リストボタン266)「私は捕らわれの身になった時からはじめて、聖書のみ言葉の深い意味、そしてそのみ言葉が人に与える精神的な力が大きいのを悟ることができました。
世界を支配するあらゆる権力も、小さな虫にも及ばないと思われてきました。私は四〇年前から激しい病苦に悩んでいますが、多少の苦しみを忍ぶのは当然のこと、今こそよきわざをなすべき時であり、その場所にいるのです…。
御主は私に勇気を与え、世界のあらゆる試練、あらゆる責め苦も何とも思わないほどにして下さいました。この勇気が御主のものでないなら、私はとてもこんなことを申し上げられないでしょう。
自分の弱さも、御主が私を助けて下さることも、きょうこのごろほど明らかに悟ったことはありません。」

(「長崎の殉教者」一五五~一五六頁 片岡弥吉著 角川選書 一九七〇年)


・これは、一六一七年五月にイエズス会の神父が牢内で書いた手紙の一部。この人はこれを書いて二十日ほどの後に殉教した。聖書に記されている最初の殉教者、ステファノが周りの人たちに石で打たれて殺されようとするときに、初めてイエスが、神の右に立っておられるのをありありと見ることができた。そして周囲の荒れ狂った人たちのために祈りつつ息絶えたと記されている。普通では考えられないような恐ろしい状況にあって、神は驚くべき力と平安を、そして啓示を与えられるのだと分かる。


・これは、使徒パウロが、「たとえ天使の舌で語っても、愛なければうるさいシンバルのようなものだ」と言ったのと通じるものがある。神の愛を受けて語るとき、最も神が私たちを通して他者に語るかけるだろう。私たちはただ器であり、管のようなものにすぎない。
私たちがいかに多くを語っても、主が働いて下さらなければ何もできない。この「いのちの水」誌のような印刷物も同様で、この小さなものを通して神がそれぞれの読者に語って下さることを願うのみである。