リストボタンまえがき      NH

今年も暑い夏でした。
震災に遭われた方、福島原発の作業員の方は、この暑い夏も様々な試練の中を通られ、今も日々葛藤があることと胸が痛い思いになります。
今年三月十一日を境に日本は、大きな悲しみ、苦しみの中に置かれました。被災された方の困難や苦しみ、悲しみは、言葉では表せないものであると思い、ただただ神様のお守りがありますようにとお祈りするばかりです。
私達クリスチャンは、どんな困難な状況も艱難は練達と希望につながり、失望に終わる事がないと信じて、東日本の方々と祈りでつながっていきたいと思っています。
放射能の被害で人々が今後苦しむ事がないように、全能の主の愛の御手がこの事の中に働き導いて下さいますようにと祈ります。
 
どうか主よ、今年も「ともしび」を用いて下さい。神様の「ともしび」をこの小さな証しの冊子が輝かせる事ができますように。
 
知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり
本当に重要なことを見分けられるように。 (ピリピ書一章 九~一〇)

リストボタン詩 真のなぐさめ
     ー 君に
               IE

多くの人は言い捨てていく
こころない言葉や
憎しみの言葉
その時その時の人間の感情を
汚れた紙くずのように

だが何を言われても
君が汚されるわけではない
君の命が削られるわけでもない
君の澄んだまなざしが曇らされるわけでもない

主が君の痛みをともに痛んでくださる
君の悲しみをともに悲しんでくださる
主の憐れみは変らない
主の慈しみも変わらない

主は与える
苦しみの中に隠されてあるほんもののいのちを
そして わかるようにしてくださる
傷ついたこころに真のなぐさめ
傷ついたこころに真のなぐさめ


リストボタン天の国を求めよう
  NY
 
チェルノブイリと言えば、誰もが歴史的・世界的な未曾有の災害を思い浮かべる。それは聖書の黙示録に預言されるほど、霊的にも大きな出来事であった。
しかしこの時代に起こった聖書的大事件であっても、遠い世界の出来事として、これまで日本の一般の人でその問題を身近に感じている人は少なかった。
そんな中でも、常に目覚めて日本に原発があることを問題視し、困難な中でも周囲に警鐘を鳴らし続けた方々もおられた。
今年、日本でチェルノブイリに匹敵すると言われるほどの原発事故が起こった。それを境に私の心の中で、日本も世界も地球も大きく変化してしまった。
人間が傲慢にも核分裂させて生まれた、自然界に存在しない形の放射性元素は、動物や植物の中の神様の設計図であるDNAを傷つけ、長い年月をかけて周囲のものを汚染していく。
海や、空気や、食べ物など、何となく永遠に与えられていると思っていた物が、健康な形では終わりを告げ、私の中で二度と以前のように屈託のない状態には戻らないと思う。
この地上の被造物は永遠ではないと聖書で読んでいても、それがいざ現実のものとして目の前に起こると、すぐには受け入れがたい大きなショックがある。
いつこの事態が終わるのか。誰も正確に答えることができない。
形がなく、見えず、匂わず、「ただちに健康に影響しない」ことから、大騒ぎするほどのことでもないと考える人もいるだろう。
被災された方々のことや風評被害を慮(おもんばか)って、あまり「汚染、汚染」と言ってはいけないと思う人もいるだろう。
ニュースは原発について色々と報道するが、「もう懲りた。反省してすぐに全ての原発を止めよう。」という単純な、当たり前の視点に立とうとしない。これまで様々な社会問題を鋭い切り口で追及してきたようなキャスターも、その単純な一言が言えない。彼(彼女)らも会社に管理された一会社員であったことを思う。
そんな単純なことが言えなくされるほど、大きな何かが日本を惑わしている。こんな状態になっても、まだ「必要だ」と言わせる何かが、日本や世界の中で大きく働いている。
その「力」に頼り、あえて利用する一部の人たちは、これまで原発からどれほどの利権を得てきたのだろう。また、この事態さえも利用して、更なる利権をどう得ようとしているのだろうか。
その正体は、神様と全く相容れない、神様を認めようとしない反キリストの霊である。それは経済や人の欲を隠れ蓑(みの)や培地として生き、増える。
イエス様は「誰も神と富という二人の主人に仕えることはできない。」「一方に親しんで他方を軽んじる。」(マタイ六章24節)と言われた。そのことが、このようにはっきりとした形で、私たちの前に現れている。
道は二つしかない。
原発か脱原発かではない。イエス様を信じるか、信じないかである。また聖霊か、虚無の霊かである。
聖書ははっきりとこの世界が贖われて生まれ変わり、イエス様を神様と信じる人に与えてくださると約束している。良い人かどうかは関係ない。いつでも立ち返るチャンスがある。
生きている間の利権に目を奪われ、永遠の命を求めない人たちは本当に不幸だ。彼らこそ惑わされ、いつも飢え渇いている。
弱くても、小さくても、与えられる神様の平安を、全ての人が知るようになることを、強く願う。
『天の国は次のようにたとえられる。畑に宝 が隠されている。見つけた人は、そのまま隠 しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっか り売り払って、その畑を買う。また、天の国 は次のようにたとえられる。商人が良い真珠 を探している。高価な真珠を一つ見つけると、 出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、 それを買う』
(マタイ十三章・4445節)


リストボタンいのちの光
                 KK

イエスは再び言われた。「わたしは世の光で
ある。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、
命の光を持つ。」 (ヨハネ八・12

これらのことを話したのは、あなたがたがわ
たしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネ十六・33

主イエスは世の光。何度も親しんできた言葉だけれど、家庭集会で再びこの箇所を教わって、目からまたひとつうろこがおちた。
それは、この「世」というのは、わたしたちが生かされているこの地上、という意味だけとおもっていたら、それだけではなくて、悪の力、闇の力の支配、という意味があるという。
だから、主イエスは「わたしは既に世に勝っている」と言ってくださったのだ。
その主イエスの勝利は、人間には想像もできない主イエスの十字架の苦しみによって与えられた。悪の力、罪の支配に主イエスは十字架で勝利してくださったのだ。
主イエスは世の光。この光は十字架から照らされている。すでに勝っている主イエスの名前を呼びながら、いのちの光を受けたいと思わされた。
そして、この光が必要な日本。主よ、日本にいのちの光をください。
日本の子どもたちが放射能を浴びている。これは大人の責任。原発をどんどん作って、それに反対せずにきた大人の責任。日本の大人は、こどもを守ろう。何ができるのかわからなくてもどかしいけれど、神様、どうか道を示してください。なすべきことを教えてください。
人間があれこれ考えても、よい道には進めない。でも、主が導いてくだされば道は開く。主よ、あなたは勝利の主。そして、子どもたちが苦しむのを、決してよしとはされない。あなたは小さな魂を愛しておられる。主よ、全能の御手で、お救いください。日本の罪を赦し、立ち帰らせてください。そして、日本の子どもたちを、世界の子どもたちを祝福してください。


リストボタン原発事故について
            福岡県   MT

二〇一一年三月一一日(金)に発生した東日本大震災と、津波、それに続いた東京電力の原発事故は、天災と人災とによる複合汚染であるとと考える。
地震と津波については、単に天災とばかり考えてはならない。かって一九二三年九月一日(土)に起こった関東大震災の時、内村鑑三は「―単に新聞雑誌に現れた震災以前東京市の状況を考えても、この災害がこれに臨みしは誠に止むを得ないと言わざるを得ない…この度の災禍に於いても…災禍を呼びし罪に直接何の関係なき多くの者が死し、また苦しんだ。無辜(つみなきもの)に臨む死は、一種の贖罪の死である。神は同時に災禍を善悪両用の人の上に下して、災禍そのものの内に恩恵贖罪の途を備え給うのである。」と記している。内村鑑三はその頃創世記を講じていたが、大震災後ソドムとゴモラの覆滅を「末日の模型」と題して語っている。
地震・津波に続いて起こった原発事故は、以前心ある人々によって警告されていたにもかかわらず、国・業界・御用学者と地域エゴのため、経済性をを重視して原発誘導に傾いて行った。そのツケが今まさに日本に突き付けられつゝあるのだと思います。
もともと原子力は、原子爆弾という殺人兵器目的に開発されたもので、そこに神の祝福はなかったのです。一九世紀までの物質不滅の法則が、一九〇五年、アインシュアタインによる相対性理論の発見によって物質がエネルギーに変換することが発見され、それが原子爆弾 原発に進んだのでした。原子(核)は元々人間の手に余るものであります。現にそれから出る使用済廃棄物(現在原子炉を冷やした水ガ溢れそうになっており、その始末に困っている状態です。)
この負の財産(何年も場合によっては何万年物もかかる負の遺産)を子や孫の世代に送ることを何としてでも止めなければ、と思います。今こそ 「原子力からの脱出」(岩波「世界」誌六月号のメインタイトル)すべきかと思います。
もともと人間には原子力を制御する力は与えられてはいないのです。
正に原子力はパンドラの箱だったのであります。


リストボタン出会い
             大阪   SY

神様の一方的な憐みによって神様を知らされ、主と共に生きることを赦されてから二十年が過ぎた。私が、神様を知るために出会わせて下さった方々、その後信仰が与えられてから出会わせて下さった方々と、数えきれない出会いが主によって用意されていたことを思うと、心からの感謝があふれる。私はそのたくさんの出会いを通してどんなに恵まれてきただろう。
そのような中で、今年は七年ぶり、一五年ぶりに再開した姉妹があった。どちらも信仰の先輩として、み言葉にきき、み心を求めることを教えられた。一人は四国集会の帰りに、もう一人は横浜から島根に御両親を訪問した帰りにと、どちらもほんのわずかの時間ではあったけれどもそこには主が共にいてくださることが実感できたひと時だった。信仰の友は時間も場所も超えて、まるでいつも一緒に礼拝を守っているかのような気持ちになれる。
神様が出会わせてくださった大切な友。その友の中には、困難や悲しみの中にある人もいる。福島で放射能の見えない不安の中で生活している友…彼女は、子どもたちの健康を気遣いながらも自分のできることをと、避難所に出かけている。そこで目にする孤独や虚しい思いを心に留めながら、主に信頼して歩んでいる。
今まで出会ったたくさんの主にある兄弟姉妹、まだ真理の神様を知らない友を覚えて祈ろう。私も祈られていることがわかるから。


リストボタン「不思議なことに」、「思いがけず」…
             高槻 NY
 
「不思議なことに」、「思いがけず」…こうした言葉は、キリスト教集会の場で時々聞かれるフレーズです。自己紹介のときや聖書講話をしてくださっているときに聞きます。人生というのは計画通りにいかないことがたくさんあります。いくら計画をしっかり立てても、「想定外」は起こります。しかしその想定外、信仰の心を持って受け入れるときには、そこに神様の御手のはたらきを感じざるを得ません。
「自分にはそうした「不思議なことに」ということがあるだろうか?ないのではないか?」
自分のような者が救われた、このことは「思いがけ」ないことの筆頭です。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見 て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かった わけでもありません。》
コリント信徒への手紙 第一 1章26
しかし、信仰を持って歩む人の生涯は、一回だけ しか「不思議なこと」が起こらないのではなく、連続して「不思議なこと」が起こるのだということを先日の七月三〇・三一日に京都桂坂で開かれた近畿集会の若者の会の時にふっと感じました。

そのあと私は近畿集会直後の八月一日から三日まで毎年恒例のサッカー部合宿について祈りました。「どうかこの合宿中に一人でもよいので、キリスト教の話ができますように。」
二日目の夜、ミーティングで30分の時間が私に与えられ、そこで、私が教師になったきっかけ、救いの経験の話をしました。それは本当に不思議なことでした。
例年ならサッカーの指導や助言をします。そうすることが当たり前の状況です。しかし今回はどうもその気が起こらず、持参していた聖書をめくっていると、証しをする雰囲気になってきたのです。そのとき私は御言葉とそこにおられたキリストの霊に守られ(たからこそ勇気を持てた)、無事証しをすることができました。
若者の会のときに私の話を聞いてくれた参加者の一人ひとりに、本当にありがとうと言いたいです。


リストボタン愛真高校で受けた恵み
広島 AA
キリスト教愛真高等学校、この高校は我が家の次男が二年前に卒業した島根県江津市にある日本で一番小さな高校です。一学年の定員は二八名ですが、少子化の時代、また、昨年からの公立高校の無償化が影響してか、今年度の新入生は一三名でした。
一九九八年四月に開校する前から父や兄がその設立準備をしていた関係で、この学校のことは、知っていました。この高校が本当の人間教育をする高校であると信じていたので、我が家の子供達を入学させたいと願っていました。
そのための準備段階として、羽仁もと子が創設した自由学園幼稚部と同じ系列の幼児生活団に四人の子供全員を入団させました。次男以外の三人は残念ながらそれぞれの事情があり愛真高校に入学しませんでした。
次男を入学させてみて、愛真高校と幼児生活団の教育がよく似ていることに驚かされました。まず第一はイエス様が先生であるということです。そして、自分との闘い、平和教育、自立のための努力、また保護者同士の団結力の強さ等々です。具体的な例を挙げれば、生活団では毎日の冷水摩擦が励みの一つとなっています。どんな状況でもやりとげるためには自分との闘いがあり、魂が鍛えられます。
一方愛真高校では、親から離れ学校でも寮でも友達とは一緒ですが、その中で孤独と闘い、自分を深く見つめる時間がたくさんあります。三年間のうちに多くの生徒は自分の弱さを痛感させられ、成長していきます。
このような生活団や愛真高校での教育を我が家の子供達に経験させられたことは本当に感謝でいっぱいです。愛真高校の良さを一年毎により深く感じさせられ、つくづく四人全員でなくても次男の双子の兄も入学させていればと何度も後悔しました。
しかし、次男自身に何も問題がなければ、長男と同様、近くの高校に入学させていたかも知れません。次男は、小、中学校でいじめを受けたことで愛真高校に行く決心をしました。今年六月に発刊した「草平くんの選んだ学校」という愛真高校についてレポートした本の中に次男の心境が一部、載っています。彼は、三年間の愛真生活の中で少しずつ自分の心を解放していき、自分の弱さも実感していき、成長させていただいたようです。弱々しかった彼を知っている親せきの方たちは、「目に力が入ってきたね」とほめ、彼を認めてくれるようになりました。
愛真高校の基本は、「責任の主体として自立すること」とパンフレットにあります。次男の同級生が「卒業してから本当の愛真生になるんだ」と語っています。次男も卒業して本当の愛真生となり、お世話になった高校の先生方に見ていただけるようになってほしいと願っています。
次男のおかげで、こうして愛真高校との交流ができ、その良さを体感することが出来たことは、信仰のない夫のためにも良かったと心から感謝したいと思います。


リストボタンスール・スーリールさんのこと                        YE

四十数年も昔、下宿の部屋で何気なく聞いていたラジオから、その曲は流れてきました。
「ある晴れた昼下がり市場に続く道…」
こころにすっと溶け込む歌いやすい…いい曲だなぁと思って聞き耳を立てたのですが、これを作詞、作曲したのがシスターだというので、びっくりしました。シスターが作詞したのにしてはちょっと違うなぁとは思いましたが、とにかくその時から、わたしの大好きな一曲になりました。どれだけ流れてきたか、またどれだけ聴いたことか…。
卒業をしてからはいろんなことが重なって、気がつけば余り耳にしなくなっていました。今もあのシスターは修道院で暮らしておられるのだろうかと、ふと思い出すこともありました。そのシスターのことを去年の朝日新聞の「be on aturday」(二〇一〇年七月一〇日)の誌面で知りました。彼女は亡くなっていたのです。悲しい記事でした。彼女のことは決して忘れません。
*ドミニク ニクニク
そまつな なりで
旅から旅へ どこに行っても
語るはただ 神の教えよ*
イギリスならば ジョン王の頃
セントドミニクのこの物語
*繰り返し
他宗のものと 教義を競い
力の限り それと闘い

*繰り返し
ラクダに乗らず 馬車にも乗らず
貧しさの中に 旅を続けた

*繰り返し
その日の糧に こと欠く時も
神の恵みの パンを授かり
*繰り返し
信仰あつい 若者たちを
あつめて神の 教えを広め

*繰り返し
聖母の愛の 翼のもとに
集う同志を 夢見続けた

*繰り返し
セントドミニク お守り下さい
真を人に 伝えるために 

これがシスターの作った歌詞です。ドミニク伝にあるように、難儀しながら伝道をし続けた聖ドミニクを歌った曲であることがわかります。


リストボタンイタチの死           YE

五月の終わり頃、犬だけが住んでいる家に門の外から声をかけました。「ジンタ」と言う名の犬がカーテンから顔を覗かせました。少し話してから帰ろうとすると、小さな泣き声がしました。見ると、ガラス戸の下に何か黒っぽい小さなものがいました。ネズミの赤ちゃんかな?と思いましたが、それよりは大きく、手足が長かったのでねずみではないとわかりました。
すでに小さなからだに蠅が二匹います。「もうすぐ死ぬかもしれない。」と思いました。家に連れて帰りました。おなかが空いているようで、小さな口を開けてきます。スポイドでミルクをやりましたが、思ったように簡単ではありません。脱脂綿にミルクを含ませて吸わせました。調べてみるとイタチの赤ちゃんでした。目も開いていません。雌でしたので、「いっちゃん」と名付けました。
 イタチにはいやな思い出がありました。三〇年以上も昔、こどものために家で飼える動物を
飼おうとチャボを飼いました。猫は上の子がはいはいをしている時から、飼っていました。犬もウサギも飼いました。チャボは人に慣れ、呼ぶと近寄ってくるのでかわいくて、こどもは家にいる時にはよく抱いていました。卵を産み20日程もすると孵って、殖えて三〇数羽になりました。一羽一羽みんなに名前をつけていました。
子供が小さい頃は四国集会に家族で参加しました。愛媛であった時だと思います。帰宅すると子供たちは早速チャボの小屋に走りました。鶏小屋のチャボはみんな死んでいました。イタチがチャボの血を吸ったのです。この時、イタチが入ってこない小屋を建てていないといけなかったのに、生きるためにチャボを殺したイタチを憎んだのです。小さな死にかかっているイタチの赤ちゃんに出会って、イタチに対する気持ちが変わりました。
このイタチが眠っている時、赤ちゃんにしてはスーッと長い手が祈りの手をしているのに、感動しました。私たちが祈る時と同じように、きれいに両手を合わせて祈っているようなのです。
それで思いだしたことがありました。これも三〇年以上も昔のこと、愛媛が担当して下さった四国集会の時、主催者の方が「皆さん、赤ちゃんはどんな手をして生まれてくるか、知っていますか?」と言われました。「祈りの手をして生まれてくるのですよ。」と。狭いところを通ってくるので神さまは胸の辺りで手を合わせるように、されたのでしょう。でもそれはもっと深い神さまの愛の思いなのではと思ったのです。私たちは生まれる前から祈られて生れ、祈られながら、そして祈りながら生きていく存在なのだと言われているように思ったのです。
「いっちゃん」は四日目に静かに死にました。
 *ジンタの飼い主のご夫婦は亡くなりましたが、息子さんが毎日朝、夕、仕事に出かけ る前と仕事を終え帰りによって餌の世話、散歩などされています。


リストボタン永井 隆博士のこと
          埼玉県 SY
所用があって、長崎に行く機会がありました。ちょうど八月九日で、平和公園での原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にも初めて出ることが出来ました。式典が終わって、帰りの飛行機まで時間があるので、永井隆博士の記念館に行きました。平和祈念式典のあった平和公園最寄りの松山町停留所から路面電車に乗り、一つ先の大橋で降りて、ゆるい坂道を登っていくと、道に沿って左側にありました。
博士は長崎医科大学を卒業され、成績も優秀で、最初は内科を専攻しようとしましたが、卒業間際に中耳炎を患い、聴診器を使うことが出来なくなって、放射線科を選んだということです。当時は結核にかかる人が多く、その診断には胸部のレントゲン撮影が、重要でした。永井博士は、最初は、フィルムに写して、それを見て診断していたが、だんだん戦局が厳しくなり、レントゲンフィルムが手に入らなくなり、直接透視像を見ながらたくさんの患者さんを診察しました。しかも放射線の研究が専門だったので、ご自分でも気が付かないうちに大量の放射線を浴びることになり、気が付いた時には慢性の骨髄性白血病にかかっており、余命3年と診断されます。それは一九四五年六月のことでした。
 
一方博士は学生のころ浦上天主堂近くの森山家に下宿したが、その森山家の一人娘が、後の緑夫人でした。緑がカトリックの信仰を持っていたことから、博士もカトリックの信仰に目覚め、洗礼を受けることになった、とのことです。このこともあったのか、学生時代から医療奉仕に熱心だったようです。
一九四五年八月九日は、診察室にいて被爆しました。自分が重傷を負ったにもかかわらず、被災者のための救護活動に奔走、翌日家に帰って初めて、妻 緑の遺骸を発見するのです。彼はその後も救護班で働くが、体調はますます悪化し、被爆三年後には、療養生活を余儀なくされます。その時、彼を支える人たちの援助でわずか畳2畳の庵が完成し、如己堂(にょこどう)と名付けられます。それは聖書の、「己の如く人を愛せよ」という主イエスの言葉によるのです。 彼は二人の子供長男と次女(長女は夭折)を残して、一九五一年五月一日に、長崎医大病院で召されました。たった四三歳の若さでした。
彼は長崎市民から愛され、その葬儀には二万の人々が参列したといいます。いつも患者さんには親切で、心をこめて病める人々に尽くした、その姿が多くの人たちに慕われたのです。後に長崎市名誉市民の称号も授与されます。彼は、己の如く人を愛せよ、という主イエスの言葉に励まされ、その言葉通りに生きた方でした。主イエスのみことばを信じて生きる、という、単純な、しかし本物の信仰が人を生かして、本物の人生を歩ましめる力となるという事実を、永井博士の生涯において目の当たりにさせていただきました。
わたしにとっては、マザー・テレサに並んで、永井博士の生涯にも力を与えたカトリック信仰の持つ一面を教えられた、貴重な経験でした。
さらに言うなら、たとえその人の属するグループがカトリックであれ、○○教会であれ、無教会であれ、その人を一番深いところで動かしているものが、主イエスのいのちのみことばであり、主イエスの聖霊である時、これらすべての表面的な違いが消え去って、ただただ主の御名が賛美されることになるのだと思います。


リストボタン六十五年後の卒業式
        静岡県 MK

柴田昌平監督の長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」を観た。
全編「ひめゆり学徒隊」生き残りの方々の魂を振り絞るような体験告白に、観た後しばらくは言葉もなかった。身近な友や先生のあまりにも凄惨な死を目の前にしたとき、彼女たちは一様に「言葉も涙も出なかった」と告白している。
この言葉で思い出すことが、私にもある。三年前に天に帰った妻が生前「母の真っ黒焦げの死体を観たとき、言葉も涙も出なかった」とぽつりと語ったことを思い出したのである。
妻は六歳の時、二階から落下し脊椎を損傷、歩行が出来なくなった。明治生まれの父は、「お前の不注意で娘をこんなにしてしまった」と言って、母を厳しく責めたという。母は返す言葉もなく、ひそかに「この子は私が背負って学校に通わせよう」と決心したのであろう、娘が小学校に入学すると、毎日娘を背負って学校に通った。娘の授業中、母は編み物をしたり、繕い物をしながら廊下で娘を見守った。娘は母がそこにいるというだけで、どれほど安心して授業に集中できたか想像に難くない。 父の昼食の支度や用事でいったん家に帰り、母が学校に戻るのが遅くなった時などは、母の戻るのをどれほど心細い思いで待っていたのかも想像することが出来る。しかし、そのようなハンディキャップを背負っても、この頃の妻は、母の背中のぬくもりを感じ、ある意味最高に幸せだったに違いない。
しかし、その幸せが一転して、暗黒の淵に突き落とされるような出来事が、次に起こる。一九四五年(敗戦の年)六月一八日、浜松市一帯が一面の焼け野原となる米空軍機B29編隊の猛爆撃を受けたのである。その時、逃げ遅れた母は焼夷弾の直撃を受け真っ黒焦げの死体となって発見された。
その時の妻の姿が、前述の「言葉も涙も出なかった」姿である。人間は人間の感覚を越える刺激や光景に接すると、ちょうどあまりにも熱いヤカンに手を触れたり、あまりにも冷たい氷に手を触れたりしたとき、一瞬熱さも冷たさもわからないのと同じで、ただ、かっと目を見開いて凝視するだけだったのである。
しかし、娘は思ったに違いない。明日からは、あの温かい母の背中はもうない、あの母に抱かれることも声を聞く事も出来ない、ましてや学校に行くことも出来ないと。無感覚の中にも、絶望の暗い淵がのぞいていたに違いない。
その時、不思議な奇跡が起こる。今まで歩けなかった娘が、すくっと立って歩き始めたのである。
娘はその時、小学校五年生であった。しかし、後でわかるのであるが再開された学校の教室に娘の姿はなかった。母の見守りのないまま、変形した体で学校に行くといじめられることは目に見えている・ ・ ・ そう思ったのであろうか?あるいは父が学校に行くことを許さなかったのか? いや、今度は自分が母の代わりになって父を支えなければならないと思ったのか・ ・ ・ それはナゾである。いずれにせよ、彼女の存在はクラスの生徒達から忘れ去られてしまったのである。
 
時は過ぎ、一九六四年(昭和三九年)私たちは、ある列車の中で不思議な出会いをし、合計八〇〇通の手紙交換の後結婚した。しかし、彼女はあの悲惨な経験を語ることも、その後どのように生きてきたのかも語ろうとしなかった。ひめゆり学徒の生き残りの方々も、あの悲惨な経験は長い間語ることは出来ず、八十歳代になってやっと重い口を開いたのである。妻もついにあの悲しい出来事を語らずに天に帰って行った。
私は、妻が天に帰って三年が過ぎた今年、ふとあのときの妻の生きていた姿を、神が妻を守ってくれた軌跡として知りたいと思うようになり、妻の同級生三、四人に当時の消息をたづね歩いた。しかし、同級生達の記憶の中に妻の消息は残っていなかった。同級生が持っていた六年生の時の写真にも彼女の姿はなかった。
そこで、思い切って、妻が通っていた小学校(今は新しくなって双葉小学校となっていた)に電話し、事情を話してその当時の記録や名簿を見せてほしいとお願いした。すると、返って来た答えは、実はその小学校もあの爆撃で全焼し、資料一切が消失してしまったとのことであった。
私は、これで、万事休すと覚悟した。ところが、数日して、山下俊之教頭から、実は生徒達はあの頃、焼失しなかった別の小学校に一時的に教室を借りて授業を継続していたので、その小学校の資料を取り寄せておくので、後日見に来てはどうかという電話が入った。 
後日、おそるおそる伺うと、わざわざ花井和徳校長も同席して下さり、当時の卒業生名簿を閲覧させてもらったのである。すると、何とそこに妻の名前があったのである。戦後の混乱期であった為、その後学校に行けなくても卒業させてくれたのであろうか?しかし、名簿にあっても、同級生の記憶にも写真にも妻の姿はない。
おそらく妻は、その後、学校に行くこともなく、同級生との接触もなく人生を歩んで来たものと思われる。
私は、多分妻はそういう事情で、卒業式には参列していないし、卒業証書ももらっていないと思う、しかし、卒業したことが記録されていることがわかっただけでも感謝ですと、お礼を申し上げて、事務室を辞した。
ところが、たまたま行政と学校の連携をよくする方針で市から校長として派遣されていた花井校長は、学校は単なる教育の場だけではなく、地域社会、市民と共にある存在でなければならないとの理念から、市の教育委員会に一市民がこういう事情にあるということを話してくださり、妻の卒業証書の発行を申請して下さっていたのである。
後日、電話があり市の教育委員会から許可が出て奥さんの卒業証書をお渡し出来ることになったので、来校願いたいとの電話があった。
二月十四日、私は期待と緊張を胸に、小学校に赴いた。来客室で待っていると校長と教頭のお二人が入ってこられ、何とそこで卒業証書の授与式が行われたのである。私は、読み上げられる卒業証書の中に妻の名前をはっきりと聞き、代理として私は起立して校長先生から妻の正式の卒業証書を感動と感謝と共に頂いた。六十五年後のたった一人のための卒業式である。渡された卒業証書は私にとっては自分の大学の卒業証書より価値あるものに思えた。
私は、その卒業証書を大事に家に持ち帰り、妻の遺影の前に卒業証書を供えた。そして今までのいきさつを妻に報告し、感謝の思いを神に捧げた。 
遺影の妻は、心なしか照れくさそうに、そして安堵したように微笑んでいるようであった。


リストボタン短歌   ― 永遠に ―
IM

○いにしえの 聖書のことば 息づいて
今も我らに 生き方示す
○苦しみも この幸せも
神様の 計画の中 活かされており
○みことばの行間の奥に隠されし 
      真実を知る 聖書の学び
○見たことも無き生物の数々を
 テレビで見ては 主のみわざ賛う
○大地震 目に見えぬものを信じたし
 形あるもの みな拭い去り
○不確かな 安全唱え欲を積み
 ふる里失くし 絆を切られ
○永遠に 変わらぬ神の御言葉を
 携え生きん 最後の日まで


リストボタン罪について
愛媛  MK

人生の折り返しになっている自分を振り返ってみたい。
子供の頃、その年齢にしては、家庭環境や、家族構成からの影響であまり心から楽しかったと思えない性格だったように思う。
思春期も同じく、人生のつらさと幸せは「山あり、谷あり」の考え方で、いつも何かを求めていた気がする。
青年期も同じく、信仰以外、人は平安になれないと思っていた気がする。
中年期から現在、最近は自分の罪の深さに悩み、毎日が祈らずにはいられない。
七月号の「いのちの水」誌で気持ちが楽になった。過去の聖者と呼ばれる人々が、大きな罪を犯しイエス様に赦していただいている。自分のような人間が、毎日罪を犯しても当然なこと。しかし、居直るのではない。どうする事もできない心の怒り、罪が押し寄せてくる時、祈るしかないのである。サタンに負けている自分、祈りが自分本位であること。そんな時「聖霊を注いでください」と切に祈る事ができる人生の折り返しでありたい。
つらい事、悲しいことに負けないで、全てが良いものとされる為に神様が与えて下さっている悲しみや、罪の悩みなのだと思えるようになった事は人生の折り返しを歩いていく上で、大きな恵みをいただいているのではないだろうか。
しかし、理性で考えることと、現実の心の動きとは、大きな違いがあり、これからも日々自分で気づかないたくさんの罪を犯してしまうかもしれないが、イエス様に赦していただき、残りの人生を生かせていただきたいと思う。
最後にこの聖句を噛みしめたい。
ローマ人への手紙 八章一八節
わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に  比べると、言うに足りない。
ローマ人への手紙 一五章一三節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで、あなた方を満  たし聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。


リストボタン最近、思わされていること
             福井市 NK

愛そのものでいましたもう神がわたし達一人一人をこよなく愛していてくださる。そのことはどのようにして人に伝わるのか。篤く人を愛されている神の愛は何故、極少数の人にしか知られないのか。それは、人がそれに気づかないから。その愛を伝える人が少ないから。人の罪があまりにも深く大きいから。ことに偶像を求めてやまない人の罪の故など。理由はたくさんあるが、全存在を持って主の愛を証ししておられるキリスト者も少なくない。そのような方々からいつも主が生きて働き、聖書の御言葉を実現させておられることを実感させられてこころが奮い立たせられている。スカイプ集会、礼拝CDで徳島聖書集会のYさんをはじめ兄弟姉妹の讃美、講話、祈りを聴いているとそのことを強く感ずる。最近、古いテープをとりだし聴きなおして感銘を新たにさせられた。
TY
さんが清里での新年聖書講習会やクリスマスでの讃美礼拝と証しをとうして主がともにいて生きて働きたもうことを知らされる。ことに、一二年前、ヨシュア書一章五節、九節の御言葉に導かれて、小国フオルケホイスコーレを始められたいきさつは、その後の一二年間の歩みに結実されている事実を目の当たりにして感動を覚えずにはいられない。内村鑑三は人生は聖書の御言葉の実験と実証の場だという意味のことを書いているが、義和さんのフォルケの歩みの中にそのことの証しをみる思いがする。さらに、TY先生からYさんへと信仰が継承され、独自の信仰の花をさかせていることにも感動する。独立学園とともに小国フォルケにも光が輝いている。しかし。人間をほめちぎることはよそう。それは聖霊の働き以外のなにものでもないのだから。まことに「光は闇の中で輝いている」。主がこの日本に光を与えていてくださっていることに感謝しよう。主の御名を讃美しよう。
東日本大震災と福島原発事故から五ヶ月が経ち被災地は徐々に復興に向けた足がかりが出来つつあるといえるだろうか?その希望の光を打ち消してしまうかのような、原発事故の放射能漏れの被害がつづいている。将来に明るい兆しさえ見出しえない暗い闇の中にあるような日本。 そこにも、少なからず希望の光を輝かしておられるキリスト者の群れを主はおこしてくださっている。そのことを讃美しよう。わたしも、その光に招かれているのだと自覚を新たにして歩んでいこう。


リストボタン弱い者は神様にすがるしかありません
               東京   KM

コンビニで仕事をするのも忍耐が必要です。
そんな時は神様助けて下さい、イエス様助けて下さいと祈るだけです。
弱い者、病める者、貧しい者は自分から何かをしかけることは出来ません。
ただただ神様に祈るだけです。


リストボタン手話賛美
               SY
 
今年の近畿集会に参加して、特にうれしかったこと。桂の駅前で送迎バスを待っていたら、久しぶりにお会いした姉妹が、あいさつもそこそこに、童謡の「ふるさと」の手話の表し方はこれでよいのですか?と聞いてくださり、共に手話で歌いました。手話で覚えると歌詞も忘れないで覚えられるからうれしいと喜んでいました。私も一緒に手話で歌えてとってもうれしかったです。
また、野外での早朝祈祷の後散策していると、三人の姉妹が「主を待ち望む者は」を、手話賛美をしていたのでびっくりしました。その内の一人の方は一昨年、もう一人の方は昨年、宿泊が同じ部屋の県外の方でした。部屋でのお交わりの時に一緒に手話賛美をした方でした。
 
 主を待ち望む者は
  主を待ち望む者は 新しく力を 力を得る
  わしのように 翼をかって 高く 高く
  舞い上がる 走っても たゆまず 
  歩いても疲れない
 
この賛美は、イザヤ書四十章31節のみことばの賛美で、私もとても力づけられる賛美です。私もうれしくてその輪に入って一緒に賛美しました。心から喜びが溢れてきました。
私は四十年ほど前の高校の時から、耳がだんだん聞こえなくなって、今は賛美のメロディーが聞こえないので、健聴者と一緒に声を出して賛美するのは、難しいですが、手話を使って賛美出来る幸いを感謝しています。健聴者の方々にも手話賛美が広がって行きますようにと願っています。


リストボタン3・11後に
            八王子 NN

 3・11の大震災後、様々な所で義援金の箱が置かれていた。入れる際に私は迷っていた。「本当に赤十字を通して被災地に届くのだろうか。」「箱に入れるのは惜しい金額ではないのに。」「誰かがごまかして搾取したら、その人は神から罰せられるであろう。」
「○○団体で集めに来る迄待とう。」「でもそれでは義援金に協力しました、と自己満足にならないか。」といった具合になんとも消極的な自分がいた。
その頃、テレビでは、何々に優勝して手に入った多額の金額をそっくり義援金にするとか、有名人が次々と何らかの形で、多額の金額を義援金としている話に、ただただ感心してみているだけであった。
所属する組織・団体から箱が回ってきた。迷わず入れた。ごまかすことはないと思ったし、実際に総計の報告があった。しかしその先、現地に確かに届くのかどうかは見えない。
少し経って、ニュースでは、義援金が被災地・被災者になかなか届かない、と言っていた。やはりそうなのか、今援助を待っている人がいるのに、なんとももどかしい。
一方、ボランティアの方々が次々に現地入りして、瓦礫の撤去や、支援活動をされていた。だれかに強いられてではなく。いや見えない方の力に押されていったのに違いない。
被災地の人々がどんなにか慰められ、力づけられているかを知った。その時多くの国民が、自分もなにかしたい、できることはなにかを真剣に考え出した。
私も真剣に考えた。しかし被災地での活動をする体力はもはやない。ではどうしたら?
聖句が浮かんだ。
ある兄弟がまたは姉妹が裸でいて、その日の食物にも事欠いている場合、あなたがた のうち、だれかが「安らかに行きなさい温まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、 そのからだに必要なものを何一つ与えなかったとしたら、何の役に立つか。信仰もそ れと同様に行いを伴わなければ、死んだものである。 (ヤコブ二・一四)

3・11の直後、思いださなかった、昔の職場の仲間で福島県にいるAさんの安否が気になった。そのAさんと親しかった、私の友人B さんに問い合わせた。Bさんも気になっていた。
Aさんに電話したがつながらないということであった。原発の事故でどこかに避難しているに違いないということであった。Bさんが市役所に電話して、やっと居場所が判明し、Aさんと直接電話で話が出来たのはおよそ一カ月後であった。Aさん家族は群馬県に避難して一カ月。支援物資で足りていると言われたが、あえて尋ねると遠慮がちに不自由している品々を言われたとのこと。
私は四〇年ぶりにAさんに手紙と、必要な品を送ることが出来た。
AさんはBさんから聞いていて、私がクリスチャンであると知っていて、返事には「祈っているくださっているのですね」とあった。この避難場所は、いつまでもいられず、三カ月後には出ることが決まっている。転々とせざるを得ないAさん家族。ご主人は放射能を浴びる危険地域で勤務している。この厳しい現実に、私の心が痛む。「私は脱原発推進です、日本から原発がなくなるように祈っています。皆さんのご健康と心の平安を祈っています」と伝えた。
Bさんと私は、いつの日にかAさんを訪ねるつもりである。
宮城県女川町の「女川町立女川二中学校支援プロジェクト まげんde ネット」から、支援の協力依頼が来た。支援活動を立ち上げたのは鍼灸師の方。女川町は震災で壊滅的な被害を受けた。漁業を産業とする港町。人口九九六五人、亡くなった人は四二名、行方不明は一〇九〇人。避難所で生活している人は二〇八〇名(四月一四日現在)。女川町の沖にある周囲一四キロ、面積二,六八キロ平方メートルの小さな出島に生徒数一三名、教職員一一名という女川中学校がある。中学校は高台にあったため津波の直接的被害は免れたが、海岸部の集落は数件を残してすべて津波に流された。出島の住民も中学生も島に帰れないまま避難所生活を続けている。
 支援の依頼文の主旨は、「義援金募集活動は日本赤十字社を通じて日本全国や世界各国で行われています。そういった活動へ募金をしても想いを寄せるところには十分に届かないというジレンマもあります。赤十字社等への義援金をより一層のご協力をお願いしながら、小さな離れ小島の小さな中学校への支援活動にも少しの関心と少額の支援金のご協力をお願いします。」「支援金は生徒と教職員へのピンポイント援助として、学校・学校運営のための資材教材購入等の資金したい」というもの。
私は、集会の人の協力を得て、「多摩集会 聖書に学ぶ」より、と書いて送ったところ、「主のみ名を讃美します」との書き出しで礼状が届いた。プロジェクトを立ち上げた方がクリスチャンであることを知った。
主にある交わりの出発となった。
 
神様の御計らいに感謝しつつ、どうか平和の神が被災地の方々と原発で避難されている方々と共にいてくださるように、どうかお一人お一人に働きかけ、苦難を通して神様の愛を知ることが出来ますように、今日も祈ります。

患難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し
錬達は希望を生み出す


リストボタン心の目を開く
         高槻    NY

この夏、例年のように故郷に帰省した。主な目的は近年、緑内障を患い視力を失いつつある母と共に過ごすためだ。
母は私が生まれて間もない頃、商売を始めた。今から六〇年ほど前だ。土人形や飴玉、饅頭を売ることから始め、高度成長の波に乗って奥出雲の田舎町で少しずつ商売は繁盛していった。母にとって商売は生きがいとなった。父はシベリアに四年間抑留されて帰っている。青年期で過酷な労働と栄養失調がたたってか、早くも六〇代から寝込みがちで長く自宅で療養していた。父の看病、家庭の切り盛り、子育てをしながら母は六〇年近い間、店を続け元気で明るく丈夫だった。一日たりとも病気で寝込んだ姿はわたしの記憶にはない。我慢強く意志が強かった。
 その母が三、四年前から体に変調、緑内障と診断され二度の手術をした。にもかかわらず、早い段階で片方の目の視力は完全になくなった。もう片方の目も掛け時計ほどの丸い視野がぼんやり見える程度にまで見えづらくなっている。店も閉めざるを得なくなり心のうつも始まった。母の苦しみを思って心が痛む。
今年の夏もそうした母と過ごすために帰省した。信仰心が全くないという母ではない。毎朝「般若心経」を唱え、これまでのことを神様に感謝しているという。しかしこれまでの生きがいと健康の大方を、まして目の視力を奪われようとしている今、心も闇の中に入り込もうとしている。この先の不安と人に囲まれていても募る孤独感に私たち子どもが帰っている間に死んでしまいたいとまで言う。そうした母の思いを受け止めつつも、話し続けたこと。イエス様のみ言葉。
 
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすこと ができようか。…野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、 紡ぎもしない。…今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神は このように装ってくださる。…だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明 日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイ伝 六章二七~三四 

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ 去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
コリントⅡ 四―一八

地上の慰めの言葉は一時心が癒されるかもしれない。しかし聖書のみ言葉は神様の御意志であり私たちの思いを超えて働いてくださる。いまだキリストを主と仰ぐ信仰は持ちえていない母だけれど、今後も語り続けていきたいと思う。そして祈り続けていきたいと思う。
母の肉の目は見えなくなっていくかもしれないけれど、どうか心の目が開かれていきますように…と。そしてこのことは見えていると思っている私たちにもいつも問われていることだとも思う。
「万事相働きて益となる。」パウロのこの言葉を今素直に心から信じることができる。


リストボタン朝顔
            YK

お盆を過ぎ、うす紫の朝顔が咲き始めました。 この朝顔、二〇年近く前、石井教会のMK姉(昨年九四歳で召天されました。)から苗をいただいたもの、優しく美しいたたずまいM姉のお人柄そのもの、石井の住宅の窓の下にこの時期毎朝うす紫の花が開き、亡夫も「きれいなのう」と眺めていました。最期の夏、もう横になって眠ることができず、屋外へ持ち出した椅子に腰掛けたまま、うつらうつらしていた夫の周りにも星のように紫の朝顔は咲いていました。
夫の亡き後、種を実家の庭へ蒔きました。他の色の花は早い時期から咲きますが、このうす紫はお盆を迎えないと咲きません。ああ、とうとう今年は咲かないかと諦めかけた頃開くのです。このうす紫の朝顔は私に何かを語りかけてくれます。
M姉からの。夫からの、そして夫を亡くした私を黙って全身全霊で支えてくれた母カらのメッセージ。何よりも創造主からの静かな確かなメッセージ。
  天は神の栄光を物語り
  大空は御手の業を示す。  詩編一九の一

いのちを頂き、主を知る者とさせていただき、今も赦し続けていてくださる幸い。このことを忘れている傲慢をお赦しください。「もはや死もなく、悲しみ叫びなど苦しみもない」(黙示録 二一の四)天国へ私も入れて頂こう。その日まで主が最善の道を備えていてくださることを信じて。
いつも喜んでいなさい。
  絶えず祈りなさい。
すべても事について感謝しなさい。
第一テサロニケ 一五の一六~一八


リストボタンホセアに聴く
             福岡  HG

預言者ホセアが活動したのはヤロブアム王治世の時代でした。この王は四十年という長い間北イスラエル王国を治めましたが、国は豊かになり、軍備も増強、版図も広がりました。しかし政治は腐敗し、不義不正がはびこり、上層部は奢侈を極め、弱者が抑圧される社会となります。民の道徳は退廃したのであります。そして宗教的にはカナンの豊穣神バアルを熱心に拝しました。聖所がいくつも設けられ、王を初め民はヤハヴェの神を省みませんでした。やがて北にアッシリアが興り、急速に力を増し、周辺の国々は呑み込まれてゆきます。北イスラエル王国は未曾有の国難に面したのであります。
ホセアと並んでこの国難を前にもう一人預言者が現れました。アモスです。アモスは神の正義を楯として痛烈な社会批判を展開します。

義を洪水のように
  恵の業を大河のように
  尽きることなく流れさせよ。
(アモス五:二四)
は彼の代表的なメッセージです。
             *
アモスの預言は社会批判が中心でしたがホセアの預言は宗教批判に力点があります。神の命で淫行の女を妻としたホセアは、その体験を通して、イスラエルの民に背かれた夫なる神の心を深く知り、北王国の信仰問題の内側に入り、涙のにじむ愛の労苦を重ねました。バアルに対する熱狂的・狂騒的信仰を「淫行の霊」に憑かれたものとして、根本から清めようと苦闘したのであります。国難からの救いのための最重要問題とみたのでした。
彼女(イスラエル)は言う。
 「愛人たち(バアル)について行こう。
  パンと水、羊毛と麻
  オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」
  それゆえ、わたしは彼女の行く道を
茨でふさぎ 石垣で遮り
  道を見いだせないようにする。
  ……
彼女は知らないのだ。
  穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
  バアル像を作った金銀を
豊かに得させたのは
  わたしだということを。
(ホセア二:七~一〇)
社会に目を向けたアモスと対比するとホセアは圧倒的に心の問題に関心を寄せています。
この国には、誠実さも慈しみも
  神を知ることもないからだ。(四:一)
  わたしが喜ぶのは
  愛であっていけにえではなく
  神を知ることであって
  焼き尽くす献げ物ではない。(六:六)
            **
私たちも大震災と原発事故という未曾有の国難に面しています。そして多くの社会批判・政治批判の声を耳にします。国民目線で政治が行われていない、長期的ヴィジョンがない、エネルギー源を見直し我々の生活様式を改めるべきである、云々。いわばアモスの視点と申せましょうか。
神に命じられて語っているアモスの言葉に深く聴かなければならないことは勿論であります。しかしそれと併せて、いやそれ以上に今聴くべきはホセアではないでしょうか。我が国は敗戦後経済的豊かさの追求を国是として、ひたすら突っ走ってきました。マモン(豊穣神)を拝してきたのです。それは明治維新後の富国強兵策にまで遡れることでしょう。今問われている根本は「淫行の霊」から離れ、「 バアル像を作った金銀を豊かに得させたのはわたしだ」と言われるお方に立ち返ることだと思います。こう言って下さる愛なるお方だからです。
わたしは背く彼らをいやし
 喜んで彼らを愛する。
  まことに、
わたしの怒りは彼らを離れ去った。
 露のようにわたしはイスラエルに臨み
  彼は百合のように花咲き
  レバノンの杉のように根を張る。
(一四:五~六)


リストボタンコンピュータ
                 KY

二〇年前にコンピュータを使い始めました。四肢麻痺(五肢麻痺)の人達のために、入力装置の開発が始まった頃だと思います。一台目はワープロしか出来ませんでした。友人に手紙が出せるようになっただけでも充分でした。少し経った頃、多機能のコンピュータがあるのを紹介してくれた人がありました。聖書が読めて、音楽が入力出来る夢のような機械でした。そこから私のキリスト者としての人生が始まりました。この素晴らしいプレゼントは、取りも直さず神様からのものでした。
私は楽譜が読める訳ではありませんが、音符を眺めていると楽しいし、讃美歌 の音符を入力していると幸福感を憶えます。神様は私のしている事を喜んでくれているかな?とか、どうすれば神様の愛に応えられるかな?と考えている時、気力と意欲に満たされます。それは幼い頃に親を喜ばせたいと思っていた気持ちにも似ています。
讃美歌は世界中に何曲あるのかは知りません。今この時にもどんどん神様を讃える歌が作られていることでしょう。なんと喜ばしい事ではないですか。私は今讃美歌本をかなり蓄えています。絶版にならない内に手元に置いていたほうが良いと思ったからです。入力に何十年か費やしても余りあります。残った曲は次の世代に委せます。
ただコンピュータには難点がひとつあります。一般の家電に比べて、寿命が短い事です。最近私も経験したのですが、一晩にして壊れました。四年も経っていないのに、既に部品を製造していないのです。価格も安く、便利になっている代わりに、買い換えの期間が短くなっているようです。
神様は必要なものは全て与えて下さったし、これからもそうなると思います。私たち少数の不便をしている者に、自助具を作ってくれるのは、優秀な技術者ですが、元をたどれば全てを創造された神様の業です。コンピュータは善く使ってこそ、意味のある道具だと思っています。
私が入院した遠い昔には考えもしなかった技術が今実現しつつあります。将来弱い者がもっともっと便利になっていってくれれば、神様の万能の力を感じる事が出来ます。こういった神様からの贈り物は大歓迎です。近い内には、頭の中で考えている事がコンピュータを動作させるようになりそうです。善いものを貸し与えて下さっているイエス様には、善い事でお返ししたい気持ちでいます。決して悪いこと、必要のない事には使いません。
余談で蛇足になりますが、私はコンピュータを新しく替える度に、真っ先に付属のゲーム類を削除することにしています。


リストボタン父との別れ
                SH

二〇一一年五月十九日、実父が天に召されました。六十六歳でした。
九人兄弟の下から二番目、まだ六十代半ば、一年九ヶ月の闘病生活。
まだまだ頑張ってくれると思っていました。
しかし主治医から「診断当初から脳転移がある肺癌患者としては充分頑張った結果です。自分の思うように生活できたのが生きがいになっていて、良かったのでしょう。」という話を聞き、最期まで私や母の知らない部分で頑張ってくれていたことを思います。

私と母にたくさんの「ありがとう」の言葉を残して逝きました。
病状がそれほど悪くなっているとは感じさせないほど、父は家でふつうに日用大工をしていました。父が自分自身でいろんなことが出来なくなった状態は一週間前ぐらいからです。
突然の病状の悪化に気持ちが追いつかず、『もっと早く入院させればよかった』『隣の部屋で付いていればよかった』と後悔もありました。
集会の姉妹の助言により気持ちが落ち着いてくると、直前まで家で好きなことをして生活が出来たのは『身体と時間の束縛がなくて父のためには良かった。』と思えるようになりました。いつまでも自分を責めたり悲しんでいては、御国に向かう父のためにならないと考えられるようになりました。
一人娘で子供も居ないので「わしらが死んだら晴美が独りぼっちになる。友達をたくさん作れ。」と父は私のことを長年心配していましたが、信仰に導かれ性格が明るくなったことや昨年五月の私の入院中に集会の姉妹が見舞いに来てくださった時の様子などを見て安心してくれたみたいです。

母は心の病を持っていることもあり喪主を務めるのは難しく、私が代役を務めました。
以前の私ならば、「私も出来ません。」 と言って、伯父に頼んでいたと思います。
もし信仰に導かれていなかったならば、泣いてばかりで両親の手助けどころではなかったと思います。 以前の私はそれほど弱い人間でした。

父の闘病中から納骨まで、心を強くして最期までいろんな手助けが出来たのは、すべて信仰を持っていたおかげです。神さまに感謝します。
私や集会の兄弟姉妹の祈りが、闘病中の父の霊肉となり、いまも御国へと導かれて永遠のいのちを得ていることを信じます。

母のことは伯父も「一人暮らしは無理だから、同居を考えた方が良いよ」と葬儀後、早々に心配してくださいました。両親の結婚当初から母の病が悪化するたびに相談に乗ってもらっていた、父方の伯父からの助言です。
私は一人娘で夫も跡取りなので難題だと思いつつ、夫の両親に相談しました。
しかしこのことも神さまが良い方に解決してくださいました。
(私の結婚当初から母のことは説明していたので)夫の両親も即賛成してくださり、九月頃には同居できることになりました。

イエスさまのところで父と再会できる時まで、信仰を堅くして母や夫と助け合いながら過ごしていきたいと思います。
父のために多くのお祈りをありがとうございました。
東日本大震災で被災された方に、主の励ましと慰めをお祈りします。


リストボタン長男 Tの自然葬  二〇一一年八月
山梨県 YA

医師より、余命半年を宣告されてから、三年二ヶ月の闘病の末、今年一月一一日、長男Tは肺がんのため亡くなりました。四五歳でした。

片方の右肺はほとんど機能しておらず、しばしば危険な状態に陥りながら、その都度不死鳥のように回復し、まさに奇蹟の連続のようでありました。たぐいまれな体力と、祈りと神さまによる特別な守りによるもので、そのことは、T自身がいちばん感じていたことであります。最期まで、病気に対して前向きに対峙しており、神さまに委ねる信仰は揺らいだことはありませんでした。又併せて「死」に対しても遺言の形で準備をしており、私の方が、むしろ気を遣いました。

自然葬もTの意思でした。自分の葬儀は家族だけの見送りとし、駿河湾に散骨をして欲しいと言う意思でした。そしてその業者をまでインターネットで調べて、指定して行きました。

七月二四日、彼の遺言通り駿河湾で自然葬を済ませました。Tは静岡がんセンターで治療を受け、病院の屋上からよく眺めていた駿河の海、また沼津の町に親しんだこともあって駿河湾に決めたようです。
また、センターの先生や看護師さんたちの心温まる治療のお陰で、快適に闘病生活ができたと、いつも、人に恵まれたことの感謝を忘れることはありませんでした。

四月に散骨を決めていたのですが、春の海は西風が強く船が出港できないということで、この度七月二四日に延期を余儀なくされましたが、当日は天気にも恵まれ、凪ぎの海でした。二一人定員の船は、私たち家族だけの専用船で、午前一〇時沼津マリーナを出航し、沖より二〇キロメートルの海に向かいました。大海原を船が潮騒のようなスクリュー音を響かせながら進んで行きました。かなたには、頂きに雲を乗せた富士山の稜線だけがくっきり浮かび上がって見えておりました。

二〇キロの海面で船はエンジンを止めて、静寂の中で自然葬の儀が行われました。まず、お祈りと、Tの小さい時から親しんだ「主我を愛す」の賛美歌を歌いました。
既にパウダー状になったTの躯はまるで白砂のようにさらさらとして、業者さんが用意して下さった白と紅のばらの花びら、わが家の庭の黄、薄紫、ピンクのアストロメリアの花びらに乗って海に還って行きました。その時、ゆりかもめが一羽ゆっくりと船の前を飛んで行きました。皆で「剛だ」とも言いあいました。幻想的とも思える場面でした。
鐘が八回鳴らされ、儀式は終わりました。

帰路につく船が旋回した時、花びらが対流となって渦の中に消えてゆくもの、船の水しぶきに載って流れてゆくもの、その花々を見つめていると、東日本震災の津波による未だ行方不明五千人の方々の事に思いを馳せずにはいられませんでした。海流に載った7色の花びらは、波にさらわれていった人たちに対するレクイエムのようにも思えました。併せて魂の平安を祈りました。

こうして、Tは、海へ、自然へ、そして、神さまの身元に、霊肉ともに還って行きました。終始神さまに守られ、私たち家族も安らかな気持ちで自然葬を終えることができましたことは感謝しております。

息子Tの居ない寂しさは否めませんが、心の中にいつも一緒に働いていていることを日々実感しております。そのことに慰められ、平安をあたえられております。

海と空の境は見えず
天の涯に海風となり君還りゆく


リストボタン愛に満ちた御言葉
           静岡県    NM

「今を大切に」‥‥昔、私が清水病院へ受診した折、院内中庭にあったこの句碑が目に留まった。始めは、簡潔な分かりやすい句だな、程度の印象であった。しかし、しばらくして、病院に相応しい素晴らしい句であると感心した。その後何かのきっかけで、評判の良かった元病院長が詠まれた句とお聞きし、その病院長の患者を思う優しい眼差しと慈しみ溢れた深い人間性を感じた。
病院内の中庭は、多くの患者が行き交い、ふとした折に目線を注ぐ所である。その眼差しの先にこの句碑が設置されている。不特定多数の患者が、大きな不安や深い悩みを抱えて見詰める“今”とは、弱気な心を克服し病気と真正面から向き合い、治療に専念し、更に、完治した後の新たな生活に思いをはせる大切な「時」である。この句により、今までどれ程多くの患者が、慰められ、勇気づけられ、再起を誓い病院を後にしたであろう。
十年以上も前に目にしたこの病院長の言葉「今を大切に」が、いつまでも印象深く心に刻まれているのは何故だろうか。私は思う。病院長が患者と同じ立場にたち、患者のため自身の心を、誰にも理解できる言葉で端的に表現したからであろう、と。
聖書にもたくさんの愛溢れる御言葉が記されている。イエスの地上での生涯は三十年そこそこ、伝道活動をされた期間は実質3年程度と言われる。病院長同様、イエスは徹底的に相手の立場に立って、その人の、その時、その場にもっとも相応しい言葉を与えられた。
そのひとつに、「徴税人ザアカイ」が思い浮かぶ。徴税人は、時のローマ政府に委託された税金を徴収する人であり、課せられた定額の税金を政府に納めることが仕事である。ユダヤの人々にとり、ローマ政府は異邦の政府であり、常に支配されている意識が抜けない上に、地元ユダヤ人でありながら政府に納める税以外に新たな税を課す徴税人は、受け入れることのできない存在であった。人々は、ザアカイに対し多大な恨みを抱き、うっとうしい人物として排除し、無視し続けた。この町にも、イエスがやって来るという噂を聞きつけたザアカイは、イエスの姿を一目見ようと通りに出たものの、背が低く視界が遮られ、いちじくの木に登って、独りぽつんとイエスの到着を待っていたのだった。人々から相手にされず孤独でさびしい思いをしているザアカイの思いを察知しイエスは、大声で呼びかけた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と。この時ばかりとイエスは、群がる人々に聞こえるように敢えて大声で、この一言を発したであろう。相手の立場、その時、その場を考えてのイエスの深い愛を感ずる。いちじくの木から飛び降り、小躍りしてイエスに駈け寄るザアカイの姿が思い浮かぶ。
もうひとつ、「姦淫の女」が浮かぶ。律法学者、ファリサイ派の人たちが、現場で捕まえた罪人をちょうど鬼の首でも捕ったかのように勝ち誇りながら、民衆に囲まれたイエスの前に連れ出した。イエスはこの人たちの意地悪い質問を上手くかわし、女を助けた。その場に居合わせた大勢の人々は、イエスの言葉によりその場から退散し、今、残ったのはイエスと女だけである。ここに至りイエスは、どうしても言わなければならない言葉を発した。生き返ったようにホットしている女に向かって、真の愛の一言を伝えた。「これからはもう、罪を犯さないように」と。イエスは、女の立場を尊重し、誰もいなくなって初めて女に向かい口を開いた。母親が愛しいわが子を諭すように、目を見つめて話したであろう。女は、イエスの相手を思いやる深い愛に驚き、心震え、今後決して罪を犯さないと固く決心し、家路についたであろう。
イエスは「罪人」の境界を無くし、社会から排除された孤独な人、病の人、貧しい人等弱い人々をこよなく愛された。そして、その人その人へ、その場その時の最も相応しい御言葉を伝える。
私たちは、福音書を通し、イエスが地上で語られた御言葉に接することができる。そこには、常に目の前にいる人にとり、最も必要とされる御言葉が数多く記されている。これから心してイエスの愛に満ちた御言葉と向き合い、その御言葉を通しイエスにお会いしたいと思う。そして、イエスに倣い、今後私が出会う多くの人々に、愛に満ちた御言葉を伝えることができれば、と願っている。


リストボタン「 うつ」の経験」
高槻市 NY

最近、厚生労働省は重点対策が必要な疾病として、従来の癌、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病に、新たに精神疾患を加えて5大疾病とした。この精神疾患には「うつ」や「認知症」が含まれ、2008年の患者数は約323万人と、糖尿病(約237万人)や癌(約152万人)を大きく上回っている。
「うつ」は、昔はノイローゼと呼んでいた病気かもしれない。多くの病気や事故などと同じように誰かが「うつ」になったと聞いても自分がそうなるとは思わないものだ。私は五二歳頃に「うつ」になったのだと思われる。1年くらいは自分でも病気だとは思わず病院にも行かなかった。五三歳の春頃に、家内に言われて精神科のクリニックに行った。そこで貰った薬は考えられない程よく効いた。それまでの症状が一気に改善され気分が軽くなった。しかし薬を止めると症状はぶり返した。自分でも「うつ」になっていると納得した。人間の心は意外ともろく壊れるものだと思った。それから十一年半、薬を徐々に減らしつつ時間をかけて六五歳にしてついに完治した(と思う)。
振り返ると(今まではあまり思い出したくなかったのだが)何が原因で「うつ」になったのかということは判然としない。悩み事は会社生活、社会生活ではつきものであり、いつの頃にも大なり小なり悩みを抱えていたと思う。もっと若い頃のほうがむしろ深刻だったような気もする。自分では気がつかなかったが、その症状については、今考えると典型的な「うつ」の症状だったのだろうと思う。
眠れないというのが主な症状だった。アルコールの力を借りると眠りにつくことはできるが、2~3時間で目が覚めて、そのあと眠れなくなる。そして不眠のほかに、気にかかることがあると胸が高鳴り苦しくなるという症状があった。食欲は、自分では無くなったとは思わなかったが、目だってやせてきた。何しろ身体がだるくて、休日に散歩に行く元気もない。頬がげっそり落ちて、他人から痩せたねと言われるようになった。
正月休みがあった。連続した休みが取れるので、疲れが取れて体調が良くなるだろうと期待した。しかし頭で休みだと思っても、どこかに力が入っているのか気持ちが休まらない。何にも興味が湧かなくて、何も面白くないのだ。
職場で一泊旅行に行く機会があった。気分が変われば、そして疲れたら眠れるかもしれない、そう期待して参加した。ホテルの二人部屋で、同室の人はカラオケに行き、私は早めに、持って行ったウイスキーの小瓶を水割りして飲んでから、ベッドに入った。午前0時頃だろうか。その人が帰ってきて着替えてベッドに入りいびきをかき始めたのも知っている。朝までほとんど眠れなかった。現地解散だったのでぐったり疲れて一人で家路についた。
また、一泊研修があった。夜遅くまで、与えられた課題についてグループに分かれて議論し、翌朝はそれをまとめて発表するということだった。これは眠れないだろうなと思っていた。予想通り神経が興奮していてほとんど眠れなかった。
「うつ」になっている期間、まだ医者にかかる前、心が弱くなっていたせいか、いじめにあった。それまで、いじめということは自分とは関係のない世界のことのように見ていた。自分が誰かをいじめるということはありえないし、自分がいじめを受けるということも思いつかなかった。自分は誇り高い人間であり、少しでも自分をけなすような言動があった時、あるいは、その気配が見えた時、黙ってはいない人間だと思っていた。しかし、これが「うつ」による病気のせいなのだろう。異常なまでに失敗を恐れ、細かいことにくよくよと悩むようになった。そして、外からはおどおどしているように見えるのだろう。また、言うべきことが言えなくなった。言い返すことができなくなり、相手の言いなりになることが多くなった。いじめっ子はそのような獲物を見るとちょっかいを出したくなるものだ。そして反撃がないとエスカレートする。私も会社でそのようないじめっ子に会い、それは周囲にいる人にもあからさまなものだった。そうなるとそのいじめっ子と一緒になりいじめる人も出てきた。また、従来、私に信頼を寄せていた人はあきれたのか近づかなくなった。このいじめは私が職場を変わることで収束した。
十一年半の「うつ」の期間の途中からは、イエス様の導きで無教会の集会へ行くようになった。そして、イエス様は私に主の平安と信仰を与えてくださった。でも薬を完全に止めることはなかなかできなかった。
私は、科学を研究した経験のある人間として、最近このように多くの人が「うつ」などの精神疾患や睡眠障害(昼夜逆転)などにかかるということは、単に現代の人が多くのストレスにさらされているからだということではなく、もっと別の原因があるのではないかという気がする。その一例として、マスコミでは決して取り上げないが、いわゆる「花粉症」というアレルギー性鼻炎のことがある。この病気が国民病となるほどに広がった主原因は自動車の排気ガスであることは知る人ぞ知る真実である。本来、仮説を実験で実証したり、疫学調査を公平な態度で統計処理しなければ結論は出せないのだが、現在の精神疾患などの脳・ 神経系の疾病の拡大についても何らかの現代社会に特有の「化学物質」様のものが原因となっている可能性は否定できないと思う。
今、「うつ」の経験を終えて私にはわかる、この経験は主による教育であり鍛錬であったのだと。
ロマ書に「私たちは苦難を喜び、誇ります。なぜなら苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望をうむからです」という言葉があります。その言葉を読んだ時、涙が止まりませんでした。できることならもう試練を与えないでください。でも、今、私は思います。私の試練は主の備えであった、肉親の死による悲しみも主が私に備えられたものなのだと。
その立場に自分がなることによって初めてわかることは多い。いや、自分が経験しないで理解することは不可能に近いのかもしれません。苦しみ、悲しんでいる人がそばにいてもその人の本当の気持ちはわからないものです。実際に自分が経験することにより理解しやすくなることは確かです。以前、「うつ」の人の気持ちがわかりませんでした。いじめられている人の気持ちがわかりませんでした。
主よ、どうか私たちを、悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ者とならせてくださいますように。


リストボタン近畿集会に参加して
                 TK

身体の不自由で自由には動けず、キリスト教にも全く無関心な夫を連れての参加。夫には気の毒だな、悪いなと思いつつ、今年も参加出来て本当に良かった。
名簿を見た時、最初の最初にIKさんの名前を見つけた。私は目が悪いので傍を通っても名前まで分からないので、間近に逢うときがあればと思った。小グループで一緒になっているといいのにと、探したけれど一緒のグループにはなっていませんでした。
自己紹介の時に初めて声を聞きました。僅か十分間でしたが、心の底まで身体全身、神様の愛で満たされている方なのです。本当に、聖霊を豊かに豊かに与えられたと言う事がどう言う事であるかを全身で表わされていました。理不尽でむごい仕打ち、相手を憎んでも憎みきれないほどの仕打ちをされても、そのような事の中にでも神様が働かれて聖霊が与えられると、相手を赦す事が出来る。赦すと言う事は人間の出来る事ではないのです。イエス様の赦しを間近に感じられる思いでした。
ずっと以前、Yさんが東京での全国集会でIさんとお会いされた事を伺った時、「この方といつか会えるのではないかな」と思ったのでした、同じ(キョウ)だからかな。
お会い出来た事は神様からのプレゼントでした。


リストボタン律法と仰膽(ぎょうせん)
「律法とは」
              東京  TM

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにあ る者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさば きに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の 前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
  (ローマ人への手紙 三章十九、二十節)
律法とはふつう、モーセの十戒を中心とした神の民の生活と行為に関する神の戒めをさす。律法の中心は神の義である。律法に従う者には生命が与えられ、それに従わない者には死が与えられる。ユダヤ教徒は人間の力で律法が行えると考えた。しかし元来イスラエルに律法が与えられたのは、神の恵みの具現化としてであった。 はじめに神の恵みがあって、そこから神の愛の応答としての人間側の律法遵守があってしかるべきであった。しかるにユダヤ人はその順序を倒錯させて、人間による律法遵守によって神の恵みを分捕ろうとした。それこそがまさしく律法主義と呼ばれる所以のものである。

「律法の世界」
「律法の支配する世界、それは人間が、人間の行う律法の業によって救いを得ようとする世界である。律法の義を求めたユダヤ教がそれであった。様々な人間的方法や工夫によって救いに到達しようとする世界の諸宗教も同様である。そしてまた人間の知恵と知識と技術と経済によって人類の幸福と完成をめざす一切の文明的努力も、すべては律法の支配する世界である。」

律法の世界を石原兵永はこのように描く。先生によれば律法の世界は、人間の、人間による、人間のための世界である。それは人間が人間の力によって(時に神の力を利用して)人間の救いを達成しようとするヒューマニズム(人間主義)そのものである。

「律法の自己中心性」
また聖書学者のシュラッターによれば、律法の世界の中で人間は飽くなき自己追及に向かう。律法問題はつまるところ人間の自己中心性に収斂する。

「律法に対するあなたがたの奉仕において、あなたがたが問題にしているのは、結局あなたがた自身なのである。あなたがたの意欲と能力と活動、あなたがたの義とあなたがたの栄誉とあなたがたの祝福が、あなたがたの心を満たしている。あなたがたは、絶え間なく自分たちのことを考え、自分たちを求めている。そしてその終わりは死である。」

「律法的経緯」
内村鑑三は「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」の中で、十字架の主を仰ぐに至るまでの自己の律法的経緯を語っている。

儒教国家に育ちしわれらは、キリスト教をもって聖人君子たるの道と考え、完全なる道徳的状態に達せんことを信仰の目的と考えやすい。しかるにおのれの実情がおのれの理想とかなわざるための、苦悶懊悩の襲うところとなるのである。余のごときはこの罪のもだえに泣きしも、日本国においてこれを解決するの道なく、ためにはるばる米国にまで渡りて、この疑固の氷解を求めたのである。時に深切なる先生あり、余に教えていわく、“汝、みずから義たらんと努むるなかれ。そはあたかも小児が植木を鉢に植えて、毎日引き抜きつつ発育いかんを調査する類にして、とうてい出来得べき事にあらず。汝自ら聖くならんと努めずして、ただ十字架のイエスを仰げ。さらば平安、汝に臨まん”と。かく教えられて大いに悟るところあり。“仰ぎ見よ。さらば救われん(イザヤ書四十五章二十二節)”と。

「十字架の仰膽(ぎょうせん)」
では私たちは、このような律法的閉塞状況を打開するために、どうしたらいいのだろうか?正しくあろうとしてありえない、隣人を愛そうと
して愛せない、そんな私たちに救いはあるか? ある。律法の呪いから脱する唯一の方法は、内村鑑三がそうであったように、十字架を仰ぐことである。

十字架上のキリストを仰ぎ膽(み)なさい、そうすれば救われます。キリストの流した血はあなたがたがいかに罪深いかの証明であると認めなさい。そうすれば、救われるでしょう。キリストの受けた、ことばでは言い尽くせない苦しみは、あなたがたの罪に対する神の怒りの表れと認めなさい。そうすれば、救われます。キリストの十字架上の死を、古いあなた自身の死と認めなさい。そうすれば救われます。十字架上のキリストを単に眺めるのではなく、仰ぎ膽(み)ることによってあなた方は救われるのです。誤った、 罪深い自分自身をキリストと共に十字架に釘で打ち付けられ死ぬことによって、わたしたちは新しく生まれ変わり救われるのです。(ガラテヤ書二章二十節)

(内村鑑三所感集 「十字架の仰膽」より)
律法の支配するこの世の中で、人が人を救うことはできない、ただ律法のテロス(終わり、完成)であり給うイエス、人間を罪から救うために自ら律法の呪いとなって十字架に架かり給いしキリストを仰ぎ見ることによってのみ、私たちは律法の呪縛、すなわち罪と死の呪縛から解放されるのである。
 自己に絶望したとき 十字架を仰ぐ
 許されない罪に沈むとき 十字架を仰ぐ
 愛する者を失ったとき 十字架を仰ぐ
 死の陰の谷を歩むとき 十字架を仰ぐ
 ただ十字架を仰ぐ                  (二〇一一年一月二五日)


リストボタン聞け!
         札幌 OH
 
「聞け」(ミカ書 第三章一節)神は凛として言われた。
どんな都合があろうとも、それを直ちに中止して神に聞かなければならない。
神の言葉に聞かない者は誰一人存在していないのである。
神に聞かない者は誰一人いてはならないのである。
一人一人の都合などは神の前には許されないのである。
ただ頭(こうべ)を下げて、平伏すのみなのである。
人が都合を優先して神に聞かなくなれば破滅に向かうのである。
イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けて水から立ち上がると天から「イエスは私の愛する子。これに聞け」という声がした。
イエス・キリストの第三千年紀に生きている私にも通ずる聖言である。


リストボタン日本の「宗教改革」について思う
               愛媛 TT

若き日に愛読した三笠宮崇仁著の「わが思い出の記」(一九五六年)の一節に「…日本の社会にのこっている近代以前の考え方、それは日本の近代的な発展をさまたげているものだが、そうしたものが今だにのこっているのは、日本の社会がまだ宗教改革の過程を通りぬけていないためではなかろうか、と当時考えていたためである。」と終戦後、「格子なき牢獄」から解放されて、歴史学の道を選択した契機が述べられている。
「宗教改革」は、ヨーロッパの中世期、十四世紀後半から十六世紀にかけて、ウィクリフ、ヤン・フス、マルティン・ルター、カルヴァン等の改革者が当時のローマ教皇=教会が作りあげたさまざまな虚飾を剥ぎ取り、人の救いは教会に由らず、イエス・キリストの十字架の贖罪(あがない)により、人が神=キリストと直接(聖書を媒介として)結びつく信仰を通して与えられる、という聖書の根本真理、「この神の義は、イエス・キリストを信ずる信仰(だけ)によって、これを信ずるすべての者に与えられる。(すべてというのは、そこに人間的の)なんの差別もないからである。」(ローマ人へ三・二二塚本虎二訳)の聖言を、明白に表明、実践したプロテスタンティズム(新教主義)を指し、ヨーロッパ近代社会の精神的基礎を築いた。また、十八世紀の「アメリカ独立宣言」(一七七六年)は、この宗教改革の理念により、「…すべての人は、創造主(神)により、平等に造られ、奪うことの出来ない権利を授けられている。…」と神のもとでの人格の尊厳と独立を明確に謳(うた)っている。
ところで、日本にも宗教改革の時代があったのであろうか。歴史の教科書によると、日本の中世期は十世紀末から十六世紀までの六百年にわたる長い時代であった。古代律令国家の権力、統合が崩壊し、それまでの社会秩序が破壊されて、人々の権利や生命が保障されない苦難の時代であった。また災害や疫病・飢饉が絶えず襲うなかで、民衆は常に死と向き合い、神仏への救いを渇仰していた。しかし当時の朝廷は天台・真言宗と密接な関わりをもち、「鎮護国家、玉体安穏」が僧侶達の祈りの主体であったという。かかるなかで生まれた「鎌倉新仏教」は異端とされたが、祖師達は寺院を出て人々の救いのため積極的に民衆の間に入っていった。天台宗比叡山出身の法然や親鸞は、「ただ念仏するのみで救われる」とする「易行道(えきぎょうどう)」を提唱し、民衆に大きな影響をもたらした。法然の「一枚起請文(きしょうもん)」に「…ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の仔細候はず。…」、また「歎異抄」の初めには「…親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の仔細なきなり、…たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずさふらふ。…」とあり、救われるためにはただ信仰のみでよい、それ以外には何も要らない、という教えはまさに改革的で、「プロテスタンティズム」の精神に通ずるものがある。
しかし、そこには「出エジプト記」二〇・三 モーセ十誡「汝、わが面(かお)の前に我の外何物をも神とすべからず」、聖なる絶対唯一の神が居られない。阿弥陀如来は神社の八幡神と融合して、日本の神々は仏の化身であるという 「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」が中世以来の常識とされ、現在も仏教寺院の中に稲荷神社の鳥居が立っていても、土地の住人達には何の違和感もないほどに、聖なる神に対する畏敬の念が欠けている。聖書の神は、人間の心の中の兎(う)の毛ほどの罪をも決して許さない厳しい義の神である。
「情欲をもって人妻を見る者は皆、見ただけですでに心の中でその女を姦淫したのである。それで、もし右の目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ」(マタイ五・二八―二九)。聖なる神の愛は、御独り子キリスト・イエスを十字架につけて、人間の罪を罰しなければ罪を赦されなかった厳しい義の愛である。大慈、大悲の阿弥陀仏とは本質的に異なっている。八百萬(やおよろず)の神仏に御利益(ごりやく)を願い、賽銭を投げて恥じない国民には聖書の神はわからない。国民の尊い命の犠牲を捧げた敗戦により、つくり得た日本国憲法の「基本的人権」や「個人の尊厳」は、創造主なる神への信仰の裏付けなくしては、その本当の意味が理解出来ず、実行出来ない。「宗教改革」は神の前の悔改めなくしては起こり得ず、日本の歴史には未だ真の「宗教改革」はない。しかし、神の御恩恵により、この国に「バアルにひざをかがめなかった七千人が残されている」と信じる。神の御心により、我らの改革者内村鑑三の預言 「初夢」の成る日がいつか来るであろう。


リストボタン俳句 ― あじさい ―
                 IM
・原発の糸口見えず夏暑き
・原発の汚染飛び散り沈黙す
・被曝地区牛の一鳴き哀れなり
・あじさいの青より深き藍となり
・手の中のぬくもりとなり夕蛍
・どくだみを摘む手に匂い籠らせぬ
・涼しさの風が顔切り行く山路
・若葉風はねし仔牛の背を撫でる


リストボタンアベルの子孫
       広島 OT

創世記は聖書の初めである「光あれ」から始まる。ヨハネ福音書もヨハネ弟一の手紙も光から始まる。
聖書は歴史の書である。神の書である。信仰の書である。人間と神との書、信仰と確信の書である。神様を知ると死から生かされる。聖書はわたしの内なる力である。
人はアダムより始まりカインは死んだがその罪は消えない。人は罪より始まり、罪によって死んだ。聖書はそれを示した書である。私達人類はカインの子孫である。アベルは天において生きている。アベルの子、アブラハムは信仰の父である。
神はモーセに現れ力ある業をなした。イザヤは神の使い、預言者であった。ダニエルは異国での輝き。
そして、二千年間、イエス・キリストは全世界の王、主である。今、迫害の世は終わり、福音の世がおとずれて来ている。ただ、世は知っていても、聞かない、見ない、知らないと言う。平安で平和で安泰であると言う。実体は戦さはやまない。奪い合いである。自然の呻きも、訴えも人間は聞くことをやめた。聖書の歴史でも、人は神を愛さな自分に都合の良いものを愛し、罪を重ねてきた。しかし、神は少数の人の心に宿ってくださった。
今朝、ヘブル書を開いていると、七章まで、イエスは大祭司であり今も天の幕屋において働いておられる。八章ではレビ人が供え物を捧げて民の罪を贖ったがイエスは新しい契約によって全人類の贖いの血をもって父なる神に執り成しの労をとっておられる。ヘブライ八章一一節~一二節。「彼らの不義を憐れみ、もはや罪を思い出すことをしない。」キリストの十字架の血によって新しい契約が生まれた。律法はすたれキリストの血によってと書かれている。
ヘブライの前のヨハネの手紙を読む。神の愛によって兄弟を罪に定めず。愛によって悟らせよと言う。ヨハネの「神が愛である」は最後の神への信仰である。
今、私の二人の友人の死について悟る。一人は私が京都の集会に行くので病院を訪問した。半日話し尽くす程信仰について語った。二日後、彼を再度訪問した。彼は病院にいなかった。彼の自宅へ走った。親戚の人が留守番をしておられた。脳卒中で倒れたと言われた。あの時「良くなったので、近々帰る」と言っていたのに…。信仰の友を失った。それから二ヶ月後天の人となった。
もう一人は、末期のガンである。病院に行くが、元気な時なら信仰の話しもしたいが、こうなっては聞きたくないと言う。私はこの男の魂の救いを願った。ヨハネの言う、間違った友の為にも祈れと書いてある。裁きは神のなす事で、人を裁いてはならないと書かれている。
ヨハネも「死に価しない罪」と「死に価する罪」があると書いてある。一度神の愛を知った者が、その後偶像を拝み、日や時を占って神から離れると救われないとも書いてある。二人の友の為に祈らずにはいられない。


リストボタン地球の不思議
        福岡 MT

 参考書籍  
 科学とキリスト教(政池仁・鈴木弼美)世界はどのようにしてできたか(小林融弘) Newton二〇一〇年9月号地球特集号、 Newton198910月号地球大特集、 NHK地球大紀行theMiraclePlanet(一九八七年125日発行)、地球への誘い(NHK地球大紀行)COSMOS上下(カールセガン木村繁訳・朝日文庫)、九州中高生聖書学校(一〇八九年夏)式辞(松村)などです、
 プロローグ
人類の歴史において、16世紀から発達してきた自然科学は、信仰と科学とは相容れないものとして考えるようになってきた。信仰は科学に反するもの、迷信として扱われてきた。果たしてそうであろうか? むしろ最新の科学は信仰の世界を科学が証明しているとも言えるようであります。
宇宙が誕生して二〇〇億年、地球が誕生してから46億年(岩石中の放射性元素を使って測定する)、そして人類が誕生して三〇〇万年と言われています。私共は空があり、海があり、陸地と海があるのを当然と考えております。しかし、
その経過を辿ってみれば、地球が生命の惑星になったのは、数知れない奇跡の積み重ねによって、現在の地球環境が作られたのを知るのであります。
近年の宇宙科学が明らかにした事は、私達の住む地球は、数千億個からなる(天の川銀河系)の中の太陽、その太陽の惑星の一つであります。天の川銀河は薄い円盤の形をしており、円盤の直径は約一〇万光年(1秒間に30万㎞進む光が10万年かけて進む距離)である。地球はその銀河系の中心から約3万光年の距離の所にある、と言われています。言うなれば、地球は「数千億の恒星の集団のかたすみにたたずむのが私たちの惑星・地球」であります。銀河系の中に数千億の恒星がありますが、互いの恒星までの距離は数光年以上あるのが普通である。太陽から一〇光年以内にある恒星は8つしかない。それを太平洋に譬えると、太陽でさえビー玉位の大きさになる。地球はビー玉の周りを回る目に見えないたった一個の小さな砂粒に過ぎないのであります。そして、そここそ生命を宿す場所なのです。地球上に存在する生物の種類は(名前を付けられたものだけでも)二〇〇万種以上であると言われています。銀河系には数千億個の恒星があるが、その中で生命の存在が確認されているのは、私たちの地球だけである。現在宇宙物理学者は必死になって地球以外に生命の存在する星を様々な方法(電波や地球物理学など)で探しているがその確率は数千億分の一〇であると言われています。
水について、地球上の生命にとって液体の水は、文字通り「いのちの水」であります。地球上の殆どの個体も水が60%以上である。最初の生命が誕生したのも(海の)水の中だったと考えらえている。水が液体のままでいられるのは、地球の温度が丁度良い温度だからである。暑すぎれば蒸発してしまい、寒すぎれば氷になってしまう。又地球の大きさも丁度よく、火星のように小さいと大気を留めることが出来ず、宇宙空間に蒸発してしまうだろう、
逆に大きすぎても人間はおろかその重力によって高等生物の存在を許さないだろう。
更に太陽からの位置も遠からず近からず絶妙の距離にあると言える。また液体の水が存在できる第2の条件として(第一の条件は地球の大きさ)、地球が岩石型の惑星であることを教えられました。巨大なガス惑星(木星・土星)や、 氷惑星(天王星・海王星)では液体の形では水は存在できないのだそうです。その訳は雨を地表に溜めることが出来るからである、との事であります。
地球表面の7割は海である。水深の平均は4㎞で、これが地球温度の調整をしているのである。もし海が小さかったら、海流による熱の移動が減るため、生命が生息しやすい地域が減るだろう。水は惑星の気候を穏やかにする効果がある。
更に地球の公転・自転についても如何に地球が恵まれた惑星であるかが分かる。公転によって四季があり、自転によって夜と昼とがあるのであります。もし仮に自転が年1回としたら、地球の片側は常に日にさらされていることになり、1年中昼であり、その片側は1年中夜であり、昼の部分は焼けて乾燥し、砂漠化するであろう、又水がどんどん蒸発し、その水は空気の流れによって夜側の半球に流れてゆき、夜側は気温が低いので、運ばれてきた水蒸気は雪となり、氷となり、やがて氷河となる。その結果昼側は砂漠となり、夜側は氷河に覆われることになる。地球の自転速度は24時間37分である。自転周期は惑星が誕生する時の偶然の要素によって決まると言われている。
(偶然については、「世界はどのようにしてできたか」(小林融弘)参照)
月の影響によって地球の自転軸の角度が(23.4度で)一定している、もし火星のように自転軸の傾きが変化すると気候が激しく変動を繰り返すだろう、と考えられている。現に火星には過去の爪痕が残っている、と言われる。
地球が灼熱の惑星にも、氷の惑星にもならなかったのは、人知を超える様々な奇跡の積み重ねによって、人間の住むのに丁度よい環境が備えられてきたからだと、最近の自然科学は教えて呉れる。
 むすび
旧約聖書ヨブ記の最後に神に向かって文句を述べ連ねるヨブに向って神は『これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』と言われ、創造の数々数を示された。そこでヨブは全く神に降参するのであります。(ヨブ記38章以下)
私共もヨブのように知識もないのを知って、今日の地球が、我々の想像を遥かに超えている恵みの惑星なのを感謝して生活するのみであることを教えられました。


リストボタン森 祐理さんの賛美
                 TE

森 祐理さんのCDで「遠き国や」で始まる聖歌三九七番を初めて聞いて、繰り返される歌詞がとても心に入ってきて、そこだけを繰り返し歌っていました。

「慰めもて汝がために、慰めもてわがために
 揺れ動く地に立ちて
 なお十字架は輝けり」

この「遠き国や」は関東大震災の時に作られた讃美歌だったのです。
そして、阪神淡路大震災で亡くなられた森 祐理さんの弟さんの葬儀で歌われたそうです。
今起こっている東日本大震災を思って、私たちの礼拝の讃美タイムでこの曲の背景を紹介してくださり皆で祈りをこめて讃美しました。
ともに讃美しながら、被災されている方達や悲しみのなかにある人たち、原発の事故によってまったく前が見えなくなって不安のなかにある人たちに主の慰めをと願い祈りました。
周囲のどんな動揺にも、また私たち自身の心のうちに襲う罪からの動揺にも、イエス様の十字架は決してゆらぐことなく闇に光を放ち、立ち続けてくださるという信仰の確信が歌われています。
ほんのちょっとしたことでも自分はいかに揺れてしまう弱い人間なんだろうと思ってしまいます。
でも、この讃美のように今のこの時代にこそ、悔い改めてイエス様の十字架の愛に立ち返り、イエス様の勝利を強く信じて祈っていきたいと思います。

一 遠き国や海の果て 
  いずこに住む民も 見よ
※慰め持て変わらざる 主の十字架は輝けり
慰め持て汝がために 慰め持て 我が為に 
揺れ動く地に立ちて なお 十字架は輝けり
 
二 水は溢れ 火は燃えて
  死は手広げ待つ間にも
  ※ (繰り返し) 

三 仰ぎ見ればなど恐れん
  憂いにあらず罪も消ゆ
  ※ (繰り返し)


リストボタンイエス様は人の内に住まわれる
                 NY

先日、北イタリアのドロミテ山塊というアルプスの山々を巡るツアーに参加しました。高い美しい山に行けば、よりイエス様を近く感じることができるかもしれないという期待がありました。
とても楽しみにして行った旅行でしたが、旅の前日から、長時間の飛行機の移動中も全く眠ることができませんでした。着いてからも眠ろうとすると咳が出て、その度に心配した友人が起こしてくれ、友人も眠れないと思うと申し訳なく思い、咳が出そうになるとバスルームに篭っていました。
二日目にコルティナダンペッツォという美しい山間の町に着いた頃には、景色を楽しむ余裕がないほどクタクタになっていました。
コルティナダンペッツォはアルプスの高い山々に囲まれた美しい町で、一時間も歩けば町を一周できそうなほど小さな町です。広場はハイキングや登山を目当てに来た観光客で溢れていました。その真ん中にとても美しいカトリックの大きな教会があります。教会からは美しい鐘の音が聞こえていました。私は「イエス様に会いたい!あの教会に入ってお祈りがしたい。イエス様から安らぎを得たい。」と強く願いました。
友達に、ずっと眠れなくてもう身体がギリギリだから私はツアーの夕食をキャンセルして、教会に行って一人でお祈りがしたいと頼みました。友人は一人にされるのが嫌でしぶしぶでしたが許してくれたので、喜んで教会に向かいました。そして教会の横のドアからそっと入りました。
その教会は、見物目的で入ってくる人はあまりおらず、前半分には地元の人らしい方々が二〇人くらい座っており、後ろの半分にも同じくらいの人々が座っていました。みんな入る時は身体の前で十字を切って、好きなところに座っていたので、私も入り口近くに座りました。
黙って頭を下げて祈っていたら、緊張が解けたのか泣けてきて、ずっと涙を流しながら祈っていました。心の中を覗けば、自分のことばかり。いつも集会では自分中心が罪であると学んでいたけれど、どこまで覗いても自分中心の思いが溢れてくる私でした。
教会の前列右側には3人のシスターらしき女性信者が座っていて、そのうちの一人がマイクで静かに聖書の御言葉を読んでいます。しばらく読むとまた静寂になり、黙想の時間となります。イタリア語は分かりませんが、詩篇を読んでいるように思いました。そして三〇分くらい、読んでは黙想を繰り返していました。とても心が落ち着く、安らぐ声でした。
少し落ち着いて周りを見ると、地元の方々も、滞在者も、黙想しながら祈っています。そこは、徳島で礼拝の時に感じるのと全く同じ、真剣で霊的な雰囲気に満ちていました。とても懐かしい思いになりました。
みんなイエス様に心を向け、この夕方のひと時、イエス様を求めてここへ来た兄弟姉妹。カトリックでもプロテスタントでも無教会でも、まったく同じ聖霊に導かれている。それを思うと、感動で胸が一杯になりました。
その後、神父さんが入って来られ、夕拝が始まりました。美しい聖歌を先ほどの女性がマイクで歌い、参加者も一緒に歌っています。聖歌には伴奏がありませんでした。香がたかれ、その香は私たちの祈りが上る様に天に上って行きました。ほのかな良い香りが後ろの方まで漂って来ました。また聖歌を歌い、詩篇の交読がありました。言葉は分からなくても、深い安らぎをいただくことができました。「わたしが話す言葉によって、あなたがたはすでに清くされている」という御言葉を思いました。その後神父さんの短いお話と、地元の方への聖体拝領がありました。そして「主よ御許に近づかん」が歌われました。これだけは邪魔にならない小さな声でそっと一緒に歌うことができました。壁を見るとイエス様が十字架から降ろされた場面の聖画があり、私の罪のために死んでくださったイエス様の愛を思いました。
礼拝の最後に神父さんが何かを促すと、みんなが近くにいた人と挨拶をしながら握手をしました。私は後ろにいたおじさんと握手をしました。おじさんは優しい目で「グラッツェ。グラッツェ。(ありがとう)」と言ってくれました。私も感謝を込めてグラッツェと言いました。
人が神様に心を向けるとき、神様を目的として集まる時、そこにははっきりとイエス様の霊を感じることができました。
イエス様が、私たちの身体を神殿として住んで下さっているという事を、深く知らされた体験でした。
夕拝が終わってすぐにホテルに帰りました。神様から新しい力をいただいて、心には平安がありました。その夜は咳も出ず、久々に眠ることができました。
翌日、元気に目覚めた私は、今回の旅で一番楽しみにしていたハイキングに参加しました。ドロマイトという珍しい石灰岩でできた高い岩山、遠くに見える美しい湖。そして多種多様な高山植物と青い空。何もかもが美しいところでした。それらから、神様の愛や創造の業の素晴らしさを感じ、神様に心から感謝しました。


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            NH

今年も書いて下さる方がたくさんあり「ともしび」を発行する事ができました。感謝致します。
 このような大変な時代にキリスト者の証しを「ともしび」として掲げる意味が大きいと思います。
原発が日本に五四基もできてしまい、このような取り返しのつかない事故になっても、まだ強く原発推進派の力が働く構造があからさまになり、人間の罪に支配された姿を見せつけられました。
この世は八方ふさがりでどうにもならないように見えますが、聖書の世界はまったく放射能にも罪にも汚されず、厳然と真理が輝いています。私達は、この絶対的なお方の法則の中で再生されなければなりません。
どうか、一人一人が罪に支配されるのでなく、十字架のイエス様の御支配の元に入れますように。「神にはできない事はない」と聖書にあります。自分の力ではできなくても聖霊様がそれを可能にしてくれます。見えないお方、見えない聖霊、見えないけれど絶対の御支配。「見えるものは一時的であるが見えないものこそ永遠である。」という真理は時代がどう変わっても変わりません。
どうか、先に救われた私達を通して、土の器の中にも神様の力が現されますように。
どうか、「ともしび」の記事を主が用いて下さい。
書いて下さった方、読んで下さる方に主の恵みと祝福が豊かにありますように。

しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこ から、救い主、主イエス・キリストのこら れるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 (ピリピ書 三章二〇節)

発行編集責任者 NH
徳島聖書キリスト集会所属