霊によってその人は送り出され、福音は世界中に広がっていった。(使徒言行録13の2~4)

 信じるようになった者は心を一つにしていた。しかし、他の者は、近くにいても、仲間に加わろうとはしなかった。神の招きがなければ信仰は与えられないことがわかる。

 心をひとつにする、ということは集まりの特徴でもあった。

「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(四・24

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(四・32

 主によって心を一つにしていると、不思議な力が働く。祈りの力は、一人で祈っても力がある。しかし、パウロでも「私のために祈ってください」と記している。(エペソ書6の1920) また、「二人三人集まるところにわたしも共にいる」と主イエスは言われた。心を一つにする、その中に神の力が働くる。


○七月八日() 海陽集会 ダニエル書二章2547

 あまり読まれないが重要なところ。現在でも、いかなる学者も学問も化学も、この世の能力ある人も、キリスト教の最も深い神秘を解き明かすことはできない。この神秘は新約聖書では奥義(ミシュテーリオン)という言葉。 だが、この神秘を解き明かす天の神が居られる。復活、イエス キリストが神であること、死んでも滅びるものではないなど、この問題はいかなる人も解き明かすことができない。だが聖霊がすべての神秘を明かす。

 ネブカドネツァル王がダニエルに求めたのは、夢の秘密を解説することであった。すなわちこれから何が起こるか、神さまの大きなご計画が何であるかを、である。激しい迫害の時代、この問題は重要であった。

 旧約の続編、マカベア記に書かれていることがそれにあたる。この艱難は、神さまのどのようなご計画なのかを見つめるのがダニエル書の目的である。大きな歴史の流れを全体として見る。この宇宙は偶然に生じたのでなく、そこに大きな法則がある。

 ダニエル書は歴史を、大きな流れの中で見る。歴史の流れを見て、自分たちが今受けている苦難や困難がどういう位置づけにあるかを知り、その困難と対決しようとしたのである。

 王の夢に出てきた巨大な像や石にはどんな意味があるのか。ダニエルは神から受けた啓示を話した。次々起こる国々は強大であっても、最後に出てくる不思議な国、それは人の手によらないものであって、この国は神が創る永遠に滅びない国である、と。歴史の中の大いなるご計画をダニエル書は告げている。

 そして、ダニエル書に限らず、聖書は全体としてこのことを言おうとしている。再びキリストが来られ、新しい天と地が起こされる。わたしたちがどのようになろうとも、最終的には霊的な新しい体となって再び起こされる。汚れたものをすべて追い出して永遠に滅びることのない霊的体にしていただける。自分たちの努力で成るのではなく、神さまがそうしてくださる。

 歴史的にものを見るということを、旧約は繰り返し示している。創世記の初めに主がアブラハムを祝福して以来、時間の流れ中での神さまの成せるわざは一つの大河の流れのようである。マタイ福音書の系図はその観点から書かれている。

 わたしたちも、こういったものの見方をもって全てのことに対処することが必要だ。

○七月九日 水曜集会 箴言六章

 父の諭しとある。肉親の父でなくとも、指導者のことをこういうことがあった。だが本当に敬うべきは神であり、またイエスキリストである。、その他はみな兄弟姉妹である。

 「怠け者よ」、と言われている。これは新約聖書に言われている「霊的眠り」に通じる。

 老年になっても、神さまの霊を受けていれば、何かするべき仕事が与えられる。だれでもどこでもできるのは祈りである。人は誰でも老年になり、体の自由が奪われる時が来る。そのときも霊的にも肉体的にも眠ってしまわないようにするには、神さまのみ言葉を持つことである。

 祈りの大切さは、祈ることによって、いつも目を覚ましていることができる。それを促すのは聖霊である。

 怠けるよりも悪いのは、積極的に悪いことをすることである。意図的に悪いことをする場合は、神さまから見て適切な時に、必ず裁きがある。それと対照的に、よいことを続けていると、思いがけないときに、よいことが起こる。

 主の嫌われるのは第一に「高ぶり」である。高ぶりという心は神さまを信じようとしない。高ぶりの本質は、全能の神を否定していることである。陰で悪いことを言ったり思ったりしても、わからないと思うのは、すべてを見抜いている万能の神などないと思っているからである。だが人間はこうした高ぶりは、だれでも持っているものであり、それこそが罪といわれているものである。

 嘘ー知らないことを知っているように言うのも嘘である。

 人間のあり方は、生きている限り、より高い段階を求めることだ。み言葉をいつも心に抱いておく。み言葉はわが足のともしび(詩篇119105)

 聖書は全世界の光である。世界を、色々な方面から導いてきた。聖書は個人を導くとともに、人間全体を、また世界、さらにはこの宇宙そのものをも導く。。


○七月十一日(金)天宝堂集会 ピリピ四・19

 これは、パウロが獄中からかいた手紙とされている。信徒のことを、パウロは兄弟と言っていた。神を父として信じるものは兄弟であると、そして、信じる者たちは、王の象徴である冠であると、それほど信徒のことをパウロは大切に思っていた。

「主によってしっかりと立ちなさい」とパウロは言った。わたしたちは、何によって立っているか。主によって立つ、ということがどれほど大事なことかを示している。人間によって立つとき、それは揺れ動き崩れ去る。

 日本は新約聖書にある非暴力や非戦の精神に影響されて生まれた憲法9条に立ち、他の国と戦争をしないということを国是としてきた。 しかし、今、それが揺るがされている。個人においても、自分の感情や欲望に立つとき、人は揺らぐ。自分、という変わりやすいものに立つのか、それとも真理、神によって立つのかが分かれ道である。 

「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」とある。これは、パウロは伝道者として大きな働きをした。そのようなパウロは、つねによき共働者が与えられていた。福音のための戦いは、神の力によって目に見えない悪の力と戦うことである。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

人間は、生きている間、常に喜ぶということは難しい。しかし、ここでは「主にあって」とある。主とは聖霊であり、その中にあれば周囲がどうであれ、静かな喜びが与えられる。主にあって、というのは霊的なイエスと結びついて、ということである。

苦しい状況であっても、病気になっても、人から認められなくても主による喜びは、静かな喜びがある。

「主にあって」ということが、大きなことなのである。主が近くにいる、だから、主と結びつくことができる。

主の平和をひとりひとりが持つことによって、社会的平和もおのずから生まれる。。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ十四・27

 最後の食事の時に弟子たちに残した言葉である。愛の神がいると信じ、心から求めたら与えられる。

わたしたちも神から平和が与えられ、そしてそれが、まわりにも伝わっていく。主は近くにおられるからである。


○七月十三日(日)主日礼拝 ガラテヤ書一・15 37

        (大人35名 子供2名 内スカイプ4名) 

 1節は原文のギリシャ語では「パウロ・遣わされたもの・~ではない・人から・人によってでもない・キリストと父なる神によって」という言葉の順になっている。

 パウロは「遣わされた者」であるということを特に強調している。自分の考えや決断で決めたのではない。自分の考えは、状況に応じて変わる。しかし、神が不変であり、その不変の神によって導かれる必要がある。

 パウロは、イエス・キリストと神から遣わされた。パウロに直接命じたのは、キリストご自身だった。パウロは旧約聖書(律法)を特別な教師について学び、神を知っていたがイエス・キリストには出会っていなかった。

  そのパウロは、ある時、復活のキリストとの決定的な出会いがあった。

 「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであったダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒言行録九・1~5)

 主イエスは初めにパウロに呼びかけ、語りかけた。パウロは復活をしたキリストによって変えられたのである。

もうひとつ「父である神」ということをこの箇所では強調している。旧約聖書の中では、アブラハムやモーセといった信仰の人たちが、神に対して「父」と呼びかけたような例はなない。

 キリストの時代になって初めて神が、家族に呼びかけるような近い存在となった。

「あなたがたが子であることは、神が、「父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かる。」

                                        (ガラテヤ四・6)

 神に対して「お父様」と言えることは聖霊が与えられているからである。

 キリストの使命は何か。神とともに恵みと平和を与えることである。祝福の祈りの恵み、ということとつながっている。恵みの最たるものが、心の中の罪を赦し清めるということである。イエス・キリストの平和。つまり、いつも、一番良きことがあなた方にあるように、という祈りである。わたしたちは誰に対しても、恵みと平和を祈る、ということから始めるべきである。

「悪の世から救い出す」とある。この世には悪で満ちあふれている。わたしたちの心の中にも、祈りから遠ざかる悪の霊がある。そのような悪の力から救い出すのが主イエスである。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33)とある。悪の世から救い出すため、主イエスは死んでくださった。それは人間に栄光を帰するためではない。神の御計画でわたしたちも遣わされているのである。

 「使徒」とは、普通は、キリストの12弟子やパウロなど特別な人を指すが、その原語そのものは、「遣わされた者」の意である。 そして、すでにキリストを信じている者は、みな自分だけの安心にとどまることなく、この世に遣わされた者にほかならない。キリスト者ひとりひとりはすべて遣わされた存在なのである。

○七月十四日() 北島集会 詩篇40

 滅びの穴、泥沼など、作者は非常に苦しいところに居たことが分かる。滅びの穴は、死の世界を意味する。泥沼は、もう出ることができない状態のところであろう。できることはただ主に叫び、主に希望を置くことだけ。

 そこから引き上げてくださり、動かない岩の上に立たせてくださる方が居られるという。その動かない存在であるキリスト。この真理は動かない。詩篇はこのように耐え難い、死ぬか生きるかの状態からほとばしり出たもの。ゆえに苦しみを重ねるごとに詩篇はわかってくるという特質がある。

 神さまと結びついていれば、本当に新しいものを与えてくださる。新しい歌を新しい気持ちで歌う。キリストがともにあれば、いつも新しい。人、空、自然、など感謝の気持ちがあればいつも新しい。泥沼から、主が導き出してくだされば、それも新しい。そこから賛美も生まれる。その状態こそ「幸い」だ。この深い経験は三千年経ても変わらない。自分に行なってくださったみ業は驚くべきことである。自分が受けた体験は、語り伝えずにはいられない。

 7節は新約聖書の礼拝のあり方に直接につながる内容である。レビ記などには焼き尽くす献げものについて事細かく書いてある。しかしここでは、神はそういった供え物は求めず、ただ「耳を開いてくださった」とある。神から直接に示される詩的内容の部分には、伝統などを超えた一種の啓示がある。詩篇5119では「わたし()が求めるのは砕かれた霊」とある。。それをイエスさまは「心貧しい者(砕けた心)」と言われた。

 耳を開く と訳された原語は、井戸を「掘る」というときに使われ、原意は、「耳を掘る」である 耳を開く、耳を掘る、とは驚くべき表現だ。なぜこの表現があるのか。耳を開くということの非常な重要性。神の言葉を聞く耳を開かれた人は自然と変わる。本当の献げものがわかる。耳が開かれず、自分の能力や考えに頼っている人は心が固いが、神さまの声が直接入ってくれば、砕けた心となり、感謝の心など本当にささげるべきものがわかる。聞く耳を持つことは色々なところで大切だ。特に神さまの声を聴き取ると安らぎを得る。神の声に耳が開かれないと、人間の苦しみにも心が開かれない。聖霊は開かれた耳に、あらゆることを教える。耳が開かれるかどうかはわたしたちの永遠の課題である。

○8月10日(日)主日礼拝  参加者5名

  この日は、台風が四国、近畿を直撃したため、大部分の方々は、増水や大雨、交通機関がなかったなどから欠席。そのなかで、熊井 勇、熊井ち 夫妻と、集会場に近い桜井、佐々木、そして前日から集会場でいた吉村(恵)の5名で集会が持たれた。聖書講話は、前日にインターネットで私が送付してあった、詩篇の録音が用いられた。主日礼拝が、参加者5名でなされたというのは、過去30年ほどを振り返っても初めてであるが、台風のなかでもそのように礼拝がなされて感謝であった。

 なお、私(吉村孝雄)は、この日の午前中は、大阪府の高槻市での主日礼拝、午後は神戸市での阪神エクレシアの集会予定だった。午前の主日礼拝は、激しい雨で交通渋滞もかなりだったが、前夜の宿泊地の彦根から参加できた。しかし、午後の阪神エクレシアは、台風が通過中で大雨や強風で交通機関がなく、参加できる人がいないために、中止となった。

○8月12日(火)海陽集会。ダニエル書3章。参加者はスカイプでの参加と合わせて9名。

 この章は、日曜学校の子供用のテキストには必ず出てくる内容であり、また内容があまりにも非現実的だと思われるために、この箇所で言われている重要性に気づかない場合も多いようだ。

 王や権力者を神として崇拝しないなら、厳罰を与えるといって脅迫する、そして歴史を見れば現実にそのような死刑や拷問などが加えられてきたことは多く見られる。現代においても、「君が代」という本来天皇の支配を祝う歌を歌わなければ、教師に圧力を加え、何らかの処罰をするといったことが現実に行なわれている。

 この世は絶えず、真理そのものに従おうとするものを迫害してきたのである。そして真理に従おうとするものは、無惨にも殺されていったりして実に弱々しく見える。しかし、この章で言おうとしていることは、そうした理不尽な権力者の横暴にもかかわらず、それらも神の御手のうちにあり、必ず神はそこから救ってくださるという揺るがない信仰と希望である。

 きっと神は火のなかから自分たちを救いだしてくださる。たとえそうでなくとも、私は決して王を神として礼拝はしない、と言い切ったダニエルは、火の中に入れられた。しかし、驚くべきことにダニエルたちは守られた。それはその火の中に現れた御使い―人の子のような姿をしたものにによって守られたのであった。

この世はしばしば火のような燃える所といえよう。悪意や裏切り、また事故や苦しい病気、人間関係の破綻、憎しみ…そうした燃える火のなかに入れられたような状況に投げ込まれることがある。そのような中において私たちは信仰をも捨ててしまいそうになるかもしれない。それでも主は必ず助けてくださる。 たとえ殺されても、なお死の中から復活の力を与えて助け出し、御国へと導いてくださる。                  (まとめと入力  K.K & E.I & H.N &  & T.Y

 お知らせ
 

○移動夕拝…今月の移動夕拝は、スカイプ集会との合同で、

8月26日(火)午後7時30分から中川宅。スカイプでの参加申込は、中川陽子さん宛て。

○第14回 近畿地区無教会 キリスト集会…8月3031日。都市左京区一乗寺の関西セミナーハウスにて。

 ・講演  福井達雨、聖書講話…吉村孝雄。

   問い合わせ 宮田 咲子

○高松集会…今月は、私が通常の第一日曜日に県外に出て不在たったので、8月24日(日)に延期されています。午後3時~5時。問い合わせは、松浦 大亮

○西澤正文氏 特別集会  9月14日(日)午前10時~。


○「祈りの友」合同集会…9月23日(休日) 午前11時~16時。

会場は、徳島聖書キリスト集会。参加申込は、貝出 久美子まで→E-mail

○スカイプ集会に参加希望の方は、左記の吉村まで問い合わせてください。

○「祈りの友」も、入会はいつでも申込可能です。これも問い合わせは左記まで。 


集会だより  NO.408    2014.7

あなた方は、神の変ることのない、生きた言葉によって新たに生まれたのです。

(Ⅰペテロ1の23より)

 (海岸での女の子のカットがあります)

  ○六月一日(日)主日礼拝 サムエル記下十八章 

                大人34名(内スカイプ2)子供3

 アブサロムは多くの兵を率いており、ダビデの兵力よりも強いと見られていた。しかし、ダビデの軍には神の力が与えられた。ダビデ軍は優勢になった。そして、自分を王とまで言っていたアブサロムの最後がここで詳しく記されている。

 戦いの場には森林があった。そこで、起こり得ないようなことが起こった。アブサロムが木の枝に首がはさまれて宙吊りになったのである。神が滅ぼそうと思うとき、人間のあらゆる予想を超え、起こりえないことを起こす。アブサロムはなぜこのようになったか。始めアブサロムは大切な妹を襲った異母兄弟に対して憎みを抱き殺した。憎しみは相手の心も自分自身の心をも滅ぼしていく。憎しみを持ったままでいるか、それとも、主にあって祈るか。そこが分かれ道になる。

 ダビデも罪を犯した。しかし、ナタンから罪を示され、心から赦しを願った。赦されてもその罪ゆえの苦しみ(さばき)は残る。しかし、赦されていれば神の守り、祝福は注がれ続ける。

 アブサロムは民衆の心までつかんでいたが、最後には予想もしないような形で滅ぼされた。ダビデは祝福され守られた。ダビデにも様々な苦しみが起こった。しかし、そのただ中に祝福はある。苦しみがあるから、祝福がないのではない。

 神のみことば―真理に背き続ける者は必ず滅ぶ。栄光が続くように思えても、それは一時的である。こうした精神の世界における法則は、信仰によって示される。


「いかに幸いなことか…、

 主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩篇一・16

 神のことばを喜ぶとき、祝福は与えられ、人間のことを思うとき、祝福は消えていく。人間的な憎しみ、怒り。人間の言葉が渦巻くとき、吹き飛ばされるもみ殻のようになる。

 二人の家来が競争までしてダビデに良い知らせを持っていこうとした。人間的なよい知らせには裏がある。本当によき知らせとはどういう知らせか。

 「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神」(イザヤ四十・9

恐れがあふれる中に、神のよき知らせはあった。悪い力が迫るただ中に、神はすでに来ているのだという、よき知らせがなされている。

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ五十二・7

 悪が支配していると思える中で、イエスが来られ、罪の力を十字架で滅ぼされた。人間的なよい知らせは、すべての人にとっての良い知らせとはなりえない。例えば、入試に合格したとか、賞を受けた、赤ちゃんが生まれた等々―当事者にとってはよろこはしい知らせであるが、不合格になった人、大学に行けない人、病弱で賞などもらえない人、あるいはどうしても子供ができないで苦しんでいる人、結婚していない人などにとっては良き知らせとは言えない。戦争に勝ったなども、敗戦国においては、おびただしい犠牲者と破壊で深い悲しみの知らせになる。     しかし、神によるよき知らせは、どんな人にとってもよき知らせである。

○六月二日(月)小羊集会 使徒言行録四・32~五・11

 当時、キリストを信じた人々は、持ち物を共有していた。権力や財力があるものが支配するのではなく、差別をなくし、平等に生活をしようとした。自分の利益を追うのではなく、損得も考えない。信じる人たちの関係がどれほど強かったかがわかる。目に見えない聖霊を豊かに受け取っていると、目に見える利益を求めなくなる。

 そして、使徒たちの働きを支えるために土地を売ってまで、献金をしたともある。

「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」(ガラテヤ六・6

 このように、宣教する人が、自由に宣教できるように支え人たちがいた。それで、広範囲に宣教できるようになった。キリストを信じた初期の人がどのように生きてきたかがこの箇所でわかる。

 現代に生きるわたしたちが、共有できることはなにか。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1・3

 今日のわたしたちは、ここに記されているような持ち物の共有は難しくとも、霊的な共有はできる。そして、共有があるほど、集まりに力が発揮できる。まず、神様との霊的な共有が与えられ、そこから集まりの中で、賛美、祈りを共有することができるのである。

 初期の信徒たちの、このような良きことに満ちあふれた状態のすぐあとで、五章の内容が書かれている。

 それは、アナニアとサフィラという夫婦が、土地を売って献金を捧げたが、一部を差しだして、全部です、と嘘を言ったのであった。神はすべてを見抜かれている。神に対して一番大切なことは真実である。

 神はすべてをご存じだから、真実を語るべきであった。このふたりは、人の評価を得ようとして献金し、神を畏れず金額をごまかした。それで神によって裁かれた。神を侮る者は裁きを受ける。

 初期の信徒たちが、持ち物を共有し共に生活をして祈るというような理想的な情況のただ中において、このようなサタンの力が働いている。油断をすると、わたしたちも、その力に引っ張られる。たえず、目をさましていなければ、サタンは個人の心の中にも、また、集まりの中にも入り込んでくる。神様に関することは、常に真実でなければならない。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理(真実)をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ四・24

これは、儀式を重んじることと対象である。どんな儀式を繰り返しても真実がなければ意味がない。わたしたちの内に住んでくださるキリストの霊によって、その霊をうけて清められた心で礼拝をする。それがあるべき姿である。

○六月五日(木)いのちのさと集会 詩編一一九の3340

 ここで作者は「あなたのみ言葉、掟に従う道を示して下さい。それを守らせてください」と祈っている。み言葉に従う道は常に新たに示される必要がある。そうしないといつのまにか、み言葉でなく、人間の言葉にしたがってしまう。そして個人個人が間違った道に行こうとする。それが大きな規模になくと国家全体が戦前き日本のように、間違った道に向っていく。

 真理の道はいのちにつながっている。神の道は命を得る。主イエスが「わたしは道であり真理であり、いのちである」と言われた。主イエスは私達に道を備えて下さった完全なお方。人間の心の罪を取り除いて神の国への道を与えてくださった。集会に集う事で私達は立ち返り、神様に道を示していただく事ができる。

 40節に「あなたの命令、み言葉を待ち続けます。命を得させてください。」とあり、ここで、肉体の命以外に不滅の命があるのが暗示されている。死を越えた命があり、命に至る道がある。聖書では繰り返しそういう道があると言っている。

 イザヤ書35章では、荒野や荒れ地に道を作る神の力が言われ、砂漠に花が咲き、そこに水が流れて大いなる道が敷かれる。その道は聖なる道で汚れた者は入れない。キリストに行く道。その道を絶えず示して下さい、導いて下さいと私達も祈る。この世の人から見たら狭く見えるが本当は広い。誰でも求めたら入れる平等性がある。重要な事では、この世の中は皆平等で同じ所に立っている。すべての人がこの道に招かれているのである。

○六月九日(月)藍住集会 詩編一二七

 「主ご自身が建てるのでなければ労苦しても空しい」と言われている。建てる者の働きは、壊れたり消えたりする。主が内に留まって下さらないと実を結べない。

 この建てるというのは建物だけではない。表面で言われた意味の奧に普遍的な内容を含んでいる。新約とどうつながっているかいつも考えて読む。聖書が他の本や哲学と違うところは主が建てて下さる、つまり主がして下さるのでなければ実を結べないと言われている事である。普通この世は生まれつきがものを言う。努力だと言う。しかし、一番大切なものは生まれつきによっては作られない。「主が建てる」という事に根本的な解決が示されている。これを知っている状態が「心の貧しい人」である。


 次ぎに「主が守って下さるのでなければ」守っても守っても空しい。人間は良い事も守れず、その気持ちも萎えてしまう弱い存在である。自分で守れないので「主よ、共にいて下さい」と祈る。主ご自身が守って下さる為にいつも祈る。祈る事についても、自分で祈る事もできない時もあり、その時は人に祈って貰う。身を委ねる。協同の祈りによって祈りの協力をする。祈りによってサタンが遠ざけられる。

 人間が明日の事を心配し焦ってもいつまで経っても安らぎがない。主に建てていただき、主に守っていただき、委ねて平安に歩みたい。、

 

○六月十三日(金)天宝堂集会 マルコ七・3137

「耳が聞こえず舌の回らない人」とある。

耳が聞こえないと発声の機能がまったく発達せず、声が出せなくなるし、言葉もまったく分からなくなる。言葉の習得は、乳児から幼児にかけて耳から入る言葉によってなされるからである。言葉が習得できないと言うことは、人間と動物の根本的な相違点の一つである「考える」ということができなくなることである。というのは、「考える」とは、言葉によってなされることだからだ。

それは、人間として成長できなくなることを意味する。昔は福祉もなく聾学校のような教育もなされておらず、耳が聞こえない状態で放置されると、人間の姿をした動物という悲惨な状態になってしまう。耳が聞こえないということは、それほど重篤な障害なのである。


 そして、その苦しみや悲しみも言葉がわからないゆえに、表現もできず、訴えることもできない、たえず、周囲の人間の、あざけりや差別の目や態度だけが目に入ってきて、そのうえ、なぐったりたたいたりで単純な力仕事などを命令されるという、私たちには想像もできない苦難の日々であったと思われる。

 しかし、そのような状態であっても、キリストによって命を与えられ、変えられていくことがイザヤ書で預言されている。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。・・そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。」(イザヤ三十五・16


聞こえなかった者が聞こえるようになる。ヨハネ福音書では、見えなかった者が見えるようになることも示されている。

「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ九・3841


 どのような苦しみも、背後には神の御計画がある。耳が聞こえない、目が見えない、という苦しみのただ中に主イエスは来てくださるのである。

 ここで、主イエスはファリサイ派の人たちに、肉体の目が見えるか見えないか、ということではなく、霊的な目が見えるかどうかということを聞いた。ファリサイ派の人たちは自分たちの霊の目が閉ざされていることに気がつかなかった。それで、見えないと言われて反論した。自分の弱さや罪に気がつかず「見える」ということに罪がある。

 人はすべて、神の声を聞こうとしなければ、人間の考え―自分や他人の考え中心になっていく。神の声を聞く、ということが決定的な分かれ道になる。信じることは聞くことに始まる。聖書を読むということは、神の声を聞くということになる。

 神はいないというこの世の中で、霊的な目、霊的な声を聞く必要がある。神の言葉を受け取るとき、権力や地位よりも、神の声に従うことを選ぶようになり、神は導きを与えてくださる。

 礼拝に集うこと、また個人の祈りによって、霊的な耳が開かれる。神の声を聞きとらなければ、真理の言葉は語れない。真理に関しては神からの霊を受け取らなければ、聞こえない者であり話せない者である。神によって罪赦され、御手によって導かれなければ、人は正しく歩むことはできないのである。

 ○六月二十二日(日)主日礼拝 Ⅱコリント十三・15
            大人35名(内スカイプ6名)子供2

 コリントのキリスト者の集まりの中で、パウロに反発し間違った考えを持ち、集まりに混乱をきたす人たちがいた。どうしても悔い改めようとしない人たちに対してどのように決着をつけるか。除名する必要があるが、祈って決めたうえに重要な何人かの人を集めて慎重に確定することとした。

 集まりの中には、パウロは強そうなことを言っているが、実際は何もできないのだと、パウロを軽んじる人がいた。そこで、パウロは、自分が強いのではなく、キリストの力を受けているのだ、ということを明確にした。

 キリストは、弱さの中に力を与えることができる。それは、パウロのことばにあふれている。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(Ⅱコリント十一・30

「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(Ⅱコリント十二・5)「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント十二・910

 キリストを信じるとき、弱さ、悲しみ、苦しみがあっても、それが後になって、恵みと変えられる。パウロは自分の弱さを知っていた。そして、その中に力を与えられていた。

 弱さのただなかで、神の完全な力を受けていた例は、キリストであった。罪人と称され十字架を担ぎ、よろよろと歩いて、十字架の上で殺された。その、徹底した弱さの中で、全世界の罪の贖いをなされた。弱さの中で、人類の罪を解決するという最大の力を発揮したのである。人は自分自身の罪すらどうすることもできない。キリストだけが罪を贖うことができる方である。弱さの中に現された神の力。その力を信仰によってわたしたちも受けとることができる。

 そのような大いなる力があるにも関わらず、間違った悪い考えに引っ張られようとする人たちがいたのである。それで、「あなた方は自分自身のことがわからないのですか。」と指摘している。それは、わたしたちにも、今、言われていることである。

 あなたたちは、キリストが内にいることを知らないのか。今、発している言葉を、キリストが聞いていることがわからないのか。していることを神様が見ておられることがわからないのか。不満が生じるとき、祈っても変わらないとき、神が万能であることを知らないのか。絶えず、キリストは語りかけている。キリストは、わたしたちの内にいてくださるのである。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント三・1617

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント六・1920

 人は、霊の目を覚まされないと、自分の感情で生きてしまう。絶えず内なるキリストの声を聞く。そのために、個人の祈り、また共同の祈り、そして御言葉に聞く必要がある。礼拝もそのためになされているといえる。

 
○六月二十二日(日)つゆくさ集会 (153回目)
                Ⅰヨハネ二・713

「古い掟」「新しい掟」とある。この「掟」とは、現代の私たちにとっては、「御言葉」である。

「古い掟」とは、レビ記の以下の箇所をさす。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記十九・18

 レビ記から、主イエスは、聖書の中で最も大切な箇所として、この重要性を見抜いて、取り上げられた。まず、神を愛し、そして隣人を愛すること。それが、古くからあった神からの言葉として記されている。そしてそれが、新しい言葉となった。キリストが来られ、新しい言葉として輝いてくる。

 キリストの光が輝くとき、新しい力を与えられる。重荷として感じられていたことが、喜びに変わる。キリストの光を受けると、聖書の言葉も、出来事も人間関係も、新しくなったと感じる。

闇が去り、光りが差すと、見えないものが見えるようになるからである。

 創世記の初めに、記されている「闇の中に光あれ」と言う言葉は、キリストによって世界中に広がった。人の心の中に光が広がる。罪に苦しめられる世界に赦しが広がる。憎しみは、闇の世界である。反発心や、嫌いだと思う心、それが憎しみの芽となる。

主にあって、赦し愛するのか、それとも、反発の感情で過ごすのか。

 赦すためには、キリストの光を受けないとできない。罪赦されたと言っても、油断をすると罪の世界に落ち込んでいく。ふとしたことから憎しみがはいりこんで、赦されていないようなものとなる。真の光は常に輝いている。そのキリストの光を常に受け続ける必要がある。

○六月二四日(火)移動夕拝 熊井宅 申命記一一章1~12
                   18名(内スカイプ八名)

 「あなたの神主を愛し…」とあるがこれはいろいろな事の出発点である。私達は神を愛するのでなければ戒めを守れない。愛は心を注ぎ出す事である。日本人は神の正体を知らないので神を愛するという事を知らない。恐怖を与えるものも神として祀ってきた。

 聖書の神は信頼できる真実な方である。詩編は神への愛で満ちており、はじめから終りまで神への愛で貫かれている。人間に言ってもどうすることもできないが神だけはできると信じて神に心を注ぎ出す。それが神を愛するということである。

 八節に「今日命じるすべての戒めを守れ」とある。申命記では「今日」という言葉が繰り返し言われている。

 人間は今日するべき事を延ばしてしまう。しかし絶えず神を思っていたら「今祈ろう」「今日しよう」と思う。

 今日も主イエスが語りかけて下さる。神の語りかけを聞いて従っていくなら良い地に行ける。モーセが導く良い地は「乳と蜜が流れる地」である。これは非常な豊かさの象徴であり良い地には豊かなものが溢れている。

 新約では、それはイエス・キリストの事である。私達は主イエスに結びつくと一番良いものが流れてくる。ヨハネ1の16で「わたしたちは皆、この方(主イエス)の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた。」と言われているが。これが現代の私達にとっての「乳と蜜の流れる地」である。この世は毒が流れている。「どこにそんな良いものがあるのか」と反論する。しかしイエス・キリストと結びつくと心の目が開かれ霊的な神の国が見える。聖霊によらなければ神の国は分からない。これを見失う事がないように心の目をいつも開いて良いものを受けていきたい。


○二〇一四年六月二十七日 スカイプ集会 ルカによる福音書13章1~9節、15章1~7節「悔い改めの重要性―滅びからいのちへ」参加者 19名。(このスカイプ集会は、全員が自宅にて、インターネットのスカイプを用いての集会。県内11人、県外から8名の参加)

  13章は悔い改めの重要性が書かれており、二つのとても特異な事が書かれている。ガリラヤ人が殺され、痛ましいひどいことをされたが、何故このようなことが起こったかは書かれていない。もう一つは、シロアムにあった塔が倒れて、事故で18人が亡くなった。

 そのガリラヤ人は罰としてそのような目にあったと考えられていたことが分かる。日本でも何かあれば先祖の祟などと言われてきた。しかしほかの人たちより罪深かったのではない。ここで強調されているのは「悔い改めなければ、同じように滅びる」ということ。このような目に遭わなくても、人はいつか死んでしまう。

 滅びるという、人間にとって最も重大なことが悔い改めにかかっている。犯罪に巻き込まれたり、争いで亡くなる悲劇が起こってきたが、もし、悔い改めるならば、死んだとしても滅びていない。最大の分かれ目である。

 けれども、誰が最期のときまで悔い改めなかったかなどと言うことは、神のみが知ることであるゆえに、他者をあの人は悔い改めなかったから裁かれてしまうなどと決めることはできない。。

 しかし悔い改めていた人、神様に心を向けていた人は、確実に滅びない。憲法9条の精神は風前の灯である。神様のご意志に反することであるが、そういう事態になっても、個人の魂の滅ぶかどうかという重要性は変わることがない。

 「悔い改め」という言葉は、日本語とギリシャ語やヘブライ語ではかなりニュアンスが違う。日本語では、諭されて、間違いに気づいたことを悔い改めたと言う。しかし聖書的には、ギリシャ語のメタノイアは変えるということ。メタは変化、変更、ノイアは理性的なものという意味がある。感情的な心の動きではない。神に向かって向きを変えることが本来の意味。

 「あなたがたも、神に向かって、心の方向を転換しなければみんな滅びるのだ」と言っている。家族のために本当に祈っているか?ということを真剣に考えると、だれでも十分ではない。愛が足りない。このように人の罪を数えるときりがない。

 自分はあの人のような罪を犯していないと考えるなら、自分の罪に気づいていない。そういう状態は、神様を見つめていない。神様のように汚れがのないものを見ていたら、僅かな汚れも分かるが、人間のことばかり見ていたら、自分の罪にも気づかないのである。 魂を向け変えなければ、皆同じように滅んでいく。

 また、実がならないいちじくのたとえについて。  ぶどう園はイスラエル民族のことを言われることが多い。いちじくの木は神の民。主人は神様で、3年ということは完全に探してきたということである。実をつけるために大事なことが方向転換で、そうして初めて神様から豊かなものが流れてくる。みんな裁かれてしまうのだが、執り成す人である園庭が現れた。それはイエス様をあらわしている。とりなしは主イエスの使命だった。ずっと実がならない木のために、「イスラエルの中の失われた人のところに遣わされた」と言われ、園庭が肥料を与えるように、精一杯神様の言葉を伝えた。しかし、人々は立ち返らずエルサレムは徹底して破壊された。

 また、ユダの国が、エレミヤが命懸けで伝えたが立ち返らず捕囚されたこととも繋がっている。頑なであったら滅ぼされた。しかし、神様の方に向くことは、誰でもできること。罪に気づいたらイエス様に向かう。心の向き変わりが重要である。

  見失った羊が見つかるまで探し回る。先ほどの滅びや切り倒されることに比べて対照的である。本来神様は、何としても居なくなった者を探されるという、神様の愛の側面が強く示されている。

 また、ここでは心の転換がどんなに喜ばしいことかを示している。友達や近所の人に「一緒に喜んでください」と言う。一人の罪人が心を向き変えると、天使たちの中に喜びがある。たった一人でも神様に向きを変えて救われたならば、天でもみんなが喜びを共有できる。立ち返りは悪いことをした時だけでなく、日々、いつでもできる。

 イザヤ書4522節「地の果ての全ての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。」と言われている。いつも自分のことばかり、人間のことばかり見ているところから、神様の方に魂をターンする。うまくいっている時も、健康な時も、美しい自然を見ても、悲劇があっても、喜ばしい時も。私たちも毎日死が近づいているが、身元に引き寄せてくださいと、絶えず神様に向かうのである。詩篇では生きるか死ぬかという時に、神様に「哀れんでください」と叫ぶ。今私たちが毎日できることであり、恵みが与えられる道なのである。


○六月二十九日(日)主日礼拝  Ⅱコリント十三・613 

  32名、子ども2名、★スカイプによる参加7名。計 41名。 

「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」(Ⅱコリント十三・8・口語訳)

 一般的には、力があるかどうかは、生まれ持った能力、また権力、財力などによる。しかし、聖書は、真理に力があるという。真理に結びついたら、そこに力が与えられる。本当の力は知識からは与えられない。どんなに苦しくても耐えて働く力。死をも乗り越える力が真理に従えばできる。

 真理に逆らえば、一時的にはうまくいったように見えても最後には壊れる。しかし、世界がどのように変わろうと、キリストがつくられた、目には見えない国は壊れることはない。

 また、人間関係においても、人は誰であっても完全には信じることはできない存在である。しかし、神を信じることにより、どんな人でも信じることができる。神の力が働くことを信じることができるからである。

真理とは何か。キリストが真理である。「わたしは真理である。」とイエスが言われた。

 たとえ、この世がどのように変わろうと、真理はかわらない。

すべての人は、力がなくて苦しむ。耐える力がなく、萎縮していく。しかし、神のことばに従うとき、力が与えられる。

○7月6日(日)午後3時より、高松集会。「聖書において生きるということ、命 はどのように記されているか」マタイ4の4、創世記1~3章他。 参加者7名(内、スカイプ2名)

7月8日(火)海陽集会  ダニエル書2の25~49

 ここでは ダニエルに啓示されたのは、さまざまの大国、強力な国が次々と起こるが、いかなる強い国が起ころうとも、時がくれば、必ずそれらは滅びていく。それは、「人手によらずに切り出された石」と言われている。その石が、強力な国を打ち砕き、最終的には、神の国を来らせる。ダニエル書のこうした記述は、聖書全体にも流れている。それは、大きな時間の流れのなかでその歴史を貫いている法則を示している。そして最終的に、キリストによる霊的な王国の到来を指し示すものとなった。

                   (まとめと入力  K.K &  H.N  & Y.N & T.Y

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編集だより

○7月17日~20日までの、北海道の瀬棚聖書集会には、今年は、北海道以外からも愛媛、長野、静岡、東京、徳島などから初めて参加する方々がおられます。地元の瀬棚の牧畜などの仕事にかかわる人たちと、北海道外からの参加者すべてが祝福される集会となりますようにと祈っています。

 また、その後の21日(月)札幌での交流集会にも、札幌在住の方々だけでなく、釧路、旭川などからの参加者、そして瀬棚に参加した各地(道外)からの参加者も集う予定です。

  さらにその後の各地での集会でも主が共にいてくださり、参加者の一人一人にみ言葉と聖霊が与えられて新たな力が与えられる集りとなるように、ご加祷をお願いします。


集会だより  2014.6  NO.407


私は常に主を私の前に置く。主は私の右におられるゆえ、

私は動かされることはない(詩篇16の8)


 ○五月一日(木)いのちのさと 詩編一一九篇1732

 ここでは「神のことば」についてくりかえし記されている。神の御計らいがあり、神からいのちを受けてこそ、神のみ言葉を少しでも守ることができるようになる。み言葉によって命を得させてください、とある。み言葉を与えられて、また神のいのちを受けていくことができる。信仰が続くのは、神のいのち、御言葉を与えられるからである。人間の言葉を守っていくとき、だんだん神から離れて行ってしまう。

 18節では「律法」と訳されている。この原語(ヘブル語)は、トーラーであるが、み教え(新改訳)、掟(口語訳)などいろいろに訳されている。現在の私たちに最もわかりやすい言葉で表すなら、それは「神のことば」ということである。目の覆いがあると、真理が見えなくなる。神様に目の覆いを取っていただかないと、わからなくなる。

 20節では「あなたの裁きを望み続け、わたしの魂はやつれ果てました。」とある。この「裁き」とは、原語でミシュパットであり、これも、正義、公平、公正、おきてなどいろいろち訳されるが、基本にある意味は正しさ、ということであり、神様の義、神様の御支配をやつれはてるほどに真剣に求め続けた。

23節では「地位ある人々が座に就きわたしのことを謀っていてもあなたの僕はあなたの掟にのみ心を砕いていますように。」とある。どんな権力がある人に謀られても、神を見つめていると揺れ動かされることはない。

 24節、「あなたの定め(み言葉)はわたしの楽しみです。」とある。楽しみとは「喜び」というほうがふさわしい。神のみ言葉がわたしの喜びになる。それが、わたしたちの目標でもある。

「いかに幸いなことか…主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。」(詩篇一・12)とある。

27節「わたしは驚くべき御業を歌います。」神の御業を感謝して歌う。また、28節「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」とある。神を信じていても苦しみにあう。その中でもこの祈りができる。

 29節 偽りの道をわたしから遠ざけ憐れんで、あなたの律法をお与えください、とは神の言葉を与えられ、正しい道を歩ませてくださいという祈りである。

 30節 信仰の道をわたしは選び取りました、とある。この信仰と訳された原語は、「真実」という意味である。真実を選び取ったので、さらに間違わないように、あなたの裁き、つまり正義にかなうものとなりますようにという祈りである。

 31節 主よ、あなたの定めにすがりつきます。わたしを恥に落とさないでください、とある。これは滅ぼさないでください、神様の定めにすがります、ということである。

 32節 あなたによって心は広くされわたしは戒めに従う道を走ります、とある。神によってのみ心は広くされる。人間のことばかり見ていると心は狭くなる。。パウロも以下のように記している。

「私自身は既に捕らえたとは思っていない。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ書三・1314


○五月四日 (日)主日礼拝 サムエル下十六・15~十七章32

 サウルに命を狙われ絶望的な状況の中にあったダビデであった。その中に現れたのがフシャイであった。フシャイはダビデの協力者であった。ダビデはフシャイをアブサロムのもとに使わした。そして、フシャイに「あなたのしもべです、と言いなさい」といった。ダビデはアビアタルも都にいるように、そしてアブサロムが何をしようとしているかを聞き取って、伝えてほしいといった。非常な悲しみと混乱の中で、ダビデは冷静に判断をし、できることをして、あとは神にゆだねていた。そのような英知も神から与えられていた。

 アビアタルは祭司の子供であった。サウルが祭司の子供を皆殺しにしたとき、その中でアビアタルだけが生き残り、ダビデのもとに逃れた。神様は残酷な出来事を、なすがままにさせたが、その中でも、すべての道筋を備えている。今も昔も人間の現実の中には闇や混乱がある。しかし、そのただなかに、神様の導きはある。 

 アブサロムは、戦いについてアヒトフェルに策をきいた。そして彼の悪質な忠告を聞いて父の側室を奪うということを公然と行った。それは、かつてダビデが犯した罪に対する神の裁きとして、預言されていることだった。ダビデは犯した罪により、ダビデの家系の中から敵をおこし、妻たちを奪われるという預言があった。神を軽んじた、その裁きは重い。ダビデは苦しみによってその罪の重さを知らされた。心から悔い改めるとき、神に罪を赦していただける。しかし、罰は残るのである。ダビデの苦しみは罪に対する裁きであった。

 アブサロムは戦略をアヒトフェルに聞いた。アヒトフェルの提案は、今すぐにダビデを襲撃するべきだといった。アブサロムは、フシャイの意見も聞いた。フシャイは、今すぐに襲撃しないで、時間をかけてすべきだといった。アブサロムはフシャイの考えを選んだ。そこには神が働いていた。歴史の中に神は介入し、ダビデを守ったのであった。神様は時に応じて、必要な助けを起こされる。神が用いようとされたら、どんな状況の人でも用いられる。悪い計画を起こしたアヒトフェルは、自分の提案が却下されたことを知り、滅んだ。そして、ダビデは不思議な方法で助けをうけた。食糧や日曜の必需品をも与えられていった。

 息子に妻を奪われ、命を狙われる。そのような闇の中で、神はダビデを導き 苦難の中で助け続けた。それは、今も、同じである。どんな苦しみが襲ってきたとしても、神の助けが必ずある。そして、そのただ中に神は救いの業を進めているのである。


 ○五月五日(月)小羊集会 使徒言行録四・2331

 ペテロとヨハネが民衆にキリストの復活を伝えていた。それを聞いた多くの人が信じた。聖霊が働くとそのように人の心を変えることができる。権威ある者たちは、その影響力をおそれて、話すことを禁止したが、ペテロたちは「人に従うよりも神に従う」と言ってやめなかった。人を恐れていたペテロたちが聖霊によって変えられて神のことばを伝えるようになった。神のことばを伝えるのは聖霊の働きによる。

 そして、ペテロたちは釈放された。それを見た民衆は、まず神を讃えた。天地創造は神がなされたが、聖書には、万物はまたキリストによらずに成ったものは何もない、すなわちキリストもまた、神と同様な創造者であると示されている。(ヨハネ伝やヘブル書1章など)わたしたちも、神を思うとき、天地宇宙万物を創造され御支配されているということを、まず思い起こすべきである。万能である神は、時が来ればどんなことでもできる。良きことをなす人は神がそのような力を与えたことを讃える。悪いことをする人に対しても、まず神を思い、その心が変えられるようにと祈ることができる。

 まず、神のことを思うことによって、人間は絶えず前進できる。

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。『我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう』と。」(詩篇二・13

 ペテロは、この詩篇を引用した。さまざまな悪の力が、神やキリストを打ち壊そうとする。しかし、神の力こそ、それらをすべて打ち壊す。ひとたび神が立ち上がれば神は悪を滅ぼされる。世界でも、個人の心の中でも、神の真実とこの世の力のせめぎ合いである。最終的な問題の解決はどこにあるかということをここでは示している。

 この詩はダビデの詩であるが、聖霊によって語らせた。だから聖書となっている。このように詩篇は、預言書ともなっている。

使徒言行録も、聖霊によって書かれていることが初めに記されている。「…わたしは、イエスが行い、また教え始めてから、使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」(使徒言行録一・12より)

ペテロたちは主に「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」と祈った。キリストの真理を伝えるとき、妨げが働く。それは、かつてのさまざまな迫害の歴史が示しており、今も迫害は行われている。しかし、そのただなかでも信仰を守ってきた人がいた。現在、中国でもキリスト者が、弾圧の中でも増え続けている。

ペテロたちのこの共同の祈りが終わった時、場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされた。祈りによって場所が動いたのである。動かないはずのものが動く、その大いなる力を実感した。大地が動く力を受け取り、神の言葉を力強く語り始めた。

聖霊によって語られた神の言葉に力があり、世界を変えていく。

当時の祈りが、いかに力があったか。ここでは共に真剣に心を一つにして祈る。そのときに大きな力が働いたかが示されている。個人の祈りだけではなく共に祈るとき、そこに聖霊が働く。


五月二日(金)天宝堂集会  (フィリピ三・1221

 目標を目指して、ひたすら走る、と書かれている。走る、ということは全力で前を見て進む。競争ということを考えてもわかりやすい表現であり、ひたすら走る姿勢を示している。わき目もふらずに神様をひたすら見つめて走る。そのときに目標が明確でないと右往左往する。パウロが示したのは心の方向性である。

 パウロが「わたしに倣うものとなりなさい」と言っている。当時は新約聖書もなかった。それで、キリストの霊を受けた自分を見習いなさいと言っているのである。

「キリストの十字架に敵対して歩んでいるものが多い」とは、自分のことを一番大事にしていることを指す。他者のために命を捨てられたキリストと全く反対である。十字架は罪の赦しの象徴であり、神の御意志に完全に従うということがあらわされている。わたしたちも、キリストに導かれなければ、本能的なことが中心となっていく。その行きつく先は滅びである。しかし、キリストを信じる者の国籍は天である。使命を与えられ、地上に遣わされている。そして、死によって天に帰る。

 わたしたちは、最終的にはキリストの栄光ある体と同じに変えてくださる。それは、万物を創造し支配するキリストの力によってなされる。それは以下の箇所にも記されている。

「神は、御子によって世界を創造された。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられるが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれた。」(ヘブル一・23

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・13

  わたしたちが目指し求めているのは、そのようなキリストの御支配である。


○五月十一日(日)主日礼拝 (Ⅱコリント十一・11531名。

 ここでは、キリストの真理を伝えているパウロの影響を排除し、異なるイエスをコリントの信徒たちに伝えようとしている力が入り込んできたことがわかる。パウロは間違ったところに決して行ってはいけない、と強く言っている。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」(Ⅰヨハネ四より)

 キリストは神であるが肉体をまとってきた。人間として苦しまれた。しかし、それを否定する人が出てきた。このことが特に重要であるから、ヨハネ福音書の始めに記されている。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ一・14

 ヨハネが強調しているように、聖書が示しているのとは異なるイエスを伝えようとする人、教派が現在もある。キリストの神性を否定して単に、人の罪を背負って歩んだ模範的人物だとするような人たちがいる。

 しかし、聖書は明確に、キリストが神でもあったことを繰り返し記している。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・13)と記されている。この「言」こそ、キリストである。万物の創造主である神と同じであることが記されており、これは初代のキリスト者たちが受けた明確な啓示である。

  ヨハネ福音書以外にもつぎのような箇所で記されている。

「神は、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造された。」(ヘブル一・12より)

「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ている。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方である。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた。つまり、万物は御子によって、御子のために造られた。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられてる。」(コロサイ一・1417

 そして、そのキリストの十字架の愛は計り知れない。唯一の神、キリストは創造主である。その広さ、深さを少しでも知ることができるように、聖霊を求め、聖霊によって導かれたい。


○五月十四日 水曜集会 箴言4章 

 英知とは、何が正しいか、何が神さまのみこころにかなっているかをわかる力を言うので、日本語の「知恵」とはかなり異なるニュアンスを持っている。分別と訳された原語も英知と同じような意味。しかし、「知恵」という言葉は、知恵の輪とか、不正なことをもするように仕向けることを知恵を付けてやると言ったり、遊具やよくない意味にも使われる。「英知」はそのようには用いられない。

 「命」と「分別」という言葉、共に繰り返し使われている。学校の績では表わすことができない言葉である。この「命」、聖書で使っているようには学校では教えられない。

 英知を心にしっかりと持つ。それは現在の私たちにとって、キリストと置き換えることができる。お金、地位、健康は無くとも、人間存在の中心に、あらゆるものに満ち満ちているキリストを持っていれば、死んでもよみがえらせてくださる。本当の命を与えてくださるからである。生物としての命以上に、霊的な命を与えてくださる。

 何を守るより心を先ず心を守る。心が守られていないと悪いものが入り込んで、悪いことを考えたり、言ったりしてしまう。わたしたちは外側を守るのでなく、内側の心や魂を守らなければならない。それは絶えず攻撃されているから。心がサタンの攻撃を受けているから。悪いことを見たり、考えたり行ったりすることは心が守られていないからである。それらが守られた所に英知があり、命がある。

 イエスさまのことばそのものが命である。ヨハネ福音書6章63には「命を与えるのは聖霊である」とあり、68節には「あなたは永遠の命の言葉を持っています」とある。


○五月二十五日() 主日礼拝 Ⅱコリント12章1~4 

 パウロの特殊な経験を書いているように受けとられやすいが、神によって引き上げられるということ自体は、キリスト者すべてに大なり小なり与えられる経験である。

 「主が見せてくださったもの」の原語はオプタシアで、見られたものという意味がある。啓示とはアポカリュプスで、開いて見せるという意味。霊の世界が開かれた。霊の目で見たこと。

 キリストにあって、啓示された体験が非常に素晴らしい、それで思い上がらないように一つのとげが与えられた。 だが苦難もひとつの恵みであった。そこにおいて神の不思議な助けを体験したパウロ。事故、病気その他様々な困難に出会ったからからこそ、内面が清められ、強められたという体験は、わたしたちにも当てはまる。信仰を持つ者には、厳しい試練が恵みに変えられる。それは霊的恵みともなる。孤独な魂もイエスの支えによって満たされる。

 第三の天とは、最高のところ、楽園と訳された原語、(パラデイソス)は、旧約聖書のギリシャ語訳で、創世記のエデンの園に初めて用いられている。神の備えた完全なところ、霊的世界を示している。そこでの経験は言葉で言い表わすことができない。

 言葉で言い表せないある種の言葉を聞き取った詩が詩篇19篇で、聞き取れない響きが全地にわたっているのを作者は聞いた。

 パウロの経験の中で、神の方向に「引き上げられる」ことは、わたしたちにも当てはまる。神さまはたえずご自分の方に引きあげようとされている。一番高いのは神さまのところ、聖別された所である。霊的な神さまは心の中にもある。

 神のところに引き上げられる。引き上げられて神さまの言葉を聞き取る。人間的な汚れの中には神さまの声は聞こえてこないが、聖書はそういう人たちの記録である。それを語ることのできる言葉として与えられ書き綴ったものである。

 詩篇全体が、苦しみの中から引き上げてくださった、あるいは沈みそうになっているところから引き上げてくださいという祈りの詩である。詩篇23篇は、そのようなところから引き上げてくだされば、このような霊的な養分を頂けるのだということの表現である。たとえ「死の影の谷を行くときも」不思議と力を与えられる。「あなたがわたしと共にいてくださる」ことが引き上げられることの根元にある。そして「盃を溢れさせ」天の賜物で満たしてくださる。このような霊的状態を与えられることが、わたしたちのとっての聖域である。

 主が魂の羊飼いとなってくださると、絶えず引き上げてくださることになる。ダンテの「神曲」煉獄変に、ダンテが、霊的な清めのために火の中を通ってより高いところへ引き上げられていく所がある。導くのは清い歌声であった。それを聞きながら激しい痛みの生ずるところを通り抜けた。若木のように新しくされてダンテは、声なき声を送り続ける、絶対に汚されない星の輝きに向ってさらに上ろうとする。

 わたしたちも、人間世界の様々な暗い出来事によって下に落ちようとするところから、イエス キリストによって日々引き上げて頂きたいものである。


○五月二七日(火)移動夕拝 奥住宅 申命記九章1729 一七名(内スカイプ五名)

 四十日四十夜の後、十戒を書いた石の板をモーセは神様から授けられた。モーセがその二枚の板を持って民の所に戻り見たのは、民が子牛の鋳造を造って主の道から反れ堕落している姿であった。モーセは大切な石の板を「投げつけ砕いた」とある。これは、お金やこの世の栄誉を第一にしていくとその人の中で神の言葉が粉々に壊れるという事の象徴である。神様は人間を生かそうとして下さるのに、戦争は殺す事が目的になる。そのような人や時代は神の言葉が粉々に壊れている。後に、神様はもう一度石の板をモーセに授けた。

 このようにひどい罪を侵したアロンと民の為にモーセは四十日四十夜も神の前にひれ伏して祈った。神様が滅ぼすと言ったので「滅ぼさないで下さい」と必死になって祈った。敵の為に祈れという原型がここにある。

 これはイエス・キリストが完全な形で示された。

 人から何か悪い事をされた時、その人を赦さないと言えば、主も私達の罪を赦して下さらない。執りなしは深い愛につながっている。創世記十八章20節にアブラハムの執り成しが書かれている。45人、30人、20人、10人…正しい人が居たら町を滅ぼさないで下さいと神に祈った。イザヤ書五三章にはキリストの預言として「…背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」とある。ステパノも、自分を石で撃ち殺そうとする人に対し、「主よ、私の霊を受けて下さい。その人に罪を負わせないで下さい」と祈った。

 このように聖書には非常に高いレベルの事が書かれている。現代、教育や科学技術が発達しても高いものを見る目はかえって失われている。人間の努力や気持ちでこのように変わることはできない。聖霊を注がれたらできる。私達も聖なる霊をいただいて周りの人の為に執りなしの祈りをしていきたい。


○五月三〇日スカイプ集会 参加者17名「祝福の基」

  旧約聖書はアブラハムの所から、詳しく細かく書かれている。アブラムが初めて神様からはっきりと呼び出されるが、それは突然起こる。アブラハムがそれまでどのような生活をしていたのかは書かれていない。

 私たちが神様の言葉に出会うのは、このように全く不連続的である。徐々に光が生じてくるのではない。神の言葉によって、突然光が生じる。万能の神様の大いなるご計画は、突然にして起こり、聖書全体でもそのように言える。突然十字架や復活がわかる時が来る。

 また、たとえどんなにあの人は駄目と思う人がいたとしても、この世の中が絶望的であっても、諦めることはない。主の日は突然来るのである。ユダヤ教・イスラム教・キリスト教にとって、アブラハムは非常に重要な存在であり、アブラハムが神から呼び出されたのは、人類全体にとってとても大きな影響を及ぼす出来事であった。

 大事なのは、アブラハムが御言葉を受けて、従ったことである。神の言葉、御言葉が決定的な意味を持っており、その人の過去の状態や教養、家柄は問題にされていない。一方的な神の計画で選ばれた。イエス様の弟子も漁師や収税人であった。パウロもキリスト教徒を迫害していた。

 アブラハムが召命を受けたのは、カルデアのウルであったが、そこからハランに導かれて行った。ウルからハランまでは1千kmもある。また、ハランからカナンは、道のりでは八百kmある。合計千八百kmもの非常に長大な未知の道を、非常な乾燥地帯の中歩いて行った。

 これは簡単なことではなかった。召命を受け、出発したのは七十五歳とあるが、アブラハムは百七十五歳まで生きたので、半分より少し若い。今の感覚(寿命80歳)で言うと三十五歳くらいである。

 大いなる国民として祝福し、祝福の基となる。本来は「なるように」という祈願文ではなく源という言葉もない。原文では「あなたは祝福となる」である。特に大いなる国民になる。ということが言われている。これは祝福の重要な要素である。本当の祝福を受けたら、パン種が膨らむように何かよきものが広がっていく。

 本当に福音に従って生きていると、人間関係も本人がその様に求めていなかったとしても豊かに広がっていく。信仰がない時にこの世の友人を求め、親友ができても、自分が信仰を持てば今度は相容れなくなってしまうということがある。しかし信仰を持っていたら、思いがけない人間関係も広がりができて行くのである。

 神様の御言葉にはそういう不思議な力がある。湧き上がる水となって、それが他者にも及んでいく。地上の氏族は全てあなたによって祝福されるとあるように、自分の民族だけではなく、広大なものをもたらす。旧約聖書はキリストを指し示すが、この祝福の根本は主の言葉であり、それに従って旅立ったことである。それを退けては何も来ない。この祝福を、なぜ神様は最初のウルの地で与えなかったのか。

 神様は万能であるのに、アブラハムの郷里で祝福を与えず、なぜ千八百キロメートルもあるような遠い国に行かせる必要があったのか。それは、神様にどれだけ従うかという過程が必要なのであり、それを経てアブラハム自身に祝福が染みとおっていく。神様は非常な回り道を通らせることで、その過程で祝福を与えられる。

 ここから、私たちは神から苦しむことなく、喜ばしいことだけを受けるとのではないことも学ばされる。神様の声に従って行くから、そこを行くことができる。困難だから一層神の言葉にすがるのである。

「神の言葉」を持っている人が祝福されるのであり、重要なのは、神の言葉なのである。その神の言葉を完全にもっておられたのがイエスであり、神の言葉そのものでもあられた。

それゆえ、主イエス以上に、内村、矢内原などをもちだすべきではない。彼らが持っていた神様の言葉そのものが重要なのである。

無教会では、「先生」との人格的な結びつきを重要視することが多かったが、それよりはるかに重要なことは、聖霊による導きと、み言葉そのものの力を受けることである。

 やっとカナン地方に入ったが、途中の苦労のことは書かれていない。そして到着してやっと「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた。アブラハムはその言葉をしっかりと受け取って、礼拝をした。主のために祭壇を築いて、主の名前を呼び、感謝の祈りを捧げた。

 このスタイルが祝福を受けている人の姿である。一日の出発はまず神の言葉を聞こうとすることから始める。主の祈りを心して祈る。日中はどんな仕事をしていても、御言葉を内に秘める。夕べには一日の旅路を感謝する。こういう生活が祝福の基になる。


○六月二日(月)小羊集会 使徒言行録四・32~五・11

 当時、キリストを信じた人々は、持ち物を共有していた。権力や財力があるものが支配するのではなく、差別をなくし、平等に生活をしようとした。信じる人たちの関係がどれほど強かったかがわかる。目に見えない聖霊を豊かに受け取っていると、目に見える利益を求めなくなる。

 そして、使徒たちの働きを支えるために土地を売ってまで、献金をしたともある。

「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」(ガラテヤ六・6

 このように、宣教する人が、自由に宣教できるように支え人たちがいた。それで、広範囲に宣教できるようになった。キリストを信じた初期の人がどのように生きてきたかがこの箇所でわかる。

 今のわたしたちが、共有できることはなにか。「…あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1・3

 今日のわたしたちは、目に見える持ち物の共有ではなく、目には見えない霊的なものの共有ができる新しい祝福が与えられている。 神やキリストとの霊的交わり、それを共有できるのである。そして、そのような共有が多くなされているほど、集まりに力が発揮できる。まず、主イエスを信徒たちが信じ、霊的に共有すること、そこから礼拝などの集会の中で、賛美、祈りを共有することができるようになるのである。

 初期の信徒たちの、このような良きことに満ちあふれた状態のすぐあとで、五章の内容が書かれている。

 それは、アナニアとサフィラという夫婦が、土地を売って献金を捧げたが、一部を差しだして、全部です、と嘘を言ったのであった。神はすべてを見抜かれている。神に対して一番大切なことは真実である。

 初期の信徒たちが、持ち物を共有し共に生活をして祈るというような理想的な情況のただ中において、このようなサタンの力が働いている。油断をすると、わたしたちも、その力に引っ張られる。たえず、目をさましていなければ、サタンは個人の心の中にも、また、集まりの中にも入り込んでくる。

 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理(真実)をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ四・24

 これは、表面的な型式や、儀式を重んじることとは大きく異なっている。それらすべては、神への真実な心がなければ意味がない。わたしたちの内に来てくださるキリストの霊により清められた心で、真実な心で礼拝をする。それがあるべき姿である。


 お知らせ 

・「いのちの水」誌6月号に紹介した、イザヤ書の聖書講話は、以前からいろいろな方々から、希望が出されていたもので、ようやく完成したものです。夕拝や家庭集会での聖書講話の録音で、不十分なものですが、イザヤ書を読むときの参考になれば幸いです。全体では、136回の講話(65時間余)です。

・7月に、北海道瀬棚での聖書集会、そしてその後の各地での集会にて、神の言葉そのものと聖霊が参加者に与えられる集会となりますようにと願っています。


集会だより 2014..5  NO.406 


彼等は飢えることも渇くこともない。

小羊が彼等の牧者となり、命の水の泉へと導き、

神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。

(黙示録7の17


 ○三月二十四日() 北島集会 詩篇9篇(スカイプによる)

 この詩の特徴は、「あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」ということ。乏しい人、貧しい人とは、圧迫され、苦しんでいる人。

 心を尽くして(すべての心)感謝をささげることができることは、語り伝えることと重なる。つまらないことや一時的なことは、長く語り伝えることができない。だが、聖書の世界では三千年も語り継がれ、深い感謝が共にある。なぜなら、悪の力(真理や真実に反する力)が、滅ぼされ、実際に救われたということがあるからである。

 求める人は与えられる。何が与えられるのか。神さまの助けが、聖霊が与えられる。聖霊は力である。苦しみのもとになっている敵(悪の力)は必ず倒れる。神さまの御顔が向けられれば退く(4節)。この経験が実際に与えられた作者は祈る。立ち上がってください主よ、と。

 神を信じないと、人間が思い上がりる。人間の限界を知ろうとしないから、自分の力で奪い取ろうとする。そういった勢力が立ち上がり、わたしたちにおおいかぶさろうとする。ある時は病気、また人間関係、民族の対立。

「立ち上がってください、主よ(20)」とは、政治や社会、わたしたち一人一人にも通じる。ともすれば、自分が立ち上がり、神さまを低めてしまう人間。どうか御顔をむけて、そのような人間的なものが思い上がって立ち上がることを許さないでください。これがわたしたちの願だ。この願いは、必ず神さまが聞いてくださる。霊的な意味でも、あなたを尋ね求める人が絶望しないように希望の光を見出させてくださる。たとえ病気が治らなくても、そのただ中から引き揚げてくださる。

 三千年昔に作られたのに、不思議なほど今のわたしたち一人一人の心の中の生活や、社会や世界の状況を見つめている。わたしたちも、このような神が居られることを日々忘れず生活し、語り伝えていきたい。


 ○四月七日(月)小羊集会  使徒言行録四・122

 ペテロたちが伝えたのは何だったか。それは、主イエスの復活についてであった。復活はあるのか、ないのか。もし、死んだら終りであれば、すべて消えてしまう。そこには愛も正義も意味がなくなる。死に至らせる力は、人間の力ではどうにもできない。

 主イエスが復活したからこそ、その主イエスがパウロに働いた。罪の赦しも復活とつながっている。罪によって人は滅ぶ。復活し、永遠のいのちを与えられるために、主イエスは死んで復活してくださった。そのままでは滅んでしまう人間を、救うため、人間の罪を担って死んでくださり、そのままで罪を赦し、永遠の命が与えられる道を開いてくださった。

 ペテロたちが、その主イエスの復活について述べただけで、当時のユダヤ人の社会的、宗教的有力者たちが集まり「何の権威によって主イエスの復活を伝えるのか」と言った。何の権力も持たない漁師であったペテロやヨハネに対して、有力な社会的権力ある人たちが集まって排除させようとした。無力な者がそれほどの力を受けたといえる。

 昔も今も、キリストの真理を消そうとする力は働いていた。それは、究極的な真理であるからサタン的な力が働くのであった。しかし、聖霊は真理を消そうとする力に勝利していた。ペテロたちは不思議な力を発揮して、「復活のイエス・キリストの名によるのだ」と答えた。当時、救いはユダヤ人の律法を守ることで得られるとされていた。しかし、それを覆し、イエス・キリストを信じるだけで救われること、その他の誰によっても救われないことを証言した。主イエスと共にいるときに、わたしたちも、そのような力を受けることができる。

 家を建てる者、つまり有力な者や支配者たち、そのような人が捨てたものが、親石となった。これは詩篇の引用である。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業。わたしたちの目には驚くべきこと。」(一一八・2223)このように、キリストは詩篇によって預言されていたのである。

 キリストの力によって癒された人がそこにいたので、権力者たちは何も言えなくなり、キリストの名によって話さないように命じた。しかし、ペテロたちは「神に従わないで  あなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と言った。禁止されても迫害を受けても、伝えずにはいられない。それが復活のキリストの力である。


○四月十一日(金)天宝堂集会  マルコ七・2430

 主イエスはガリラヤからティルスの地方に行かれた、とある。60km以上も離れている場所であり、歩いて行くにはかなりの距離だった。主イエスがこのようにはるばる行かれたのは静まり祈るためであった。

 ここで、ひとりの女性が、娘の癒しを求めて、叫びながらついてきた。マルコの福音書では、「主よ、憐れんでください」と主イエスの足元にひれ伏して叫んだと記されている。

 しかし、イエスはこの女性に対して、自分はイスラエルの失われた人にしか遣わされていないと言われ、拒まれた。弟子たちでさえ、女性を追い払ってほしいといわれた。そして、イエスは、自分はイスラエルの民のところに遣わされたのであり、イスラエルの民のことを「子供」、そしてこの女性のことを「小犬」とまでいった。それは主イエスは、この女性がどこまで真剣であるかを試されたのである。女性は、このように拒まれても腹を立てるのでもなく、あきらめるのでもなかった。ほんの小さなものであっても、主イエスを信じて求めたら与えられると確信していた。

 キリストの教えにも接することなく、主のわざにも接していないし、以前からの預言もほとんど知らないはずの遠いこの地方で、このような信仰を与えられていたのである。風は思いのままに吹くとあるように、聖霊が与えられたら、突然このような信仰が与えられる。女性は異邦人であったが、特に願いがかなえられた。

 イエスに求めようとしたら、さまざまな妨げが起こり、試されることがある。しかし、どれほどの妨げがあっても、主イエスをどこまでも真剣に見つめて行ったら、必ず与えられる。何を言われても、どのような損失を受けても、それでも、主イエスを信じて求めていく姿勢が示されている。それは、別の箇所でも記されている。それは以下の箇所である。

 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(ルカ十一・510

 求めなさい、求め続けなさい。と主イエスは示されているのである。


○四月十三日(日)主日礼拝 Ⅱコリント九・115

                 26名(内スカイプ4名)

 真実な心からの献金は、どのような働きをするか。献金を贈り物とも記されているが、「贈り物」とは原語の意味からは「祝福」という意味がある。主にある献金は祝福を生むとパウロは知っていた。惜しんでわずかしか蒔かない者は、刈入れもわずかであり、豊かに蒔く物は豊かに刈り入れることができる。

 神様のために献金をする、ということも福音の種まきである。祈りと祝福をもって差し出せば、受け取ったものは単にお金を受けとったことにとどまらず、祝福をうけとったことになる。主によって豊かな心になり、良きことが伝わっていく。

 わたしたちが、何かをするとき、それは誰かの中に種を蒔いている。主に向かって種をまいているかどうかが、刈入れが豊かであるかどうかにつながる。神はあらゆる恵みに満ち溢れている。主にあって他者を満たそうとする人は、祝福を受ける。

 他者に対して、良きことをしても、人間的な気持ちであれば、枯れてしまう。しかし、神様からよきものをもらい、そして行うときには、たとえ人に裏切られても、そこから祈ることができる。

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」とある。いつも良きものを満ちあふれさせようというのは神の御意志である。 パウロは「貧しい人々にはふるまい与え、その善い業()は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(詩篇一一二・9)という箇所から引用して、「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです、と言った。

 わたしたちも、神様からのよきものを受けて真実な心で蒔いたら、神様が成長させてくださる。祈りのこもった献金を差し出すと、相手は、神に対する感謝の念が生まれてくる。苦しんでいるキリスト者のため、遠くからでも献金をさしだすとき、不足しているものをおぎなうだけでなく。神に対する感謝が増えていく。そして、その働きも潤され、それがまた他者を潤していく。

 この章には「感謝」ということが繰り返されている。相手にだけではなく、神に対する感謝に広がっていく。それが、神をほめたたえる気持ちとなっていく。純粋な祈り、純粋な捧げものが、目には見えない波動になって広がっていくのである。


○四月一四日(月)藍住集会 詩編一二五

 神は山のように揺らぐことがない。主により頼む人は山のように動かない。人間は何かに頼んでいる。自分は何ものにも頼っていないという人は自分の能力や意思に頼っている。人々がいろんなものに頼っている中で、目に見えないこの世界を越えた神に頼る事ができる。

 主がイスラエルの民を囲んで神の民を守って下さっている。

 現在の私たちにとっては、神が、自分を信じる人々を取り囲んで守って下さっているということである。信じる人の集まりが続いてきたのは、主が取り囲んで守って下さっているからである。悪しき人の笏(力の象徴)は正しい人の場所に置かれることがなく、主に従う人が悪に手を伸ばすことはないようにとの祈りがある。

  人間は、常に悪の攻撃を受け、悪の影響力に晒されている。しかし、その悪の力が及ばないようにいつも主が取り囲んで守って下さる。集会の中に、人々の交流の中に悪しき者が入り込まないように神の手が置かれ、神の慈しみを下さい、そして平和(平安)を下さいという祈り。

 これは集会全体に対する祈りとして三千年を越えて今も祈ることができる。この祈りを日々思い起こし祈っていきたい。


○四月二十日(日)イースター特別集会    56

 ○第1部 子供とともに               司会  熊井勇、熊井ち

・賛美 「いつくしみ深き」新聖歌 209           全員

・オカリナ 「すみ渡る大空に」讃美歌第二編144、「地よ声高く」 讃美歌21-326  高瀬、月岡(多)

・賛美 いのちのさと

  ①おお、牧場は緑、②神様の愛は 子ども さんびか40 ③私が悩むときもリビングプレイズ33

・人形劇 「ザアカイのお話(人形劇)」

       月岡(多)、貝出(久)、 森本(麻)声のみ

○第2部 み言葉に聞く                       司会 中川 啓

・ 讃美 「いざ歌え高らかに」讃美歌第2篇-1312回賛美する)

・ 聖書朗読  ヨハネ112427、同146

・祈り

・聖書講話 「キリストは復活であり、命である」吉村孝雄

・賛美 「いざ人よほめまつれ」聖歌168番 ・祈り     ○第3部 讃美のひととき       司会  月岡(信)

・デュエット

 ①「よみがえられた主に仕えて」リビングプレイズ73

                 鈴木(益)、中川(陽)

 ②「ちいさなかごに」(讃美歌第2編の26) 増田、綱野(悦)

・手話讃美 

①「歌いつつあゆまん」新聖歌325

②「初めにおられた神のみ言葉」新しい歌5・コーラス

①「感謝します」リビングプレイズ131

② 「墓の中に」新聖歌127

○第4部 感話会 (県内各3分以内、県外5分) 司会 中本(裕)

①藤本幸子 ②矢野和代 ③吉村孝雄 ④石川正晴 ⑤伊丹悦子 ⑥逢坂佐久子 ⑦奥住芙美子 ⑧松浦大亮 ⑨松浦ローレン(賛美 Across The Landsと感話)

○第5部 食事と交わりタイム       司会  中川(陽)

 

聖書講話                   吉村 孝雄

 イースター(復活祭)はわたしたちに特別な意味を持つ。それは、再生と言いうことである。再生は自然界の中でもなされている。木々は折ってもそこからまた再生してくる。死んだようになっている種もそこからまた新しい芽が出てくる。人の体にも再生能力がある。

 神は自然の世界に再生という力をお与えになった。人間が科学技術によって実現しようとする再生(科学)には限界があり、そこから悪しきことも生まれてくる。しかし、神の再生は自然界でも完全であり、そこから完全なリサイクルが行われる。聖書には、本当の意味での再生ということについて書かれている。そしてそれは、万能の神を信じるかどうか、ということにかかっている。神が光あれといわれた。そこに光があった。聖書にははじめにそのことが書かれている。この光がキリスである。イエスを信じる人は命の光を持つことができる。イエスが与える光は再生の命といえる。

 イエス漕ぎ悩んでいた弟子たちの船に、海の上を歩いて渡られた記事が福音書に記されている。海とは闇の力の象徴である。すべてを飲み込む海であっても、イエスだけはその上を歩くことができる。闇に引き込まれるのが、人間である。しかし、闇の力から引き上げる力がある。それが神の再生の力である。

 科学の力による再生医療のようなものは、それを押し進めようとすれば巨額の費用や権力も必要で、そこには副作用もある。しかし、神の再生の力を受けるには、ただ信じるだけでよい。昔から歴史の中で、おおくの迫害がなされてきた。それでも、神の力によって再生され、信仰は続いてきた。

 詩篇23編には「主がわたしの羊飼い。わたしは欠けることがない」とある。人間は誰でも欠けることはある。しかし、主が羊飼いとして、導かれるとき、そこから再生され、「欠けることはない」ということができる。命を与える神は、魂に傷を受けても、そこに再生の力を与え、甦らせることができる。だから「いのちのある限り、慈しみと恵みがおいかけてくる」と言えるのである。誰でも苦しいことはおこる。しかし、そこに力を与えてくださり癒し、良きことに変えてくださる神がおられる。そしてそれは求める者には誰でも与えられると約束されているのである。


○四月二二日(火)移動夕拝 中川宅 申命記八章1~10

                    参加者 25名(内スカイプ13名)

 2節に「この四〇年の荒野の旅を思い起こせ」とある。イスラエルの民は、荒野を40年もかけて目的の地へと導かれた。その間には、さまざまの罪があり、神への背信のゆえに厳しい裁きをも受けてきた。それにもかかわらず、他方ではそのような荒野を導かれる道においてさまざまの恵みをもうけてきた。

 ここから取られた「荒野の四〇年」という本がある。(*) ドイツの大統領ヴァイツゼッカーがドイツ敗戦40周年を記念して行った演説の内容である。ドイツにおける大統領は国家を代表する存在である。ヴァイツゼッカーは、非常に多くの死者を出した第二次世界大戦を反省し、「過去に目を閉じる者は現在も盲目となるのだ」と言っている。日本は太平洋戦争でおびただしい犠牲者を中国を中心としてアジア各地に生み出し、その反省と平和を強く願う気持ちから、平和憲法が作られたが、今まさにそれが壊されようとしている。

*)岩波書店刊行のブックレット。現在でも購入できる。

 

 そのような歴史における出来事を心に刻む、心に覚えるという事は神が警告してくれた神のみ業を、あらためて目の当たりにしようとする事である。過去の大いなる過ちを繰り返さないためにも、そのことは重要となる。そうした姿勢こそが、救いを完成していくために不可欠なことである。 神のみ業の経験を忘れる者は信仰をも失う。

 3節に「人はパンだけでなく神の言葉によって生きる。」とある。主イエスもここを引用された。人間の考え、言葉、食物、どんなに摂っても本当に生きることはできない。日本では食物がなく飢え死ぬ人はいないが、神の言葉を食べないので生きられない人がたくさん居る。園の中央に「いのちの木」と「知識の木」があった。神は知識の木からは決して食べないように。食べると死んでしまうと言われた。人間の知識だけでは死んでしまう。神の言葉によって生きる事ができる。み言葉がすべてのものを造り、すべてを支えている。(ヨハネ1の2~3、ヘブル書1の2~3)それゆえにどんな事の背後にも神がいると信じることができる。

 誰かが自分に こう言った、こうしたと相手を心のなかで非難や憎しみの言葉、あるいは後悔や悔しがる言葉、そんなものばかりを食べていると、魂は死んでしまう。そういう時、神が深い意味をもって起こされたのでここから立ち直ろうと神様の方を向く。毎日の生活のただ中で人間の感情的なものに任せておくといつの間にか人間の言葉ばかり食べている。「人はパンだけで生きるのではなく神の言葉によって生きる」という事は現代においても重要な真理である。


○4月27日(日)つゆ草集会。(大学病院の勝浦さんの個室にて)午後1時半~3時  Ⅰヨハネの手紙を学んでいます。

○5月4日(日)主日礼拝 午前10時からの礼拝の内容は、来月の集会だよりに掲載。


○5月4日(日)午後3時~5時。高松集会

参加者は、松浦大亮・ローレン夫妻、塩田、西岡、吉村(孝)、ほかにスカイプで3名参加。毎月第一日曜日の午後3時~5時。

 Ⅰコリント13章によって、神の愛はとくに相手のために(祈りをもって)耐え忍ぶということが強調されている。人間のふつうの親子、男女、友人同士の愛は、一時的な感情であることが多く、何かあると壊れてしまうし、そうした祈りがないることが多い。それに対して、神からの愛は、相手がどのようであるかに関わりなく、耐え忍んで祈り続ける。


○5月13日(火) 海陽集会(讃美堂―数度宅) この集会は、毎月、第二火曜日、午前10時~12時です。参加者は、スカイプでの参加者を合わせて8名。スカイプでは、県外から、埼玉県と、福岡県からの参加者があります。海陽町は、徳島市から80キロ、高知県まで10キロという遠隔地です。
スカイプでの参加申込は、ホームメール(数度 勝茂)宛て申込してください。

 詩篇を何年かもかけて学んできましたが、終わりましたので、ダニエル書をはじめています。


お知らせ 

○5月の移動夕拝…5月27日(火)午後7時30分~9時。

主題は「とりなしの祈りの重要性」、聖書箇所は、申命記9章の17~29ほか。

 場所は、板野郡藍住町の、奥住夫妻宅。スカイプで参加することもできます。スカイプへの申込は、中川 春美姉へ。アドレスは、です。


                                  6月

○吉村(孝)が、聖書講話を担当する今月の県外の集会は次の集会です。6月8日(日)

・阪神エクレシア 午前10時~12時 神戸市元町駅から歩いて5分の兵庫県私学会館にて。

問い合わせ  川端 紀子

・高槻聖書キリスト集会…高槻市塚原585  午後2時~4時

 問い合わせは、那須 佳子

 

○「祈りの風」(「祈りの友」通信第2号) ができましたので、会員以外の方で、関心のある方にもお送りすることができますので、ご希望の方は、左記に申込ください。B5判43頁です。

一冊200円(送料込)


2014年4月号 no.405

 神さま、私たちの内に清い心を創造し、              

 新しく確かな霊を授けてください。          (詩篇5112 


○三月三日(月)小羊集会 使徒言行録 三・1126

 この箇所は前の箇所から続いている。立てない人を歩けるようにしたペテロたちを見て、民衆は驚いて集まってきた。そのときペテロがまず言ったことは、「なぜ、わたしたちを見つめるのか」と言うことだった。

 人間はすばらしいことが起こると、まず、その働きをなした人を見つめて称賛する。しかし、ペテロは、そうではなく神を見つめ、主イエスを見つめることを示した。どのようなすばらしい働きも、その働きのための力を与えたのは神である。

 ペテロは、イエスの復活について語り、その復活の証人であると言った。復活の力を与えられるということは、経験や学問で与えられることではない。信じて求めたら与えられるのである。

歩けない人をイエスの名が強くしたとある。それは、イエスの本質―主ご自身が強くしたということである。イエスを深く信じていたら、そこに神の力が働いて立ち上がらせることができた。出来事の背後に神の力、導きがある。それは、良いことであっても、悪いことであっても、人間を見つめるのではなく、そこから背後の神を見つめるべきなのである。わたしたちが、神の力を受けられないのは、神と結びつけない罪があるからで、自分中心となり、自分の考えを第一においてしまうからである。神のみ旨はどうなのか。心の方向を、まず、神ならどう思われるか、という方向にかえる。悔い改め、ということは、いつも、神の方向に心を向き変えることなのである。

 預言者は、すべて、キリストが現われることを示している。神はいろいろな表現で、いろいろな時代に、預言者によって告げ知らせてきた、その長い時間にわたる、神のご計画がイエスが現われ成就した。歴史は偶然的に起こるようにみえるけれど、その背後に神がいて導かれている。

 キリスト教の歴史観は、最終的には万物が新しくされるということである。それは再臨のとき。  万物が新しくされるときが来る、ということ、それは大いなる内容を含んでいる。すべてのものが古びていくと見えるにもかかわらず、完全に新しくされるときがある。それは一人一人の人間についてみても成り立つ。私たちが復活のときとは、古い人間がまったく新しくされるときである。

 神の定めた時に、すべてが新しくされる。何が起こっても世界がどのようになっても、最終的には世界は新しく創り変えられる。ここに揺るがない希望がある。


○三月十日()北島集会 ネヘミヤ九章1627

 前章からつながるエズラの祈りの箇所。過去の歴史から、神さまがしてくださったことを思い起こし感謝をする。その感謝は、神さまが天地を創造し、すべてに命を与えたところから出発する。聖書は、狭くなっていこうとするわたしたちの心を、大きく広い視野に導く。

 イスラエルの導きの歴史の中で「海を分けた(11)」ということ。海はわたしたちを飲み込もうとする。何か悪い考えやサタン的な力。そこに引きずり込もうとする力を象徴している。その滅ぼそうとする力から、わたしたちを救い出してくださったこと。

 「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジプト記)となって導いてくださった。本来は柱状にはならないはずの火や雲だ。だが前方を、立っている人格のようになって進む。目には見えないが、あたかも神さまが立って導くが如く。柱状になって。直射日光から守り、夜は明かりとなって。

 み言葉は、出発時にではなく導いて行かれる途中で受けた。わたしたちも、この世の砂漠を経験しながら、あらたにみ言葉を受けていく。日々イエス様という霊的パンをいただき、いのちの水をいただく。

 だが神の十分な恵みを感謝せずに背き続けるものには時が来たら苦しみを与え、目を覚まさせる。人は苦しいことがなければ、神を忘れる。真剣な信仰は、何らかの重荷、あるいは傷を持っている。それがよく詩篇に表わされている。

 受けたくないのに降りかかってくる苦難は目を覚ますためのもの。時が来れば思いがけないことで、そこから救い出してくださる。神さまのご性質はよきものを常に与えようとされている。

 あまり読まれないネヘミヤ記、現代の私たちにあまり関係のなさそうな内容だがよく読むとその霊的な本質はそのまま今の私たちにあてはまる。


○三月九日(日)主日礼拝 Ⅱコリント六・113

             37名(内スカイプ5名)子供3

 パウロは自分が、遠く高い無限の存在である宇宙全体を創られた神の共働者であると自覚していた。人間の存在は弱い小さいものである。しかし、神の愛や力を受けた時、少しでも神の共働者となることができるようになってくる。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とある。聖霊をいちど受けたとしても油断をしたら神から離れてしまう。今もいつも、日々が救いの時、恵みの時。今日も神によって救われているという意識が大切である。弱くもろく、すぐに倒れようとするわたしたちを、常に支えようとして下さている神の力を実感する必要がある。そしてそれは他の人にとっても言えることである。罪を犯した人がいても、その人は今こそが救いの時である。十字架でキリストとともに十字架にかけられた罪人は、もうどうすることもできない状態であったが、死の直前に主イエスを信じた。そのときが救いの時であった。 どんな人に対しても、キリストによる救いという希望を持つことができる。今は救いの時だからである。パウロも、いつも救いの時を感じていた。危険や困難があっても、常に救われていた。多くの苦難を何によって乗り越えていったのか。それは、幼子のような気持ちで主イエスを見る純真さと、神は必ず助けてくださるという確信であった。

 数々の困難を耐え、超えていくことができた力の中に「偽りのない愛」が記されている。「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ書十二・9)とある。愛には偽りが生じやすい。見返りを期待して愛することは単なる人間的な愛に過ぎない。心から神を思い、相手のことを思って行うのでなければ、それは偽りの愛である。偽りのない愛こそが神の愛である。それは、聖霊が与えられるとき聖霊の実として与えられる。そして、それは、パウロだけでなく、心から求めたらすべての人に与えられる。聖霊、神のことば、神の力は求めたら与えられると約束されており、人はそれがあれば、あらゆる困難を乗り越えていくことができる。たとえ、人から悪く言われても、侮辱されても、御言葉があれば耐えられる。このことこそ、わたしたちが求めていくべきことなのである。

 そして「左右の手に義の武器を持ち」とある。キリスト者の武器とは何か。

 「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。」(エフェソ書六・1416)歩くときには、いつも福音を伝えようとする気持ちを持つ。それがまた武器となる。そして、根本は御言葉が霊の剣となる。

 パウロは困難や悲しみのただなかで、不思議な喜び、安らぎを感じていた。それはキリストを信じるときには誰でも起こることである。だから、常に喜ぶことができるのである。苦しいことが起こる、そのなかで喜んでいることができる。この二重性のもとはキリストにあった、キリストは人であり、神であった。人であったから痛みも苦しみもあった。しかし、神であった。聖霊によって喜びにあふれていた。悲しみの中に喜びがある。何も持っていない中にすべてのものが与えられている。主イエスは「悲しむものは幸いである」といわれた。

 「多くの人を富ませる」とはどういうことか。何が人を富ませたのか。それは彼が持っている祝福であり、福音である。わたしたちは、何も持たなくても、祈りによって自分も富ませ、他人をも富ませることができる。祈りの深い人は、同じ場所でいながら他者を富ませることができる。聖霊が良きものをその人に運んでくれるのである。キリスト者は目で見えるものは何もなくても、目には見えない一番大事なものをすべて持っているといえる。初期の信仰者たちが、このようにして豊かに支えあい、広がっていたということがこの箇所からわかる。


○三月十二日 水曜集会 箴言3章

 神の慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ(3節)。なぜなら、そこを離れたら人間的なものが入ってきて、神がわからなくなる。

 出エジプト34章5に、主の本質は慈しみであり永遠的な愛であることが言われている。この愛は、不真実が混じり合った人間的な愛でなく、一番大事なものを与える愛だ。一番大事なものとは、自分中心という罪を赦し、かわりに聖なる霊を与えることである。

 常に主を覚えてあなたの道を歩け(6節)。覚えるというは、思い出すことでもある。骨が潤うとは、体の中心にあるもの、内なる存在が潤されることで、神さまと結びついていたら全身が潤される。求めれば与えられ、与えられたものを他者にも与える。神には、砕けた心をささげる。そうすればまたよきものを与えられる。

 懲らしめとは災害も含んでおり、その苦難を神の、愛する者への試練ととるか、単なる運命ととるかどちらでもできる。だが愛するゆえの試練、鍛練と受け取るとき、道が開ける。


 「霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる。(へブル書1210)」。

 神聖にあずかるとは、神さまの愛、清らかさ、永遠、力、などを受けることであり、そのような聖なる本質を与えようとして苦しみを与える。そこを通らねば人間はこういうものを受けつけない。

 わたしたちが神を信じていても、どんな苦しいことがおそって来るかもしれないが、このことは古い時代のことでなく、いまもあてはまる。

 英知について。何が価値ある事かということを洞察する力を英知という。英知は人間において三千年経っても進んでいない。だがそれはどんな宝にもまさる。英知の根源は、神に結びついている。日本語の知恵とは全く違う大きな内容がある。


○三月十四日(金)天宝堂集会 フィリピ書三・1~11

 ここで繰り返し言われていること、それは、「主にあって喜べ」ということである。二章1718では、パウロはたとえ殺されても喜ぶ、と記している。殺されるのに喜ぶ。この喜びを初代キリスト者は持っていたから、ローマでの迫害が三百年ちかく続いたが、最終的に勝利をしたのである。このとき、キリスト者は武力によっては戦わず殺されていった。戦争を認めるのはキリストの真理を受け取っていない人たちによるものだった。

 パウロが言ったこのような喜びは、普通の喜びとは次元が違う。それは、殺されて終わるのではないと、わかっていたかである。殺されても喜ぶのは主にあって喜ぶのでなければできない。主にあって喜ぶことができるかどうかが、人生の目的でもある。

主にある喜びは誰にも奪われない。他者によって揺り動かされない。そしてそれは、求めたら与えられる。主にある喜びをしっかりと持っていたら、動揺することはない。

 パウロの伝道を破壊しようとする人たちのことをパウロは「犬ども」と言った。Ⅱコリント十一章1215に、キリストの使徒を装いキリスト者の集まりを破壊しようとする人がはいってきたことをいっている。パウロが伝道したキリスト者たちの集まりを支配しようとした。だからこそ、このように「犬ども」とさえ言った。その人たちは割礼をしたことを誇っていた。しかし、心に神の霊を受けたものこそが真の割礼である。

 パウロはここで、自分がヘブル人であること、ファリサイ派の一員であることなど、社会的に地位が高かったことを記している。パウロは特別な学者に指導も受けたエリートであり資産家の生まれでもあった。しかし、そのようなもの一切を損失であると言っている。このことと対応していることが、殺されても喜ぶということにつながる。パウロには、どれほど大きな神の恵みが与えられていたかがわかる。イエスの霊を本当に受けたら、それは、他の何ものにも代え難く、この世の地位や権力、そのようなものが束になっても、それ以上に価値があると感じる。

キリストから与えられるものが、どれほど大いなることか。それは、パウロが、ほかのものがすべて損失となったと思うことでもわかる。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(ヨハネ一・16)とある。イエスから恵みを受けたら、弱さも、それがかえって他者へ働きかけることになる。マイナスだと思っていたことまで、イエスはプラスに変えてくださる。イエスの恵みの計り知れない大きさを示している。

 キリストの内にとどまろうとしたら、キリストもまた内にとどまってくださる。そして、キリストを信じることによって義とされる。人間は正しくなれないけれど、信じたら、赦して清めてくださる。最終的には復活に達する。その出発点は、信仰によって義とされることである。キリストの復活の力。それこそが絶大な力である。そして、わたしたちにも、この復活の力が与えられると、ほかのものがすべて要らなくなるのである。


○三月十六日(日)主日礼拝 Ⅱコリント六・1418  38名                 (内スカイプ2名)

 この箇所は1113節の「あなたがたも心をひらいてください」ということから続いている。コリントのひとたちは、狭い人間関係から、パウロの大きな真理を受け取ろうとしなかった。神の真理は、心が狭いと受けとることができない。自分のことばかり考えていると、心は狭くなる。真理を受け取ることができるように、心を開いていなければならない。心を広くするためには、闇の力から離れていなければならない。

「信仰のない人と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」とある。信仰のない人たちと異なる軛をつけないようにということである。具体的にどうしたらいいか。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ十一・2830

 この世には、さまざまな重荷がある。しかし、イエスと一緒の軛を負うとき、重荷は軽くなる。当時の人たちにとって、軛は農作業の道具で誰もが見慣れているものだった。神はいない、という人と同じ軛を負わないためには主イエスと霊的な軛がしっかりと結びついている必要がある。そうすると、この世の軛とつながれることはない。神はいないというこの世の中で生きていたとしても、霊的にはイエスと結びついている。

 神は遠くにいるのではない。また、特定の建物の中にいるのでもない。わたしたちの心の中にいてくださる。わたしたちを神の神殿とし、神が内に住んでくださっている。宇宙を創られた神が、わたしたちの狭い心の中に住んでくださるのである。そのとき、信仰のない人が、まわりにどれほどいたとしても、この世の軛につながれないで過ごすことができる。

「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」

(レビ二十六・12)パウロには旧約聖書のこの箇所が心に残っていた。また、神が共にいてくださることを示す箇所として以下もあげられる。

「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エゼキエル三十七・2627)この預言はキリストにあって成就した。旧約聖書はキリストを指し示している。

「あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように」「汚れたものに触れるのをやめよ。」とは、イザヤ書からの引用である。

「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。」(イザヤ五十二・11

 これは、イザヤ書の大きな区切りの位置に置かれている内容である。バビロン捕囚のとき、偶像崇拝のその場所から出て行く。新しい世界に向かって出発することを指している。それはまた、霊的な意味においてわたしたちにあてはまる。わたしたちは日々、神を汚す世界から出発する必要がある。

 そしてどこにいくのか。行く先はキリストである。心を狭くしたら、自分のことばかりになる。しかし、ひとりひとりが、この世の不信仰のただ中で、そこから日々出発する。礼拝、また日々の祈りにおいて、朝毎にも、出発する。それをなさしめるのが、キリストである。


〇三月二〇日スカイプ集会「いのちの言葉」ヨハネによる福音書6章58節~69   参加者18

 ヨハネの福音書は、特別に「命(ギリシャ語でゾーエー)」と言う言葉が36回と沢山使われている。今日の主題は「いのちの言葉」であるが、わたしに従って来る者はいのちの光を得ると言われたり、いのちの水が出てくる個所もある。いろんなところにいのちと言う言葉が出てくる。そして聖書全体が命の言葉である。反対に死に至らせる言葉というのがある。人間の言葉だけでは生きていけない。ヨハネによる福音書は、最初から「言葉の内にいのちがあった」とあり、キリストがイエス様として生まれる永遠の昔からおられたことを、ロゴスという言葉で現わしている。

 創世記2章17節でエデンの園には、あらゆる善きものとあらゆる善くない物を知る、全知の木があった。これを食べると必ず死ぬと言われた知識の木である。この世では、人間の言葉が知識を与えるが、知識は核兵器や放射能までも作り出すことになった。単に知るということでは反対に愚かなことになっていく。しかし肝心ないのちの言葉というのはこの世では教育されない。いのちの木から食べなければいけない。また、人間の言葉で戒めをしても、それだけでも死にいたる。第2コリント3章6節には、文字でなく霊に仕えることが書かれてあり、文字(律法)は殺すが、霊は生かすとある。「わたしがあなたに話した言葉は霊の言葉、いのちの言葉である。」とあるように、聖霊は私たちにいのちを与える。

 いのちと言うのは、絶望的な状況の中からでも、前に向って立ち上がる力や活動力を私たちに与える。旧約聖書では、アブラハムに突然神の言葉が与えられたことで、新たにそこを出て従って行くという力が与えられた。神の言葉は確かに命を持っている。霊であり命である言葉は、生きて働く聖霊となったイエス様から直接語りかけられる。それがいのちとなる。パウロは迫害をしていた時、生きたキリストから語りかけられ、古い律法の世界から、新しい道へ立ち上がって行った。イザヤ書55章3節に、聞け、そして魂に命を得よとあり、それは値なしにただで与えられると書かれている。このように、いのちの言葉を聞くならば、命を得られる。

 しかし、そのような命を語りかけられながら、そのただ中にいるのに、信じない者がいる。受け取ろうとせずに裏切ろうとする。サタンというものも、また直ぐ側にいた。この世の現実の、するどい対立が押し寄せている。だからこそ、目を覚ましていなさいと言われた。最後の夕食の時にも、イエス様は様々な苦しみ悩みがあるが、勇気を出しなさい、私たちは勝利したと言われた。私たちは、いのちのイエス様を受けて、それが周りの他の人に伝わるように願うものである。


○三月二十三日 主日礼拝 Ⅱコリント七章1~16  参加33

「 二種類の悲しみ」

 何がわたしたちを清めるのか。まず十字架の信仰によって。聖霊を受けて清めを受ける。また、しずまって祈ることによって清めを受ける。自分中心は罪であり、汚れである。人間の言葉には汚れがある。完全に聖なるものは神の言葉。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている(ヨハネ福音書15章3)」。

 「自然」も神の言葉の現れ。汚れない自然の姿は、神さまのお心の反映である。

 この世にあっては、みんなからよく言われることは決してありえない。サタンが壊そうと働くからだ。当時も悪意からパウロを追放しようとする人が混じりこんでいた。だが、皆からよく言われることはどこかに偽りがある。神につこうとすれば誰からもよく言われることはあり得ない(ヒルティ)

 3節の「生死を共にしている」とは、元の表現では「共に生きる」、と「共に死ぬ」の二つの意味がある。いつも「古い自分において(霊的に)共に死ぬ」、そして「いつも共に霊的に生きる」。信じる人たちが祈りの中で生き、その祈りが、いかに深くあったか。

 パウロにも、その内外に苦しみと戦いがあった。だがみ言葉により、互いを励ます生きた人間関係が少しでも持てるように。み言葉が人を作り上げる。テトスによって、混乱した状況がよく導かれたとの知らせがあった。み言葉のよき知らせが互いに反響するようにとの願い。

 二通りの悲しみがある。悔い改めとは、人間のことばかり思っているのを、神さまのほうに方向を転換すること。御心に沿った悲しみは救いに通じる悔い改めだが、この世の悲しみは、死へと通じる。人それぞれ痛み、苦しみ、悲しみを持っている。だが、深い苦しみは方向転換に通ずる。更なる救いへと導かれる。

 パウロのコリントへの厳しい手紙が、人々を悲しませはしたが、良い結果に導かれた。信仰を持っていれば深い悲しみもよきことにつながる。「悲しむ者は幸いだ」。深い悲しみは神に向く。この方向転換が熱心、憤り、弁明…など、ひとつひとつをはっきりさせ、それによって集会の混乱した状態が清められていった。個人の心も、み言葉をしっかり受け取ることによって、すっきり清められる。悔い改めなければ、自分や人間のことばかりになり、他人や運命、自分の外のせいにする。一番奥にあるのは自分の罪。だが方向転換して神に向かう。そこから救いと力をいただく。


○三月二十四日() 北島集会 詩篇9篇

 この詩の特徴は、「あなたを訪ね求める人は見捨てられることがない」ということ。乏しい人、貧しい人とは、圧迫され、苦しんでいる人。 心を尽くして(すべての心)感謝をささげることができることは、語り伝えることと重なる。つまらないことや一時的なことは、長く語り伝えることができない。だが、聖書の世界では三千年も語り継がれ、深い感謝が共にある。なぜなら、悪の力(真理や真実に反する力)が、滅ぼされ、実際に救われたということがあるからである。

 訪ね求める人は与えられる。何が与えられるのか。神さまの助けが、聖霊が与えられる。聖霊は力である。苦しみのもとになっている敵(悪の力)は必ず倒れる。神さまの御顔が向けられれば退く(4節)。この経験が実際に与えられた作者は祈る。立ち上がってください主よ、と。

 神を信じないと、人間が思い上がりる。人間の限界を知ろうとしないから、自分の力で奪い取ろうとする。そういった勢力が立ち上がり、わたしたちにおおいかぶさろうとする。ある時は病気、また人間関係、民族の対立。

「立ち上がってください、主よ(20)」とは、政治や社会、わたしたち一人一人にも通じる。ともすれば、自分が立ち上がり、神さまを低めてしまう人間。どうか御顔をむけて、そのような人間的なものが思い上がって立ち上がることを許さないでください。これがわたしたちの願だ。この願いは、必ず神さまが聞いてくださる。霊的な意味でも、あなたを訪ね求める人が絶望しないように希望の光を見出させてくださる。たとえ病気が治らなくても、そのただ中から引き揚げてくださる。

 三千年昔に作られたのに、不思議ほど今のわたしたち一人一人の心の中の生活や、社会や世界の状況を見つめている。わたしたちも、このような神が居られることを日々忘れず生活し、語り伝えていきたい。



○三月三十日(日)主日礼拝 Ⅱコリント八章 115 35                 (内スカイプ 5名)

マケドニアに与えられた神の恵みとは何か。迫害による苦しい試練があり、極度の貧しさの中で、マケドニアのキリスト者たちは、人に施す豊かさがあった。それは以下の記事にも記されている。

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(Ⅰテサロニケ一・68)この世の人間的な喜びではなく、苦難の中で聖霊による喜びを神様が用いて、福音が広がっていった。この世の中では様々な苦しみがあるが、それが福音伝道の妨げになるのではない。苦しみによってそこから御言葉が広がることに用いられていく。

聖霊に満たされた喜びは、困難があってもそこからあふれ出していくからである。そして、そこから、自ずと捧げものをするという喜びともなっていった。神に捧げるということは、自発的になされるべきである。聖徒たちを助けたいという思いがあふれて献金となっていった。そして、パウロはそれを命がけで届けた。

「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。(献金を差し出すこと)  彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」(ロマ書十五・2528

パウロは、心からの愛の献金をエルサレムに届けてから、イスパニアに行くことにした。当時、旅は死の危険が伴うことである。しかし危険をも顧みないでパウロは届けに行った。

この手紙の中で、パウロはコリントの信徒に、神に対する熱心がゆたかなのだから、具体的な捧げ物についても熱心になれるはずだと言っている。マケドニアの人たちの熱心をみて、自発的にそのような思いがおこることをパウロは願っている。

主イエスはすべてをもっていたのに、ご自分のすべてを捨てて、もっとも恐ろしい刑罰を受けられた。驚くべき貧しさによって、人々が霊的に豊かになるためだった。貧しさの中から、限りない豊かさを全人類に注ぎだしていった。高ぶりは他者を枯らせていく。貧しさの中に聖霊が与えられた豊かさは、周りをも潤していく。

弱いところにこそ、神の力が与えられる。だから絶望はない。弱さ、苦しさのなかから神を仰ぐことをやめなければ、神は豊かさを注いでくださる。

もっとも神が喜ばれるのは砕かれた心である。

これから、どのような困難が現れるかもしれない。しかし、求めるときには、聖霊による喜びが与えられる、そのことを信じて進んでいきたい。


お知らせ

〇今月の移動夕拝は4月22日(火)中川啓・春美ご夫妻宅。なお、今月のスカイプ集会も兼ねての集会となりますので、スカイプでの参加希望者は、中川陽子姉の次のアドレスに申込をしてください。

〇イースター特別集会  4月20日(日)午前10時~1午後2時

 いつもの主日礼拝より、30分早くはじまるので注意してください。会費(昼食代金)500円。申込は、貝出久美子姉へ。E-mailは、


〇3月号に紹介したMP3対応のCDラジオ、吉村孝雄の聖書講話シリーズ(MP3CD)、賛美CD、「キリスト教とは何か」の小冊子、原発関係の本、植物写真はがき等々の申込が、続いています。それらが今後とも用いられますようにと願っています。 


〇今年の四国集会は高知聖書集会の主催ということになっていますが、現在もプログラムの内容も、講話者や証しなどの担当者も何も決められていないという状況なので、残念なことですが、紹介できない状況です。


集会だより20142月号
NO.403

キリストの愛が、私たちを駆り立てている。

                                    (Ⅱコリント5の14


○一月一日(元旦礼拝)詩篇八六 参加者29名(内、スカイプ9名)

 何らかのことで、作者は苦しみ悩み、そこから神に祈っている。人は解決が難しいほど悩む。しかし、どんなときでも神の慈しみの中で生かされていることを信じる。たとえ、今はわからなくても信じていく。信じるとき、そこから道は開かれていく。

「主よ、憐れんでください。」この短い祈りはだれでもできる。

 わたしたちは、神の真実から大きく離れている。神の赦しなくては生きてはいけない。そんなわたしたちを憐れみ、赦してくださる主イエス。 苦しい時に呼び求めるとき、神は必ず、答えてくださる。必ず答えてくださる神様がいてくださるから信じて祈ることができる。この神こそ、本当の神であり、そしてあらゆる国に広がっていく、と作者は知っていた。

 唯一の神に、道を教えてくださいと祈る。イエスそのものが道であり真理である。主イエスは永遠の道をおしえてくださった。わたしたちは、その神を幼子のようなひとすじの心でみつめる。そして、すべての心をもって祈る。そして感謝を捧げていく。

 わたしたちの神への捧げ物とは何か。悔いた砕かれた心と心からの感謝である。

 神は深い陰府の死の世界から救ってくださる、それは復活の世界である。わたしたちのまわりには、つねに悪の力が取り巻いている。特に現在の日本では、闇の力が増している。しかし、恐れてはいけない。すべてを御支配されている神を信じることが、まずわたしたちに求められていることである。

これは祈りの詩である。疑わないで、必ず聞いてくださると信じて祈る、祈りである。

 新しい一年、苦しみがあっても、喜びがあっても祈りによって与えられる大きな恵みが、まわりにも流れていくように。イエスを信じる者は、こころが泉になって、湧きあふれていくとある。みんな、一人一人が泉になり、この国に命の水が流れていくようにと願う。

・元旦の早朝午前6時30分からの礼拝。兵庫県からも一人参加者あり、夜明け前の暗い時間に開始。この一年の祝福を祈った。


○一月五日(日)主日礼拝 Ⅱコリント四・715

                  34名(内スカイプ2名)

 人間という土の器は、もろく弱く、良いように見えても状況においては、人殺しの根をもっているような者である。誰かを憎むということの心の延長には、いなくなればいいという思いがあり、それは殺すという思いにつながるゆえにヨハネの手紙では、憎むことは人を殺すことだと言われている。戦争になれば、人は殺人を平気で喜ぶような心にもなっていく。そのような、どうしようもない悪の心を秘めた人間を救うために主イエスは来てくださった。そしてそれは、誰でも信じたら与えられる。その主イエスの力、その宝が与えられているからこそ、信じる者には何が起こっても途方にくれない。倒されても見捨てられない。たとえ殺されても、復活の命が与えられている。 パウロはいつも、イエスの死を体にまとっていると。それは、イエスが十字架でうけた、死の苦しみを、パウロは日々、死ぬかと思うほど、苦しい目にあっていたことを示す。

 そして、イエスの命、ということが繰り返されている。苦しみを受けておわりではない。信じる者にはイエスの命―新しい命が与えられる。パウロの死をおもわされるような苦みによって、コリントの人たちに、命が与えられた。誰かが主イエスのために苦しむということは、他の誰かに命を与えるということになる。パウロは、自分が経験した苦しみは、それだけで終わるのではなく、遠く離れた人のところに、命を与えるということを知っていた。殺されたら終わりと普通は考えるが、キリストのために死んでいった命は他者へと伝わっていく。それは以下の記事でもわかる。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。(Ⅱコリント一・46)「わたしは信じた。それで、わたしは語った」とあるのは詩編116篇の引用である。 信じることによって助けられた。だから、語ることができる。

 私たちも、何らかの苦しみには至るところで直面する。しかしそれは、神の国への一歩なのだ。それを通って、神へ近づいていくことができる。神の国へは、多くの苦しみを受けなければ行くことができない。そして信じて受け取るときには、その恵みがまわりに波及していく。 すべて苦しみは他者のためになるのである。それは、苦しみによって、神が導こうとされているからである。

 新しいこの一年も予期しないことがおこるかもしれない。それは苦しいことであるかもしれない。しかし、それは、自分のため、また、まわりのためにもなることであると信じて新しい年も歩ませていただきたい。 


○一月六日(月)小羊集会 使徒言行録二・4347

 キリストを始めに信じた人たちがどのような生活をしていたかが書かれている。「すべての人に畏れが生じた」とある。それは、使徒たちが、たくさんの奇蹟を行ったからである。生まれつき足が立たない人が、キリストの力で癒され立つことができたり、病気が癒されたりという、奇蹟が行われ、神に対する畏敬の念が人々に生じた。

「主を畏れることは知恵の初め。」(箴言一・7)とある。主を畏れることから良きことははじまる。 イザヤは、神を見る、という特別な恵みを与えられた。しかしイザヤは、神を見て、喜んだのではなかった。自分の罪、汚れを感じ、滅ぼされてしまうという畏れを感じた。そこに天使が来て、清めを授けられた。人間には汚れがあるということを、聖書は示している。旧約の時代には神を見ることはほとんどの人には許されなかった。しかし新約の時代には、キリストの十字架の死によって清めを受けるので、キリストを見ることによって、神を見ることができるようになった。 つぎに、「ひとつになっていた」と記されている。人間は絶えず、誤解、争い、分裂がある。しかし、初めのキリストを信じるひとたちは、すべての持ち物も共有し心を一つにしていた。そして毎日、神殿で礼拝し、家庭でも集まっていた。非常に熱心な状態が示されている。御言葉を共有し、霊的な交流を行い、イエスを記念としてパンを割き、食事と共にイエスの霊を受け賛美する、と言うことを毎日行っていた。すべて神を中心になされ、ひとつになっていた。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。百二十人ほどの人々が一つになっていた」(使徒言行録一・1415

 そして、そのようなところに聖霊が注がれたのであった。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、…炎の舌のようなものが一人一人の上にとどまった。(使徒言行録二・13

聖霊が注がれたのは、ひとつになって祈っていたからであった。熱心にひとつになって祈り求めるとき、聖霊が与えられる。主イエスは言われた。

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」(マタイ十八・1920) 聖霊は注がれ、祈りはきかれる。それは私たちの望み通りではないかもしれないが、神様の最善が必ずなされている。この祝福があるので、二千年間、信じる者の集まりは続いて来たのである。


〇1月7日夕拝 申命記2章 10名。

 民を導く神のなさり方は、簡単に到着させるのではなく、長い時間かけて行き着かせる方法であった。全体として40年かかった…。

 「あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」(7節)ーほんとうに不足しなかったのだろうか、水も食料もなく安住の地もなかったのに。なぜ何一つ不足しなかったといえるのか? 十分ということは、私たちの考える十分とは異なる。後にパウロも祈りに祈った時、神のこたえは、「私の恵みはあなたに十分だ」と言われたことがあった。「神さまの目から見る」という見方の重要性、人間の目には欠けているようにしかみえない。神さまの見方と人間の見方との違い、神さまは、遠回りをさせられる。それは神の愛からなされる。30~「滅ぼし尽くす」と訳された原語ハーラム は、他の箇所では「捧げる、奉納する」とも訳されている。例えば、「自分の持ち物のうちから、永久に主のものとして奉納した(捧げた)奉納物(捧げ物)は、…」(レビ記2728)。単に滅ぼし尽くすという意味では、異様な意味にしかとれないが、本来のニュアンスは、かつてイサクを殺して神に捧げることが求められたように、殺すことが目的でなく、捧げることが目的。はるか古代においては、現代の私たちからみると実に不可解なことであり、なぜこのような仕方をとられたのか、それは分からないがそうした不可解なことを通って神の御計画は進められてきたと言えよう。

 また、人間には欲望があり、捧げるのではなく取り込もうとするが、ここで「捧げること」の重要性を言っている。


12月3日(火)夕拝  申命記1章29~46

 神さまが与えると言われる土地であっても、その土地をよい土地だと思う者もいれば、神さまは自分たちを憎んで、悪い土地を与えられるのではないかと思う人もいる。(申命記1の2528)このような思いがあるので、示された土地に行くのには恐れがあった。それゆえに、主は言われる、「恐れるな!」と。

 それは現代においても言えること。神の国にかなったことをしようとする時には、ある種のおそれがある。申命記の時代だけではなく、現代においても。「キリストを信じています。」と告白することは大事なことで、黙っていると信仰があいまいになる。神さまに従って歩こう(進もう)とする時には、神さまが共にいてくださり、戦ってくださる。私たちにはいつも戦いがある。心の悪(罪)との戦い、一人一人の心の中にある戦いが。ダビデ程の人でも例外ではない私たちの戦いは血肉ではなく、悪の霊との戦いがある。主の戦い(出エジプト14:13,14)を感じるためには、一人静かに静まり、祈ることが大切である。祈りを欠くと血肉との戦いしか見えなくなり、主が戦っていてくださることがわからない。そして、心の戦いに負けてしまう。私たちも意識して、祈りを習慣にすることが大切である。

 約束の地には、長く民のために苦闘してきたモーセは入って行けないと言われた。それは主がイスラエルの人々のために激しく憤ったゆえである。民数記201012に記されていることゆえに、モーセは目的の地を見るだけで、中に入ることはできなかった。神から命じられて、岩から、水を出すために岩を一度ではなく二度打ったためであった。我々の感覚から言えば、そのようなことで、長い年月の苦しみにも報いてくださらなかったのだろうかと不可解な思いが残るが、モーセは神の前に大きな働きをした人だからこそ、厳しく扱われたのであった。それとともに、イスラエルのひとたちが受けた厳しいさばきをモーセ自身も感じ取ることを求められたのである。目的の地へと入って行けるのは、ただカレブとヨシュアだけだった。

 旧約聖書には裁きと共に赦しが書かれている。行くべき道が示されている。神の愛はいかなることがあろうとも存在し続けていく。その愛のあり方は、申命記1の31にも見られるが、イザヤ46章3,4「…あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」にも記されている。(1月の集会だよりに掲載できなかった分) 


○一月八日 水曜集会 エペソ四章1〜6

 獄中書簡と言われているところ。信じるようになったのは、まずキリストに呼ばれ、呼びかけを受け取ったからである。それに相応しい生活のあり方を書いてある。 最初に高ぶり。気を付けていないと誰の心の中にも高ぶりはひそんでいる。自分で気づかなくても、人の上に立ちたい、目立ちたい、など。

 学ぶことにおいては、色々なことから学ぶことができる。反対者をも含め、神様がこの世に送り出した周りの一人一人から学ぶことができる。そのように思えないのは、高ぶりがあるからだ。人間は誰からでも、何かを学ぶことができるようになっている。油断をしていると、イエス様を叱ったペテロのように、信仰者の中でも高ぶりが出てしまう。

 忍耐とは単に我慢することではなく、その人がよくなるようにとの、祈りの気持ちをもって待ち望むこと。聖書で言う「絆」とは、主の平和であり、それが結び付きの元になっている。主の平和は、多くの罪を許してもらったという、イエスからいただいた平和であるからキリストの絆であり、死んだのちも続く。

 キリストを信じる者は、キリストの一つの体であり、聖霊によって一致する。批判や議論では一致できない。キリストの平和を持っている人はどこか一致できる。聖霊がそのように導いてくださる。希望も一つ、とは何か。一般社会ではあり得ないが、キリストと同じような姿に変えられることが、共通の、一つの希望である。

 人間や、人間の集まりはたえず分裂する。だが、218節にもあるように両方の者(ユダヤ人と異邦人)でもキリストの霊に結ばれて、ひとつになることができる。

 唯一の神様はどこにおられるのか。神は天に居られると言うが、天とは、霊的世界を象徴する。全てのものの上にあり、すべてのものを支配されるということ。他の人間的な神々ではない。

 詩篇第二編には、競争をして戦い続けている国々の王を神は笑う。すべてをほんとうに支配するのは神だ、ということを詩篇の最初に置いている。すべての上にある神。見てわからないからこそ、信じる。何事が起こっても神様が決着をつけられる。

 神様は、様々な人や、自然を通して働かれる。災害や、病気、それらを通して働かれるのが唯一の神様である。すべてが良くなるために働かれる。すべてのものの内に居られる神。 唯一の神は、心の内にまで来てくださる神。全てを支えている神。 


○一月九日(木)いのちのさと集会 詩篇一一六

 神を深く愛しているかどうか、それは、朝起きて、心に浮かぶ事が神の事、キリストの事であれるかどうか。人間は一番心に深くあるものを思い出す。この作者はどういう理由で神を愛するようになったのか。それは嘆き、祈る声を聞いて下さったから。突き落とそうとする者から救って下さり、魂を死から救って下さったから。神の助けがなければ滅びていた。命の恩人なので絶えず心がそこに向く。詩篇は究極的な所からの叫びで満ちている。苦しい事を経験するほど詩篇が分かる 私達も何よりも神を愛するようにと導かれ、神から貰った愛で他の人を愛するようにならせていただきたい。

9節~主のみ前に歩き続けよう。苦しみの時もどんな事があっても信じ続けよう。作者は願いを叶えて下さった感謝をいつも思うようになった。16、17節。神様が喜ばれる一番の捧げものは砕けた心と感謝である。

 詩篇全体が神を愛している魂の姿である。人間に言えない事を神に訴える。こんな切実な魂の叫びは詩篇以外に見られない。私達も今後、深い嘆き苦しみがあるかもしれない。どんな苦しみがあっても主を愛する事ができるように導かれたい。


○一月十日(金) 天宝堂集会  マルコ七・1423

 清めの問題。当時、たえず汚れということが意識されていた。食事のとき、手を洗わないで食べると、宗教的な理由から汚れるとされていた。また、食べ物によっては食べたら汚れるとされているものもあった。それほど、ユダヤ人は汚れに対して敏感であった。それは、旧約聖書に記されているからである。旧約聖書の中で、汚れを取る、ということが特に記されているのはレビ記である。そこには清めのために、焼き尽くす捧げものをするということが書かれている。焼き尽くす、ということは大変な労力である。そのようにわざわざ書かれているのは、罪からの汚れを清めるということを重要視していたからである。

 この時代には、それは手を洗う、などの儀式で汚れが清められると考えられていた。それをイエスは、外から入るもので、人を汚すものはない、と長く続いた儀式的な考えを否定した。そして、人を汚すのは、心の中から出てくる悪い思いであると指摘した。

人は誰でも、そのような悪い思い、良くない思いが出てくる。そして、完全な真実な良き心は誰も持つことできない。罪があるからである。その罪を赦し、清めるために、イエスは来てくださった。人間の闇は、努力ではなくならない。しかし、闇の中に光があれば、闇は消える。それが神の光である。

 キリストが、この光である。罪の力を負って死んでくださった。そのことを信じるとき、罪は、はじめて清められる。

 キリストを信じることによって、罪が清められてもなお、罪は私たちの中で働く。しかし、その都度キリストを仰ぐことによって清められる。「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ書一・7)

「らい病人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると たちまちらい病は去り、その人は清くなった。」(マルコ一・4042) この人は、らい病を治してください、というのではなく「清めてほしい」と願った。私たちも、同じである。御心ならば、清くなることができます、と信じるとき、このらい病の人と同じように、清められることができる。イエスの十字架を仰ぐとき、赦され清められ、癒される。これをパウロは、「信じるだけで、義とされる」と言った。 人間には、罪がある。それを救うただひとつの道、キリストによって清められ救われる道が聖書全体を通して示されている。


○一月十九日 主日礼拝 Ⅱコリント四章1618 参加29名 

 キリストを信じて受ける苦しみは、たとえそのために死ぬようなことがあっても、そこに神様の命が働く。周りの人に復活の命が伝わっていく。それは法則である。だから私たちはそれを信じて、どんなことがあっても落胆しない。 外なる人とは、私たちの目に見える体だが、内なる人とは何か。信仰を与えられた人は、新しく生まれ変わった人であって、その人は、聖霊によって新しく生まれたのだから、「その人」が、本当の新しく生まれた内なる人である。

 はじめは内に住んで下さるキリストがわからなくても、日々祈りや、神の言葉、また聖霊を受けることによって、その新しい人がだんだんと成長していく。パウロは、私の内に住んでいるのは古い自分でなく、キリストそのものだといっている。私たちはそこにまで至る道を知らされている。内なるキリストを日々新しくしていく。そうでなければ、悪いものが入り込んでくる。掃除をしてきれいになっても油断をしているとさらに悪いものが入り込んで来る、とイエス様はいっている。内なる人は、放っておいても新しくなるのではない。絶えず求めていくこと。聖書は、私たちの内なる人が絶えず新しくなることを目的としている。 地上で受けるどんな艱難も、その後に与えられるものに比べれば、軽いものである。地上の苦しみは、時が来れば終わる。だがその後で与えられる栄光は永遠に続く。愛や真実に満ちたもの、完全な清め、無限の重みがあり、変質もしない。ヘブライ語での栄光は「重みがある」という意味を持つ。この世の栄光はすぐに消えるが、神の栄光は新しい天と地にまで至る。その前味として、このことを聖霊が霊的に知らせてくださる。

 見えるものでなく、見えないものに目を注ぐ。人を見ても、いつもイエス様の力が注がれるようにと祈るなど、色々な意味を含んでいる。美の元には、見えない神様がある。心の目で見、心の耳で聞く。心が清められると、神様が注目してくださる。表面ではなく見えないものを見つめる。自然は神様の直筆だ。風の音、鳥の声、小川の流れ。 詩篇19編、天は神の栄光を物語り 大空はみ手の業をしめす 昼は昼に語り伝え…その響きは全地に…。目には見えなくても霊の目で見れば美しいものが、神様のよきものが至る所にある。イエスさまが来てくださって、表面ではなく、内にある清いもの、真実なものを見ていけるように。


○一月二十六日(日)主日礼拝 Ⅱコリント五・15節 31 「幕屋」とは私たちに与えられている「体」のことを指す。私たちは今、肉体の体をもって生きている。しかし、死んだ後には天にあるすみか、つまり天にある体をもって生きていくことになる。今は肉体があるから、さまざまな苦しみがある。病の苦しみ、また精神的な苦しみ。そして病によって死に至る場合もある。しかし、最終的には死によって永遠の体が与えられるのである。

 パウロも死の苦しみの中で復活に希望をつないだ。

 「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失った。私たちとしては死の宣告を受けた思いだった。 自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。」(Ⅱコリント一・89)たとえ苦しみ死んだとしても、復活の希望がある。「見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する。」 また、「天から与えられる住み家を上に着たいと願っている。」とある。住み家を着る、とはどういうことか。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ十三・14

「 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・10

「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように。」(エフェソ四・24

 このように、「着る」という言葉が使われている。それは この世でも制服を着るだけで別人のようになるからだ。私たちもキリストを着ることで、不連続的に変えられる。 天にある住み家、復活の体を与えられることは聖霊が保証してくださる。肉体を離れて、主のもとに住むことができる。

「重荷を負ってうめいている」とある。目に見えるものに執着するとき、さまざまな問題が起こり苦しむ。しかし、「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント四・18)とある。天から与えられる永遠の住み家を望み、キリストを着て、日々を信仰によって生かされて行きたい。


○一月二十七日() 北島集会 ネヘミア7~8章

 人の名前が書かれている。バビロン捕囚から帰り、神殿、城壁を再建した人たちであり、国が続いて行く基となった。キリストもその子孫として出た。その出発点を思い起こし記念するためである。

 八章では、皆がみ言葉のために「一人の人のようになった」とある。これは信じる人はキリストの体である、ということと同じであって、み言葉は本当の意味で一つにする。それを支えているのは聖なる霊だ。 第七の月とは、九月から十月にまたがる期間。その最初の日、祭司エズラは夜明けから正午まで律法の書を読んだ。多くの人が一つになって、真剣に耳を傾けた。不思議な光景だが、今も、全世界で神の言葉に耳を傾ける人が無数にいる。

 レビ人が律法の書をはっきりわかるように説明した。読んでも表面的にしかわからないから、解き明かしによる正しい説明が不可欠だ。民はみな律法の言葉を聞いて泣いていた、とある。長時間、部分的には立ったりして聞いた。神の言葉の重要な側面は、私たちの本性を知らせることである。

 私たちがいかに罪深い存在であるか。パウロは「私たちは罪によって死んだようなもの」と言っているように、神のみ前には、正しい道を全く歩けていないとまず知ること、そこが出発点。自分は正しいのだという人は、救いを求めない。だがそのことをはっきり知る人は深い悲しみを持つようになる。

 他者や、事故、災害が原因で悲しみが引きおこされる場合もある。だが、自分が正しい道を歩んでいないという悲しみは、神様を見上げることによって変えられて行く。「ああ幸いだ、悲しむ人は」とは、そこから神様の慰めを受けるからである。み心に適った悲しみは救い(根本的な方向転換)に通じる。だがみこころに沿わない悲しみもある。世の人間的な悲しみは死に通じる(Ⅱコリント七章10)。 神様の喜びを喜ぶ。主を喜ぶ。主から賜る喜びを喜ぶ。主の平安をいただく。「主を喜び祝うことこそ、あなたの力の源(八章10)」。荒廃のただ中でも主によって喜ぶことができる(ハバクク書三章18)。人々は、み言葉が本当にわかるということを、喜びを持って受け取った。目に見えるものは消えてなくなるが、主の語りかけや主からの賜り物はいつまでも残る。


○一月二八日(火)移動夕拝 奥住宅 申命記四章 18名内 スカイプ 5名  「今私が教える神の言葉を行いなさい。そうすれば命を得る。」み言葉を行うという意味は深くて広い。自分の要求を第一にする。お金、地位、社会的に認められたい等偶像が入り込む。隣り人を愛するという事も厳密には誰もできない。これでは誰も命を得られない。主イエスはこのような、正しい事が行えない、どんなに頑張ってもみ言葉通りに生きていけない私達の罪を背負って十字架にかかって下さった。この信仰を持てば、行ったと同じように見なして下さる。行えない人に本当のいのちを与えて下さった。

「私が命じる事に加えたり削ったりしてはいけない」現代でもモルモン教、統一協会、エホバの証人など神の言葉にくっつけたり削ったりした間違った宗教がある。これらの間違った宗教に気をつける。

 7節では「近くにいて下さる神」とあり旧約では、人間は汚れているので、神を見ると死ぬと思われており、モーゼだけが神を見た。昔は全世界に近くにおられる神とうい考えがなく、神は正体が分からず実体がないものだった。しかし聖書の中の一部の人にはすでに知らされていた。新約では、主イエスの十字架によって清めていただいたので、神を「お父様」と呼べる。

 29節、「求めたら神に出会う」心を尽くし。魂を尽くして全身全霊で求めたらならば神と出会う。詩篇はこの姿勢が貫かれ神と出会った記録である。新約は主イエスが人間の形をして来て下さったので神の愛がどのようなものかはっきり分かる。罪を除いて下さったのでグンと近くになった。私達の心の中にも来て下さる。2人3人が集まった所にも来て下さる。この世では地位が高い人には簡単に会えない。しかし無限に偉大な方と私達はいつでも会える。この世とはいかに違うか。人間が慰められないショックを受けた人に、神は一層近く来て、心の内にまで来て慰めて下さる。神は他のどのようなものより有り難い。それだけあれば私達は満足できる。プラトンは歴史的天才であるが、この宇宙に愛の神が居る事が分からなかった。イスラエルにだけ神の啓示によって与えられた。本当の基準を与えられている事は素晴らしい。


〇1月31日スカイプ集会「聖霊と悪の霊」ルカによる福音書111013節・2426節 参加者21名(千葉・東京・神奈川・埼玉・福井・愛知・徳島・福岡より参加)

 この個所には悪霊が出てくるが、この前の個所には、最終的に私たちに与えられるのは聖霊であることが約束されている。家の中を掃除して整えたら他の悪霊も連れてきたというのは、一つはパリサイ人や律法学者の状態である。律法で心の中を清めたつもりであったが、イエスに対し悪魔の頭の力を使って悪霊を追い出しているとまで言った。また本来祈りの場である神殿を商売の場にした。祈りの場に7つの悪霊が入ったような状態であったが、イエスが追い払った。パリサイ派や律法学者は、神の言葉をもって人々の心の内を整理整頓したはずだったが、いつの間にか内側が空虚になり、悪しきものが入り込み、偽善的となった。空虚になったところに悪い霊が入り込む。キリスト教の歴史でも権力と結びついて様々な間違いが起こり、ついにはお金で罪を赦すという免罪符まで行われていた。このように絶えず入り込んでくる間違った霊、悪の霊を追い出すことが非常に大事なことになる。イエスは弟子を派遣する時に、まず汚れた霊に対する権能を与えた。それくらい悪霊を追い出すことが大事にされている。私たちの心も同じであり、誰でも正しい神様の視点で見れば汚れており、死んでいるような者だ。人間は努力や道徳、決心や決断で闇を追い出そうとする。しかし現実には進まず更に悪くなる。それは内側が空虚だからである。創世記のはじめも、地は形なく虚しく、空虚であった。しかしそこに神は光を造り、闇を追い出した。イエスは虚しい荒涼とした地でサタンの試みに会った時、退けサタンと言い追い出した。しかしサタンを滅ぼしたのでない。カインは「罪は戸口で待ち伏せている。あなたが支配しなければ」と言われた。絶えず神の力で追い出さなければ、空虚のままでは悪は入ってきてしまう。娯楽やお酒など虚しい物では埋まらない。お金でも満たされない。しかし聖書は根本的な解決を示す。聖霊こそ本当の意味で空虚を満たすもの。人間の力ではなくイエス様の力によって満たす。恵みと真理に満ち溢れているもの。満ち溢れる豊かさの中から恵みの内に恵みを受けるとある。私たちはこのようなものを知らされ、満たされてたのである。。

                       (まとめと入力  K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N


お知らせ

〇県外集会への訪問日の変更

 吉村(孝)が、2月に、 阪神エクレシアと高槻聖書キリスト集会にて聖書講話を担当する日が延期になり、 いずれも、2月23日(日)となりました。阪神エクレシアは、元町駅近くの兵庫県私学会館にて午前10時~12時。問い合わせは、川端紀子 (電話078-578-1876E-mailkawabata@kjd.biglobe.ne.jp

高槻聖書キリスト集会は、高槻市の那須宅にて、午後2時~4時半ころまでです。問い合わせは、電話 0726937174E-mailmyrtus7@khc.biglobe.ne.jp

 なお、高松市の松浦大亮・ローレン宅での集会もいつもは第一日曜日ですが、2月16日(日)午後3時~に変更されています。


〇3月の中高生聖書講座

 内容、参加などに関しては、次のいずれかの方に問い合わせてください。森山 浩二…03-3425-6427(春風学寮)

田中健三…04-2939-3014

〇エフェソ書聖書講話 MP3CDができました。購入申込は、電話、FAX、メールなどで左記の吉村孝雄まで。 全3巻 1500円(送料込)

〇なお、1月11日~13日の横浜市郊外で開催された、冬季聖書集会の聖書講話とその講話に関する参加者の感話、賛美などの主要な内容に関する録音CD(MP3)も希望あれば、お送りできます。聖書講話3回…吉村孝雄、主題 「復活のイエスに会う」(1枚、200円 送料込)