静かな

各つの 木に
各つの 影
木は
静かな ほのお

・一つというのに、作者は「各」という漢字をあてている。それぞれの木という意味を込めたのだと考えられる。
多くの人が無関心に通りすぎる沈黙の樹木、しかしその木にも、影と?を感じ取っていた。
静かなもの、動かないものには、影を感じることは容易だろう。しかし、そこに?を実感するというのは目に見えないものを見つめるまなざしがなければできない。
キリストは生前は、静かな人、祈りの人であった。ときには夜を徹して祈られた。そして彼には万人の罪をわが身に担う罪の影があった。けれども、キリストは静かに燃える?であった。それは十字架の処刑によっても消えることなく、いっそうはげしく燃えはじめ、世界に燃え広がっていった。

大木を たたく

ふがいなさに ふがいなさに
大木をたたくのだ
なんにも わかりゃしない ああ…
「真理よ 出てこいよ
出てきてくれよ」
わたしは 木をたたくのだ…

・作者は、自らの弱さ、それは真理を求めつつも絶えずその弱さ、罪を思い知らされる。沈黙の大木、人のように揺れ動くことなく、風雨に耐えて立ち続ける大木、静かに燃える?でもある木をたたき、呼びかける。
私たちも行き詰まるとき、そのように神に向ってたたく。神こそは、そしてキリストこそは、真理を無限にたたえた存在である。主イエスも、「たたきなさい、そうすれば開かれる」 と言われた。


リストボタン( 八木重吉の詩二つ)
よいことばであるなら
ふたたびいうにためらうな
いつまでもくりかえすのに おそれるな

・聖書の言葉、キリストの言葉は、二千年繰り返されてきた。 繰り返せ、確信をもって語り続けよ…という言葉を聞き取った人たちが、いつまでも繰り返してきた。
私もまた、そのキリストの言葉、主に関する言葉を―主の許しがあるならば―繰り返し語り、書き綴っていきたい。

イエスの名をよびつめよう
入る息、出る息ごとに呼び つづけよう
いきどおりがわいたら
イエスの名で溶かそう
弱くなったら
イエスの名でもりあがって 強くなろう
きたなくなったら
イエスの名できれいになろう
死のかげをみたら
イエスを呼んで生きかえろう

・体は常に呼吸しなければ生きていけない。
同様に、私たちの魂は、神への祈りによって生きる。呼吸のような祈りによって生かされる。高い山に咲く美しい花は、神の霊をそのまま呼吸しているかのようだ。


リストボタン八木重吉の詩から

いつになったら
いつになったら
すこしも 人をにくめなくなるかしら
わたしと
ひとびととのあいだが
うつくしくなりきるかしら

・人間同士の関係が清いものになりきる、それはどんなにそうなろうとしても、難しい。キリスト教世界の最大の使徒パウロですら、自分はどんなによい意志をもっても行うことができない嘆きを語っている。
ただ、聖なる霊が私たちのうちに住んでくださって、私たちの内にある汚れたものを洗い流して下さり、よくない霊を吹き清めてくださるとき。
美しくなりきる関係は、人間同士では難しいが、神の創造された自然とは、可能となる。人のいない静かな谷川で流れ落ちる水が岩かどにあたって生じる純白のしぶきやその流れと音に耳をすませるとき、そこには何らの汚れがない。


リストボタンねがい
人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人のあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない
・人と人との愛にうつくしいものを見る、それは、主イエスが言われたこと、敵を愛し、迫害するもののために祈れ といわれたことを思いだす。このような心が与えられたとき、私たちに悪意をもってくる人たちにさえ、祈りという美しい心が働く。
醜くて、弱い私たちであるが、神の無限に清い霊を受けるときには、このようなところまで変えられていくのだ。

リストボタンきりすと
きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい

(「貧しき信徒」新教出版社刊 6465 74頁)

・主イエスへの信仰がこのように、木や水の流れを用いて言われたことに新鮮さを感じる。いっぽんの木、それは、とくに大木の側に一人立つときには、いかなる嵐や風雪にも耐えて、歳月の流れにも動じることなく黙して立っているさまは、私たちの心を引き締める。それは確かに祈りを感じさせるからである。その樹木の沈黙が、同時に雄弁に語りかけてくる。
そして、途絶えることなく清い水となって流れ続けるそのさまは、絶えずキリストに向って流れ続ける心の流れを暗示する。
私たちの祈りの流れは時としてとどまり、逆流し、あるいは汚れたものが入り込むこともある。そのようなとき、こうしたいっぽんの木や清流に接するとき、ふたたび私たちもいっぽんの木のような力と、その流れのようなものが心に入ってくる。


リストボタン秋のこころ 八木重吉

水の音がきこえる
水の音のあたりに胸をひたしてゆくと
ながされてゆくと
うつくしい世界がうっとりと明るんでくる

・小さな谷川のほとり、水の音に耳をすませると、水のふしぎな働きがここに記されている。
ただ流れているだけ、同じような音をたてて流れている、昨日も今日も、そして明日も同じような流れ、同じ音をたてて流れている。けれども、人の心に生き生きとしたものを与えてくれる。その水の流れと水音が人の心を清め、あらたにしてくれる。これは私自身、近くの谷川で繰り返し与えられている経験である。
作者は、この水の音によって秋の心を感じた。ふつう秋は、紅葉や秋の花や大気のすがすがしさによって感じることが多い。水音もまた、開かれた心には、秋の心を感じさせるのである。
そしてキリスト者にとってそれは、神の心をも反映していると感じられる。


リストボタン 八木重吉

雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでいこう

・降る雨のすがたとその静かな音に耳をすませるとき、それは人のあり方を指し示すものとして感じられる。生き方、そして死に向うときの願いをも表していると感じている。
のように、主によって目覚めている魂にとっては、水の音も、雨の音も、そして吹く風の音もみな深い主のみわざのあらわれであり、メッセージなのである。




日がひかりはじめたとき
森のなかをみていたらば
森の中に…人をすいよせるものをかんじた(八木重吉作)

○日の光を受けて、森は育つ。その森には樹木たちが黙して立つ。ただそれだけなのに、不思議な力を持っていて、人間を引き寄せるものがある。それは沈黙の力であり、その一つ一つの樹木にいわば神によって育てられてきた時間の長い蓄積があるからだろう。そこには人間にあるような私利私欲がない。ただ神とともに成長してきた姿がある。人間は揺れ動いてとどまれない。そのような動揺ある存在は、そのゆえにこそ、動くことなく、ただ沈黙して存在しつづける木々に、森に心惹かれる。人間の集まりは騒然としてくる。しかし樹木たちの、とくに大木たちの森には森厳とした雰囲気が満ちている。



森はひとつのしずけさをもつ
いちどそのしずけさにうたれたものは
よく森のちかくをさまようている (同右)

○森の持つ深い静けさ、それは無限の静けさをたたえた神から来る。森の静けさに打たれるとは、神の静けさに打たれることである。山の持つ深い味わいもここからくる。