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内容・もくじ
st07_m2.gif添付画像へ image002.gif小題・参照箇所・掲載日時 st07_m2.gif添付画像へ image002.gif小題・参照箇所・掲載日時
st07_m2.gifリュウノウギク image002.gif「神には何でもできる」
  
(マルコ福音書10:27)   2003年11月21日 
st07_m2.gifカラスウリ image002.gif小さき群れよ
  
(ルカ福音書12:31-32)  2003年1212日  (最新版)
st07_m2.gifオトコエシ image002.gif「望みの港へ」
  
(詩編107:28-30)  2003年10月10日
st07_m2.gifヤマハッカ image002.gif「荒野の訓練」
  
(申命記8:2〜3より)  2003年11月4日
st07_m2.gifイワタバコ image002.gif「信仰に立っていのちを」
  
(ヘブル書10:36〜39より2003年9月1日
st07_m2.gifオトギリソウ image002.gif「生涯、私は主を呼ぼう」
   
(詩編116:1〜2)  2003年9月29日 
st07_m2.gifオカトラノオ image002.gif深き淵から
  
詩篇130:1〜6 2003年7月4日  
st07_m2.gif image002.gif苦しみの中から
  
(詩編118:5〜9) 2003年8月6日
st07_m2.gifスイカズラ image002.gif「常に主を私の前に」
 
(旧約聖書・詩篇16:7〜11より)  2003年6月5日
st07_m2.gif image002.gifきのうも今日も、また永遠に
 
  (ヘブル書13:5〜8より)  2003年6月13日
st07_m2.gifアケビ image002.gif愛は罪を覆う
 
 (Tペテロ 4:8)  2003年5月1日 
st07_m2.gifガクウツギ image002.gif「平和は川のように」
  (イザヤ書48:17−19)  2003年5月14日
 
st07_m2.gifジロボウエンゴサク image002.gif「すべてはあなたのもの」
 
 (歴代誌上29:11)  2003年4月3日   
st07_m2.gifタチツボスミレ image002.gif「ふたつの道」
  (エレミヤ書21:8 申命記30:19-20
) 2003年4月12日 
st07_m2.gifフキノトウ image002.gif「答えて下さる神」
 
 (詩篇86:5〜7)  2003年2月28日  
st07_m2.gifジンチョウゲ image002.gif「きのうも今日も、永遠に変わることなき」 
 
(ヘブル書13:6-8より) 2003年3月15日 
st07_m2.gifウメ image002.gif「主は打ち砕かれた心に近くいまし」
  (詩篇34:18〜21)  2003年1月25日
st07_m2.gif紅梅 image002.gif「一番小さい者こそ」
  
(ルカ福音書9:48)  2003年2月14日 
st07_m2.gifカラスウリ image002.gif「あなたの上には主が輝き出で」
  (イザヤ書60:2) 
 
 2003年1月1日
st07_m2.gifマンリョウ image002.gif「主よ、あなたのみ言は」
  
(詩篇119:89〜93より)   2003年1月112日
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リストボタン「小さき群れよ」
(ルカ福音書12:31-32)

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。


(ルカ福音書12:31-32)
 But seek the kingdom of God, and all these things shall be added to you.
Do not be afraid, little flock, for your Father has been pleased to give you the kingdom.
 
私たちが求めるものは、健康やお金、家、地位、友人、家庭、よい評価等々、人によっていくらでもあります。そして千差万別です。これはいつの時代も同じです。そうしたただなかにあって、主イエスは、いかなる状況にある人も、みんな共通して、まず第一に求めるべきものがあると教えられたのです。そんなものがあるのか、とまず疑うかもしれませんが、人間にとってどんな人にも共通して、最もよきものがある。当然それを求めるのが、本当の幸いへの道だというのです。それは、「神の国」だといわれています。
 神の国など、ほとんどの人にとっては考えたこともないものです。私も同様でした。しかし、たしかに「神の国」というのがあること、そしてそれを求めるとき、不思議にも心の最も深いところでの満足が与えられ、なにか清いものが心に流れてくること、周囲の悪にも打ち倒されないで、何か光としかいいようのないものを、心の奥に実感してきたのです。
 「私を信じるものはいのちの光を持つ」と主イエスはいわれました。このような、心の平安やさわやかさは、「神の国」に属するものだといえます。神の国とは、神のご支配そのものであり、神の支配とは、真実や愛、清さをもってなされているから、私たちの心に神の国が与えられるとは、神の愛に満ちたご支配が私たちの心にも及ぶことです。
 こうした真理を信じるものは、いつの時代にあっても、小さき群れであり、外部の権力や不正にたちまち呑(の)み込まれてしまいそうに見えます。キリストを信じる者たちの群れなど、押しつぶされてしまうのでないか…そんな不安に答えて、主イエスは、「恐れるな。小さき群れよ!」と深い愛をもって語りかけて下さっています。どんなに小さき群れであっても、真実な心をもって、神の国を求め続けるとき、必ず神の国は与えられ、神ご自身が守って下さる。それは神ご自身が、真剣に求め続ける者に神の国を与えることを喜ばれているからです。

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カラスウリJPG写真(クリックで専用ページへジャンプします.)
カラスウリ      徳島県小松島市    我が家にて      2003.11.05
 
 カラスウリは、晩秋から初冬にかけて、このように、緑のただなかに、その緑が冬の寒さにおおかた消えてしまったのちも、その鮮やかな朱色の実をとどめて、見る者の目を楽しませてくれます。緑のなかの赤、それはとてもよく目立つものです。この実を見つけても高いところや、草木の生い茂るところにあってなかなか採れないことが多いのです。目で見て、味わってくださいとでもいいたげな様子です。
 この実のなかにある種は、かまきりの顔によく似ていて、私も小さい子どものころから、友人たちとこの種を集めてあそんだりしたことを思い出します。そのころは、この実の色の美しさなどはまるで感じていませんでしたが、いまでは、神の御手による立体的な絵画のような感じを受けます。この我が家のカラスウリは、だいぶ以前に種を植えてあったらこのように、大きくそだって実をつけるようになったものです。雑草のただなかから、春に芽を出して、ほかの雑草や木が繁ってくるまえに、懸命にツルを伸ばしてそれらの草木の上部へとめざましく成長し、太陽を光を受けてこのような実を付けるのです。人間も力を尽くして、天を仰ぎ、神の光を受けることによって、成長し、実を付けることができるのを思わされたことです。
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リストボタン「神には何でもできる」
(マルコ福音書10:27)
 
イエスは彼らを見つめて言われた。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
Jesus gazed at them and said,
"With man this is impossible, but not with God;
all things are possible with God."
 

  この単純な主イエスの言葉を本当に心か受け取るかどうかで、人の生涯の道は根本から異なってくる。
 私たちは困難な問題に直面して、解決の道がまったく見えないときなど、しばしば言う、そんなことは無理だ、と。また悪いことを止められない人に対してあの人はだめだ、決してよい人にはなれないなどと言ったりする。また、何かの難しい問題にぶつかって、私はもうできないと思って絶望的になったり、社会ももうよくならない。いくら努力しても、多数が関心を持っていないのだからやっても無駄だ…等々、しばしば「○○は、できない」という思いに支配される。
 人間の最後に訪れる死ということも同様で、死ということを逃れることはできない。死んだら終わりだ…といったことが絶対の真理のように思われている。
 しかし、もし万能の神、愛の神がおられると信じるのならば、もうだめだ、ということはなくなる。「死」という最大の力を振るっているものにも打ち勝つことができる。実際、キリストは、死の力に打ち勝って復活され、今も神と同質な存在として生きておられる。
 また、社会の状況もいくらごく少数の人が頑張ってよいものにしようとしても、例えば日本の最近の状況を見ても、とくに若い人たちの動きは、将来に深い憂慮を持たせるものである。いくら教育が発達しても、豊かになっても、若者の心は善くなっていない。かえって悪くなっているのでないか…といった疑問が頭をもたげてくる。
 世界の状況も同様である。このように、すべて人間では究極的にはどうすることもできないようなことがいたるところにある。自分自身の心のなかのよくない部分、罪と言われる不純な思いなどすら、追い出すことができないのだから、社会にみなぎる悪の力を追い出すことなどできないのは当然だといえよう。
 こうして、神を信じないときには、人は、だんだんと無気力にならざるを得ない。何をやっても、究極的には変わらないのだ、そして最後には死が訪れるのだという漠然とした無力感がその人の心に漂っていく。
  しかし、「神は何でもできる」、しかも私たちの弱い人間に深く実感できる愛をもってしてくださるという信仰が与えられ、この信仰を固く持つときには、人にはできなくとも、神にできるという確信をもって生きることができるようになる。自分自身の心の中の汚れ、罪も神は清めることができる、世の中の問題も究極的には、神は悪をすべて滅ぼすことによって解決して下さる、死にも打ち勝って、死後の豊かな命を与えて下さる。
 私たちが日常生活のなかで、何か壁に直面したとき、八方がふさがって絶望的状況であるとき、この主イエスの言葉が光となって私たちの心によみがえってくる。そうだ、私にはできないし、他人にもできない、しかし、神はできるのだ、最終的に神がすべてを最善にして下さるのだという信仰が流れ込んでくる。そこから再び私たちは、前方の光に向かって歩きはじめことができる。
主イエスは、望みを失って、倒れようとする人間を、じっと見つめて、「人にはできないが、神にはすべてが可能なのだ」と語りかけて下さっているのである。

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リュノウギク
リュウノウギク     愛媛県佐多岬半島にて      2003.11.14
 
 この花は、いわゆる野菊と総称される野生の菊のなかでは花も大きいほうで、葉には、独特の芳香があります。徳島では、秋の山にて、時折見つけることができるのですが、決して多くはありません。しかし、聖書講話のため、九州に渡る途中の愛媛県佐多岬半島においては、今回もこの花がたくさん群生しているのに出会いました。純白の大きめの花をたくさん咲かせている姿は、秋の山地を車で走っていてもよく目立ちました。秋の山に咲く野菊のなかまは、ほかに、ヤマシロギク、シラヤマギク、ノコンギクなどいろいろありますが、いずれも、秋らしいさわやかな雰囲気をかもしだして、秋を語りかけてくれます。
春の山は、まだ寒くて野草なども花は少ないのですが、秋には、野菊のなかまが、このように多く咲くので、山道を歩くのが、快いものとなります。木々の葉は紅葉し、また黄色や褐色となり、木の実も赤や黒、青色などいろいろのものが見られます。芽を出してからの新緑、春の花、夏にたくましく茂り、秋にはそれぞれの花や実をつけ、葉もいろいろと美しく色合いを変えていく植物は、神の国の無限の多様性を暗示しているようです。
 なお、竜脳菊(りゅうのうぎく)という名前は、茎や葉に含まれる揮発油の香りが竜脳に似ていることに基づきますが、竜脳とは、植物の名前で、ボルネオなどにある50mにもなる大木で、それから芳香ある物質が採取でき、それも竜脳といいます。


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リストボタン「荒野の訓練」
(申命記8:2〜3より)

あなたの神、主が導かれたこの四十年のあいだ、荒れ野であなたを導かれたそのすべ
ての道を思い起こさねばならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたが神の
戒めを守るかどうか知るためであった。…
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる
ことをあなたに知らせるためであった。



Remember how the LORD your God led you all the way in the desert these forty years,
to afflict you and to test you in order to know what was in your heart,
whether or not you would keep his commands.…in order to make you understand
that one does not live by bread alone, but by every word that comes from the
mouth of the LORD.



荒野の40年、それに相当する経験は、だれしも長い人生の間で思い起こすことができるであろうし、今後もそうした苦しみがふりかかることもあり得る。それは必ずしも40年でなくとも、1年や2年であるかも知れないし、また10年以上とかあるいは文字通り40年にもわたる歳月であるかも知れない。期間が短くとも、当事者にとっては、その耐えがたい苦しみのゆえに実に長い期間と感じる場合もあるだろう。
 そしてそれは、病気や貧困であったり、自らの罪ゆえの苦しみ、家族や職場などでの人間関係や、職業上での苦しみ、また災害や戦争のような国家的苦難であったりする。
 しかし、その苦しみは無益であったのでなく、それは神の試みであり、私たちが本当に神に従おうとするのかどうかを試すため、訓練のためであると言われる。私たちは安楽のときでなく、そうした苦しみのときにこそ、魂の奥にひそむものが現れるものである。
 そして、そのような苦しみの長く続いた日々も、あとになって振り返ると、そこに大いなる神の導きの御手があったと気付かされる。表面的に平和である日々、それをだれしも望むものであるが、しかしそれは、人間の魂を深く耕すことにはならないことが多い。神はそうした人間的な願いを超えて、私たちが自分からは決して求めない苦しみを用いて、私たちが本当に神に従う者であるかどうかを知り、従おうとする者をさらに導こうとされている。
 こうした荒野の苦しみの経験のなかで、初めて私たちは、神の口から出る言葉によって生かされるのだということを学ぶ。
 苦難のときに、神が備えて下さった平安、聖書の言葉、友の祈り、よき人との出会い、ときには癒しそのもの、また痛みを耐える力などなど、それらはみんな神の口によって生み出されたものだと知らされていく。かつて、荒野にて、「マナよ降れ」と言われれば、実際にふしぎな天来の食物であるマナが降ったように、現在においても、神はその言葉によって、闇のただなかに私たちの心のなかに、光を生み出し、力を与えることができる存在だからである。 私たちは、人間的判断でなく、神の口からでる言葉によって助けられ、励まされ、神のいのちを与えられるのである。

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ヤマハッカ ヤマハッカ   シソ科            徳島県名東郡佐那河内村   2003.10.23

(北海道から九州までと朝鮮半島および中国に分布し,山野にはえる多年草。高さ60〜90cm)山みちのかたわらに、小さなしかし、心にとまる色合いをもって、控えめに咲いているのがこのヤマハッカです。ハッカの名はありますが、ハッカ特有の香りはありません。しかしその可憐な姿と秋の野草らしい色調によって、おもわず立ち止まって見つめたくなるような花です。この写真は、我が家から数十キロ西の山間部で行われている、月に一度の家庭集会への途中の山道で撮影したものです。
 この花は山道で時折見つけるものですが、我が家のある、低い山の登り口のところにも数株ですが毎年そだって、花をつけます。こうした野草が少し咲いているだけでも、そのあたりに、ある種の平和な雰囲気を感じるものです。これは自然の持っている純粋さのゆえだと思われます。

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リストボタン「望みの港へ」
(詩編107:28-30)

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び
望みの港に導かれて行った。

They cried out to the LORD in their trouble,
and he brought them out of their distress.

And he commands the storm,
and it is calmed into a gentle breeze, and its waves are still.
They were glad when it grew calm,
and he guided them to their desired harbor.

私たちが生きるとき、だれでも 何らかの叫びを持っています。それは、自分の病気のこと、仕事のことや学校、職場での人間関係、家族の問題、あるいは、将来への不安、世の中の暗い状態などなど、子供から大人、老人に至るまで、何らかの問題をかかえて、どこに持っていけばよいのか、どうにもならない揺れ動く心を抱えています。
 そうしたものをまぎらわすために、さまざまの娯楽や飲食に関する施設もあると言えます。
 そのような、どこへも持っていきようのない問題を、もし不適切なところに持っていけば、かえって状況は悪くなります。自分の病気や仕事の問題を、他人に言うことで気晴らししようと思っても、かえって冷たくあしらわれて、いっそう心が滅入ることも多いのです。 
 そうしただれでも持っている苦しみを導き出すことのできるお方がおられる、それが、聖書で言われている神であり、現在の私たちにおいては、キリストでもあります。
 この世にはさまざまの嵐が吹きつけてきます。さき程述べた、病気や人間関係や職場や、家庭などの問題もみな、一種の嵐と言えます。それらが私たちの生活をおびやかし、心をも痛め、悩ませることになるとき、聖書に示されている神に叫ぶことが、そこから導きだされる道だと言えます。神はいかなる嵐をも静める力を持っている、それは、実際にそうした嵐を静めて頂いた魂はそのことを決して忘れることができなくなります。
 新約聖書において、湖での嵐のただなかにて、弟子たちが、船が転覆しそうだと必死で叫び、うろたえたとき、主イエスは、なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ、と言われて、風と海に静まれと、命じたとき、驚くべき静けさが訪れたことが記されています。(マルコ福音書4:35ー41)
 主イエスこそは、そうした人生の嵐を静め、さらによき港へと導いてくださるお方だといえます。
 主イエスが最後の夕食のときに、弟子たちに約束されたこと、それは「主の平安」です。私たちも神からくる平安を持ちつつ、目的の港、すなわち「神の国」へと導かれていきたいと思います。
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オトコエシJPEG写真(クリックで拡大表示)
オトコエシ         海部郡海南町           
 この花は、秋の山にて、その白い花のゆえによく目にとまる花です。これと似たものは、黄色の花を咲かせるオミナエシですが、これは昔から歌にも詠まれて有名なものです。しかしオミナエシは、最近とみに少なくなって私たちの地方では、野生のものはほとんど目にとまることがありません。もう20年ほども前になるでしょうか、剣山(1955m)への途中、山の斜面にて咲いていたオミナエシがいまも浮かんできます。 黄色の小さい花が、風に揺られて咲いている姿は、心のなかに、山の澄んだ空気と秋を運んでくれるものでした。
 ここであげたオトコエシは、低山でもよく見かけることができます。やはり白い花を持っているヒヨドリバナや、野菊のなかまである、ノコンギク(野紺菊)、ヤマシロギクなどとともに秋らしい雰囲気をたたえて咲いています。
 野生の花は小さいものが多く、離れてみるとその美しさは分からないけれども、近寄って見るとき、さらに、ルーペなどでみると、見落としていたその自然な美しさに驚かされることが多いのです。このオトコエシも、離れて見るよりも、この写真のように近づいて見るとき、その純白の美しさに心惹かれるものがあります。
 人が見るかどうかには関わりなく、このように美しく咲いている姿は、人間がともすれば他者に見せるためにきれいにしようとする傾向と対照的で、そのゆえに自然は、私たちの心の安らぎの場となってくれるのです。

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リストボタン「生涯、私は主を呼ぼう」
(詩編116:1〜2)

わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。

I love the LORD,
for he heard my voice; he heard my cry for mercy.
Because he inclined his ear to me,
therefore I will call on him as long as I live.


英語訳にあるように、原文では、「私は主を愛する、それは主が私の祈りを、叫びを聞いて下さったからだ」、という意味を持っています。また、「私が生涯、主を呼び続けようという気持ちになるのは、主が私の声に耳を傾けて下さるからだ」という強い気持ちが感じられます。
 この詩は、今から数千年も昔に作られたものであるにもかかわらず、このように、作者は生きて働く神、私たちの心からの祈りや訴えを聞いて下さる神がおられることをはっきりと知っていたのです。
 これこそ、現代の私たちにとっても、最も必要なこと、心から願っていることです。自分の持っている心の悩みや苦しみ、自分の力ではどうすることもできない人間関係や病気のこと、将来のことなど、だれにも言えないような重荷を抱えている人はたくさんいます。
 今はそんな重荷を持っていないという人でも、ふとしたことから、事故やガンになったり、家族や職場で日夜忘れることのできない難しい問題に直面することはよくあることです。
 どう生きていったらいいのか、だれに訴えたらわかってもらえるのか、何が本当の道なのか、周囲の世界のあまりにも混乱した複雑な状況の中に置かれて、私たちは歩むべき道が分からないというのが多数の人々の心の中の実感ではないでしょうか。
 私もかつてはその混乱の渦のなかに巻き込まれていく思いであり、人間のあるべき姿など、どう考えていったらいいのか、周囲の激しい学生運動のただなかにあって自分もそれに関わっている一人として悩み苦しんだことを思い出します。
 そうした過程を経て、導かれたキリスト教の真理、そして聖書の真理こそは、そのような混乱のただなかではっきりと何が永遠の真理なのかを教えてくれたのです。そしてキリスト教信仰を知ってとくに感謝であるのは、この詩にあるように、自分の苦しみや悩みを訴える相手を与えられたこと、そして神がその訴えに応えて下さるという実感を持つことができるということです。
 だれでも、何でも語り合うことができ、しかも決して誤解することなく、かえって励ましと力をあたえてくれるような友を求めています。しかしそれは人間の友ではそうした心の願いに十分に応えることは決してできないことです。私たちは他者の苦しみや問題がどんなものであるか、その当事者の立場に置かれないとわずかしか分からないからです。
 例えば、病気の苦しみなど、健康なものが、日夜苦しんでいて、もう元の体には決してかえらない状況になっている人の重い絶望感を肌で感じるということはできないことです。 また、家族に深刻な問題を抱えている人の気持ちは、家族が仲良く暮らしている人には想像できないものがあります。そうした問題は日夜忘れることができないものですが、他人は時々思い出す程度しかできません。
 私たちの願いと訴えを聞いて下さる神がおられる、それを知ったとき、私たちはそのような神を忘れることはなくなります。そしてそのような神に向かって心を注ぎ続けるようになります。生きておられる神に向かって語りかけ、祈りを止めないようになるのです。それが、この詩の作者が言う、神を愛するということです。
 ほかのいかなるものにもまさって、私たちの心深くに語りかけて励ましと力を与えて下さる神、その神を生きている限り愛し、語りかけ、呼び続けていきたい、それがこの詩の作者の気持ちであり、そのような神を信じて生きることこそ、現代の複雑な世界に生きる私たちにも最も必要なことだと感じます。
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オトギリソウのJPG写真
 オトギリソウ   徳島県海部郡にて   2003.8.26

 夏から秋にかけて、花の少ないときにおいて、この野草の花はとくに心に残るものの一つです。緑一色になった野山、その小さな山道に静かに語りかけるように咲いているのを見つけるときに、私たちもまたこの花に語りかけたくなります。これは、県南での聖書集会の帰り道、山間の国道から少し入った細い山道沿いにわずかに一つ二つと咲いていたものです。
 なお、この花の仲間である、タカネオトギリ(高嶺弟切)は、徳島県では、剣山(1955m)の頂上近いあたりによく見かけるものです。
 この可憐な花を持つ植物は、昔から薬草として知られ、切り傷や虫刺され、止血、はれものや打撲に効能があるとされています。この植物の葉の揉汁は、小鳥のいろいろの病気に効くことで知られています。この植物の名前(弟切草)の由来は、平安時代に鷹匠(たかじょう)の兄が、けがをした鷹の薬として愛用していて、だれにも教えず秘密にしていたのに、その弟がもらしたために,兄が弟を切ってしまったという伝説に由来しています 。このような伝説が生れるほどに、効能があったのだと思われます。
 しかし、現代ではさまざまの優れた傷薬があり、この野草をそうした目的に使うことはほとんどないとおもわれますが、野山でふと出会ったこの野草の素朴な美しさは、心の傷をいやしてくれるものと言えそうです。

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リストボタン「信仰に立っていのちを」
(ヘブル書10:36〜39より)

神の御心を行って約束されたものを受けるため、あなた方に必要なのは、忍耐である。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅くなることはない。
わが義人は信仰によって生きる。…
わたしたちは、信仰を捨てて、滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。


You need to be patient, in order to do the will of God and receive what he promises.
For, as the scripture says, Just a little while longer, and he who is coming will come; he will not delay.
My righteous people, however, will believe and live;
We are not of those who shrink back and are destroyed,Instead, we have faith and are saved.


忍耐というと、広辞苑などでは「 こらえること。たえしのぶこと」という説明がされています。しかし、聖書における忍耐とは決して単にこらえ、耐え忍ぶということでなく、そこには神を待ち望むという意味が込められています。例えば、「忍耐」と訳されているギリシャ語は、旧約聖書のギリシャ語訳では、しばしば「待ち望む」とか「希望を置く」と訳されているのです。 (旧約聖書 詩編25:3など) 日本語の忍耐という言葉は、希望があるなしに関係なく、こらえる、我慢するといった意味なのですから、大きな違いがあります。
 この世では、苦しみがある、その悲しみや苦しみの多さのゆえに、神などいないと思ってしまうか、それとも、その苦しみのただなかから、神を仰ぎ、神の助けを待ち望むかに分かれるのです。
 困難な状況にあって、もうすべてをあきらめてしまおうと思うようなときでも、なお、神を仰ぎ、神の愛と導きを信じ続けていくとき、神は必ず必要な助けを与えてくださる。 最終的には、来るべき方、キリストが来られると聖書に記されています。
そうした狭い道、信仰の道を通って「いのち」が与えられる。
 正しい人とは、人の前で正しいと思われるようなことをしている人でなく、困難のなかでも、神への信頼を持ち続け、罪を犯した時でも神の赦しが与えられることを信じて祈り、たえず神に立ち返る人だというのです。それが「わが義人は信仰によって生きる」ということです。
 神は信じる者にいのちを与えて下さる。もし私たちが、いのちの源泉である神への信仰を捨てるなら、どこから死を超える力を与えられるでしょうか。 さまざまの問題が満ちているこの世だからこそ、神とキリストを信じていのちを与えられて歩ませて頂きたいと願うのです。
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イワタバコの写真及び拡大ページへのリンク
イワタバコ                                 徳島県 中津峰山にて 
 
 この花は、野草らしい自然な美しさをたたえていて、夏の暑いときにしめった岩かげに咲くこの花を見いだすと、だれでも、まず驚き、そしてほっとするような気持ちになるのではないかと思われます。徳島市郊外の五滝という、小さな滝が5つほど連続して見られるところがありますが、その滝のかかる岩肌に水しぶきを受けながら咲いているのを30年以上も前に初めて見たのが今も印象に残っています。イワタバコという名前は、岩壁にはえ葉がタバコに似ているからです。なお、この柔らかい葉は胃腸薬になり,また食用にもなるということです。
 夏の山は木陰であっても、歩くだけでも暑く疲れます。しかし谷間にあって、渓谷の流れの清さと水音の響くなかで、この花は天来の水を飲むような心地にさせてくれたのです。(なお、中津峰山は、標高約 773mの山で、かつてまだ時間の余裕があったときに、一人で、また生徒たちとともによく登った山で、我が家から10キロほど隔てて、正面にいつも見えている山です。)

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2003年8月6日
リストボタン「苦しみの中から」
(詩編118:5〜9)

苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって
わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。

Out of my distress I called on the LORD;
The LORD answered me and set me in a broad place.
The LORD is with me; I will not be afraid.
What can man do to me?
The LORD is on my side to help me;
I shall look in triumph on those who hate me.
It is better to take refuge in the LORD than to trust in man.

 
 信仰を持つとは、たんに神の万能とか、十字架のとか復活とかを表面的に信じているということではありません。それは、この詩にあるように、生きた神からの応答を与えらることです。私たちが最も激しく神を呼び、語りかけようとするのは、楽しいとき、娯楽や趣味で楽しんでいるときではなく、苦しみや悲しみの強まるときです。
 そのような困難は人間関係からくることもあれば、家族の問題、また病気や事故など、仕事の上でのさまざまの問題など、人によって千差万別です。しかし、そうした苦しみが自分の内にとどまり、自分でその苦しみや悩みを解決しようとしても、その苦しみや問題が深刻なほど、どうにもならない。また他人に持ちかけても苦しみの程度が激しいときにはやはりどうすることもできないのです。
 そのようなとき、神を信じ、キリストを信じる者には、呼びかける相手が与えられています。どのような深い悩みや問題であっても、また死が近いと思われるほどの困難な状況にあっても、なお、叫び、呼びもとめる相手が与えられています。
 それこそ、神であり、キリストです。
 まわりの人がみんな自分を誤解し、あるいは自分の犯した失敗や罪を赦そうとはしないときであっても、主なるキリストに呼びかけるときには、答えて下さる。
 そして一度そうした生ける神からの応答を、魂の深みにおいて受け取ったとき、私たちは悪の力にも打ち倒されない力を与えられる。そして敵対する者に対しても、その悪意に巻き込まれず、冷静にそうした悪しきものを見つめ、その悪意が神によって除かれるようにと祈るように、導かれる。
 私たちがそうした悪意持つ人間にたいしても祈ることができれば、そのとき、私たちは悪に勝利したといえます。
 そうした勝利へと導こうとされるがゆえに、主イエスは、「この世では苦難がある。しかし私はすでに世に勝利している。」と言われて、そのイエスを信じるときには、そのイエスの勝利を私たちもまた、受けることができ、そこから、「敵を愛せよ。迫害するもののために祈れ」との戒めのように、敵対するものを憎むのでなく、祈ることへと導かれるのがわかります。
 人を頼まず、神を避け所とし、神により頼むということがどれほど深い意味をもっているか、長い年月を経て少しずつ明らかにされていきます。

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レブンウスユキソウ
レブンウスユキソウ                  北海道礼文島にて  2003.7.22
 
 今年の7月に北海道の第30回瀬棚聖書集会に参加したとき、40年近くまえに礼文島で、お世話になった方を訪ねる機会が与えられました。そのとき、その方の家族の方が車で案内して下さり、この貴重な植物の群生地を見ることができました。これは、有名なエーデルワイスととてもよく似た種類のものです。 エーデルワイスは、「アルプスの星」とも言われて、ヨーロッパアルプスを象徴する花だと言われています。エーデル edel とは、ドイツ語で「高貴な」という意味です。 ワイス weissとは、英語のwhiteにあたる言葉で、ドイツ語ではヴァイスと発音し、「白」のこと、それでエーデルワイスという花の名は、「高貴な白」という意味です。
 この種類は、日本では、ミヤマウスユキソウ、ハヤチネウスユキソウなどがあり、いずれもよく似ています。中部地方の高山の一部、東北や北海道の高山に生えるもので、関西に住む人にはなかなか見ることができないものです。
 高い山にわずかしか見られないこと、しかもその厳しい寒さに耐えて、純白のすがたを現していることが、多くの人の心をひく野草となっているようです。私たちの心は、やはり、大気の清澄な高きところや、白で象徴される清められた状態にと向かうものだからです。

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2003年7月4日

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼ぶ。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐えることができようか。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき
わが魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。
 
Out of the depths I cry to you, O LORD.
Lord, hear my voice! Let your ears be attentive to the voice of my supplications!
If you, O LORD, should mark sins, Lord, who could stand?
But there is forgiveness with you, therefore you are revered.
I wait for the LORD, my soul waits, and in his word I hope;
my soul waits for the Lord.


 
 深い淵が、この世にはある。そこからどうしても出ることができないと思われるような状況に置かれることがある。ある程度生きてきた人は、そうした淵があるのを体験的に知っている。それは、病気や事故の苦しみであったり、人間関係とか、自分の能力や、職業の問題、日々の生活上の苦しみであったり、老後の孤独などなど、私たちには、どんなにしても自分の力ではどうすることもできない状況に置かれることがある。
 今、自分自身はそのような状況になくても、周囲を見ればたくさんそのような深い淵に置かれていると思われる人がいる。
  そうした苦しみの根源には、心のなかにある赦されていない罪がひそんでいることが多い。そのようなところから、いかにして救い出されるのか、それは、その淵が深いほど人間の力ではどうすることもできない。過去の罪、日々に犯す罪のこと、病気の重い状況や、死が近づくときには、死という深淵に落ちていくのを誰一人とどめることはできない。
 私もかつて大学時代に暗い淵を体験した。そのような、深みに落ちている自分を救い出してくれたのは、神の御手であった。そのことを知らされるとき、神のみがいかなる深い淵にあっても、そこから引き出して下さるとの確信が生まれる。この詩の作者は、そうした苦しみの根源である、罪の赦しを神から受け、そこから主を待ち望む。繰り返し、「(待ち)望む」という言葉が用いられていることによって、いかにこの作者が主を仰ぎ、心の拠り所としていたかがうかがえる。私たちも人間やそのなすところを待ち望むのでなく、すべてを愛をもって御支配なさっている神をつねに待ち望みたいと思う。

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オカトラノオJPG写真
オカトラノオ   2003.6.25  我が家にて
 
 6月頃に咲く野草として、好まれることの多い花です。山間の道でときどき出会いますが、この頃は梅雨時なので、山を歩くことは少なく、以前から咲いているところに出会ったのは、そう多くは思い出せません。この花は、野生の花としては、目立つものの一つで、その素朴な美しさには、心惹かれるものがあります。かなり、以前に、鳴門市の島の山道で出会ったときのことを思い出します。樹木や緑の草のみが生えている変化のない道で、突然このオカトラノオの一群が眼前に姿を表したときの驚きはいまも覚えています。野草はその創造されたときのままの、はるかな遠い昔の面影をそのままに保っていて、そこに刻まれた創造主である神のお心が感じられるものです。

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 2003年6月13日
リストボタン「きのうも今日も、また永遠に」
(ヘブル書13:5〜8より)

主は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた。
だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができる。
「主はわたしの助け主。わたしは恐れない。人はわたしに何ができようか。」…
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない。
                                                                            
 
God has said, "I will never leave you or forsake you."
So we can say with confidence,
"The Lord is my helper; I will not be afraid. What can anyone do to me?"
Jesus Christ is the same yesterday and today and forever.

 私たちは日々の生活のなかで、さまざまの困難や不快なこと、悲しむべきことに出会います。それは小さい子供のときからで、家庭であったり、学校や社会、友人関係、また職業の場での人間同士の難しい関係、また自分の能力や病気などからくる苦しみなど、また老年になればますます将来のことや病気のことなどが気がかりとなって次第に心の重荷となってくることが多いのです。
 そうしたとき、問題が難しいほど、周囲の人間には話せない、話しても分かってはもらえない、自分の考えている問題が相手には分かっていないとか、逆に見下されるとか嫌われるなどと思って人間からの助けに限界があることを思い知らされるのです。
 そのようなとき、どんなに困難な問題であっても、いかに他人に話せないようなことであっても、聞いて下さり、見捨てたり嫌ったりせず、かえっていっそう窮地にある私たちを助け、導いて下さる神がおられるのを知ることは、ほかのどんなことにも代えがたい恵みです。
 そうした神が私たちの心のすぐ近くにいて下さることを実感するとき、私たちは人間への恐れ自然に少なくなっていくのを感じます。そしてそうした助けを与えてくださる、主イエスこそは、きのうも今日も、そして永遠に変わらずに私たちを見守り、愛して下さって、生きた導きを与えて下さるお方だと分かります。
 人間の心は移り変わりが大きく、また人間そのものも一瞬の事故でも死んでしまうはかないものです。そうした人間とは本質的に異なる、永遠的存在であるキリストが私たちの心の友であり、救い主であり、困難のときの助け手であることを聖書は繰り返し述べています。そのようなキリストを与えられることは何にもまさる幸いです。

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ウツボグサ
ウツボグサ 2003.6.12 徳島県小松島市
 
 近くの山で時おり見付かることがありますが、どこにでもあるものではありません。市街地に近いところの平地(徳島県)では四国最大の河川である、吉野川の堤防で、一部の地域には見られます。こころを惹く青い花をつぎつぎと咲かせていくので、多くの人に好まれる花です。以前、写真雑誌の表紙に大写しでこの花が掲載されていたのが思い出されます。
 ちょうど6月の梅雨のころに咲いていて、空模様が曇っていても、山を歩いていて時折この花を見つけると、さわやかな気持ちになったものです。
 野草のうち、青い花、青紫の花は空の青や海の青と同様に、清さと深さを合わせて感じさせるものがあります。
 なお、この花が終わった後の花穂には、強力な利尿作用があり、膀胱炎に対して用いられ、薬草として知られています。靫草(うつぼぐさ)は花穂(かすい)の形が弓矢を入れる靫(うつぼ)に似ているから。カコソウ(夏枯草)とも言われるのは、花穂が枯れると黒くなるからです。

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  2003年6月5日
リストボタン 「常に主を私の前に」
  (旧約聖書・詩篇16:7〜11より)
 
私は、さとしを授けられる主を讃える。…
わたしは常に主を私の前に置く。
主は私の右にいますゆえ、わたしは揺らぐことがない。
このゆえに、わが心は楽しみ、わが魂は喜ぶ。からだも安心して憩う。…
あなたは、私に命の道を教え、
み前にあって喜びに満ち足らせ、
右の御手から永遠の喜びを下さる。
 
I  praise the Lord  who gives me counsel;
I keep the LORD always before me;
because he is at my right hand, I shall not be moved.
Therefore my heart is glad, and my soul rejoices; my body also rests  in hope.
You show me the path of life.
 In your presence there is fullness of joy;
in your right hand are pleasures forevermore.

 ここに、私たちがいつも何を前に置いておくべきか、永続的な喜びはどこから生じるのかということが言われています。私たちは自分の悩みや問題、仕事、自分の希望、他人や家族の言動、また病気のこと、老後や将来のこと、社会の現状や前途など、さまざまの問題を抱えています。それらがいつも私たちの前に置かれているといえます。
 そうしたことからは、心の深い平安は生まれないで、かえって不安や動揺が生じることが多いのです。そのような自然の状態に留まることなく、私たちの前にいつも神を置くこと、それによって私たちの日々の生活、生涯が根本から変わってくることをこの詩は示しています。
 実際に抱えている問題だけを見つめることなく、そのかたわらにていつも神を見つめること、神を側に置くことによって、動揺や不安から免れ、また心が沈むことからも守られるという経験がここに感じられます。
 私たちが心から求めるとき、主なる神は私たちのすぐ側にいて下さる。そこから私たちはいろいろの現実の苦しみや闇に引き込まれてしまうことなく、力が与えられ、永続的な喜びと平安も与えられる…。
 自然のままの人間の持っている力や喜びなどはいとも簡単に消え失せ、変質していきます。しかし、神の御手には、いつも清い喜びや命に満ちた力が、満ちています。私たちも神を信じ、真実な心をもって神に求めることによって、そのような神の国の賜物を与えられたいものです。
 
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スイカズラJPG写真
スイカズラ  Lonicera Japonica(学名)  2003.5.19 徳島県小松島市日の峰山にて撮影
 
 緑一色の木々の中から、純白の花びらとが目立つこのスイカズラは、香りも特に心惹くものです。花の姿は私たちに創造の秘密を語りかけるような感があります。この香りは、心をしずめ、うるおすような、sweet な香りです。あるアメリカの植物図鑑にも、Flowers very sweetly scented (花は、非常にスウィートに香る)と説明がされています。
 英語名は、 honeysuckle(ハニーサックル)といい、「蜂蜜を吸う」という意味です。この花びらのもとを吸うとほんのりと甘く、子供のときにも吸った記憶があります。
 原産地は、日本や韓国、中国で、ヨーロッパには1806年に伝えられ、アメリカにも早くから持ち込まれて、アメリカ東部では、野生化して、森林や低木にからみついて、その香り高い花を咲かせているということです。
 草木は数千もあっても、このような香りのよいものは、少数です。
 聖書には、「キリストを知る知識の香り」という言葉があります。(Uコリント2:14) それは宣べ伝える人によって、世界の各地にもたらされていったのです。キリストご自身が最高の霊的な香りだと言えるでしょう。そこから、あらゆる善きものがつぎつぎと生み出されていったからです。
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  2003年5月14日
リストボタン「平和は川のように」

(イザヤ書48:17−19)


わたしは主、あなたの神
わたしはあなたを教えて力をもたせ
あなたを導いて道を行かせる。

わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。 


 I am the LORD your God,
who teaches you for your own good,
who leads you in the way you should go.
 
If you would hearken to my commandments,
your peace would be like a river,
and your  righteousness like the waves of the sea;

 私たちが信じる神、それは真理を教え続ける神であり、神の国へと導いて下さる神です。真理を教えること、それは人間には本来はできないことです。なぜなら、人間は罪にまみれており、罪とは真理に反する心を意味するからです。人はただ真理を指し示すだけなのです。
 キリスト教の2000年の歴史で最も重要な使徒は、パウロです。彼の書いた手紙が新約聖書の相当な部分を占めているほどです。
 しかし彼のような人でも、真理そのものは、単に人間から学ぶことでは決して与えられず、かえって真理の証人であったキリスト者たちを厳しく迫害していたほどでした。
 この世の常識では、大学や書物で、また先人から学べば真理は与えられるということになっています。
 しかし、神の教えはそうでなく、神から直接的に教えられねば、真理は分からないのです。だれかに説明してもらって分かったとしても、それはそのときに神がその教える人を用い、聞く人の心を開いて、悟らせた(啓示した)ということなのです。
 また、聖書に記されている神は、教えるだけでなく、その教えに従って歩んでいけるようにと導いて下さる神でもあります。私たちは何かに導かれねば、決して正しい道をずっと歩き続けることはできない弱い存在です。主イエスの有名な弟子であった、ペテロも自分は死に至るまでも主イエスに従っていくと、はっきりと述べたにもかかわらず、その少しあとに、人から問われて、イエスなど決して知らないと、激しく否定する始末です。これは、人間は自分だけでは、到底正しい道を歩いていくことができないということを指し示しています。
 そのような弱い人間を、どこまでも赦し、導きを与えて下さるのが、聖書で言われている神なのです。
 
 つぎに神の言葉に耳を傾けるとき、私たちに与えられる平和は川のようになるといいます。平和とは何かじっとしているものであって、平和が川のようになる、といったたとえは聞いたことがないはずです。
 ふつうの平和はすぐにとぎれます。わずかな言葉、失敗、怠慢などでも壊れてしまい、また遠くに当事者のいずれかが行ってしまうとやはり、その平和は次第に消えていくのです。
 そうした平和と違って、神から与えられる平和は、絶えることなく流れる川のようだというのです。神の国にその源を持ち、そこからキリスト者たちにつぎつぎに流れ込んでいく大きな、目には見えない川の流れがあるというのです。
 この御国からの大いなる流れは、私たちが霊の耳をすませ、その耳がとぎすまされてきたなら、今も聞き取ることができるでありましょう。そして私たちの魂の深みへと流れ込んでくるのです。
 そして、恵み(神の義)も、また、海の波のようになると言われています。神の義とは、悪の力を裁き、打ち砕く力です。そのような神の義だけが、私たちを真の救いへと導きます。それは一方的な神の国からの賜物です。それこそは「恵み」なのです。
 海の波、それは繰り返し繰り返し押し寄せてきます。それは途絶えることはありません。目には見えない霊の世界において、広大な海から自分の方へと限りなく打ち寄せてくるその波、それこそは、神の国からの霊的な波なのです。
 神が悪を裁き、真実なものを求めるものに与えられる救いと正義は、信じる者には、つぎつぎと海の波のように、打ち寄せてくるものなのです。 私たちがこうした無限に深くつらなる神の世界を知らないなら、逆に、悪の波が私たちにむかって打ち寄せてきて、私たちはその波にさらわれていくでありましょう。
 神の国から響いてくる静かな細い声を、真剣に聞こうとする者は、平和が、川のように流れてくるのを見ることができ、かつ、神の恵み(神の義)も、海のように私たちのところに打ち寄せているのがわかり、その波音を聞くことができる…今日の聖書の言葉は、そのようなことを連想させる箇所なのです。

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ガクウツギ
ガクウツギ  徳島県海部郡  2003.5.5
 
 この花は、山のやや日陰になるところに今頃の季節には、よく見かけます。簡素で単純なたたずまいの花、真っ白いこの花びらは、じっと見るものに、何か神の国の清い雰囲気を感じさせてくれます。
 「真っ白い衣を着て、手にナツメヤシの枝を持って、大声で叫んでいる人たち、彼らは大きな苦難を通って、小羊(キリスト)の血で洗って白くされた」とあります。(黙示録7:9〜14参照) 
 この花は、そのような清い白を連想させてくれます。 私たちの心がこのように、かぎりなく清められ、白くされるとき、それは地上においてはできないことで、私たちが地上を去るときに、与えられることなのでありましょう。「主の栄光のからだと同じように変えられる」(ピリピ書3:21)との約束に従って…。

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2003年5月1日
リストボタン「愛は罪を覆う」 
(Tペテロ 4:8)
 
よく祈りなさい…
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。
愛は多くの罪を覆うからである。
 
therefore …be watchful in your prayers.
Above all, love each other deeply,
because love covers many sins.

 私たちの地上の命は、すべての人にとって、確実に終わりに近づいています。
 ある人たちは、ガンの末期だと診断されたときに初めて、何をなすべきか、最も大切なことを少しでもやっておきたいと願うようになります。しかし、たとえガンにならなくとも、どんな健康な人も、力強い人もみな一様に、一日一日と死に近づいているのです。
 そのことに私たちが気付くとき、もし、真理を愛する者ならば、最も重要なことは何か、そのような重要なものに力を入れたいと願うようになっていきます。
 ここで、聖書が語っているのは、そのようなときになすべきことは、冷静な判断を伴う真剣な「祈り」であり、そうした祈りと本質的につながっていること、すなわち、「相互への愛」だと言われています。
 世間でいう、「愛」には真剣さのないものもたくさんあります。不正な愛と言えるもの、単なる自己愛の変形のような愛も見られます。
 しかし、聖書でいう愛は、単に心の合った人に心を注ぐということでなく、相手がどうあろうとも、相手のために最善を祈る心を指しています。そしてそのような愛は、相手の罪すらも、覆ってあたかもなかったかのようにしてしまう、罪とか罪を起こさせる闇の力をふさいでしまう力を持っているというのです。
 たしかに、主イエスは、私たちのさまざまの欠点、罪、悪をいちいち指摘して、責めることなく、そうした闇の力を覆って、力ないものとされ、そこに神のいのちを注いで下さったといえます。
 罪とか悪は、それを見つけて、裁く心、愛のない心で、その人を非難し、糾弾していくと、その罪がなくなるどころか、ますます相手の心のなかに、憎しみや敵意という罪の力を呼び覚ましてしまう場合が多いのです。
 私たちにおいても、神はその罪や悪いところをいちいち責めて問いつめることをせず、それを神の愛と、力をもって覆い、その罪の力を滅ぼして下さったのです。雑草を何かで覆うと、その雑草はだんだん枯れていくように、私たちの罪も神の愛をもって覆われるとき、罪の力は弱まり、滅ぼされていくのがわかります。
  このことを、キリスト教世界の最大の使徒といえる、パウロはつぎのように述べています。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12:20〜21)
 こうした他者の罪や悪への祈りの心、愛の心だけが、悪の根源を打ち砕くものだと教えられます。
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アケビの写真(クリックで拡大表示)
アケビ  徳島県小松島市日の峰山  2003.4.17
 
 アケビとは、「開(あ)け実」から来たとも言われています。秋10月頃に、大きな、ほんのりうすい赤色になった実が、真ん中からぽっくり割れて、柔らかな実の内側から、種をたくさん持ったすがたを見せるようになります。あまい果肉はわずかしかありませんが、その秋らしい姿、色合いなどとともに心ひかれるものです。
 しかし、このアケビの花を知っている人はごく少ないと思われます。つる植物では、フジとともに、5本の指に入る名花だと言われます。たしかに初々しい新緑の葉とともに、ほかに類のないような形の花をたくさん咲かせる姿は心に残るものです。新芽の出る少し前までは、ただ枯れたような、つるだけが見られたのに、春になるとたちまち新芽を出して、このような美しい花を咲かせます。植物は最も身近にあるものですが、そのさざまの色や形の神秘を思うとき、こうした植物を創造した神の御手を思わずにはいられません。
 なお、わが家は日の峰山を少し上ったところにあるので、遠くの山に行かなくともこうした自生の植物に出会うことができます。

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2003年4月12日
リストボタン「ふたつの道」
(エレミヤ書21:8 申命記30:19-20)

見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。(旧約聖書・エレミヤ書21:8)

わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。
(同・申命記 30:19-20より)
 
Behold, I set before you the way of life and the way of death.
I have set before you life and death, blessings and curses.
Choose life so that you and your descendants may live,
loving the LORD your God, listening to his voice, and holding fast to him.

 私たちの前には、いつもこのように 祝福と滅びへの道が置かれている。そのいずれを取るのか、それは私たちの自由な意志に委ねられている。ちょうど、エデンの園において、園の中央の木の実を食べてはいけないと命じられたが、その言葉を守るか、背くかは人間の自由意志に任せられていたのと同様である。
 ここには、聖書における信仰の道がきわめて単純であることが示されている。それはただ、この宇宙を創造し、いまも愛と真実をもって世界を支配されている神を信じ、その声に耳を傾けて聴こうとしているかどうかにかかっている。
 ここには、私たちに絶えず語りかけておられる神が前提となっている。そして人間には、動物とちがって、目にはみえない存在を信じて、見つめ、その存在から語りかけてくる言葉に心の耳をすますということができるように創造されている。これが人間と動物との大きな違いでもある。
 それは、「神は自分のかたちに人間を創造された」(創世記1:27)からである。人間は、動物と違って、自然の美しさや、海の波の音、谷川の流れの音、あるいは風にそよぐ木々の音に心が動かされる。それはいわば神の声に聴けという、神からのうながしでもある。野草の花の単純で、きよい美しさもそれらを創造された神に心の目を向けるようにとの語りかけでもある。
 私たちの一生というのは、人生のあるときに、そうした声に目覚め、魂の奥深くに語りかけられるその声に聞こうとするようになるかどうかによって決定的に変わってくる。
  この不正や混乱に満ちた世界とまったく異なる、神の国がある。その国は武力や権力にもよらず、あるいは環境問題などいかなる問題によってもくつがえされない永遠の国である。そうした天の国からの消息を私たちが真剣に聞こうするならば、だれでもがその神の国からのみ声を聞き取ることができるようになっている。聖書はそのような国への最善の導きの書物だといえよう。
 神の声に聞くならば、いのちが与えられるという。それはこの世においても死に打ち勝つ力を与えられ、肉体の滅びの後に、キリストと同じように変えられることであり、それは復活であり、神が持っておられるようないのちを与えられること、すなわち永遠の命に他ならない。
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タチツボスミレ
タチツボスミレ  徳島県小松島市日の峰山  2003.3.31
 
 山を歩いていて最も多く見られるのがこのスミレです。スミレの仲間は多くあり、○○スミレという名前でなく、「スミレ」は濃い青紫の花で、葉もへら型で、このタチツボスミレとは異なっています。春らしさをだれもが感じる野草です。寒い冬の山道にて、こうしたスミレのなかまを見いだしたときに春の近づいたことの喜びを感じるものです。
 芭蕉が、「山路きて なにやらゆかし すみれ草」とうたったことを自然に思い出すものです。それは、人間世界の汚れや混乱とは別の世界を暗示するものゆえに、「ゆかし」、つまり心惹かれるものです。
 日本のスミレのなかまは55種もあり、『万葉集』にも四首歌われています。そのなかでも、山部赤人(やまべのあかひと)の歌をあげておきます。
 「春の野に すみれ摘みにと来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」(八巻1424)。

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リストボタンすべてはあなたのもの 
(歴代誌上29:11)  2003年4月3日
 
主よ、偉大さと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのもの。
天にあるもの、地にあるものも皆あなたのもの。
主よ、国もまたあなたのもの。
あなたはすべてのものの上に頭(かしら)として高く立っておられる。
 
Yours, O LORD, are the greatness, the power, the glory, the victory, and the majesty;
for all that is in the heavens and on the earth is yours;
yours is the kingdom, O LORD,
and you are exalted as head above all.

 神という言葉で、キリスト者が思い浮かべるのは、しばしば個人的に力や慰め、いやしを与え、罪を赦してくださる神です。それは「父なる神」という表現で表されているように、いかなる存在よりも個人的に深く、密接なつながりを持って下さっている、家族的な存在という実感があります。そしてはるか数千年の昔から、そうした個人的に働きかけ、呼びかける神のすがたは、旧約聖書のアブラハム以来はっきりと示されています。
 しかし、他方では、聖書に示された神は、万物を創造された神であり、それゆえに天地のすべてを現在も支配し、保っておられる方です。それはすべての上に立っておられる、「王」としての神です。私たちの心の最も深い苦しみや悲しみなどに近づいてくださり、そこに他の何者も与えることができない、魂のいやしを与えて下さる、繊細な存在であると同時に、世界や宇宙万物を支配して、いまも御支配なさっている、比類のない王でもあられるのです。このふたつのことは本来
相容れないはずのものです。しかし、神は万能であるゆえにそのような、ふつうなら考えられない、親密な父なる神であると同時に、万物の支配者である王であり得るのです。
 現代のような、さまざまの支配や権力、そして武力が巨大化し、それがマスコミでも絶えず報道されている時代にあって、私たちはそうした目に見える支配者や武力に目を奪われて、その背後に神がすべてを支配し、いっさいを保持しておられるということが分からなくなってしまう危険性があります。
 そのような目に見えるものが支配し、国家や国民を自分の持ち物のように扱っている姿が本当の姿ではなく、そうした一切の権力や人間たちの背後にすべてを完全な配慮、正しい御計画で歴史を動かしておられる神の御手を信じることが重要になっています。

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ジロボウエンゴサクぼJPG写真
ジロボウエンゴサク   2003.4.1 徳島県海部郡
 
 この花は、とくに野草らしい可憐さ、素朴さにあふれた花です。この場所に咲いていたのは、草丈はわずか10cmあまりの小さなものです。注意して見ないと気付かないほどの小さな花ですが、手にとって見るとその素朴な美しさのゆえに心に残る花です。現代のような複雑でさまざまの混乱のただなかにある世にあって、こうした花に出会うと、天からの水のようなさわやかなものを感じます。
 なお、この花の名前の由来は、伊勢地方ではスミレを太郎坊と呼び、同じ頃に咲き始めるこの花を次郎坊と名付けたからといいます。延胡索(えんごさく)はこの類の漢名でその音読み。(牧野植物図鑑より)

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リストボタン「きのうも今日も、永遠に変わることなき」 
(ヘブル書13:6-8より)  2003年3月15日

だから、わたしたちは、確信をもって次のように言うことができる。
「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができようか。」
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない。



 
So we can say with confidence,
"The Lord is my helper; I will not be afraid. What can anyone do to me?"
Jesus Christ is the same yesterday and today and forever


 人の心は変わり、時代も移り変わっていきます。平和憲法を持ち、戦争は決してしないと誓ったはずの日本が、アメリカが始めようとする戦争を支持するという。
 こうした社会的なことにとどまらず、この世のすべては刻々と変化していきます。私たち自身、一日一日と地上での生活の日々は少なくなり、からだも老齢化しつつあります。どのような好ましい人間関係も時として誤解を生じたり、遠くに行ってしまって、日々疎くなったりすることも多いし、どちらかが命を終えることで、終わってしまう。家族、友人たちも、いつかはいなくなる。会社の仕事にすべてをあげて取り組んだ者も、また退職していく。よき自然に囲まれたところも、環境破壊で永久的に失われていきます。
 こうした変化はほとんどの場合、ひとりでによくなっていくということはなく、むしろ私たちが願っていない方向へと変わっていくのです。
 そのような変化や衰退、滅びのただ中にあって、星のように変わることなく輝き続けているものがあります。それが永遠の真理である神の言葉であり、キリストご自身なのです。十字架で処刑されたのち、復活されて神のもとにおられるキリストは神と同質のお方として、今日も、明日も、そして永遠に存在し続けるお方です。
 そのような確固不動のお方であるからこそ、そのキリストにたより、結びつき、導かれることで、私たちもまた、変わることのない存在へと変えられていくことを信じることができるのです。
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ジンチョウゲJPG写真(クリックで拡大表示されます。)
ジンチョウゲ 2003.3.12  わが家にて
 この花の強い香りは、多くの植物がまだ寒さで眠っているように見えるなかで、私たちを目覚めさせてくれるような働きがあります。それだけに日本でも室町時代から愛好されています。香りは一種の魂への音楽のようなもので、よき香りによって私たちの心にもあるさわやかなものが流れ込んでくるものです。
  中国原産。和名沈丁花(じんちょうげ)は沈香(じんこ)と丁子(ちょうじ)の花の香りをあわせもつことから。なお、沈香とはインドから東南アジアに自生する香木で高さ二〇メートルにも達する木で、丁字とは、熱帯地域で栽培されている植物でやはり香料を採る木です。

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リストボタン「答えて下さる神」
(詩篇86:5〜7)  2003年2月28日


主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなたを呼ぶすべての者に豊かな慈しみを与えられる。
主よ、わたしの祈りを聞いて下さい。
嘆き祈るわたしの声に耳を向けて下さい。
苦難の襲うときわたしが呼び求めれば
あなたは必ず答えて下さる。


Lord, you are kind and forgiving,
rich in faithful love for all who call upon you.
Hear my prayer, O LORD;
listen to my cry for mercy.
In the day of distress I call upon you,
because you answer me, Lord;

 私たちは、いろいろの日々の悩みや将来の不安、そして過去に犯した罪や不十分なこと、失敗などいろいろなことで心を暗くすることが多くあります。そして、自分の力ではその暗い心を明るくすることができない、立ち上がれないような気持になることもあります。 そのようなことは、数千年昔から変わることなくあったのです。
 人間がこの地上で生きるかぎり、苦しみや不安はつきものです。
 そこから私たちができること、それは神を信じ、どんな状況が起ころうともそれでもなお神は万事を良きにしようとされていると信じ続けることです。そしてその神に向かって祈ること、つまり叫ぶこと、呼ぶことです。
 このことは本来だれでもできることです。病気が重くなってもはや周囲の人も見捨てるような事態であっても、いよいよ、そこから神に向かって叫ぶことができます。
 私たちがもし真剣に神にむかって叫び続けるとき、神にむかう光の道が見えてきます。旧約聖書にはこうした人間のかかえる苦しみや悲しみの問題がしばしば見られます。主イエスもあの山上の垂訓の冒頭で、そうした打ちのめされた心や、悲しみに沈む心に対して、驚くべき大いなる祝福が注がれることを述べています。
 
 心の貧しい者は幸だ
天の国は彼らのものだから。
悲しみに沈む者は幸だ、
なぜなら、その悲しみから神を仰ぐときには、私たちを励まし、慰めて下さる主の御顔を、最もはっきりと見ることができるのだから。(マタイ福音書5章より)
 
 必ず答えて下さる神、そこに私たちの希望があります。いつかは分からない。しかし必ず私たちの願いや叫びに答えて下さる。 その希望は永遠の神に結びついているゆえに、滅びることがありません。

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フキノトうJPG写真(クリックすると拡大表示します。)
フキノトウ 2003.2.27 我が家にて

 白と黄緑色の控えめな花のすがたですが、まだ寒いうちからこのように花茎を立てて春を告げるため、花としても好まれることの多いものです。ウメやスイセンも同様で、寒さ厳しいなかに咲く花というのは、私たちの心にも、あるメッセージを伝えてくれるものです。人間においても、きびしい環境におかれているのに、霊的に目覚めていて、花を咲かせる姿は心惹かれるものがあります。
 上の写真にみられる、フキの若い花茎(かけい)をフキノトウといい、葉柄とともに食用、薬用に用いられます。若いフキノトウはみそ汁などに入れると独特の春の野の香りと味わいがあって、好む人も多いようです。

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リストボタン「一番小さい者こそ」 
 
(ルカ福音書9:48)  2003年2月14日

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。


Then he said to them, "Whoever welcomes this little child in my name welcomes me;
and whoever welcomes me welcomes the one who sent me.
For he who is least among you all-- he is the greatest."


幼な子を受け入れること、それは自分が大きいと思っていたら受け入れられない。自分が幼な子のように小さい存在であることを思い知らされるまでは、人はだれでも自分が大きい者のように錯覚している。
 主の名によって、すなわち主が愛されているのだからとの思いで、幼な子を受け入れるだけで、イエスを受け入れることになり、さらにイエスをこの世界に送った神ご自身を受け入れることになるという。
 これは驚くべき言葉である。天地万物を創造された万能の神を受け入れるという大いなることは、ごく身近にあるのがわかる。
 最も小さき者をこそ、神は最も大きいとみなして下さるという。この世が大きいとか小さいとか判断する考え方といかに違うことであろう。
 私たちの社会は大きいものに注目する。学校でも成績(点)の大きい者、大学入試でもやはり点の大きい者が選ばれ、会社でも同様、芸術やスポーツなども大きい業績をあげた者のみが賞をもらい、世からの賛辞を受ける。小さい者は見下されるばかりである。
  ここでは幼な子とあるが、同様に乏しい能力の者、病の人、貧しい者、社会的地位のなき者…そうした者を受け入れる者は、主イエスを、そして神を受け入れることになると言われている。(マタイ25:40)
 そのためには自分がいかに小さな存在であることを深く知ることが重要となる。しかしそれは単に自分に能力がないとか、仕事もなにもできないといった弱々しい気持ちを神が大きく見て下さるのではない。
 ここで言われていること、自分が小さいと知ることの本質は自分の罪を知ることなのである。どんなに能力があっても、絶対の真実と清さそのものである神のまえには私たちはみんな同じように汚れていて自分中心であり、無力な状態なのである。
 こうした神の前での罪を知るほど、私たちは小さな存在であるということを知らされる。そのように罪を知って、主イエスから罪の赦しを受けて、感謝を深く捧げるとき、神はそうした魂を最も大きいものと見なしてくださるという。
  ここに、この世と全く異なる見方をしてくれる世界がある。ここに神の愛がある。

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コウバイのJPG写真(クリックで拡大表示)
紅梅               我が家にて 2003.2.11
 
 この紅梅は今は亡き父が二十年以上前に植えたものです。低い山を少し上ったところにある我が家には野草や自然の樹木が多いのですが、そのなかに梅の木も植えられたのです。毎年この冬の一番寒さ厳しいころに、美しい花を咲かせてくれます。真冬でもあり、多くの野草たちや、樹木も多くは葉を落として枯れたようになるただなかで、その花によって生き生きとした力を感じさせてくれるのが梅です。ほかのほとんどは春から秋にかけての暖かい季節に花を咲かせるのに梅は厳冬期に、ひとり花を咲かせる姿は心惹かれるものがあります。

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リストボタン「主は打ち砕かれた心に近くいまし」

(詩篇34:18〜21)
  2003年1月25日

主は助けを求める人の叫びを聞き
苦難から常に彼らを助け出される。
 
主は心砕かれた者に近く、
魂のなえはてた者を救ってくださる。
 
主に従う者には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。


The righteous call to the Lord, and he listens;
he rescues them from all their troubles.
 
The Lord is near to those who are brokenhearted,
he saves those who have lost all hope.
 
Good people suffer many troubles,
but the Lord saves them from them all;
 
the Lord preserves them completely;
not one of their bones is broken.

神はたんにどこかでじっとしておられることはない。神は人間のなかでも、とくに苦しみにある者、神に向かって叫ばずにはおられない者を探される。
 苦しみにある者の声を必ず聞いて下さる。
この確信と、実際に聞かれたという事実こそは、ことに詩篇が今も読み続けられる理由の一つとなっている。
 「打ち砕かれた者」とは、英語訳では、
those who are broken hearted    
 とあるが、これは心が「失意の状態、または悲嘆にくれた」状態を表す。「心が壊れてしまった人」ということである。 
 私たちは、いろいろな状況に置かれて、大きな苦しみや落胆、また悲しみなどで、心が壊れてしまったかのようになることがある。それが何らかの方法でいやされないときには、壊れたままの心をかかえて学校や職場に行けなくなったり、よきものに感動することができない固い心、無表情な人間になってしまったりする。自らの命を絶つというような悲劇も、心の壊れたところからどうしても回復できなかったゆえである。
 そうしたひどい痛みをかかえたときには、どのような人間の慰めも力になれないことが多い。花びんでも少しのひび割れとかであれば直せても、粉々に砕かれてしまったら、もう修復できない。人間の心も同様である。
 しかし、神はどのようにひどく壊れてしまった心にも近づいてくださる。そうしてその回復しがたい心にも、新しい力を与えて下さる。旧約聖書の預言書で、枯れた骨すら神の力によって集められ命が吹き込まれることが記されている。(エゼキエル書37章)
 聖書でいわれている神は、人間が見捨てたようなところにあえて目を向けて下さり、死んだような者にも神の命を与えて下さるのである。

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ウメJPG写真
ウメ      我が家にて  2003.1.24
 
 冬の花といえば、多くのひとが心に思い浮かべるのが、ウメとスイセンでありましょう。そしそれらはあるすがすがしいものを私たちの心に与えてくれます。それは厳しい寒さのただなかに花開くこと、香りよきことの故と思われます。 
 人間もなんらかの厳しさの中に置かれ、そこを通ってくるのでなかったら、花開くことができず、実をつけることもできないのだと感じます。花の少ない寒さ厳しいときにあって、これらの花は、心を近づけるものにたえず新しいメッセージを与えてくれています。

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リストボタン 「主よ、あなたのみ言は」
(詩篇119:89〜93より)   
2003年1月112日

主よ、あなたのみ言葉は
天においてとこしえに堅く定まり、
 あなたの真実は代々に続く。
 …
あなたの教えを喜びとしていなければ
この苦しみにわたしは滅びていただろう。
私はあなたの戒めを決して忘れない。
それによって、あなたは私を生かしてくださったから


Your word, O LORD, is eternal; it stands firm in the heavens.
Your faithfulness endures to all generations.…
If your law had not been my delight,
I would have perished in my affliction.
I will never forget your commandments,
for by them you have given me life.

旧約聖書の詩篇119編は最も長い詩であり、それは神の言葉がいかに力あり、恵み豊かなものであるかを詳しく歌っています。教え(律法)、戒め、命令、証しなど多くの言葉が用いられていますが、それらはみな、「神の言葉」の別の表現なのです。要するに神の言葉についての詩であると言えます。
 神の言葉は永遠であり、天に堅く立てられていると作者は言います。人間の言葉はそれが政治や社会の場での発言であってもいとも簡単に変わり、あるいは消えてしまうほどのもろいものです。天とは不動のものだと古代は考えられていたのであって、天において堅くされているとは、それが永遠不動のものだということを示しているのです。
 神の真実も同様に永遠に続くのです。人間の世界しか知らないときには、万事が移り変わっていくのを見るだけで、決して永遠不動のものを見いだすことはできません。
  さらにこの作者の重要な経験は、神の言葉を喜びとし、それによって滅びから免れてきたということです。
 人間はいろいろのものを喜びや楽しみとしています。飲食や遊び、読書、旅行等など。しかし、最も根源的な満足を与えてくれるのが、神を喜びとすることです。飲食や旅行、読書などそれぞれらの根源にある「よきもの」は神から来ているのであって、そうしたことで楽しみを感じるところからさらにその根源にあるものによって喜びを与えられることが、より深く、永遠的であることは当然ということになります。
 求めよ、さらば与えられん! 神を喜びとすることによってこの世にある数々の間違った楽しみに引き込まれないですみます。この一つのことがあれば、弱さや貧しさなどのただなかにあっても、平安が与えられ、神を喜びとすることがいかに大きい力を持つかを知らされていくのです。

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マンリョウ
マンリョウ        2002.12.30 我が家にて
 
 マンリョウの赤い実は、冬場に大きな木の実がなくなる頃に、小鳥たちの餌となっています。
山野の林下にはえ,観賞用として栽植される常緑低木。高さ30〜60cmになります。
山を歩いているとところどころにこの赤い実がなっているのが見付かります。花のない冬の寒いときに、山のところどころを彩る植物です。花は地味な小さいものですが、実となるとこのように目立つようになります。葉の端部は波打っていて他の多くの葉にない特徴があります。そんな小さな植物の一つ一つにも神のわざが感じられます。

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リストボタン 「あなたの上には主が輝き出で」 
(イザヤ書60:2)  2003年1月1日

見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。


Look! though night still covers the earth and darkness is over the peoples,
on you the LORD  is rising and over you his glory can be seen.

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 闇は地上を覆い、至るところで、困難な問題があらわになっている。今から二千数百年も昔に書かれたというこの文を見ると、あたかも現代に書かれたかのような感じを受ける。それらを見つめるのみでは私たちもその深い闇に飲み込まれて行くであろう。私たち自身が光を持たず、私たちは一本の弱い葦のようなものでしかないからである。
 しかし、そのような私たちのところに、すでに主は来られ、その光を輝かせて下さっている。その光は永遠の光、いかなる人間の悪や闇によっても消滅させられない光である。私たちはその光を見ることが与えられている。それこそは、人間の究極的な希望の光なのである。その光なくば、私たちの内なる苦しみや悩み、そして悲しみには到底耐えられないだろう。幾多の人たちがそのような闇の中に引き込まれていく。
 新しい年も、私たちにさらなる光を与えて下さい!
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カラスウリ
カラスウリ  (我が家にて)
 いつのころからか、我が家の前のあたりにてこのようなカラスウリが見られるようになった。
 花は、白いレース編みのような珍しい花であるが、実もまた赤いよく目立つ色で晩秋を彩る植物と言えるだろう。
 自然のなかには、こうした色彩の変化をあざやかに示すのもかなりある。こうした多様なすがたによって、私たちが、それらすべての創造者である、神とキリストに向かうようにと勧めているようである

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