「眠れぬ夜のために」上 より
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ウツギ

ウツギ

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st07_m2.gif8月2日

st07_m2.gif8月9日

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st07_m2.gif8月30日

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ヒルティ「眠れぬ夜のために」上 より 

st07_m2.gif 8月2日

 人の生涯には、いつか突然、単純な信仰の境地が訪れて、神への真の愛がなければ、どんな信仰も、また神の意志についてのどんな歴史的な、あるいは教義的な知識も、魂の向上に役立たないことがわかり、反対に、心のなかに神への愛があれば、一切が明らかになり、やさしく、簡単になる、ということを示される。われわれはこのような境地に達しなければならない。
 超感覚的なものについては、神のみが授けることができる直接的確信が存する。ただ、この場合、自己欺瞞に陥らないために、十分な良識か真の教養が、そしてそのどちらについても誠実な謙遜が必要である。

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st07_m2.gif  8月3日

 エレミヤ書51の17・18(*)
 芸術は、人間を自己以上に高めて、より純粋な、より強い、より偉大なものにするかぎり、まさにそれだけの価値を持つものである。
 それをしないならば、最上の芸術の場合でも、せいぜい遊びであり、さらに、たいてい人間のうちに官能性を呼びさまし、助長することによって、魂をそこなうものである。人間の悪の原因をしさいにその根源に入って深くさぐるならば、きわめて多くの場合に、過度の官能性(最も広い意味での)がその根底にあり、さらにそれが神に対する不信実や、自分のよりよき自我と人間性に対する裏切りとなって現われることが、発見されるであろう。
 このような「自然主義」、実は「動物的な生の感情」は、たいていの人の生活において、時によって大きな、あるいは小さな役割を演じる。このような危険なものをただ偶然にゆだねたくなければ、それと根本的に対決しなければならない。
 個人や全国民を根本的に堕落させ、徹底的に神からひき離すのに、これ以上大きな影響力をもち、またこれ以上効果的な手段はない。すでに太古の言葉(創世記4の7)が、この危険と、それにうち勝つ正しい仕方とを、賢くも教えている(**)
 トルストイは問題の根源をつかんでこう語っている、
「美と喜びとは、それが善からはなれた単なる美と喜びとしては、いとわしいものだ。私はこのことをはっきり悟ったので、それらのものをすて去った。」
 (*)「すべての金細工人は、その造った偶像のために恥をこうむる。その偶像は偽り物で、そのうちに息がないからだ。それらは、むなしいもの、迷いのわざである。罰せられる時になれば滅びるものである。」
(**)
「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」

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st07_m2.gif  8月6日
 人間の一切の行いに対する最後の審判というものを、われわれは人間的な概念や類推によって考えがちである。だから、次のような、一応もっともらしいことをいう者がきっと多いであろう、
「主よ、あなたは私たちの力がどんなに弱く、そしてこの世の誘惑の力がどんなに大きかったかを、最もよく知っていられます。 このことを考えられて、私たちを公平にお裁きください。」
 しかし、これに対する主の答えはこうではあるまいか、
「しかし、あなたはわたしがあなた自身の力で徳を高めよと求めなかったことをよく知っており、また善を行う力がつねにどこで得られるかも教えられていた。それなのに、あなたは無関心と傲慢と偏見とから、わたしの道を歩くのを怠ったのだ。」

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st07_m2.gif  8月7日

 エレミヤ書9の22・23(*)
 今でも、人びとの間に、ことに教養ある人の間に存する実に大きな区別は、彼らがいったい何に関心を持つかという点にある。たとえば、その人の関心が物質的な事物、今日では特に商業・交通・国際間の取引の拡大と簡易化や、一般に富の増加の問題に向けられているか、それとも、道徳・立法・国民教育の改善や、教会の浄化、国家の理想化、というようなむしろ精神的なものに関心を抱いているかである。
 精神のこの二つの方向は、ごく近い将来に、互いに全く理解し合えないほどの隔たりにやすやすと達するかもしれない。しかしその結果、物質的方向が国民のためにも個人のためにも永続的な幸福をきずきえないばかりか、そのような事に身をささげた者をも十分に満足させえないことが、つねに確証されるであろう。
 こういう人たちがうまく成功すると、特に晩年になって、いつでも冷酷で暴君的性質をおびる。成功しない場合は、彼らがごく平凡で、わずかなもので満足しないかぎり、厭世的で気むずかしい性質になる。
 これと反対に、理想家たちは、いつまでも若々しく、快活でいることがはるかに容易である。

 (*)「あなたはこう言いなさい、主は言われる、『人のしかばねが糞土のように野に倒れているようになり、また刈入れする人のうしろに残って、だれも集めることをしない束のようになる』と。主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない!」
  8月8日
 ある人の身分がいくらか低いことや、そればかりか生活上の苦労が多いことも、もし将来に対する不安がそれに加わらず、また身分の高い者の暮しを目の当り見ていたずらに華やいだ空想を抱いたりしなければ、かえってむしろその人の人生の幸福に役立つものである。
 あまりに富んでいる者やあまりに高貴な人たちには、生活を楽しくする実にたくさんの人生の小さな喜びが欠けている。こういう喜びは、小さな可愛らしい高山植物のように、いくらか硬い、石の多い土地にしか育たないものだ。また、今日では、経済的にばかりでなく、精神的にも、ほどにすぎた贅沢にふけることによって、その一生を台なしにする人が実にたくさんいる。

 箴言30の8、15の15、12の11。

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st07_m2.gif  8月9日

 人間の生活においてとりわけ注目すべきことは 享楽欲がつねにその結果として苦しみをまねき、自制心は、それに従って行う前に、つねに最高かつ最善の楽しさをもたらすことを、われわれはすでに早くから経験によって確実に知っている、という点である。

 健全で雄々しい決心、なおそれにまさって直接の善き行為、これらはしばしば最上の医薬である。ことに、世間で神経衰弱とか一般に神経病とか呼ばれている状態の場合にそうである。そのような状態の大部分は肉体的欠陥と精神的欠陥の複合作用だからである。

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st07_m2.gif 8月10日

 なによりもまず、もっと「ただ神とだけでいる」ことが必要と思われる人びとがかなり多い。他の人たちとたえず一緒にいることは、彼らを真の自己反省に導かない。 そこで、神はこのような心の散逸から彼らを断ち切るために、しばしば重い、そして長い病気によって助けなければならない。  8月12日
 勇気と謙遜とはつねに併せ持たねばならない。すなわち、われわれを本当に助けることも、ひどく害することもできない人間に対する勇気と、そして、われわれの内にあらゆる善を創り出し給う神、その恵みによってわれわれが現在ある通りにあることのできる神に対する謙遜。しかし、まことの謙遜は勇気に近いものである。というのは、神を真に実在する人格的なものと理解するかぎり、勇気がなければ、とうてい神の眼の前にあえて進み出ることはできないからである。
 「人間は無私の献身によって隣人たちの幸福を生み出したり、それを固めたり、また増進したりするためにはたらく時、初めて真の人間、つまり神の似姿になり始める。ただ自分だけのために存在するならば、人間とはいったいなんであろうか。」(ヒルシュ『イスラエルの祈り』)。
 この言葉は全く正しい。しかしそれには、まず、まことの謙遜によってまことの聖潔に達していなければならない。それは、聖潔が主と世界とのためのすべての正しい活動の基いだからである。この点をよく考慮しなくてはならない。そうでないと、折角の活動が有害なものとなりやすい。

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st07_m2.gif  8月13日

 エレミヤ書1の17、
「彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたを動揺させる。」
 私がこの言葉を理解するようになったのは、まずそのような体験をした時からであった。もしわれわれが一般的に、まだ人の判断を恐れたり、人の賞讃を得ようとあせる精神的傾向を持つならば、神はわれわれをして特別な体験により不快な思いを味わうように仕向け給う。しかし、もはやわれわれが人の思惑をあまり問題にしないで、何をなし,何をなすべきでないかを、つねにもっぱら神にたずねる習慣を養うならば、あのヤコブの生涯にいくども重大な決定を与えたような出来事を、われわれも経験するであろう。
 創世記28の15、31の24、32の29、33の4。
 したがって、もし人間がわれわれにあまり大きな影響を与えたり、われわれをして神に叛かせたりするならば、通常、神はただちにわれわれからその人たちをひき離したり、彼らとわれわれとの間に反感を起させたりする。なぜなら神は、まことに「ねたむ」神であって、なにものとも較べることを許さないからである。
 ヨシュア記21の44・45(同24の19をも参照、訳者注)、士師記3の9、7の7、9の23、詩編103、
 こういうすべてのことを、私は不思議なほどしばしば目のあたりに見たのである。

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st07_m2.gif  8月15日

 人はいつもただ善い事をしようと心がけるべきである。考えがその方へ向けられていれば、つねにその機会は見つかる。このようにすれば人生はたいへん楽になる、とくに逆境にある時にそうである。また順境においても、それに守られて軽はずみや浅薄に陥らないですむ。
 絶えず不平ばかりならべて、がまんできる境遇にさえ決して満足しない人たちに対して、彼らにまだよくなる見込みがあるかぎり、神はもっと大きな苦しみを与えられる。それは、彼らがどんな生活にもある小さな避けがたい困難とそのような大きな苦しみとの違いを知って、将来どんな仕合せにももっと感謝するためである。
 だから、小さな不幸にあまり多く不平をならべる者は、えてしてもっと大きな不幸を招くものであり、しかも、そんな時、だれからも同情をしてもらえない。彼のいつもの不平にみなが聞き慣れているからである。

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st07_m2.gif  8月16日

 どんな種類の人間とも正しく交わる唯一つの道は、相手のために本当によい事をし、相手からもそれを受けようと志すことにある。
 その人びとと何らかの関係があるかぎり、相手の幸福について無関心であってはならない。
もしそれができそうもないと思われる場合は、むしろ関係を結ばない方がよろしい。 多くの人びとから害を受けることなく交わるために、また、有害な影響を与える人たちとの交わりをすぐさま適当に断つためにも、多くの沈着と自信とが必要である。
    神の子たちと人の娘たち
     (創世記6の2・3)
主よ、教えて下さい、確かな眼であなたの子たちを知り、
どんな装いをしていても神の子を見わけ、彼らを「人の娘たち」からはっきり分ち、人の娘たちをあやまたず避けるすべを。
ああ、もはやいかなるものにも眼をくらまされず、
私を空しいものからすっかり解き放ちたまえ、そして、あなたの祝福のみ手をもって、
私の子らのために、あなたの民を招きよせたまえ。

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st07_m2.gif  8月17日

 「ヘプル人への手紙」4の9(*)について。実際、今日のような騒がしい、全般的に落着きのない時代にぉいても、そのような人びと(神の民)には、つねに安息がある。しかし彼らにとっても、働いたり務めに従ったりするように定められている時には、安息は与えられない。そんな場合に、時ならぬ休息をのぞんだりすると、かえって心の安らぎを失い、そればかりか、ときには、最高かつ最善の事を怠るようになる。
 ルカによる福音書22の46(**)

 およそ安息は神から贈られたものでなくてはならない。あなたが勝手に安息を取ってはいけない。老年においても、さらに病気のときでもそうである。しかし、一般に命じられており、たいてい今日ではだれにでも許されている休息、すなわち、夜半前からの眠りと日曜日とを、一貫して利用しなさい。これは、十分な休養感を得るのにたいへん役立ち、また、そのうえ神の祝福が与えられる。そうでなくて、あまり休みすぎたり楽にしすぎたりすることも、働きすぎたりあせったりするのと同様に、疲労のたねになるものだ。
 「暇な時間」や「休暇」も、何か無益なことや、それどころか時には有害なことを行うためにあるのではなく、むしろ心身のためによい事をなすためにあるのだ。人の一生は、その大部分をまったくむだに過ごすには、あまりにも短かい。よい目的も意味もない楽しみ、そればかりか、悪い結果をさえともなうような楽しみは、楽しみとはいえない。ベンジャミン・フランクリンは実にズバリとこう言っている。
 「余暇とは、何か有益なことをするための時間である。」

 マルコによる福音書9の14~29。癲癇(てんかん)の子供の父が、その頃起りかけていたキリスト教(この教えは、後で述べる理由から、弟子たちの伝道ではまだ彼の父の心にあまり強く訴えなかった)に対する初めの不信にうち勝ったのち、最後に言った言葉、
「信じます。
 不信仰なわたしを助けて下さい!」
は、本気でそう言おうと思えば、だれにでも言える言葉である。それをも言いたくなければ、とうてい救いようがない。反対にこのわずかな信仰でもありさえすれば、神の奇跡を体験することができよう。
 しかし、これらの弟子たちに対して、さらにまた現代の多くの説教師たちに対しても、主は彼らに何がまだ欠けているかを、はっきり告げていられる。
 たえまない神との交わり(単に時どきではない)、すべての享楽とあらゆる種類のエゴイズムの完全な断念、これこそがあの当時と同じように現代においても、われわれ人間の内にはたらく神の力の秘密である。このことを彼ら聖職者たちは、まさになさねばならない。それができなければ、彼らのあらゆる活動は無益である。「この世の君(サタン)はなおも彼らをあざ笑うであろう。そして、それが当然である。

 (*)「こういうわけで安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」
 (**)「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」

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st07_m2.gif  8月28日

 人間の生活は、なにか正しい目的がなくてはならない。それは、たえず神の愛を受け、それを他にわかつということでなければならない。
 こういう性質を、幼少のころから、いわば生れつき他の人より多く身にそなえている者もかなり多いが、他方、自分勝手に定めた、それとことなる目的をいだき、多くの苦難を経験することによって、最後にやっと真の人生の目的をさとる人たちもいる。しかし終りになってもそのような自覚に到らない人は、一生を半ば、あるいは全く、ふみ誤ったことを嘆かねばなるまい。

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st07_m2.gif  8月30日

 神の国において先ず学ばねばならないことは、すべての善は信仰によってわれわれのうちに生じるということである。
 そうでなければ、善は成長する力を持たない。
 次に学ぶべきことは、すべてのものは成長するのに時間がかかるということである。 あまり進み方が早すぎたものは二度も三度もやり返さねばならず、結局、一番長くかかることになる。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3の11)。ただ人間だけがいつもあわただしく急ぐ。
 多くの人たちには、世間に対して守勢以外の態度をとることはむずかしい。彼らを動かす原動力を欠いているからだ。もしあなたもそうであるならば、いつも聖霊のはたらきに心を開いていさえすればよい。それで十分である。

ヨハネによる福音書14の26、16の13、ヨハネ第1の手紙2の27。

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