ヒルティ

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はこ舟に掲載された(ヒルティ)「眠られぬ夜のために」引用文編集

カワラナデシコ
カワラナデシコ

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st07_m2.gif内容・もくじst07_m2.gif
st07_m2.gif2003年4月号(ことば)

(154)ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 四月二十一日)

 このような態度を他人に対して持つためには、自分が精神的に満たされている必要があります。自分の内にいつも不満や満たされるものを感じていないなら、どうしても他人に求めることになります。
 神によって、キリストによって霊的に満たされているときに初めて私たちは、他人に何かを求めるということがなくなっていきます。私たちは、たいてい特定の人からの好意、愛、評価を求めてしまいます。そうなると、どうしてもその人に気持ちが引き寄せられ、正しい判断や理性的に考えられなくなっていきます。私たちが間違った判断や行動をしてしまうのは、人間関係において、いつも他人から何かを得ようと、無意識的にすら考えてしまうからと思います。そんなことは思っていないという人でも、他人から批判の言葉や、見下されたら腹を立てます。それは、その人が他人からのよい評価を求めているからです。
st07_m2.gif2003年4月号(ことば)

(155)愛からなされることは、いかにそれが小さく、また取るに足らないものであっても、全く実り多いものである。神は人がいかに多くのことを成し遂げるかというよりも、いかに大きな愛をもって働くかを見られるからである。
 多く愛する者は、多くのことをなす。(「キリストにならいて」第一編十五・1〜2より)

・ここで言われている愛とは、もちろん人間の自然に持っている愛でなく、神からの愛を指している。人間が持っていると思われている愛は、必ず自分への見返りを期待するものであり、それは愛でなく自己愛の一種といえるからである。
 この言葉は、主イエスが言われた、「人が、私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書十五・5)を思い起こさせる。主イエスにつながっているとは、主イエスの内にとどまっているといしことであり、それは右の言葉のすぐあとで、「わが愛のうちにとどまれ」(同9節)と言われているように、主イエスの愛、神の愛のうちにとどまることである。主イエスの愛のうちにとどまって、何かをなすときには、主が働かれる。
 「多く愛する者は、多くのことをなす」これは、神の愛をもってなす者は、外見ではいかに小さいわざのように見えても、神の目から見れば多くのことをなしているとみなされるし、逆にいくら社会的に目だったことをしても、自分の利得とか名誉のためになしているときには、愛からなされておらず、神の目からはそれはとるにたらないことと見なされる。
2003年1月号(ことば)

 
(148)真の聖職者
…いつの時代にも、またどの民族にも、自己と世界との縁を絶ち、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。これこそ真の「聖職者」である。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 一月十五日の項より)

○この文章の前に、ヒルティは、ふつうは牧師などの聖職者は、教会のなんらかの聖職授与式などによって、資格が与えられるとされる。しかし、真の資格は「学んで得られるものでも、そうした授与式によっても与えられることはない。それはただ神の直接のゆるしによっているのであって、それは昔も今も変わりがない」と述べている。
 キリスト者は本来、すべてがそのような「聖職者」となるようにと呼び出された者だといえる。それは聖なる霊が与えられることによってそのように変えられる。聖職者とは聖書の用語でいえば、「祭司」であり、ルターに始まる宗教改革の中心にあったことの一つが、「万人祭司」ということであったが、それはすなわち「万人聖職者」ということになる。だれでも、主イエスが約束されたように、「求めよ、そうすれば聖霊が与えられる」。(ルカ福音書十一・10〜13) 真剣に求めることによって聖霊が与えられるゆえに、万人聖職者への道がみんなに開かれているといえる。
st07_m2.gif2002年11月号(ことば)

 
(147)あなたの悩みをすべて主にゆだねよ
主はあなたに代り配慮される。
あなたの家族のための心配を
われらの信ずる主にゆだねよ、
主は思い悩むことを好まれない。
しかし、あなたがささげる天に向っての祈りはよろこんで聞き給う。…

あなたを苦しめるために
理由なく苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの生命は
悲しみの日に植えられることを。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために上 三月十五日より」)

・悲しみをわざわざ求めるものはいない。しかし悲しみがなければ、私たちの心は深く耕されないゆえに、神は私たちにさまざまの苦しみや悲しみを与えるのであろう。主イエスも「ああ、幸いだ、悲しむ者! その人たちは神によって慰めされるから」と言われた。
st07_m2.gif2002年10月号(ことば)

 
(145)真実は、まことに、最も美しく、最も大切な性質である。真実は動物をも非常に尊いものとし、ほとんど人間なみの価値と品位にまで高めるほどである。
 しかし、真実が全く欠けているときには、最も才知あり、教養のある人間でも、社会一般に危害を及ぼす野獣にすぎない。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために第一部十月十六日」参考のために原文を付けておきます。)

○ここでヒルティが強調しているように、真実がない場合、いかに数学や英語などの能力が恵まれていても、また会社で業績をあげても、それらはかえって悪用され、社会に害悪を及ぼすことになる。しかし、能力が乏しくとも、真実な心は誰をも害することなく、神の性質の本質的な部分を周囲の人々に指し示し、ひとの心をうるおすことになります。聖書における神とは、何よりも真実な神であり、それゆえに私たちも真実な心をもって神を仰ぐことが最も神に喜ばれることだと知らされます。

Treue ist eigentlich die schonste und wichtigste Eigenschaft.Sie veredelt auch ein Tier so sehr,dass es fast zu menschlicher Bedeutung und Wurde emporsteigt,und wo sie ganzlich fehlt,ist der geistvollste und gebildetste Mensch nur eine gemeingefahrliche Bestie.

st07_m2.gif2002年9月号(ことば)

 
(142)人間がその身体で、善と真とを健康に益あるものとして感じ、反対に悪や偽りや不純を、それがたとえどんなに快いかたちをしていても、気づまりや不健康なものとして感じるようになったとき初めて、その人はまさにあるべき通りの人間に、また最良の場合にありうる通りの人間になったのである。
 それまでは、どんな立派な原則に従って生きようとも、いぜんとして悪の影響のもとにあるのだ。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」 第一部 四月十七日の項より)

・このように、心とからだ全体で、善きものや真実なものを心惹かれるものとして感じるとき、たしかに悪をも直感的に嫌悪を感じて退けることができると思われます。そしてこのためには、そのような善きものの根源である存在(キリスト)が私たちのうちに住んでくださることがぜひとも必要なのです。
st07_m2.gif2002年8月号(ことば)

  (139)ひとたび完全に愛の国に入ってしまったら、この世はどんなに不完全であっても、美しくかつ豊かなものとなる。なぜなら、この世はいたるところ愛の機会にみちているからだ。(ヒルティ 眠れぬ夜のために上 十月七日)

・自分が愛してもらおうと思ったり、楽しもうと思うとこの世は妨げに満ちている。しかしひとたび、神からの愛を頂き、それをこの世で用いようとするときには、至る所でそうした機会に満ちていることに気付く。最も重要なよきものを生かして使うことが至る所にあるという点では、この世は不思議なほどによく創造されているのがわかる。

st07_m2.gif2002年5月号(ことば)

 
(128)喜びの心の源
 一般に現代の人たちに欠けているのは、とりわけ、喜びの心である。その他の点ではすぐれた人たちですら、喜びの心がない。…喜びの心を妨げるのは、いつもその人の自愛心や我意や、あるいは何らかの怠惰である。
 神への完全な従順こそ、喜びをうる条件である。
 喜びの心は、神へ従順であることの偽りない証しであり、それはだれでも立てられる証しである。(ヒルティ著 「眠れぬ夜のために・上」の序文より)

・ここで言われている喜びは、ふつうの娯楽や交際、旅行などの楽しみや喜びでなく、それらとは全く別のところ、神から来る喜びのことを指している。娯楽や交際などのことが全くできないような人でも、例えば病床にあるような人でも、与えられ得るような喜びをいっている。そして聖書で約束されている喜び、使徒パウロがガラテヤ書で「聖霊の実」としての喜びに触れているが、それもこのような性質の喜びである。
st07_m2.gif2002年4月号(ことば)

 
(126)絶えざる祈り
 神との交わりには、特別の時刻や時期(朝夕など)や姿勢や身振りなどを全然必要としない。反対に、最も簡単な言葉、あるいはただ心に思うだけで十分である。いろいろな外的な用意はかえって妨げになることが多い。
 最も大切なのは、われらの主とたえず心のつながりを持つことである。使徒パウロはこれを「絶えず祈る」といっている。
 祈りは単純、かつ誠実に、すこしも形式にこだわらずに、なさねればならない。それだけでなく、なお祈りに対する神の答を聞くことができなくてはならない。そのためには、日常の騒々しさや利己心にすこしも妨げられない、微妙な心の耳が必要である。(ヒルティ 眠れぬ夜のために 上・一月二十一日の項)
st07_m2.gif2002年3月号(ことば)

 (124)キリストがヨハネ福音書のなかで、ニコデモとの対話(*)において語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。
 あなたがその霊を呼ぶことはできない。(神の)霊があなたを呼ぶのである。
 いつでも、そのような呼びかけがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時にはちょうど多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。
 その時こそ、「しもべはききます、お話しください」と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために下 三月十二日の項より)
(*)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。(ヨハネによる福音書三の八)
(**)サムエル記上三・10
st07_m2.gif2002年2月号(ことば)

 (122)真に善いことや偉大なことで、最初は小さなところから出発しないものはまれである。そればかりか、たいていは、その前に蔑み(さげすみ)と屈辱とが加えられる。
 そこで、春先の嵐から春の近づくのを予感できるように、屈辱からその後に来る良き結果を確実に推測しうる場合が多い。もしあなたが屈辱のなかに、あとでそれだけ多くの恵みを授けようと願っていられる神の御手をみとめて、その屈辱をよろこんで受けいれることができるならば、あなたはすでに大きな進歩をとげたのである。(「眠れぬ夜のために 第一部 九月十五日の項より」)