ともしび
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ともしび 1999

徳島聖書キリスト集会員(H.N)編集の文集(季刊)

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内容・もくじ

image005.gifK集会に参加して

image005.gifイースター・子供向けの話

image005.gif讃美歌・愛唱歌

image005.gif子羊の声

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image005.gif選び

image005.gif短歌

K集会に参加して  N.H

5月の連休で、丁度、仕事が休みだったので、K集会に参加する事が出来ました。毎火曜日の午前中にS春代さんのお宅で礼拝が行われています。仕事の関係で、滅多に参加する事ができませんがこの日は連休中で、KさんとTさんも一緒に参加することができました。

朝から風雨が強く、外出日和ではなかったのですが、小松島のルピアという店で待ち合わせてそこから私達はT.Yさんの車に載せてもらって行くことになりました。沿道には終わりかけたつつじがそれでも鮮やかに美しく咲いていました。主を信じる兄弟姉妹、どこにいても神様が伴って下さっています。車の中は、主を中心とした交わりの時間です。昨日は憲法記念日という事で、新聞にガイドライン反対で現在の平和憲法を守る護憲派と、ガイドライン賛成の改憲派の集会の模様が載っていました。Yさんから、憲法と信仰の関係や、「武器を取る者は武器で滅びる」という聖書の平和絶対主義に基づくガイドライン法案への反対表明の事などを聞いたりもしました。

☆ガイドライン法案聞きて戦争に

  傾くのやめて!平和を願う

車の運転をしながら、時々TYさんが、景色や場所の説明をしてくださいます。

雨に打たれて、木々も草もしょんぼりと冷たそうに、見えます。そんな車窓に、ライトアップされたような、明るい木の群生が見えます。

☆ 何にても影響されず明彩な

  椎の若葉が森にかがよう

雨の日の暗さの影響も受けず、風になびいている様子もなく風雨の中で日の光に照り輝いているような若葉。すぐ周囲の影響を受ける私には超越した存在感のある木として

心に残りました。K町のSさんのお宅について「H代さん、来たよ」と予告なく行ったので玄関で声をかけると、HさんKさんが喜んでくださいました。

礼拝は讃美を多くして、学びはイザヤ書38章でした。

Sさんの感話が心に残りました。「ヒゼキヤが病気で泣いて必死で祈ったら病気が癒された。私も病気がちで苦しい。ヒゼキヤが癒された事より、自分の罪を知らされ、その罪が無かったかのように、神様が投げ捨てられた事が素晴らしい。人間の最大幸福は、神様に向かって祈りと讃美が捧げられること。その為には罪が示され罪が消される事が必要。そうすれば、たとえ病気が癒されなくてもその場所から讃美が生まれ感謝が生まれる。それは誰にでも起こりうる。」

 

☆ 主に希望置く苦しみは必ずや

  讃美と感謝の日をもたらしぬ

☆ 許されずば生きてゆけない魂の

  嗚咽にも似て波の音聴く

☆ 雨の中祈りのごとく座禅草

  目立たす強く丈低く咲く

☆ 猛る海嵐の砂路主の兄弟

  毒蛇の頭砕きて倒す

☆ 神様にご免なさいとひざまずく

  小さく小さく小さくなって


イ-スタ-子供向けの話  L.A


皆さんは、色んな計画を立てた事がありますか。さっき讃美した子供達は中学3年生ですから、受験がありますね。この1年どうやって勉強しようか、とか色んな計画があります。

この世界で、一番長い計画を立てた方がいます。それは神様なのです。神様の愛を人間に示そうとされた計画です。ものすごく長い計画です。私たち一人一人を、神様がどれ程愛しているかを知ってもらおうと思いました。それで神様は人間を造ったのです。

お父さん、お母さんに子供が生まれます。その子供に自分たちの愛を注いで注いで、子供たちは大きくなっていくのです。それで、愛されるという事を知ります。それで愛されるという事を知った子供は、人を愛するようになるのです。そのように、神様は人間を造って、そして神様にどれ程愛されているかという事を示そうとしました。けれども、アダムとエバの二人が、神様から離れてから、離れるっていう事はどういう事かというと、「もう、自分だけで生きられるんだって思う事。神様なんかいらない、自分は自分なのだ。私たちは勝手に生きます」っていう事なのです。

 神様から離れる事が罪なのです。その結果、人間は自分の思うような生き方をし始めました。自分の思い通りにならなかったら、人を殺したり、ものを盗んだりしてきました。それが罪という事ですね。そして、それが全世界に広がってしまい、罪を犯していない人は一人もいなくなってしまったのです。それで神様は考えました。

 「このままだったら死んでしまった後、全部の人が地獄に行ってしまう。

どうしたらいいのだろうか」と思われました。でも神様は簡単に人を赦してあげるという事はできない正しいお方だったのです。「罪があるので人の命が全部地獄に行ってしまう。そうならないように誰か替わりの人、罪を犯していない人が替わりとなる事ができるようにしよう」と決めたのです。そして地球上の人をずっと見たけれど、罪を犯していない人なんて一人もいないのです。

 皆さんの中で「私は罪を1回も犯していません」という人は手をあげてください。その人は嘘つきですよ。

 そして神様は思いました。「これでは大変だ。地球にいる全部の人が罪を犯したら、一体誰がこの人たちに替わってあげる事ができるのだろうか」と思いました。そうだ。私のかわいい、かわいいたった一人の子供、イエス様ですねえ。イエス様を地上に送ろうと思いました。そして、そのイエス様を人類すべての人の罪の身代わりにしようと神様は決めました。そうして生まれたのがいつですか。クリスマスです。

 クリスマスは、私たち全部の罪を贖うために、身代わりになるためにイエス様が生まれてくださった日です。ただしこれも、条件がありました。イエス様が生まれてから、死ぬまでの間に、1回でも罪を犯したら身代わりになることはできないのです。イエス様も大変ですね。イエス様は私たちと同じ肉体を持って、寒さも、暑さも、おなかがすいたなあとか、熱が出て苦しいなあとか、

風邪をひいたとか、そういう事を全部味わわれました。イエス様は人間として生まれてから、人間の持っている、痛み、悲しみ、を全部知る事ができました。けれども、1回も罪を犯しませんでした。

 さあこれで、イエス様が全部の人の罪の身代わりになることができるのです。でもこれはとってもつらい事なのです。それはイエス様が、替わりに罪を負うのですから、殺されなければなりませんね。それが、今日はイ-スタ-なので、イ-スタ-の3日前です。十字架という一番苦しく、悲しく、痛い死刑の方法なのです。イエス様は何も罪を犯していなかったけれど、「イエス様なんか殺してしまえ」という、多くの人の叫びがあったのです。そして、十字架に架けられるために、重い十字架を背負って死刑場に行きました。そして両手に釘を打たれて、足にも釘を打たれて、そして何時間もそこでずっとぶらさげられていました。その間に、血がポタポタと流れて、その下に弟子達が、なんと助けたいと思ったけれど、助けられずにいました。イエス様は自分を死刑にしようという人たちの為に「神様、この人たちをどうか赦してあげてください。自分が何をしているか知らないのです。」とその人たちを愛する思いで満ちてそして死にました。弟子たちは悲しみ、イエス様が生きていた時の事を思い起こして涙を流して泣きました。

 あれだけ人々を愛してくださったイエス様は死んでしまった。揺り動かしても起きないし、声も立てません。そこへアリマタヤという所に住んでいるヨセフさんがやってきました。「このイエス様の死体を下ろしてもいいでしょうか。ぜひ下ろさせてください。私が作った新しいお墓に葬りたいのです。」と願い出ました。そこで、きれいな布にイエス様の体を包んで、新しいお墓に入れました。そして大きな大きな石を持ってきて、ふたをしました。もし、イエス様の体が盗まれて、そしてイエス様が生きているなんて言われたら困るから「ぜひ誰も開けられないように、お墓の入り口に封印をして下さい」と言われたのです。封印というのは、お墓の石が動かされないように粘土をはって、そしてそこに大きなハンのようなものを押すのです。ちょっとでもそれを動かせば分かるような仕掛けをしておくのです。

 そして、3日目の朝になって、女の人がイエス様の体が臭くなっているだろうからとっても良い匂いのする香油といって、香水のようなものをイエス様の死体に塗ってあげようと思って、用意していました。これは、とっても高価なものでした。でもイエス様大好きだから香料を持ってお墓まで行ったのです。するとびっくりしました。何とお墓の大きな大きな石の戸が倒れて、お墓のふたが開いているのです。中に入ってみたら、イエス様を包んでいた布だけが置いてあって、イエス様の死体はそこにありませんでした。お墓が空っぽだったのです。そしてその女の人はびっくりして、イエス様の死体を捜していると

天使のような人がそこにいました。そしてこう言ったのです。「生きている方を死人の中に捜すのですか。イエス様は生きているのですよ。」女の人はびっくりして、走って走って、弟子達がいる所まで行ったのです。弟子たちもイエス様が死んでからものすごく「こわい」という思いで一杯になっていました。それは「イエス様が十字架に架けられたのだから、あの弟子たちも十字架に架けて殺してしまえ」と言われたらどうしようかと思っていました。だから雨戸まで閉めていました。そこにお墓から帰ってきた女の人が「お墓の中が空っぽです。イエス様はどこにもいませんでした。」と言いました。みんな信用しなかったのですが、ペテロだけが、急いで走っていって、本当かどうか見に行ったのです。このペテロさんというのは、イエス様が十字架に架けられる前に、3回もイエス様の事を知らないと、言った人だったのです。それで、心の中が重たかったたんですね。何であんな事を言ってしまったのだろうと後悔していました。だから急いで走って墓の中を見ると、墓の中は空っぽだった。これはどうしたのでしょうか。これは、長い長い神様の計画だったのです。

 それは、死んだイエス様を、神様が(生き返らせたのではなく、)甦らせたという言い方をします。生き返ったのだったら、またもう1度死にます。150歳も生きられないのですから。

 でもイエス様はこれとは違っていました。それは弟子達が日曜日の朝集まっていると、イエス様が戸も開けず、風もたてず部屋の中にス-っと入って来られました。幽霊とは違います。そして入ってきてイエス様が言いました。「わたしですよ。皆さん。聖書に書いてある通り、神様の計画通りに、わたしは甦りました。わたしの手にさわってごらんなさい」と言いました。イエス様が手を差し出すと、釘の跡がありました。弟子の中でトマスっていう人は疑い深い人で、ちょうど、トマスさんだけはその時いませんでした。みんなが帰ってきたトマスさんに「実はイエス様が甦ったんですよ。」と言っても「イエス様を見て、十字架の釘の跡に、私の指を実際に差し込んでみなければ信じられません。」と言いました。

 ある日曜日の朝、弟子達が集まっていると、そこへイエス様が突然現れたのです。そして「トマス、わたしの手を見てごらん。わたしの傷に指を差し込んでごらんなさい」とイエス様が言ったのです。その時トマスも「イエス様は素晴らしい。神様だ」って初めて信じたのです。

 イエス様はそのように、どんな人にでも合うような方法で、語ってくださって納得させてくださるのです。ある時弟子たちがお魚を焼いていたのです。イエス様が現れて、何か食べる物はありませんかって言いました。そこでお魚を差し出すと、イエス様は食べました。そのように、物を食べる事も出来るし触ることも出来るのです。聖書を見ると、後に私たちも同じ体に変えられますと

書いてあります。それはイエス様が復活されたのと同じ体になります。その為に必要な事は、「イエス様と一緒に死んだ人は、イエス様と一緒に甦ります」と書いてあります。それはどういう事かというと、イエス様を信じて死んだ人は、イエス様と一緒に甦りますよ」っていう事なのですね。

 これが聖書の教えです。今日は復活祭っていう日ですね。キリスト教の大きな2つのお祭りで、一つはクリスマス、もう一つが今日のイ-スタ-っていう日でイエス様が死というものから甦った日。私たちは人が死んだのを見ると、「これですべてが終わったなあ」とイエス様を知らない時は思っていました。けれどもイエス様を知って、「死んでも生きる」という考え方になりました。イエス様が甦ったので、その考え方が変わりました。それが、クリスチャンの生き方になってなってきたのです。どんなに迫害されても、苦しみにあっても

死んだら、イエス様と一緒に甦るんだという信仰が出てきました。

 また私たちの心の中に墓のような心がありますね。真っ暗で誰に話しかけても答えてくれないような、そういうものすごく寂しい、お墓の中にいるような所にも、イエス様が入ってきてくださって、その戸を思いっきりけ飛ばしてくださって墓を開けてくださる。その中から一緒に出ましょうと連れ出して、新しい命に入れるような人生を送らせてくださる。それがイエス様の素晴らしさです。

 それともう一つは、私たちの心の中にある一番大きな罪のかたまりは、自分だけ良かったらいいんだという罪です。その罪が、神様なんかいらないとイエス様を殺してしまったのです。ところが、3日目にイエス様が甦ったという事は、神様を殺したような私たちの大きな罪さえ、イエス様は全部愛して呑み込んで、そしてイエス様が甦ったという事は、その罪をも、跡形もなく消して去ってくださったという事です。

 だから、これから後、永遠の命、神様の恵み、神様の祝福、神様の大きな愛、赦し、そう言うものをどんどん体験していって、イエス様と親しくなれるのです。イエス様はこう約束して下さいました。

 わたしが天に帰ると、かわりの助け主を地上に送ろう。その助け主があなた方に、全部の事を教えてくれるでしょう。それが聖霊という神様です。いまここにいます。

 私たちも聖霊を求めましょう。「神様、聖霊をください」とお祈りしたら聖霊が与えられます。どうかこれから「神様、私にイエス様の愛をもっと与えてください。罪の赦しを感謝します。」っていうお祈りをしていってください。

益々イエス様が近く感じます。そして聖書がもっと分かりやすくなってきます。


讃美歌・愛唱歌  F.M



今年2月11日に父母の50年、義兄の5年の召天記念会が美馬郡半田町の生家でありました。81歳になる姉が、私の最後と思うからと、準備万端整えてくれました。それまでも、義兄、逢坂芳人(おおさかよしと)が中心となって、2月11日、9月18日の父母の命日にあわせて、毎年、召天記念会をしてくれていました。1994年1月8日に、芳人兄が召されてからは、和子姉中心となって、召天記念会を続けてくれていました。

ごく、内々の集まりでした今までと違って、今度は総仕上げといった感じでした。それがどんなに感謝すべきことか、日を経るにしたがってその思いを深くしております。

当日、午前中はぼたん雪が降っていました。聖書は「ヨハネによる福音書15章1節~7節」でした。ここで私は3人の愛唱歌に重点をおいて書いてみたいと思います。父や母が愛用していた讃美歌は、厚くて大きく重いものでした。1931年(昭和6年)発行で、今の讃美歌とは、番号も言葉も違っていました。父や母が讃美したのと同じに、私どもも讃美したのでした。

以下、父母の愛唱歌は、古い讃美歌のままの番号と、言葉で書いてまいります。義兄の愛唱歌は現在の讃美歌からです。

父、佐馬之助(さまのすけ)の愛唱歌は521番「はるのあさけ」です。

はるのあさけ なつのまひる あきのゆうべ ふゆのよるも

いそしみまく みちのたねの 垂穂となる 時きたらん(以下略)

山間僻地の開業医として、盆、正月もなく、往診に明け暮れた父の一生を思ったことでした。後で和子姉が「父の思い出」を話ました。

母、寿代(ひさよ)の愛唱歌は457番{神のめぐみはいとたかし」でした。

神のめぐみは いとたかし あふぐたかねの しらゆきに あさ日にほへるヘルモンの やまにもまさり たかきかな(以下略)

母がなくなる前に、その理由を詳しく話してくれました。長女である姉の光代は、小学1年生で、病気で召されました。病床で、まわりの者に「神のめぐみはいとたかし」を歌ってと言いながら召されたとか。日曜学校へも喜んで行って、神様からも人からも愛された一生でした由、私は母の深い心を、はじめて見たように思いました。後で私が「母の思い出」を話しました。祈りに祈って晩年の母を語りました。

義兄、芳人の愛唱歌は404番「山路こえて」です。

山路こえて ひとりゆけど 主の手にすがれる 身はやすけし(以下略)

皆で讃美した後「義兄の思い出」を息子の逢坂亘彦(のぶひこ)と私の義兄、大和真二が話をしました。404番の「山路こえて」は、日本人の西村清雄(すがお)が作詞をしました。讃美歌の中で、日本人の名前が出てくるのは、西村清雄がはじめてでした。四国松山の人で、大州と宇和島の間にある、法華津峠(ほけつとうげ)に石碑が建っていると聞いて、一度、訪ねたく思っていました。その願いが叶って、昨年6月に訪ねることができました。西村清雄直筆の大きな歌碑が建っており、真下に法華津湾があり、遠く九州がかすんで見えました。手前の法の記念碑に、西村清雄の肖像がきざまれ、もうひとつの碑には「山路こえて」の全文が書いてありました。伝道のためにこの、法華津峠を越える時、この歌詞が浮かんだとのこと。この言葉の通りの峠でした。義兄が元気な内に連れて来てあげたかったと思いました。

開業医の父を継ぎたる義兄も逝き古き大時計のみ待合室に

この召天記念会を通して、み言葉を学び、み名を讃美する時が与えられ、

父、母、義兄、ひとりひとりを思いおこすことができて感謝でした。

生前、父や母が「万亀子さえ信仰をもってくれたら」と言っていたという私も父や母の死を通して、信仰に導かれ、父母の歳を越えた今になって、父や母の歩んだ信仰の道を歩んで行きたいと思うようになりました。

つたない文章ですが、主が清めてお用い下さいますように。


小羊の声

(はり治療室から)  T.E



ある人とお話をしていて、「目の前に、びくともしない扉があり、それを一生懸命におしているが、決して開かない。もしかしたら永遠に開かないのかもしれない」と思うと言う。

聖書のみことばに、「求めなさい。そうすればあたえられる。探しなさい、そうすればみつかる。門をたたきなさい。そうすればあけてもらえる。」とある。

とても無理だと思われるような、頑丈な扉であっても、神様を求め続け、門をたたき続けるなら、必ずそれは開かれ、主の平安が与えられると、神様は約束してくださっている。

自分の積みあげてきたことを、すべて否定されたら・・・生きていけないとさえ思ってしまう。でも、そこではいつのまにか自分はという、強さがある。神様はそこにではなく、うちのめされ、そこで自分の罪を知らされ、悔い改めたとき、そば近くにきてくださる。そして、新たな一歩を支えてくださると、私の思いを話した。でも、今その人は聖書には、ちょっとすがりきれないと言われた。私は自分が、もうひとことが言えない。知らないうちに心ではなく、頭で語ってしまうような気がする。主の霊をいただき、私にもその人にも、主が語ってくださり、心を動かしていただきたいと思う。

夕拝で詩編をまなんでいるが、短いときや、すこしわかりにくい詩もあるので、あわせて「ヒルティの眠られぬ夜のために」第2部を学び始めた。

私がその方の事を思い、聖書につながる何かよい本をと祈っていたちょうどその時だった。早速その本を買い、さしあげた。

その人は、「今の自分にピッタリのタイトルだ」と、よろこんで受けとってくれた。

「眠られぬ夜のために」第二部は、点訳が手元にないので、夕拝の学びによって、私自身も導かれたいし、さしあげた人もヒルティを通して神様に出会い、新しい歩みが始まることを祈っている。

われわれは、これまでつねに神のみ手のなかにあったし、これからも永遠にそうである。この考えを抱くかぎり、死と呼ばれる滞在地の変更は、その重大さと恐ろしさを失ってしまう。

(「眠られぬ夜のために」第2部 1月2日より)

証し  T.K



初めて皆さんの前で証しをします。

私は聾学校の幼稚部、小学校、中学校と17年間学校へ通いました。今卒業して2年たちます。20歳の春が来て、楽しい事がどんどんやれる楽しい春になっています。

この集会へ初めて参加したのは、小学3年の9歳の時です。だからもう12年にもなります。その時はまだ国語の力が十分でなかったので、イエス様の事を聞いても理解はなかなかでした。その時に先生が解るまで説明してくださったけれどもなかなか解りませんでした。そういう事を今思い出しています。

涙が出る時もありました。日曜日も集会の場所へ来て、勉強するときもありましたが、重荷になる時もありプッツリとやめました。中学2年の時だったと思いますが、3年たってからまた来ました。その間は、自分の力で自分の楽しいことを色々求めてやっていました。でも心にポッカリ穴があいて何かを忘れているような罪をおかし繰り返し苦しみました。ある日の夜私は激しく泣きました。力づけてくださったのはイエス様でした。

光の子らしく歩みなさい。

平和を求める者は幸いである。

というみ言葉を心に思って毎日、仕事やスポ-ツにまた聖書の勉強に励んでいきたいと思っています。

これからも信仰を強くして素晴らしい出会いを体験したり、神様が私達の間で生きて働いてくださるように願っていきたいと思います。

(TさんとI真実君の証しは1999年4月のイ-スタ-で語られたものです。)


選び  高知 MH



1.
主の選び

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだのである。

(ヨハネによる福音書15の16

日本のクリスチャンの数は、総人口の約1パ-セントと言われています。120万人くらいの小さな群であります。お隣の韓国は人口4千万の4分の1、1千万人がクリスチャンと言われています。日本のクリスチャンは100人に1人の選ばれた人間であります。

イエスは、狭い門から入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいっていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そしてそれを見いだす者が少ない。(マタイ7の1314

と教えています。多くの人々は、広い門に殺到し、つかの間のこの世の幸福を求めつつ、滅びへの広い道を急いでおります。極めて少数の人が、狭い門をくぐり抜け、永遠の命に到る狭い道を進みます。これは、昔も今も変わることのない人間の姿であります。

冒頭の聖句は、この少数の信仰者は、神に選ばれ、召された者たちであることを教えるイエスの言葉であります。人が救いに入るには、それぞれ不思議な事情があります。ひたむきな求道心や決断、良き師にめぐり合うことなど、人間の側の努力や援助も考えられます。しかしわたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし、成長させてくださるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、共に取るに足りない。大事なのは成長させてくださる神のみである。(コリント書第1 3の67)とあるように、本人の心に願いを起こさせるのも、実現に至らせるのも神であります。(ピリピ2の13)良き師や、良き書物を与えて下さるのも神です。人間が神を選ぶのではなく、神が人間を選んで成長させて下さるということが根本であります。

イスラエル民族は、選民意識の強い、誇りの高い民族です。

あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。(申命記7の6)

彼らは、主の選びによって「主の宝の民」となったのであります。

新約においても、クリスチャンは、神の選びによって神の子とされた者です。あなたがたは、神の選ばれた者、聖なる、愛されている者である。(コロサイ3の1

旧約も新約も共に 神の選びであります。選びは神の恩寵です。この特別な恩寵の前に感謝と喜びとおそれがあふれるのであります。

2.選びの基準

旧約の選びについては

主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数が少ないものであった。(申命記7の7)

あなたはあなたの神、主があなたにこのよい地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。(申命記9の6)と書かれています。イスラエルが選ばれたのは、数が多かったからではなく

正しかったからでもありません。強情な民であり、主を怒らせ、主にそむく民でありました。(申命記9の6~8)選ばれる側に何の資格もなく一方的な神の恵みであることを強調しています。

新約においてはどうでしょうか。パウロは、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。(ローマ11の56)と書いています。ここでも、選びが恵みであると強調されています。そればかりではありません。恵みの選びはこの世的に見て、価値がないと思われるような者に向けられたと書いています。兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。(コリント第一1の2729

塚本訳では、「然り、君たちは知恵や学問や門閥の故ではなくして、むしろその反対に君たちの無力、無能の故に選ばれたのである」と28節末尾に補足しています。神の選びの恵みは「無価値な者」「無きに等しい者」に向けられました。これがコリント教会の実状でありました。現代においても、このとおりであると思います。神様は、なぜこのような選び方をされるのでありましょうか。「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」とパウロは説明しています。

愚かで、罪深く、かたくなな私が、救いに選ばれたことを思えば、本当に感謝があふれます。全く選ばれる資格のない私、ゼロであり、マイナスである私が選ばれたということは、驚くべき奇跡であります。だから、パウロはくだらない優越感や、傲慢を戒め、神に栄光を帰し「誇る者は主を誇れ」と教えるのであります。

3.選びと使命

すると、イエスがシモンに言われた。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(ルカ5の1011

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ロ-マ11

選ばれた者は、神に忠実に従い、与えられた使命を果たす義務があります。

第一の聖句は、ガリラヤ湖において、シモンとヤコブとヨハネが選ばれた時の記事です。彼らはガリラヤ湖の漁師であり、「無学なただの人たち」でありました。(使徒4の13) 彼らは主のお召しにただちにこたえ、今まで生活の糧を得る手段であった漁師を止め、舟を陸上に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従いました。彼らにとって選びとは、主の意志に忠実に従う、自己放棄の道でありました。

また、イエスは、シモン(ペテロ)に向かって「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。と新しい使命を告げました。今まで、ガリラヤ湖で魚を取ることに専念していた漁師が「人間を取る漁師」つまり「宣教者」になるというのであります。この言葉は見事に成就しました。彼らは12使徒となり、初代教会の柱石となりました。

パウロは、ロ-マ人への手紙の自己紹介において、まず「キリスト・イエスの僕」と書いています。塚本訳では、「キリスト・イエスの奴隷」となっています。単なる使用人や雇われ人とはちがいます。パウロは、クリスチャンになった時、自分を束縛していたすべてのものから解放され、自由の人となりました。そのかわりキリストを主と仰ぐ忠実な奴隷となりました。これが、選び別たれたパウロの生涯であります。

また、選ばれると同時に、異邦人への使徒として遣わされました。パウロにとっては、「僕」も「使徒」も、身に余る名誉の称号でありました。

塚本先生は「神は廃物利用の天才であり給う。」と書いています。(著作集続第8巻182P)「廃物」とは、口にすることをはばかるような言葉ですが、神は、人の目には役に立たない無きに等しいと思われるような人をあえて選ばれ、使命を与え、めざましいばかりに有益にこれを活用して下さるのであります。選びには必ず、使命が付き添っております。

 「使命」といっても、人を驚かす大事業ばかりではありません。クリスチャンひとりひとりが、この世に遣わされた「キリストの使者」であります。(コリント第二5の20

それぞれが置かれた環境の中で、与えられた賜物(タラント)を生かして、主の御用をさせていただくことが大切と思います。これが「天職」であります。福音を信じる者にふさわしく生活し「キリストのかおり」をただよわせ、(コリント第二の15)「キリストの手紙」(コリント第二3の3)として、主をあかしすることは、クリスチャンの使命であります。また、身動きできない重病の床にあっても、隣人のためにとりなしの祈りをすることはできます。

恩寵の選びにこたえ、使命を果たすことができますようにとお祈りいたします。


短歌 I.M



☆ 桜散りつつじが咲いて若葉萌ゆ

     惰眠のうちに主の日来ませり

 

☆ 支えられ生かされているこの歩み

     試みの都度恵み注がるる

 

☆ 許すより許されており主の愛に

     真綿のごとく包まれし夜

 

☆ 能力がついてこないと排除する

     知的障害の働く意欲

 

☆ 目が見えて耳が聞こえて歩けます

     大きな恵みなぜ主に返さん

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最終更新日 : 2000.03.25.日付